2012年4月30日月曜日

英仏百年戦争まとめ 前編

 先日、PSPの「ジャンヌ・ダルク」というシミュレーションゲームをクリアしました。名前からして英仏百年戦争をモチーフにしたゲームですが、固い歴史シミュレーションではなく恋愛あり変身ありキャンプファイヤーありのファンタジックな内容でなかなか楽しめました。またこれ以前にも私は「BLADESTORM 百年戦争」という、こちらも同じく英仏百年戦争をモチーフにしたゲームにはまったことがあり、何かとこのテーマのゲームをよく遊んでいるという気がします。
 そんな英仏百年戦争ですが、私が言うまでもなく一般的に知られているのはどちらのゲームでも主役となっているジャンヌ・ダルクが活躍した後半期のごく一部の期間だけです。百年というだけあってこの両国の抗争は長く、序盤と後半では様相も形成も大きく異なっているので、ちょうど歴史物が不足しているのもあるので一つ簡単に解説しようかと思います。

 まず百年戦争の発端となったのは、イギリスとフランスの王家が近親関係にあってどっちからでも王位継承権を主張できたことや、イギリスのスコットランド統治に対してフランスが茶々をかけていたということもありますが、やはり第一義的にはフランスにあるフランドル地方における経済的摩擦が最大の原因だと私は考えています。
 このフランドル地方は当時、羊毛織物が盛んだったのですが織物の原料となる羊毛はイギリスから輸入されており、経済的結びつきで言えばフランス本国よりイギリスとの関係が深い地域でした。そうした背景もあってか、かねてから様々な問題で対立していたことからイギリスが中国のレアアース問題よろしく、フランスへの羊毛輸出を禁じると途端にフランドル地方は大打撃を受け、フランスの支配から離れイギリスに忠誠を誓う、俗にいう「フランドルの反乱」が起こり、このフランドルを支援するイギリスと支配下に戻そうとするフランスの間で火蓋が切られることとなったわけです。

 こうして始まった戦争ですが、序盤はイギリス軍の圧倒的な優勢で事が運びます。歴史家によると当時のイギリス軍には長射程の長弓が装備され、旧態依然のフランス軍を遠距離から次々と破っていったそうで、この間に大活躍した人物としてエドワード黒太子の名前が挙がっております。なんで黒大使かというとなんでも黒っぽい鎧を着ていたからだそうですがそもそも後世の創作とも呼ばれており、実態的にはどうだったかわかりません。ちなみにこの黒太子はその後に病気にかかり、イギリス王である父親より早くに亡くなって国王即位はしておりません。

 話は戻って百年戦争の経過についてですが、エドワード黒太子の活躍でフランス王であるジャン2世まで捕縛されてフランスは一巻の終わりというところまで一旦は追い詰められましたが、ここに至って摂政(後に国王即位)として国勢の表舞台に出てきたジャン2世の息子ことシャルル5世というのがまた立派な指導者で、税制を定めて資金力を補充すると、ベルトラン・デュ・ゲクランなど優秀な将軍らを採用して奪われた領土を一挙に取り返すことに成功しました。しかもエドワード黒太子が1376年に病死し、さらにその翌年にはその父であるイギリス王のエドワード3世が死去したこともあってこのままフランスが旧領奪回かと思われたのですが、フランスが征服したブルターニュ地方の併合に当たって激しい反発が起きるなど、まだまだ安定には程遠い形勢でした。

 しかも1380年にシャルル5世が食中毒で急死してしまい、和平に向けた話し合いがはじめられた矢先に両国で国王が突然変わるという異常な事態に突入します。幸いというか両国ともに新国王が内政重視、というか権謀術数渦巻く宮廷での政争を優先して1396年に一旦は休戦へと持ち込まれます。
 ただ何もこれは英仏に限らずですが、一旦戦争が終わると目前の敵がいなくなってほっとするというかはしゃぎだすというか、内戦・内乱が始まるのは世の常です。イギリスでは新国王のリチャード2世が政争の末に議会派によって逮捕の上に退位に追い込まれ、ロンドン塔に幽閉されて新国王ヘンリー4世が立てられます(ランカスター朝はここから始まる)。フランスに至ってはもっと悲惨というか、こっちの新国王であるシャルル6世が突如精神に異常をきたして発狂し、取り巻き連中が幅を利かせたことから宮廷は二派の派閥(オルレアン派とブルゴーニュ派)に分かれて大激闘。暗殺が横行しただけでなく両派ともに、「相手を倒すために援軍を出してくれ!」と昨日の敵は今日の友、そして明日には敵となるイギリスに出兵を要請するほどの内戦へと突入します。

 指導者が良くなると形勢逆転し、悪くなると駄目になっていく見本のような歴史ですが、両派の要請を受けて再上陸を果たしたイギリス軍が再びフランス領土を侵攻をするところから後半戦が始まります。というわけなので、続きは次回に。

2012年4月29日日曜日

他人の痛みに対する感度

 一昨日に書いた「エスカレートしていく行為」の記事で重要なことを書き忘れていたので、補足としてもう一本記事を書きます。もっとも、今日ここで各テーマはエスカレート行為とはまたちょっと距離がある内容なので、こうして鼈甲を儲ける形というのがあながち正しいのかもしれません。
 さて前回の記事で私は、いじめやしごきといった行為はしている加害者らが「自分たちも以前と同じ仕打ちを受けた」と思う、信じていながらも、実際には行為内容がエスカレートしていく可能性が高いという論を主張しました。この記事で書き忘れていた重要なことというのはこうしたしごきやいじめを実行する人間らの特徴のことで、概して「自分の痛みに敏感で、他人の痛みに鈍感な人間」が多いということです。

 自分の痛みに鈍感というのは書いて文字のごとく、自分が不快に思ったり苦痛に感じる範囲が広かったり程度が大きい人間のことです。それこそ例を作るなら、コンビニに入ったところで店員が「いらっしゃいませ」と言い忘れたのを失礼だ、無礼だ、気分が悪くなると感じる人間もいればよくあることだと気にしない人間もいるでしょうが、この場合は前者の人間の方が痛みに敏感だと言えます。次に他人の痛みに敏感か鈍感かについてですが、これもそんなに難しいことではなく単純に、「何をしたら相手はどれほど辛いと感じるのか」という程度を感じ取る能力のことです。他人の遺体身に敏感であるということは「相手は傷つきやすい」と考えるのと同じことで、逆に鈍感であるということはちょっとやっそとつついたくらいは全く問題ないと考えることを指します。ちょっと変な説明の仕方ですが。

