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2009年5月31日日曜日

罪悪感とは 後編

 前回の罪悪感についての記事の続きです。
 さて前回はまず罪悪感を人間が持つのは先天的か後天的かと触れ、仮に後天的に得られるのであれば悪事とされる行為の後の制裁に対する恐怖に近くなるが、罪悪感は制裁後も何かと気に悩んだり悔いたりする感情だからこれではちょっと違うんじゃないんじゃないかというところで話を終えました。そこで今日は罪悪感についていくつかの症例を紹介し、私の考える罪悪感の定義について解説しようと思います。

 ではその罪悪感の症例という奴ですが、エスパーみたいに察しのいい人とか文学好きな人ならもしかしたらピンと来ているかもしれませんが、あのロシアの文豪ドストエフスキーが最高傑作と呼び声の高い「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフの話です。
 ラスコーリニコフは金がないために大学を休学せざるを得なかったのですが、彼がその追い詰められた状況を打開するために考えた行動というのが、誰からも嫌われている金貸しの老婆を殺害してお金を奪うということでした。彼は誰からも嫌われている人物を殺すのだし、そうして奪ったお金で優秀な学生である自分が大学を出て世に貢献するのだから何も悪びれることはないと決心してこの計画を実行します。しかしその際、金貸しの老婆だけでなくたまたま家に戻ってきた、こちらは嫌われていなかった老婆の妹まで殺してしまいます。

 よく解説などを読むとこの無関係な妹を殺したことがラスコーリニコフの後の苦悩へとつながったという解説が多いのですが、私が読んだ印象だとそこまで妹の殺害が影響したようにはあまり思えず、それよりも老婆を含めた殺人というそれ自体の事実が、自ら計画時に正当化しているにもかかわらず、その後彼を狂人かのように延々と思い悩ませる原因だったのではないかと感じました。
 とまぁ罪と罰のあらすじはそんな感じで、周到に正当化していたにもかかわらずラスコーリニコフは殺害後に悩み、そうまでして奪った金も手元には残さず半ば投げ捨てるかのように手放してしまい、会う人すべてに猜疑心を持ってはしっちゃかめっちゃかな行動を続けます。なおそんなラスコーリニコフにかなり早い段階で犯人だと目星をつけた刑事ポルフィーリィーとのやり取りは実に内容が鋭く、この作品の最大の見せ場となっております。

 このラスコーリニコフの思い悩むシーンに良く出てくる単語の一つに、ナポレオンという言葉があります。ラスコーリニコフはナポレオンがエジプト遠征から帰国する際に自分が引き連れてきた兵隊皆を置き去りにし、帰国するやクーデターを起こして最高権力者に就いた事実を引用しては、英雄は自らがどれだけ残酷で冷徹な行為を行ってもそれを全く意に介さない、しかるに自分はあの老婆の殺害でこれほどまで苦しめられるのだから英雄のような大人物ではなかったのか、というように自問自答をします。
 当時のヨーロッパでナポレオンという存在が知識人層に与えた影響は相当強かったと思わせられるエピソードですが、私は言ってしまえばここに一般の人間が持つ罪悪感という正体が隠されていると考えています。

 それがどれだけ後につながる行為だとしても、どれだけ正当だと言いわけできるような行為だとしても、犯罪とされる殺人や盗みという行為に対して人間は本能的に拒否する感情があるのではないかと私は思います。生物学によるとどの種族も基本的には自分の属する種の繁栄を遺伝子レベルで望むため、雌の奪い合いといった特殊な状況は除き、同種間で殺害が行われると行った生物は高いストレスを覚えるそうです。人間の場合は戦争といった他の種族とは大きく異なる形で殺人を行うことはありますが、私が知る限り少なくとも同部族、同文化間で殺人や盗みを奨励した社会はなく、遺伝子的な影響によるものだとしてもこうした意識こそが人間が先天的に持つ良心ではないかと考えています。

 つまりはその生まれ持った良心の延長に反する行為、当該社会内で犯罪とされる行為に対して深いストレスや自責の念を生じさせる罪悪感というのは、後天的にその範囲や効力が強化されることはあっても、根っこのところでは先天的なものが起因しているのではないかということです。
 逆を言えば先ほどのラスコーリニコフの考えるナポレオンのように、自らの行為に対して罪悪感のような呵責を覚えない人間というのはいい意味でも、悪い意味でも手に負えないところがあるように思えます。織田信長や曹操にもこうした面がありますが、講談の中でならいざ知らず、いざ身近にこんな人物がいたら厄介なことこの上ないでしょう。

 最後に宗教的な話をしますが、私の解釈だと他の宗教に比してキリスト教はこの罪悪感を強く打ち出して信仰をしているように見えます。まず最初にアダムとイヴが天界で罪を犯したせいで彼らの子孫である人間は下界に落とされてしまったので、この世に生きている間は必死に許しを乞いて神へ贖いをしなければならないというのがキリスト教の基本的な教えなのですが、やっぱり私が見ていると何か罪悪感というものを強く持ちなさいという様に言っているように感じます。私なんか子供の頃は今でこそ素で引くような滅茶苦茶なことばっかしていて、このキリスト教の教えに触れた際に一時は猛烈に罪悪感を感じて強く惹き込まれた経験があります。今ではキリスト教に対して強い敬意を抱くのに変わりはありませんがちょっと違うなぁと思うところも出てきて距離を置いていますが、そういった下地があるからこそこの罪悪感について強く思うところがあるのかもしれません。

2009年5月30日土曜日

私が尊敬する安藤百福氏について

 恐らく私と同世代の方にはあまりなじみがないかもしれませんが、数ある経営者の中で私が特に尊敬する人物として日清食品創業者の安藤百福(ももふく)氏がおります。安藤氏が一体どんな人物かというと、あの日清食品の創業者とあるのと同時に世界初のインスタントラーメンこと、「チキンラーメン」の発明者でもある人物であります。
 このチキンラーメンを初めとした即席麺は現在世界中のどこに行っても手に入れられるほどで、その利便性と味の多様さから日本だけでなく各国の人間に受け入れられています。特に麺食の多い中国のスーパーに行けばびっくりするくらいの多種類のカップ麺が並んでおり、その浸透振りにはさすがは中国と私も思ったほどでした。なお、日本式という名目で売られていたカップ麺はとんこつ味でした。

 それで安藤氏の経歴ですが、この方は戦前に日本統治下の台湾の生まれですが戦後も日本国内に留まって繊維業などといった事業を経営していたところ、ある日ひょんなことで事業がすってんてんになって自宅以外の財産すべてを没収される羽目となりました。その時すでに安藤氏は47歳で、普通ならこの年でこんな目に遭えば再起を期すなんて考える人はあまりいないと思うのですが、安藤氏はこの時から自宅の庭にあった小屋にて日夜即席麺の開発へと取り掛かったのです。

 そこでの実験と研究の試行錯誤の日々の末に、安藤氏はゆで上がった麺を一旦油で揚げる事により、お湯をかけるだけで元のゆで上がり時の麺に戻すせることを発見しました。このエピソードからもわかるとおりに、今これほどまでに一般化しているインスタントラーメンの技術は事実上、安藤氏一人によって発明されたものだったのです。
 安藤氏はこの発明を武器に再び事業を起こし、瞬く間にインスタントラーメンを日本で普及させて会社を大きくさせると、ラーメン文化がなかったためにどんぶりのないアメリカへ如何に進出するかと考え、紙コップに麺を入れてお湯をかけさせることをヒントにカップヌードルを誕生させるに至ったのです。

 私がこの安藤氏を何故尊敬するかといったら、やはり見事再起を果たした点に尽きます。しかもその再起のきっかけが自らの努力によって発明したインスタントラーメンで、その後もカップヌードルの発売や工場の製造ラインの工夫時のエピソードなど常に努力や知見を怠らず、年をとっても衰えを見せないその探究心と行動力には感嘆させられます。そして今、これだけインスタントラーメンが世界に普及しているのを見るにつけその影響力の大きさには一個人として深く頭が下がります。実際に2007年に安藤氏が死去した際には、海外の新聞でもその訃報を記事にした新聞が出たほどだったそうです

 そうした背景もあって、実は二年前に大阪府池田市にあるインスタントラーメン博物館に親父を引き連れて行ってきたことがあります。企業の博物館は大抵どこ行ってもそれなりに面白いのですが、この博物館では安藤氏が発明を行った小屋が再現されてたり、どのように販売が展開されたのかや、今どんな種類のインスタントラーメンがあるのかなどが展示されていて非常に面白い博物館で、機会があれば是非もう一度行ってみたいほどです。

 この博物館内ではどこかの海外の記事を引用して、インスタントラーメンが零戦やウォークマンを抑えて最も偉大な日本の発明だと書いてくれたというパネルが展示していましたが、実際にこれだけの普及度を見ると私もそんな気がします。特に麺食文化の強い中国では絶大でしたし、そうでない欧米にもこれだけ広めた点を考慮すると真に偉大な発明でしょう。
 私がこの博物館を訪れた時はまだ安藤氏が亡くなってから数ヶ月しか経っておらず、それだけになにか強い感傷を覚えながら展示物を見ていました。館内のシアターコーナーで発明の過程を説明する映像があるのですが、その最後に安藤の言葉として、常に発明や工夫への意欲を持ち続けるのだという内容の言葉が音声として流れた際、何かしんみりすると共に熱い思いが込みあがってきたのをまだはっきりと覚えております。

2009年5月29日金曜日

罪悪感とは 前編

 社会学でよく取り上げられる議論の一つに、「一体何が人の行動を規制するのか」というものがあります。これは言うなれば、「人間はやってはいけないといわれる行為を何故行わず、また何故それをやってはいけないと考えるのか」、という命題で、屁理屈好きの社会学連中にはたまらないのかあれやこれやと私も友人らと議論したことがあります。

 いくつか例を出すと、日本人にわかりやすい例としてルース・ベネディクトというアメリカ人が戦後直後の日本人を分析した著書の「菊と刀」にて、
「日本人は恥の文化である。我々欧米人が宗教的道徳によって秩序を維持するのに対して、日本人は周囲や世間の目を気にすることで自らの行為を規制する」
 と、日本人の行為規制の基準は世間体だと、アメリカ人以上に日本人の方が余計に納得してしまった分析を行っております。
 なおこのルースの分析をもう少し解説すると、欧米人は一般的にはキリスト教の教えを土台にして、自分の行動が自分が考える神に対して叶っているかどうかを判断することで秩序というか、やってはならない反社会的な行為を規制するという前提があります。これが本当かどうかはわかりませんが、欧米人が自己の中の神を気にするのに対して日本人は世間体を気にするというのは個人主義か集団主義かというような議論にもつながってくるので、基本前提として使うのならばなかなか使い勝手のいい考え方です。

 ここで今日の私のネタですが、最近ふとしたことからまた行為規制にについて色々考えていたら、ひょっとしたら罪悪感というのが人間の行為を規制する上で非常に重要なんじゃないかと思いつきました。先ほどのルースの議論でも、突き詰めて言えばこの罪悪感が影響するからこそ行為が規制されていくのではないかと考えたのです。
 そこで今日はちょっと、そもそも罪悪感とは一体なんなのかということを軸に話を進めて行こうと思います。

 まず単純に罪悪感とはなんなのかですが、簡単に言ってしまえば意図せずにお皿とかを割ってしまった際に「やってもうたΣ (゚Д゚;)」と思うような感情のことです。多分正常な人間なら誰しもが持っているであろう感情ですが、私が最初に疑問に思ったのはこれが先天的に人間が備えている感情なのか、それとも後天的に訓練されて得る感情なのかどうかです。
 なので早速何人かの友人に罪悪感は先天的か後天的かと聞きまわってみましたが、ほぼ全員が即答で後天的だと回答しました。というのも幼児の段階ではやっていいことと悪いことの区別が付かず、呵責なく物を壊したり入ってはいけない所にも行ってしまうが、年齢が進むと、「悪いことやってるんじゃないかな(´Д`)」と思うようになってそういった行為が減っていくから、というような説明が大半でした。

 もちろん私だって子供の頃はよくあんなことを平気でしたもんだと思えるような経験があり、この説明にも納得できないわけじゃないのですが、攻殻機動隊風に言うのなら「私のゴーストが囁くのよ」という具合になんかこれだとしっくりこず、本当に後天的なのかどうか私なりにあれこれ考えてみました。
 まず仮に後天的だとすれば、どのようにして罪悪感が訓練されていくのかを考えました。真っ先に浮かんできたのは動物のしつけではありませんが、悪事とされる行為の後の制裁です。それこそ子供であれば悪戯をした後に拳骨やケツ叩きを受けることによって徐々に悪いことをしたら制裁があるということを理解していき、成人になる頃には直接的に経験してはいない犯罪行為に対してすらも行為後には刑罰という制裁が待っている事が予想できるようになって、そうした世間なり自分なりが反社会的だと思う行為を行わなくなると考えられるでしょう。この説明だと行為後の制裁が罪悪感を育て、なおかつ制裁それ自体の恐怖感を罪悪感と言い換えることが出来ます。

 仮にもしこれで行為前にのみ罪悪感を覚えるのなら私も素直に納得しますが、多分私だけじゃなく、人間は行為後、それも制裁が済んだ後にも深い罪悪感を持ち続けることがあると思います。それこそふとしたことで数年前にやってしまった自らの大失敗を思い出したり他人に掘り返されたりすると、なんとも言えない気持ちになってしまいます。また過去にしでかしてしまった行為をいつまでも後悔し、現在の生活にまで影響を及ばせてしまうというストーリーは昔から今に至るまで王道とされて様々な文物で描かれるほどです。表現的には、罪悪感にさい悩まされるといったところでしょうか。

