2009年3月31日火曜日

インド旅行記 その三

 昨日、一昨日に引き続いてインド旅行の話です。気分転換に書き始めたけど、なかなか調子がいいです。
 さて前回はベナレスでの一日目の観光をして二日目はショッピングに行こうと同じツアーの女の子とK君(相部屋)と朝早くに合流してホテルを出るや、前日に使ったインドでポピュラーなタクシーであるリクシャーの運転手の兄ちゃんがすでに待っていたところまで話しました。

 ホテルの前なので元々そこが彼の縄張りだったのか、もしくは前日に引き続いて我々を狙って待っていたのかまでは知りませんが、彼は私たちに会うなりにこやかに近づいてきて今日もどうだと売り込みをかけてきました。確かに胡散臭くはありましたが、前日のガンジス川までの運転とレストランの紹介などと仕事はきちんとしてくれていたので、この際勝手もわかっているのでまたその日も彼に頼むことにしました。
 そんなわけで前日同様に一台のリクシャーにまた五人乗りしてベナレス市内のお土産屋をいくつか案内してもらい、果てには「マザーテレサの病院を見ていかないか」と言って、ガンジス川沿いにある俗に言う「死を待つ家」の一つにも案内してもらい、そこで我々も病人の方と挨拶をさせてもらいました。

 その日の午前中はそのようにしてベナレス市内をグルグル回り、私とK君だけが午後に郊外へ出る予定があったのでその運転手にホテルへと一旦戻ってもらいましたが、前日といいこの日も非常にいい仕事をしてもらえて信頼を持ったのもあり、前日は四人で半日同行して40ルピーしか払わなかったところをその日は私とK君が感謝の意を込めてそれぞれ100ルピーずつ、合計200ルピーをその運転手に別れ際に渡したところ、向こうもそれほどもらえるとは予想していなかったのか驚きながら受け取り、その後も市内観光を続ける女の子らを乗せて去っていきました。

 それで私とK君ですが、この日はガイドのスレーシュさんからアクセスなどを簡単に聞いて、午後からベナレス郊外にあるブッダーガヤーという、釈迦が初めて説法をしたという場所へ観光に行きました。
 これは「国家の品格」の藤原正彦氏の言ですが、海外旅行に行くと必ず散歩をする藤原氏もインドに行った際はあまりの環境の悪さと人の多さで辟易したそうですが、イギリスに渡った天才的なインド人数学者の故郷のある地方へと行ってみると、それ以前のインドの都市とは打って変わって非常に清廉で美しい自然のある地域だったそうで、さすがは天才を生んだ地だと思わせられたと感想を書いていましたが、ちょうどこの藤原氏の感想が私のブッダーガヤーに思った感想と一緒でした。

 これまた日本人からすると想像しづらいかもしれませんが、私がインドに行ったのは三月でしたがそれでも現地の暑さは半端じゃなく、風が吹くとすぐに埃が舞うから常に空気は埃っぽいし、野良牛や野良犬(なおインドでの狂犬病死者数は世界一)はたくさんいるわで、こんな環境下でパワフルに活動し続けるインド人には心底尊敬しました。そしてこうした強烈な環境に加えてこれなんかインドに行かないとなかなか実感できないでしょうが、街中が文字通りうんこくさい……こんなの書いたら引くかもしれませんが、インドでは牛の糞を乾燥させて後で燃料に使うので、そこらじゅうの壁に余すところなくびっしりと糞が貼り付けられています。最初は私もこの臭いがきつかったのですが後半になると気にならなくなり、逆に日本に帰った頃になると「日本ってこんなに無味無臭の国なんだ」と思うようになっていました。

 脱線しましたが話を戻すと、そうした強烈な環境にあるほかのインドの都市と比べ、郊外ということもあるでしょうがブッダーガヤーは非常にきれいなところで、インドにはこういった面もあるのだと感心させられました。そうしてブッダーガヤーの観光を済ませてベナレスに戻り、その日の晩は女の子らともガイドのスレーシュさんと女の子らのガイドとまさにオールスターで夕食をとって終えました。

 そうしてベナレス滞在三日目になりましたが、この日はそれこそ朝五時くらいに起きたんじゃないかな。というのも前日にタクシーの運転手と別れる際、「朝焼けのガンジス川は最高だぜ」と言われ、それなら明日朝早くに迎えに来てもらって見に行こうかと約束していたからです。
 そんなわけでまたも女の子らとも一緒に集まってホテルのロビーに行くとすっかりおなじみになった運転手の兄ちゃんも待っており、朝早くからガンジス川を見に行くこととなったのです。
 そんなわけで、続きはまた次回に。

2009年3月30日月曜日

インド旅行記 その二

 前回の記事からの続きで、またもインドでの旅行中の話です。
 さて前回ではインドに到着すると次の日には首都デリーを観光し、そのまま夜行列車に乗ってベナレスへと向かう辺りまで書きました。ベナレスというのは現地の発音では「バラーナスィー」とも「バーラナスィー」などといろいろと呼び方がありますが、日本語でのベナレスという地名はあまりメジャーではありませんでした。それでこのベナレスには何があるかですが実はここがインドを代表するガンジス川の中で最もポピュラーな沐浴地で、インド観光においてはタージマハールのあるアグラと並んで人気のスポットです。

 そんなベナレスに早朝に到着した私と友人のK君、そして同じツアーの従兄弟同士の二人の女性とで滞在するホテルに荷物を置くと、前日からの約束どおりにみんなで揃って観光へと繰り出していきました。
 ホテルを出るとひとまずはガンジス川に行こうとタクシーを取ろうとしたのですが、ここでちょっと解説をしておくとインドのポピュラーな乗り物は三輪バイクこと「リクシャー」という乗り物で、これは音からも想像しやすいように日本の人力車から発展した乗り物です。何でも明治に日本を訪れた日本人がインドでもやり始め、それがそのままエンジンを乗っけてタクシー化したようで、インド中のどこの街でもけたたましく走っています。

 そんなわけでデリーでは四輪の普通自動車タクシーしか乗ってなかったのでここではリクシャーに乗ろうと手を挙げてみるのですが、あっという間もないほどの一瞬でたちまち三台ものリクシャーが私たちを取り囲み、やいのやいのと客である私たちの奪い合いを始めました。これは日本からすると想像しづらいのですがインドではごくごく当たり前の光景で、物売りなども観光客を見つけるとすぐに道をふさいでは売り込みをかけたりと非常にインド人はアグレッシブかつパワフルな人ばかりです。中国でも、ここまでは凄くなかった。

 話は戻りますが、リクシャーの運転手たちは自分らで勝手に言い合いを続けていてなかなか埒が明かないので、痺れを切らした女の子の一人が「シャラップ!」と言って一発で黙らしてくれました。なんでもアメリカに留学した経験のある子で、英語がほぼどこでも通じるインドでの交渉事はこの後全部彼女にお願いしていました。ひとまずこちらが納得する料金で乗れればいいと皆で相談し、四人全員で……確か40ルピーだったっけなぁ、ともかくかなり値切った値段と条件をこちらから出したところ、一人の若い兄ちゃんの運転手がすぐ前に出てきたのでそのまま彼に任せることにしました。

 そこで早速リクシャーの初乗りと運んだのですが、所詮はオート三輪というか、後部座席に三人が乗るともはや空いたスペースがなくて残った私はどこに乗るんだと聞くと、運転手は自分の隣を指差し、なんと本来一人分の運転座席に無理やり二人で座って、合計五人を乗っけた状態で景気よく運転手はバイクを走らせ出しました。正直に言って乗った当初は非常に恐く、しかもガンジス川周辺は古い路地が続いていて走っている間ずっと壁が目の前に迫ってきたり、野良犬が道を塞いで寝ていたりしていたのですが、運転手はそれこそ神業のドライバーのようにすいすいと障害物をよけては、あっという間にガンジス川にまで運んでくれました。

 そうしてガンジス川を眺めていたら昼時に差し掛かり、運転手にこのままどこか知っているレストランに運んでくれるように交渉してとあるホテルのレストランへとそのまま向かいました。レストランへと向かう途中、最初はあれだったがきちんと仕事をしてくれるので運転手の彼にも昼食をおごろうかと皆で相談もしましたが、向こうではこうして客をレストランに連れて行くと運転手もレストランからマージンがもらえるので、彼ももらう取り分があるのだから今回は見送ろうという結論にしました。
 連れて行ってもらったレストランはきちんとしたところで、別にここに限るわけじゃありませんがインドなのでもちろんカレーを食べました。なお向こうのカレーは日本で言えば激辛に分類される味が通常で、おいしいのですがたくさん食べられないというのがもったいないところでした。あとこの時は女性のいる手前、ちょっと見得はって自分が全員分の食事代を払っています。

 そこまで観光してその日はもうホテルにまでまたその運転手に運んでもらったのですが、確かにいい仕事をしてもらったのですが当初の交渉どおりに結局40ルピーしか払わず、運転手も心なしか残念そうでしたが特に文句は言い返してきませんでしたので、なおさら悪いなぁという気がしました。
 その日はその後、移動の疲れもあってK君と一緒に部屋の中(相部屋)で昼寝し、夜はガイドのスレーシュさんと一緒にホテルの近くにあるレストランでまたカレーを食べて寝ました。ただ就寝する前に一緒の女性たちと明日も一緒に、今度はお土産屋を中心に周ろうと約束してから部屋に戻りました

 そして翌朝、この日も一日ベナレスに滞在予定だったので当初の約束どおりにホテルのロビーに皆で集まると、既にそこには前日のリクシャーの運転手が待っていました。本当は前編、中編、後編の三話で終えるつもりでしたが、まだなんかしばらく続きそうです。というわけで、続きはまた次回に。

2009年3月29日日曜日

インド旅行記 その一

「そうだ、インドへ行こう」

 何故か二十歳の時にこう思い立って、本当にインドに旅行したことがあります。
 昨日、地元の友人から前から気になっていた「聖お兄さん」というマンガを借りて読んだのですが、マンガの中で出てくるブッダを見て私もインドを思い出したので、今日はちょっとその時のインド旅行の思い出を書いてみようと思います。

 まず何でインドに行こうかと思ったかですが、前にも書いたことがありますが今でも続いている人気テレビ番組の「世界丸見え特捜部」という番組を私は子供の頃によく見ており、その番組では体中に針を刺したりとか頭突きで釘を打つなどといったトンデモ超人がよく紹介されていましたが、それら超人の大抵はインド人か中国人と決まっていました。基本的に不可思議なこと、奇妙なものへの興味は強く、このような番組を見ているうちにインドや中国に対して興味を持ったのがこの時に旅行を決心させたのだと思います。
 またもう一つインドに行ってみたいと思うきっかけとして、幻の名マンガ「うめぼしの謎」というギャグ四コママンガにて、作者がインドに行った話を書いていたのを見ていたのも大きかったです。なおこのマンガはその作者のインド旅行の話が書かれた後すぐに打ち切りに合ってしまい、連載していた雑誌の「ギャグ王」もその後すぐ廃刊となってしまいました。

 そんなわけで早速旅行代理店などを探してみると一週間ガイド付きで約八万円というプランがあったので、ほぼ即決でそのプランに応募することにしました。当初は自分ひとりでインドに行くつもりでしたが、近々インドに旅行することを友人のK君に伝えると何故か、「俺も行く」とか言ってきたので、二人で行くことになりました。ちなみにそのK君という友人は例えるならスタミナだけが取り柄のピッチャーのようなキャラクターで、敗戦処理を任せれば天下一品というような友人です……もちろん、冗談ですが。

 という具合で話が進み、出発日に空港へ行ってエア・インディア航空の飛行機に乗って一路インドへと向かいました。後で知り合いに聞いた話ですがこの時に乗ったエア・インディア航空は通称「空飛ぶ棺桶」とまで呼ばれるほどしょっちゅう問題を起こしていることで有名な航空会社だったそうなのですが、行きの便についてはなにも問題ありませんでした。ただK君が以前に歯の治療を中途半端に終えていたのか、飛行機が着陸する直前に室内の気圧が変動するのを受けて猛烈に歯の痛みを訴えだし、横目にも非常に辛そうでした。私もいちおう「頑張って」と励ますのですが、「頑張れへん……」といってマジな顔されたのは今でもよく覚えています。

 そうこうして飛行機はインドのニューデリー空港に夜に到着し、そこで待っていた現地ガイドのスレーシュ・ギリさんと合流し、その日は一路ニューデリー市内のホテルに向かってそのまま一夜を明かしました。
 次の日は早朝にスレーシュさんと合流してデリー市内の観光をしたのですが、まずデリーの感想を一言で言うとその人の多さと市内のカオスっぷりに驚きました。人の多さは北京も似たようなものですがデリーの場合は北京より古い建物が多くて雑然とした環境で言えば遥かに北京を上回り、また普通に道路の真ん中を牛が横切っていたり(インドで牛は神聖な動物として、普通に野良牛とかそこら辺にいる)、ちょっとわき道に入れば野良犬もそこら中にいて、見るものすべてがいろんな意味で新鮮でした。

 デリー市内で観光をした場所はちょっと記憶が曖昧になっていますが、フランスの凱旋門にそっくり、というかそのままなインド門やガネーシャ神の寺院、それに古城で、夕方まで一通り観光するとそのまま鉄道の駅へと向かい、早くもその日のうちに次の目的地のベナレス(現地では「バラーナスィー」という発音)行きの夜行列車に乗りました。ちなみにその鉄道の駅にて私たちを見つけたバックパッカーの日本人が、その人の持ってきる切符の列車はどれかと尋ねてきたのですが私たちにそんなのわかるわけないので、ガイドのスレーシュさんを呼んで対応してもらいました。

 ここで簡単にスレーシュさんの経歴を話すと、彼は大学にて日本語を専攻してそのまま観光ガイドの職についたようです。タクシーで移動中にちょっとしたことからインドの歴史について話をしたところ、何でも彼の出身は向こうでの武士階級に属する「クシャトリヤ」だったそうで、そうしたカースト制度についてもいろいろと聞かせてもらいました。

 話は夜行列車に戻りますが、インドは中国同様に国土が広いということで都市間の移動にはこちらも中国とおなじく長距離列車がよく使われております。列車自体は個人寝室ごとにカーテンがないだけで見た感じは普通の二段式寝台車で、物を盗まれないように防犯用チェーンを荷物につけて寝るのが普通です。
 なおこの時に自分たちは二等客室でしたが、一等客室には政府高官が乗っていたのか時折社内の廊下をマシンガンを持った「ブラックキャット」と呼ばれる軍人が巡回していました。スレーシュさんによると、こういうことはよくあることだそうです。

 またこの時に同じツアーに参加している従兄弟同士の女性らとも合流し、次の行き先のベナレスでは一緒に行動しようと決め合ったのですが、その女性らはデリーでの観光の際にインドの民族衣装のサリーを買ってその時も着ていたのですが、なんでも彼女らのガイドと同行せずに行ったらしく、変な店で偽物をつかまされていたのかサリーの色が汗だけですでに落ち始めていました。別にサリーに限るわけじゃないですが、私の所感だと中国なんかより素性のよくない商品をつかまされる確立がインドでは高かった気がします。それだけインド人の商魂がたくましいことでもあるんだけど。

 そうして次のベナレスへと行くのですが、続きはまた次回に。明日は熱が下がっているといいな。

2009年3月28日土曜日

満州帝国とは~その七、建国

 前回の記事にて満州事変を解説したので、本日はいよいよ満州帝国の建国に至る場面を解説します。

 日本は自ら引き起こした満州事変を中国軍との抗争と称して、戦火を一挙に満州全土へ広げることによって実効支配の確立に成功しました。とはいえ第一次大戦後の当時には既に、国際連盟の加盟諸国の間等で「パリ不戦条約」といって、外交の駆引きに戦争という手段を用いないという取り決めが交わされており、満州時返事の日本の関東軍の行動は明らかにこれに違反するものでした。その結果、当事者である中国が日本の侵略行為だとして国連に満州事変を問題に挙げたことにより、事件の責任者を探るためにリットン調査団が国連から派遣されることとなりました。

 このような事態を、日本側も全く気にしていなかったわけではありませんでした。
 そのため半ばこの満州事変を既成事実化して日本の植民地として確立するため、事変を起こす前に関東軍内で様々な対策が練られた結果、欧米からの批判をかわすためにまず清朝の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、満州族、ひいては満州地域に住む日本、朝鮮、蒙古、漢族の五民族による自主独立国家を擬似的に作り上げる方針で計画を実行することに決めたようです。

 こうして日本は秘密裏に当時天津にいた溥儀と会い、計画を互いに持ち合いました。溥儀としても満州、ひいては中国の皇帝として再び即位することを考えていたようで日本の提案は渡りに船とばかりに承諾したようですが、建国後の地位として「満州国皇帝」に就任することに強いこだわりを見せていたようです。とはいえ日本としてはいきなり皇帝だとまずいということで、ひとまず主権者である「執政」という地位についてその後皇帝に就くということで納得してもらうよう説得し、これに溥儀も最終的に承諾しました。

 そして満州事変後、日本が急ピッチで組織や体制を作り上げることで満州帝国は建国されました。ただこの建国の直前、上海において第一次上海事変が起きていますが、この事件自体が欧米の目を満州帝国の建国からそらすために起こされたともいわれており、事実時期を同じくしております。真偽はどうだかわからないけど。

 未だに体調が悪いのでちょっと今日も文章があまりよくないのですが、ひとまず満州帝国の成立までの通史をこれまでやってきて、ようやくひと段落ついた感じです。こっから先は満州帝国が具体的にどんな国だったのか内容面での解説が主になるのですが、前にも少し触れたように満州において影響力のあった人物を取り上げ、彼らを通して解説していこうかと思います。

2009年3月26日木曜日

今日の相撲について

 相変わらず体調が悪いです。前もそうでしたが、体調が戻ると世界が変わるようになって物の見方とか激変することが多々あります。一昨年に体調崩してから復調すると、何故か三菱車に深い愛着を持つようになったし。

 そんなわけで今日も短い記事ですが、WBCの日本代表の大活躍のおかげというか私の大好きな大相撲大阪場所はすっかり目立たなくなっております。しかし昨日、平幕相手に簡単に星を落とす一方で大関、横綱相手だとめっぽう強い日馬富士関が相変わらずの番狂わせを見せつけ、先場所の復活優勝で波に乗る朝青龍関を見事に倒したかと思うや、なんと本日にもちょっと前に負けたけどそれまで三年くらい連続で勝ち続けていた琴光喜関にまたも朝青龍関が負けて二敗に後退してしまいました。

