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2011年8月30日火曜日

情報媒体別の信頼性

 このところ自分も元気がないのか記事を一日に二本更新することがほとんどなくなりました。まぁその原因は元気がないんじゃなくて、「モンスターハンターP2G」と「太閤立志伝5」というゲームのせいなんですが、後者は今、敦賀でOLしてたけどある日脱サラして甲賀の里で忍者になったという設定のくのいちでプレイしていますが、上役からの仕事指示で茶道を教わりに通っている千利休から何度も茶碗を盗んだりしていていろいろと胸が痛みます。終いには悪名が高まり過ぎて、柳生宗厳に突然襲われたりするし……。

 そうした雑談は置いといて今日の本題ですが、昨日総裁選に勝利した野田氏は本日晴れて衆参の決議を経て首相に就任し、これからは野田首相と呼べるようになりました。さすがに昨日の今日ということで組閣にまではまだ至ってはいませんが、党内人事には小沢派、非小沢派からそこそこ信頼が持たれている輿石氏を幹事長に迎えるなど、当初の発言通りに党内融和を図った人事を進めているようです。
 実はこの輿石氏の幹事長就任ですが本日昼ごろにNHKが、「輿石氏、就任に難色」という報道をしていました。にもかかわらず夕方には輿石氏は承諾し、NHKも七時台のニュースで昼間の報道には全く触れずに就任報道をしていました。

 まぁいくら報道機関だからと言ってなんでもかんでも正しく報道できるわけじゃないし、時にはしくじることもあるでしょうからあまり気にするわけじゃないですが、タイミングがいいというかこういった勢い余ってしまったような飛ばし報道について、池上彰氏が日経新聞に対して言及する記事をたまたま読む機会がありました。

池上彰氏が日経報道姿勢に「苦言」 「日立・三菱重工統合」続報なぜ出ない(JCASTニュース)

 件の記事は上のものですが、確か今月初め頃にあった「日立、三菱重工が経営統合」という記事を日系が出したもののその後うんともすんとも続報を出さないでいる日経(ちなみに対象の企業側は報道を否定)に対して池上氏が苦言を呈したそうなのですが、元々日経には以前からこういう飛ばし報道をする癖があると指摘されており、キリンとサントリー合併報道でもほかのメディアが「そりゃないよ」としている中で日経だけは「合意間近」と主張し続けておりました。それ故に「日経は経済面以外はいい」とまで言われる所以なのですが、大新聞や大メディアであっても一見して怪しい情報はやはり怪しい情報として終わるという例によく使わせてもらっております。

 ここで話は変わりますが自分以上に反権力の塊みたいなある友人はやはりその思想上から記者クラブで囲い込みする大メディアをとことん嫌い、情報入手先として週刊誌をよく頼り、週刊現代とビッグコミックについてなら何でも来いというのが一人います。もちろんその友人は出来がいいために週刊誌から怪しい情報は拾わずに地味に面白い情報だけをきちんと選び取ってきて末恐ろしいのですが、私も確かに大メディアは嫌うものの、週刊誌はやはりメインソースには出来ないと考えています。
 というのも昔にリアルタイムで取り上げた週刊新潮の偽赤報隊事件犯人の記事などのように時たま大真面目に平気で大ウソをこくところがあり、「所詮は週刊誌」というスタンスで取り扱わなければ変なところで痛い目に遭うと感じるからです。だからと言って週刊誌など雑誌メディアに価値がないというわけじゃなく、現在取りざたされている島田伸介氏の引退を巡る騒動については明らかに大メディアは引いて報道する中で今年四月の段階からかなり踏み込んで報道するなど、大メディアの弱い部分については一程度の信頼は置けますし情報ソースとして重宝します。ちなみに2007年くらいに確か文芸春秋は当時の中田カウス氏の報道と合わせて、サイドビジネスに執心し過ぎるとして島田氏のことを取り上げていたような気がします。先見の明があるというかなんというか。

 こうした既存メディアに対し、近年新たに出てきたメディアとしてはこうしたブログに代表されるネットメディアです。インターネット新聞については一時は一気に広がると言われながらもやはり採算を取れるところは少なく未だにごく少数でしか運営されていませんが、基本的に私はネット発の情報は初めの段階では全く信頼しません。以前にも誰かが妙なコメントをしてきた際に取り上げましたが一部のネットメディアは本当に愚にもつかない情報を最低限の確認もせずに載せたりすることがあり、しかもアクセス数を稼ぐためなのかかなり刺激性で過激性に偏ったことを書いたりします。
 個人的には今後ネットメディアもこうした情報の確証性などを組合かなんか作って高めていき、他の既存メディアと並ぶような存在になってほしいとは思うものの、現状ではまだそこまで望むべくもありません。まぁどれか一つのメディアに偏るのではなく、状況に応じて使い分けるというのが一番ベストであることに変わりはないですが。

2011年8月29日月曜日

野田氏の民主党総裁就任について

 このところ政治系記事から遠ざかっておりましたが、久々に大きく取り上げるニュースが入ってきました。
 すでにあちこちで報じられていると思うのでリンクは貼りませんが、本日行われた管首相の後継を巡る民主党代表選挙の結果、現財務大臣の野田佳彦氏が当選しました。与党民主党の代表ということで事実上次の総理就任が確実ですが、私の感想はというと意外な結果でした。

 今回の民主党代表選挙ですが、私の予想では第一回目の投票では小沢派が推す海江田現経産大臣が一位になるも過半数は獲得できず決選投票となり、その決選投票を経て前原氏が勝つんじゃないかと思っていたのですが、ふたを開けてみると一回目の投票で二位となったのは野田氏で、二回目の投票でも海江田氏を破っての当選となりました。前の記事で「小沢派は言われているほど影響力はない」と書いてしまってたのもあり、海江田氏が落ちて実はホッとしました。

 それで当選して次の首相になる野田氏についてですが、正直なところこの人の持つ政策案や人物は未知数なところが多いです。最近日本の情報から遠ざかっているのもありますが、私が唯一といって野田氏について知っていることはその財政方針が増税・健全化派だということです。
 かねてから野田氏は与謝野氏同様に財政健全化のためには増税が必要だと主張しており、なんかあっちこっちでもう書かれていますが一日二箱を消費する程のヘビースモーカーにもかかわらずたばこ税増税を自ら手掛けています。私も与謝野氏、野田氏同様に増税やむなし、下手すりゃ震災だからと言い訳せずに果断に実施すべしというくらいの立場であることから、この点については野田氏に対して好感が持てます。

 またこのほか今日になって焦って経歴とかも調べましたが、現在の管首相同様に野田氏も二世議員ではなく完全な叩き上げの議員であることも期待感が得られます。管首相もたたき上げであることからこれまでの二世議員と違って、辞任発言をしたにもかかわらずなかなかやめようとしないなど余計なくらいにタフでありましたが、近年の日本の政治的混乱は安倍首相に始まるすぐに交代する首相職が大きな原因であることから、是非とも野田氏も生半可な批判程度には負けずに任期を全うしてもらいたいものです。

 なんかつぎはぎだらけの文章が続いていますがもう一つ野田氏を持ち上げるエピソードを挙げるとすると、ちょっと時期は忘れましたが円が急騰を見せた際に記者からコメントを求められ、「状況を注視して見守っていく」と発言したことが確かありました。この発言の後、あくまでネット上ではどれだけのんきなことを言っているんだ、無策な人間だなどと激しく野田氏を批判する声が見かけられましたが、私はこの野田氏の発言を見て意外にしっかりした人だと感じていました。というのも当時の状況(現在もだけど)で日本が円高に対して打てる手段なんてないに等しく、具体的な手段に言及しようものならその程度しかもう政府には手が残っていないのかと懐を見透かされる恐れがあり、それであるのなら何も言わずに手段があるのかないのかを敢えてぼかし牽制するのが一番と考えており、まさにそのように野田氏が発言したのを見てああいう場での発言をよくわきまえている人だと思いました。

 と、こんな感じで折角の新首相なのでやや持ち上げるようなことを多く書きましたが、マスコミもすでに言及しているように野田氏を待つ現状はお世辞にも楽な環境ではありません。まず求められるのは震災被災者に対する支援と復興対策ですが、物事を決めようにも衆参でねじれ現象が起きており、なおかつ民主党内もいつものことですが一枚岩ではないために党内運営ですら困難が予想されます。また仮に総裁選前に前原氏が公約に掲げた自民党、公明党などとの大連立が起きたとしても、恐らく所帯がでかくなるだけで現在の民主党と同じ内部抗争を繰り広げるだけに終わる可能性が高いです。
 ではどうすればいいかですが、一つ考えられるのは自民と大連立した上で掲げる政策に同調できない議員らを党内から追放し、政界再編を敢えて起こすことです。リスクは高いですが成功すれば衆参のねじれを解消した上で政策を一本化し、安定基盤を作ることができます。もう一つの案としては現民主党体制を維持した上で、世代交代を進めることです。こっちの案については詳細を省きます。

 とはいえ、今の日本の状況を考えると誰が首相になるかよりもどのように首相を切り盛りするかが大事です。一国民として必要であれば引きずり降ろすべく批判しますが、そうでない場合は可能な限り応援したいと思います。

2011年8月28日日曜日

儒学の反骨性

 よくネット上などで、「日本は儒学社会だから社畜が多い」などという言葉を見かけます。この言葉の言わんとしていることは「お上に何でも従え」と教える儒学概念が日本では強いため、外国人からしたら劣悪以外の何物でもない雇用環境でも文句も言わず働く日本人が多いという意味ですが、後者の部分はともかくとして前者の部分には「異議ありっ!!( ゚Д゚)」と言いたいです。私は確かに真剣に儒学を学んだわけじゃありませんが、儒学は上意下達な学問ではなく、むしろ反骨心が高い学問だとみているからです。

 そもそもの話として、日本で儒学と言ったらほぼ間違いなく朱子学を指します。この朱子学というのは私の恩師に言わせると、「儒学の中でも極左的なもの」だそうで、中国でも一時国学化されたものの決して全土で流行ったものじゃなかったそうです。しかし何故かその極左的な朱子学は上意下達で為政者にとって都合がよかったことから朝鮮半島、そして日本では流行ってしまい、中国本国とはまた違った儒学がそれぞれの国で発展することとなりました。

 では元々の儒学はどうなのかということですが、儒学と言ってもたくさん学派があるのでひとくくりは出来ないもののその一番のバイブルとなっている「論語」においては結構反骨心が高い記述が多く、むしろ効かん気の強い学問ではないかという風に感じるところが多いです。
 そう思うような具体的な個所をいくつか紹介すると、「もし主君が正道を務めないようであれば諌め、それでも改めなければそっと離れなさい」という記述があります。これは主が間違った行為をしているようであれば批判を恐れず諌め、それでも行動を改めようとしないのであればその主君に付き従ってはならない、むしろ協力するなという意味です。またこれ以外にも間違った方向へは自分の才能は使ってはならないなど、ゆくゆく仕えるべき主君についてあれこれ注意がなされております。

 実際に古代における中国の儒学者の経歴を見ると、頑固というか言うこと聞かない直言居士ばかりが目につきます。当時から一流の儒学者だった司馬遷はもとより、今のアカデミックの主流が反権力を掲げているのと同様に儒学も権力に対して批判的な立場であるのが正位置なのではないかと思います。
 それ故に最初の話に戻るのであれば、今の日本社会は邪教がはびこったせいでいろいろおかしなことになっているのではないかと私は思っている、というか常日頃から主張しています。人間もちろん我慢が出来るというのは美徳ですが、度が過ぎた我慢というのは周囲をも巻き込み全体を不幸にしてしまうと考えます。友人などから話を聞きますが冗談抜きでどうして過労死にならないのか、なったとしても誰も気に留めないのか、年末に毎日のように人身事故が起きても誰も気に留めないのかと思うくらいの今の日本の状況においては、嫌なものは嫌とはっきり拒否する勇気が必要なのではないかと思い、本来の儒教にある価値観こそが今求められているのではという気がします。

 ちなみに日本におけるもう一つの有名な儒学の学派は陽明学がありますが、こちらも日本に伝わる途中でちょっと変遷を受けて「実践第一」が妙に重んじられるようになりましたが、そのせいか著名な日本の陽明学者は吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山と、反体制思想の塊のような面々が集うようになってしまいました。もし仮に私が為政者の側であったら、朱子学は弊害が大きいと判断して採用しない程度でほっとくでしょうが、陽明学においてはさすがにあれなんで流行らせないようにするかもしれません。