 それで「自分の痛みに敏感で、他人の痛みに鈍感な人間」とはどんな人間かですが、説明するまでもないでしょうが自分が被った損害は過大に主張する一方で他人には同じことをしても平気だったり、他人が何にどんなことで苦しんでるかを理解できない人を指します。言うなれば主観が強い一方で客観を持たない人間で、こういってはなんですがあまり近くにいてもらいたくない人間です。
 既に現時点でかなり身も蓋もない言い方をしておりますが、意外にこういう輩というものは世の中に数多くいるかと思います。それこそ前回の記事で紹介したように、「過去に自分が受けた仕打ちは後輩も受けるべきだ」という考えで同じ、もしくは自分が受けた以上の必要のないしごきをする人間などは典型で、相手の限界点とか不快度というものを無視していろいろ厄介ごとを押し付けてくる人間は私があれこれ言わなくとも誰もが出会ったことはあるでしょう。

 これは友人の言ですが、「それが必要な苦労ならともかく、そもそもの話として自分が受けた苦しみをほかの人間も共有すべきだと考える人間は頭がおかしい」というように、私もこうした人間は可能な限り社会から排除しなければならないと考えています。以前に書いた「必要な苦労、余計な苦労」の記事中でも述べていますが、世の中には明らかにやらなくてもいいし省略できるにもかかわらず何故だかみんな伝統的に維持し、守り、伝えている苦労が数多いです。それこそその苦労の経験者なら不必要性がわかっているにもかかわらず、何故だかそうした苦労を率先して伝えていき、逆に必要な苦労を伝えていこうとしない場面を私も嫌というほど見ております。ひどい奴なんか、体験したことのない苦労をさも経験したかのように語って他人に押し付けるのもいましたが。

 私は何もここで「他人の痛みに敏感になれ」というつもりはありません。過ぎたるは及ばざるが如しというように、他人の痛みに敏感過ぎると何事も人との接触を避けようとする人間になってしまう可能性もありますし、これはこれで問題があります。しかし全く他人の痛みを理解しようとしない、客観を持たない人間は百害あって一利なく、決して重要な地位とか仕事を任せてはいけません。一番いいのはまたも論語ですが中庸こと自分の痛みも他人の痛みも相応にわかる、もしくは渡辺淳一氏が主張する「鈍感力」こと自分の痛みにある程度鈍感で他人の痛みは理解するくらいがいいでしょう。

 なお、たまに私は人を評価する際に、「あの人は一人称だね」と言うことがあります。この意味は主観しか持っていない、つまり客観の視点が足りなくてまさに今回の「他人の痛みがわからない人間」のことを指しております。これに対して「二人称」というのは、外からの見方しか持っていない人間で、バックボーンがないというか主体性を持っていない人間を指しています。となるとベストなのはやはり「三人称」で、自分を含め周囲を客観視することが出来て、その上で自分の目指す方向というか視点を持って意見を主張できる人間のことを指しており、宮沢賢治じゃないですけどこういう人間に私もなりたいです。

2012年4月28日土曜日

ニュース雑感

 また本題と関係ない話ですが、先日に誕生日を迎えまた一つ年齢を重ねました。別に年齢が気になるわけではありませんし誰かに祝ってもらったということもありませんでしたが、昔の学生時代、誕生日に突然友人が現れて、「今日誕生日だろ、はいこれ」といって、何故か赤ワインを受け取ったことがありました。友人曰く「これでステーキを焼くとうまい」(実際に後日それでステーキ焼いた)とのことでしたが、普段からけち臭い友人だっただけに内容といい二重の意味で驚きました。

 話は本題に入りますが、先日にわざわざ記事にしてまで批判した産経新聞ですが、妙な論説や評論が多いと感じる一方で下記の特集は非常に気に入っててよく読んでます。

衝撃事件の核心(産経新聞)

 上記リンク先の「衝撃事件の核心」は毎週産経新聞で組まれている地面物の特集なのですが、非常に構成が良いだけでなく事件の顛末から拝啓、そして結末までを一つにまとめていて単純に読み物としても面白いです。その上で世の中に問題性を訴える社会性も高く、文句なしにほかの人にも読んでもらいたい特集記事です。何気に、事件物の報道というものは事件が起きた当初こそ大きく取り上げられるもののその後はしりすぼみとなって結局最後はどうなったのかわからない話も数多いです。そういう中でこの特集は比較的長期間にわたって取材している記事も多いだけに貴重な存在です。

中国のゼラチンは革靴製、そして業者は大儲け(ゆかしメディア)

 上記リンク先の記事は今週初めからしばらく中国各紙で一面を飾った毒カプセル問題の記事です。このニュースはあまり周囲の反応が良くなかったものの絶対に取り上げた方がいいと判断して半ば強引に私がうちの紙面にも載せましたが、結論としてはやっぱり入れて正解だった気がします。
 内容を簡単に説明すると、中国のゼラチンメーカーがまたも安くであげようと廃棄物(革靴)からゼラチンカプセルを作ってたのですが、このカプセルに人体にとって非常に有害なクロムが含まれていたと中国当局が発表したというわけです。大損ぶっこいたのは毒カプセルを調達していた製薬メーカーで、事件が発覚するや大手中国製薬メーカー各社はすぐに謝罪会見を開いた上で自主回収を始めましたが、風邪薬など一般的な薬にも使われていたようで全回収はほぼ不可能と見られています。また回収費用も膨大な額に上るとみられており、すでに数字が出ているところで10億円単位、大きいところでは100億円単位の損失となるという予測も出ています。
 またこの毒カプセル事件に隠れてでしたが、中国限定でリプトンのティーバッグに中国で使用が禁止されている農薬が残留しているという報道が木曜日にありました。この記事はうちの紙面には載せませんでしたが、これは中国当局の発表ではなく「某環境団体」の発表となっており、非常に信憑性が怪しい物でした。リプトン側も、「中国で販売しているティーバッグは日本や欧米で販売しているものと同じだ!」と主張して妙な農薬とか入っていないと主張しています。詳しい検査結果などは見ていませんがこれは恐らくリプトン側が正しいと私は判断してますが、中国でも妙な環境保護団体がはびこる時代になったのかと変な感慨を覚えました。

2012年4月27日金曜日

エスカレートしていく行為について

農大ワンゲル部死のしごき事件(オワリナキアクム)