 その一方で白鵬関は全勝を続けており、早くも明日の結果次第では優勝が決まってしまうところまで来てしまいました。今場所前半の朝青龍関は文字通りシャレにならないほど動きがよく、元々相性のいい大阪場所ということもあってまたも優勝を掻っ攫っていくと思ったのですが、白鵬関はこのところ苦手としている日馬富士関を今日は万全の相撲で勝ったので、現状では朝青龍関の優勝はかなり難しくなっています。

 ところで話は変わりますが、私が直接場所を見に行ったことがあるのは二年前の大阪場所と名古屋場所で、特に名古屋場所は初日に行ってその日に朝青龍関が負けてしまって座布団が飛び交う場面に遭遇しました。私は投げなかったけど。
 ちょっと前のブログのコメントにも書きましたが、相撲というのは本当に一瞬で始まり一瞬で終わる協議で、それこそちょっと目を放した隙に終わってしまっていたということもざらです。それがテレビであればスローモーションつきのリプレイが流されますが、直接見に行くとそんなもんもないので、座席の位置によっては全然取組内容がわからなかったりして、改めてスポーツのテレビ中継は便利なものだと感心させられました。

 とはいえ直接足を運んでみることにメリットが全くないかといえばそんなこともなく、人気の高見盛関の入場の際などテレビではわかり辛いのですが、それこそ「ドスドスドスッ」っと、会場中に鳴り響くほどの大きな足音が鳴らされて迫力はたっぷりです。そのほかにも入退場の時に間近で力士を見ることも出来、立会いの際の「パーン」って身体がぶつかる音もよく聞こえ、椅子席だったら2,500くらいで見ることが出来るのでもし機会があるのなら一度観戦することをお勧めします。
 国技館にはまだ行ったことないから、来場所に行ってみようかなぁ。

2009年3月25日水曜日

私が影響を受けた偉人

 今週に入って気温が変動しているせいか、猛烈に体調を崩していて現在もあまりよくありません。昔はこうも身体が弱くなかったのですが、なんか定期的にひどく弱ることが増えてきました。先週は自転車で後輩を突き放したのになぁ。
 そういうわけで本音では満州帝国の連載を進めたいのですがそうもいかず、今日もさらりと流せる記事でごまかそうと思います。内容はずばり、私が影響を受けた偉人です。

 まず最初に言っておくと、私は一般のレベルからすると相当にケチな部類の人間に属します。お金があって欲しいものがあっても「粘ればもっと安くなる」と言っては我慢して、外食する際は一番安いメニューを頼んでいますがひどい場合には友人らと会っていても一人別れ、自宅で自炊することもザラです。極めつけは冷暖房ですが、夏場は扇風機だけで過ごし、冬場はホットカーペット、ひどい時なんかは毛布にくるまりながらゴールデンタイムのテレビを見たりしながら過ごして、結局一年を通してエアコンを一度も使わなかったこともありました。

 なんで私がそんな風にケチな子に育ったのかですが、自分で思うにどうも私が熱狂的に尊敬するようになった二人の偉人が影響しているのかと思っています。その二人の偉人はもったいぶらずに言うと、徳川吉宗と西郷隆盛です。二人とも歴史漫画から入って小学生の頃に初めて知りましたが、特に西郷隆盛は私が鹿児島生まれということもあって彼の生涯を知れば知るほど深くのめりこんでいったように思えます。徳川吉宗はまずそもそものキャラクターが面白い人ですし、それまでは織田信長とか徳川家康の活躍する戦国時代で主に戦記物のような歴史が私は好きだったのですが、戦争のない治世において如何に政治を切り盛りするのかということに対し、吉宗の話を聞いて初めて面白いと思いました。

 ここまで言えばわかると思いますが、吉宗も西郷も当時としても非常にケチ、というよりかは吝嗇な人間で有名でした。吉宗は当時の日本の最高権力者である将軍であったにもかかわらず、粗末な木綿の着物を着ては豪華な身なりの幕臣を見るとピーコのファッションチェックのようにじろじろ睨んでいただけでなく、食事も一汁一切でおかずが二品付けば喜んだというところまで食費を削っていたそうです。かといって何でもかんでも節約していただけでなく、収入を増やすために干拓事業を行い、その際に農業用水を確保するための見沼代用水の開削工事には大きな投資額をかけています。

 そして我らが西郷どんですが、この人も戊辰戦争後に筆頭参議として権力の中枢にいたのですが、ある日会議になかなか出てこないので木戸孝允が使いを送ると、
「洗濯した服がまだ乾いていない」
 と、なんと正装用の服を一着しか持っていなかったようで、慌てて木戸が自分の服を持たせて使いを向かわせたそうですが、結局会議に間に合わなかったそうです。仮に間に合ったとしても、木戸のサイズの服を西郷が着れたのか疑問ですが。

 このところちょくちょくまた西郷隆盛については調べていますが、どうもこの人は征韓論と最後の西南戦争のところばかりに注目されており、幕末期の活躍などについてはあまり日の目を浴びていないのではないかという気がしてきました。これは誰の言か忘れましたが、西郷がもしいなければ明治維新は遅れたどころか、倒幕すら難しかったのではないかという意見もあり、ちょっと再考してみる余地があるかもしれません。ちなみに、私は鹿児島生まれなのでやっぱり大久保利通は嫌いです、その功績は認めるけど。

 こんな具合に吉宗と西郷が好きだったので、私も「清貧こそが真の美徳だ」と信じ込んじゃったところがあるかもしれません。今でももし自分に許されるのならやってみたい贅沢というのも、毎日喫茶店に通ってコーヒーが飲める生活しか想像できないので、二十代でこんなんだから恐らく今後もこれ以上大きくならないと思います。ちなみに私が尊敬する水木茂氏は貧乏漫画家時代、一ヶ月に一回だけ喫茶店で飲むコーヒーが最高の贅沢だったと述べています。

2009年3月24日火曜日

小沢代表の続投について

「重大な犯罪」と批判=小沢氏続投への期待も-違法献金事件で与党(YAHOOニュース)

 本日、小沢氏の公設秘書で既に逮捕されていた大久保秘書が、今日を以って拘留期限が尽きるのを受けて政治資金規正法における虚偽記載の容疑で検察によって起訴されました。この起訴を受けて去就が昨日からいろいろと取り沙汰されていた小沢氏ですが、現在も記者会見が中継されていますが、民主党代表の座を降りないということを明言しました。結論から言えば、私は今回の小沢氏の続投には心から賛成します。

 もう何度もこの関連の記事で私は述べていますが、私は小沢一郎という政治家が嫌いです。彼がかつて主張していた政策論などは選挙の小選挙区制の導入などすでに現実化しているものが多く、いわばもう過去の政治家となっていて今後の日本の舵取りを任せられるかどうかについてはあまりいい評価をしておりません。しかし今回の彼の秘書の逮捕容疑となった政治献金元の虚偽記載についてはもともとの政治資金規正法がザル法で、しかも自民党を始めとした多くの議員も同じような献金を受け取っており、いわば皆で赤信号を横断している中で小沢氏だけを狙い撃ちして彼の秘書を逮捕したようなもので、とてもじゃないですが一私人として納得できるものではありません。

 仮にもしこの逮捕、起訴を受けて小沢氏が代表の座を降りるというのなら、それは検察が自分らの都合の悪い政治家を見つけるや無理やり事件を作り首を取れてしまうということになり、後世に対して悪しき慣例を残してしまうことになります。それに今回の事件では自民党の漆間氏が、「自民党議員にまで事件は波及しない」と、まるで自らが捜査主導者かのような発言をしているだけでなく、虚偽記載自体が突然身柄を拘束されるような問題性の高い事件でないこともあり、検察の捜査自体に非常に怪しい点が数多くあります。

 こうした検察の不審な行動に対してあらかじめサンデープロジェクト内で田原総一朗氏も、もし今日の拘留期限を迎えて大久保秘書に収賄罪など別の容疑を含めた再逮捕にまで事件が広がらなければ、明らかに民主党への妨害を意図したとしか思えない検察の失態となると指摘されていました。そのため検察は何が何でも自らの捜査の正当性を打ち出すために、それこそ存在しない事件を無理やり作ってでも収賄罪などといった他の容疑にて再逮捕するだろうと予想されており、私も何かしら別の容疑を作って今日に起訴してくるだろうと思っていましたが、結果は当初の虚偽記載容疑だけで、ますます検察が強引に捜査をすすめたのではないかと疑わせるような結果でした。検察もその辺を自分でわかっているのか、起訴前には異例ともいえる今回の捜査目的や趣旨の説明をマスコミに対して行っています。

 以上のような理由から私が今日の小沢氏の代表続投宣言を支持するのでありますが、一つ気になることとして、今回のような迂回献金を行っていたのは本当に西松建設だけなのかという点です。言ってはなんですが、こんな献金はどこもやっているようにしか思えず、特に大手ゼネコンの鹿島や大林はもっと大きな額で行っているのではないかと個人的に疑っております。今回の事件を見ていると、大久保秘書が献金を指示したとか額を指定したとかすべて「関係者の証言によると」という明らかに検察からリークされたといっている言葉とともに(大久保秘書はすべて否認しているようだが)西松建設との癒着にばかり報道が集中しましたが、何故他に同じことをしているゼネコンはないのかという具合に話が広がらなかったのが不思議です。

 仮に他のゼネコンが同じような迂回献金を行っているとしたら、まぁ恐らくは選挙どころじゃなくなるでしょうね、いろんな意味で。

WBC、日本代表優勝

 もはや何も言う必要ないでしょう。本日の決勝戦を優勝し、ついにWBC日本代表は優勝を勝ち取りました。MVPは前回の私の予想とは違って岩隈選手ではなく松阪選手でしたが、今日の岩隈選手は本当にいい働きを見せてくれました。

 以前に朝日新聞に載っていたある記事で、野球というのは数時間の試合の中で面白いところはほんの数分しかない特殊なスポーツで、観戦を楽しむのに本当に忍耐を強いられるスポーツだとある評論家が書いていました。近年、日本の野球中継の視聴率は下がる一方で、巨人戦の視聴率低下が日テレの凋落(これまでフジテレビと激しい首位争いをしていたが、このところは下がる一方で万年二位)の最大原因とまで言われ、私の目にも野球を見る日本人は随分と減ったと思っていたのですが、この前の休日の午前に放送された試合での平均視聴率はなんと48.1%と実に日本人の二人に一人が見ていたという恐ろしい視聴率をたたき出し、やはりいい試合をすれば野球をみんな見るのだと実感させられました。

 そして昨日にも書きましたが、暗いニュースばかりのこのごろの日本で、こうした明るいニュースこそ本当に必要なニュースだと改めて思えてきます。今日対戦した韓国も九回に追いつくなどすばらしい健闘を見せ、まさに世紀の一戦と呼ぶにふさわしい試合内容でした。
 個人的には最後に阪神の藤川選手に締めてもらいたかったのが本音ですが、すばらしい試合を見せてくれた選手一同と原監督に対し、心からおめでとうとこの場で言わせてもらいます。

2009年3月23日月曜日

私選、WBC日本代表MVP選手

WBC準決勝 日本、米国に快勝 韓国との決勝戦へ(YAHOOニュース)

 あんまり期待しすぎるとよくないとは言いつつもやっぱり気になってテレビ放送は欠かさず見ていたWBCですが、日本代表は優勝候補のキューバとアメリカを打ち破り、とうとう明日の決勝戦出場を決めました。まずは健闘した日本代表と就任当初は日本シリーズで西武に負けちゃっていろいろ叩かれていた原監督に対し、心からお祝いを申し上げたいと思います。

 それにしても、前回の北京五輪での星野JAPANがあまり振るわなかったのもあったので始まる前は正直不安でしたが、きちんと原監督の構想通りに「つないで点を取る」チームに仕上げて(ホームラン数が極端に少ない)ここまで勝ち進めてくるとは立派なものです。唯一残念だったのは村田選手が前回の韓国戦で足を負傷してしまったことで、これまでの試合でも活躍されてきたのでぜひとも最終戦まで残っていてもらいたかったです。

 そこで今日はやや気が早い気もしますが、今大会での日本代表の最高殊勲選手ことMVP候補を、私の観点から独自に選んで見ようかと思います。
 まず野手で言えば、文句なしにヤクルトの青木選手が最大候補でしょう。今大会の打率は日本人選手の中では群を抜いており、しかもチャンスの場面に必ず答えては外野方面の守備でもミスがなく、勝利への貢献という意味では現時点で私が最も評価している選手です。
 次に同じ野手とくれば、守りの中心こと城島選手です。打撃面での活躍もさることながらいろんなチームから集まってきた投手たちを見事切り盛りし、守り勝つという日本の勝利パターンの最大の立役者でしょう。特に私がこの城島選手に感心させられたのは、アメリカでの試合が始まる前のインタビューにて、

リポーター「なんか試合が始まる前に、審判によく話しかけていますよね」
城島選手「試合が始まる前の一瞬に、審判の国の言葉で一言二言話しかけています。その時に審判がどういう態度を見せるかで、この審判は(日本と対戦国に対して)どっち寄りかというのを判断するんですよ。それを考慮に入れて、ストライクゾーンや投手の配球を組み立てています」

 と、こっちが見ていて気づかないところで如何に勝利に結びつけるかと、城島選手が常に試合を考えて行動していたという事実には素直に驚かされました。

 こうした野手たちに対して投手陣での最高殊勲者と言えば、もし私が挙げるとしたら明日先発予定の岩隈選手を迷わず挙げます。岩隈選手については楽天入団の際のエピソードから大した人だと思っていましたが、試合中継にて改めてその投球内容を見ると、こんな恐ろしい投手が日本にいたのかと、敵ではなくて心底ホッとする様なすばらしい投球ぶりでした。韓国との第二戦では敗戦投手となったものの取られた点数はたった一点で、しかも失点直後は確か1アウトで二、三塁残塁かだったのに、取られた点数を気にせず後続をきちんと打ち取って追加点を許さなかったというのは見ていて血の気が引きました。まぁそれを言えば、しょっぱなにいきなりホームランを打たれたにもかかわらずその後は失点を許さなかった、今日の松坂選手もすばらしかったのですが。

 ただこうした試合中に活躍した選手が評価されるのはもちろんのことですが、どうも報道や試合関係者たちの話を聞くと、私も大好きなソフトバンクのムネリンこと川崎選手の貢献も見逃すことが出来ません。なんでも原監督やコーチ陣によると、ベンチで一番声を挙げて応援しているのはこの川崎選手で、彼の応援する姿勢を受けてベンチメンバーもスタメンとともにチーム一丸になれていると、皆が皆で川崎選手の姿勢を口を揃えて褒め称えています。
 そんな川崎選手ですが今日の試合ではスタメン出場して見事活躍するだけでなく、試合後のインタビューにて「ベンチですべて試合に出てました」と答えるなど、あのおすぎが贔屓にしてするのもよくわかる選手です。自分もパワプロで川崎選手を贔屓にしてますが、別に私はオカマというわけじゃありませんからね。

 そういうわけで、泣いても笑ってもとうとう明日が決勝戦です。ここまで勝ち上がってこれただけでも十分に日本人として誇りに思えるチームですが、是非明日も奮起し、優勝を勝ち取ることを心から願っております。

2009年3月22日日曜日

議員の世襲は是か非か

 今日の記事は前回の「国会議員の世襲比率」についての記事にて公開した、私と友人が私的に作成した国会議員の世襲比率データについて解説を行いますので、必要に応じて前回の記事をご参照ください。まず結論から言うと、国会議員の世襲について私は世襲政治家の資質が整っているのならともかく、現状においては必ずしもそうは言い切れないことからあまりよいものとは思っていません。

【選挙 ウワサの真相】「民主も世襲が多い…らしい」苦しい言い訳、そして沈黙(MSN産経ニュース)

 上記にリンクを張ったニュースのように、総選挙が近いということから国会議員の世襲について各所より厳しい意見や批判が行われているのをこのところよく見ます。私自身も以前の記事で取り扱ったこともあり、そこで実態的にはどんなものなのだろうか、以前と比べて本当に世襲議員の割合が上がっているのだろうかという疑問を解くために今回調査を行いましたが、前回の記事でも言い訳してますが1986年の総選挙時のデータでは野党の議員を中心にネット上にほとんど情報がない議員が97名いたため、大きく結果が変化することはないと思ってはいますが厳密なデータとは言えません。しかし現役議員の結果については細かく個人ごとにネット上で公開されている情報を精査したので、誤差の範囲はあったとしても十人以下ほどの、厳密なデータであると自負しています。
 ちなみに、いろいろ調べていて一番面白かったのは山中貞則氏でした。

 こうして前回の記事のデータを出したわけではありますが、どっかのニュース記事に「世襲の割合は自民で四割、民主で二割」という事が書かれており、私の調査でもほぼそれに沿う結果となりました。こうしてみると確かに衆議院で議席の三分の二を占める自民党内の半分近く、最大野党の民主党内の五分の一の議員が世襲議員という、確率論から考えると議員になるには世襲という条件が大きいということがはっきりと言えます。
 ただこうした世襲の議員以上に、実態的には総理大臣の近年の世襲率の増加の方が問題的には大きいと見るべきかもしれません。戦後の吉田茂から昭和最後の首相の竹下登まで、地方議員を含めた世襲議員の割合は15人中5人の33.3%であるのに対し、平成に入ってからの宇野宗佑から現在の麻生首相までではこれが13人中10人、宇野宗佑、海部俊樹、村山富市をのぞくすべての首相が世襲出身で率にしてなんと76.9%と、もはやこれでは世襲がなければ総理にはなれないような恐ろしい数字となっています。しかも次の総理候補として名前の挙がっている中でも、与謝野馨氏は世襲議員ではありませんが、石原伸晃氏や石破茂氏、そして民主党の小沢一郎代表はすべて世襲議員です。