 単純に罪悪感が行為直後に覚える制裁に対する恐怖であれば、制裁が済んだ後や一定の時間の経過後も影響するというのではちょっと違うもののように思えます。もちろん罪悪感それ自体が制裁に対する恐怖ではなくとも制裁という訓練を経て身につけるもので、後々にまで二度とそのような行為を起こさせまいと喚起させる感情だと解釈することも出来ます。ただもうすこし色々掘り下げていけば他にもなにか色々見つかりそうなので、続きはまた次回にて私の考えや参考になる症例を紹介します。

 なお先に結論というか私の考えを言っておくと、多分私がロマンチストであるがゆえにやっぱり罪悪感というのは、全部が全部そうだとは言いませんが人間が生まれた頃から持っている先天的な要素もあるんじゃないかと考えています。

2009年5月28日木曜日

企業の栄枯盛衰について

 あまり日本では大きく報道されていませんが、アメリカの方ではこの前クライスラーが破産申請に至ったのに続き、ビッグスリーのもう一角のGMもまたそういった流れになっていくことが段々と確実視されてきました。当初は投資家や銀行の債務を一部帳消しした上での再建を目指してきていたのですが、結局CDSでの保証を得た方が取り分は大きいと見た投資家らが合意しなかったことが今回の流れを強めたといわれています。
 もっとも投資家らの言い分の中には、「自分たちには債務を一部放棄せよといいながら、労組には何の手をつけていない」、といものもあり、私自身もこの点を考えると一概に投資家だけを非難するのは不適当に思えます。

 というのもGMの労働組合員への対策はあまりにも度が過ぎているというべきか、従業員へのあまりの厚待遇が経営を圧迫したということに理解できるからです。一昨日もNHKこの点が報道されていましたが、55歳でGMを退職したあるアメリカ人男性は、その後十年も経った現在に至るまでGMから毎月日本円にして約20万円もの年金をもらい続けているそうです。彼はこうした厚待遇が従業員のやる気を引き出しているのだといいますが、それだけの額を毎月、いくら元従業員だからといって働いてもいない人間に払い続けるのは如何なものかと呆れさせられましたし、そんな出費をしておいて今更経営が悪くなったから投資金を放棄してくれというのも確かに納得できる話ではありません。
 今回の破産申請に至った経緯に、こうした元従業員や現在の従業員に対するあまりの厚待遇を一部削減することが視野に入れられて議論されていたものの、GMの労組が一切妥協しなかったことも影響したと言われています。

 しかしこうした事実はあながち対岸の火ではないんじゃないかと私は思います。私が知っている例だと朝日新聞社がこれに似ており、なんでも朝日新聞社の元従業員は国からの年金に加えて朝日新聞社からも退職後に毎月年金が振り込まれ、しかもその奥さんの分まで支払われているというのですからさすがは天下の朝日と言ったところでしょうか。
 その朝日も前期の決算では赤字を出し、また今後人口が減るばかりか新聞の購読者数の現象も歯止めがかかっておらず、もしかしたら十年後にはGMの労組のことを書いている場合じゃなくなるかもしれません。

 おごれるもの久しからずとは言いますが、今の時代にトップクラスの企業が十年後はどうなっているかは全くわからず、バブル期にあれだけ強かった不動産や鉄道関係も今ではどこも苦しい経営を迫られており、ありきたりな言葉ですが大企業に入ればもう安心というのは甘い考えだと言わざるを得ません。
 なんか今日はやる気が湧かないので、この辺で終えます。

2009年5月27日水曜日

がっかりしたゲームの続編(-_- )

 今日は久々にゲームの話です。
 さてファミコンの誕生から既に三十年近く経っており、いわゆるシリーズ物と言われるような連続作のゲームもこれまでにもたくさん生まれてきています。しかしそうしたシリーズ物は毎回ヒットを飛ばすようなドラゴンクエストシリーズのようなゴールデンタイトルもある一方、前作が高く評価されたにもかかわらず次回作はめっきり売れなかったり、その後のシリーズが打ち止めになるほど散々な結果に終わった続編もたくさんありました。今日はそんな中、実際に私がやってみてがっかりしたゲームの続編を一部紹介しようと思います。

1、パラサイト・イヴ2(スクウェア)
 今日の記事を書くきっかけになったソフトです。前作「パラサイト・イヴ」はスクウェアが文字通り全盛期の頃に発売されたこともあって非常に好調な売り上げを残し、ゲーム内容も当時としては最高峰なまでに美麗なCGに加え、瀬名秀明氏の「パラサイト・イヴ」を原型にしたいい具合のストーリーが展開されており、主人公のアヤ・ブレア(巨乳)が病気なんじゃないかと思うくらい足が遅かったのを除けば完成度の高いゲームでした。
 しかし次回作に当たるこの「パラサイト・イヴ2」は前作からゲームシステムが根本的に改められ、アクションRPGとはいえRPGの要素が強かった前作に対し、今作は今で言うならFPSこと完全なアクションゲームになっていてもはやゲームとしては別物と言っていいほどでした。その上、荒削りとはいえ色々と深く掘り下げらる要素の多かった前作のシナリオと今作は関係性が非常に薄く、主人公が同じアヤ・ブレアであるのと、申し訳程度に「前田弾」が出てくるくらいしかつながりがなく、そうまでして新しく作ったシナリオは言っちゃ悪いですがB級ホラー映画程度のくだらない内容で、黒幕はよくあるアメリカ大統領で終わっちゃったし。
 なんか今度PSPでこれの続編を出すそうですが、さすがにこれだけ期間が空いてりゃリメイクでもない限り続編もクソもないでしょう。第一作目は私ものめりこんだ分、非常に不遇なシリーズだったと思うだけに、2であれだけひっくりかえすなら初めから別シリーズのゲームとして出しとけばよかったのに。

2、ファイナルファンタジー8(スクウェア)
 多分、ゲームシリーズにおける駄作と来たらどこで票をとってもこれが出てくるでしょう。ドラクエシリーズと並ぶゲーム界の金字塔のファイナルファンタジーシリーズの一つで、前作の7はサターンとプレイステーションのハード争いに決着をつけた、いわば関が原における小早川秀秋のような役割を演じたのを考えると、なんかその後の運命も同じようになったような今作でした。
 細かい点はいちいち挙げませんが、何故今作がここまで低い評価に至ったのはユーザーニーズの履き違えにあったからではないかと思います。自分を含めた当時の小中高生であったユーザーたちはRPGに対して洗練されたストーリーを求めていたのに対し、当時のスクウェアはひたすらにCGをきれいに作ることに執心し、挙句にはRPGに求められるものとして根本的なレベル上げの概念を引っくり返した(今作は一切上げる必要がない)のが失敗の原因だと思います。これは上の「パラサイト・イヴ2」にも言える事です。

3、信長の野望将星録(光栄)
 これは私と友人くらいかもしれませんが、この「信長の野望シリーズ」で最も裏切られたと思ったのがこの「将星録」でした。私はこれの二作前の「覇王伝」からプレイし、その次の「天翔期」は今でもやるくらい大いにハマり、この「将星録」もそういった流れでやってみたのですが、システムが前二作と打って変わってそれまで国単位だったマップがボーダレス化し、内政とかコマンド内容が全然変わっていて結局なじめないまま遊ばなくなり、その後信長の野望シリーズから手を引く一作となってしまいました。
 これは光栄以外の歴史シュミレーションゲームにも言えることですが、私はあくまでもゲームなのだから、あまりにも現実や原作、歴史に忠実すぎるとかえってこの手のものはつまらなくなると思います。たとえばリアルタイム制の歴史シュミレーションもやったことがありますが、やっぱりやった感じだとターン制の方が面白かった気がします。まぁそのターン制の盲点を突いて延々と敵を挑発し続けて時間切れにし、追い返したりしたのには目をつぶってほしいけど。

4、真・三国無双3(KOEI)
 これについては前にも言及しましたが、前作の2があまりにも完成しすぎたが故の失敗作でしょう。言ってしまえば前作の段階でこのシリーズは完成してしまい、システム的にはもういじらない方が良かったにもかかわらず新作ということでいろいろ取ってつけたのですが、私の目からしてどれも余計な蛇足にしかなっていなかったように思えます。実際に今作の次回作に当たる4では、3で新たに追加された「一騎打ち」、「武器経験値制」、「ライバル武将」といったシステムがどれも全く余燼を残さずなくなっていたので、相当数のユーザーが不満を持って非難が来ていたのだと思います。ついでに言うと、必死で後戻りをしようとした4もゲームバランスをやや欠いており、2の方がまだ楽しめた気がします。

5、グローランサー2(アトラス)
 なんか最近、これの前作の「グローランサー」がPS2でリメイクされたそうですが、前作は文句なしに名作で、セーブ時期がわからなくなるほど隙間ないほどイベントが連続していながらもゲームバランスを崩しておらず、キャラデザは人を選ぶもののシナリオもいい内容でした。しかしこれが2になると、確かに世界観やキャラクターは前作を引き継いでいて、ゲームシステムも改変があるもののきちんと受け継ぐべきところは受け継いでいるのですが、いかんせんシナリオがくだらなかった上にプレイ時間が短過ぎ、大体10時間もあればクリアできてしまう内容ゆえに私も「金返せ」と思うほどでした。もっとも、この2のすぐ後に出た3では2の問題点をほぼすべて改良しており、シナリオも2とはつながりがないものの、今時これほど王道のRPGがあっただろうかと思わせるほどポイントを外していない名作なので、やったことのない人には是非お勧めです。私の友人なんか、寝ずに遊んだほどだったし。

6、真・女神転生2(アトラス)
 ただでさえゲームバランスが明らかにおかしい女神転生シリーズですが、今作はその中でも際立って崩れたシステムの上に、プレイ途中でゲームが止まってしまうバグが非常に多い問題作でした。こうしたクセの強さがこのシリーズの熱狂的なファンを生んでいるのはわかるものの、そうした熱狂的なファンを作る一方で圧倒的大多数のライトユーザーも振りこぼしているのではないかと常々私は思っていたのですが、他のシリーズ作と比べてややマイルドな出来で出した「ペルソナ3」がヒットしたのを見ると、やっぱりそうだったんじゃないかなぁと思います。

7、ペルソナ2 罪&罰(アトラス)
 アトラスが三つも並んでしまいましたが、私個人的には今までに一番裏切られたと思う続編というのがこのペルソナ2でした。この前リメイクされた前作の「女神異聞録ペルソナ」はいつもどおりにゲームバランスは明らかにとち狂っていたものの、秀逸なシナリオに悪魔との交渉システムは非常に面白く、次回作の今作が出た時は我先にと購入しましたが、内容は私からするとひどい出来でした。
 まず前作でよかった悪魔との交渉システムですが、前作がパーティキャラの中から一人選んで交渉するのに対して今作は中には二人、三人といった掛け合いの交渉もすることが出来て選択の幅が広がったかと思いきや、私的にはただ面倒くささが増しただけでした。更に悪魔の合体システムも変わったので前作より明らかに悪魔と交渉する回数が増えただけでなく、ザコ敵との戦闘時間も前も長かったがまた長くなり、その一方で途中にいるボスがなかなか強いもんだからレベル上げの必要が高まるなどまさに負の連鎖でした。

 そして明らかにとち狂ったゲームバランスながらそれを忘れさせるほどの秀逸なシナリオだった前作に対し、今作のシナリオはなんかどうでもいいような、やってて疲れるようなシナリオでした。しかもこのゲーム、タイトルに書いてあるように「罪」と「罰」の二本立てで、同じシステム、同じキャラ、同じ世界観で、一つのシナリオが連続こそしているもののわざわざ二つに分けた理由がわからないほどくだらないシナリオでした。さらに今作が大いに売りにしていてゲームのシナリオにも密接に関わってくる、流した噂が現実になる「噂システム」も、なんというか武器屋の売り物が変わるくらいでそれほど流す噂に選択肢がなく、ただ聞いた噂を右から左に流すだけのどうでもいいシステムでした。もっと噂によってはシナリオが大きく分岐するくらいだったら評価できたのですが。

 さらにひどかったのがキャスティングで、主人公はこのシリーズの伝統とも言うべきクール形の高校生の男の子(美形)なのですが声優はなんと子安武人氏で、別に子安氏が悪いわけじゃないのですがあまりにも渋すぎる声と見た目のギャップで、「お前、絶対高校生じゃないだろ」と突っ込まざるを得ない妙なキャスティングでした。そしてそんな主人公の見た目も、それまでどことなくエキゾチックで深みのあるイラストでアトラスの看板イラストレーターだった金子一馬氏ですが、どうもこの頃から作風が変わり、うちの姉曰く、「なんかペンキでベタ塗りしたかのような色合い」とまで言われるほど変わってしまい、私としてもあまり評価できなくなっていました。
 悪魔の絵ならともかく、もうこ金子氏はキャラクターの原画は向かないんじゃないかとこのペルソナ2で思う一方、メインキャラクターはともかくサブキャラクターらは妙に写実的で個性も強く、ぐっと引き込まれる絵だったのでたまたま一部のキャラだけこうなったのかと考えていたのですが、後で調べてみるとメインキャラだけを金子氏が、サブキャラクターを副島成記氏が描いていたのだと後でわかり、次回作のペルソナ3ではキャラ原画をすべて副島氏が担当したということを聞いて大いに納得しました。

 なんか、予想したよりえらい長くなってしまったな……。

2009年5月26日火曜日

何を目安に投票すればいいのか

 次の衆議院選は長くともこれから四ヶ月の間に行われるということもあり、このところあちらこちらで各政党の候補者らが街頭に立って選挙演説を行っているのをよく見ます。さてこの次の選挙ですがわざわざここで私が言わなくとも、参議院では既に与党が過半数を確保していない背景もあって民主党が強く主張しているように政権交代の可能性を含んでおり、時期が時期だけに今後の日本を占う上でも重要な選挙となる公算が高いといわれています。