 最後にもう一つ蛇足ですが実践という話ではよく、「義の無き信念は無に等しい」という言葉を私は使ってます。これは原作:武論尊氏、作画:池上良一氏の漫画の「HEAT -灼熱-」という漫画に出てくるセリフですが、セリフが出てくるシーンのネタバレをするとアメリカで弁護士をしていた主人公の父親が世話になったマフィアのボスから、黒人への銃乱射事件を起こした白人の少年の弁護を頼まれます。目撃者も多くいたことから有罪確定とみられた裁判は主人公の父親の腕もあり無罪へと傾きますが、この父親の行動に子供だった主人公は強く反発します。
 そして裁判では最後に無罪判決が下りて裁判所から喜んで白人の少年は出てくるわけですが、主人公の父親はその背後から少年を射殺すると、自分の保険金は事件の遺族らに渡るよう手配していると言って自殺します。その父親から主人公への遺書に上記の言葉が入っているわけですが、頭で考えるだけでも駄目、実践するだけでも駄目という意味でこのエピソードをよく思い浮かべるようにしています。

2011年8月27日土曜日

各国の輸出依存度統計について

 先日自殺率について書いた記事で、「日本が最も自殺率が高いと思っていた」というコメントを受けました。実をいうと私もかつて自分で統計を調べてみるまでは同じように、恐らく1~3位には必ず入っていると漠然と考えていたのですが、実際にデータを調べてみると上には上がいるというか2010年度で日本は6位でした。
 しかしこのように「日本は自殺が最も多い国」と誤解するには、断言してもいいですがマスメディアのミスリードが原因でしょう。テレビなどで自殺が取り上げられる際には枕詞のように「先進国中最も自殺率の高い日本」という言葉が付け加えられますが、仮にこの言葉通りだと日本より上位のロシアはG7に入ってるのに先進国ではないということになります。まぁ確かに日本の自殺率は高い方ですが。

 実は最近、この自殺率と同じように実際の統計データを見てみて激しく誤解していたことに気が付いたことがありました。その統計データというのは最近あちこちでちらほら見かけるのでもしかしたら皆さんも知っているかもしれませんが、今日の題になっている輸出依存度です。

統計局ホームページ 世界の統計第9章 貿易

 社会学やっている人間からすれば必ず知っておかなければならない、というより知らなかったら冗談抜きで社会学を真面目にやっていないと言ったっていいくらいの上記統計局ホームページですが、今回私が参考にしているのは、「9-3 貿易依存度」のところにある貿易依存度のエクセルファイルです。このファイルの中には「輸出依存度」といって、どれだけその国が輸出で生計を成り立たせているのかということを示す指標があります。ちなみに計算方法は、以下の通りです。

  輸出額(FOB価格)÷国内総生産(GDP)=輸出依存度

 どうでもいいですがFOBというのは「Free on board」の略字です。最近はクーリエが流行って輸出もCIFで出すことの方が多いのですが、貿易事務屋からすると輸出も輸入もEx worksでやった方がコストの計算がしやすくて助かります。
 そういうどうでもいい愚痴は置いときまして、早速主要国の輸出依存度を紹介します。

<各国の輸出依存度(2008年)>
日本:16.1%
韓国:45.3%
中国:33.0%

シンガポール:179.0%
香港:168.6%
タイ:63.4%
アメリカ:9.0%
カナダ:29.9%
ブラジル:12.1%
イギリス:17.1%
イタリア:23.5%
ドイツ:39.5%
フランス:20.8%
ロシア:28.1%
オーストラリア:18.0%
ギリシャ:7.3%

 統計局のデータでは2009年度のデータが最新ですが、2009年はリーマンショックの影響で世界中で輸出量が大きく目減りしているので、2011年の現状に近いのは2008年ではないかという判断から敢えて2008年データを引用しました。
 このデータを見てもらえばわかる通りに日本の輸出依存度は16.1%で、実は先進国中ではアメリカに次いで低い(ギリシャの7.3%を除いた場いい)という、かなり特異な国だったというわけです。ちなみにシンガポールや香港といった、中継貿易が非常に盛んな国は100%を超えており、元データを見てもらえばわかりますがこの二カ国は輸入依存度でも100%後半に位置しています。

 こういうのもなんですが、GDP規模が小さい国であれば輸出依存度が低くてもまぁありかなという気はするのですが、日本ほどのGDP規模ながらこれほど低い輸出依存度で経済が成り立っているというのは異常な気がします。アメリカの場合はドル体制と財政赤字無視できるという環境があるからまだ理解できますが、よくこれで維持できるなというのが最初見た時の感想です。
 もう少し解説を加えると、輸出依存度が低いということはそれだけ内需の規模が大きいということです。つまりこの数値は日本は内需規模が非常に大きいとともに、必ずしも輸出に依存し切った経済ではないというのを表しています。

 私はこれまで日本というのは内需が小さい国であるから、輸出産業がなければ経済を維持することができないとずっと教え続けられてきました(特に親父から)。しかし上記統計だけで判断するのは早計かもしれませんが、このデータを見る限りですと日本は他国ほど輸出に依存しておらず、内需規模も実質にはかなり大きな国ではないかという気がしてなりません。逆に日本より輸出依存度の高い韓国などは日本の円高以上にウォン高が韓国全体の経済に与える影響は大きく、世界的な景気の影響を受けやすいとも聞きます。

 ……ここでもう記事を書き終えてもあまり問題はない、というかそうした方が差し障りはないのですが、もう少し深く突っ込むとどうして私を含め日本人は「輸出がなければ日本はやっていけない」と考えるのでしょうか(うちの親父を含め)。もちろん内需規模が大きいから輸出産業を疎かにしていいわけでありませんし、むしろ低いのだからもっと引き上げるような努力をやるべきという前向きな意見にまとめても良いのですが、その輸出を増やすために日本は何をしてきたかということです。
 ここで私が言いたいのは、自動車メーカーや家電メーカーといった声のでかい産業企業らが必要以上に日本人の輸出に対する不安を煽って、自分たちの都合のいいように世論や政策を動かしてきたのでは、ということです。今の円高にしたって輸入産業にとってはプラスに働くのですが、そういった方面の景気のいい話はほとんど聞こえず、自動車メーカーや家電メーカーの嘆き節しか報道されていないような気がします。

 そりゃ人間誰だって自分がかわいいはずですし、自分たちに都合のいいように物事を動かそうとするでしょうしそれが悪いことだとは私は毛頭いうつもりはありません。しかし根が真っ正直で真面目に嘘がつけず就職活動で苦労した私からすると、現実を覆い隠すような策謀をする人間は大嫌いですし、二次大戦中の日本みたいに虚飾ばかりの情報が流れていると世の中必ず悪くなるという確信があります。
 くれぐれも言いますが輸出依存度が低いからって日本は安心していいわけじゃありません。ただ輸出ばかりどうこうしようというのではなく、内需においてももっと考えられる方向性を考える道もあっていいのではないか、輸出産業ばかり保護する必要はあるのかというのが、今日の私の意見です。

 今日も太閤立志伝5ばかりやってたから、記事書くの遅れてしまったな(;´Д`)

2011年8月24日水曜日

悪の枢軸、電通について

 今日友人からリクエストもらったので、広告代理店の電通についていろいろ書こうと思います。それにしても我ながら思い切ったタイトルだ。

電通(Wikipedia) 

 広告代理店と言ってわかる人には話が早いですが、念のためにどういう業種なのか簡単に説明します。基本的な業務はその名の通りに「広告、PR活動を代行する」という業務なのですが、そのやっている仕事が近いということでイベントの管理や運営なども主な業務としています。ちなみに昔こういった広告代理店の業務を後輩(理系)に教えたら、「ああ、要するに下請けってことですね(゚∀゚)」と返事したので、「アホ、そんなんゆうたら世の中の仕事全部が下請けや。もうちょい経済勉強して出直してこい!(#゚Д゚) プンスコ!」ってすごんだら、しばらくその後輩は自分のことをまじめに怖がっていました。後から思うと自分でもなんであんな怒ったのかわかりませんが、その後その後輩には特別ご飯を多めにおごるように気を使いました。

 話は戻って電通ですが、その来歴を話すと元々は半官半民の国家機関のような団体で、こちらも同じく国家の意向に沿った情報を戦前に国内に流しまくってた共同通信の下部会社として設立されたと聞いています。そのため設立時期は戦前なのですが、戦後になってテレビなどのマスメディアが発達するようになって広告部門の売り上げが巨大化し、親を食うと言ってはなんですが、いつしか電通は親会社の共同通信を大きく上回る会社となり現在に至ってます。
 一体どうして広告会社がそれほど力を持つのかと不思議に思う方もいるかもしれませんが、順番的にはテレビなどのマスメディアが大きく力を持つのが先で、そのマスメディアに対して大きな力を持つのが電通ら広告代理店だからです。というのも受信料で成り立っているNHKを除いてテレビ局の収入はCMでの広告収入が主で(現在は不動産収入が主になりつつある)、その広告のスポンサーを取るためには広告代理店を経由しなければならず、業界最大手の電通を敵にしたらテレビ局は収入源を一度に絶たれるために頭が上がらないというわけです。

 なお広告業界とはいうもののこの業界は昔から電通の一巨寡占が続いており、電通一社の売上高は業界全体の過半数を越えているために業界2位の博報堂や3位のADKといった有名企業がたとえ束になっても電通の前には足元にも及びません。っていうかどうして独禁法に引っかからないのかが不思議なくらいで、それゆえに広告業界=電通という考え方は一部で正しい見方です。

 さてここまで読んで、というかタイトル見た時点でわかるでしょうが率直に言って私は電通が嫌いです。理由は色々あって公憤もありますが私憤の方が大半を占めていますが、公憤パートで電通の悪いところを片っ端からあげていくとまずはその仕事の取り方です。基本的に仕事は上にも書いてある通りにマスメディアとスポンサー企業の仲立ちなのですが、スポンサー企業から仕事を取ってくるために電通は何をするのかというと大企業の社長や役員の子女をコネ入社で毎年大量に入れております。
 具体的な名前を挙げちゃうと安倍元首相の夫人である安倍昭恵氏は森永製菓の社長令嬢という経歴からして典型で、なんか話に聞く限りですと大量にいるコネ入社組を面接を突破して入社してきた社員が必死に支えてるという、冗談でも笑えない話もちらほら聞こえます。なおほかの広告代理店も多かれ少なかれ似たようなことはしていますが、広告業界の人に話を聞いたら電通のコネ入社量は業界内でも半端じゃなく多く、えげつないそうです。

 ただこれだけであれば倫理的には好きになれない企業で終わるでしょうが、電通の問題とされていのは文字通り情報の扇動です。何度も繰り返すように電通はテレビ局をはじめとした大メディアに対し強い発言力があり、電通自身が流行らせたいと思ったものはたとえその時点で流行っていなくても「流行っている」として報道させることができます。というより、現実にテレビ局でこうして取り上げられるもののほとんどは電通、もしくはそのスポンサーの大企業の意向が強く働いているとまで言われます。
 こちらも実際に具体例を挙げると、有名なものだと今じゃ多分覚えている人のが少ないであろう「セカンドライフ」というものがあります。これはネット上における仮想空間のことで現実のように店舗を開店したりネット上の土地を売買するというような感じなのですが、事の顛末はここのサイトに詳しい通りに当初は電通が誰も知らないのに猛プッシュして一部の大企業も実際に参加したりしましたが、びっくりするくらいに流行らなくてとうとう電通自身も撤退に追い込まれたという経緯があります。ただこうして目に見えて電通が失敗したのは珍しく、世の中で流行っているものはほとんど電通が作った流行と言われています。一説には今フジテレビで問題となっている韓流猛プッシュも電通の意向かとも言われてますが、これについては生憎まだ裏を取っていません。

 まぁこれ以外にも電通にはいろいろ言いたいこととかたくさんありますし、日清ラ王の無許可山頂照英CM事件とか、あまりにも画面映り悪くて抗議が相次いだ倖田來未のキリン氷結CMなど細かいところを上げたら切りがありません。ただそれを言ったらこの広告業界自体真っ黒いところが多く、冤罪事件で有名な厚生省の村木厚子さんが逮捕されるきっかけとなった障害者郵便制度悪用事件など、これは断言してもいいですが2位の博報堂は確信犯でこの制度を悪用しており、槍玉に挙げられたベスト電器は博報堂に安い郵送料で済むと騙されたというのがオチでしょう。むしろ摘発されたこの事件以前にもどれだけ同じ悪用をしていたのかが気になりますし、何故村木さんが逮捕されて博報堂幹部は逮捕されなかったのかというのが不思議なくらいでした。