 もともと選挙という制度というのは一人の人間、一つの一族に権力を固定せず、その時々で民意を政治に反映させるための選抜制度として作られました。しかし日本に限るわけではありませんが選挙には非常に大量のお金がかかるため、支援者たちなどの応援が必要となってくるため、いわゆる「三バン」こと「地盤」、「カバン」、「看板」が不可欠となってきます。
 この三つの要素を世襲議員の場合は親から受け継ぐことで始めから持っており、非世襲議員と比べて非常に優位な立場から政治家生活をスタートできます。しかしそれゆえに本来は民意を強く反映させ、かつ候補者の中から最も優秀な人間を送り出すべき選挙において、必ずしもそうでもないとしか言えない様な議員を当選させてしまっているという現状が以前から指摘されており、特に安倍、福田と、二人とも世襲出身の総理大臣(福田氏については父親も総理大臣)が二人揃って政権を投げ出すなど、あくまで政権放棄は個人の問題ではありますが、現実に資質を疑うような政治家が総理にまでなってしまうところまでこの問題は深刻化しています。

 とはいえ、世襲出身だからといって必ずしも優秀でないかとは言い切れないところもあり、小泉元首相や石破茂農水大臣など私が高く評価している政治家もおり、また叩き上げでも武部勉氏みたいにあまり頼りにならないのもおり、世襲だからといって政治家になるなとは言い切るべきではないと思います。

「世襲禁止、マニフェストにしたい」 民主・鳩山氏(asahi.com)

 そういう意味で、世襲の完全禁止ではなく上記のリンクに貼ったニュースに書かれているような、民主党の鳩山幹事長が提唱しているような政治家の子弟に対して出馬への年数制限や同一選挙区の禁止などを盛り込むなど、一定の出馬制限をかけることが現状で最も理想的ではないかと考えております。
 あくまで選挙というのは、その時々で最も民意を反映し、かつ能力の優れた人間を議会へ送ることに意義があります。また一人の人間が政治上の問題すべてに対応できるわけなどありえなく、農業漁業ならその方面、内政外交ならその方面の出身や専門家が集まり、それぞれの立場からそれぞれの意見を議論することこそが政治です。それが世襲出身で占められるような、純度の高過ぎる議場で果たして対応できるのかということにもなり、言ってしまえば私は雑多な種類、出身の人間が集まって議論するカオスな議会こそが、議場の形としては一番望ましいのではないかと考えています。そういう意味で、世襲出身の議員が三人にひとりとなっている現状はどうにかすべきでしょうという結論に至るわけです。

2009年3月21日土曜日

国会議員の世襲比率

 昨日は久しぶりにブログの更新をサボってしまいましたが、それには実は深いわけがあり、今日のこの記事を書くための準備をひそかに友人と二人で進めておりました。その準備というのも、現役国会世襲議員の世襲割合を調べるという調査です。

 以前に私も行った田原総一朗氏の講演会で田原氏も、「現実に世襲出身の国会議員がこうも情けないんだから、議員の世襲について日本は考える必要がある」と言っていただけあり、このところニュースとか政治家の発言を見ているとこの国会議員の世襲が話題になることが増えているように思えます。
 特にここ最近のニュースだと、民主党の鳩山幹事長が世襲議員が続くことによって国会議員の役職が固定的になるとして、父親などがすでに国会議員に就いている人間が国政選挙に出馬する際、自分のように父親とは違う地盤からしか出馬できないように法律で制限すべきだという意見を出したことに、ネット上でも賛否が別れました。
 鳩山家は弟の邦夫氏は父親の地盤に近い東京から現在も選挙に出馬していますが、兄の鳩山由紀夫氏は前述の通りに、父親の地盤とは関係ない北海道の選挙区から初出馬して現在も続けております。

 以上にように、本来身分を固定させないために選挙という制度を設けてはいるものの、選挙運動の費用かかったり、政党内での候補指名過程などで徐々に日本の国会議員は世襲色が強まっているのではないかという意見が私見から言って徐々に一般世論の中でも高まっているのではないかと思います。そこで、じゃあ本当のところどうなんだということで、一つ世襲議員の実数を私が数えてみようじゃないかと調査を始めることにしました。

 基本的な調査概要は以下の通りです。

調査対象:現役衆議院議員、1986年時第38回衆議院銀選挙当選者
情報源:ネット上で主にWikipediaなどで公開されている議員情報
世襲議員の対象範囲:その議員と配偶者の三親等以内に国会議員、地方議員、地方首長のいずれかを経験した者がいる


 細かい調査内容を解説すると、調査対象に現役議員はともかくとして、1986年時の衆議院議員選挙当選者を比較対照に選んだのは、55年体制時と現在を比べるためです。
 次に情報源ですが、これはネット上で公開されている情報を元に判断しました。先に断っておくと、現役議員に関してはWikipediaに全員の個人ページがありましたが、1986年時の当選者については主に野党の議員を中心に97名の当選議員については全く情報がありませんでした。しかし親族に議員がいる場合は何かしら関連ページが作られている可能性があり、また世襲議員の多い与党の自民党ならともかく少ない野党に不明議員が多いということも考慮し、情報不明議員についてはすべて非世襲扱いにしました。

 そして肝心要の世襲議員の対象範囲ですが、これは祖父や叔父を含める範囲にするために三親等以内とし、また大物政治家の娘婿となって地盤を引き継いでいる例も数多いことから議員本人とその配偶者からと設定しました。なのでたとえば自民党の永岡桂子議員のように、世襲議員でなかった夫の後を継いで当選した方は世襲にはカウントせず、また大叔父が有名な後藤田正晴氏を大叔父に持つ後藤田正純氏もカウントしていません。そして前述の鳩山由紀夫氏も、地盤を変えているとはいえ国会議員であった父を持つことから世襲議員にカウントをしています。

 今回の調査は可能な限り実数に近づけるものの、「最低限、これだけ世襲議員がいる」というのを測るのを目的にしているために情報不明の議員はカウントしませんでした。また親戚に地方議員経験者がいるかどうかも詳細に調べればもっといるかもしれませんが、その点もあえて見逃すことにします。
 以上の点を踏まえ、早速結果をどうぞご覧ください。

・現役衆議院議員

    全議員数 世襲議員数 世襲率
自民党 304人 124人 40.8%  
公明党  31人  2人  6.5%
民主党 113人  26人 23.0%
共産党  9人  1人 11.1%
社民党  7人  0人  0.0%
その他  16人  9人 56.3%
総合計 480人 162人 33.8%


 まず全体結果から見ると、世襲率が33.8%なので国会議員の三人に一人は世襲議員だということになります。そして政党別で見るとやはり圧倒的に自民党の割合が高く、次いで民主党が高くてほかの政党にはほとんどいないということになります。。
 なお「その他」の属性には無所属議員や国民新党といった、自民党から出て行った渡辺喜美議員のような議員が多く入っているので、少ないながらも世襲議員が多くなるという結果となっています。

 これに対して、1986年時の当選議員の世襲割合はどんなものでしょう。

・第38回衆議院議員選挙当選議員

    全議員数 世襲議員数 世襲率
自民党 302人 128人 42.1%
社会党  89人  6人  6.7%
民社党  26人  6人 15.4%
公明党  56人  0人  0.0%
共産党  26人  0人  0.0%
その他  13人  6人 46.2%
総合計 512人 144人 28.1%

 
 こうして比べてみると、与党自民党内だけの世襲割合は以前の42.1%から現在の40.8%で、増えるどころか減っているということがわかります。ただ現在の衆議院議員は2005年の9.11郵政選挙で主に選出されていることもあり、当時に大量に当選した一年生議員こと小泉チルドレンの影響も考慮し、現役自民党議員の中から一年生議員を差っ引いて改めて世襲率を計測したところ42.5%と、思った以上に世襲率は伸びたりしませんでした。いちおう一年生自民党議員の中でも世襲率を測ると36.1%でしたので、さもありなんです。

 とはいえ全議員の割合で見ると28.1%から33.8%と有意に増えており、この増加分は野党民主党の世襲率が増加しているということが原因でしょう。ただ1986年時の野党はほぼすべて左派であるのに対し、民主党が右派であることを考えたら一概に野党の中で増えたとは言い切れないところもあり、このデータ上ではっきりといえるのは左派政党は世襲の割合が低いということくらいでしょう。また何度も言いますが、1986年のデータは情報不明議員が97名もいることからこの世襲率の割合は実態より幾分低くなっている傾向があります。まぁ変動するとしても3%以上も増減することはありえないと思えますが。

 という感じで、全体では増えているものの自民党内ではそれほど世襲議員は増えていないというのが私の今回の調査の結論です。さすがにいろいろとやって疲れたので、細かい解説などはまた明日に書きます。

2009年3月19日木曜日

外国人への間違ったイメージ像について

 現在ではインターネットが発達し、たとえ現地に行かなくとも海外の事情や情報も簡単に入手できる時代となりましたが、ほんの十数年前はそうした外国の情報というのはやはり限られており、そのため外国人に対して実態とは異なったイメージを日本人全体で持つことも少なくなかったと思います。
 特にこれは外国人のイメージに限るわけじゃないですが、人間というのは「複雑だけど真実に近い情報」よりも「簡単だけど真実に必ずしも近くない情報」の二つを与えられると、やっぱり簡単そうな後者の情報を受け取りやすい傾向が多く、とっつきやすい情報から自己の中で物事を組み立てていってしまいます。

 そんなもんだから昭和末期から平成初期に至るまで、特に子供たちの間では国によってはとんでもないイメージを持っていたところも少なくなかったように思えます。そしてそれらのとんでもないイメージというのは彼らにとってとっつきやすいところこと、漫画やゲームから作られていました。そこで今日は、そうしたとんでもないイメージを作ってしまったのではないかと私が考えるキャラクターたちをいくつかここで紹介しようと思います。

1、ラーメンマン(筋肉マン)
「中国人って言ったら、辮髪だろ」

 すいません、本当にこんなことを小学四年生くらいまで私は信じていました。
 さてラーメンマンといったら漫画「筋肉マン」の正義超人たちの中でも随一の技巧派で、その人気ゆえに「闘えラーメンマン」という独立した連載まで作られた人気キャラです。そんなラーメンマンの特徴ですが、まず第一にその辮髪。長い髪をお下げにして垂らす満州人独特の髪型ですが、中国なんて当時はそんなに行き来する人も今ほど多くなかったから普通にこういう人たちはまだいるんだと私も子供の頃は信じていました。

 この辮髪もさることながら、ラーメンマンが強烈な印象を残したゆえに日本人のイメージに焼きついているのはその顔の特徴の「糸目」、「ちょび髭」でしょう。実際の中国人、それも北方の人は日本人並に目の大きな人もいるのですが、やっぱり今でも漫画とかで描かれる中国人は細目にかかれてしまっています。まぁ地域によっては決してはずれじゃないんだけど。
 そしてこちらは逆に廃れてしまって今じゃジャンプで連載中の「銀魂」の神楽しか言いませんが、セリフの語尾に「~アル」とつくように中国人が描かれたのも、このラーメンマンのせいでしょう。なんで作者のゆでたまご氏がこんな口癖をつけたのかはわかりませんが、昔に友人が言っていたこの「~アル」の語源は、戦後日本に不法入国してきた中国人は大抵が麻薬の密売人で、慣れない日本語で「麻薬アルヨ」と言っていたことからだという、ちょっと信じたくなるような冗談みたいな説を紹介してくれました。

2、ダルシム(ストリートファイター2)
「ヨガをすれば、手足が伸びて火を吹ける」

 何をどう解釈してカプコンはこんなキャラクターを作ったのかまではわかりませんが、さすがにこんな奴はいないだろうと思いつつも、ヨガというのは底知れぬ修行をするのだろうと子供心に畏怖していました。
 インドも私は言ったことがありますが、まだあまり日本人が行かない国ということでとにかくインド人は不思議人たちなんだと、大人はわかりませんが当時の日本の子供たちはみんな信じていたと思います。どうでもいいですが、初期のシリーズでヨガテレポート中に気絶させたら画面からダルシムが消えるという現象がありました。

3、マザーのキャラたち
「アメリカはこんな国なのか……」

 任天堂の名作「MOTHER」シリーズですが、言わずもがなでこのゲームはアメリカの田舎町を舞台にしていますが、小さい頃にこれをやった私は非常にアメリカは恐い国なんだなと思いました。
 というのも主人公の初期の武器が「ボロのバット」で、出てくる敵は「おにいさん」とか、「おじさん」、果てには「ゾンビ」などと、身近過ぎてかえって不気味だと思えるような敵キャラをバットで次々と撲殺する光景を想像してはアメリカは恐いところだと思い、絶対に行くもんかと心に誓っていました。

4、シャーロックホームズ(ファミコンのゲーム)
「イギリス人は地下に入ったり、蹴ったりするのか」

 これも子供の頃に遊んだファミコンのゲームですが、主人公のシャーロックホームズがいきなりノーヒントでロンドン中を走り回り、通行人へ脈絡なく蹴り攻撃を放っては金を奪うという破天荒な内容でした。ちなみにプレイステーションの伝説的なクソゲーの「ノットトレジャーハンター」でも主人公のイギリス人は蹴り攻撃がメインでした。イギリス人紳士は手を振り上げないのだろうか。

WBCの日本代表と原監督について

 現在行われている野球の国際対抗戦ことWBCにて、本日のキューバ対日本の試合は見事日本は勝利を飾ることが出来ました。前回の韓国戦で敗北したことで、「さすがに二度もキューバには勝てないだろう」というあきらめムードの中でさすがは仙台の「理想のお父さんランキング」で一位を取った岩隈投手、ここぞというところで完璧な投球を見せていただき、あの強打のキューバ打線を見事交代した杉内投手とで完封に抑えてくれました。
 実際の試合を私はリアルタイムで見たわけでなくニュースでのVTRだけですが、本人も言うだけあって今日の岩隈投手のフォークは恐ろしくキレていて、怪我さえしなければという評判通りの大エースぶりでした。

 さてそんなWBCですが、今日はようやくヒットが出ましたがここ数試合のイチロー選手の不調ぶりに原監督はともかく周囲は厳しく見ていたようで、なんでも「イチローを使うな」という手紙や意見があちこちから寄せられていたそうです。
 私が思うに、ここ一週間ほど原監督にとってはそうした周囲の声との板ばさみで相当大変だったんじゃないかと考えています。というのも明らかにイチロー選手は不調ではありましたが、ここでスタメンから外してもしその試合で負けようものなら、「イチローを使わなかったから負けたんだ」と言われ、逆に今日の試合みたいにスタメンで使ってまたもノーヒットで負けてもいたら、「あんだけ不調のイチローをなんで代えなかったんだ」と、こっちでもあれこれ文句を言われていたと思います。

 そういった状況の中で、あくまでイチローを固定し続けた原監督の胸中はいろいろ複雑であったのではないかと想像し、それだけに今日の勝利は日本人として喜ぶ一方、原監督に対して「本当によかったね」と、ほっとした気持ちを強く覚えました。前回の北京五輪での星野監督もそうでしたが、チームの全責任を担う立場ゆえにいろいろと気苦労が見ていて多いのではないかと心配しています。
 思えばこのWBCが開催される以前も、選出されたメンバー中に巨人の選手が最多であったことからある週刊誌などは「自チームへのえこ贔屓だ!」などと強く批判していましたが、この点も私は致し方なかった決断だと考えています。というのもプロ野球チームは今はどこもキャンプのシーズンで、この時期に主力選手がチームを離れてWBCに参加するというのは選手個人の調整はもとより、チーム全体でも相当な悪影響を及ぼすことはまず確実です。おまけに前回のWBCでソフトバンクの川崎選手に起こったように、もしも試合中に選手が怪我などしたら所属チームはたまったもんじゃないでしょう。

 これがまだ非現役の監督であるのならまだしも、今回の原監督のように現役監督であればそのような問題が起きれば陰謀論とか責任論が大きくなるのは目に見えています。そのため選手離脱による他チームからの批判を受けないためにも、手本とする形で巨人の選手を一番多く招集したのではないかと私は思い、またもしこのような決断であれば見事な決断だとも思います。

 とはいえ今日の勝利といい、今大会の模様は不況で暗いニュースばかりの今の日本にとって数少ない明るいニュースで、今日もネット速報で日本の勝利が伝えられるや私と私の周囲にいた人間もみんなで大喜びしました。社会というのは、特に現代のように情報伝達が早い時代において流通するニュースが明るいか暗いかで大きく性格を変え、私も連載で紹介した「失われた十年」においては暗いニュースが蔓延したことが経済的にも社会的にも目に見える形で日本人は余計な損失を出してしまったような側面もありました。
 そういう意味で、今大会は久々に日本人を元気付けるいい契機となっており、一日本人として明日の勧告線を含めて強く応援して行きたいと考えています。とはいえあんまりにも期待をかけ過ぎて負けてしまった場合に強く批判するのはよくないので、冷静さと落ち着きを持って日本人には熱烈に応援してもらいたいと思います。

2009年3月18日水曜日

満州帝国とは~その六、満州事変

 本当は昨日に腹をくくって書こうと思っていたのですが、件のFC2の件(まだ解決していない)で書く時間がなくなり今日になってしまいました。
 そういうわけで、本連載の折り返し地点でありながら前半の最後を飾る、満州帝国の発足に至らせるために起こされた、近代日本史上でも非常に重要な事件である満州事変を今日は解説します。

 既にこれまでの連載で説明しているように、日本は日露戦争後に帝政ロシアが中国から許可を得て経営していた東清鉄道とその鉄道周囲の付属地の権利をそのままを譲り受け、中国東北部において他の列強を排して満州鉄道を大動脈とするほぼ独占的な権益を確保しました。しかし中国東北部こと満州にて大きな権益を握ってはいたもののあくまで保有していた領地は鉄道付属地のみで、世界恐慌の影響を受けて国内でも大きな経済的混乱状態にあった日本政府や日本陸軍はかねてより、この際鉄道付属地だけとは言わずに満州全土を占領するべきという野心を持っていました。

 そうした野心はこの満州事変以前にもあり、日本政府や軍は大陸浪人や清朝の再興を願う旧臣などと同床異夢ではありながら協力して満州全土の支配を画策したり、満州地域で力を持った軍閥を応援することで自身の権益の拡大を図ってきました。そんな中で日本陸軍、というよりも満州鉄道の守備隊として設置され、その後対ソ国境部隊としての役割を持ったことから軍備の増強を受け、当時の日本国内で最強との呼び声の高かった関東軍の中では、より強行的に軍事力で持ってねじ伏せて満州支配を実行に移すべきとの意見が支配的になってゆき、そのような考えが初めて目立つ形で実行されたのが前回に取り上げた張作霖爆殺事件でした。