 そうした背景を持っていることから私の周りでは早くも、次の選挙では小沢元代表や鳩山現代表は好きではないものの必ず民主党に投票するという知り合いが数多くいます。私としても少なくとも今の麻生政権が続くことだけは避けたいので民主党に入れるものかと考えはするのですが、かといって地元の民主党の候補が一体どんな経歴を持った人物でどんな政策をもっているのか、それどころか現在の民主党が掲げている路線に果たして本心から協力的なのか、全く知らないわけじゃありませんがさすがに集会に出たりして取材をしているわけじゃないので断言することが出来ません。

 ここで今日の問題提起ですが、そうした全体の流れから民主党を応援するといっても地元の民主党の候補が過去に問題のある発言や行動、果てには能力的にも疑われるような候補だった場合、果たして民主党を応援するためといってもその候補に投票をしてもよいのでしょうか。またそのような問題がありそうな候補の対抗馬が自民党の候補といっても、非常に優秀で将来的にも人材であるとしたら、いくら政権交代を一度実現させるためとはいえむざむざ落選させてもよいのでしょうか。
 ここまで言えばわかると思いますが、有権者は選挙において候補者自身の能力や人柄を目安に投票をするべきなのか、それともその候補が所属している政党が掲げている政策を目安に投票するべきなのか、この点について自分の意見を今日は述べようと思います。

 まず現在の日本の選挙制度である小選挙区比例代表並立制では、はからずもこの二つの思惑を同時に実現することが出来ます。たとえば小選挙区投票では政治家としてみた場合に優秀だと思う候補に、比例区投票では政策に賛同する政党にとそれぞれの投票し、自分の意志を十分に投票に乗せることは出来ます。そういう意味で私は現在の選挙制度はなかなか良く出来てると思うのですが、こうした投票が出来ない地方自治体選挙ではじゃあどうなるのかということで、こっちの制度で話を進めていきます。

 仮に政党を目安にして候補者の人柄などを無視し投票して当選させた場合、確かにその後の政局ではその政党が政策を実現できる力は強まりますが、記者会見で酩酊振りをみせるなど今の麻生内閣のようになんでこんな人が大臣になれるのかという疑わしい人物を送り込んでしまう可能性があります。逆に政治家の人柄で投票したところで、賛同する政党と一致していればともかく異なっていれば自分の願うように政治が動いてくれないばかりか逆に歯止めをかけてしまうことになりかねません。

 なんでこんな問題提起をわざわざここでするのかですが、まだ組織票が強かった90年代の選挙において私は国民全体が自民党に問題があるとは思いつつも、利権やら地元のしがらみといった昔からの関係でなんとはなしに大して実力もない自民党の候補、それも今問題となりつつある世襲の議員なども受からせてしまい、政治が延々と低迷をし続けてあの失われた十年を作ってしまったと考えているからです。確かにこうした経緯を鑑みると個人としての資質は二の次にして政策や政党で投票をするべきかとは思うのですが、そうして賛同する政党の候補を受からせたところでその後その政党が政策を堅持するかは未知数であり、今の自民党のように小泉政権時の政策をまさに根本から引っくり返してしまうと後にはただ9.11選挙の流れで、たまたまと言ってはすこしかわいそうですが、流れで受かってしまったちょっと実力が未知数な議員しか残らなくなってしまいます。

 政治家にとって落選は即、死を意味しており、たとえ一回の落選でもその後に立ち直って再度出馬するには今の日本では相当な苦労が必要となります。地元に優秀な候補がいるとはいえ政策の路線上で対立候補に鞍替えして投票し当選させた場合、その後また前に応援していた優秀な候補に舞い戻ってもらおうと思ってもそうはなかなか行きません。

 あまり考えをまとめていないので今日はやや崩れた構成の記事になっておりますが、結論から言えば政治家を資質で選ぶか政策で選ぶか、これはどっちが絶対的に正しいというのはないと私は思っています。選挙の質や時期、内容によって判断基準の比重は大きく変わりますし、またこうしたことはそれぞれ個人が決めることであって、法則のように「長期的には絶対こっちが正しい」と言うべき内容ではないと思います。とはいえ、どんな目安が重要になるのかを考えるためにこうした議論があった方がいいのではないかと思い、本日記事にまとめてみたわけです。

 なおこの話題を友人に相談したところ、少なくとも次の選挙は政党の政策で選ぶべき選挙だと言われました。私はどうかですが、折角比例代表並立制なんだし、それに合わせて投票しようと思います。

2009年5月25日月曜日

科目としての、中国の歴史教育

 昨日は延々とペルソナ3をやっててまたブログをサボってしまいました。そういうわけだから今日はきちんと書こうと思っていたら先ほどものすごい頭痛に襲われ、さっきまで寝込んでて今日も無理かと思ってましたが、さすがに二日も休むのはなんなので頑張って更新します。それにしてもこのところ、頭痛がどんどん激しくなってきています。何か霊に取り憑かれたのかな。

 実は先日土曜日に、前の記事でも書きましたが上海人の友人と親父を引き連れて筑波山にハイキングに行ってきました。筑波山へのハイキングについては前のつくばエキスプレスの割引チケットに関する記事で散々批判をしましたが、蓋を開けたら私はともかく友人と親父がへとへとになって、結局帰りは徒歩ではなくケーブルカーで下山することになりました。まぁ楽しかったのは間違いないけど。
 その筑波山からうちへの親父が運転する車での帰路、上海人と中国の歴史教育について簡単に話をしました。この時が彼とこの話題について初めて話をしたわけではなかったのですが、今回別の中国人の知り合いから聞いていた話と見事に一致したので、裏が取れたという意味でちょっと紹介しようと思います。

 まずは当たり前の話ですが、やっぱり私も連載で解説した文化大革命と天安門事件についてはほとんど教えてもらっておらず、日本に来てから両方の事件について概要を知ったそうです。特に天安門事件については、日本風に言うなら過激派の学生が暴動を起こしたというように教えられていたそうで、もうあの事件から二十年近く経とうとしていますが、大袈裟でなくともこの事件について知っている中国人はこのまま行けばほとんどいなくなってしまうかもしれません。

 そういうわけで基本、中国の歴史教育というのは戦後の現代史はあまり教えられないという背景から、日中戦争後の国共内戦の辺りで一区切りがつけられ、その後の現代史は曖昧な感じでほとんど教えられないというそうです。
 ここで今日の本題に移りますが、よく一部の日本の人なんかは中国は歪んだ教育をして日本への憎悪を強めさせているなどと言う方がおりますが、以前はともかく現在において私はそういった面はほとんどないのではないかと思います。それは何も現代史があまり教えられからというだけでなく、中国において「歴史」という科目が非常に低い扱いになっているからです。

 その上海人に限らずこれは私が知り合った中国人みんなが口を揃えて言う言葉ですが、「歴史」という科目を真剣に勉強する中国人などほとんどいないそうです。というのも中国の大学受験では「国語」、「数学」、「英語」の主要三科目の配点が非常に高い上に、学部として権威が高いのは理系学部であって、文系学部などではあまり社会でも相手にされないほどらしいのです。日本人なんかでは想像しづらいのですが、中国の大卒の政治家や会社経営者は基本的に理系出身者で、私が逆に日本はみんな文系出身だと言ったらそれでどうやって世の中回していけるのと、おおいに驚かれたことがあります。聞いた感じだと、中国で文系学部に進むということは趣味の世界に入るのと同じような感じじゃないかと思います。

 そんなわけで主要三科目でもない上にあまり相手にされない文系の科目である「歴史」というのは、受験時に役に立たないということから以前から中国の中高生で熱心に勉強する子はどんどん少なくなっているそうです。こうした話を聞いた中国人との会話で私が岳飛の扱いは現在どうかと聞いたら、「君は中国人より中国史に詳しいよ」とまで言われました。なおこの岳飛ですが、荊軻司馬光らと並んで時の中国の政権によって評価が変わりやすい人物の典型です。

 今回一緒に筑波山に行った上海人などはまさにこの典型で、自国の歴史にあまり関心を持っておらず恐らく通史で言えば私の方が詳しい気がします。これはその友人の言ですが、よく日本の右翼は中国の歴史教育は反日色が強いというが、そもそも歴史を真面目に聞く中国人の若者はほとんどいないとのことで、私も何人も中国人から話を聞いている限りそんな印象を受けます。
 逆に現代の中国人は漢文が読めないのに対して、書き下し文で読んでしまう日本人の方が中国史の勉強に熱心な国民なのかもしれません。

2009年5月23日土曜日

週刊新潮誤報記事掲載紙の返金について

弁護士「誤報雑誌に価値なし」 新潮社、読者に返金応じる(YAHOOニュース)

 本当は昨日に書くべきだったこの記事ですが、詳しくはリンク先を見てもらえばわかる通りに、私も以前に散々にこのブログで取り上げた「朝日新聞阪神支局襲撃事件」こと、通称「赤報隊事件」について実行犯の手記と称した誤報記事を載せた週刊新潮がなんと、「あからさまに誤報記事だったのだから金返せ」と言って、連載記事が掲載された雑誌二冊とその購入レシートを新潮社へ送りつけた弁護士に二冊分の金額を返金したそうです。

 まぁ私の正直な感想とすれば金を返せと言う方も言う方だなと思うのですが、実はもしかしたらこんな話になってくるんじゃないかと考え、さすがにレシートまでは取ってはいないものの私も連載記事が載っている雑誌は今も取ってありました。もちろんこれをすぐに送りつけて返せとケチ臭いことを言うつもりは毛頭ありませんが、記事中でも新潮社側の担当者が「誤った対応をしてしまった」と述べていますが、この返金の事実は私も非常に呆れた対応だと言わざるを得ません。

 今回の新潮の誤報記事は明らかに意図的なもので非常に悪意の含まれた記事でしたが、だからといってもし今回のように「誤報を載せた」という事実で返金するのであれば、今後故意に載せたわけではなく結果的に誤報となった記事でも返金せよというようになってしまいますし、どうもこの記事に書かれている弁護士の言い分はそうしろというように見えてしまいます。
 もちろん虚偽の事実を記事に載せるのはあってはならないことですが、だからといって揚げ足取りとばかりにいちいち数百円程度のお金を返金しろと騒ぐのもなんですし、それによって起こるであろう混乱を考えると今回の新潮社の対応は非常に悪しき慣例を作りかねないうかつなものだったでしょう。

2009年5月21日木曜日

私の好きなゲームBGM

 ちょっと今日は時間がないので私が評価するゲームのBGMをいくつか紹介しようと思います。あまり注目されないジャンルですが、歌声なしで如何にゲーム内の雰囲気を伝えるかという目的の元で作られており、中には何度聞いても飽きないほど作りこまれた曲もゲームBGMには少なくないと思います。

1、天地創造(エニックス)
 このゲームはやったことがある人ならわかりますが世界を創造していくというストーリーのアクションゲームで、BGMもどことなくクラッシック的な重厚感を思わせるものが多かった気がします。なおこのゲームとBGMには当時小学生だった私は非常にのめりこみ、わざわざサウンドトラックを購入するに至るほどでした。

2、ロマンシングサガシリーズ(スクウェア)
 今でもYoutubeでよく聞いてしまうほどの名曲の数々で、このシリーズに触れたことから伊藤賢治氏のファンになったほどでした。私の一番のお勧めはロマンシングサガ3の四魔貴族戦(二回目)です。次点として、ロマサガ2のメインテーマも挙げておきます。

3、ラングリッサー4(メサイア)
 多分やったことのある人はほとんどいないであろうやや上級者向けの戦争シュミレーションゲームですが、このシリーズはどれも音楽がよく作りこまれていて、特にシリーズ中でも屈指の難易度を誇ったこの4をクリアした際のエンディング曲はBGMのみながら非常に感動しました。

4、ドラゴンボールZ 超サイヤ伝説(バンダイ)
 クソゲーの宝庫といわれるバンダイのゲームの中としてはまだマシな部類のこのゲームでしたが(それでもバグが多かったけど)、今でも折に触れて思い出すのは最終ボスのフリーザ戦の曲です。はっきり言ってこの戦闘はゴクウを超サイヤ人にすればまず負けないイベント戦みたいな内容なのですが、リズム感と臨場感にとんだBGMと、負けはしないけどなかなか死なないフリーザのしぶとさもあって延々と聞く羽目になったので、今でも時たま懐かしく思う曲です。

5、ドラゴンクエスト5(エニックス)
 ドラクエシリーズはたくさんありますが、私がちょうど小学校低学年の頃に出たこの5がやはり一番思い出深いシリーズです。このゲームで使われている曲はどれも素敵なのですが、一番好きだったのはザコ敵との先頭曲で、なんともいえないあの小気味良さが当時の私の感性をしびれさせました。

6、機動戦士Zガンダム PS版(バンダイ)
 Zガンダムのゲームはたくさんあるのですが、私が特に気に入っていたのはこのPS版の、グリプス戦記中のカミーユとシャアの戦闘をなぞるアクションゲームでした。バンダイにしては非常に作りが良くてアクションゲームとしてもこれは文句なしに高く評価できるゲームなのですが、わざわざこのゲームのために新たにアニメーションも作られており、特に最後のシロッコ、ハマーン、シャアが言いあいをする中でカミーユが割って入り、最後のシロッコ戦へと至る過程のBGMが今でも思い出すだけで鳥肌が立つほどのいい出来でした。
 どうでもいいけど、Zのセリフはどれも応用があって使いやすいのですが、その中でも屈指の名言と私が思っているのが以下のセリフです。

「アッシマーがーっ!」

2009年5月20日水曜日

世の中みんなが社長になったら

 これまた大分前、時間にすると六年も前の話になりますが、ある日友人から前にNHKがやっていた「真剣10代しゃべり場」という番組内でのある討論の話を紹介されました。この番組自体は私は一回も見たことはないのですが、何でも高校生くらいの子達が番組内で集まってテーマごとに忌憚なく意見を言い合う番組だったらしく、その内容に賛否両論が分かれたものの当時はそれなりに話題になった番組らしいのですが、ある回にて一人の高校生の男の子が、