 というような具合で悪口をかなり書き立てましたが、多分そう遠くないうちに電通を含めた広告業界は力を失うというか、下手すりゃ倒産が相次ぐと予想しています。わかる人にはわかりますがリーマンショック以降はどこも広告費を大幅に削り、今の広告業界はどこも青息吐息な状態が続いています。広告業界が何故そこまで苦しくなった構造問題については今日は書きませんが、フジテレビに対して先週日曜にあれほど大規模デモが行われたのとか見るとメディアも大分力を落としたなという気がします。少なくとも、広告費で経営を立てるというのはもう至難の業でしょう。

2011年8月23日火曜日

民主党の代表選について

 辞任発言をしておきながらなかなかやめようとしなかった管首相がようやく近くの辞任を明言するようになり、その光景をめぐる民主党代表選挙の話題が盛り上がってきました。ただしょっぱなから言うのもなんですが、今の日本の政治状況は多分今まで私が見てきた中で最もつまらない時期で、私自身はというと次の後継総理が誰になろうがあまり興味が持てないのが現実です。
 すでに野田財務相などの人物が出馬を表明しており、本日には前原前外相も出馬を発表しました。私の予想だと恐らく自民党などからも歓迎されることから前原氏が固いのではないかと見ていますが、前からも言っているように前原氏は病気と言っても差し支えないくらいに異常に脇が甘いところがあり、この人が総理になるくらいなら管首相がまだ続けていた方がましなのではないかとすら考えています。

 また今回の代表選に絡んで現在党員資格が絶賛停止中の小沢氏についてもいろいろ取りざたされており、自前の小沢派総裁選に大きな影響力を及ぼすなどといろいろ書かれていますが、私は世間でいうほど今の小沢氏はそれほど力を持っていないんじゃないかと密かに見ています。その根拠というのは小沢派の国会議員は選挙当選回数の低い新人ばかりで発言力はなく、また小沢氏の周辺人物は海部元首相や小池百合子氏など年月とともに離れていく傾向があるため、ある意味では前回の選挙直後が最も力があって今だと果たしてどれだけがきちんとついてくるのか疑問です。また小沢氏肝煎りの人物だと野党もいろいろ反応するだろうし。

 それにしても自分で書いてて本当にこのところ政治話題が少ないのが嫌です。個人的には政策の話題とかもいろいろ書きたいのですがそもそも書こうとするネタもほとんどない。また震災復興についても既に五カ月以上経っている癖に具体策や案もどこをどう探しても出てこず、いくらなんでもスピードが遅過ぎる気がしてなりません。もう少し復興のためにはどれくらいの金が必要なのか、その金を用意するために増税するのか国債出すのか、増税ならどこからどうとってくるとかいう話題が欲しいところなのですが。

 ちなみに目下のところで私が一番いいと思う財源はやはり国債発行、それも個人への発行だと思います。通常の国債は銀行などが引き受けるのですが、この個人向け国債の場合は通常の国債と違って一切金利はつかないものの、もし償還前に国債保有者が死亡した場合には相続者に対しその国債には一切相続税をかけないというオプションが付くという奴です。このような国債だと将来の財政負担は金利がつかないので比較的低く、また確かに相続税収入は減るでしょうがその代りに市場に出回っていないお爺ちゃんお婆ちゃんのタンス預金を引き出す効果もあるので、総合的に見るのなら益の方が大きいのではないかと思います。

 なお余談ですが、私の母方の家系は祖父を除いてみんな年金を受け取る前に死んでおり、私も今の生活が生活なので今のところ一切年金は支払っておりません。特に一昨年亡くなった叔父などは見事に64歳という受給前ギリギリで亡くなりましたが、その叔父は生前にうちの母親を含む兄弟らとの会話で、「お墓のサイズは上を見たら切りがない、仁徳天皇陵もあるしなぁ」と、何と張り合ってるんだよという妙なセリフを口にしてました。

2011年8月21日日曜日

韓国のシルミド事件について

 今日msnニュースの方でちょっと気になるニュースがあったので、韓国のシルミド事件について書こうかと思います。

取れなかった「金日成の首」 映画シルミド(SHILMIDO)(産経新聞)

 気になったニュースというのは上記リンク先のニュースなのですが、この記事は2004年に日本でも公開された韓国映画の「シルミド」のロケ地を歩くという記事です。ちょうど今日は韓流ばかり流して偏向報道だとするフジテレビへのデモが予定され実際に決行された日なのですが、産経はわざわざこれに合わせてこの記事を持ってきたのかと少し勘ぐりたくなります。
 ただこの記事の主題となっている「シルミド」という韓国映画については私も実際に観ましたが、名前も全く知らないような韓流アイドルとかは出てこず(おっさんばかり)、変な感情抜きで素直に面白い映画だと思えました。またこの映画を通し、これは韓国でも公開当時はそうだったようですが歴史の闇というかシルミド事件についても初めて知り、当時の朝鮮状況を知ろうとする上でいいきっかけとなりました。

実尾島事件(Wikipedia)

 詳しくは上記のウィキペディアの記事を読んでもらった方が早いのですが、1968年に当時の朴正煕大統領の暗殺を目的とした北朝鮮の特殊部隊が韓国国内に侵入し、韓国の治安部隊と衝突した「青瓦台襲撃未遂事件」というものが起こります。この事件では韓国治安部隊が北朝鮮の特殊部隊を撃退して大統領は事なきを得るのですが、この北朝鮮の軍事行動に激怒した大統領は報復として「金日成暗殺部隊」を北朝鮮に送ることを企図し、特殊部隊の設置をKCIAに指示します。そしてその特殊部隊の養成地として、シルミドこと実尾島が選ばれることとなったわけです。
 このシルミドには高額な報酬に応じた一般人ら31名の隊員が集められたのですが(映画版では死刑囚などが集められたと描かれ、事実と異なっていると遺族らから抗議が起こっている)、途中で7名の隊員が命を落とすなど相当過酷な訓練が実施されていたようです。しかし部隊創設から間もなく、アメリカ側が共産圏への融和策へ外交方針を変更したことにより韓国側も北朝鮮への目立った軍事行動を取ることが出来なくなり、シルミドの部隊についても徐々にその存在価値を失っていきました。

 最終的には1971年に「部隊そのものがなかった」ことにされ、当初隊員らには支払われていた高額な報酬も徐々に減らされていき、待遇悪化に不満を感じた24名の隊員は訓練教官を殺害し島を脱出するや、真偽は不明ながらも直接大統領に抗議をするためとして韓国大統領府のある青瓦台を目指しソウルへ侵入することとなります。しかしソウル市内で韓国正規軍や警察と衝突すると、追い詰められたシルミドの部隊は奪ったバス内で手りゅう弾を使い自爆します。この時の自爆で大半の隊員は死亡し、生き残った4名もその後の軍法会議で死刑を受け翌年に全員処刑されたそうです。

 この事件は内容が内容であるだけに当時はおろかごく近年に至るまで韓国国内でも完全に秘匿されてきましたが、韓国の民主化後に初めて明らかとなり、その後この事件を舞台にした件の映画が公開されたことによって徐々に詳細が公開されるようになりました。
 私自身のこの事件の印象を話すとすれば、確かに非常にドラマチックな内容であり映画とするには恰好な事件だと思います。ただそれ以上に当時の国際状況というか、本当に007やゴルゴ13みたいな事件が現実に起きていたのかと、初めて知った際には驚きを感じました。さらに言えばこれは佐野眞一氏が甘粕正彦についての著書にて、「国家の前に個人の一生などどれほど脆いものか」と、国に翻弄され続けた甘粕の人生を評していましたが、このシルミド事件についても同じような言葉が私の中で浮かびました。

 最後に蛇足ですがあまり映画を見ようとしない自分がこの「シルミド」という映画を観ようと思ったのは、「あの映画はほんまおもろいで!」と、今は亡き叔父が強く勧めてきたからでした。自分も年をとってきたのかこの叔父のことをちょくちょく思い出すようになり、最初の産経の記事も「叔父さんがいなけりゃちんぷんかんぷんだったろうな」などということを覚え、それ以外のことを含め自分にとってはいい叔父だったということを改めて思い起こしてました。ただ叔父と旅行に行った際、叔父のいびきがあまりにもうるさくほとんど眠れなかったのだけはちょっと嫌な思い出ですが。

2011年8月20日土曜日

日本企業の経営陣給与

 時期を分けると面倒くさいので今日は経済ネタ二本投入です。以前に友人らと企業経営人の給与動向について話をした際にある友人がよく、

「日本の大企業における経営陣給与は年数千万円だが、欧米大企業の経営陣だと数億とかも当たり前だ。そういうのと比べると抱えている責任と言い、日本の経営人の給与は低過ぎるよな」

 この話を聞いた際は私もその通りだと考えましたが今となっては逆で、それでも日本の経営陣給与は高過ぎると考えています。特に長く書くほどでもないのでもうぱぱっと書いちゃいますが、こう思うきっかけとなったのは東日本大震災後の東電経営陣を見てからです。さすがに前の社長は散々抵抗したものの辞任することとなりましたが会長はそのままですし、それ以外にも管理職の人間らの発言などを聞いていてこんな連中があれだけの報酬を受け取るのかと思うと虫唾が走りました。また東電に限らなくとも企業が不祥事を起こしても本当にとんでもないくらいの大問題でもなければ役員連中が謝罪することはおろか、末端の現場社員が詰め腹切らされて責任を取らされるというのも数限りない気がします。

 では欧米はどうかと言えばアメリカの金融系企業をはじめとして恐らく似たり寄ったりじゃないかと思いますが、果たして役員に対してこんなに大金を支払うべき価値があるのかと思うとそろそろ真剣に議論してもいいんじゃないかと思います。以前にもこの関連で記事を書きましたが、私の主張としてはもっと賃金報酬の査定を細かくし、長期のプロジェクトにかかわる立場であるのであればむしろ退任後5年間程度の業績を判断して支払うというのも一つのやり方ではないかと思います。

日本的経営とねずみ講

 かなり今更な話だと自分でも自覚しておりますが、どうもよそで見ていても誰も主張する人がいないので記念に書いておくことにします。

日本的経営(Wikipedia)

 日本的経営とくれば現代ではすでに死語ですが、歴史を軽く紐解くと90年代半ばまでは非常に幅を利かせて世界で最も優れた経営方法だと多分日本人たちは疑わなかったと思います。しかし失われた十年の後半に至ってさすがに維持することができなくなり、中高年のリストラ開始によって一度否定されるものの2000年代中盤頃にトヨタやキヤノンといった企業経営者(奥田&御手洗、何気に二人とも経団連会長)が、実際には日本的経営とはかけ離れたことをやっておきながらも、「日本的経営を放棄して成果主義に走った企業は負け、維持した我々が勝ったのだ」と主張したことで、あくまで私の私感ですが一時また持ち上げられていたような気がします。
 しかしそう主張していたのもつかの間、サブプライムローン問題が火を噴いた2008年を過ぎるとそんなこと言ってた連中もさすがにいなくなり、現在では「ああ、そんなのもあったね」といった感じの概念になりつつあるのではないかと思います。

 それでこの日本的経営ですが、ウィキペディアにも書いてある通り具体的な要素としては主要なもので以下の差難点が挙げられます。

1、終身雇用
2、年功序列
3、企業別組合

 結論から言ってしまうと上記の三要素は既に日本企業にはありません。かろうじて残っていると呼べるものとしたら2番目の「年功序列」くらいですが、1番目の「終身雇用」は完全ズタズタになって消え去っておりますし、3番目の「企業別組合」に至っては大企業にはまだ残っているものの、不景気という時代ゆえか解雇阻止や賃上げ要求する方が明らかに間違っていると言われかねず、その機能を完全に失っていると言っても過言ではありません。
 そんな当たり前のこと言うだけなら誰でもできるし以前にも私自身書いていますが、今回ここで改めて主張しようと思うのは、そもそも論として日本的経営は成り立つはずがないという話です。

 結論から先に言うと、具体的にどこが問題なのかというと2番目の「年功序列」で、だれも言いませんがこれは冷静に見るなら詐欺商法でお馴染みのねずみ講と同じ構図じゃないかと私は考えています。この年功序列というのは勤続年数に従って給与と社内地位が向上していくというシステムで、日本的経営が機能していた頃にはこれがあるおかげで従業員の離職率は低くなり熟練度が高い社員層が構築できると言われ、機能しなくなった頃には無能だろうと昇進して給与コストが無駄に増大すると言われました。
 基本的には機能しなくなった頃に言われていた批判内容で私も間違っていないと思っているのですがこれに付け加える形で敢えて述べると、以下の二点について言えると思います。