 上記リンク先の記事はかなり古い(1965年)ですが、今も昔も変わらずというか体育会系部活動による死亡事件を紹介したものです。内容を簡単に説明すると、当時の農業大学ワンゲル部である新入生に対して猛烈なしごきが行われた挙句、最終的に死に至らしめたというものなのですが、この記事で私がどこに注目したのかというと事件発生後にある部員が言った、「自分たちも1年のときから同じ訓練を受けてきた」というセリフです。今日はちょっとこのセリフを出発点に、エスカレートしていく行為と現象について考察しようと思います。

 この農大ワンゲル部のケースに限らず、恐らくほとんどの体育会とか運動部では、「俺たちも下級生の頃は同じことされた」もしくは「俺たちの頃はこんなもんじゃなかった」というセリフが4月か5月ごろに飛び交っているかと思います。意味としてはわざわざ説明する必要があるか悩みますが、「自分たちだってされたんだからこれくらいやってもいい」とか、正当化するのなら「ああいうことをされたおかげで今の俺たちがあるんだから、これは悪い行為じゃない」といってパシリとか理不尽な暴力とか、運動技術や体力訓練とは程遠く無関係な行為が横行しているのでしょう。ちょっと厭味ったらしく名前を挙げると、青森山田の野球部なんかはどうだったのか詳しく内実を聞いてみたいものです。
 こうした運動部などで繰り広げられるしごきについて私は前々から、本当に過去に受けた同じ行為を下級生へ行っているのかという疑問を持っていました。というのも小学生の頃によくうちの姉貴や友達と遊んでて強くぶつかったり、罰ゲームを受けた際に、「今少し痛すぎたからこれお返しね」といって反対に叩き直した後、「最初に叩いたのより今のがもっと痛かった」といってまた逆に叩き直し……というのがエンドレスで続くことがよくあり、過去に受けたしごきと今与えているしごきが同じものかと数値的な根拠なしに果たして言い切れるものか、もしかしたら本人らが気づいていないだけで年々しごきがエスカレートしているのではと思う節があるからです。

 最初の農大の事件についていえば、少なくとも言えることは過去に表立った死者は出ていなかったという点です。過去にいなかった死者が出たということは紛れもなくエスカレートしていると言え、人によっては「死んだ新入生の体がそれまでの部員より弱かったからではないか」というかも知れませんが、リンク先の記事で「背中には直径15cmぐらいのえぐれた外傷があり」と書かれている一点を見る限りだと体が強いとか弱いとかいうものじゃなく、やはり行為そのものに問題があったと私は思います。

 話は行為のエスカレートに戻りますが、では一体何故エスカレートするのでしょうか。検証なしでいいのであればいくらでも仮説は挙げられますが、まず思いつくのだと過去に受けた鬱憤というか復讐心が一つの原因ではないかという気がします。それこそ一年生の頃には散々こき使われたから、上級生になったら思う存分下級生をこき使ってやろうという具合に、たまった鬱憤が過去に受けた行為の再現、下手すりゃそれ以上の行為に踏み切らせる動機となり得るのではと言われれば私はなんか納得してしまいます。
 またこれは哲学科にいた友人が、「人間には恐怖する、畏怖する対象になり替わりたいとする欲求がある」ということを過去に言ってました。友人が使った例は暴力的な父親に虐待を受けていたある男性が、成人してその父親が死ぬや、嫌っていたにもかかわらず父親そっくりの振る舞いを取るようになったという話でしたが、なんでも地震を抑圧する力を逆に得ようと考えるところが多かれ少なかれ人間にあるそうで、これもなんとなく納得できる話です。

 もう一つ行為がエスカレートする原因として考えられるのは、単純に慣れじゃないかともいます。これの代表格はエスカレートしていく行為でも代表的ないじめで、伝え聞く限りだと大半のいじめのきっかけは教師による授業中のからかいなどほんの些細なものからだそうです。そうした些細な行為が、「こんなことしても相手は怒らない」と考える良からぬ人間によって、「次はこうしてみよう」とどんどん過激化していくのがいじめの実態だと思いますし、実際にそのような過程を私も目撃してます。いきなり過激な加害行為から始める人間もいないわけではないでしょうが、先ほどのしごきのように過去に行為を受けることで悪い意味で慣れが生まれていくのだと思います。

 上記のような考え方から私は他人に対して、「俺は前にこんなことされた」とか「俺の時の苦労はこんなもんじゃなかった」などという理由付けは一切しないようにしております。自分が受けた行為が今やっている行為と同等のレベルであるかなんてわかるわけなく、自分の基準で物事を測れると勘違いするような人間にはなってはならないと肝に銘じています。もっともそのかわりに他人に作業を指示する時によく、「俺でもできたんだから、きっと君にもできるはずだ(*´∀`)ノ 」などと言って余計なプレッシャーを与えることは多いのですが。
 あと蛇足かもしれませんがよく自分のような比較的若い世代は上の世代から先程の、「俺がお前くらいの頃の苦労はこんなもんじゃなかった」と言われることが誰もがあると思います。もちろん自分の感覚基準で物言ってはいけないとは思うのですが、それこそ年収や昇給カーブが10年前や20年前から格段に落ちていることに加え就職氷河期が続いており、挙句に残業代なんて中小企業だとどこも払わないのが当たり前でブラック企業も平気で上場できる上に、コンプライアンスが重くなったりグローバル化で競争が激しくなったことを考えると、何を根拠にそんなこと言うんだと聞くたびに(# ゚Д゚) ムッ!っとしてしまいます。この自分の意見に対してうちの親父は比較的受け入れてくれていて、「俺らが若い頃は、何もしなくても売り上げ伸びてたしな……」と言ってくれます。ただそんな親父も、

私「うちの会社の人がこの前、団塊の連中は上から指示するだけで自分じゃ何もできねぇんだよ、って言ってたで」
親父「その通りや!」

 とすごい速さで即答してたので、多分苦労してたんだろうという気がします。

2012年4月26日木曜日

小沢一郎の無罪判決について

小沢元代表に無罪判決、東京地裁 陸山会事件(日経新聞)

 すでに各所で報じられている通りに政治収支報告書の虚偽記載容疑において本日、小沢一郎に無罪判決がおりました。今回の判決に対する私の感想はというと、至極真っ当な判決だと思います。その上で付け加えるなら、小沢はシロだというわけではありませんが、検察特捜の捜査は明らかなクロと言えるくらいに杜撰で呆けたものだったというのが今回の裁判でしょう。