世の中みんなが社長になればいいんじゃないの?」

 という意見を提案したそうです。

 この男の子の意図することには、みんな雇われて上司からがみがみ言われてストレスを溜めながら働くくらいならいっそみんなが社長になってそれぞれバラバラに、自由に仕事をやった方が効率的なんじゃないのという、なんていうか男なら小学生の頃に一度は考えるであろう提案をこの番組でぶちまけたそうです。その結果は案の定というか、他の出演者からボロクソに「世の中そんなに甘くない」とか「うまくいくわけないだろ」とばかりに散々批判され、提案者の子は最後はパンチドランカー状態になったかのように元気をなくしていたそうです。

 この話を紹介してくれた友人は話し終えた後、私に男の子のその提案をどう思うかと聞いたのですが私はというと、「確かに甘い考えといえば甘い考えではあるが、非常に前向きで明るい意見だと思うし、その子の心意気は素晴らしいと思うよ」と答えたところ、友人もそう思うと同調しました。

 確かに社長、というよりは一事業主としてやっていくことは日本に限らずどの国でも大変なことですが、皆が皆それこそ一つの会社の社長のように個人として責任を抱える一方で、自分で自由に裁量できる範囲が今より拡大できればそこそこ世の中面白くなるんじゃないかと個人的に思います。戦後の日本はそれこそ可能な限り横並びであることが重要視されてきましたが、別に法律で決められているわけでもないのに大卒の初任給がどこも20万円±1万円で画一化されているのはやっぱりやり過ぎなんじゃないかなと思ったりします。

 特に私の世代なんかは「個性を強く持て!>(゚Д゚ )」と散々言われてきて育ってきた世代でもあるので、近頃の若者を見ているとなんでもかんでも横並びであるよりは、個人ごとに多少のアレンジがあった方が仕事については働きやすいんじゃないかと思います。まぁ横並びから大きく外れたら、それはそれで不安にかんじる世代でもあるんだけど。

 ここで最初の「みんなが社長になればいい」という意見ですが、さすがにみんな社長になれとまでは言いませんが、私はみんな揃って出勤し、みんな揃って休みを取って、みんな揃って同じ給料の現状に対して、正社員でも個人ごとにいくらか応用の利く様な働き方にこれからは変えていく方が全体の利益に叶うのではないかと提案します。それこそプロ野球選手のように毎年年度末にそれぞれ雇用主に意見を言って、自分の要求を通したり相手の要求を呑んだり、それによって年俸も変動するような、そういった形態がすこしはあってもいいんじゃないかとおもいます。たとえるなら、

「(´д)<あなたはこの一年でこれというスキルアップがなかったとはいえ大きなミスもなく仕事をしてきたので、来期の年俸は今期の維持で300万円でどうでしょう?」
「( ゚Д゚)<私はこの一年、成績の上がらなかった部署にいたので功績など作りようがありませんでした。にも関わらず大きなミスもしなかったのでもう少し上げてください」
「(´д)<それはどこの部署も一緒です。悪かった部署にいたのは考慮しますが、会社全体でみればあなたに特段の功績があったようには思えません」
「( ゚Д゚)<私はこの部署で、うだつの上がらない上司の愚痴を一年間黙って聞いて部署内の調和に貢献したと自負しております。この点を評価してせめて10万アップさせてください」
「(´д)<あなたの上司の愚痴には同情しますが、社会人としては基本的なことなので我慢してください」
「( ゚Д゚)<ではこれから私の上司だけでなく、あなたの上司の愚痴ももう聞いてあげません」
「(´д)<それでは、来期は15万円アップの315万円で契約しましょう」

 という具合に、それぞれインセンティブ的なものがあった方がいいんじゃないかと思います。
 さすがにこの会話文は極端な例ですが、例えば給料を一段下げる代わりに有給休暇日を増やしたり、土曜の午前に出勤する代わりに水曜日は午後から出勤できるようにしたり、全社員で画一的な規則ではなくそれぞれがそれぞれの希望を反映できる働き方の方もあってもいいんじゃないかと思います。さしあたって私は、有給休暇日の範囲内で場所ごとに一日相撲を観戦にいけるように契約したいです。

  おまけ
 中国の一部の企業は年度末などのボーナスが物納で行われるそうです。多分クリスマスプレゼントみたいに決められた金額の範囲内で社員の希望の品を会社が買ってプレゼントするのだと思いますが、これだったら会社の経費で処理できるので、日本にあっても悪くないと思います。なお昔は中国の公務員もこれだったらしく、旧正月の前に魚とか大根を持って帰る官僚がたくさんいたらしく、あの頃の方がアットホームで良かったと懐かしがっている官僚も少なくないようです。

2009年5月19日火曜日

現状分析の必要性

 これは有名なエピソードなので知っている方もたくさんおられると思いますが、元プロ野球選手の牛島和彦氏が現役時代、当時の投手コーチから「9回2死満塁、カウント2-3からどんな球を投げるか?」という質問を受けた際、他の投手がそれぞれの決め球を挙げる中で一人だけ「分からない」と答えたそうです。その理由を問われると牛島氏は、

「どのような状況で2-3となったかによって、最後に投げる球も変わってくる。2-3となるまでの経緯がないと、最後の球も決められない。点差によっても投げる球は変わるし、一概に決められるものではない」(Wikipedia引用)

 というように答えて、コーチも納得したそうです。なお後年に牛島氏はこの時を振り返り、もしこの時のコーチが稲尾和久氏でなければきっと嫌われただろうと述べています。
 これはなかなか含蓄深いエピソードで私も気に入ってよく使っているのですが、この時の牛島氏の発言の趣旨を改めて要約すると、「現状のピンチに対する対策はなぜピンチに至ったのかという過程、そしてそのピンチが今後どれほど広がる可能性があるのかを把握していなければ決められない」というものだと私は理解しています。

 この意味は何も野球に限らず日常の様々な場面でも当てはまり、よくよく考えてみると何かトラブルが起きた際に人は一般的な対処法に頼りがちですが、状況によってはその対処法が逆効果を起こしてしまうことも少なくない気がします。例えばこれはある実例ですが、昔アマゾンの密林に航空機が墜落した際、その後の調査で奇跡的に墜落後も生存していた乗客が何人かいたようなのですが無事に生還したのはたった一人の少女だけだったそうです。
 通常、山で遭難するなどサバイバルな状況になった場合は下手に動いて体力をすり減らすよりもじっと救助を待った方が生存できる確率は高いといわれているのですが、この時の墜落の場合は密林という墜落地が見つけづらい場所であったことから、墜落後にすぐに人里を求めて密林を歩いた少女だけが生き残り、その他の墜落後に生存していたであろう乗客は皆墜落地を動かずに死亡してしまったそうです。なおその墜落地は少女が保護された後に行った証言から判明したそうです。

 このようにサバイバル知識としては非常に一般化している「動かずに救助を待つ」という対処法も、時と状況によっては逆の結果を生むこともあり、よくよく自らの置かれた現状と近く予想される事態を考慮して対策や行動を行うことが非常に重要だと私は考えております。

 そういう意味で現下の政府の経済対策として提出している補正予算案について、私は果たして現状分析がしっかりなされて作られているのか疑問に思ってしまいます。今日街頭に立っていた選挙候補者などは小出しに財政出動はやるべきではなくまとめて一気に行うことが重要だと演説しており、確かにその言も全く理解できないわけではありませんが、どこに問題があると分かって効率的に資金を振りまけるのかというと、今回の補正予算案はエコポイントがなんに還元されるのかがまだ決まっていないのをみるとそういった現状分析はしっかりとなされていないのではないかと思ってしまいます。

 こういう風に思うのも私がやたらと調査にうるさい社会学士の端くれだからかもしれませんが、私は今の補正予算案、ひいては国会を通過した本予算案もいわゆる一般的対処法として戦後扱われ続けた「ケインズ的不況対策」に忠実に則ったものに見えます。ケインズの提唱した政策は確かに過去に実績を挙げたとされますがそれが今回の場合にも適用できるのか、そうした議論が今国会で行われることを期待します。

2009年5月18日月曜日

新型インフルエンザの感染拡大について

 すでに各ニュースでも報道されている通り、これまで数人だった感染者数が先週土曜日から関西地域を中心に急拡大し、今日には確認感染者数だけで百人を超すなど新型インフルエンザが猛威を振るっております。今回の新型インフルエンザはわかっている情報の限りだと、毒性についてはH5N1型の鳥インフルエンザよりは大幅に弱いものの空気感染によって爆発的に広がるなど感染力については折り紙つきといわれており、現在の事態を見る限りそれらの情報に間違いはないと思います。

 さて今回の日本の感染拡大についてですが、当初はカナダに学校主催のツアーにて訪れていた関西の高校生らが国内初の感染者として報告され、現在感染が拡大化している地域が神戸を中心としているのを見るとやはりこの時の潜在的感染者から広まったとみるべきかもしれません。しかしこういってはなんですが、遅かれ早かれこのような事態にはなると予想されていたので、感染が広がっている現在においてそのカナダへの旅行を企図した学校や、初の感染者となった高校生らを非難するのは明らかに間違った行為でしょう。

【新型インフル】「帰ってくるな」「謝れ」…大阪・寝屋川市や学校に中傷殺到(MSNニュース)

 残念なことに、上記にリンクを貼ったニュースでも書かれている通りに中には心無いクレームをつけてくる人間も少なからずいるようです。
 しかしただでさえ感染力の強いこの新型インフルエンザですから、私はそれこそ可能な限りの対策を行ったとしても国内での感染拡大は防げなかったと思います。というのも現在感染者数が多いのはカナダやアメリカ、メキシコといった国ですが、こういった国で感染者が多いのは感染している人間が他国より多いというのも事実ですが、それ以上に感染者がそうであるとわかる医療体制を持つ先進国という要素の方が強いと思います。それこそ発展途上国やお隣のだだっ広い中国にいたってはたとえ感染者がいたとしても、なかなかそれが新型インフルエンザだと気づけないばかりか中国の地方政府によっては感染の事実を隠蔽しようとするところもある気がします。

 言ってしまえばそういった感染者が出ていないと思って旅行したところで帰ってきたら感染していたということもおおいに考えられ、ここ数週間の間に日本が行っていた水際対策が無駄だったとは言いませんが、防ぎきるのには自ずから限界があったでしょう。
 ではこれからどうすればいいかですが、まずは慌てずに落ち着くことです。先ほどの高校生へのクレーマーのように大騒ぎしたところで感染者が減るわけでもないのですし、また一部の報道によると複数の医療機関が今回の新型インフルエンザが疑われない場合においても診療を拒んだという行為も報告されております。警戒を怠るのは以ての外ですが、無用に慌ててパニックを起こすというのもまた愚考です。幸い、今回の新型インフルエンザは毒性はそれほど強くないといわれているので、社会機能が著しく低下するのを避けつつどう感染拡大を防ぐかといった対策の整備を推し進めるのが第一でしょう。

 またこれはまだ結論として出されていないものの、今回の新型インフルエンザは老人にはかかりづらいとアメリカなどから報告されております。これは逆に言うのならば若者ほどかかりやすいということになり、日本でも高校生らが最初に感染した(成人の教師一人も含まれていましたが)事実を考慮するとあながち無視できない傾向のように思えます。だとすると対策で重要になるのはそういった若者の感染をどう防ぐかということで、小、中、高の学校でどれほどまで休校や感染予防対策を採るかが肝心になってきます。さっそく関西の学校では本日から休校になったところが多かったそうですが、それをどこまで行うか、また休校した分の授業をどこで補填するのか、そういった議論が今後必要になってくると思います。

2009年5月17日日曜日

刑事裁判における心神耗弱による免責について

 昨日友人とこの頃私がよくハマっているスカイプで会話をした際、昔に話したことのある話題を敢えて取り上げてみました。その話題を話したのは確か五年前だったと思いますが友人もよく覚えており、今回もまた盛り上がったので一つ今日はその話題について解説しようと思います。その話題というのも、刑事裁判において免責理由となる心神耗弱についてです。

 私の専攻は社会学ですが昨日話した友人は法学部の出身で、大分以前に日本の刑事裁判の仕組みについて簡単に説明を受けました。日本の刑事裁判というのは基本的には、「どう犯罪者を更正させるか」という方法を考える裁判であって、被告人を更正させるのに三年間が必要と判断されれば懲役三年が判決され、具体的な期間が定まらないほど難しいと判断された場合は無期懲役、そして更正のしようがないと判断されれば死刑が判決される、というような建前で行われているそうです。

 しかしこうした判決は被告人が一般的な物事が理解でき、更正するための教育を受けられる責任、理解能力があることを前提に下りるようになっています。そのためいわゆる心神喪失状態の人間などは、たとえ犯罪を犯しても更正を行うことが出来ないとして極端な場合だと無罪判決が下りることもあるそうです。またこれに準ずるものとして犯罪時に著しく心神が衰弱、もしくは耗弱しているなど失調をきたしている場合は、正常な判断でその犯罪を実行したものとみなされず罪が減刑されることもあるそうです。

 実際にニュースなどで裁判の模様が報道される場合に十年位前から、「被告は犯行当時心神耗弱状態にあり……」という弁護人の説明をよく聞くようになりましたが、私はというと元から大の心理学嫌いということもあり、そんなうさんくさいもので刑罰が減免されるなんてどこかおかしいんじゃないかと前から思っていたので、五年前のある日にその友人に話してみました。するとその友人がなんで最近の裁判でこれほどまでに弁護側が心神耗弱を陳述で述べるのかという理由について、以下のように教えてくれました。

 まず殺人などの凶悪犯罪の場合、一般人の感覚からしたら犯人の犯行時の心境は明らかに常軌を逸している場合が多く、そうした状況に心神耗弱という理由をつけやすいために弁護側はこのところ率先して弁護理由に挙げるようにしているそうです。なおかつこの心神耗弱を減刑理由に挙げたとしても弁護側は裁判にて何も不利になることはなく、それが通りさえすれば被告の減刑は果たせるのだから言うだけ言ってみようととりあえず使う弁護人が多いのではと言っていました。