1、勤続年数とともに昇進する→昇進させた社員の分だけ部下となる社員数を増やさなければならない
2、勤続年数とともに給与が増える→増やす給与分だけ売り上げ、収益を増やさなければならない

 まず一番目の点についてですが昇進させると言っても名ばかり管理職とするのならともかく、数名の部下とかを付ける役職にするのであれば昇進させた社員数の倍数分だけ新入社員を補充しなければなりません。これはつまり初年度に5人からスタートしたとして、その5人が管理職にさせる頃には5×5=25でほかに25人の社員がいなければならず、さらにその25人が管理職となる頃には25×5=125人と、かなり単純な図式とするならこのような具合でどんどん倍々ゲームで社員を増やさなければ成立しません。
 次に二番目の点ですが、これも一番目同様に一定の所で限界値は設けてたでしょうが、年々給与を増やすのであればその分だけ支払い余力も増えてかなければなりません。これは言い換えるなら毎年売り上げと収益が増えなければ成立しないということで、先ほどの倍々ゲームと組み合わせて考えると、マイナス成長がありえないという前提でなければ絶対に成立しないと言ってもいいでしょう。

 この二つの図式を組み合わせて考えるなら、倍々ゲームで何もかも伸びていくというねずみ講と同じ構図、言い切れば絶対に成立するはずがない構図じゃないかと私は考えています。もちろん実際には何が何でも給与を増やすとかそういったことは毎年行われてたわけじゃなく、時期によっては労使で調整とかされていたそうですが、新卒一括採用制度とも組み合わせて考えると都合のいい考え方してんじゃないかと思います。

2011年8月17日水曜日

サッカー選手に見る日本の希望

 私は国外にいて見ることができませんでしたが、先週行われたサッカーの日韓戦は大いに盛り上がったと友人から聞きました。ちょうど韓国国内のKリーグが八百長で揉めていて韓国チームは本調子ではなかったとはいえ、3対0というハイスコアで見事勝利を収めたという報道を耳にした際は私もやはりうれしく感じました。この試合について先日に友人とも話しましたが、前回のワールドカップの前後で本当にいつの間にと言うべきか日本人選手は世界の強豪とも渡り合えるほど成長しており、冗談抜きで今だったら並みのチームには絶対に負けないのではないかという気がします。

 そんなすっかり様変わりした日本のサッカーですが、強くなったとともにこれでもかと言わんばかりのスター選手も続々と現れています。まずその代表格とも呼べるのはワールドカップで活躍した本田圭祐選手ですが、前にいた会社ではワールドカップ開催中の朝礼の際に部長が、「えー皆さん寝不足かと思われますが、『本田なんかいらねぇよ』と言って本当にすいませんでした」と、いきなり謝ってきたのは非常にいい思い出です。この本田選手について私はワールドカップを通して初めてその名を知ったのですが、調べてみるとそれ以前からもビッグマウスで有名な選手だったようで先ほどの部長のように反発を持っていた人も少なからずいたようです。
 ただワールドカップの活躍以後、私も興味があって本田選手についていろいろ調べたのですが今まで読んだ中で一番印象に残ったのは本田選手のお兄さんによる弟についてのインタビュー記事で、小さいころから負けん気が強かったのはもとより目標意識が非常に高く、海外に出てサッカーをするという目標も早くから立てるとそのための努力を一切怠らず、きちんと実現したという話には思わずため息が漏れました。またワールドカップ以降の本田選手の発言を見ていると確かに不遜な物言いが多いですが、勝利した試合後にもまだまだ問題点が多いと必ず苦言を呈すなど、高い目標意識を常に維持してそれをきちんと実行に移そうとする姿は強い尊敬の気持ちを覚えます。

 またこの本田選手とともに現在最も注目を浴びていると言っていいのは、クラブ世界一ともなったインテルで活躍する長友佑都選手です。この長友選手についてもアジアカップの異常な活躍(ほかの選手の二倍近く走っている)を聞いてから興味を持ったのですが、ちょうど日本に帰った際に読んだ長友選手の記事を読んで改めてとんでもない選手だと思わせられました。
 長友選手については知っている方も多いでしょうが、彼のこれまでのサッカー人生はエリートとはとても呼べない来歴で大学時代は椎間板ヘルニアを患い試合にも練習にも出られなかったそうです。しかしそんな不遇な時代にもかかわらず長友選手は、

「神様は乗り越えられる困難しか与えない。これを乗り越えたら、でっかい自分が待っている」

 と考え、長期のリハビリを経てついにはヘルニアを克服したそうです。またこの時の経験から徹底的にフィジカルを鍛えるようになり、まさに長友選手の言ったようにそれが外人選手に対して当たり負けしない現在の体を形作っているとのことです。

 実はこの長友選手のインテル移籍というニュースを初めて知った際は失礼ながら誤報かと思ったのですが、確実な報道と聞いた後も本当にインテルで活躍し続けられるのかという心配をしていました。ただこの時の私の心配はその後の長友選手のインテルでの活躍を見るにつけ杞憂だったとわかり、現在も活躍のニュースを聞く度に余計な心配をしてしまったのだと申し訳ない気持ちにさせられます。

 その長友選手ですが、今年三月の日本での震災直後は欧州チャンピオンズリーグの試合に出場していました。そこで長友選手はアウェーの地ながらも試合後に日の丸を掲げ、世界に対して改めて日本をアピールしてくれましたが、当時の日本の状況を思うにつけこの長友選手の行動には本当に頭が下がる思いです。
 私は以前にも見上げた若者としてプロ野球の田中将大選手やゴルフの石川遼選手を挙げましたが、この二人に限らず今日ここで挙げた本田選手や長友選手など、一人の人間として深く尊敬できる若者がたくさん現れているのを見るにつけ日本の将来は凄く明るいのではと元気づけられます。

 ただこれは逆を言えば、現代の大人たちは一体何をやっているんだという反感ゆえでもあります。政府にしろ東電にしろいい年した大人たちがどうしてこんな非常識的ともいえる行動や発言を繰り返すばかりか、責任から逃れようとする姿を見るにつけもっとまともな人間はほかにいなかったのか、どうしてこんな人間が上に上がってこれるんだと深く考えさせられます。これも前にも書きましたが私は「社会人」というのは無責任な人間のことを指すと考えており、社会人じゃなければいっぱしじゃないという余計な概念は早いうちに取っ払わなけれなならないと思っています。
 若者の分際でと私も常日頃から何度も言われていますが、若者だから年上の人間になんでもかんでも劣るという理由にはなりません。むしろ若者だからこそ、こんな無責任な世の中を少しでも良くするようにしなければと、本田選手や長友選手にはまだ程遠いですが立派な若者になろうと感じる次第であります。

2011年8月16日火曜日

人を試そうとする癖について

 どうでもいい話から始めますが、最近自分で検索して置きながらなんで検索したのだろうというので下記の2ワードがあります。

「高見盛 スクリーンセーバー」、「甘利神拳」

 そういう話は置いといて今日の本題ですが、記事書く前に思いっきりガンダムの歌を歌っているので今日はかなりテンションが高く、普段は書かないというかそこまでやる気の起きない思想面の話を一本書こうかと思います。

 突然ですが私が友人らから最も注意されることとして、「他人を試そうとするような質問はよせ」というのがあります。これは会話の最中に私がしょっちゅう、「~はわかるよね?」とか「君はどう思う?」などと唐突に質問をぶつける癖があり、友人らの言う通りに実際に相手の反応や思考力を常に注意して測ろうとしています。もちろん信頼している友人らに対してはどんな回答をしたところで評価を変えることはありませんが、自分が指導している後輩らやあまり親しくない知り合いに対しては明確にランク付けを行っては会話のテンポや内容などを相手の力量に合わせるなど意識的に態度を変化させています。
 私の実感だと通常の人と話をする際は本気の会話速度に対して大体5割程度のテンポに落としつつ、会話をしながら次の相手の返答を予測してその予測に対して次にどんなことを口にするかを常に想定しながら話しています。逆に手ごわい相手だったら一切そんな予測はしないでノーガードで打ち合うわけですが、意識的に上げられる会話速度は8割程度で、全力レベルともなるとその時のテンションや相手など条件が揃わないと実感ができませんが、全力を実感できた際は文字通り短い時間内にとんでもない情報量を交換したという確実な感覚があります。

 そんな相手のレベルを測るという悪い癖ですが、自分でもよくないと思うし相手に失礼だと思いつつもどうしてもやめることができずにいます。別に楽しんでやっているというわけではないですが、自分でも女々しく思うもののこれまでの過去の経験による悔しさからかやらずにはおれないというような心境です。
 これまでも何度か書いておりますが、小学生時代はともかくとして中学、高校時代の私は周囲でもかなり浮いていた上に実際に卒業後、当時のクラスメートから頭のおかしい人間と言われていたと話を聞きました。当時の私はプライベートで結構問題を抱えていた時期で常にあれこれ考えていた時期で、人間の生存目的やら社会的価値、果てには今ブログで書いているような国政政治問題などを考えていたわけですが、今現在の自分でも実際にそんなことばっかり考えている中学生がいたら面倒そうな奴だと思います。ただ当時の私は妙なところでストレートさというか素直さがあり、間違っていると思うことに対して、考え方は浅いもののはっきり間違っていると主張するようなところがあり、そういうところが先のクラスメートらの評価につながったと思います。

 周囲の評価なんて気にしなかった、と言えれば確かにいいのですがやはり耳に入ってくるものは色々気になるものです。そのためこれはかなり昔の記事にも書いていますが当時の私は自分が考える最も正しい路線を守るべきか、それとも周囲に迎合した路線をとるかで非常に悩んでいました。最終的には何も考えずに周りに合わせて失敗したらただの馬鹿だが、自分の理性で判断して失敗したらまだ救いはあるはずだ、戦前の日本人はそこで間違えたんだと思って結局周りに一切妥協することなく独自路線を貫いたわけですが、大学に入学後はそうした独自路線を歩んで得た知識なり考え方が友人らに評価してもらえようやく安息のようなものを得ることができ、現在の自分、ひいてはこのブログの盛況につながっているように思えます。

 それが何で人を試そうとする癖につながるかですが、非常に情けない話ですがこうした過程を経た自分はやはり自分に正当性があるということを主張したければ証明したい、強く言ってしまえば認めさせたいという妙な名誉欲を持っています。今まで散々人のことを馬鹿のような言い方をしてきた人間に対し自分が培ってきたものの、具象化は出来ない思考や知識、論理というものが如何に優れているのかを見せつけたいという気持ちで満杯です。
 もちろんそんなくだらない名誉欲は足かせになるだけで何の役にも立たないというのはよく理解しているつもりですが、仮に自分が「過去のことはもういいよ(´∀`*)」なんて考えてしまったら、誰も理解者がいなかった当時に文字通り血の涙を流してまで節を曲げなかった子供の頃の自分はどうなるんだということになるように思え、自分が自分を裏切ってはならないとこれまた妙な価値観を持ってしまっています。ただ敢えて公益的な立場で言うと、自分がこのような立場をすることで昔の自分のような人間が存在できる幅は広がるのではという甘い期待も持っています。

 はっきり言ってここで書いていることは自分でも妄想に近い内容だと思います。ただ昔の自分を思うにつけ「まだまだ青いな」と考え方の未熟さを感じるとともに、問題に対するストレートな感情の持ち方(「○○をぶっ殺せ」と平気で広言してた)は今ではすっかりできなくなってしまい、「あれが、若さか……」などと振り返ることが増えてきました。ついでに書くとこのところ鏡で自分の顔を見る度に目つきが明らかに丸くなっているのも、トータルバランスは良くはなっているんだけどと複雑な気持ちにさせられます。

2011年8月14日日曜日

神様の実証性

 先日、友人とともにかなり久々に宗教関連の話題をして盛り上がりました。ここでいうのもなんですが私は一時期はキリスト教にはまってて真剣に受洗も考えたほどでしたが最近はめっきり信仰心が薄れ、一般的な日本人と同じくらいに距離を置くようになりました。一緒に話をした友人は私と違って徹頭徹尾宗教を批判する人間で、森元首相同様に「宗教は心の阿片」と言ってはばからない友人ではありますが、そこはさすがに私の友人だけあって宗教的価値観や思考法、論理の立て方に対しては単なる宗教批判者にとどまらずじっくりと話し合うことができます。