 起訴容疑となったそもそもの陸山会の収支報告書の問題については細かく語りませんが、今回の問題で一番おかしな点はその容疑以上に、検察の姿勢というかバカみたいな捜査手法でしょう。まず今回の無罪判決の根拠としても挙げられた虚偽の捜査報告書ですが、言ってもないことや現実にないことを勝手に書き立てていざ矛盾点を指摘されると「実は嘘でした」なんて言っててへぺろで済むと、どうやら特捜は本気で信じてるんじゃないかと思うくらいにいちいち呆れてきます。更に小沢の元秘書で事件に関わった石川知裕議員についても実際には証言していない内容を供述調書に盛り込んでいたとも言いますし、小沢を捕まえるくらいなら身内で不正している人間を捕まえてポイント稼げよと言いたくなる低能ぶりです。

 そして極めつけが、障害者郵便制度悪用事件における厚生省の村木さんの裁判で証拠を偽造して実刑を受けている前田恒彦元検事がこの小沢の事件でも捜査に関わっており、この一点を取っても無罪判決にしたっていいんじゃないかとすら私は思えますし、判決前からそう周りに言ってました。言ってはなんですが証拠偽造するような常識はずれの人間が捜査に関わってたというのなら、「今回はどれだけ偽造したんだ?」と部外者の自分ですら言いたくなります。

 以上のような観点から今回の裁判所の判決は合理的だと思い、私も支持します。ただだからと言って小沢の疑惑というか問題性はないとは言えず、というか政党助成金の着服の件はどうしてテレビ、新聞メディアはスルーしているのかが気になります。恐らくこれで有罪になったらほかにもお縄に着く人間が大量に出てくるからだと思いますが、もう少しこの点に踏み込んだ報道があってもらいたいものです。

2012年4月24日火曜日

中国を見くびる日本人

 かなり古い話になりますが、以前に中国が禿山に緑のペンキをかけて植物があるように見せかけようとしたという一件をあるメディアが報じ、「これだから中国は」といった具合に、呆れた行為だというような論評が各所で飛び回りました。そういった論評を見て私が感じたのは、「日本もしてるのにな」という感想でした。
 さすがに禿げ山にペンキかけるというところまでやってるかは知りませんが、日本のゴルフ場では秋から冬にかけてペンキを散布し、緑色に保つという行為が一般的に行われると言います。またこれ以外にも景観維持のために自然に塗装を行うということはよくあると聞き、規模はともかくとして中国だけを笑うというのは何かおかしな印象を受けました。

 このニュースに限らず、日本初の中国ニュースにはどこか「中国は劣っている」という前提で冷笑するかのような報道が目立ちます。確かに中国は日本と比べると文化レベルが明らかに低いと私も断言できますが、だからと言って侮るべきかと言ったらそれはまた違うように感じますし、見習うべき点は見習うべきで実際にそういうところも数多くあります。
 ひとつ例を挙げると、中国では道を走る車がしょっちゅうクラクションを鳴らしており、私も来た当初は一回一回ドライバーをにらんだりしていましたが、慣れてしまった今となると視界のない後方から鳴らしてもらった時は対応がしやすくなり重宝しています。そもそも考えてみればクラクションは音で鳴らして相手に注意するための装置で、一回鳴らしたくらいでケンカにまで発展しかねない日本の価値観の方が安全上で問題ではないかというように考え直しております。

 いったい何故こんな話を今日しようかと思ったのは、西安市で道路が突然陥没して人が落ちたというニュースが今日流れ、また「これだから中国は」という論評が掲示板を中心にあちこちで見られたからです。私は陥没事件というと兵庫県明石市の大蔵海岸で起きた陥没事故を真っ先に思い出したのですが、日本でも同じような事故が過去に起きたことを考えると決して他山の石にすべき、ましてや冷笑するニュースにしてはならないと思います。

 真面目な話、本気で中国に対抗しようというのなら侮るという行為は一切しない方がいいでしょう。過剰に懸念し過ぎるのも問題ですが、いつでも全力で叩き潰すくらいの気概を持って相手ことこそが必要な態度かと思います。

隣の屋根の上

 今日はリアルに帰宅時間が11時となるなどやけに遅かったので、短いネタを一本です。
 先日、会社でいつも通りに仕事していたら営業部の同僚より、「今すぐ窓の外を見ろ!」と内線電話がかかってきました。で、言われた通りに窓の外を見たら、


※クリックすると大きな画像で開きます

 隣の屋根の上で親猫が子猫に授乳させてました。このところこの猫の親子はうちの事務所周辺を徘徊していてよく見かけるのですが、なんていうか家族仲がいい猫です。


 こっちの写真だと親猫がモロにカメラ目線。どうでもいいですが、これらの写真は会社の取材用カメラで撮影しており、これでもトリミングしているのですが解像度が半端じゃなくてやけにでかい画像になってます。素人でもこんな写真撮れるんだから、最近のカメラ性能の向上は侮れない。

2012年4月22日日曜日

ベアリング業界のカルテル事件について

 最近あまり取り上げてませんでしたが、またベアリング業界でカルテルが発覚したそうです。

カルテル破り、他社へ謝罪も…ベアリング4社(読売新聞)

 今回のこのベアリングメーカー四社のカルテル事件ですが、驚いたことと不思議に感じなかったことがそれぞれ一点ずつあります。まず驚いたことというのは、今回のカルテルに関わった日本精工とかNTNはそれこそ優良企業の見本とされているところで、高い技術力に裏打ちされた製品を作っていて世界的にも顧客をたくさん抱えているにも関わらずこういう小細工をしていたという事実です。次に不思議に感じなかった点ですが、ちょうどこの前にも住友電工や矢崎といったハーネスメーカーで同じようにカルテルが発覚しましたが、このハーネスといい今回のベアリングも自動車部品メーカーで、案外自動車部品に関連する業界ではどこも似たようなことをしているんじゃないかという疑いを前々から感じていたからです。