 実際に私の目からしてもこのところの裁判では明らかに心神耗弱とは言えなさそうな犯人にすらもこれを弁護理由に挙げる弁護人ばかりで、そのたびに犯行時の犯人の精神状態が裁判にて争点になっては裁判が無駄に長期化しているのではないかとこのところ思います。ただでさえ判決が下りるまで時間がかかるといわれる日本の裁判において、それこそ全然精神がしっかりしていた犯人に対して無理やりにまで心神耗弱を弁護理由に挙げられる様を見せられると、一市民として犯人もろともそうまでして減刑を勝ち取ろうとする弁護人らに対し、それが彼らの仕事なのですから仕方はないのですが腹立たしさを覚えます。

 しかもこれはこの前にテレビで見た話ですが、こうした心神耗弱を判定するには専門の精神科医が約一ヶ月もかけて判定せねばならず、なおかつそうしてまで出した結果は精神科医によってまちまちで一致しないことも少なくないそうです。なので無駄に裁判を長期化させないために、明らかに心神耗弱が疑われない場合においてそれを弁護理由に挙げた場合には、被告や弁護人に対して一定のペナルティを与えるなり一定の基準を設けるなりしててでも、こうした無秩序な心神耗弱の乱用に終止符を打つべきではと素人ながら思います。

2009年5月16日土曜日

民主党新代表に鳩山氏就任について

 今日は折角の土曜日なのに昼前から頭痛がし始めたので安静にしようと寝ていたらどんどん悪化して、三時ごろには脳溢血かと思うくらいのあまりの痛さに「ウワァァ>(ノ´Д`))」ってな具合に顔文字入れると緊迫感がなくなりますが、リアルに悲鳴を上げるほどの辛さでした。元々頭痛持ちだけど、今日ほどの痛みがあったのは初めてかもしれません。
 それでも夕方五時くらいまでずっと寝ていてようやく今になって小康状態になり、無事今日の相撲も見ることが出来ました。それにしても昨日は夜十一時に床に着いたのに、すごい睡眠時間だ。

 そういうわけで今日のニュースですが、昨日にも書きましたが民主党の代表選についてです。下馬評どおりに鳩山氏が勝利して新代表に就任しましたが、今回の鳩山氏の就任について友人が早速メールにて、これで吉田茂の孫と鳩山一郎の孫が戦い合う構図となり、自民党の初代総裁である鳩山一郎の孫が自民のカウンターパートに回るというのは因果なものだと言っていますが、まさにその通りでしょう。
 なお吉田茂と鳩山一郎はなかなか因縁が深く、鳩山は大政翼賛会に属していなかったことから戦後に自由党のリーダーとなるのですが、戦前の思想弾圧事件の滝川事件に文部大臣時に関与していたとして戦後にGHQから公職追放に合い、その鳩山のピンチヒッターとして自由党の総裁となったのが吉田茂でした。その吉田は鳩山がいないことをよくいろいろ好き勝手に振る舞って鳩山の公職追放が解けた後も総裁の座に居座ろうとし続けましたが、最終的には世論に押されて鳩山へとバトンタッチをすることになったのですが、なんとなく今の政界の構図と通じるものがあります。

 さて今回鳩山由紀夫氏が当選したことで今後の政局にどのように影響するかですが、鳩山氏は就任後の会見にて総選挙をすぐに行うのであれば補正予算案の参議院での審議をしっかりと行うことを条件に、早めに法案を通すのに応じてもよいと話しましたが、当の自民党の麻生首相があまり早くに選挙をやりたがっていないのと、決断が遅いことを考えればやはり選挙は八月以降になると私は予想します。
 では仮にこのままの体制で選挙になるとしたらどんな政策を民主党が打ち出してくるかですが、一つ考えられるのは世襲制についてだと思います。私も「国会議員の世襲比率」の記事でわざわざ自分で調査しましたが、格差社会といわれて久しいこの世の中では議員の世襲は大きな争点になる可能性があり、また先月に自民党内でも屈指の叩き上げ議員である菅義偉氏が自民党内で独自に世襲制限を設けようとしたところ、多くの重鎮議員によって研究会を潰されたこともあって選挙後の自民党内の造反を誘発させる意味合いでも効果的だと考えられます。

 またこの世襲制限について、鳩山由紀夫氏が主張するのはある意味うってつけだと私は思います。というのも鳩山氏は血筋で言えば確かに世襲議員ではあるものの、初当選時より父親の選挙区とは関わりのない北海道の選挙区より出馬を続けており地盤で言えば世襲議員に当たりません。この前読んだ記事によるとどうもイギリスの選挙で政治家の子弟が出馬する際は、まさにこのように親の地盤のある選挙区とは全然別の選挙区から出馬させるように政党が仕向けるそうです。そうした別天地ともいえる選挙区でドブ板選挙を学ばせ、たとえそこで当選しなくとも党内の職に就かせて養うことで政治家の育成を行うそうなのですが、私が理想とする世襲制限はまさにこの形で、そういう意味では鳩山氏の現在の立場というのはそのモデルケースでもあり私も支持しやすい形でもあります。

 最後にこうした鳩山氏の代表就任に対して自民党の対応の仕方ですが、ふざけてやるんだったら麻生氏を一回降ろして、あえてここで弟の鳩山邦夫氏を総裁にして兄弟骨肉の戦いになったりしたらいろいろと面白そうですし、邦夫氏本人もどこかそれをねらっている節も見えます。なお先月号の文芸春秋にてこの二人の対談もありましたが、思ったより仲が悪くないなという印象を受けました。
 どうでもいいですが由紀夫氏は東大工学部卒(これからは技術の時代だと考えて入学したそうです)、邦夫氏は東大法学部の出身で、文字通り華麗なる一族のはずなんですが、お互いにキャラが濃いからあまり華麗そうには見えないのは不思議なものです。

2009年5月15日金曜日

民主党代表選挙について

 やや出遅れた感がありますが、今日はこの数日間の間ずっとトップニュースで報道されている明日投票の民主党代表選挙についてです。小沢前代表の突然の辞任によって会期中にもかかわらず行われた今回の代表選ですが、私の目からすると代表選の中身より、それを報道する周囲のマスコミの側に迷走が見られたような一週間でした。

 まず今回の代表選の日程についてですが、辞任から約一週間という実に短期間で投票が明日行われるため、政策の中身などが議論できず拙速すぎるのではという意見が民主党内の議員やテレビの評論家などから寄せられましたが、私はこのような批判やや見当違いなのではという気がします。というのも既に書いていますが現在は国会の会期中でして、その途中で最大野党の民主党代表の選挙戦を長々やってしまえばその分だけ審議の遅滞につながってしまうため、恐らく今この選挙期間の短さについて批判をしている方たちの大半は長くしても批判していたであろうと思います。私としてはこの場合、やはり国会の審議を優先するべきという立場から選挙期間をこれだけ短くした民主党前執行部の判断を支持します。

 次に候補者についてですが、前評判どおりに鳩山由紀夫前幹事長と岡田克也元代表の一騎打ちとなりました。この両者が立候補することは小沢前代表の辞任直後から有力視されており、実際に立候補した際も規定路線とばかりにそれほど大きな反応はなく、この二人のどっちが次の代表になるのかと選挙戦の行方にばかり注目が注がれていたように思えます。しかしこれは一昨日のワイドショーにてある評論家がコメントしていた内容ですが、仮にこの選挙戦に年金の追求で一躍名を挙げた長妻昭氏が立候補していたらどうだったのだろうかと、面白い仮説を立てた方がいました。
 よく岡田氏は民主党内でもクリーンなイメージが強い政治家だと言われていますが、はっきりいいますがクリーンさから年金問題での追求の実績といい、国民からの高感度で言えば長妻氏の方が岡田氏をはるかに上回っているでしょう。強いて長妻氏に足りないものを挙げるとすれば党役職の経験と年齢ですが、実際に代表に就任できないにしろもし選挙戦に出ていれば議論も深まり、色々と面白かったのではないかと思います。

 では鳩山氏と岡田氏、どちらが代表にふさわしいのかですが、私としてはどちらも程よくいいのではないと見ているのですがどこのニュースでも、「クリーンさから国民的人気で言えば岡田氏だが、党内情勢から察するに鳩山氏が勝ってしまうだろう」という、なんだか岡田氏にどこも勝ってもらいたいかのような報道ばかり目に付きます。確かに岡田氏は真面目そうで私も嫌いではないのですが、仮に岡田氏が勝った上にその後の総選挙で民主党が大勝して彼が総理大臣につくとなると、あのフランケンシュタインを髣髴とさせる生真面目な顔で外交や行事などの露出の多い仕事を、果たしてやっていけるのかなと一抹の不安を感じます。まぁそれを言ったら鳩山氏も宇宙人っぽい顔をしているので大差ないかもしれませんが。

 それにしても今回の代表選の報道の仕方ですが、私からするとやや目に余る解説が多い気がします。さっきも言ったとおりにどのマスコミも「世論は岡田、党内は鳩山」と、この程度であれば別に問題はないのですが、一部のコメンテーターからは、「鳩山では小沢の影響が強すぎる」とか「小沢の路線を引き継いでしまう」など、前幹事長だったという経歴から以上のような批判が数多くなされているのですが、これまた昨日の朝のニュースで評論家が言っていた言葉ですが、「小沢のどんなところを引き継ぐのがよくないのか、そうしたことに何も触れないまま鳩山氏を批判する輩が多い」という指摘があり、私もまさにその通りだと思いました。

 引き継ぐのが小沢氏の政策目標なのか、それとも西松事件での献金構造なのか、どっちにしろ鳩山氏がこれらの点で小沢氏と同じかとは到底思えません。仮にあるとすれば鳩山氏が小沢代表時代に幹事長であったという事実ですが、もしこれだけでさっきのような批判をしているとすれば中身よりも外見の議論になってしまいます。
 また西松事件以降に鳩山氏が一貫して小沢氏を庇っていた事を批判の材料にする人もいますが、幹事長という役職なんだから庇って当然でしょうし、そんな立場にありながら選挙に良くないから早くやめろと勧告する方が私はかえって問題な気がします。

 むしろ私はあの騒動の際、鳩山氏が一貫して小沢氏を庇い続けながら党内の結束を呼びかけたのを高く評価しています。鳩山氏も当時言っていましたが小沢氏のあの事件での責任をどうこう言い合うより、党内で意見が割れる姿を国民に見せることが一番よくないと考えており、オフレコで直接小沢氏に直接辞任を促すのならともかく早々にマスコミの前で早く辞めるべきと言った前原誠司氏に対して政治家としての資質をやや疑いました。第一、あの西松事件自体がおかしな捜査なんだし。

 とはいえ岡田氏は岡田氏で真面目に着実に政策に取り組んでくれそうな期待感もあるので、この記事ではやや鳩山氏を持ち上げることばかり書いていますが私は最初に言ったように別に岡田氏がなっても民主党的にも、国民的にもまぁいいんじゃないかなと思っております。なにが一番問題なのかといえば今の麻生首相が居座ってなかなか選挙を行わないのが問題で、ポスト麻生の最有力候補の与謝野馨氏も今日の発言で、「鳩山氏ではいざという時に逃げる印象がある」と言っていましたが、あれだけ霞ヶ関埋蔵金はないと言っていたくせにちゃっかり今年の予算に大臣として組み込んだあんたが言うことかと、こちらも資質を疑う発言でした。

 最後に一つ気になったこととして、どうして今回はあの出たがりの菅直人氏が出なかったのかなという疑問があります。この点についてどこのマスコミも触れておらず、しかもあまりチェックしてはいないものの菅氏の代表選に対する意見もまだ一度も見ていません。どうしちゃったんだろうなぁ(´Д`)?

2009年5月14日木曜日

出版大手、ブックオフ株取得について

 なんか先週はブログを書くのが非常に億劫でして、そうした気分が反映されてか当時の記事を改めて読み返してみるとなんか文章がひどいのばっかなのですが、今週に入ってからは徐々にやる気を取り戻し、一昨日辺りから文章表現にも改善が見られてきたので一安心してます。

大手出版連合、ブックオフ株取得の狙いは?(MSNニュース)

 そういうわけで本日は出版大手三社が中古本販売業最大手のブックオフの株式取得に動いているという、それこそ今後の日本の出版市場を占う上でも大きなニュースについてです。
 さすがに出版業界に知り合いはいないので直接話に聞いたわけではないのですが、伝わる限りの情報だとやはり出版会社からするとブックオフは親の敵のようにまで思われているらしく、実際に漫画家や作家の方らも公然と批判する人が数多くいます。何でそんなに憎いのかってこれはいわずもがなですが、安価で手に入ってしまう古本屋が全国チェーンでこれだけ多く展開しているせいで本が出版される傍から中古市場に流れ、消費者も新品より安い古本を選ぶようになって販売数が減り、売る側の出版会社からするとそれがそのまま売り上げや利益の減少につながってしまうからです。中には、近年の出版不況の最大の原因がこのブックオフだとまでいう出版界の人までいます。

 おそらく今回の出版大手のブックオフ株取得の目的は、こうした古本の流通を制限するという目的があって行われていると思います。以前にも中古ゲームの販売を巡ってソフト会社と販売店との間に90年代に何度も法廷闘争が起きており、出版会社と古本会社のこうした争いはいわば宿命的なものといっていいでしょう。実際に作家の方の中にはブックオフの販売振りでは出版会社は採算が取れないとまで言う人もいるほど苦しいらしく、今回の出版会社の実力行使とも取れる行為に対して私も特段卑怯なことだとは思わず、業界を健全に成長させていくにはやむを得ないかと多少の理解はできます。とはいえ株式の取得後、出版会社がどのように出版業界、ひいては日本人と本の関わりを作っていくかというグランドデザインをまだ何も示していないというのは少し残念ではあります。