 そんな友人と昨日話した内容はかなり多岐に渡るのですが、一つの大きなトピックスとして神様の実証性がありました。ここでいう神様とはキリスト教やイスラム教における唯一絶対神を指していますが、私は基本的に信者の方とはいえ無条件で神の存在を肯定する方はあまり信用しません。この辺について猫好きを広言している作家の佐藤優氏の言葉を借りると、キリスト教というのは投資対象としては非常に利回りや確実性の低い宗教であるそうで、このまま現世で生きていくとしても苦難しかないと言い切った上、しかも信仰を保ち続けその苦難に耐え抜き天寿を全うしたとしても天国に上れるかどうかは全くの未知数で、それにもかかわらずただ信じよという宗教だそうで確約というか保証は全くないそうです。それは神様の存在性についても同じで、存在する理由からしている根拠も全くと言っていいほどないのですが、その点についてもただ「信じよ」というだけです。

 もっともこれを言ったら日本で強い仏教においても同じで、仏様からトイレの神様に至るまでそこに存在する理由は皆無に近いです。にもかかわらずどうして人間というのはなにかと神様という霊的存在をどこかしらで信じようとするのか、この辺について解説しようものならとんでもない分量になるので触れませんが非常にもろい基盤の上にあるからこそ存在していると私は考えています。ただこうした議論は何も今に始まるわけじゃなく原始以来繰り返されており、特に近代で実存主義が勃興した時代においては当時のアナーキーな思想とともにいろいろ語られましたが、その実存主義の旗手たるニーチェは下記の有名な言葉を当時に書き残しております。

「神は死んだ ニーチェ」

 これは以前に私が知り合いから聞いた話ですが、上記の言葉がある日どこかの欧州の大学で落書きされていたようです。この事実自体はよくありそうな話で特別おかしなことはないのですが、その落書きがなされた翌日、書かれたニーチェの言葉の横にはこう付け足されていたそうです。

「ニーチェは死んだ 神」

 少なくとも神が死んだかどうかは実証できませんがニーチェが死んだのは明確な歴史的事実ですから、上記の落書きだけにおいては神様のが存在感が溢れてる気がします。

2011年8月12日金曜日

私の好きなゲームBGM

 私はあまり音楽は聞かない生活をしていますが、ゲームはよくする方なのでゲーム中に使われるBGMなんかだと気に入ったものはサントラを買ってたりします。先日も日本に帰った際には昔懐かしいのもあって「女神異聞録ペルソナ(PS版)」のサントラを持って帰ってきましたが、音源で言えば明らかに現代のゲームに劣るものの、やはりメロディのいいものはいつ聞いても悪くないものだという気がします。
 そこで今日は、敢えて古いのに絞って私がひいきにするゲームBGMを紹介しようと思います。最近こういう趣味関係の記事もほとんど書かなくなった、もといネタ切れしているのですが、たまにはこういうの書かないと本当にやってられません。

1、ドラゴンクエストシリーズ
 日本人なら誰もが知る有名なRPG作品ですが、未だにブランド力が圧倒的というだけあってBGMも毎回作りこまれております。各作品のメインテーマは言うに及ばずですが、敢えて一つの作品を上げるとしたら3が最も好きで、フィールド上の音楽とラスボスであるゾーマ戦の曲は傑作もいいところです。

2、ファイナルファンタジーシリーズ
 この作品も有名でみんな知っているでしょうが、個人的な感想としては音源がよくなっていくにつれてどんどん曲は悪くなっていったシリーズのように思えます。単体作品で好きなのは6と7で、7では汎用ボス戦の曲がお気に入りで無駄に文化祭とかで流してました。

3、ロマンシングサガシリーズ
 これは知っている人は多少限られてくるでしょうが、イトケンこと伊藤賢治氏によるBGM群は一度聴いたら二度と耳から離れないほどのインパクトがあり、今でもサントラ買おうかいろいろ迷ってます。個別の曲は挙げだしたら切りがないのですが、初代ロマンシングサガでは「下水道のテーマ」が場面にそぐわずかっこ良すぎると評判でした。またロマンシングサガ3ではやったことがある人ならみんながわかるでしょうが、「四魔貴族バトル2」という曲が異常というか圧巻過ぎて、未だにこれほどテンションの上がる戦闘曲は聞いたことがありません。極め絵付けは「ロマンシングサガ ミンストレルソング」で流れた「熱情の律動(通称:ヘェーラロロォー)」という曲で、これなんかはネット上でも一時取り上げられましたが最初に聞いた時は本当に(;゚Д゚)エエーって顔になり、イトケンは未だここにありというのをはっきりと見せつけられました。

4、ゼルダの伝説
 恐らく総合的なBGM評価だとこの作品が白眉です。長いシリーズ名だけあってメインテーマなんかは定番化していますがいつ聞いても飽きがないというか、むしろ久々に聞くといろんなことが一挙に思いだせて震えてくるような曲です。以前にYoutubeでこのメインテーマのオーケストラバージョンを聞いた際なんか感動して涙が出てきたほどでした。

5、クロノトリガー
 これまた古い作品ではありますが、当時のスクウェアの技術力を結集させた作品だけあって名場面も多く、その場面ごとに流れる曲も秀逸なものばかりでした。個人的に好きなのは「カエルのテーマ」と「時の最果てのテーマ」です。

6、俺の屍を超えてゆけ
 通称オレシカ。今度リメイク版が出るらしいですがすっとんきょんなタイトルの割に世界観は和風のRPGゲームです。和風なだけあってBGMも基本的には和楽器がメインで使われているのですが、地味で渋い曲ながらなかなか耳に残る音が多く、個人的には武術大会での戦闘で使われる太鼓の曲が一番好きでした。

7、ドラゴンボールZ~スーパーサイヤ伝説
 これまた古いゲームを出してきましたが、初期のスーパーファミコンゲームながらBGMは非常に秀逸で、特にラスボスのフリーザ戦の曲は名曲と言っていいと思います。ただBGMがいいゲームはクソゲーが多いというだけあって、ゲームバランスがあまりにもひどいゲームでしたが。

8、アクトレイザー
 いろんな意味でゲームBGMを変えたゲームBGM。なんでもこのゲームの曲を聞いたスクウェアのスタッフは既に作曲済みのFF4の曲を廃棄して全部作り直したほどのショックを受けたそうですが、事実現在に至ってもこのゲームのサントラは高値で取引されていると聞きます。私自身もこのゲームは何度もクリアしたほどで、戦闘シーンから町のシーンまで寸分の隙がないほど名曲の塊でした。ゲームも面白かったのですが、いかんせん続編は悪すぎた。

  

2011年8月11日木曜日

豊臣秀吉の本能寺黒幕説について

 たまにネットで見るので今日は本能寺の変の黒幕が実は豊臣秀吉だったという説を解説するとともに、私の見解を紹介します。
 まず本能寺の変とくれば説明するまでもないですが、ほぼ天下を手中にしつつあった織田信長が京都で明智光秀の謀反によって打たれるという、ある意味戦国最大の逆転劇ともいうべき事件です。この事件に関して謀反を行ったのは一般的に明智光秀単独犯という説が強いですが、これに対し実は豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)も荷担、つまり共謀していたというのが今回の黒幕説ですが、こうした説が唱えられる論拠を書きに挙げていきます。

<豊臣秀吉の狙い>
 明智光秀に織田信長を殺害させ、さらに明智光秀を謀反人として罪を被せて打ち倒すことで織田家の実権を握り天下を掌握する。

<豊臣秀吉黒幕説に挙げられる根拠>
・中国大返しの手際が良すぎる(初めから信長が殺されるのがわかっていて事前準備があった)
・毛利氏に先駆けて乱の事実を知った
・そもそも信長が京都に来たのは秀吉の援軍要請を受けての行動
・明智光秀が反乱を起こした動機がやや不明瞭
・さらに反乱後に光秀の所に味方が思ったより集まってこないなど、計画にずさんさがある
・これら計画のずさんさは秀吉がうまくそそのかしたためでは
・こういうことを計画しそうな奴が秀吉のそばにいる(黒田官兵衛)
・その黒田官兵衛は本能寺の乱を知った直後、「やったじゃん秀吉ぃ(*´∀`)」って声をかけた
・撤退する秀吉軍を毛利が追わなかった(既に話がついていた)

 ざっとまとめるとこんなところです。なんか見てみたら私が地味に話し方の真似をしようとして断念した、「その時、歴史が動いた」の松平定知氏もこの説をよく主張しているそうです。
 それでこの説に対する私の見解ですが、やっぱりいくら何でもこの説には無理があると思え、フィクションのネタとして小説に使うならともかく実際にこうだったと主張するには無理ではないかと思います。というのもかなり昔、具体的には2005年の夏にわざわざカレー作って待っていたのに、「昼にすき屋のハンバーグランチ食べて調子悪くて」と拒否した友人に対して物凄い不機嫌になりながら議論して、この時にある程度結論が出ています。ちなみにその友人曰く、ハンバーグランチはほどなくしてメニューから消えたそうです。

 秀吉黒幕説が無理だと考えられる理由ですが、こちらも箇条書きで書くと以下の通りとなります。

<秀吉黒幕説が無理だと思う根拠>
・秀吉軍は毛利方の追撃を受ければ完全壊滅となるため危険が高すぎる
・毛利は追撃しないという密約があったとするが、高松城戦での和議条件に清水宗治の切腹を出すのはやや不自然
・しかも毛利家は和議後に本能寺の変を知り、実際に追撃を検討している
・本能寺の変の直後に明智光秀は各地に書状を何枚も出しているが、共謀者として秀吉の名前を出していない
・さらに言えば山崎の合戦前後、「一緒に約束したじゃん(つд;)」とは光秀は一言も言っていない
・山崎の合戦後、織田家を始め他家でも誰もこの件の陰謀論を主張していない

 最後に書きましたがこの秀吉黒幕説はやはり陰謀論の域を出ないかと思います。とはいえ「東日本大震災はアメリカ軍の兵器実験だったんだよ!」というようなトンデモ論・陰謀論は人間社会が成り立っていく上で欠かせないエッセンスだと考えているので、この秀吉黒幕説も全否定せずに交換に流布する程度なら「だったら面白いね」という具合で見ていようかなと思っています。
 ついでにトンデモ論だとこの前はマヤ文明の暦か何かで今年の前半に世界が滅亡する予定だったらしいですが、以前どこかのサイトで「世界は既に何度も滅亡していた」という題でこれまでの滅亡論とその年代をまとめてありました。ノストラダムスの1999年を過ぎてからというものこういうトンデモ論が減ってきてさびしい限りですが、「中国バブル崩壊論」もこの十年でいろんな人があの手この手で主張してきているので、なんかこの手の議論に近くなってきている気がします。今度これまでに崩壊論を主張した人をまとめてみようかな。

2011年8月10日水曜日

天智天皇の謎

 久々に歴史記事、しかもまた古代史ネタ。これまでの古代史ネタは基本的に古事記に沿った解説が多かったですが、今回はやや時代が飛んで大化の改新についてです。
 この大化の改新は中学校はおろか小学校でも自明の史実として教えられますが、私は内心、真実はどうだったのかと教えられている内容について疑問を感じております。基本的に現在教えられている内容は日本書紀に書かれている通りですが、この日本書紀自体が後の天武天皇とその一族の正当性を強く主張するための書物であり、当たり障りのない部分ならともかく天智、天武系が権力を握っていく過程においては鵜呑みにしてはならない部分が多く、事実冷静に見つめると不自然な場面も少なくありません。

 いくつかそういった不自然な場面を上げると、代表的なのは天武天皇と天智天皇の息子である大友皇子の後継争いです。詳しくは語りませんが当初天武天皇は後継争いを避けて岐阜県に流れたにもかかわらず、その後反乱を起こして天皇位を簒奪しております。ただそれ以上に怪しいのが今回の大化の改新、もとい天智天皇の来歴です。