 実はこれまで私が関わっていた業界は高圧ガス、ハーネスと、二つともサプライヤーとなる大メーカーでカルテルが発覚した業界でした。もちろん在籍時は下っ端も下っ端で価格交渉に立ち会うことはありませんが、仮にそういう立場にいたとしたら「これまで散々にカルテルで不正に儲けてきたんだから、これからどれだけ負けてくれるんだ」と値下げを要求したと思います。もちろんこれは極端な行動でしょうが、現実問題としてこれらカルテルを行ってきた企業らはそういった卸価格の一律引き下げとかを要求したっていい気がします。
 しかも今回のベアリングメーカーのカルテルでは上記リンク先の記事によると、勝手にカルテルを破って値下げを実行したらほかの3社に担当者が謝りに行ってたり、支店長レベルでカルテル価格の共有化が行われたというのだから怒りを通り越して呆れて来ます。何気に日本精工からもNTNからもベアリングを小ロットだけど買ったことがあるだけに、金返せよと言いたくなってきます。

 話は戻ってカルテルの話ですが、どうも自動車の素材や部材業界では発覚している所以外でもこうしたカルテルが横行しているんじゃないかという気がしてなりません。法学部出身の友人によると、「うちは来月、値上げに踏み切ろうかな」というセリフを同業他社の担当者に洩らすだけでカルテル訴追の条件は満たすらしいですが、疑り深いだけかもしれませんがこれ以上の情報遅漏もなんかごく平然と行われているようになんかあの業界は見えてきます。
 以前にも書きましたが、住友電工の自動車用ハーネスの販売価格はエンドユーザーとなる自動車メーカーごとに初めから決まっており、エンドユーザー名を必ず伝えなければ住友電工は一切見積もりを出してきません。そりゃ大半の商品が国から輸出規制該当品に指定されているポンプメーカーのアルバックが輸出案件の際にエンドユーザーを細かく確認するというのは十分理解できる話ですし、購買側も協力しなければならないとは思いますが、あのハーネス業界の体質は冷静に考えたら価格を完全に統制しているし、そもそもなんでメーカーごとに決まっているんだと考えだしたらそりゃカルテルがあるからだとしか言いようがありません。きわどいことを書いてしまうと、既にハーネスメーカーは一回しょっ引かれていますが懲りずにまだ続けていると私は思います。

 疑いだしたら本当に切りがないですが、自動車業界のサプライチェーンというのは変に横に広い一方、複数の自動車メーカーが一つの部品メーカーに同時に発注を出すとかそういったことが多い業界です。さらに言えば自動車メーカーの号令一下で値下げを強要されることもあり、何か取りまとめしている大メーカーがあってもおかしくないんじゃないかという気がします。
 予言しますが多分、自動車関連の業界で今後もこうしたカルテル事件は摘発されると思います。前に談合をしていた建設業界の連中は、「談合しなければ企業は生き残れない」と言って、必要悪だという主張をする人が公然といましたが、競争に負けた企業が潰れるのは自然なことで、逆に潰れるべき企業が潰れなければ真っ当に経営していて効率性の高い企業が割を食う可能性があります。こんなこと言われなきゃわからない人間とは一言たりとも口を交わしたくありませが、はっきり言えば談合なりカルテルは市場を歪めるだけの行為であって百害あって一利なく、弁護する余地はありません。特に今は不景気で潰せる企業があるなら可能な限り早くに潰れてもらった方がいいという面もあり、公正取引委員会の今後の活動に期待します。

2012年4月21日土曜日

真に国会から追い出すべき政治家

【2閣僚問責】前田国交相と田中防衛相が続投を表明「責任を果たしたい」(産経新聞)

 本日、公選法違反の疑いある行為を行った前田国交相と北朝鮮のミサイル対応を含めてどうもパッとしない田中防衛相に対し、野党から問責決議版画提出されて可決されました。この問責に対する私の評価というのは、シャレや冗談とか一切抜きでこんな問責決議案を出した野党はギャグでやっているんじゃないかという気が起きます。一体何故このタイミングで提出するのか、何故こんな小物に提出するのかが全く理解できませんし、可決したとはいえ問題の二閣僚は評価こそしていませんが辞める必要はないと思います。何故こう考えるのかというと去年12月に「本当に問責を出すべき相手」の記事で書いたように、鳩山由紀夫元首相を野党がスルーしているという一点に尽きます。

 言いたいことは基本的に以前の記事と同じですが、私は今回問責が提出された二閣僚は確かに大臣を務められる人材かと問われるならば物足りなさを感じるし、可能ならば取り替えたいというのが本音です。ただ今の民主党にそれだけの人材がいるか、っていうか自民党時代の国務大臣ですら「ほかにまともな人間はないのか?」と思うくらいひどかったのを考えると、今ある政治家の中で何とかやりくりするしかないかというあきらめがつき、致命的な損害を国に与えていないというのならばしょっちゅう変えるべきではないという消極的な理由で続投を支持します。
 それよりも真に日本の国政、外交に大きな損害を与えているのは間違いなく鳩山元首相で、この前も勝手にイランに行って世界に間違ったメッセージを発信したばかりか予想されたとおりにイランに利用されており、それ以上に救えないのが本人に全く反省の色がなく「また行きたい」などと言ってのける始末です。

 私は今回の問責案が出てきたに当たって、なるべくなら同じことは言いたくないと思っていました。しかし前回同様に「この二閣僚より鳩山元首相の方こそ排除すべき」という言論はついには出なかったため、結局は自己満足にすぎませんがこうして改めて書くことにしました。
 見方によっては批判を受けるかもしれませんが、私は問責が可決されたとはいえ問題の二閣僚は先に上げた理由から辞めるべきではないと思います。そもそも今回問責決議を提出した自民党はかつて、実体のない水道代や事務所家賃を計上して公費から出される議員報酬を受け取っていた松岡利勝氏や赤城徳彦氏を問題発覚当時に罷免しなかった(赤木氏については参院選大敗後に「選挙責任」として辞職させてはいますが)という過去があります。また実際に問責決議案が可決された大臣でも、女性を「産む機械」と表現するなど人格を疑わせる柳沢伯夫氏も当時留任させており、これらの人物に比べれば今回の二閣僚は辞職に追い込まれるほどのことをしたのか非常に疑問です。っていうか自民も、自分たちのことは棚に上げて何故こんな国会を空転させるような決議を提出したのか強い不満を感じます。

 結びになりますが、頼むから誰か、鳩山元首相に対して一刻でも早く議員辞職勧告決議案を出してほしいです。これだけ問題のある人物をどうして放っているのか、何か喜劇でもやってるつもりなのか不思議でしょうがないです。