 実際に株式の三割も取得すれば大きな株主総会で大きな議決権を得ることになり、それこそいきなりブックオフに古本業を廃止させることだって可能です。しかし以前にも「出版不況について思うこと」で私が書いたように、昨今の出版不況はブックオフの存在よりも本の質の低下やむやみやたらな値上げの方が原因的には大きいように思えるので古本をなくせば一気に問題解決に至れるとは思えず、ただでさえ少子化で読者層が縮小してくのだからそういった点についてもなんらかの姿勢を示すことが重要なのではないかと思います。

 たとえば私個人の意見を挙げるのならば、発売から三ヶ月とか半年と期間を決めてその期間の間は古本の販売を一切禁じるかわりに新品の本の価格を今より少し値下げする、ジャンプコミックスなら現在420円のところを400円にするなど、利益を互いにある程度維持しながら読者が大きく不利益を被らないようにする方法などを出版会社と古本会社で一緒に作っていくべきだと思います。肝心なのはこうした協議を一般にも広く公開して、なおかつ読者層をどう拡大するのかという視点を持って取り組むことです。非公開でやればそれはそのまんま談合になってしまいますが、業界全体で健全な成長を図るのであれば協議の公開を原則としてこうした協定を結ぶのは私は問題ないと思います。自分たちだけのパワーゲームで古本のありなしを決めるより、知識の育成に関わる本というものを扱うゆえに読者のことを念頭において今後の業界のあり方を考えてほしいです。

2009年5月13日水曜日

国技館レポート

 本日、本当は忙しい中なのに時間を無理やりこじ空けて、相撲を愛する者なら誰しもが夢に見るであろう国技館へついに相撲を観に行くことができました。これまで大阪場所、名古屋場所には観に行ったことはあるのですが関東にずっと住んでいるくせに国技館はまだ一度も行ったことがなく、今場所は絶対に観に行くのだと決心していたので取り組み中はそれこそ感無量でした。

 そんなして行った今日一番の取り組みはなんといってもこれまで三勝全勝で互いに来ていた豪栄道と日馬富士の対決でしたが、両者とも勢いのある者同士の取り組みだったこともあって白熱し、最終的には私が贔屓にする日馬富士が上手投げで勝って終わりました。それ以外の取り組みで目を見張ったのは千代大海の取り組みでしたが、開始早々つっぱりで土俵際に追い込んでこのまま勝つのかと思ったら鶴龍が懐に入って廻しを掴むや、なんとそのまんま逆方向へ一気に千代大海が寄り切られて負けてしまい、終わった瞬間は文字通り呆気に取られてしまいました。千代大海は今場所は角番ですが、未だ本調子ではないようなので心配です。

 さてそういうわけで取り組み自体には非常に満足したのですが、ちょっと座席について不審な点があったのでここで愚痴っぽくなりますが紹介しておきます。相撲観戦の座席は野球場同様に見栄えのいい席は値段が上がり、特に力士を間近で見られる升席は通常四人一組で販売されて非常に高価なチケットなのですが人気があり、今日も平日ながらほぼ全席が埋まっていました。それに対して一人で見に来る人などは椅子席が用意されており、その椅子席も国技館では観やすい前列から指定席でA席、B席、C席とランクが分けられ、一番末席は「外野自由席」として予約なしの当日販売だけで売られています。
 私は当初、初めての国技館ということで2100円の外野席で観ようと思い、早めに来ることを意識して2:30に両国に到着して窓口に行ってみたらなんと外野席は既に完売しており、更には3600円のC席も売り切れとのことで正直なところ一瞬「帰ろうかな」という言葉が頭をよぎりましたが、折角来たのだし切腹をするような覚悟で4900円のB席を取って観戦しました。

 ところが蓋を開けてみてみると升席はともかく二階のABCの指定席、外野席を含む椅子席は全然すいており、結局最後の朝青龍(今日は勝った)の取り組みが終わる頃でも半分以上の座席は空いたままでした。実は今月はGWにゲームを買い漁って財政的には非常に苦しい月間で、しかも明日返してもらいますがある事情で月曜にお金を15000円も立て替えており、観戦の帰りにスーパーで夕飯の汐サバ(2尾298円)を買おうとレジに行ったら財布にお金が全然残っておらず、案の定買い終わったら400円しか残っておらずリアルに焦りました。
 こんなこと書いてはいますが、一応言っときますけど私は別にお金に困っているわけじゃなく、銀行の預金を下ろせばまだまだ全然余裕ではあるのですが、今月は明日の立替分の返金を受けてなんとかやりくりしようと考えていたのであれだけ座席が空いているのならどうして外野自由席(2100円)を売ってくれなかったのか、運営を行っている大相撲協会に対してちょっと不満を覚えました。

 恐らくいくつかの指定席は新聞屋とか保険屋とかが販売拡張のために買っているのだろうから座席に多少の空きができるのはまだ仕方ないと理解できますが、それにしたってC席が売り切れといいながら座席の半分以上が空いていたというのはどう考えてもおかしく、更には当日販売しかしない外野席でも同様にあれだけ空席があったのに売り切れとするのは何かしら販売方法に問題があるのではないかと疑ってしまいます。
 ちょっとあまりにも悔しいのでこの後相撲協会にこの件をメールで言うつもりですが、今日は外国人の方もたくさんいらしており、そうした方たちやちょっと相撲に興味を持っている方たちでも気軽に安価で入場できるよう、こうした事態は今後なるべく防いでもらいたいです。

  おまけ
 プロ野球では最近パリーグの球団を中心に、チケット販売の方法に融通を利かすようにして一定の成果を納めていると聞きます。一例としてこれはセリーグの広島カープですが、確か去年辺りから7:30以降の入場であればチケット代を安くして販売したところ、広島市内のど真ん中にあるという地の利が生きて仕事帰りのサラリーマンの観戦が大幅に増えたそうです。

2009年5月12日火曜日

ガンタンクでの戦い

 かなり懐かしい話になりますが、前にも一回取り上げた事のある「機動戦士ガンダム戦記 Lost War Chronicles」というPS2のゲームを、私は発売してから三年ぐらいの間ずっとやりこんでいました。このゲームが発売したのは2002年だったのでソフト内容やローディング時間を現在のラインナップと比べると相当に劣っているはずなのですが、私は未だにこのゲームを超えるガンダムを題材にしたアクションゲームを見たことがありません。何故このゲームがそれほどまでによかったのかといえば、妙なところでモビルスーツの動きがリアルだったからだと思います。というのもこのゲームの機体の動きははどれも重々しく、コントローラーを押せばすぐに縦横無尽に動いてくれるわけではなかったのですが、それが返って落ち着いて操作することが出来、また優秀な機体とそうでない機体には歴然とした性能差がありましたが、コンピューター戦に限って言うなら弱い機体でも操作次第によっては強い機体に打ち勝つことも可能で、そういったバランスの調整具合も良かったのも見逃せません。

 とはいえ、このゲームでガンタンクを使うとなるとそれは大変でした。
 他の機体は遠距離、近距離用の武器がそれぞれある(ガンキャノンですら右ストレートで殴ってくれた)にもかかわらずガンタンクに至っては近距離用の武器の代わりにマシンガンがつくという遠距離攻撃のみで、おまけに足がキャタピラなもんだからジャンプが出来ず、ちょっとの段差を飛び越えようと思ってもバーニアを他の機体よりも多く噴かなきゃいけないもんだからすぐに切れてしまうし、おまけに動きが明らかに他の機体と一線を画して鈍いという、どこをどうみても最悪の機体でした。

 ですがそうした最悪の機体ゆえに、燃え上がるものもありました。
 私と友人はこのゲームの二人協力プレイで遊ぶ際には必ずと言っていいほどこのガンタンクを二人して選択し、延々と登場してくる敵機体に対して三国志の趙雲の単騎駆けの如く孤軍奮闘して戦っていました。
 このプレイで何が恐いかといったら、徐々に距離を詰めてくる敵を迎撃している最中に弾が尽きることでした。このゲームで遠距離用のライフルやマシンガンといった武器は一旦弾を使い切ってからしばらく経つ事によって初めて補給されるシステムゆえに、ガンタンクで弾切れを起こしちゃうと近距離攻撃のように無限に使える武器もなく、動きが鈍いから全然逃げられない上に距離を詰められて近距離攻撃されるとリアルに、「アパム!アパム!弾!弾持ってこい!アパーーーム!」という状況になるもんだから、プレイしている間は真剣そのものでした。

 しかしこうした弾切れで追い詰められている最中に、横から友人のガンタンクが援護射撃で敵機を破壊してくれる時なんかは戦場ゆえの友情というべきか、本気で「助かった」と思うのと同時に信頼感を強く持てました。また窮地でなくとも一体の敵機を中心に友人と自分がちょうど直角の位置から砲撃を加える、十字砲火が見事に決まったりしてもなんか戦争映画のワンシーンみたいな一体感を感じました。

 さすがに今はもうこのゲームで遊ぶことはあまりありませんが、他の人のレビューでも書かれているようにぜひバンダイにはこのゲームのシステムをまるまんま維持して、新たに機体やステージだけを加えてまた出してもらいたいと心から願っております。

2009年5月11日月曜日

小沢氏の代表辞任について

 すでに大半の方がニュースを見て知っているかと思われますが、本日民主党の小沢一郎氏が代表の座を辞任する旨を発表しました。この電撃辞任についてあちこちで色々言われており、特に私の癇に障ったのは自民党の町村氏が説明責任を果たしていないと批判したが、じゃあお前のところの尾身氏と二階氏の説明責任はどうなんだと、ぼやいても仕方がありませんがそう思いました。

 まず正直な感想として、今回の小沢氏の辞任は自分にとって残念でした。過去の記事の「検察報道に対するメディアの違い」をはじめとして私は今回小沢氏が代表を辞任するに至った西松建設の献金疑惑について、そのあまりのタイミングのよさと強引な検察の捜査手法、自民党の議員には捜査が及ばなかったことからこの件には陰謀を感じ、小沢一郎という議員は嫌いではあるものの検察に屈する形で辞任してはならないと以前から主張していました。しかし私のように考えるのはやっぱり少数で、世論調査をはじめとして民主党内からも辞任論が割合に公然と出ており、しょうがないかといえばそれきりですが小沢氏にとっても苦渋の決断だったと思います。

 そういうわけで早くも夕方のニュースではどこも次の民主党の代表は誰かと色々と議論されていますが、結論から言えば今回の件で攻守は交代し、そう遠くない間に行われる民主党の代表選挙などテレビなどの露出時間が自民と民主で逆転し、政局の行方もまた違ったものになってくるでしょう。
 折しも選挙を控えるこの時期です。今後は本当に些細なことでも互いの選挙結果に大きく影響することが予想され、一足先に民主が万難を排した形になりますがまだまだ山岡賢次議員とマルチ商法の癒着問題が残っており、また自民党も中川秀直氏といった反動勢力という爆弾があるという、双方すねに傷を抱えた状況でこれから選挙までオセロゲームのような状況が続くかもしれません。

2009年5月10日日曜日

今、政治で何を優先すべきなのか

 今日友人とも話をしてきましたが、政治の議論というのはとかく複雑にならざるを得ず時間と共に何が大事だったのか、どんな政策が必要なのかということが段々とわからなくなってくるということがよくあります。何でそうなるのかといえば単純に片っ方の問題の対応を話していたら別の問題が持ち上がり、そっちの問題に構っていたらまた別の問題が沸き起こっていわば忙殺される具合で段々とわからなくなっていきます。そのため政治家の資質として「一貫性」というべきか、他の問題に振り回されず一つの問題に集中できるかどうかというのは非常に重要な要素だと考えており、私もこの二ヶ月何も更新していないけど「陽月旦」の方ではわざわざ評価項目の一つとして加えております。

 この一貫性をとことん追求して一応の成功を収めた政治家としては、近年では小泉純一郎元首相が挙がってきます。彼は父親の急死を受けて留学先のイギリスから日本に戻って初めて総選挙に出馬しましたが、初めての選挙の際にそれまで彼の父親を応援していた郵便局員の組織票五千票が丸々ライバル候補へと裏切り、蓋を開けてみた結果はなんと五千票の差での落選だったのでこの時に郵政をめっためたにしてやろうと考えたのか、初当選時から郵政民営化を主張していました。
 その後首相に就任後もこの郵政事業の民営化を改革の本丸と位置づけ、在任中に道路公団民営化や年金問題などに一応は手をつけたものの解決の目途が立たなくなるやほとんどの問題を中途半端に放り投げ、郵政民営化においてのみ注力し続けて最終的には実現にこぎつけました。何はともあれ、本人としては満足だろうけど。

 この郵政民営化を行っている最中、様々な評論家が「こんなことより景気対策だ」、「いや社会保障問題だ」などという批判意見がある中で、ある評論家(確か塩野七生氏)からは

「いろいろと他の政策を優先すべきという意見もあるが、彼(小泉元首相)の言う通りに財政問題や構造改革において郵政民営化をまず最初に実現しなければ、何も始まらないという意見も一理ある」

 という評論があり、実際に財政投融資などの特別会計など点で的を射た意見だったように思えます。
 そういうわけで随分と前置きが長くなりましたが今日は何をしたいのかというと、今の日本において一体どんな問題を優先して行うべきかというのを私なりに順位をつけたいと思います。

 ではまず今、政治でどの問題が一番優先しなければならないかですが、それはずばり言って公務員改革だと私は考えています。というのも今の年金問題をはじめとして起こっている問題に対策を作ったとしても、それが実行する官僚が知らない間に骨抜きにしてまともに運用されないばかりか形骸化されてしまっていることが近年非常に多いからです。その上財政の健全化をはかろうとして経費節減に取り組もうとしても、無駄金を使う妙な天下り団体を潰そうとするやかつての安倍政権のように激しい抵抗を起こされ、実現が阻まれる恐れが大いにあります。