 これまで応援してきた仲とはいえ、徐々に関東軍の意向に従わなくなってきていた軍閥の長である張作霖を爆殺してより日本に協力的な人間を担ぎ出そうと実行したこの策でしたが、事態は皮肉にも張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対して一層態度を硬化させただけでなく、当時北伐中の蒋介石に降伏したことで混乱の続いてきた中国が徐々に安定していく兆しを見せる事態とまでなりました。

 恐らく当時の関東軍においてはそうして中国が安定を取り戻すことで、日本が満州に進出する機会が徐々に失われていくのではないかという焦燥感があったように私は思えます。そんな状況下で、1928年に満州事変の主役とも言うべき石原莞爾が関東軍に赴任してきたのはある意味皮肉な運命だといえるでしょう。
 かねてより自説である最終戦総論にて将来日本がアメリカと戦うために、中国全土の占領と統治が必要だと考えていた石原は上司である板垣征四郎らと密談を重ね、意図的に満州地域を攻撃、占領する口実を作り出した後に清朝最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、満州を中国から切り離す形で傀儡政権を独立させるという計画を編み出しました。

 その計画は奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖にて、1932年9月についに実行されました。この柳条湖を通る満州鉄道を関東軍が自ら爆破し、これを張学良軍の仕業と断定して自衛行動として張学良軍を攻撃し、そのまま各都市の占領を一挙に推し進めていきました。これらの行動を関東軍は「自衛行為」という主張で行いましたが実際には一方的な攻撃に過ぎず、本来このような軍事行動は政府、ひいては天皇の認可を受けねば実行してはならないために当時としても明らかな法令違反ではありました。
 事実、事件勃発直後に政府は戦線の不拡大方針を取り、後に総理にもなる幣原喜十郎外務大臣も方々に事態の鎮静化を図るも、当時朝鮮に駐屯していた林銑十郎に至っては部隊を勝手に動かして満州へと越境行動を起こすなど、関東軍らは政府らの命令を全く無視したまま軍事行動を拡大していきました。

 では何故当時の政府はこうした関東軍の行動を食い止められなかったのかですが、私が一つに考える背景として当時のテロリズムの風潮が政府首脳に二の足を踏ませたからではないかと思います。
 五一五事件や二二六事件はこの後の話ですが、満州事変の一年前には浜口雄幸が銃撃されており、さらには満州事変の約半年前には陸軍の橋本欣五郎が三月事件という事件を未遂には終わりましたが計画していました。この三月事件の概要はウィキペディアをみてもらえばわかりますが、陸軍が各政党本部を始め政治家を襲撃した上で軍主導によるクーデターを起こすという内容で、決行直前に陸軍首脳へと計画が漏れたことで計画者らが説得を受ける形で取りやめとなった事件です。

 しかしこの三月事件の最大の問題点だったのはなんといっても、クーデターを計画していた橋本欣五郎を始めとした人物らが全く処分されなかったことです。そのため彼らは満州事変に呼応する形で日本国内で首相らを暗殺した上でクーデターを起こすという十月事件を、こちらも決行直前に計画が漏れて今度は憲兵隊によって首謀者らが捕まるなどして中止されはしましたが、同じようなクーデター計画を作られる事態を引き起こしてしまいました。

 こうした、政府が意に沿わぬものならテロやクーデターによる強硬手段によって引っくり返してしまえと言わんばかりの強行的な軍の動きが、政府首脳らに満州事変での軍の暴走を抑えるのに二の足を踏ませたのではないかと個人的には思います。どうも十月事件に至っては首謀者たちは元から実行するつもりはさらさらなく、そうした意識を政府首脳に植え付けさせるのが目的だったという説もあったようですし、だとすれば既にこの時点で日本の統治や運営は日本軍に握られかけていたといっても過言ではないでしょう。

 こうした日本の動きに対し中国側はどんな対応を取っていたかですが、当初張学良軍は下手に反撃をすればより日本に侵略する口実を与えると考えて一切の対抗手段を取らずにいました。この時の決断について後に張学良氏は、まさか関東軍がその攻撃を満州全土にまで広げるとは考えていなかったと述懐していますが、張学良氏がこう考えるのも無理ではないと私は思えます。それだけこの時の関東軍の行動は一切の法律、果てには当時の世界情勢を無視した暴挙であったからです。

 またこの満州事変時、かつて歴史の闇に葬られた男が再び歴史の表舞台に現れております。何を隠そうあの甘粕事件の犯人で、後に満州の夜の帝王と呼ばれることとなる甘粕正彦です。
 彼は甘粕事件後に陸軍によって表世界から遠ざけるようにフランスへと留学させられ、事変の前には満州にて陸軍関係者らと関係を作っておりました。そして最初の柳条湖事件が起こるや甘粕正彦は奉天から遠く離れたハルビンにある日本総領事館へ自らの手下を率いて爆弾を投下し、これをまた中国人の仕業として当初南満州のみであった騒動を北満州まで、つまり満州全土に対して関東軍が行動を起こす口実を作っており、日本国内にいた軍人もこの時の甘粕の活躍を高く評価しておりました。
 その甘粕は事変が拡大していく中、満州にある湯崗子という地へと1931年11月に訪れます。そしてこの地にて、既に天津を脱出してきていた清朝最後の皇帝の溥儀を迎えることで、中国の歴史上にも大きく名前を残すこととなりました。

 続きは次回にて、満州国建国へ過程とともに解説します。

2009年3月17日火曜日

どういう風に職業を選べばいいのか

 このところ東京駅の高速バスの停留所の辺りを通ると、休日でも朝早くなのにスーツを来た若い大学生と思しき人たちをよく見かけます。時期が時期なので彼らは恐らく地方から高速バスに乗って就職の説明会や面接にやって来た学生たちだと思いますが、遠いところから来るなど改めてその活動振りには頭が下がる思いがします。
 そんなわけなので今日はまた就職の話をしようと思うのですが、よく就職情報誌などの質問コーナーなどを見ると、「どんな職業が自分にあっているのか」という自分と職業とのマッチングに関する質問が多く見かけられ、果てにはYES,NO式のマッチングフローチャートなども大抵の雑誌には載せられています。

 つまりはそれほどまでに自分に合った仕事を見つけることが重要だと考える学生が多くいるようなのですが、私はというとそうした考え自体があまりよくないのではないかと、実は一人で危惧をしてしまいます。というのもよく仕事の向き不向きなどは職業論での議論の材料にはなりはしますが、何か一つの仕事に対して強い適性を持っている人間なんて現実にはほとんどおらず、大抵の人間にとって好みの問題はあれこそ、何かの職業が特別向いているというようなことは全くと言っていいほどないと思うからです。
 それこそ他の仕事は一切手につかなかった水木しげる氏(軍隊でラッパも吹けなかったので前線に飛ばされた)のような超特別な人間なら話は別ですが、大抵の一般人にとって世の中一般の仕事は言うなればやるかやらないか程度の問題で、「これしか出来ない」とか「この仕事こそが一番自分に合っている」なんていうことは現実にはほとんどの人にはありえない事態だと思います。

 それでも世の中を見ているとどこか運命論的に、「どこかに必ず自分の転職と呼べる職業があるはず」といったような言質がよく聞こえてくるのですが、ひどい場合には何か一つの職業や職種を挙げてこれ以外はもう考えられないと、自らの就職先の選択を徹底的に狭めようとする人もいます。
 ですが企業なんて入ったところで必ずしも自分の希望する部署に入れるかもわからず、また本当にその企業が自分の思った通りの仕事をしているかもわからないことが多く、人づてに聞くとそうした特定の職種や職業に強いこだわりを持つ人間ほど五月病にかかりやすいそうです。

 では何故学生たちは自らの適性にあった職業を半ば決め付けようとするのかですが、先ほども私が言った通りに、自分の存在価値を職業を限定することで強く自分自身に意識させようというのがあるからじゃないかと個人的には思います。というのもこれは私が中学三年生だった頃に友人が、
「花園君はなりたい職業はある?」
「出来れば作家になりたいけど、なんで?」
「俺にはなりたい職業がわからないんだ。こんなんでいいのかなぁって思って……」
 と、中二病バリバリの時期にこんな会話をしたことがあります。この友人の当時の心境を勝手に推察させてもらうと、なりたい職業がないということはこの世に存在する価値もない、という風にもしかしたら考えていたのかもしれません。

 このように、大抵の人は職業選択の幅を自ら狭めよう狭めようとするのですが、確かに一人で何百社も就職活動をすることは出来ないのである程度狭めることは決して間違いではないのですが、極端に狭めることはかえってマイナスですし、それで希望通りでなければショックを受けると言うのは非常にもったいないでしょう。ではどういう風に選択幅を狭めればいいのか、どんな仕事を自分に見繕えばいいのかですが、私がお勧めするのは最低ラインを定めるという方法です。
 これなんか私が学内で自分の専門性を決める際に使ったのですが、世の中に出ればどんな仕事に出くわすかもわからないが、少なくとも大好きな中国に関わる仕事であればどんなに辛くとも、「チャイナならしょうがねぇ」と思ってまだ我慢できるだろうと思い、中国に何かしら関われるように中国語を専門に勉強することを決めました。

 この方法は「自分に何が合うだろうか」ではなく、「自分は何なら我慢できるか」と、自分と仕事に対して妥協点を探る方法です。この方法なら職業選択の幅を極端に狭めることもなく、また割と一致しやすい範囲で自分の適性と仕事を結び付けられることが出来るのでなかなか使い勝手がいいんじゃないかと思います。また私の場合は「中国」と限定していますが、消去法的に人見知りだから散々人に会うのは勘弁という人は警備会社とか経理関係とかに絞ったりなどとする方法もあります。
 とにかく、何かしらの仕事や企業を自分の天職と考えて限定するのはかえってよくないので、どこまでなら自分は我慢できるのかという価値観で就職活動を行うのを私はお勧めします。まぁ、このご時世では「正社員ならどこでも」と思ってもなかなかうまくいかないかもしれませんが……。

2009年3月16日月曜日

日本の政策決定者たちの誤算

 最近経済系の記事を書いていなかったので、補給とばかりに一本書いておきます。

 まず一番の指標たる株価ですが、先週に一次大きく値を下げて7080円位になるなど6000円台も見えてきたところ、先週金曜日と同じように今日も大きく反発して久々に7700円台まで回復しました。ってか先週の段階だと、この際だから6000円台に一回くらい入ってほしいとか個人的には思いましたが。
 なので日本の株価、ひいては経済は底を打ったのかというと、私はまだまだそんな段階には至っていないと思います。というのも今回の世界的恐慌に対して日本政府があまりにも甘い見通しを持っていたがゆえに、対策が非常に後手後手になっていて以前とこの状態を突破する傾向が見られないからです。

 今の麻生政権が発足した当初、日本政府は「世界的な金融恐慌の中、日本は比較的損害が少なかった」として、麻生総理なんかは日本がまず最初にこの不況を脱して世界を引っ張るなんていっていましたが、最初の政府の見通しは半分正解で半分大はずれだったというのが私の見方です。というのも確かに日本は失われた十年の間に大量の不良債権を処理したおかげもあってリーマンショックの影響を先進国の中では最も受けずにいたのは確かです。
 しかし世界がリーマンショックによって金融が大打撃を受け、それが製造業を筆頭にした実経済にも影響を及ぼしていって不況になったのに対し、日本は先月に発表された2008年10月-12月の四半期GDP成長率が-12.1%と、先進国の中で最も経済縮小が現実に起こっていることが発表されました。もう一度言いますが、他の先進国は金融が大打撃を受けたことで実経済も縮小しているのに対し、日本は金融は先進国の中で最も損失が少なかったにもかかわらず、金融を含めた実経済が最も縮小しているという恐ろしい現状にあるということです。

 何故日本がこのような妙な状態に陥っているかと言うと、単純に言えばこれまで外需に依存し続けた、つまり日本国内には物を売らずに外国でずっと物を売ってきたので、外国が物を買わなくなっても他国のように最低限の内需があるわけでもなく、国内にいたっても誰も物を買えなくなっていたという現状を作っていたからにつきます。
 はっきり言いますが、当初の政府の予測は明らかに現在のような状況を想定していなかったと思われます。確かに年末にかけて行われた中小企業対策などは必要な政策ではありましたが、外需に依存しすぎた体制をどのようにして建て直し、世界経済が安定化するまでいかにして内需を取り戻すかと言う視点が始めから抜けていたために現状でできる有効な対策などをみすみす逃してしまったように私は思えます。

 おまけに徐々に全国で配られている定額給付金ですが、これの配布費用は約二兆円とのことですが、この前政府が発表した失業者対策の費用は一兆円と、力を入れる箇所が明らかに間違っているのではないかと私は強く不快に思いました。それならば給付金の二兆円を全部医療や失業者対策に使っていれば、どれだけよかったことか。

 こうした点を総合し、どうやら今の麻生政権が七月のサミットまで粘って任期切れを測ろうとしている点も考慮し、少なくとも日本の株価は七月から八月にかけての夏に至るまで以前と低空飛行を続けると私は予測します。八月に入れば株価が底を打ったかどうか、今後は上昇していく可能性があるのかなど予測が立てられそうですが、少なくとも現状では一週間ごとに小さな変動はあっても、底を打つことはまずありえないと思います。

2009年3月15日日曜日

格差と情報 後編

 前回の記事にて私は格差そのものの存在より、格差が見えてしまう状態にこそ問題があると主張しました。私が何故こんなことを言い出したのかというと、いくつか過去の文献や話を聞いている限り、明らかに戦前から戦後直後にかけて時代の方が現代より生活格差が大きいにもかかわらず、当時の人間はそれほど気にしていなかったということを示唆する話があるからです。

 まず最初に私がそんな内容を聞いたのは、今も活躍なされているイギリス人学者のロナルド・ドーア氏が戦後直後の上野に来て、そこに滞在しながらまとめた論文でした。その論文は外国人の目から見た日本の様子が描かれており、言われてみるとそうだったと思えるような日本の特殊な事情などが書かれていてそれだけでも面白く、「欧米と比べて日本の社会保障制度は充実しておらず、大半の家庭では有事に備えて貯蓄しているものの、夫が突然病気などをしたら対応のしようがない状態である」などと、今の日本にも通じるようなことが書いていてドキリとしたこともあります。

 それで肝心の今回のネタの内容ですが、まず生活者における貧富の格差についてはそこそこ大きいものがあるとしていながらも、

「住民同士はイギリスのようにお互いにそうした格差を気にすることはなく、同じ町内であれば互いに気軽に接しあっている。しかしある主婦が言うには、以前に比べればそうした収入の違いなどを気にするようにはなってきているらしい」

 という風に書かれています。
 今もそうですがイギリスでは社会的に家格というものが大きく、アッパークラスとロウアークラスでは世帯間で交流はあまりなされず、その世帯がどの家格に属しているかで社会的地位を始めとした生活態度が大きく変わってきます。そうしたイギリスの状況から比べたことからドーア氏が日本は格差に分け隔てなく交流がなされているように思ったのかもしれませんが、それでも最後の主婦が言った、「以前はもっと気にしなかった」という発言が私には気にかかりました。

 ここで話は変わってうちのお袋のはなしですが、うちのお袋は鹿児島の阿久根市というところの出身なのですが、一言で言ってしまえば相当なカオスな社会だったそうです。
 なんでも当時に在日朝鮮人の方が鉄屑屋をやっており、子供でもなにか鉄屑を持って行けばお金に変えられたそうなのですが、その鉄屑屋をやっていた人自体はあまり裕福ではなく厳しい生活を強いられていたそうです。それでも当時はそうした貧乏だとか金持ちだとかそういったものの間に壁はなくみんなで分け隔てなく交流がなされて、よくドラマとかでやっているような貧乏な家だからといって周囲から馬鹿にされるという風景もなければ、今のようにそういった生活水準の差を互いに気にすることもなかったそうです。

 そして極めつけが、「かじどん」の話です。
 当時のうちのお袋の家は割と裕福で自家用電話もあったそうなのですが、当時は電話器が少なかったことからお袋の周囲の家に用があって外から電話がかけられる際はお袋の家が一旦電話を取り、その周囲の家の人を呼びに言ってつないでいたそうです。それでかじどんの家も電話はお袋の家からの呼び出しではあったものの、お袋の家から離れてて山の中にあったので、お袋は電話が来るといつも山登りをさせられて凄い嫌だったそうです。なのでなんでもってかじどんは山の中に住んでいたんだと私が聞いたら、「そりゃ多分かじどんの職業が泥棒だったからだろ」となんでもないように答えてきました。

 別にはっきりとした証拠はないものの、なにか決まった仕事をするわけでもなく生活していたのでお袋を始めとした周囲の家はみんなかじどんは泥棒で、この辺りから盗んだものを売って生活していたのだろうと認識していたそうです。かじどんは泥棒だとわかっていつつも、警察に届け出ることもなく同じ共同体に居続けさせる神経にまず私は驚いたのですが、当時はそうした雑多な雰囲気と言うか、共同体の中でも慣用性が強くあったのだなと思わせられた話でした。

 ここで話は現代に戻りますが、ぶっちゃけこれから出かけなくてはならないので急いでまとめてしまいますが、現代は若者同士だとほんのちょっとの収入の差や生活水準の差に非常に敏感になっているように私は思います。言ってしまえばこういうのは気にしなければ気にしないに越したことはなく、もっと距離的な結びつきなどで共同体が成立しないのかといろいろと考えるネタはあるのですが、何よりも私が気になるのは、いつから日本人は現在のレベル位に格差と言うか、他人との生活水準の差を気にするようになったかです。適当に仮説をあげるのなら資本主義が浸透したからとか、逆に社会主義が平等という概念を作ったからだとか、果てには横並びの昇進が日本の企業で行われていたからだとかとも言えますが、「よそはよそ、うちはうち」という位に、何かしらこう割り切らなければならないものもあると思います。

 かといって一時期のように「セレブ」という言葉が流行したように、格差を強く意識させるようなマスコミ等の報道には正直辟易してしまいます。結論を一言で言えば、格差を際立たせる、意識させるような外部の情報はあまり人間関係上、よくないものなのではないかということです。