2012年4月19日木曜日

街と街の間も市街地が続く日本の街

 日本を含めて世界的にそうですが、中国の自動車市場で今一番伸びている車種はSUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)です。車に詳しくない方のために説明しておくと、SUVとはでっかくてオフロードを走るような車で、現行車種だとスバルのフォレスターとか三菱のパジェロ、あと日産のジュークみたいな車を指しております。
 中国ではとにもかくにもこのSUVが売れており、ポルシェが出したカイエンという車は全国各地でバカ売れし続けててどこでも見ることが出来ます。何故SUVばかりが売れるのかいくつか理由はありますが、私がにらんでいる一番大きな要因は、中国は上海市内ならまだしもまだ地方では道路がきちんと整備されていないところが多く、普通の乗用車で走るには乗り心地が非常に悪い土地ばかりではないからではないためだと思います。そのため悪路、下手すりゃオフロードでも比較的走行することが出来て、あと見かけもでかい分だけかっこよく見えるから売れてるんじゃないかというのが私の意見です。

 ここで少し話は飛びますが、何気に世界的に見て日本の街の作りはちょっと特殊になっていると常々感じます。一体どこが特殊なのかというと街と街の間も市街地が延々と続く、なんかわけのわからないことを言っているようですがこれは世界的に非常に特殊なので今日はちょっとこの辺を説明します。それにしてもなんだか読んでて舌噛みそうな文章だ。

 話はさかのぼること数年前、私が大学でロシア語の授業を受けていた時に講師が、アルバイトでロシア人のツアーを案内した時のことを話したことがありました。その講師によると、ちょうど大阪から京都の境のトンネルをバスに乗ったまま通り抜けるところで「これから京都に入る」と言って、トンネルを抜けたところで「はい、こっから京都です」と説明したそうです。すると乗っていたロシア人が、「さっきから同じ市街地がずっと続いているじゃないか。まだ街を移っていないのでは?」と質問が飛んだそうです。言われて初めてその講師は、ロシアは街と街の間は本当に道だけで何もな野原や荒れ地が続いているだけで、日本みたいに一部を除いて住宅や店舗が続く場所は見たことがないと気が付いたそうです。

 日本、それも関東や関西では駅と駅の間も市街地が隙間なく開発されているのが割と当たり前で、地方の国道沿いとかでもショッピングモールや住宅があるのはそれほど珍しくはありません。しかしロシアに限らず中国やほかの国ではそれこそ街と街の間は本当に何もなく道だけがずっと続くところも珍しくなく、現に上海ですら近くの蘇州市などに行く途中、列車から眺める限りでは建物とかほとんど見ません。
 じゃあ何故日本は、といっても地方はロシアや中国と同じでしょうがそれはこの際置いといて、これほどまでに隙間なく開発されていったのでしょうか。一つの理由としてはやはり、平地の国土が少なく居住地が限られている中で人口が多かったことが挙がってきます。次にかつて土建国家と言われたくらいに、開発できる場所はとことん開発してしまおうと開発されていったこと。とどめに、鉄道路線の整備が早かった上にどんな場所でも正確に運航できることから通勤圏、居住圏が果てしなく広がっていったということもあるかもしれません。

 とにもかくにも日本にいたら気づきづらいですが、間違いなく日本における市街地の構成は世界的にも珍しいです。今後、日本の人口は縮小していくのは間違いないためにこうした市街地というものは徐々に中心へ向かって狭まる、ドーナツ化現象とは逆の動きが起こることが予想されますが、こうした特殊性を認識しといても損にはならないのでこうして書き残しておきます。

2012年4月18日水曜日

ルール変更に対する概念 後編

 前回に引き続き、社会ルールの変更に関する概念について思ったことを書いてきます。それにしても前回記事は調子が悪かったこともあってわかりづらいな。

 まず簡単におさらいすると、社会にははっきりと明示されているわけではないもののたくさんルールというものがあり、みんな無意識にそのルールに従って生活したり仕事をしたりしております。ただそれらのルールは時間と共に意外と変わることが多く、うっかりしていると置いてかれるということもありうるということが前回に言いたかったことです。
 ただ置いてかれると言っても、社会ルールというのは紙に書いて張り出されているものではなく、やたら新ルールを追いかけていたら元のルールに慣れた人間たちから総スカンを食らって袋叩きになることもあり、状況にもよりますがルールを追いかける上で加減というものは非常に大事になってきます。

 こうした新ルールを早くに追い過ぎた例として敢えてここで挙げると、鹿内宏明氏なんかそうだったんじゃないかとこの頃思います。知ってる人には早いですが鹿内氏というのはフジテレビや産経新聞をはじめとしたフジサンケイグループの元会長でしたが、1992年に社内クーデターに遭って経営職から解任された人です。何故鹿内氏が解任されたのかという理由についてはいろいろ説はありますが、一般的にはグループ内の企業を束ねる持ち株会社を作り統一した経営体制を作ろうとしたことに対して反発を受けたことが原因とされています。
 しかしその後のフジサンケイグループはまさにこの時の鹿内氏の構想通りに持ち株会社、フジ・メディア・ホールディングスを中心とするメディアグループが出来上がるわけなのですが、これを推進したのが鹿内氏を追い出した張本人である日枝久会長で、持ち株化を進める過程でかねてからの懸念通りにライブドアによるニッポン放送株の買い付け事件が起きたというのは皮肉以外の何物でもないでしょう。こう言ってはなんですが、初めから鹿内氏に任せておけばライブドアによる混乱も起きなかったんじゃないのというのが私の感想です。

 話は少し横道にそれましたが、基本的に新ルールには適応していかなくてはいかないものの、あまりに先を行き過ぎると失敗してしまうこともあります。ではどんな風にルールを追えばいいかが、まさにこれが重要となってきます。
 結論を述べると、ルールを追うも何もルールを作る側に回ることが一番強いです。これをは国際的に行っているのは言わずもがなのアメリカで、自分ところで新兵器を作っては危険性が高いと言ってほかの国には研究開発を禁止したり、貿易とか金融ルールを、「これがニューヨークのトレンドなんだよ(・∀・)ニヤニヤ」という具合で、偏見入っているかもしれないけど自分たちの都合のいい内容にして押し付けたりするのが異様にうまいです。ただくれぐれも言っておきますが私はこんなアメリカが好きですし、ほかの先進国も多かれ少なかれ、「自分のルールに相手を巻き込む」戦略というものを持っていると思えて、これが本来あるべき姿でしょう。