 そのほかいわゆる「霞ヶ関文学」とも言うべき、報告書等に責任を逃れるために「等」や「努める」といった言葉を盛り込んで曖昧にしたまま結論を先送りし、全然実態と合っていない調査報告書を平気で提出する点もどうにかしなければなりません。この前の年金についての委員会でも全国民の支払い率が実態は約五割のところを八割と言い張って出してきた実例もあるし。
 そういう意味で、安倍政権が目指した内閣人事庁案は抜本的な解決法としてなかなかの妙案だったのですが、他の政策同様に骨抜きにあって今の計画ではあまり期待が持てません。こうした点をまずどうにかして、政治主導の政策の実現力を日本全体で高めることが急務だと私は考えています。

 その次に優先すべき課題ですが、これは私の属性ゆえですがやはり若者の雇用対策をどうにかしてもらいたいです。日本全体の失業率は今4.8%辺りのところ、20代の失業率は数年前より二桁の10%を越えており、このまま行くと貯蓄も何もない非常に不安定なままで今の若者は40代、50代と社会的にも体力的にも厳しい年代へと突入してしまいます。これなんかは私の持論ですが、現代の若者の就業、生活支援を行って生活を安定化させることこそが最大の少子化対策になると考えており、ただ単に子育て支援金などを現金で配るよりまずもって家庭の地盤を作ることこそが第一だと思います。

 そんでもって三番目に優先すべき課題ですが、ようやくここで財政の健全化が来るのではないかと思います。というのも今の20代の若者に就業してもらえねば所得税率の高い日本では十年後、二十年後の税金が入ってこないため、若者の雇用対策を行って将来の税源の目途を確保した上でなければ財政健全化もなにもないと考えるからです。まぁ抜け道を使うんだったら、間接税の増税という手段もありますが。

 そういうわけで私の案をまとめると以下のようになります。

1、公務員改革→政策の実現力、速度を高める
2、若者の雇用対策→少子化対策と共に将来の税負担者の確保
3、財政の健全化→赤字体質の脱却


 あんまり煮詰めていませんが、今挙げた三つの政策はまさに上から順番にやらないと下まで実現できない政策だと考えております。なお今回外交については検討せずに内政のみで優先順位を定めましたが、ミクロな政策についてはもっとやるべきものはあると思いますがあまり細かい話になってもしょうがないのでちょっと省略しました。もし一つ挙げるとしたら、2と3の間に税、年金体系の抜本的改革を入れるべきだとは思いますが、その頃にはまた別の問題が起きているんだろうなぁ。

2009年5月9日土曜日

高橋英樹氏のエピソード

 さっきウィキペディアを見てみたら載っていなかったので、俳優の高橋英樹氏のエピソードをここで紹介しようと思います。

 さて高橋英樹氏といえば言わずもがなの時代劇の大スターで、彼の代名詞とも言うべき「桃太郎侍」始めNHKの大河ドラマにも何度も出演しており、去年の「篤姫」では島津斉彬役を演じましたが過去の大河では斉彬の弟である島津久光役も演じていたそうです。
 そんな高橋氏ですが、確かテレビ番組の「踊るさんま御殿」に出演した際に、こんなエピソードを話していました。話題のテーマが「後から思うと納得できないこと」にて高橋氏は、ある日顔面マッサージのお店に行ったところマッサージの途中に店員に、

「高橋さんは顔が大きいので、通常の二倍の料金を請求させていただきます」

 と、言われてそのまま払っちゃったそうです。この件について実際に顔のでかい高橋氏は、確かにマッサージに使うクリームとかが余計にかかっちゃうからその場では仕方ないなと思ったそうなのですが、テーマ通りに後から考えてみるとなんかおかしいなと思ったそうで、このエピソードを高橋氏が紹介するや司会のさんま氏が、

「ひとつ、人の世の生血を啜り……」

 と、高橋氏の代表作の「桃太郎侍」にて悪党を斬り捨てる際の名台詞をつぶやいて場を盛り上げていました。確かに、このセリフがまさにぴったりなシチュエーションでした。

 もう一つのエピソードも「踊るさんま御殿」からで、何でも地方ロケに高橋氏が行った際に泊まった旅館が時間によって男女の入浴時間が変わるという混浴風呂だったらしく、そうとは知らずにいたのはおばさんやおばあさんが数人だったそうですが女湯の時間帯に入ってしまったそうで、慌てて飛び出したことがあったそうですです。このエピソードを高橋氏が話すやまたもさんま氏が、

「あかんがな高橋さん。そういうところこそ桶で股間を隠して、ポンポンポンポンッ(太鼓の音。桃太郎侍の登場シーンは顔を般若面で隠しながら太鼓のBGMとともに出てくる)と言って出なきゃ」

 と突っ込んでいましたが、想像するだに未だ思い出し笑いをします。

2009年5月7日木曜日

在日外国人の地方参政権問題について

 恐らく今日の記事は見る人によっては強く反発されるであろうことが予想されますが、それを知っておきながらも敢えて私は在日朝鮮人を始めとする、日本の地域に居住している外国籍の人たちに地方参政権を与えるべきだと考えております。

 目下この外国人の参政権問題について世論に強く訴えているのは民主党の鳩山由紀夫幹事長が代表的ですが、この人は以前にもそれまでタブーとされてきた憲法改正を90年代後半から主張するなどいろんな方面で批判を恐れない発言をする人で、今回のこの外国人に参政権を与えるべきという講演をしたところあちこちで槍玉に挙げられては批判されているのをよく見ます。しかし私はというと鳩山氏も選挙前にこんなことを世に訴えれば批判が集まるであろうことがわかっているであろうにもかかわらず発言した度胸といい、また私自身も鳩山氏の主張に共感するところがあり、小沢事件以降の対応などを見てこのところ鳩山氏の評価が急上昇しております。

 では何故私が外国人に地方参政権、つまり地方自治体の首長、地方議会議員選挙の投票権を与えることに賛成であるのかという理由を一つ一つ説明していきます。
 まず勘違いしてもらいたくないのは、あくまで私が与えるべきとしているのは住民票を元に振り分けられる地方選挙の投票権であって、国会議員の選挙などという国政選挙の投票権ではありません。国政選挙の投票権の場合は私は国籍を元に投票権を持つか持たないかをはかるべきであって、今回のように住民票は日本国内にあるが国籍は外国である在日外国人の場合は筋から言ってまだ不適当だと考えています。もっとも、この辺の議論は現在二重国籍を認めるか認めないかの議論に絡んでくる話なので、状況によっては今後の私の立場が変わることは大いにあります。

 それではまず一つ目の理由ですが、彼ら在日外国人も住民票を日本においている制度上、所属する地方自治体に税金を納めているからです。
 そりゃ短期の滞在でならば私も細かいことは言いませんが、数年以上の長期滞在で住民票までも日本において地域の税金をしっかりと支払っている人が、いくら国籍が違うからといって自分の住んでいる自治体の選挙権を持たないというのはちょっと筋が違うんじゃないかという気がします。仮にその自治体の首長がとんでもなく変な人間で、彼らが納めた税金をわけのわからないものに使っているとしても、その首長の対抗馬に投票して環境を変えようとするという行為すら出来ないのはあんまりな気がします。

 次に二つ目の理由ですが、そもそも彼ら在日外国人の絶対数が少ないためです。
 さすがに自治体ごとに細かい統計を見て言っているわけではありませんが、2005年度の国勢調査で日本在住の外国籍人口は全体の1.2%(統計局データより)ほどしかなく、多く見積もったとしても一つの自治体で外国籍の住人が一割に達する自治体は全くといってないと言っていいでしょう。先ほどの鳩山氏の発言への批判でよく見かける意見で、「外国人に日本を売り渡す気なのか」という意見がよく目につくのですが、選挙人口からいって仮に彼ら在日外国人が選挙権を持ったとしても地方政治に反映できる範囲は狭く、先ほどの批判をした方の言われる通りに在日外国人が悪意を持って自分らに都合の良い候補を議員や首長にしようとしても投票人数から言って絶対的に多数派を作ることが出来るはずがなく、先ほどの批判は最初から的外れだと思います。さらに選挙権を仮に与えるとしても入管法が変わらない限りは外国籍の住人が増えるわけでないため、少なくとも現在の日本において政治状況が一転することはあまり考えられません。

 そして最後の一番重要な三つ目ですが、上記二つ目の理由で書いてある通りに仮に選挙権を与えたとしても日本の政治に与える影響はほぼ皆無であるのなら、くだらないところで妙な差別化をするべきでないという私個人の、自分でもややおめでた過ぎるかなと思う気持ちからです。
 私自身はこれまで、出身や身体的特徴から周囲や制度から差別を受けたことはただの一度もありませんが、中学高校時代に自分でも取り立てて意識したわけでない過去の発言や行動を延々と引きずられて批判されたりした際、言いようのない悔しさや怒りを何度も覚えたことがあります。さすがに休日に古本屋にいただけで、わざと私に聞こえるように話の肴にされた時は怒りを通り越して呆れましたが。

 そんな私が仮に出身や国籍だけで差別や偏見を受けると考えたら、それがどれだけ悔しいかと想像するだけで複雑な思いになります。その上、先ほどの鳩山氏への批判の中には「そんなに投票したければ国籍を変えればいいだけだろ」という意見もよく見ますが、もし自分が在日外国人の立場であればやや都合が良過ぎるかも知れませんが、そんな簡単には国籍を変える決断には至れないと思います。例えば両親がまだ生きている場合や祖国への望郷の意識を持っている場合、日本に対していくら恩やありがたさを感じていてもそう簡単には変える気にはなれない気がします。

 たとえ外国籍でも地域で一緒に暮らしている場合、そこに何の違いがあるのか。そう考えるにつけ、こんな大勢に影響するわけでもないことでくだらない差別化をはかるというのは無駄なように思えて仕方ならないし、差別される側も決して気分のいいものではないと思います。特に先々週から土曜日九時からやっているNHKドラマの「遥かなる絆」という中国残留孤児の体験を元にしたドラマを見るにつけ、そうした思いが強くなってきました。
 これはあくまで私の中の例えばの話ですが、非常に善良で能力も優秀な人物が在日外国人として日本で生まれ育ったとしても、今の制度で日本に対して貢献意欲を持ってもらえるかどうかといったら如何なものだと思え、そうした優秀な人間を日本の味方につけるという意味合いでも、もうこうした差別は止めて彼らに地方参政権与えるべきというのが私の意見です。

2009年5月6日水曜日

教育における体罰の是非

 ちょっと時間が経ってしまいましたが、先週に小学校で行われた体罰の是非について最高裁にて判決が出て、一審と二審では教師が児童に行った体罰は不適当という判決がひっくり返り、教師の行為は教育的指導の範囲内で何も問題がないという判決が下りました。この判決について私の意見はというと、なんでこんなくだらないことで裁判が起こされたのかというそれ自体の事実に呆れました。

 詳しい事件の内容を解説すると、何でも小学二年生の男子児童が女子児童を蹴っていたそうなのでそれを見かけた男性体育教師が注意したところ、その教師がきびすを返すや男子児童は今度は教師の背中を蹴りつけたそうです。蹴られた男性教師は男子児童の胸倉を掴んで壁に押し当て、もう二度と人を蹴るなと再度注意したというのが顛末だそうですが、胸倉を掴んで壁に押し当てたのが不当な体罰だと児童の親が自治体を相手取って裁判を起こしたものだそうです。

 まずもってこの事件で私が感じたのは、随分と生意気なガキがいるものだということと、こんなことで裁判を起こす親も親だし、更にはこの男性教師の行動を以って問題ある行動と認定して自治体に児童の親へ賠償金の支払いを命じた一審、二審の裁判官の気が知れないということでした。どう贔屓目に見たって問題があるのは児童の方ですし、一度教師が口頭で注意したにもかかわらずいうことを聞かないばかりか即座に教師に向かって蹴りつけるなんて、胸倉を掴むだけでなく右ストレートを食らわしてもよかったんじゃないかと思います。この事件の教師の行動は私から見て理にかなったもので体罰とかそういったものとは明らかに程遠く、教育的指導として逆に適切なものだったように見えます。そういう意味で最高裁の判決は当たり前といえば当たり前の判決なのですが、それだけに一審と二審の判断には首を傾げざるを得ません。

 そこで体罰の是非についてですが、私は一応は教師が体罰を行うことに対しては反対の姿勢を取っています。それだとさっきと言うことが違うじゃないかと言われるかもしれませんが、先ほどの事件での教師の行動は私は体罰の範囲とは言えないものだと考えており、やはり過度な体罰は教育指導の目的から外れた体罰が横行することだけは避けたいという思いから名目上は体罰反対を掲げています。
 ではどの区切りから私が否定する体罰に当たるのかですが、いろいろな人があれこれこの境界線についてあれこれ意見を出しては判定が難しいと言いますが私の場合は単純明快に、「誰がどう見たってやりすぎだろ」と思うような行為が体罰に当たると考えています。

 例えば私の中学校の教師は授業に教科書を忘れた場合に一発軽く拳骨を男女関係なしに与えていましたが、私はこの拳骨に対して不当だと感じませんでしたし、教科書を忘れれば自分以外の皆も受けるので嫌がってはいたものの誰も文句は言っていませんでした。このように体罰が平等に行われているか、また拳骨一発程度と極端に痛みを与える行為でないこと、そして何よりクラスや学年全体で大きく不当だという声が多数派にならないことがその行為が正当かどうかを決めると考えています。逆を言えば、当事者本人はともかく皆が皆であまり不当だと思わない限りはなにも問題ないんじゃないかと思います。

 ここで話は変わりますが、以前に私がロンドンで会った日本人の方の高校時代の話を紹介します。
 その方は中学校でバトミントンに熱中して進学先の高校もスポーツ的環境のよい学校、つまりは体育会系のある高校へと進学しました。その学校は何もバトミントンだけが強いだけでなく、近年も硬式野球部が甲子園に出場するほどのスポーツ校で集まる生徒も勉強は出来なくとも元気だけは十人前という学校だったらしく、教える教師も教師で皆が凄腕ぞろいだったそうです。まず私が一番驚いたのは、