2009年3月14日土曜日

格差と情報 前編

 いきなり結論ですが、私は現実にある格差の大きさより、格差が見えてしまう状態こそが一番問題であると考えております。

 これは社会学で最も有名な古典の一つであるエミール・デュルケイムの「自殺論」にて分析されている話ですが、一見すると不況期に自殺は増加するものだと考えられがちですが、統計上では好況期にも不況期と同じ程度の自殺者の増加が起こるそうです。自殺というと生活苦からくるのではと想像しがちなので、不況期に自殺が増えるのはわかるにしても、生活水準が向上する可能性の高い好況期に自殺が増えるなんて、初めて聞いたときには私も妙な風に感じました。
 デュルケイムの解釈をかいつまんで説明すると、どの人間にも「自分はこうあるべき」という自分像があり、その自分像と現実の自分の姿に差異を感じた際に人間は自殺に走るのだと、そうした自殺のことをデュルケイムは「アノミー的(無規範的)自殺」(本店の方でコメントがあり、この箇所は「アノミー的自殺」ではなく「自己本位型自殺」でした。訂正します)と呼び、私としてもこの説を支持します。

 自分像と現実に差異を感じるとはどういうことかですが、単純に言うと比較です。たとえばある人が自分は正社員で働きながらそこそこ収入を得て、かわいい彼女もいて、周りにはいい友達もいるというのを理想の自分像として持ってはいるものの、現実の自分は正社員ではなく、彼女もおらず、周りに友達もいない状況であった場合、いちいち言わなくとも相当不安とかプレッシャーを感じるであろうことがわかるでしょう。それに対して別の人が最初の人と同じ現実の状況でも、その人は別に正社員でなくともいい、彼女もいなくともいいし、この際友達もいなくてもいいという風にいつも考えている人だったら、明らかに最初の人よりは精神的には満ち足りてそうな気がします。

 こんな具合に、「自分が本来あるべきだと思う像」と「自分の現実の状況」の差が大きければ大きいほど人間は不安に感じ、その不安がある種の臨界点に達することで人間は自殺に走るというパターンのことを「自己本位型自殺」と呼びます。
 基本的に自分像というのは個人々々が持つものではありますが、その形成過程は周りから得られる情報に大きく依存しており、たとえば周りの友達皆が大型テレビを持っていたり、皆で結婚をし始めたりしたら、「俺って遅れてんじゃね?(;゚Д゚)」と大抵の人は思ってしまいます。それに対して周りがみんなテレビを持たなかったり結婚もしていなければ、「まだテレビと結婚はいいや(´ー`)」という風に覚え、こんな具合で人間、それも日本人や韓国人みたいに横並びが大好きな民族は周囲の情報によって自分像を大きく変えていきます。

 中にはそれこそ自分一人で、「マツダロードスターさえあれば他に何も要らない」とか「三食食えればそれでいい」というように周囲に影響されずに自分像を確立させてしまう人もいますがそんなのは極少数で、大抵の人は「他の人はああなんだから自分だって」と考えて、皮肉な言い方をすると自分で自分を縛ってしまいます。これが不況期であれば職を失って生活が苦しくなる現実に対し、「なんで自分は仕事がないんだ」というように覚えることから自殺に走り、好況期であれば職があるものの、「周りはあんなに稼いでいるのに何で自分の稼ぎはこれっぽっちなんだ」というように覚えて自殺に走ると、大まかに説明すればこんな感じになります。

 このデュルケイムの理論を援用すると、たとえ不況期であっても皆が皆で貧乏でそれが当たり前であれば、人間はそれほど自殺に走らなくなるということになります。言ってしまえばその通りで、そのような状況であれば少なくとも自殺にかんして、果てには生活上で受けるプレッシャーも少なくなると私は考えています。ここで私が何を言いたいのかと言うと、物質的な面より現代人は精神的な面でプレッシャーを受けやすく、その原因は格差というよりはその格差が見えてしまったり強調されてしまう現代の情報環境にあるといいたいのです。

 これは何も私だけが言っているわけじゃありませんが、日本は戦前から戦後にかけてと現代の状況を比べると、格差で言えば明らかに戦前戦後の方が大きかったです。現代は明らかにあの時代よりも物質的に豊かにもなっているにもかかわらず、テレビをつければみんなで格差格差と連呼し、格差社会の是正が声高に叫ばれています。確かに格差自体は問題ですし是正すべき問題ですが、あまりにも大きく取り上げて問題視することはそれ自体かえって問題ではないかと私は思いますし、また格差を取り上げるマスコミは言うに及ばず、その格差を強く認識してしまう社会自体も問題で、言ってしまえばただ生活する分には日本人も格差を気にしなければ精神的にはずっと充足して生活していけるのではないかと考えます。

 次回は一つそのモデルとなるかわからないですが、うちのお袋が昨日に酔っ払ってのたまった昔話をしようと思います。

ゴディバの話

 結局一度も入ったことはありませんでしたが、多分今もあるでしょうが京都の嵐山に「ピーピングトム」という名前の喫茶レストランが私がいた頃にはありました。この店の名前に私はなるほどと感心したのですが、このピーピングトムというのはベルギーの有名なチョコレートメーカーである「ゴディバ」が命名に使用したエピソードに出てくる名前で、わざわざそんなところからこんな名前を店に使うなんてなかなか洒落ていると思い、今でも折に触れて思い出したりします。

 そのゴディバの名前の由来となったエピソードですが、真実かどうかまではわかっていないものの、昔イギリスのある地方の領主様がその地域の領民に重い税金をかけて苦しめていたのをみて、その領主の后のゴディバが税金を軽減するように領主に訴えたところ、「お前が裸で街中を馬で駆け巡ったら軽くしてやるよ」と、セクハラ親父さならがらの無茶な要求を出してきました。
 ゴディバもさすがにこの無茶な要求にはしばらく頭を抱えて悩みましたが、領民のためを思い、ある日ついに決心をして本当に裸で馬に乗って街中に繰り出したのです。そんなゴディバの心境を領民も察し、ゴディバが街に繰り出すや家々の窓や戸を閉め、ゴディバを辱めないよう皆でその姿を見ないようにしたそうです。しかし仕立て屋のトムだけは好奇心に負けて隙間から覗いた所、この様子を見ていた神様が神罰としてトムの目を失明させたそうです。こうしたゴディバの決死の行動を受けて領主も税金を軽くしたそうなのですが、神様もトムの目を失明させるくらいなら始めから領主に神罰を与えりゃよかったのに……。

 ここまで言えばわかると思いますが、一人だけ覗き見したトムを揶揄して「覗き見トム」こと、「ピーピングトム」という言葉が出来、日本語的には「覗き魔」とか「出場亀」「田代」といった意味で使われています。なかなか小憎らしいネーミングで件の嵐山の喫茶レストランには興味を持っていたのですが、結局行かずじまいで京都を去ってしまいました。
 このエピソードの発祥地はイギリスのコヴェントリーという田舎町なのですが、実を言うとイギリスに旅行をした際に私はその町で一泊した事があり、町の真ん中にあるでかいゴディバ像が建っていたのを見ています。ピーピングトムという言葉も、そこで初めて知りました。

 そんなわけでこのゴディバのエピソードにはそこそこ詳しい自信もあるのですが、この前ふとしたことから領主に諌言したのがゴディバではなく男の大臣とかだったらと妙な想像をしてみたのですが、そしたらやっぱり同じように「裸で走って来い」とか言われて、大の男が「うおー、俺の股間の下は暴れ馬っ!」とか言って町の中を疾駆したのでしょうかね。もしそうだとしても町の人たちも言われなくたってゴディバと同じように窓を閉めただろうな、これだと。

2009年3月13日金曜日

私がスプラッターを好んだ理由

 別に今日に狙いを定めていたというわけではないのですが、私は四歳くらいの幼児の頃からスプラッター映画、っていうかジェイソンでおなじみの「十三日の金曜日」シリーズが大好きで、当時はよくテレビでもロードショーがされていたのでしょっちゅう毛布にくるまって恐がりながら見ていました。何でそんな小さな頃からよりによってこういう映画が好きだったのかというと、今でもそうですが当時は多分、あまりお目にかかれないような珍しいものがともかく好きだったのでそういった物珍しさ(流血なんてそうそうないんだし)から見ていたと思うのですが、小学生になった頃にはなんとなく別の意味も持ってきていたと思います。

 その別の意味と言うのもスプラッター映画特有の残虐性というかアンハッピーな情景や結末というもので、そういったものに対して人一倍強い興味を抱くようになりました。今もそうですが、小学生くらいの頃からテレビやマンガは何でもかんでもハッピーエンドで終わり、最後は皆で幸せになるという描き方に対してなんとなくうそ臭いような気持ちを覚えていき、むしろ世の中そんなに甘くないんだし、最後はどうあがいても救われないという話の方が現実に近いように思えてきたからです。
 我ながらこんな風に考える辺り当時から自分が斜めな性格をしていたのだなという気がしますが、一応成人になったいまでもこうした考えが大きく変わっているわけではなく、血を見るのが苦手でテレビドラマの外科手術シーンの出血描写だけでもくらくらきちゃいますが、残酷な描写のあるホラー、スプラッター映画を始めとして「ヘルシング」や「エルフェンリート」といった描写の激しい漫画も好んで見ています。

 もともとそのような残酷な情景のことを「グロテスクな」という表現がよくなされますが、このグロテスクという言葉の和訳は「生々しい」という意味で、いわば「現実に近すぎる」という意味合いなので、現実というのは本来残酷で見るに絶えないという意味なのかもしれません。
 別にこれに限るわけじゃないですが、私は何事に関してもうそ臭いのは嫌いです。それを言ったらB級ホラー映画自体がうそ臭さの権化みたいなものですがそれはそれでおいといて、普段見るテレビのニュースやドラマで描かれる世界というものに対してこのところそのようなうそ臭さを強く感じる様になってきています。

 だからと言って現実に近い話をドラマ番組として放映したところで、つまらない話だったり後味の悪い話ばっかりになって視聴率も稼げないでしょうが、それでも私は吐き気を催すような現実というものを見ていたいと常日頃思ってしまいます。そんなんだから漫画の「カイジ」も好きなのかな。

2009年3月12日木曜日

満州帝国とは~コラム 張学良

 私が近現代で最も尊敬している人物は今村均氏と水木しげる氏ですが、もし日本人以外でというのならばといのなら私は必ず張学良氏の名前を挙げるようにしております。今日はそういうことで、満州帝国の連載コラムとして張学良氏個人について解説をしようと思います。

 日本史を勉強した方で張学良氏の名前を知らない方はまずいないでしょう。前回の「張作霖爆殺事件」で紹介したように、張学良氏は戦前の中国東北部の軍閥の長であった張作霖の息子として生まれ、張作霖の死後は彼の後を継いで軍閥を率いて蒋介石軍に投降をしました。
 実は前回から「張作霖」の名前には「氏」をつけずに張学良氏にはずっとつけていますが、これは張作霖は時代が大分過ぎていることから歴史上の人物と捉えているからで、張学良氏についてはまだ歴史というほど古い人物ではないと判断しているためです。

 この話をすると驚かれる方が非常に多いのですが、張学良氏はほんの八年前の2001年まで存命しており、この年に満百歳でハワイにて死去しています。この死亡年と年齢から察しのいい人はお分かりでしょうが、張学良氏は二十世紀の始まりの年である1901年に生まれて二十一世紀の始まりの年である2001年に死去し、丸々20世紀という時代を生きて去っていったということになります。さらには1901年という彼の誕生年は、もう一人の20世紀の日中史を代表する人物である昭和天皇と同じ誕生年でもあります。本当に偶然と言えば偶然なのですが。

 さてこの張学良氏が何故日中史において私が重要であるかと考えるかですが、結論から言えば第二次国共合作の立役者であるからです。
 満州帝国の本連載では次回にようやく満州事変を取り上げますが、この満州事変によって中国東北部から張学良氏は強制的に支配地域から追放され、以後しばらくは蒋介石の国民党の下について西安にて共産党の討伐軍を指揮していました。しかし共産党と戦いつつも張学良氏は、今は中国人同士で戦っている場合ではなく一致団結して日本に立ち向かうべきではと考え、極秘裏に共産党の周恩来と会って共闘の道を探り始めていました。そうした中で起きたのが、あの西安事件です。

 西安に視察に来た蒋介石に対して張学良氏は共産党と国民党の共闘を打ち出しますが、当初蒋介石はこれを拒否します。すると張学良はなんと自分の上官である蒋介石を逮捕、監禁し、再度共産党との共闘を脅迫するような形で提案しました。そしてこうした張学良氏の動きに恐らくは示し合わせての行動でしょうが、共産党からも周恩来を始めとした幹部が西安に入って蒋介石との会談を持って合意を作り、蒋介石としては内心忸怩たる思いがあったでしょうがここに第二次国共合作こと、中国において統一された抗日戦線が張られるに至りました。

 私は太平洋戦争はまだしも、日中戦争は紛れもない日本の侵略だったと考えております。そしてこの日中戦争において日本は中国の各主要都市を陥落させはしたものの、もとより占領政策が非常に下手だったこともあり結局大きな勝利を得ることなくアメリカとの戦争に突入して結局は敗北しましたが、もしこの国共合作がなければ、日本は中国に対して最終的に勝利を得ることはなかったでしょうが少なくとも最後まで落とせなかった重慶なども陥落させ、現実の歴史以上に中国の奥深くまで攻め込むことが出来たと思います。そういう意味で、この張学良氏の捨て身の行動は日中戦争における非常に大きなターニングポイントとなったと高く評価しています。

 しかしこの張学良氏の捨て身の行動は彼自身に大きな代償を伴い、上官を捕縛したことから軍法会議にかけられ懲役刑を科せられて軟禁状態にされ、更には日中戦争後、国民党が共産党に破れると張学良氏も台湾に渡りましたが、やはり相当恨みに持たれていたのか蒋介石によって台湾でも軟禁され続けました。蒋介石の死後は徐々に行動の自由も認められていったそうですが、軟禁年数は実に50年以上にも及びました。
 その後台湾の民主化によって1991年(90歳)に軟禁処置が解かれますが、張学良氏にもいろいろと思うところがあったのか、そのまま台湾には残らずハワイに渡って残りの人生を過ごしました。

 この張学良氏の現存する記録としては1990年に行われたNHKの取材が最も代表的ですが、この時の取材にて西安事件の後に自らの身の危険を考えなかったのかという質問に対し張学良氏は、
「あの時に日本と戦うためにはどうしても強い指導者が必要で、その条件に当てはまるのは蒋介石しかいなかった。だから国共合作後も私は彼を担いだのだ」
 と答えています。

 こうした彼の行動や功績から私は張学良氏を深く尊敬しているのですが、台湾ではどうだかわかりませんが本家中国ではどうやらそれほど高い評価を受けているわけではないようです。私も留学中に非常に知識のある中国人の方(何故か西郷隆盛まで知っていた)に話を聞きましたが、特段評判のいい人物でもなく、国共合作自体が張学良氏の功績だとはあまり言われていないようです。
 実際に私も中国に行ってから気づいたのですが、よく日本にいると中国人は一連の反日運動から日本のことを世界で一番嫌っているように思う方が多いかもしれませんが、実際には台湾への憎悪の方が強いように思えます。中国の歴史教育などでも日中戦争以上にその後の国民党との戦争の方がより詳しくかつイデオロギー的に書かれており、結局戦後は台湾に渡ったことを考えると張学良氏のことを大陸の中国人がよく言うはずがないという気がします。

 そのため一番最初にリンクに張った張学良氏のウィキペディアの記事中の最後部にある、「中国では千古の功臣、民族の英雄と呼ばれている」という記述には首を傾げてしまいます。なんか出典を出せというタグが貼られていますが、私もあるのなら是非見てみたいものです。

2009年3月11日水曜日

満州帝国とは~その五、張作霖爆殺事件

 戦前の日本において本格的に軍が国の主導権を握るようになる国内の最大のターニングポイントは二二六事件であることに間違いありませんが、国外における最大のターニングポイントとくればやっぱり満州事変ですが、その満州事変の嚆矢とも言うべき事件こそがこの張作霖爆殺事件だと私は考えております。

 この事件が起こる直前、中国では蒋介石率いる国民党がそれまでバラバラに各地域を支配していた軍閥を次々と打ち破り、清朝崩壊以後の混乱を納めるべく「北伐」を実行していました。こうした中、蒋介石の軍と戦って敗北するなどして北京周辺の軍閥の勢力が弱体化したのを見て、当時満州地域を支配していた軍閥の長である張作霖は中央に進出する好機と見て首都北京を制圧するも、結局北上してきた蒋介石軍によって完膚なきまで叩き潰され、ほうほうの体で自分の支配地である満州へと逃げ帰ろうとしていました。
 しかしその逃亡の途上、奉天郊外の鉄道駅にて張作霖の乗った列車が爆破され、即死こそしなかったものの張作霖は暗殺されてしまいました。この事件の犯人について当時はあれこれ意見が分かれたものの、現在、というより当時からも日本が保持する満鉄の守護部隊こと、関東軍の河本大作が実行したものだと確実視されていました。

 まず何故張作霖が関東軍に殺される羽目となったかですが、これは単純に日本と張作霖の仲が割れたことによります。日本としては張作霖を満州地域で様々な援助を行って彼を操ることで満州における日本の権益を確保しようと意図したもの、当の張作霖は援助を受けはするものの必ずしもそうした日本の意図どおりに積極的に動いてはきませんでした。
 こうした張作霖の態度に日本の外務省や関東軍は次第に苛立ちを覚え、あまつさえ日本の勧告を受け入れずに北京などの中央地域にまで支配を拡大しようとしたことから、この際張作霖を殺してほかの実力者を操るべきだと言う声が彼の生前から各所から上がっていたようです。またこの頃から関東軍内では後の満州帝国の建国計画が持ち上がっており、その計画を実行するに当たり張作霖が障害になると目されたのも、彼が暗殺される事となる大きな理由となりました。