 それに対して日本、というか日本人はこうしたルール作りが非常に下手で、思考のスタートからして「どうやってルールに追いつこう」と、自らを大きく限定してしまいがちなところがあります。それこそさっきのライブドアのニッポン放送株買い付け事件も、合法だったにもかかわらず前例がないという理由だけであれほどまで総叩きくらって、日興コーディアルとかオリンパスがあの程度で済んだのに逮捕されて実刑くらうまでに制裁を受けるというのはちょっとやりすぎでしょう。
 概して、日本ではやはり保守派が異常に強すぎると言わざるを得ません。社会ルールも競争力があるとか合理性があるとかじゃなく、保守派にとって都合がいいかどうかで決まりがちだと思えますし、新分野を開拓して新ルールを作るなんて以ての外として扱われるでしょう。

 もちろん、重ねて言いますが新ルールを作ったり追従したりすることがなんでもかんでも正しいわけではありません。アメリカなんて自らが作った金融ルールによってリーマンショックを引き起こして自滅したわけですし、保守的な姿勢も伝統芸能とかそういったものを守る上ではいい面もあると思います。またなんでもかんでもルール破りを奨励するというのも、紅衛兵じゃないですけどそれはそれで破滅しか招きません。

 ではこんなことを言う自分はどんな態度を取っているのかというと、非常に傲慢ですが自分が納得するかどうかでそのルールを守るか無視するかをはっきりと決めております。その為、人によってはどうも異常に従順で安定を求めた生き方をしているようにみられることもあれば、山っ気が強く非常に反抗的な人物と両極端な評価を受けることが多々あります。こうなったのも日本における既存ルール下では不利になる立場であったため、かなり早い時期からルールを作る、もしくは改正する、果てには及ばないところに避難しなければならないという価値観を持ったような気がします。そもそも社会学自体が他の学問では自明とする因果関係をよく疑う学問なあたり、相性が良かったのかもしれません。

2012年4月16日月曜日

ルール変更に対する概念 前編

 大分昔ですが田原総一郎氏の講演会に出た時、田原氏が昔と今の政治の違いについてこう言っていました。

「高度経済成長期の日本は儲かって仕方がなく、当時の政治に求められたのは有り余るお金を如何に平等に分配するかだった。それが失われた十年に入った後は一転し、現代は労働や社会保障などといった負担を如何に分配するかが政治に求められている。無論比べるなら、お金を配る方が簡単に決まっている」

 現代政治の問題点から政治家の資質に渡るまで実に日本政治の要点を突いた一言だったので大変印象に残り、よく知り合いなどにも引用して話しております。ただこの発言内容はもとより私が真に注目したのは、時代に伴って政治のルールというか役割というのは容易に変化が起こり得るということで、今日はちょっとこの「ルール変更」について解説します。
 ルール変更というのは読んで字の如く、それまでのやり方や基準が改まるということです。それこそ何を以って社会ルールが変更したと考えるかは議論の余地がありますが、経年によるルール変更というのは概して徐々に行われることが多く、ルールが変わっている最中には全く気が付かず10年くらい経って初めて気が付く、というより分析されるものだと私は思います。

 ひとつ例にとると、現在真っ盛りの就職活動ではバブル期までいわゆる体育会系こと、上意下達の組織に慣れた運動経験者がとかく持てはやされました。それが失われた十年に入りますと就職氷河期に入って即戦力が求められるようになり、当時に実際に就職活動したわけじゃないので本当かどうかはわかりませんが、「資格を持っていると有利だ」という言葉をあちこちで聞きましたし、またボランティア活動をしていると奉仕意欲が高いと判断され受かりやすいなどいう噂も流れていました。
 それからさらに時代が下った現代に入りますと、まず資格については専門分野で何か持っていて当たり前、専門外においても何かしらあるのが常識化されているような気がします。その上でしょうもない資格については見向きもされなくなり上位資格かどうかが審議され、さらに「コミュニケーション能力」という定義の曖昧なものをどの会社も重要視するようになり、バブル期などと比べると隔世の感があります。

 これはあくまで一例ですが、これ以外にもこの10年間で当たり前だったものが見向きもされなくなり、逆に全く省みられなかったものが急激に評価が高まるという事例はたくさんあります。また評価基準だけでなく方法こと手段も改まることも数知れず、また就活を例にとるなら履歴書の書き方一つとっても数年度単位でかなり変わってきているかと思います。
 この社会ルールが変更されるということを通して私が何が言いたいのかというと、一言でまとめるのなら「昔成功したやり方が現在でも通用するわけがない」という一点に尽きます。それこそ過去の成功体験を持ってきても、、目に見えないところでたくさんのルールが変わっている今でも同じことをすれば成功するわけでなく、むしろ失敗する確率の方が高いかもしれません。

 こういった観点から私は、保守的か変革的かで比べれば後者の方がやはり強いと考えております。もちろんなんでもかんでも新しいものを追っかけて行って失敗することもあれば、かたくなに伝統を守ることで真価を発揮する分野もあるため絶対ではありませんが、一般論としてはやはり徐々に変化していくという組織や人間、果てには考え方の方がうまいこと渡っていけるんじゃないかと思います。
 言ってしまえばここで書いた内容は本当にごくごく当たり前の話で自分でもわざわざ解説するほどのことかと感じるのですが、それでも何でかこうかと思ったのかというと、政治家や実業家を初めとした責任ある立場にある人間に、ルールが既に変わっているにもかかわらずまだ気が付いていない連中が多いように感じるからです。具体的に言うのなら小泉劇場を批判していた政治家らで、あの時代を経て今の日本は自分が持つ政策論、方向性をきちんと説明しなければならなくなったにもかかわらず未だにサボっている人が数多いです。もっとも、政策論自体を果たして持っているのか、金さえ配っとけば本気で何とかなると思っているのではという人もまだ残っていますが。

 と、つらつらと書き並べてみましたが、ここから敢えて話を発展させてみたいとこの前考えてみました。具体的にどういう風にしたいのかというとずばり、「新ルールをどのように追えばいいのか」、または「新ルールをどのように作るのか」で、この点についてはまた次回に解説します。久々の前後編だ。

円安に対する解説が少ない件について

 今日も帰りが遅かったのでさくっと片づけられる内容です。その内容というのも3月から続く円安についてです。
 為替を毎日チェックしている人なら話は早いですが、1ドル70円台中盤にまで高騰していた日本円が今年3月に入ってからは急激に円安に振れ、現在においても80円台を回復したままとなっております。一時期は77円を越えていたことを考えると急激な変動ぶりと言わざるを得ないのですが、何故だかどこの経済紙もこの円安の動きについてその原因、果てには展望について解説する記事はとんとありませんでした。それこそ78円や77円を突破するごとにあれだけ大騒ぎしていたことを考えると、おかしなことこの上ありません。