「うちの高校の教師は皆一人一つは武器を持っていた」

 という事実でした。
 先ほど書いたように私の中学校では教科書を忘れた際には拳骨がありましたが、その学校の確か国語教師は武器が竹刀だったらしく、校内にいるときは常に竹刀を持ち歩き、授業に教科書を忘れた生徒が出てくるや教室の前に呼んで壁に手を付かせてから思い切り太ももを竹刀で叩いていたそうです。何故壁に手を付くかですが、太ももをかばおうと手を出して竹刀に当たると指の骨が折れるそうだからです。
 この竹刀の教師に限らずその方の所属していたバトミントン部の顧問は騎乗用の鞭が武器だったそうで、毎回テスト明けに赤点の数だけ部員の太ももを叩いていたそうですが、一度だけ食らったその方が言うには、

「あれは馬も走るよ」

 だそうで、相当痛かったそうです。にもかかわらずその方の友人で赤点を五つも出した人がいて、当然五回も叩かれるのですがあまりにも痛いもんだから一回、二回、三回、と太ももの裏を叩かれる度に前に跳ねて位置が動くもんだから四回目からその顧問はバトミントンで言うバックハンドで今度は太ももの表を叩いたそうで、さすがバトミントンを教えてるだけあると部員皆で感心したそうです。

 私から見たらこれらの教師の行為はさすがにやりすぎなんじゃないかなぁと思ったりもするのですが、当の本人たちはこれくらいでなければ自分たちも言うことを聞かないだろうし、元から体力が余っているというのもあって誰も不当だと文句を言わなかったそうです。また体育会系の生徒ではなくあまり運動をしない勉強型の生徒に対しては教師らもこうした体罰は行わず、代わりに授業時間中ずっと椅子の上で正座(これもきついだろうが)させることで代替とし、それに対して他の生徒も「あいつだからしょうがないな」と、不平等だとは思わなかったそうです。

 なお先ほどの竹刀の教師ですが、なんでも修学旅行中にも竹刀を持って来ていたそうなのですが、ある生徒が逆切れを起こして教師から竹刀を奪い取るやその場でへし折って、「だからなんなんだよ」とすごんだそうです。さすがに竹刀を折られた日はその教師は元気がなかったそうなのですが、まだ修学旅行中の次の日には早くも別の竹刀を持っており、スペアがあったんだと生徒全員で驚いたそうです。
 ちなみにその修学旅行は九州への旅行だったそうですが、移動手段は関東からバスと、体力自慢のその方にとってもハードな旅行だったそうです。

2009年5月5日火曜日

ホラーゲーム「零~紅い蝶」攻略完了!

 ゴールデンウィーク真っ只中というのに、用意しているネタはたくさんあるのにゲームばかりしてブログの更新をサボっていました。それで更新をサボる位にどのゲームをしていたかというと、テクモが大分以前に出した「零~紅い蝶」という、その筋では有名なホラーゲームをやっていました。
 元々この作品の前作に当たる「零」はもう六年も前に購入してクリアしているのですが、何故か続編の「紅い蝶」は今まで全然手を出さずに時が過ぎ、先週にゴールデンウィークに一気にプレイできる作品として何かないかとゲーム屋で探していたらワゴンにあるのを見つけ、今回一気に貫徹した次第です。

 さてホラーゲームというとこれまでも私はいくつか遊んできましたが、この「零」シリーズはいろんなところの評論にも書かれている通りに、「しっとりとしたジャパニーズホラー」の代表作として、恐らく日本というよりは海外での評判の方が高いと思います。私が昔に見た評論ではイギリスのゲームジャーナリストが大一作目の「零」をプレイして、

「もう勘弁してほしい。これほど恐いゲームだと評論を書く前にゲーム進められない」

 と書いていたの見たことがあり、事実イギリスやアメリカで高い評価と売り上げを収めたと聞いております。

 そんな「零」ですが、具体的にどんなゲームかというとなかなか凝った設定で、舞台はいかにもな日本家屋で出てくる幽霊も古い格好した日本人ばっか、そしてそんな幽霊を撃退する手段というのがカメラという一風変わった手段の推理アクションゲームです。それにしてもこの幽霊への攻撃手段がカメラというのはよく考えたものだと感心するのですが、見るのもおぞましい幽霊を無理やりにカメラに捉えて見なきゃいけないという作り手の遊び心が感じられます。まぁ慣れて来ると平気でバシバシ写真撮れるんだけどね。

 それでゲーム内容についてですが、正直に言って今回の「紅い蝶」も前作も非常に面白い内容でした。ただ恐怖の演出のために仕方がないとは思いますが画面全体が異様に暗いせいで、プレイしていると目が凄い疲れるのでゲームを止めた後のものすごい疲労感は言語に絶します。目が悪い私だからかもしれませんが。
 そして肝心の恐怖演出についてですが、他の人の批評を見ているとやっぱりすごい恐いという人が多いのですが、私はこのゲームでそれほど恐いと思うことはありませんでした。何で恐くないのかというとやっぱりこのゲームでは敵キャラこと幽霊を撃退する攻撃手段があるからで、逆に反撃手段が一部のシナリオでは全くなく敵から逃げ回ることしか出来なかった「サイレン」はあまりの恐さで毛布被って震えながらやっていました。

 シナリオについてはネタバレになるので詳しくは言及しませんが、日本らしいシナリオでよかったと思います。ただ少し不満を言えば、私がやったPS2版に比べてXbox版ではおまけ要素からエンディングの数でも多く付与されているのを考えるとなんだかPS2版を買った人間が馬鹿を見るような不平等さだと思います。テクモは昔からXbox贔屓だというのは聞いていますが。

 最後に第一作の「零」のレビューを漫画家の柴田亜美氏が以前に「ドキばく」というマンガの中で、ご多分に漏れずあまりの恐怖になかなかゲームが進められなかったことを書いていましたが、そのマンガの中で担当編集者に電話にて、

「ちょっとオザワ君(担当)、なんか今出てきた霊がエルフ(美少女ゲーム会社)の社長にそっくりなんだけど!」

 というセリフと共に、エルフの社長っぽい霊の絵に、「柴田さーん、またすごいの作っちゃいましたよ」というセリフをくっ付けられていたコマで爆笑したことがありました。こうしたレビューが功を奏したのか、「紅い蝶」の中では自縛霊として柴田氏やオザワ氏も出演しています。

2009年5月2日土曜日

日本人の宗教観

 よく日本人は外国人に対して自分たちは無宗教だ、宗教的にはやや特別だなどといって相手に「?」、と思わせることが多いと思います。実際に私もイギリスでそのような現場を見たことがあるし、日本国内においても自分は無宗教で特定の宗教に属していないと思っている日本人が大半だと思います。しかし結論から言わせてもらうと私は、九割以上とも言われる日本人が正月の三日間の間に初詣に行くという現象が起こっていることから、十分に宗教意識はあると思うし少なくとも無宗教だとは言わないと思います。

 例えば先ほどの初詣にしろお盆の墓参りについてもほとんどの日本人はそれが宗教的な行動だとは意識して行っていないと思いますが、神社という神様とつながりのある場所へ正月に赴いたり、死後の霊的な存在に対して線香をたくなどして敬意を表す行動を取るなど、私は外国人の目からすれば十分に宗教的な行動に見えると思います。
 では欧米人のキリスト教やイスラム教に対する行動とと日本人の神道や仏教に対する行動がどのように違うかといえば、一言で言えばそれを宗教的なものと強く意識するかしないかだと思います。日本人は初詣やお墓参りについてそれが宗教的な行動だと考えずむしろ民族的な慣習のように考えて行っていると私は考えますが、宗教も慣習が発展した一つの形態だとするならば、さらに先祖崇拝や霊的存在に対する行為だとするのならば立派な宗教的行動だと言えるのではないでしょうか。

 にもかかわらず日本人は何故最初に挙げたように自分たちは無宗教だと考えるのかというと、これまたやや単純過ぎる気もしますが、恐らく欧米人のような姿を想像しては、特定の宗教に属すからにはそれ相応の決まった規則などを履行したり信心などをしっかり持たないといけないと考えているからだと思います。
 この辺について以前に佐藤優氏の「自壊する帝国」の中で、佐藤氏があったロシア人が、

「日本人の神道に対する態度のように、ロシア人にギリシャ正教を国民宗教として持たせたい」

 と言った記述を読み、私の中で合点が行きました。

 そのロシア人は同国内の住人が皆同じロシア人だと共通意識を持つ統合の象徴としてギリシャ正教を国民宗教にしたいと考えたのですが、その言わんとする国民宗教というのはその当該国民の間ではっきりと意識しないまでも当たり前のように持つ共通認識というような意味合いです。つまり日本の神道、ひいては仏教というのは日本人の間で表立って意識しないまでも共通認識となっており、国民として統合させている一つのキーだというのです。言い方を変えれば、当たり前になりすぎていてもはや宗教だとは感じなくなっているとも言えるかもしれません。

 そういった意味で日本人は意識しないまでも、私は神道と仏教の合いの子みたいな宗教に属していると考えています。少なくともどの日本人も、「この世には、神も仏もいねぇっ!」と、常日頃からパンクロックに言っている人は少ないだろうし、また神社やお墓が何者かに破壊された際に、「なんて罰当たりな……」と思わない人も少ないとでしょう。何も欧米人のような信仰の形が決まった宗教の姿というわけではないのですから、意識しないのが自分たちの宗教観だと日本人は考えてもいいと思いますし、また最初に言ったように少なくとも無宗教じゃないというのが今日の私の意見です。

2009年5月1日金曜日

年次改革要望書について

要建て替えマンションが146万戸!全国で実質“野ざらし”の深刻(YAHOOニュース)

 上記にリンクを貼ったニュースはこのところ不況が報じられるマンション業界について、新築の着工や販売よりも建替えや補強の必要な「要建替え住宅」の対策がほとんど進んでいない現状を伝えるニュースなのですが、この記事を読んでちょっと疑問に感じたことがあるので今日はその点について書こうと思います。

 自分でもやや穿ち過ぎた見方をしているかもと思うのですが、記事中にてかつての耐震基準で建てられたマンションや建築物では阪神大震災クラスの地震が来た際に倒壊の恐れがあるものの、費用などの関係でこうした対策が現在進んでいないと報じているのですが、専門家ではないので断言こそできないものの、私の記憶では日本の建築基準法の耐震基準は阪神大震災以後、それ以前の基準より確か緩和されていたと思います。もしこれが仮に今でもその通りであれば記事中の、

「先の阪神・淡路大震災で倒壊したマンションの多くが旧耐震だったこともあり、早急な耐震補強や建て替えが求められている。」

 という記述は旧耐震基準の建物の方が頑丈なのだし、なんだかおかしな内容になってきます。まぁ本当のところはどうなのかは私では確認できないのですが。

 ところで何で文系のくせに私がこんな耐震基準について細かいことを知っているかですが、これはかつて読んだ関岡英之氏の書いた記事を読んだことから知りました。
 関岡氏はリンクに貼ったウィキペディアの記事でも書いてある通りに一旦は就職して企業で働いていたものの一度退社し、建築家になろうと大学に入りなおして建築の勉強をしていました。その勉強の途中、関岡氏は前述したように阪神大震災以後に日本の耐震基準が何故か緩和されていることに気が付き、震災によってたくさんの建物が倒壊した後にもかかわらず何故逆に耐震性の基準が緩められたのかを追っていったところ、あの悪名高き日米の年次改革要望書に行き着いたわけです。

 この年次改革要望書は事実上、関岡氏の活動によって初めて大きく取り上げられたといっていいでしょう。私も確か文芸春秋に載った関岡氏の記事で初めて知りましたが、これは宮澤喜一が無能だった割には首相だった頃、当時のアメリカの大統領のビル・クリントンとの間で日米双方で互いに要望する政策意見を交換し合おうという名目の下に始まった制度で、現在も毎年日米間でこの要望書が交換され続けています。
 もしこれが本当にただお互いの意見を交換するだけなら何も害はないのですが、よくよくこの要望書の中身を見てみるとそれ以後の日本の政策にアメリカ側からの要望が色濃く反映されているのに対し、日本からアメリカへの要望書の内容は全く実現されない、というより無視されているのに近く、実態的にはアメリカが日本に対してアメリカにとって都合のいい政策を押し付けている内政干渉なのではないかと、関岡氏が自著の「拒否できない日本」において発表したことによって日の目を浴びました。

 私はこの年次改革要望書を読んだことはないのですが(外務省のHP上で公開されているらしい)、過去の内容では郵政民営化、ホワイトカラーエグゼンプション、三角合併、法科大学院の設置などが盛り込まれていて、これを読めば日本の未来がわかるとまで皮肉っぽく言われています。
 差し当たって目下この年次改革要望書が強く影響したと思われる日本の政策変更を私から一つ挙げると、開始まで一ヶ月を切った「裁判員制度」が挙がってきます。この制度も数年前の年次改革要望書の中に入っていたそうですが、何故この制度が日本で行われるのかといえば単純にアメリカの司法制度に近づけるためだと言われています。アメリカの司法制度に近づけることでどうしてアメリカが得をするのかというと、ゆくゆくはまるまんまアメリカと同じ司法制度にしてしまい、アメリカの弁護士免許を持っている弁護士が日本でも働けるようにと、常に供給過剰と言われるアメリカ人弁護士の救済のために盛り込まれたと言われていますし、私もまさにその通りだと思います。

 郵政民営化についてはアメリカの策謀というよりは小泉元首相の私怨によって実現したと私は考えていますが、建築法、ひいては現行の司法改革については関岡氏の言う通りにアメリカの影響によるものでしょう。それにしてもくだらないニュース一つから年次改革要望書を持ってくる辺り、自分らしい書き方だなぁと思います。