 このような日本の謀略の元、張作霖の暗殺は実行に移されました。
 ただこの暗殺実行について主犯が関東軍の河本大作大佐によるものとは当時の証言からもはっきりしているものの、日本政府が指示したかどうかまでははっきりしていません。まぁ私の見るところ、この後の関東軍の行動を見ても河本大作を始めとした関東軍内で独自に実行されたと見るべきだと思います。
 またこの事件は日本国内には「満州某重大事件」という名前で報じられましたが、この事件の処理をめぐって当時の総理大臣であった田中義一は関係者の処分をしようとすれば陸軍から強い反対を受け、その後の中国との外交方針も二転三転したことから昭和天皇に厳しく叱責されるまで混乱したのを見ると、日本政府の関与はやはり少なかったと思えます。

 なおこの時、若くして即位した昭和天皇はこの事件について報告が二転三転したことから田中義一首相を強く叱責、それこそ怒鳴ったとまで一部でも言われているほどで、この叱責を受ける形で任務をもう続けられないと田中首相は辞任し、その三ヵ月後には既往の狭心症によって亡くなっています。
 昭和天皇は既に当時に一般化していた美濃部達吉の天皇機関説に反し国政に天皇である自分が強く意見を主張して、挙句には田中首相を遠まわしに死へと追いやってしまったことを非常に後悔し、以後は自分の意思というものを全く表に出さなくなったと言われています。唯一の例外として終戦直前の御前会議がありますが、この前読んだ雑誌記事によると、死の直前に病院内にて水あめをとてもおいしそうに食べているのを見て医師がもう一つ如何でしょうかと薦めたら、「いいのかい?」とうれしそうに返事をして食べたエピソードが紹介されていました。思うに戦後の昭和天皇は、食事をおかわりしたいという意志すらも出していなかったのではないかと思えるエピソードです。

 話は戻りますがその後主犯の河本大作は責任を取る形で辞任し、満鉄に再就職し、結構不気味なのですが満州帝国が崩壊した戦後も中国に残り続けて国民党に協力し、最後は共産党に捕縛されて中国国内の収容所で死去しています。これまた私の意見ですが、恐らくこの人は日本に戻ったところで居場所がないと考えていたのではないかと思います。甘粕正彦もそんなところがあるし。
 そして張作霖死後の彼の軍閥はと言うと、鉄道爆破によって重傷を負った張作霖は部下たちによって秘密裏に自宅へと運ばれそのまますぐに息絶えましたが、彼の第五夫人は彼の死を隠し、自分の息子ではない張学良氏が後を継げるよう様々に根回しをして実現させた後にようやく事実を公表しました。そうして張作霖の跡を継いだ張学良氏は父親を殺された怒りから日本の予想とは打って変わり(張作霖より日本の言うことを聞くだろうと見ていた)、早々に蒋介石に降伏して彼の配下となることで満州の支配権を認められ、日本に対して敵対的な政策をその後次々と実行していきました。

 この張学良氏の降伏を受けて蒋介石の北伐は完了し、毛沢東率いる中国共産党のゲリラ活動を除けばひとまず中国は統一されて、これで安定した秩序が生まれるのではないかという期待が徐々に膨らんできていました。しかしこの統一を快く思わなかったは日本と関東軍(ついでに中国共産党)で、これまで混乱状況にあったからこそちまちまとした工作をしてきたものの、このままではまずいという危機感から徐々に過激な、そして強引に自らの計画を実行していくことになります。そういうわけで次回は前半のハイライト、満州事変を取り上げます。
 にしても、まだ前半かよ……。

2009年3月10日火曜日

二階俊博議員への捜査の広がりについて

 多分今朝の朝刊一面はどこも、自民党の二階俊博衆議院議員にも例の西松建設の献金問題にて疑惑が波及していることに言及していると思うので、今日は敢えてニュース記事へのリンクは省きます。
 そうした今日の新聞やテレビなどの報道によると、今回の小沢氏の秘書が逮捕されるきっかけとなった西松建設OBが代表を務めていた政治団体が二階氏の政治資金を集めるためのパーティーへの参加券こと、通称「パーティー券」を約800万円分も購入していたようで、この購入の事実について二階氏は認めた上で、特に西松建設に便宜を図ったこともなければパーティ券を購入したその政治団体が西松系列だということすらも注意していなかったと追求されている疑惑を否定しています。

 実を言うと私はこの二階俊博氏のことを以前から高く買っており、現役の政治家として非常に高い能力を備えていて、党運営などの実力だけなら一、二を争うような議員だと認識しておりました。多分あまり表に出ていないし私の方でもきちんと裏を取っていない情報なのですが、小泉政権が大勝したあの9.11選挙にて刺客候補の擁立や各地域の選挙運動などの演出を行ったのはなんとこの二階氏で、事実上のあの選挙の勝利の立役者であったとまで言われています。
 というのも本来選挙の要となるはずの幹事長は当時はタフさだけしか取り柄のない武部勤氏で、また小泉下総理の懐刀といわれた元秘書の飯島勲氏はメディア対策などでは非常に手馴れていたものの選挙には特別造詣の深い人物だとは言われておらず、選挙が行われた当時から私は一体誰がこの選挙を作ったのかとずっと気になっておりました。

 そうやっていろいろと当時の選挙の状況について調べていると、どうもあの選挙を演出したのはこの二階氏であるという情報をある日耳にすることが出来ました。その情報を得てからあれこれこの二階氏を調べてみると、確かに選挙当時に二階氏は選挙対策を行う総務局長の役職についており、また選挙においては自民党でも屈指の人物であるという評論を得てますますその情報に確信を持つように至ったのですが、その「選挙に強い」と言われる理由というのも、かつて二階氏が小池百合子氏同様に小沢氏の側近中の側近だったというからなおさら合点がいきました。

 そんな二階氏の経歴を簡単に説明すると、二世議員として父親の後を継いで自民党から政治家になるとすぐに小沢氏を師事する様になり、小沢氏が自民党を下野した際は一緒についていってその後活動をしばらく行動を共にするものの、小渕政権末期にて小沢氏が当時党首を務めていた自由党が連立与党から離脱するとそれに異を唱えて小池百合子氏同様に分派する形で保守党を作り、その保守党が自民党に吸収される形で現在のようにまた元の鞘の自民党に戻ったわけです。
 小沢氏と袂を分かつまでは二階氏は文字通り無二の忠臣だったそうで、当時から選挙に強いと言われた小沢氏の選挙手法を間近で学んできただけあり選挙について裏の裏まで熟知していると言われ、それゆえにあの郵政選挙も成功に導くことが出来たと言われております。

 その二階氏が今回の小沢氏の秘書逮捕の余波を受けて疑惑がもたれていることについて、こんな言い方をするのもなんですが何故どこも、「あいつは小沢と昔つるんでいたから、小沢と同じ所から同じ違法な献金をもらっていたのも不思議じゃない」という評論が聞こえてこないのがかえって不思議です。ワイドショーのネタ的には決して悪くはないし、因果関係的にも強い話だと思うのですが、マスコミも何か考えがあるのでしょうか。
 ただこんなこと書いといて言うのもなんですが、二階氏も小沢氏同様にこの件ではシロだと私は見ています。というより今この段階で二階氏が突き上げを食らうのを見て、その考えが強くなりました。

 話の組み立てはこうです。まず二階氏の政治団体が小沢氏の資金管理団体と同様の手法で献金を受けていたのであれば、何故検察は小沢氏の秘書だけを先週にいきなり逮捕したのかになります。確かに政治団体と資金管理団体であれば政治資金規正法の枠が変わってきますが、違法な献金の手法と目される手法で献金を受けていたのであれば本来ならば同時に捜査されてしかるべきで、何故秘書の逮捕から一週間後の今になって急に思い出したかのように二階氏の名前が出てくるのかになります。

 そしてもう一つ、何故自民党の中で最初に二階氏がこの疑惑の波及を受けたかです。実はこれが肝心なのですが、二階氏は問題となった西松建設系の政治団体に約800万円分のパーティ券を購入してもらっていたため、他の献金を受けていた自民党議員と比べても額が突出しているから疑われている、というニュアンスで今隣で放映されている報道ステーションは言っていますが、これだと明らかなミスリードになります。というのも、自民党の尾見幸次議員は問題となった政治団体からなんと1200万円も、しかも二階氏と異なりパーティ券ではなく現金にて直接献金を受けております。更に更にこの尾身氏の場合は沖縄及び北方対策担当大臣時代にも献金を受けており、東北地方に地盤の強い西松建設からすると北海道での公共工事に一枚かませられる立場にあった人物でもあります。(この一帯の情報源は3/8の「サンデープロジェクト」より)

 二階氏より明らかに額も疑惑も問題性も強い尾身氏を飛び越えて二階氏がこうして槍玉に挙げられるのは何故か、この辺にきな臭さを私は覚えます。考えられる理由としては二階氏は前述の通りにいわば外様の立場で、自民党内の派閥争いに絡めて尻尾きりにあったか、もしくは私が指摘したようにかつての小沢氏との関係を取りざたされる前に検察に自民党から差し出されたか、ではないかと一応は予想しておきます。
 どちらにしろ今回の事件はこうした明らかに怪しい人間が放っておかれておきながら、与党でないために公共工事の口利きが出来ない小沢氏や、与党ではあるもののなんとなく中途半端に怪しい二階氏が槍玉に挙げられるなど、何度も言っているように国策捜査の臭いがプンプンします。これまた何度もこのところ言っていますが、私は小沢氏のことがあまり好きではないものの、もし本当にこれが国策捜査であればそれがまかり通ることだけは何がなんでも許せないために、検察がはっきりとした証拠を出すまで(前に政治団体への小沢氏秘書からの献金額の請求書が出たとか言われたが、その請求書の額がなかなか公表されないのが不思議です)は小沢氏も脅しに屈するような形で民主党代表を辞任すべきではないと強く覚えます。

2009年3月8日日曜日

「徹底抗戦」(堀江貴文著)を読んで

「徹底抗戦」(アマゾン)

 先週の小沢民主党代表の逮捕のニュースを受けて、私の頭にすぐに浮かんだのは「国策捜査」という言葉でした。この国策捜査という言葉を知ったのはいわずと知れた「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏の著作で、言葉の定義を簡単に説明すると、それまで曖昧でルールのないまま半ば黙認されていた事案に対し、国や検察が政策変更や世論の流れを受ける形で何かを無理やり事件化させることでルールの厳格化をはかる事案のことを指します。自らを国策捜査の対象とされたと自称し一躍日本にこの言葉を定着させた佐藤氏は、自分と鈴木宗雄議員の逮捕や捜査はこれまでの中央から地方へ税金をばら撒く形で公平分配を行うというやり方から、首都東京を始めとする都市にすべての資本と人材を集中して中央集権化を強める政策転換を行うということを内外に知らしめるため、小泉政権が党内の権力闘争に絡んで半ば象徴的に国民に見せ付けるために行ったものだと主張しています。

 このように国策捜査というのは、今度また細かく解説はしますが何らかのルール変更や制度の厳格化を行う前段階に起こるものとされ、その性格ゆえに捜査過程を検察が強く見せるという傾向があるとされます。近年に起こった国策捜査の例として佐藤氏があげているのは、村上正邦元議員のKSD事件、自分や鈴木宗男議員の「ムネオハウス事件」(こっちはむしろインターネット事件史としてみたらいろいろと面白い)、そして今回書評を行う本の著者である堀江貴文氏の「ライブドア事件」です。

 一番最初にリンクに貼ってあるのは昨日に私が買った堀江貴文氏が書いた、「徹底抗戦」という本のアマゾンのページです。この本はフジテレビ買収事件から逮捕、拘留の期間を含めた現在までの堀江氏の心境をつづった内容で、全体の感想をまず言えば読んでてなかなか面白かったです。
 それで肝心のライブドア事件についての堀江氏の心境ですが、この本の中では始めから最後まで徹底して自らは無罪だと主張しています。捜査されることとなった子会社との架空取引などについて何が容疑とされて何が違法とされたのか、それに対してどうして自分が無罪だと考えるのかなどが細かくつづられていますが、ぶっちゃけかなり細かい話なのでここでは省略します。

 ただ堀江氏の主張の中でも私が強く納得したのが、強制捜査後に日本の株価が大きく下落したライブドアショックについての堀江氏の反論です。本来ああいうような強制捜査は投資家心理に与える影響が強いので、株価が大きく下落して株式市場に混乱を起こさせないために海外などでは金曜日に行われるものだそうです。そうすれば市場が閉まっている土曜日と日曜日に投資家は頭を冷やすことが出来、捜査による市場の混乱と無用な株主の損失も最小限に止められるのですが、このライブドア事件では週始めの月曜日に捜査が行われ、案の定翌日の東京証券市場ではライブドアショックと呼ばれる大幅な株価下落が起こりました。しかも堀江氏も突っ込んでいますが、当時の東京証券取引所のシステムは世界的に見ても非常に貧相なシステムで、一日五万件しか取引が行えないために途中でシステムがダウンしたことで当時の混乱と株価下落に拍車をかけました。

 こうしたライブドアショックによって堀江氏と法人としてのライブドアは、もう結審したかどうかまでは調べていませんが、ライブドアの元株主などに株価下落による損害賠償請求まで起こされ、刑事裁判でも堀江氏は「市場を無闇に混乱させた」などとこの件が批判材料にされましたが、仮に自分の全財産を出したところでこの時の損失をすべて補填することは出来ず、こうした事態が予想できたにもかかわらず月曜に強制捜査を行った検察と貧相なシステムゆえに混乱に拍車をかけた東証に対してそこまで責任を持たなければならないのかと反論しており、この点については私も深く同意します。

 そしてこの事件で堀江氏は逮捕されて拘置所に収監されるのですが、堀江氏は拘置所生活で何もできない、というより人と話すことが出来ないのが非常に辛かったと語っています。私の目からしても堀江氏の性格で狭い場所に閉じ込められていたらそりゃ相当苦痛だろうと思いますが、本を差し入れられてもすぐに読んでしまい、それでいて狭い部屋で一日何時間も何もすることなく置かれるということに現在も強い恐れがあるとして、今後裁判が進んで懲役刑が確定するにしてもできるならば早く刑務所に移送してもらって労務作業をしていた方が絶対マシだとまで述べています。
 よく無人島に漂流した場合、食料や衣服があるとしても人間は誰かと話をしなければ精神的に追い詰められて簡単に死に陥るという話がありますが、私のイメージ的には拘置所の生活もそんな感じなのだと思います。そんなもんだから検察官との取調べですらまだ会話が出来るので歓迎したとも堀江氏は述べていますが、こうした精神的プレッシャーを与えて筋書き通りに供述させるのが検察の常習手段だと、同じ経験をした佐藤優氏とこれまた同じ内容の言葉を述べているのが印象的でした。

 なおこの本でも名前が出てきますが、やっぱり同じ経験をした仲ゆえか堀江氏と佐藤氏はこれまで何度か対談を催しています。これは佐藤氏の本に書かれていた内容ですが、嗜好品などは拘置所内でも自費で払えば買えるらしいのですが、その購入リストには「メロンの缶詰」というものがあるらしく、変わっているしおいしそうだと思って頼んでみると実際の中身はとんでもなくまずいものだったと、二人とも意見が一致したそうです。そのほか通常の食事では白米ではなく麦飯が混ざったご飯が出されるそうですが、最初は戸惑うものの慣れると非常においしくてやみつきになるという点でも一致したそうです。私から付け足しておくと、出所直後は痩せてすっきりして男前になったのに、現在ではまた元のまんまに太ってしまったのも一致してます。

 こうした拘置所体験から出所後の生活、そして現在の裁判の状況とそこでの自身の主張についていろいろこの本ではまとめられていますが、あの逮捕から三年後の現在になって読んでみるといろいろと私の中でも思うところやこれまでの考えを改める内容がふんだんに盛り込まれています。特に堀江氏の人生観についてですが、私自身は今もそうですがちょっと目先が短すぎてあまり好きになれないところがあるのは変わりませんが、世界一の企業を作って後は民間での宇宙開発に残りの人生をささげるという目標に対して堀江氏が従順に努力をしてきたという事実には正直に頭の下がる思いがしました。
 そして日本の司法制度についても、検察が捜査権と訴訟権を持つのが問題で、彼らから捜査権を奪わなければどんな犯罪も作り出せてしまうと言っているのは時期が時期だけに核心を突いたことを述べており、また逮捕後の過剰なバッシングにも触れて日本のマスコミは検察とグルになっているとして、電話内容を無断で録音されたなどの実例を挙げて批判しているのは、今後の小沢氏の事件を考える上でも重要な指標になってくると思います。

 なんかこのところ文章のノリが急激に悪くなっていますね。今度辺りちょっと趣向を変えた記事でも書いて、心機一転をはかってみようかな。

2009年3月7日土曜日

西松建設事件について続報

 このところ書く話題が多すぎて、ちょっと現実逃避をし始めてきています。そのせいか今日は先週から始めた「俺の屍を越えてゆけ」を延々とやってました。面白いんだよなぁ、このゲーム。

 それはともかく、また西松建設がらみの小沢氏秘書献金疑惑事件について私の見解を紹介します。事件から約一週間経ち、前回の記事を書いてからまた続々と情報が出てきましたが、そうした情報を総合した上での私の現在の見解はというと、やはり今回の事件は国策捜査であるという確信が強くなってきました。

 一つ一つ関連情報をあげて説明をしていきますが、まずは今回の小沢氏の公設秘書の逮捕理由ですが、これは報道でも言われているように虚偽文書記載によるものです。ダミーの団体を通しているとはいえ西松建設側からの政治献金であることがわかっているにもかかわらず帳簿にはそのように書かなかった、というのが公設秘書の大久保氏の逮捕理由ですが、本来、というよりこれまで一度もこのような虚偽文書記載でいきなり逮捕という事例はありません。あったとしても関係者の事情聴取や任意同行くらいなものでいきなりの逮捕は前例のない異常な捜査で、一部報道で今回の逮捕は後に続く大きな事件の布石だという主張がありますが、未だにその大きな事件の背景が見えてこないと言うのは問題だと思いますし、ましてやそれを検察も示さないと言うのはちょっとどうかと思い、やっぱりひとまず逮捕して無理やり汚職事件に結び付けようとしているのではないかという疑念を覚えます。