 大化の改新は専横を振るう蘇我氏を打倒して中央集権制(=律令制)へと舵を切るために天智天皇(=中大兄皇子)、そして藤原氏の祖先たる中臣鎌足が起こしたクーデターでありますが、そもそもの話として当時にはすでに亡くなっておりますが蘇我馬子は聖徳太子、推古天皇とともにまさに天智天皇が目指した中央集権制国家樹立に向けあれこれ努力していました。そりゃ確かに息子や孫の代ともなればいろいろ考え方が変わってくるかもしれませんが、本当に蘇我氏が専横を振るっていたのかいまいちパッと来ません。
 またこれは前の陽月秘話時代にもたびたび主張していましたが、「天皇」という言葉は後の天武天皇が最初に使い出したと言い、それ以前の国のトップには「大王」という呼称がつけられていました。この大王という呼称ですが本当に現在にも続く天皇家の一族が世襲で呼ばれたのか、私はむしろ当時の近畿に存在した豪族たちの中で最も力を持っていた人間が就く称号だったのではないかと見ており、必ずしも大王=天皇家とは言い切れないのではないかと考えています。それ故に聖徳太子の時代において当時の最高権力者は推古天皇ではなく、むしろ蘇我馬子だったのではないかという仮説をかねてから主張しています。

 根拠ははっきり言ってないに等しいですが飛鳥寺など大規模建築を行った権力といい、石舞台古墳など臣下の人間にしては妙に大規模な古墳に埋葬された点などを考慮すると、推古天皇よりも名目上でも実質上でも権力が上だったとしかちょっと思えません。この蘇我氏の天下は次代の蘇我蝦夷、入鹿の時期でも変わっておらず、それをひっくり返して天皇家の世襲を確立させたのが天智、天武天皇ではないかというわけです。
 ただこの天智、天武の兄弟は百人一首にも入れられている額田王という女性を取り合ったといわれるなど傍目にも仲がいいとは思えず、それ故に日本書紀における天智天皇の活躍は華々しいもののどか曖昧模糊とした感があります。特に一番謎、というより飛鳥・奈良時代で最大の謎とも言っていいのは孝徳天皇、斉明天皇の死後、天智天皇は最高権力者となるもののしばらくは天皇位を継がず、称制という形で皇太子の中大兄皇子のまま政治を切り盛りしていました。一体何故天智天皇はすぐに天皇につかなかったのか、理由は色々あってはしたないのだと当時から近親相姦はタブーとされながらも実妹と懇ろな仲だったとか、国内事情に配慮してだとかいろいろありますが未だにはっきりしません。

 それだから私は一時期、天智天皇というのは蘇我氏から政権を簒奪するという悪行をおっかぶせるための架空の人物ではないかとも思ったことがありましたが、奈良時代は天武系の一族が代々天皇位に就きましたが末期になって途切れ、そこでピンチヒッターとばかりに天智系の光仁天皇が即位して現在にまで続いていることを考えると、さすがに存在しなかったってのはありえません。となると存在したものの、経歴については謎が残ったままというまたも締まりのないオチとなるわけですが、天智天皇同様に中臣鎌足、そして実質奈良時代の礎をすべて築いたと言っても過言ではないその息子の藤原不比等についても色々疑問があり、ここら辺については今後の研究を心待ちにしていきたいと思います。

2011年8月9日火曜日

昨日今日の世界同時株安について

 前置きはもう必要ないでしょうが、米国債の格付けが下がったことをきっかけとして昨日今日で世界同時株安が発生しました。この株安とともに日本円は再び上昇しまた1ドル=76円台が見えてきましたが、恐らくこのまま史上最高値を更新するのではないかと私は見ております。たた言ってしまえばこの流れはある意味必然ですし、先週に日銀が介入したのも日銀の立場からすればやらざるを得ないとわかってはいたものの、多分今日のように円高の流れは食い止められないと予想済みでした。

 それでは今回の株安が今後どこまで発展するかですが、すでに出ているように「リーマンショックの二番底」という表現が適当ですし、下手すればリーマンショック以上の歴史的な経済後退になる可能性もあると思います。その根拠を上げるとリーマンショックは金融界が大打撃を受けたものの、製造業など実業メーカーらはそれまでの好景気などによって内部留保を蓄えているなど比較的余裕を持っていました。然るに現在の企業は日系企業をはじめとしてリーマンショック以後の不景気にさい悩まされてきているため余裕が少なく、今回の株安をきっかけとした再度の景気落ち込みによっては大型倒産が相次ぐかもしれず、それによって失業者が今以上に、大幅に増えることもあり得ます。

 また今回の株安のそもそものきっかけは米国債の信用不安に端を発していますが、ドルに限らず現在ユーロも非常に不安定な状態が続いており、またその煽りを食って日本円は円高となっておりますがこれが日系企業を苦しめているなど、どこから手を付けたらいいのかわからないような状態が続いています。これら現象はちょっと自分でもいい過ぎな気もしますがいわばドル体制の不安で、今後ますます続くようであれば世界中で通貨危機みたいな状態になるかもしれません。また実際に通貨危機とならずともその混乱で財政破たんする国家も続出するでしょうし、現実に懲りないギリシャのみならずイタリアやスペインなどといった大国でも財政危機が叫ばれています。

 ではこれから日本は、ひいては世界はどうするべきなのでしょうか。まず喫緊の課題はリーマンショックを引き起こしておきながらもアメリカが延命させた世界大手の金融企業を今度こそ息の根を止める、というのは言い過ぎですが、やはり厳しい規制をかける必要があるでしょう。その上で日本はできるだけ明るく派手に騒いで、変な話ですが今のうちに潰せる企業は潰してしまい、産業再編を進める以外は何も打つ手がないと思います。もちろんこうしたって事態が開けるわけではありませんが、将来につなぐという意味ではしないよりした方がいい気がします。
 恐らく明日からも株価は下落していき、一呼吸おいてまた下落するという循環が続いていくと思います。はっきり言えば希望なんてないです。無論これらは一素人の私自身の意見であって大はずれして笑いものになるのかもしれませんが、昨日今日の株安を市場の一時的な動きというよりは地震のように積もり積もったエネルギーがついに動いたもののように思えたことだけは今日のブログに残しておこうと、キーボードをたたいた次第です。

2011年8月8日月曜日

京都にある大学

 このところ固い記事ばかりで、なおかつあまり文章が乗れていないのでやわらかい内容で今日は行こうかと思います。

 さて私はこのブログですでに何度も書いていますが京都の私立大学の社会学部出身です。この学生時代を京都で過ごしたという経歴は誇りに思得るほどなのですが唯一難点があり、
「京都の大学出身です」
「え、京大?」
 と、ほぼ八割くらいの確率で京大出身と間違われるという一点だけはなかなかにいただけません。別に京大にコンプレックスを持っているわけじゃありませんが、京都はただでさえ大学が多いのになんでもかんでも京大でひとくくりにしてほしくないという気持ちがあります。では京都にはどれくらい大学があるのかですが、ちょっと他サイトから引用して持ってくるとこれほどあります。

・京都大学
・京都教育大学
・京都工芸繊維大学
・京都市立芸術大学
・京都府立大学
・京都府立医科大学
・大谷大学
・京都外国語大学
・京都学園大学
・京都光華女子大学
・京都嵯峨芸術大学
・京都産業大学
・京都女子大学
・京都精華大学
・京都創成大学
・京都造形芸術大学
・京都橘大学
・京都ノートルダム女子大学
・京都文教大学
・京都薬科大学
・種智院大学
・成安造形大学
・同志社大学
・同志社女子大学
・花園大学
・佛教大学
・平安女学院大学
・明治鍼灸大学
・立命館大学 
・龍谷大学
・大阪成蹊大学芸術学部
・大阪医科大学
京都大辞典様より引用)

 改めてリストにしてみるとあるわあるわ。もちろんこの中には私の出身大学も混ざっていますが、一部は京都市外にキャンパスを構えるものの大半の大学hsあの狭い京都市内に林立していることを考えると京都はとんでもない学術都市だという気がします。

 実際に京都で学生生活をしたことのある人なら話が早いですが、どの大学もそれぞれ個性があり、校風というかカラーは今でも色濃く残っております。京都大学は実は京都出身の学生は少ないとか、京都で「こうせん」とくれば京都工芸繊維大学だとかいろいろありますが、この大学リストの中で敢えて一校を取り上げるとしたら今だったらやっぱり京都産業大学がなかなか注目に値します。
 この「きょうさん」こと京都産業大学は鶴瓶師匠が通っていた頃はこういうのもなんですがバカ大学として有名だったそうですが、近年は大学自体が非常に改革に努力した結果偏差値等が急上昇し、「京産はえろう努力したもんや」と京都の人たちはよく口にしてます。2008年には理学部の益川敏英教授がノーベル賞を受賞したこともあって関東にも名前が知られるようになりましたが、入学難度の割には非常にいい大学ではないかと思います。と言ってもキャンパスが市内の割にはかなり僻地なんだけど、私はあのあたりうろつくの好きで良く自転車で通っていましたが。

 ちなみに私が京都市内で居を構えた場所は紫野という場所で、かつて清少納言が枕草子にて「丘は船岡」と書いた、織田信長が祭られている建勲神社のある船岡山の真ん前のアパートを借りていました。このエリアは言ってしまえば立命館エリアで私の通う大学の学生はほとんどいませんでしたが、アパートを出てすぐ傍には「日本最強の銭湯」との呼び声の高い「船岡温泉」があり、夜は針の落ちる音すら聞き取れそうなくらい静かな環境で楽しく生活していました。唯一の難点は地下鉄の駅まで徒歩20分という点でしたが。

 最後ですが実は前から気になっている点として、京都というだけあって市内にはたくさんの仏教系大学があるのですが、やっぱりそれぞれの仏教系大学同士は仲が悪いのかを前から知りたがってます。傍目には龍谷大学と大谷大学なんかがものすごく仲が悪そうに見えるのですが。

2011年8月7日日曜日

野中広務氏への評価

 まず本題と関係ありませんが、毎日新聞のウェブサイトにどれだけ広告が戻っているかを確認した際に贔屓にしている浜矩子氏の評論が乗っていたので紹介しときます。内容は数年前から言われていたしもっと自覚しなきゃいけないことですが、未だに浜氏が言わなきゃいけないほど認知が進んでいないのかと思わせられる内容です。

時代の風:ファウスト化する日本=同志社大教授・浜矩子(毎日新聞)

 それで本題ですが、数年前に友人と田原総一郎氏の講演会に行った際、「これまで見てきた政治家の中で特筆すべき人物は?」という質問に対して田原氏は、「田中角栄と小泉純一郎」を挙げていました。小泉氏について言えば自民党を延命させたこと、日本の政治手法を変えたということでおおむね一般にも出回っている評価で恐らくその影響力を考慮して取り上げたのでしょうが、田中角栄については、

「はっきり言って彼が在任中は金権政治家などと私も批判していましたが、今思うと大した政治家だったと思い返します」

 詳しくは前ブログの「陽月秘話」内の「田原総一郎氏に凝視された日」を閲覧してほしいのですが、最近この田原氏の評価ではないですが改めて振り返ると大した政治家だったと私が思う人物に、今回表題に挙げている野中広務氏がおります。

野中広務(Wikipedia)

 野中氏の経歴についてここでは詳しく語りませんが、彼が部落出身というのは知っている人の間では有名な話です。しかもその出身ゆえに「野中だけは首相にするわけにはいかんなぁ」と麻生太郎元首相が広言していたことも有名で、この一言で自分の友人なんか激怒していました。まぁこんな妙ちきりんな思想を持つだけあって麻生元首相は大した政治家ではありませんでしたし、すでに過去の人ですが。

 野中氏が自民党国会議員として主に活躍したの90代後半から00年代初頭で、小渕政権と森政権にて官房長長官を務めていましたが当時の政権を完全実質に切り盛りしていたのは先の二人の首相ではなく野中氏であったことは間違いありません。それ故にこの時代は野中政権と言っても差し支えないものだったのですが、当時からつい最近までこの時代の野中氏の政治運営を私は嫌っていました。いくつか具体的な点を挙げると小渕政権での積極財政、森政権での混乱、そして極めつけが加藤の乱における野中氏の猛烈な相手陣営切り崩しで、その実力は認めるもののあまりのダーティさにいけ好かない政治家だと感じ続けておりました。
 その評価は次代の小泉政権時も同様で、特にこれは今でも評価しない点ですが北朝鮮外交においては融和的なスタンスから小泉外交を批判し、これが私にはあまり面白くなく彼が引退を発表した時は、「これで日本の政治はまた一つ良くなる」と友人に触れ回ったほどでした。