 次におかしな点は、何故小沢氏の秘書だけが逮捕されたのかです。
 今回の大久保氏の逮捕理由は本来やってはいけないことになっている、政治家の資金管理団体は企業から直接受けてはならない献金を受けたからということになってますが、恐らく今回の西松建設の例のような迂回献金なんてどの政治家も受けているでしょうし、現に小沢氏へ献金を行っていた西松建設OBが代表を務めていた政治団体からは自民党の森元首相、二階議員を始めとした多くの議員が献金を受けていましたし、何も西松建設系の団体に限らなければほぼすべての議員がこのような迂回献金を受けているでしょう。にもかかわらず、今回逮捕、事件化したのは小沢氏だけです。

 この点について私の友人が実に鋭いツッコミを言っていましたが、テレビなどで報道されているように何故小沢氏だけが捜査される事になったかという理由が、その政治団体から一番献金を受けていた(報道では約四千九百万円)というのであれば、じゃあ額が少なければいいのかという話になってきます。少なくとも迂回献金の事実だけで逮捕に至るほど捜査されるのであれば、森元総理をはじめとした他の議員も一緒に捜査されていなければおかしいことになります。

 この点に関して昨日今日と実に興味深い報道が出ていますが、こうした自民党の議員も問題の政治団体から献金を受けていた事実に対してある政府高官が、「自民党にまでは捜査は発展しない」と、何故この段階でそんなことがいえるのか、やはり裏でつるんでいるのではと思わせる発言をしていたようで、今日の朝日新聞の夕刊によるとどうもこの発言をした政府高官というのは漆間巌氏だったようです。リンク先のウィキペディアの記事をみればわかりますが、発言をしたのが漆間氏と聞いて私は「あぁ、こいつならやりかねない」と思いました。
 またこの発言について国策捜査の被害者の鈴木宗雄氏(加害者は福田康夫氏)も昨日のテレビ番組にて、「(検察と)権力側がつるんでいると言う話になる」と批判しています。

 そして私が今回の事件を特に国策捜査だと思わせる一番の理由ですが、今回の事件報道の情報ソースがどれも官公庁発表、つまり全部が全部検察発表という点です。
 大体一昨日くらいから、「迂回献金は小沢氏側からの指示」や「違法と認識しつつ実行した」などといった供述が出たなどと報道されていますが、これらの供述はすべて「西松建設関係者から」とつけて新聞やテレビなどで報道されていますが、こうした捜査情報を持っているのは検察だけです。更に言えば「西松建設側」と呼ばれる供述者というのは間違いなく大久保氏と一緒に逮捕された西松建設の元社員、もしくは今回の事件以前の海外送金などの事件で逮捕された西松建設関係者たちでしょう。

 この辺なんかは国策捜査というものがどんなものかを知っていなければ実感しづらいのですが、逮捕拘留することで被疑者を他の関係者から引き離した上で、日本の検察は自分たちの捜査の筋書き通りに話すのならば執行猶予をつけるなどと持ちかけては、特に家族を置いて拘留されている人物などに供述を強制させるそうです。佐藤優氏の「国家の罠」を読めばこうしたくだりが理解しやすいのですが、どんなにタフな人間でも一日十数時間も取調べを受けて、外からの情報が遮断される環境におかれると抵抗する力をほどなく失い、大抵の人間は検察の筋書きに乗って検察の都合のいい供述調書にサインをしてしまうそうです。なおこうしたことについて社会学でも「囚人のジレンマ」という有名な理論があります。
 それで話は戻りますが、今回の事件の報道、それも小沢氏側に不利な供述などの情報はどうも検察側からしか発表されておらず、塀の外側ことシャバの世界での関係者の供述や証言というものが私が見渡す限りほとんどなく、しかもバンバンと普通は表に出ないような操作情報が流れているのでいわば検察によって事件報道が作られているような状況にあるのではないかと見ています。このあたりも、国策捜査において典型的な経過です。

 最後に止めのおまけを一つ。実は誰かが言うだろうと思ってたから敢えて今まで私は言わなかったのですが、贈収賄罪が適用されるには当たり前のことですが「お金を受け取る側」と「お金を払う側」という二つのキャラクターが必要で、なおかつ「お金を受け取る側」がその賄賂を受けたことにより「お金を払う側」に対して何らかの見返り行動を行うということが絶対条件として必要になります。
 そこで冷静に考えて見ましょう。小沢氏は確かに有力な政治家ではありますが、与党ではなく野党の党首です。そんな野党の人間がいくら賄賂を受けたとしても、西松建設がほしがるような公共事業の工事を受注させることができるかと言ったら非常に疑問です。それで言うならむしろ、与党である自民党の中で献金を受けた議員の方が贈収賄の構図としては成り立ちやすいのではないでしょうか。それでも、今回逮捕されたのは小沢氏周辺だけです。

 いくつか情報を見ていると、今回の秘書の逮捕はあくまで前段階で、検察はもっと大きな事件とその証拠を握っており、今回の逮捕をてこに大きな捜査へと発展していくのだという主張がいくつか見受けられますが、それならば何故その大きな事件を始めから捜査しないのか。また今回この献金の事実だけで逮捕するなら他の自民党議員はどうなるのか。その上今回迂回献金をしていたという団体は数年前に海産さているにもかかわらず、何故今になって事件化したのか。

 こうした点を総合して、私はやはり今回の事件は自民党による国策捜査だとにらむに至りました。かつて国策捜査を受けた佐藤優氏は、本来国家というのは非常に力のある存在で、いわば逮捕をしてから事件を作るというような国策捜査が行われること自体、国家が弱ってきている証拠だとかつて述べています。
 前回にも書いたとおりに私は正直に言って小沢氏が嫌いです。ですがこのような国策捜査は決して将来の日本のためにならないし、こんな行為を仮に自民党がやっていると言うのなら絶対に許すことは出来ません。これまた佐藤氏の話ですが、ロシア人というのは政治家はみんなクソッタレで、選挙と言うのはクソッタレどもの中から一番マシなクソッタレを選ぶ行為だと考えているそうです。この考えに則るのなら、まだ私は小沢氏の方がまだマシなクソッタレなんじゃないかと覚えます。

 今回の事件はいろいろと考えさせられることがあるので、ちょっと勉強しなおそうとかつて国策捜査を受けた堀江貴文氏と佐藤優氏の本を二冊、本日買ってきました。堀江氏の本はすぐ見つかると思っていたのに、本屋を探して五軒目でようやく見つけましたが、期待に違わずなかなか面白い内容なので、明日にでも紹介しようと思います。

2009年3月6日金曜日

日本漫画キャラ傑作選~サブキャラ編~

 マンガというメディアはその表現上、やはりストーリーよりもキャラクターの個性や外見、特徴などで面白さなどが決まりやすいものです。かといって何でもかんでも珍しいキャラクターを出せばいいというわけでもなく、今日はちょっとその辺を詰めるという意味も込めて、私の目から見てひときわ目に付く傑作的なキャラクター、それも主役やヒロインといったものではないサブキャラクターの中から今日はいくつか紹介しようと思います。

1、泣き虫サクラ(餓狼伝)
 ひときわ濃いキャラクターが頻出する「餓狼伝」の中でも、特に際立って読者の記憶に強い印象を与えたのがこの「泣き虫サクラ」です。このキャラは子供の頃に母親によって両目を潰されたため視力を失っているのですが、その母親を喜ばせるために激しい肉体トレーニングを積み続け、視力の代わりに聴力と嗅覚のみで相手の立ち位置から動作まで読み取り、漫画中では絵の具の臭いをより分けることで絵まで書いてしまっています。
 なんていうか文章では伝えづらいのですが、圧巻ともいえる漫画中のその風貌はまず前述の通りに眼球が潰されているために眼窩がくぼんでいるだけでなく、二メートルを越す巨大な身長にしなやかな筋肉、そしてなにより恐らく60歳は越えているであろうというしわくちゃの顔でありながら、アメリカの地下プロレスの覇者として君臨しつづけているというのだからとんでもない設定です。
 こうしたビジュアル的な面にとどまらず、対戦相手のグレート巽(どっからどう見ても猪木)に対して試合中に、
「(君には)悲しみもある、怒りもある。でも……陵辱がないでしょっ!」
 と、ことごとく読者の常識を覆すインパクトのあるセリフを連発し、インパクトだけで言うなら日本漫画史上でも一、二を争うキャラだと私は思います。

2、パック(ベルセルク)
 かつてこの「ベルセルク」の作者の三浦建太郎と「北斗の拳」で有名な原哲夫という二人のマンガの原作を作ったことのある武論尊に、「二人ともマッチョな作画で似ている」といわせただけあり、「ベルセルク」の絵は非常に緻密な書き込みで見るからに重厚そうな印象を覚えます。それに加え元々の漫画のストーリーも暗く沈痛な内容なために自然と読んでいる印象は重く暗い……と思いきや、そんな雰囲気を悉く引っくり返しているのがこの妖精キャラの「パック」です。
 真面目なシーンではファンタジー漫画の妖精らしい格好をしているものの、大半のシーンでは元の造形を全く無視した二頭身の通称「クリパック」の格好で、漫画全体の雰囲気を吹き飛ばすかのようなギャグキャラとして活躍しており、詳しくは原作の漫画を読んでもらえばわかりますが、木の枝に栗のイガをつけて「妖刀ざっくり丸」と称したり、「エルフ示現流」と言ってはいつの間にかヨーダの格好をしていたりと、みるたびに思わず笑いがこみ上げてくるキャラです。多分このパックがいなければ面白いのは変わらなかったとは思いますが、話がずっと暗いまんまで読んでて疲れやすい漫画に「ベルセルク」はなっていたと思います。

3、如月さん(エルフェンリート)
 一見かわいらしい絵柄で始まった「エルフェンリート」の第一話にて、とろい口調で歩いてはすぐにずっこけ、それでも「いつかは室長の役に立つ秘書になるんだ」という夢を語る典型的なドジっ子萌えキャラとして登場し、多分読者はこの「如月さん」がこの漫画のヒロインなんじゃないかとみんな最初は誤解したと思います。ですが同じ第一話にて、その研究室で捕獲していた未知の力を操るキャラ(主人公のルーシー)が脱走してこの如月さんが人質にとられるやわずか4ページ後に「ブチッ」っと、いきなり首チョンパされるという強烈な最後を遂げて第一話でいきなり退場してしまいました。
 別にこの如月さんに限るわけじゃないですが、この漫画ではさも重要そうなキャラが出てきたかと思ったら同じ回の中ですぐに殺されては、逆に脇役かと思ったキャラがやけにその後延々と活躍するなど読者の期待の逆を平気で行く漫画でしたが、この如月さんのいきなりの退場には私も思わず「えっ?」と言ってページをめくり返してしまいました。

4、ドクターキリコ(ブラックジャック)
 手塚治虫の最高傑作との呼び声も高い「ブラックジャック」にて、血のにじむような激しい現場の野戦病院で働いた経験から施しようのない患者にはなるべく早く安息をもたらすべきという信条を持ち、安楽死専門の医師としてこの「ドクターキリコ」は颯爽と登場しました。登場回はいくつかあるのですがそのどの回でも「ほかの何者を持っても命の価値に変える事は出来ない」という信条の元、それこそどんな患者でも治療して見せようとするブラックジャックとは激しく対立し合うのですが圧巻なのは初めて登場した回において、全身麻痺で幼い子供らにこれ以上入院費用などの負担をかけられないとして安楽死を望む母親にその処置を施そうとするものの、当初は報酬額が出せないとのことで治療手術を拒否したブラックジャックがドクターキリコの行為をやめさせるため、意地になって無報酬で手術し治療して見せた回です。

 みごと手術を成功させたブラックジャックに対してドクターキリコは、
「人間の生き死にというのは神が決める行為だ。あの患者はいわば死ぬべき運命にあった患者で、その患者を無理やり治療してしまうお前の行為はいわば神へ反逆するようなものだ。だがお前がいくら頑張ったところで、人の運命なんて変わることはないんだぜ」
 と言い、退院直後に治療された母親とその子供らの親子が交通事故で死亡した事実を伝えます。それに対しブラックジャックも、
「たとえこれが運命に逆らう行為だとしても、俺は目の前の患者を生かし続けるために一生このメスを振り続けてやる」
 と言い放つこのシーンは、現代の医療倫理においても重要な意味合いを持つ会話だと思えます。なお今挙げたセリフは内容を伝えるために私が書き起こしたもので、忠実にセリフ文章を抜き出したものではありません。
 基本的に主人公のライバルキャラと言うのは主人公に対するアンチテーゼを持つキャラクターになるのですが、私は今の今までこのドクターキリコほど強烈なアンチテーゼを持ったサブキャラクターは見たことがありません。

 漫画も作品単位でいろいろと評論されることはありますが、今回ちょっと思い立ってやってみたのですが、案外こういう紀伝体のようにキャラクター単位で評論を書くのも面白いかもしれません。好評だったらまた続きを書いてみようかと思います。

2009年3月5日木曜日

満州帝国とは~その四、満蒙独立運動~

 日露戦争後に日本は満州鉄道とその周辺の付属地を手には入れたものの、満州全土は依然と中国のままで、1931年の満州事変が起こるまでは日本はその地域を完全掌握するには至りませんでした。しかし満州地域の権益の独占と支配の画策は満州事変の直前までなかったかというと実際にはそうではなく、日本は満鉄を手に入れた時点から混乱の続く中国に対して隙あらば付け入ろうと目を光らせており、実際に数多くの謀略を仕掛けては独立工作を何度も実行していました。
 そのような謀略を行っていたのは言うまでもなく陸軍をはじめとした日本の軍部らと、また中国大陸で一旗あげようとしていたいわゆる大陸浪人と呼ばれる人たちで、そうした日本人らにかつての清王朝の再考を夢見る元皇族の中国人こと満州人らたち組むことで行われ、そうした彼らの工作は俗に満蒙独立運動と呼ばれています。

 満蒙独立運動の活動家として最も代表的な人物は、大陸浪人の第一人者である川島浪速です。川島は中国語を学んでいた関係から若い頃から通訳などの仕事を通して中国と深く関わるようになり、その過程で川島の生涯の盟友となる粛親王善耆こと、清王朝の皇族らとも親交を深めていきました。その粛親王をはじめとした清朝の皇族たちは凋落著しい清朝を再興するために、日本の力を借りることで先祖伝来の満州の地にて蜂起、独立する計画を持っており、日本政府としても彼らを支援することで満州と蒙古地域(現在の内蒙古自治区)を中国政府から切り離して独立させることで、より中国大陸へと進出するという野心があり、いわば双方の思惑が一致する線の上で川島を始めとした大陸浪人らが日本と元皇族を結びつけたことから満蒙独立運動が始まりました。

 そうした中で行われたのが、辛亥革命直後に計画された第一次満蒙独立運動でした。1911年の辛亥革命にて清朝が完全に滅ぶや川島らは粛親王らを北京から脱出させ、満州内で兵を集めて挙兵する準備を進めつつ日本陸軍へも協力を打診しました。実際にこの時には参謀本部や外務省などから川島らを支援する目的で多額の資金や武器弾薬が拠出されたのですが、欧米各国がこのような日本の動きに対して懸念の声が挙がったことで、外交問題に発展することを恐れた日本政府より挙兵を中止するべしとの命令が出されたことで最終的には実行には移されませんでした。

 しかしこうした連中がちょっとやそっとで計画を断念することはなく、計画中止から三年後の1914年に欧州で第一次世界大戦が起こっている最中、中国では袁世凱が突然皇帝に即位するという破天荒な行動を起こしたことから中国国内で打倒袁世凱を掲げる「第三革命」が起こりました。この間に日本の大隈重信内閣は中国に対して対華二十一カ条要求という中国に対して屈辱的な外交要求を行うだけでなく、さらにはこの第三革命に乗る形で強気に内政干渉を行っていき、その一貫として再び清朝の元皇族を再び支援することで満州地域の独立を促す第二次満蒙独立工作が行われました。

 この時の計画はかなりの所まで準備が進められ、挙兵の際に障害となるであろう満州地域の軍閥である張作霖の爆殺未遂など実際に実行に移されたのも少なくありませんでした。しかしそうした工作の最中に袁世凱が急死したとことにより、遠政権の打倒という大義名分を失ったことから日本政府はまたも作戦を中止し、満州の独立はあきらめ中国において親日的な政権を応援するという方策に変えました。
 こうした方針の変更に困ったのは、実際にもう挙兵してしまった各地の部隊たちでした。一応日本政府も責任を感じてか部隊の解散費用などが川島らの支援者へ支払われはしましたが、支援のなくなった独立主義者のパプチャックの軍などは張作霖の猛烈な反撃を受けて敗退し、パプチャック自身も戦死しています。

 私などは大学受験時代に毎回相当な高得点を日本史の試験でたたき出していましたがこうした満蒙独立運動については何一つ習ったことはなく、以前に満州史を勉強した際に今回の記事の内容を知った際には、やっぱり日本は当時の中国にいろいろとちょっかいを出していたんだなと、あまり驚きはなくむしろ納得するような感じで事実を受け取りました。
 これは今回資料としている学研から出ている「歴史群像シリーズ 満州帝国」に書かれている評論ですが、特筆すべきはこれらの満蒙独立工作は公然と日本政府や軍部が中国に対して工作を仕掛けていたという点です。よく靖国問題についてあれこれ内政干渉だなんだなどという議論がありますが、当時はこれほどおおっぴらにやらかしていたのかと、今の時代にいるからこそ思うのかもしれませんが当時の日本のあまりの露骨さには時代格差を感じてしまいます。

 ただこうした工作が当時の軍部や政府の主導的な関与があったという事実は、この後に行われる張作霖の爆殺、それに続く満州事変といった一連の軍部の行動も、このような流れに沿ったものだったと考えると突拍子もない軍部の暴走だったとは受けきれないとも私は思います。

2009年3月4日水曜日

満州帝国とは~その三、満鉄の設立~

 満州帝国の歴史を語る上で欠かすことの出来ないものは数ありますが、今日紹介する満鉄はその中で最も代表的なもので、事実上満鉄=満州といえるような面も歴史にはあります。
 実はこの満鉄の記事を書くに当たり対象とする範囲が一気に膨大になってくるので、この際この連載を紀伝体風にやってこうかなとも考えたのですが、多少変則的になりますがこの記事では設立時の状況を説明する導入にとどめ、今後の記事は紀伝体調を強くしてやっていこうかと計画中です。甘粕正彦とか石原莞爾なんて、散逸的に書いてもしょうがないし。