 実は最近野中氏について妙な一件から調べなおすきっかけがありました。そのきっかけというのはこの前に集中して書いた部落団体の利権についての記事で、あの記事を書きながら私はどうして被差別者たちの団体が戦後にこれほどまでに影響力を持つようになったのか、その原動力はなんだったのかといろいろ考え、戦後の比較的早くから放送禁止用語などが作られるなど放送界から影響力を広げていったのではないか、ではどうして放送界で力を持ったのかというとバックに放送業界ににらみを利かせる政治家がいたのではないかと勝手に推論を組み立てていきました。そして当時部落団体を助長させた政治家というのは、被差別部落出身でもあり各業界団体に強い影響力を持っていた野中氏ではないかという結論に至ったのですが、後になってこれは完全な的外れな推論で間違っていたということがわかりました。

 まず野中氏が部落出身というのは本人も常日頃から言っていることで間違いありませんが、彼はその出身にもかかわらず解放同盟などといった利権団体と距離を置くばかりか、同和対策事業が新たな差別を生むとして普段から手厳しい批判を行っています。これは複数ソースからも確認できる情報ですし解放同盟関係の話題でも野中氏の名前は一切出てこず、意外と言えば非常に意外なのですがどうやら間違いなさそうです。

 この一件から野中氏について再評価すべくまたいろいろ調べなおしたのですが、改めて考え直してみるとその政治方針はともかくとして実行力、決断力は近年稀に見るほど図抜けた政治家だったと肯定的な見方が芽生えてきました。特に危機対応能力は今思うと神がかっていると言っても過言ではなく、一つそのエピソードをウィキペディア中から引用すると、

「1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村で発生した東海村JCO臨界事故の際には内閣官房長官として事故対応の指揮を執った。内閣総理大臣官邸に事故状況の報告に来た科学技術庁(当時)の幹部がおろおろして事故現況の報告に詰まると、野中は「とにかく現場へ行きなさい。現場を見ないでどうやってこちら(官邸)に報告出来るのか! 現場を見て、その状況を報告しないことにはこちらも対策を講じられないではないか」と一喝し、その科学技術庁幹部に東海村の現場へ直ちに行くよう命じた。」

 東日本大震災の対策で、大変だというのはわかりますが右往左往している管政権と比べるとその違いがはっきり出ております。これ以外でも先ほど挙げた加藤の乱の際の切り崩し工作や政権運営の抜かりのなさから言っても、「実行型」の政治家としてはかねてから実力を評価してましたが改めて素晴らしい人材だったのではないかと思うようになってきました。さらに言えばこれまで批判の対象としてきた森政権時の野中氏の活動についても、当時自民党幹事長という立場からすれば政権を守ろうと行動するのは当たり前の行動ですし、逆の行動をとりようものならそれはそれで批判の対象となります。あとこれは蛇足かもしれませんが、加藤の乱の後に野中氏は森元首相に対して突然幹事長職の辞意を伝え、政権運営を野中氏に頼り切っていた森政権はこれがきっかけとなって崩壊しました。ちゃんとごみを片づけて出ていく態度は立派なものです。

 元々今回の記事は前から準備していていつ書こうかと考えていた内容なのですが、いつも閲覧させてもらっている「黙爺日録」さんのところで野中氏の対談本が取り上げられていたので今日書くことにしました。

野中広務・辛淑玉「差別と日本人」を読む(黙爺日録)

 この記事で紹介されている本の内容を読んでみると、慎重な上に刃物を突き通すような細心さを野中氏に感じます。興味があるので是非うちの親父も買っておいて、帰国した時に自分に譲ってくれると助かります。

 最後に多分ネット上にない野中氏のエピソードで、恥ずかしいことに番組名を忘れてしまったのですが昔日曜の朝にやっていた有名人が出演して人生を振り返る番組で野中氏が出演した際に、終戦後に故郷に帰ったものの生きて帰ってきたことが恥ずかしく、実家には直接戻らずしばらく友人宅などを転々としていたそうなのですが、最後にようやく決断ついて実家を訪れたところ、

「あんた前からこの辺うろうろしとったそうね。なんで早く帰ってこなかったの?」

 と、息子の帰宅に野中氏の母親には全く驚かなかったそうです。案外お茶目な時代もあったんだなと、やけに記憶に残るエピソードでした。


2011年8月6日土曜日

自分の判断への信頼性

 自分がほかの人と比べて良くも悪くも特徴として際立っているのは、思い切りの良さだと思います。そもそもの前提として私は、「自分の判断はたまには間違えることもあるけど、基本的には正しい」という前提を持っており、自分が行けると思ったことは必ず行けると思ってあまり迷うことなく実行に移そうとします。
 恐らくここだけ読むと、あながち間違いではありませんが私のことをさも傲岸な人間のように思われるかもしれませんが、たとえば日頃からハイキングに行っている友人と行かない私のどちらかがハイキングの途中でルートを決めなければなったとすると私は、「友人の方がハイキング歴も長く経験も豊富なため、自分より正解の判断をする確率が高いだろう」と考え、無条件で友人の意見に従うことでしょう。これは一見すると自分の判断を放棄して他人の判断に任せているように見えますが、社会学士らしくひねくれた考え方をすると、「友人の考えに従う」という判断を自己判断していると解釈します。

 かなり七面倒な理屈を自分でも言ってると思いますが、「何故他人の判断を優先するのか」という過程を意識することは私は非常に大事だと考えております。あくまで私の観点からですが、大概の日本人は自分の判断より他人の判断の方、もしくは合議での判断の方が正しいという前提を持っており、自分が考える判断を表では主張せずに押しとどめる傾向があるように思えます。自己主張をしたら集団の中でハブられるという日本人特有の社会的資質も影響しているでしょうが、内心ではこう考えるんだけどほかの人の言うことに従っておけば無難、という考え方をする人が非常に多いように思え、これはそろそろ日本人は脱却した方がいいのではないかとみています。
 もちろんこうした日本人の価値観によって団結力とかその辺は高くはなるのでしょうが、近年は単純作業においてすらもパターンにない例外事態が発生する仕事が多く、もう少し自主性というか「俺はこう思うからこうするんだ」というくらいの身勝手さをその都度発揮して行動した方が社会全体での動きもよくなるのではないかと感じます。

 とは言ったって勝手にやったら怒られるというのが大半の意見でしょうが、このままでは何も変わらないとばかりに私は普段から自分が正しいと思ったことは結構すぐに口に出したり勝手に行動したりしてます。そりゃもちろん多少の妥協はして指示されたことには反発を口にすることはあってもちゃんと指示通りには行動するようにしてはいますが、こうした考え方が社会で一般的になるよう孤軍奮闘しているつもりです。そのせいか前の会社を退社する際に上司から、「花園、お前は本当に人の言うことを聞かない奴だったが仕事だけは確かに早かった(*´∀`)」と、妙なお褒めの言葉を受け取りました。こう言うのもなんですが、自分の上司になってさぞ苦労したかと思うと感謝に耐えません。

 現在でもこの傾向は変わらず、たとえ両親を含む他人から助言や勧めを受けたとしても私自身がその相手の言うことに道理がないと考えたら一顧だにしませんが、そのかわり相手の言うことがその通りだと感じた場合はそれまでの判断とは逆でもなるべく素直に、可能な限りは従おうと努力しています。さしあたって友人から今強く言われているのはレンタルサーバーの取得ですが、こちらは確かに必要性は感じつつもずぼらな性格が災いしてまだ手が出せておりません。
 ただ唯一といってはなんですがある友人の言だけは例外扱いしており、たとえその友人の言う内容に対して私が間違っていると判断しても、「この友人が言うのだから自分の方が間違いだろう」と完全無条件でその友人の意見に合わせます。このところまた文章が荒れ気味でオチらしいオチがまたありませんが、私が読者の方に言いたいことは「他人の意見を信じるのもまた自分の判断」ということで、どんな点においても自分が判断するのだという責任と、自分の判断力がどれだけ正しいのかを普段から認識してほしいということです。

2011年8月5日金曜日

中、初等教育における教員の雇用について

 何か教育関係の話をというリクエストを受けたので、前から思っていた内容を今日は紹介します。

 一つ昔話をしますが、六年前に出会った一個下の友人に対し将来は何になりたいのかと説いた際、教師になりたいとその友人は答えました。その答えに対して私は、
「悪くない選択だね。これから団塊世代が大量退職してこれまで少なった教師の口が一気に広がると言われてるし」
 しかし結果はというと、私のこの予測は間違いでした。団塊の世代に当たる教師が一気に退職して教師が各学校で不足しているというのは間違いではないようなのですが、その不足分を補うための教員の雇用は現在に至っても行われませんでした。

 現実問題として教師が全国各地で不足しているというのは間違いではないようです。そのため教師一人あたりの負担も依然と比べて遥かに高くなっており、この前も何かのニュースで教師の休職理由は精神的なものが大半と書かかれてありましたが、いろいろ病んだりして職場を離れざるを得ない教師が毎年増えていると言います。
 では不足しているにもかかわらず何故教師の数が増えないのか、教師を志望する人間が減っているのかというとこれまたそうではないようです。確かに少子化ではあるもの不景気という時代ゆえに教員免許を取る学生はそこそこおり、また教師職を志望し続けている人もたくさんいるのですが、彼らが何故教師になれないのかというと単純に教員の募集がないそうです。何故教員の募集がないのか、もったいぶっても仕方ないのでもう書きますがこれまたあちこちから話を聞く限りですとごくごく単純な理由で、教師を雇う側の自治体が財政難で新規に教員を雇う余裕がないからだそうです。

 私立学校であれば別ですが、公立学校を運営するのはそれぞれの市や県であって教員の給料などは各自治体から支払われます。それ故に具体的にどのような身分かまではわかりませんが教師というのは準公務員的な職種であるわけですが、すでに財政破綻宣言をした夕張市をはじめとして、現在全国各地の自治体では大量の借金があって当たり前と言えるほど財政難な状態が続いております。それ故に各学校で団塊世代の教師が大量に引退したにもかかわらず支出を増やすにはいかないために新規採用を凍結し、少子化で子供の数は減っているものの既存の教師数で何とか回そうとしているのが大半だそうです。

 このような状況で割を食うのは誰かというと、まずは既存の教師たちです。彼らはそれ以前に比べて担当する子供の数や授業コマ数が大幅に増えましたが給料は変わらず、というより昇給幅は明らかに以前より狭められています。もっともそれは会社員にも共通しますが。
 これら既存教師に加えて割を食うのが、教職志望だった自分たち世代の若者たちです。真剣に教育に身を捧げようとして教職を志望する人たちもいるでしょうが、現在正式に教員に採用されるのは至難の業だと聞きます。勘のいい人は今書いた「正式に」って言葉を見てすぐにピンとくるでしょうが、その逆の非正規の教員となるのだったらそれほど難しくないようです。

 非正規の教員って言ったってブラックジャックみたいに免許を持たない医師というわけじゃなく、一週間に数コマだけ学校に来て教えるようなアルバイトのような講師職で、現在これが各地で増加しているそうです。自治体は非正規の教員として雇えば社会保障などといった余計な経費を払う必要はなく、またいらなくなったらすぐに切ることもできれば一切昇給させる必要もありません。それ故に教師になりたいが一心、正式採用を夢見る人なんかは苦労を覚悟でこのような教師版の派遣職に甘んじ、ひどい例なんか月数万円の給料で働き続けていると聞きます。

 単純に経費削減という観点からみるのであればこのような採用形態が悪いとは言いません。しかし本気で教育を充実させたいと考えるのなら教師を不安定な身分にとどめておくというのは明らかに間違ってますし、ただちに対策をしなければならないでしょう。またそもそも財政難で支出が増やせないというのなら、すでに高い給料を受け取っている年齢の高い教師からリストラしていかなければ根本的な解決につながるはずがありません。
 そういうわけで漠然と予想はしてはいたのですが、調べてみると案の定そうだったのが下のリンク先です。

教員平均年齢ピークに、3人に1人が50歳以上(読売新聞)

 やはり予想通りというか教員の新規採用を渋りに渋った結果、平均年齢は過去最高をどんどん更新していて三人に一人が五十歳以上という状態にまでなったようです。この構図をあえて言い表すなら、やはり若者を犠牲にしてという言葉しか私には浮かびません。先にも書きましたが支出を抑制するのであれば新規採用を凍結するのではなく既存の人間をリストラした方が明らかに効率がいいはずでしょうし、そもそも教師なんか叩けば埃が出てくるような人間はまだまだたくさんいると思います。ひがみっぽいですがどうしてそういう人間に着手しないで我々の世代が割を食わなければならないんだと、一抹の悔しさを感じます。