 それでは早速解説を始めますが、この満鉄こと満州鉄道会社は日露戦争後、当時のロシアから満州での鉄道経営権を譲り渡されるのを受けて、その管理を目的に半官半民の組織で設立されました。この満鉄の設立に当たり、前回でも説明したようにロシア側から鉄道のみならず鉄道の付属地を譲り受けることから当地の行政もある程度管理する目的で、日露戦争勝利の立役者である児玉源太郎は占領統治を熟知している旧知の部下こと、台湾の民生局長時代に台湾の衛生環境を劇的に改善させた後藤新平を満鉄の初代総裁に据えようとしました。しかし後藤本人は当初は総裁就任を固辞していたのですが、そうこうしているうちに児玉が病死してしまい、医師だけにその意志を受け継ぐ形で後藤も最終的には総裁就任を承諾しました。

 とはいっても、満鉄は活動開始期から華やかにやってこれたわけではなかったそうです。後藤の腹心で後に二代目総裁となる中村是公はこの時期に東大時代からの親友である夏目漱石を満州に招待していますが、その旅において漱石は急速に近代化が進む付属地の状況を記す一方、ちょっと付属地の中心部を外れると荒涼とした荒地が依然と広がっているとも書いており、日本にいる人間たちからすると満州は遠く離れた僻地という印象が強かったようで、実際に日本以上に寒さの厳しい土地ゆえ鉄道の管理運営もしばしば支障をきたし、また馬賊などの襲撃が度々あっては満鉄社員らも士気が上がらず不祥事もよく起こっていたそうです。
 
 それでも後藤や中村の努力もあって徐々に鉄道網や付属地の経営やインフラの整備は進んでいき、明治末期に満州を訪れた矢内原忠雄も決して満州は僻地でないと、漱石が訪れた時代より大きく発展したことを記録しています。そんな中、満鉄が大きく飛躍するきっかけが外部よりやってきたのです。何を隠そう、第一次世界大戦です。
 この一次大戦にて満鉄にとどまらず日本中でも好景気をもたらせましたが、満鉄にとってなにが一番大きかったというと操業開始より経営の柱としていた鉱山発掘でした。満鉄の設立前にあらかじめ行われた中国との交渉によって日本は付属地近くの鉱山の経営権を獲得しており、この鉄道と鉱山経営は満鉄の設立開始から終末期まで経営の二本柱であり続けました。この鉱山経営が一次大戦の勃発によって重工業製品の需要が伸びたことからこの利益が膨れ上がり、この頃から経営が安定してきたことから名実ともに満鉄は日本を代表する会社となり、東大卒の社員もこの頃から入社するようになります。

 ただこうした一次大戦による経済的地位の上昇以上に、満鉄がその影響力を強めたのはロシア革命によるところが大きいとされます。というのもロシア革命によって世界初の(パリコミューンはもちろん除く)社会主義国家のソ連が誕生したことにより、ソ連と国境を接する満州にある満鉄と関東軍は次第に対ソ最前線の国防上でも重要な地位を帯びるようになっていき、ソ連に対する謀略、諜報の基地的な役割が強まっていきました。こうした流れを受け、付属地の経営や行政を研究する目的で満鉄の設立当初よりあった日本初のシンクタンク……というのはやや大げさな気がして私はあまり信じていませんが、戦前を代表するシンクタンクの満鉄調査部は徐々にソ連や社会主義陣営の偵察、研究、ひいては植民地政策などあらゆる方面を研究する組織へと変貌を遂げていくようになりました。

2009年3月3日火曜日

小沢民主党代表秘書逮捕のニュースについて

西松建設献金で小沢氏公設秘書ら3人逮捕 政治資金規正法違反(YAHOOニュース)

 今日七時のNHKニュースでもトップニュースでしたが、リンクに貼った記事によると本日小沢民主党代表の公設第一秘書が西松建設に絡む不正献金の疑いで逮捕されたようです。結論から言えば、私はこの逮捕撃破やはりきな臭いと思い、インタビューでも鳩山由紀夫幹事長が口にしていましたが、これも国策捜査なのではないかという疑念があります。

 今回の事件は異様とも言える位に構図が複雑なのであらましを簡単に説明すると、まず小沢氏の公設秘書をはじめとした三人の直接的な逮捕理由は、政治資金規制法で禁止されている、小沢氏個人の資金管理団体の「陸山会」に対して西松建設が企業献金を行い、その献金額を秘書が帳簿上の科目を別のものにしていたということからです。自分も今回初めて知ったのですが、政治家の政治団体には企業献金が許されているにもかかわらず、なぜか政治家の資金管理団体にはやってはいけないことになっているそうです。
 それで西松建設がどのように献金をしたかですが、単純に言うと西松建設が自社の社員への給料に小沢氏への献金額を上乗せして、その社員が個人献金という形で小沢氏の資金管理団体に上乗せされた分を献金させたということです。
 細かく言うと更にややこしいことになってくるのですが、一応はそうした給料上乗せ分の献金額は西松建設OBが運営していた政治管理団体の「新政治問題研究会」と「未来産業研究会」を通過することで、要するにダミーとすることで献金されたそうです。なんていうか、書いててあほ臭くなるほど長い過程です。

 私の理解した範囲の事件の構図はこうですが、まず私の正直な感想は、これのどこが悪いのかということです。確かにそうした献金によって変な談合や工事の随意契約の根回しといった不正が行われていたとするならば明らかな犯罪ですが、現在の報道ではまだその辺にまで言及はされておりません。そしていくら政治資金規正法で禁止されているとはいえ、政治団体へはよくとも資金管理団体へ企業献金が許されないというのは一抹の奇妙さを覚えます。言ってしまえば両方とも政治家が代表とする団体であればどっちもその政治家の政治活動に使われるのは明らかですし、その使途に妙な使い方があったのならばなぜそれが容疑とならず、献金をしていた事実のみで逮捕になるのか不思議です。そしてなにより、企業献金は駄目でも個人献金ならいいっていうこと自体、ちょうど以前の記事でも触れたばかりですがなにか問題があるような気がします。

 そうした理由に加え、一番このニュースできな臭いのはこのあまりにも良過ぎるタイミングです。ちょうど先週に予算案が衆議院で通過し、この後の二次補正予算が最終的に可決されることでいよいよ選挙かと言われ始めたこのタイミングで、それこそ致命傷になりかねない政党代表のスキャンダルなんていくらなんでも出来すぎた脚本のように思えます。
 更に言えば、そもそも先月からニュースになっていた今回槍玉に挙げられている西松建設の海外で捻出した裏金の送金問題や、キャノンの工事受注問題など、ありえないほど直前に検察などから集中砲火を受けていたのも変だと感じておりました。

西松建設前社長を起訴 裏金、引き続き捜査(47ニュース)
大賀容疑者、西松建設から数千万円…キヤノン施設工事巡り(読売オンライン)

 これらすべての西松建設への捜査が今回の小沢氏の秘書逮捕の布石だと考えると、というよりそう思えても仕方のないようなタイミングの良さで、佐藤優氏が一気に定着させた「国策捜査」なのではないかと私も疑ってしまいます。狙いはもちろん、小沢氏と民主党です。
 正直に言えば、私は小沢一郎という人物があまり好きではありませんし、小沢氏の持つスキャンダルは私の陽月旦でも触れているように前から知っていました。しかし今回の出来すぎた秘書の逮捕はあまりにも不自然ですし、こんな誰が献金したかとかよりむしろ「陸山会」が所有する不動産物件とその売買と賃貸行為の方が問題性が大きいのではないかと思うと、なんとなく釈然としない気持ちを覚えます。

 無論、今回の逮捕は一つのきっかけで今後捜査が進むにつれて本来の目的や容疑がはっきりしてくることで明確に小沢氏の責任が問われる事態が明らかになることもありますし、私のこの場での主張も杞憂に過ぎなかったということになるかもしれません。しかしそれでも、今回のこのニュースではやや疑問に思える点が数多くあることからあらかじめ私の見方を書いておくことにしました。

 なおもしこの件で本格的に小沢氏の周辺が捜査される事態になった場合、民主党はこの際小沢氏とその取り巻きを徹底的に排除することで、次の選挙でより有利な立場になる可能性もあるのではないかと思います。
 私がそうであるように小沢氏に対してアレルギーを持つ人間は未だ数多くおり、「自民党は応援したくないが小沢が総理になるのはもっと嫌だ」という有権者を取り込む意味合いで、この際徹底的に党内の小沢色を取り除き岡田克也氏あたりを党首に持ってきて、政権奪取時には彼が総理大臣になると確約することで今以上に支持が得られるという可能性もあるのではないかと思います。そこまで民主党が対応力を見せられるかにかかっていますが。

2009年3月2日月曜日

中川元財務相の泥酔会見の裏側

 今更ですが、ようやくあの中川元財務相の泥酔会見にて私がずっと疑問に思っていた点に対して一つの解答を出すことが出来ました。その疑問点というのも、中川元財務省とあの泥酔会見の直前にあった昼食にて同席していた新聞記者についてです。

 あの泥酔会見から約一ヶ月近く経ち、問題となった会見はやはり中川元財務相が泥酔した状態で出席したことによるものだとほぼ確実視されるようになりました。その根拠としては問題発覚後に徐々に明らかになってきた当日のスケジュールによるもので、あの問題の会見の後にも美術館見学にて立ち入り禁止の場所に入って警報ブザーを鳴らすなどと奇行を続けたことから泥酔の件はほぼ間違いなくクロでしょう。
 ではその酒が入ったのはどのタイミングかが次の問題になるのですが、この問題も結局中川元財務相の口からは曖昧なままで突き通されてしまいましたが、当日のスケジュールを精査するとG7会合が終わったあとの各国財務大臣同士の昼食会と、その後に日本の外務省からの同行者らとの間で行われた私的な昼食会とアルコールを取る機会が二回あり、特に後者の私的な昼食会の直後に行われたロシア関係者との会談においてロシア側が中川元財務省がすでに奇妙な態度を取っていたことを言及しているので、私としてもうしろの昼食にてアルコールが入ったと見ております。

 さてこの昼食が実はこれまで私を悩ませてきた一つの原因なのですが、各所の報道によるとこの私的な昼食会において読売新聞をはじめとした何人かのぶら下がり記者も同席していたようで、この事実については読売新聞側も認めております。
 しかし問題発覚後、時間にして約三日間もの間、見方によれば現在に至るまでその時の昼食会にて中川元財務相がアルコールを含んだという事実関係の報道はありませんでした。普通に考えれば同席した記者がいるのならその時に中川元財務相が酒を飲んだか飲んでないか、もしくはその昼食の時点で行動がおかしかったかなんてその場にいた記者ならはっきりわかるはずですし、また当初酒を泥酔するほど飲んではいなかったと中川元財務相はゴックンだかゴックンじゃないとか曖昧な言葉で濁していましたし、その内幕を暴露することでスクープになるような内容を何故隠していたのかと、恥ずかしながら実はこれまでずっと悩んでいました。

 それでこれはあくまで私の推論ですが、やはりあの時に同席した記者らは敢えて中川氏の飲酒の事実を報道しようとしなかったのだという解答に私は落ち着きました。というのも政治家のぶら下がり記者というのは自分たちの出世もぶら下がり先の政治家にかかっているようなもので、担当となった政治家がそれこそ大臣や首相になればそのまんま大臣付きや首相付きの記者となって社内での発言力も増していくそうです。逆を言うのなら担当の政治化が楽そうすればするほど、その記者も立場がなくなっていくことになります。

 そうした打算的な意味合いに加えて、やはり政治家となるような人というのはみんな人間的魅力に溢れている人物ばかりらしく、一緒に接していることでいつの間にやらその人間の個人的なファンになってしまうことが政治家のぶら下がり記者には多く、業界用語で言うと「政治家に淫する」といって、次第に担当の政治家に対して批判的な目や記事を書くことが出来なくなるそうです。

 要は中川財務相のぶら下がり記者らもそうしたところがあり、泥酔会見が発覚してもなかなか「いや、あんたあの時散々飲んでたじゃないか」というような事実を公表することを敢えて行わなかったのだと私は考えています。そしてもしそうだとするなら、書かなかった記者らは早いところ仕事を変えるべきだとも思います。記者がいくら担当の、しかも懇意にしている政治家だからといって、批判的かつ中立的な立場を持てないとするのならその仕事には向いていないとしか言わざるを得ません。

  追記
解散時期「わたしが決める」と麻生首相=農水相発言、官房長官は苦言(YAHOOニュース)

 リンクに貼った記事は先日に石破農水大臣が予算成立後に早く解散総選挙をするべきといった発言に対し、麻生首相が解散時期についてとやかくいうなとばかりに反論したことを報じたニュースです。
 実は昨日に古賀誠選対委員長が石破大臣に近い意見として、補正予算成立後あたりが時期かもしれないと匂わせていたので私は自民党内で合意が出来ていると思ったのですが、今回の麻生首相の発言はそれを真っ向から否定する発言なので、どうやらそうでもないようです。

 それにしてもここまで来ると別にやることもないし本人が信条としている政策目標もないというのだから、麻生首相は本当に一日でも長く自分が総理をやっていたいという理由だけで解散を延ばしているのではないかと、あまり信じたくないのですがそう疑ってしまいます。だとしたら本当に麻生降しが自民党内で起きない限り、選挙は今年九月まで目一杯引き伸ばされてしまうかもしれません。

2009年3月1日日曜日

国会議員の世襲について

衆院選「候補者A」かく闘わんとす(日経ビジネスオンライン)

 昨日に引き続きSophieさんからのリクエストネタです。今日やるネタは私の中でもホットな話題の二世議員についてです。

 さて上記のリンクに貼った記事に書かれているように、日本の選挙はとにもかくにもお金がかかってしまいます。特に私も問題視しているのは、シャレや冗談で立候補する泡沫候補を出させないために、確か200万円の供託金を立候補に当たって選挙管理委員会に出さないといけないという選挙制度です。この200万円ですが、確かに泡沫候補を乱立させないためという理由はわかるのですが、選挙に落選した際に10%の得票率がなければ返還されずに一方的に没収されます。はっきり言いますが、何故この制度に対して司法が平等な被選挙権の侵害だと判断を下さないのか疑問に思います。

 こうした供託金制度にとどまらず、選挙活動をする上で運動員の雇用費、ポスター代などと、記事にも書かれていますが一回の選挙で数千万円の費用がかかるというのはあながち大げさな話ではありません。しかも日本の場合はお国柄か、個人からの献金が一般的ではないために立候補する候補者たちは企業からの献金に頼らざるを得ず、そのため政策面で企業の便宜を図るように動かざるを得なくなるという環境があると以前から指摘されております。そのため地位も名声もない新人議員や候補からすると、地元の支援も満足に受けられずにこうしたお金の問題から政治活動の停止に追い込まれる人も少なくありません。

 元々、日本の政治には「三つのバン」こと、「地盤、カバン、看板」がなければ選挙で戦えないと昭和期より言われてきました。カバンというのは要するにお金で、看板というのは名声で、そして最後の地盤というのは一見すると地元からの支援と見えますが、実際には世襲を表しています。
 世襲議員の場合は親族が元々その地域から選出された議員であることから地元の支援者の協力も得られやすく、また政治資金も親族から政治団体を引き継ぐ形を取れば相続税もかからずに受け取れるので、新人候補に比べると非常に有利な状態から選挙に望めます。そのせいか現在の国会議員における世襲出身の割合は非常に高く、私の陽月旦でも出身欄に「世襲」ばかりと書いていていい加減うんざりしています。

 これは田原総一朗氏の発言ですが、世襲自体がいいかどうかではなく、現実として大半の世襲議員には政治家としての能力が不足しているのは事実ゆえにどうにかするべき、というオフレコ発言がありましたが、私も同じように感じます。
 現在の選挙制度では先ほどにも述べたように非常にお金がかかるため、企業などから献金を受けづらい新人候補は政党からの支援金に頼らざるを得ません。ですが現在の政党、特に自民党では世襲ではなく外部から政治家を志して援助を願う候補者がたとえどれだけ能力があるとしても、やはり人間関係的なもので世襲の議員を応援するように動いてしまいます。そのため外部の人材は選挙に出ようとしても政党の援助もなく選挙区を割り振られないために、事実上締め出されてしまっている状況だそうです。先ほどの田原氏によると、現在民主党に所属している前原誠司議員や長妻昭議員は本音では自民党から出馬したいと願っていたものの、自民党では選挙に出してもらえないことから民主党で出馬して当選し、現在自民党を苦しめる張本人らとなっているそうで、この事実ひとつだけでも世襲では優秀な人材を国会へ送り込めないというのがわかります。

 そして現在、橋本龍太郎以降の首相はすべて世襲議員です。こういうと昔から世襲じゃなければ首相になれないと思われがちですが、実際には戦後になってから初めて世襲議員で首相に就任したのは宮沢喜一首相で、それまではどれも叩き上げの国会議員たちでした。
 そして橋本以降の首相を見ても、橋本、小泉氏はまだしもここ三代の安倍、福田、麻生の三首相に至っては途中で政権を放り出すわ失言は連発するわで、なんでこんな人たちが総理大臣になってしまうのか、日本には本当にこんな人材くらいしか残っていないのかと嘆息させられてしまいます。もっとも、世襲議員とはいえ一応は選挙で勝ち抜いては来ているのですから、そんな人材を国政に送り出す国民に一番責任があることになってしまうのですが。

 最後に、私が知っているある新人選挙候補のお話しをします。
 その人は世襲ではなく官僚出身の候補者ですが、初めて選挙に出た前回の選挙にて残念ながら落選してしまい、次の衆議院選挙にも再出馬する予定の方です。その人から直接話を聞きましたが、やはり落選した際の費用負担は大きく、また家族も奥さんが心労で入院し、子供は学校でいじめられ、おまけに公務員には失業保険なんてないからいきなり無収入になり、ほとほと選挙に懲りてもう政治家の道はあきらめようとしたそうです。
 ですがそんなことを友人に相談したらその友人より、
「自分を大事にするのならそうした方がいい。だが本当に国を思って、国のために尽くしたいというのなら絶対にあきらめるな。私は君のような能力の高い人材こそが本当に国が必要とする人材だと確信している」
 と言われ、もう一度やってみようと決心したそうです。