2011年8月4日木曜日

日銀の円高介入と最近の為替について



 今日は朝っぱらから上のとんでもない写真を見て、すごく元気が出ました。なんでも如雨露から水をがぶ飲みするのが好きな猫だそうですが、うちの実家の猫も普通の水受けからでなくマグカップに入れた水をやけに好んで飲んでおり、猫って何かしら器にこだわりを持つのでしょうか。

 さて今日のトップニュース、というよりここ数か月の主要な経済話題と言ったら円高の為替傾向以外にありません。昨日には取引中に戦後最高値に迫る76円台に迫ったことから本日日銀が為替介入し、一程度の円安が起こってそこそこの成功は得ました。しかし結論から言うと今回の日銀の判断は間違ってはいませんが初戦はその力はたかが知れており、中、長期的に見るなら今後も円高が続いて70円を切るのも視野に入ってくるのではというのが私の意見です。

 実は前回日本に帰国した際に会った友人とも話をしましたが現在の日本の円高は異常としか言えない数値で、こんな為替なのによく日系企業は海外に逃げないなと二人で妙な関心をしました。すでに財界の人たちも公にはっきりと言っていますがこんな為替レートでは経営を続けていくなんて無茶もいいところで、あらゆる想定を超えたレッドゾーンに入ってきたと言っても過言ではないでしょう。何気にリーマンショック後に「1ドル55円時代を覚悟せよ」と経済学者の浜矩子氏が言っていましたが、当時にも先見の明がある人だと思っていましたが現実身を帯びてくるに従ってこの人は諸葛孔明なんじゃないかとこの頃思うようになってきてます。

 まずどうしてこれだけ円高が起きているかですが、ネットを見ているとやれ民主党が悪い、管が悪いからだなどという意見をよく見ますが、私が思うに今の円高は日本の政治とは全く関係なく動いていると考えています。では一体何故円高になるかというと、単純に言って景気が悪い悪い言っている日本以上にヨーロッパやアメリカの方が景気や財務体質が悪いからで、この二つに比べたら日本の景気、あと財務状況ははるかにマシという状態ゆえに世界各国で円が買われているからと見ています。ネットで誰かが、穴の開いたボート(=世界経済)で穴の開いた反対側(=日本円)に乗員みんなが寄りかかってきている状態とたとえましたが、一番これが今の状況をうまく言い表しているでしょう。

 それでこの円高はいつになったら解消するかですが、少なくとも今後一年や二年は上下はするでしょうが高い状態が続くと見ています。その根拠を上げると、ここ一か月で急激に円高が進んだのはアメリカのデフォルト懸念からでしたが、そもそもの話としてデフォルト懸念が出る以前から日本円は異常に高い状態が続いていたので今回アメリカ議会でこの件が片付いたと言っても大勢には影響しないと思います。その上でいくら円高が困るからと言って日銀が今回みたいに介入しようにも、こちらもそもそもの話として運転する資金の絶対量が世界の投資家と比べて圧倒的に少なく、今日みたいに一時凌ぎは出来ても長期に渡って円安を誘導することなんて不可能です。仮に本気でやろうとするのなら他国を交えて共同介入する以外にありませんが、アメリカは金融緩和路線を続けるでしょうし、ヨーロッパは今火の車でそんなことやってる暇はないでしょうからその目はほとんどありません。

 とはいえ今回の日銀介入は間違ってはなく、タイミングとしては今くらいに一回するのが限度と思っています。っていうかここでやらなかったら日銀は何やってるんだって叩かれるのが嫌でやったようにも見えますが。ただ今回の介入で何が怖いのかというと「日銀の力はこの程度か( ゚∀゚)」と足元みられることで、下手したらリバウンドとばかりにまた逆バネが働いて一気に円高に進む可能性も否定できません。そうなっても、今回については日銀を責められませんが。
 そういうことで今日の結論を言うと、「1ドル55円時代を覚悟せよ」ということに尽きるわけです。

2011年8月3日水曜日

全く見ない日本のテレビ番組について

 本日のニュースで、日立がテレビの自社生産をやめるというものがありました。私は以前から家電メーカーの人に、「テレビは作れば作るだけ赤字」と聞いていただけにこのニュースに対して驚きはなく、むしろ二、三年前にもっと早く決断しておけばよかったのではないかとも思いましたが、ちょうど地デジ移行が終わったタイミングということもあり、メンツ的にも今くらいがちょうどよかったのかもしれません。
 さてそんなテレビですが、売れないというよりも現在は価格の下落が激しいがゆえに儲からないようです。実際見ていてもどうしてこんなに安いのかと思うくらいですし、自動車と比べて家電メーカーの競争は熾烈すぎると感じます。しかも買い替えも地デジ移行以外はほとんど行われなかったとも聞きますし、ほかのメーカーも年末にかけて決断するところが現れるのじゃないでしょうか。

 話は変わってテレビというハードに対するソフトのテレビ番組についてですが、前回に日本に帰国した際に私もいくつか見てみましたが、はっきり言って何をどうすればこんなにつまらない番組を作れるんだ、意図的に視聴者を不快にさせているのかと思うような番組ばかりでげんなりさせられました。もっともこうした傾向は中国に来る前からもあり、本当に暇でBGM代わりにつけておこうと思ってもつけて音声を聞くだけでもイライラする番組ばかりで、番組を作る人間の神経を真面目に疑うことが多かったです。関西の番組は比較的マシだったけど。さらに聞くところによると最近はそれに輪がかかりAKB48と韓流アイドルばかりが出演するようになっているようで、それに対して芸能関係者など内輪からも批判がなされ、なんだか大ごとになってきました。

 具体的なリンクはつけませんが俳優の高岡蒼甫氏が韓流関係の番組ばかり流すテレビ局に苦言を呈すやテレビ関係者らから異常なパッシングを受けたものの、逆に高岡氏を擁護する声も巻き起こり今現在も大きな議論となっています。その議論の中で私がひときわ注目したのは慶応出身の友人が「あまり出身大学を明かしてもらいたくない」といった芸人のふかわりょう氏で、いつもすべってばっかだけど意外と物事を深く考える人なのだなと見直しました。

ふかわりょうが韓流報道について「テレビは完全に終わった」(サーチナ)

 ふかわ氏の主張を簡単にまとめると、電波というものは公共のものであって現在テレビ局が保有する免許がなければ一切使用することができないなど、私的に使用してはならないものです。その公共の電波を使用して使用者側(テレビ会社局)に都合のいい情報なりプロモーションばかり流すというのはそれはやはり間違っていると主張し、卑近な例としてふかわ氏は、自分の番組で自分の曲だけを流しほかのアーティストはほとんど紹介しないのはおかしいとたとえています。実にわかりやすい。

 このふかわ氏の話を聞いてちょっと思い出したことがあったのですが、90年代後半の「ウリナリ」という番組にて当時、「ポケットビスケッツ」と「ブラックビスケッツ」というバンドが番組内からデビューし、そこそこの成功を収めました。当時この番組を見ていた私はあまり何も考えずにこの二つのバンドの活動を面白がって見ていたのですが、あとから調べてみるとやはりこの当時からテレビ局が作ったバンドをテレビが応援するというのは公平な観点からみてどうかという意見が出されていたそうです。実際にテレビというのは物凄い影響力の強い媒体であり、それを使えば当時はおろか今ですら売れないものを売れさせてしまうほどのエグさを持っております。

 まぁポケビとブラビに関して言えば歌自体もよかったのでこの際どうでもいいですが、ふかわ氏の言う通りにほかの人間が一切使えない公共の電波を使って自分とこが利益を出そうとする行動は電力会社同様に卑怯千万もいいところです。そのような観点からだと韓流のごり押しやら特定の芸人や俳優を集中して放送するというのはやはり間違いだと私も思います。多分一般視聴者もそういうのをはっきりと自覚しないまでも感じ取っていて、それが今のテレビ離れにつながっている気がします。それにしたって日曜の午前中の番組はつまらないものばかりだった。

 最後にテレビ会社について前々から思っていたことを言うと、完全独占事業で国からも異常なくらいに保護されているにもかかわらず、最近はTBSを初めとして赤字を計上する会社が現れてきました。こう言ってはなんですがこれだけ保護されているにもかかわらず赤字を計上するなんてある意味すごいことで、今のテレビ局の経営陣は無能を通り越して疫病神と呼べるくらいの能力しかないとみております。
 前にも書きましたが、日本のテレビ局はどんだけ不祥事を起こしてもこれまで放送免許がはく奪されることはありませんでした。近年の不祥事は「バンキシャ」を筆頭に目に余るものがあり、真面目に教員同様に毎年免許更新の審査を取り入れた方がいいでしょう。何万人が失業しようが、公共の電波を正しく使うためには厳しい措置が必要です。

2011年8月2日火曜日

7年で変わった自殺率国際順位

 今日お昼休みに同僚と話していた際、ひょんなことから自殺率に関する話題となりました。そこでネットで軽く国際順位を調べてみたのですが、以前に見た順位から結構変動があり面白かったので、今日はその辺について紹介しようと思います。

自殺率の国際比較(社会実情データ図録)

 実は私は7年前、当時に流行りだした集団自殺についてレポートをまとめたことがあり、当時も上記サイトのデータを使ってあれこれ分析なりなんなりしたのをよく覚えています。ちなみに当時は毎日自殺サイトとかに行ったりしてたことからかなり気分が鬱になり、無理に元気づけようとガンダムの歌を歌いながらレポート書いてたら壁が薄かったもんだから隣人に、「最近の花園君はノリノリだね」と言われました。

 それはさておき最新の自殺率データについてですが、この自殺率というのは10万人当たり何人が自殺しているのかという統計データで、単純に言えば数値が大きければ大きいほどその国は自殺が頻繁に起こるということを表しております。それで日本はというとよくテレビメディアなどで日本は先進国で最も自殺率が高いなどとよくある自虐精神を発揮して取り上げられることが多いのですが、現実のデータはというと国際順位で6位にランクインしており、日本以上に自殺が多い国がなんと上に五カ国も存在します。まぁ五カ国しかいないとも言えますが。その後カ国を実際に順位順に書き出すと、

1位 ベラルーシ
2位 リトアニア
3位 ロシア
4位 カザフスタン
5位 ハンガリー

 という順番になります。細かい点をつつくと、先進国で日本が最も自殺率が高いと言っていた人はロシアを先進国とみなしていないこととなります。まぁここもとりようだけど。

 私が今回久々に自殺率の統計を見て何に驚いたのかというと、日本の順位は以前も7位か8位くらいだったのでそれほど驚かなかったのですが、以前はぶっちぎりで不動の1位に君臨していたリトアニアが2位に後退していたということです。数年前のデータまではトップ順位はリトアニア、ロシアという順番が固定されているかのように両者がかなり突き放していたのですが、知らないうちにベラルーシがそれをひっくり返していたのは軽く衝撃でした。もっともそれ以前からも旧共産圏、それも冬が寒い国々は自殺率が高い傾向があるので、順当と言えば順当という結果かもしれません。
 その次に見てびっくりしたのは9位韓国で、7年前のデータだとほとんど気にも留めず覚えてもいない順位だったはずなのに知らないうちに日本を追い上げる順位に来ていました。追い上げると言ってもこんな自殺率のデータで追い抜かされてもしょうがないですが、軍隊内や芸能人の自殺が社会問題となるだけあり根は深そうです。

 順位についてはざっとこんなもんですが、今回参照したリンク先は多角的に詳しく分析されていて非常に内容のある論文ゆえに是非是非読んでもらいたいのですが、いくつか引用すると「日本は自殺率は高いもののメンタルヘルスは決して悪くない」と主張しており、実際にデータ上では精神疾患の率が先進国で最低クラスに低くなっております。ちなみにこの精神疾患率のデータも面白くて、恐らくぶっちぎりでフランスがトップだろうと思っていたらなんと3位どまりで、1位はなんとアメリカでした。まぁこれも精神疾患と診断されるかどうか、そういう環境があるかに左右されやすいデータなので厳密にはデータをうのみにできないところがあります。

 もう一つ別のデータを引用すると、これなんか社会学士が狂喜するするような見事な連関データなのですが、自殺率と他殺率を比較し合ってます。このデータによると日本は自殺率は高いものの他殺率は異常に低く、その結果から決して不幸な社会ではないとまとめられてます。実際にこのデータを見てみると、他殺率が日本の10倍以上の国がごろごろしており、特にトップのコロンビアに至っては自殺する暇がないんじゃないかと思うくらいに他殺率が極端に高いです。このデータは2002年のものでやや古いですが、最新のデータならメキシコも結構跳ね上がってるんじゃないかな。