 一体何故円安、80円台回復について誰も解説しようとしないのかですが、理由は簡単でこの為替の動きが日本政府による市場介入の結果だとみんな知ってて知らない振りしているからというのが、私と私の周りの意見です。っていうか、これ以外の理由を挙げる人がいるのならぜひ見てみたいしその理由も聞いてみたいくらいです。以前にも日本政府は為替介入をしておりますがここまで露骨にはしてきませんでした。それが何故今回は80円台を突破するまで、ここまで執拗に為替介入をしているのかというと、ひとえに時期が3月、決算月ということ以外にないでしょう。
 決算月には上場している企業はこの1年間の業績から総資産をすべて公開し、発表しなければなりません。また業績発表に合わせてそれまでの支払いなりの取引処理も行わねばならず、未収金なども可能な限り回収する必要があるのですが、これらの面で円高が続いたままだと輸出を多く行っている企業にとっては非常に不利になります。そのため3月に限り可能な限り日本政府は介入し、メーカーなどといった企業を陰ながら支援する必然性がありました。

 もちろんこんなの証拠なんてないし、日本政府も「やってるよー!」って正直に言ってるわけありません。ただみんな今の円安が自然な市場の動きではない上に、円安となっている根拠というか背景は全くなきに等しいです。それゆえこ政府介入は織り込み済みであることと、メディアもいちいち指摘して足を引っ張る、もとい輸出企業ににらまれたくないのもあって敢えて今の為替の動きを何も解説しないんだと思います。また今の動きはあくまで一時的だと思われますし、下手な予想をして下手こいたらかっこ悪いし。

 ただこうした露骨な政府介入について、誰一人として指摘をしないのもまた奇妙な感覚があります。世界史を選択してたくせにやけに古い日本文化に詳しい友人は以前に、「歌舞伎で舞台装置を動かしたりする黒子というのを、日本人はそこにいないものとして見えているけど見えないものとして扱う」という例を引用し、日本人は明らかに現実にあるものを時たま、全く存在しないものとして直視しない、反応しないところがあると指摘してました。なんていうか、いまの円安についても同じような印象を私は持ちます。

2012年4月13日金曜日

中国の雇用慣行

 昨日にあんなこと書いておきながら、北朝鮮のミサイルは今日飛んでしまいました。かっこ悪いことこの上ありませんが、解雇た事には公開してませんしまぁ仕方のないことです。それにしたって北朝鮮は間が悪い。

 話は本題に入りますが割と中国関連の話だと、自分の中では当たり前だと思っている内容でも知り合いの日本人に聞かせてみたら珍しがられる話が多いです。そのためどんな話が求められているのか内心よくわからないところがあるのですが、雇用慣行についてはどの人に話しても受けがいいのでちょっと解説しようかと思います。
 まずいきなり数字から出すと、去年の中国の離職率はある所の調査によると18.9%です。これは言うなれば約5人に一人が退職、もしくは転職をしたということを表しており、多分日本人からしたら相当高い印象を受けるのではないかと思います。もっとも計算方法は一部異なるものの日本の離職率も16.4%(2009年)なので実際にはそれほど差がないのですが、日本だと離職する人間というのは見え辛いというか隠すところがあるからかな。

 話は戻しますが、率はともかくとして中国では転職は頻繁に行われており全く珍しいものではありません。それこそ20代で5社くらい経験している人もいれば一年ごとに会社を変える人もいますし、日本とは違って社会全体で会社を辞めるということにためらいがありません。一体何故これほど転職が多いのかというとまずキャリアアップを目指す人が多い上、男性と比べればそりゃハンデはありますが女性でも出来る人は昇進できることもあり、現状より高い給料を用意してくれるというのであれば明日からでもと言わんばかりに転職に打って出てきます。日本でも最近になってキャリアアップを目指した転職が増えては来ておりますが、それでも中国と比べれば受け皿の面といい、まだまだ未発達と言わざるを得ないでしょう。

 その上で中国、というより日本独特の雇用習慣による違いも大きく影響しております。断言してもいいですが日本の雇用習慣の方こそ世界から見れば珍しく、無期採用が基本となっております。これに対して中国を初めとする世界各国は基本的に有期採用ことあらかじめ雇用期間を労使双方で定めて雇用契約を結ぶのが基本となっており、自分も現在の会社とは去年に1年契約で入社し、今年また更新をして現在も残って働いております。イメージ的にわかりやすいのはプロ野球選手の契約で、毎年のシーズンオフに年棒や契約期間を球団と交渉して決めるように、中国では会社と従業員が雇用契約について個々で話を持ち合います。
 もちろん1年契約を結んだからと言って被雇用者はプロ野球選手みたいに他球団へ自分の意志で移籍できないようにプロテクトされるわけではなく、また雇用主側となる企業側も何が何でも1年間は雇い続けなくてはならないというわけではなく、それぞれの都合によって期間中に転職することもあればリストラすることもあり得ます。私の感覚だとこれら有期契約は、「これから1年間はこの給与額で固定する」というような意味合いの契約で使われているような気がします。そのため契約が終了する時期というのは双方にとって給与額を変更するチャンスでもあり、プロ野球選手同様に「残ってやるからには給与を上げろ」とか、「ミスが多いから来年の基本給は10%減」などという熱い議論が交わされたりします。

 日中双方の雇用契約を体験した自分に言わせると、やはり中国、というより国際式の雇用契約の方が自分には馴染みます。日本にいた頃はそれこそ何をやっても給与額が変わるわけでもないですし、自分なんか仕事の少ない部署にいたものの同期は忙しい部署で働いてて、これで同じ給料をもらうというのはなんだか気が引けるように感じていました。もっとも今いる会社も日系なので、新たに担当する仕事が増えたからと言ってすぐその場で給与額が上がるわけじゃありませんが、契約更新の際に給与額を見直すチャンスがある分、アピールの仕方とかそういうものを常に考えられるので気持ち的にはなんか前向きになれます。
 ただ今年の自分の雇用契約について言うと、去年は新人ながらそこそこ頑張ったし多少胸の張れる功績も挙げられたという自負があったので、ジャイアンツの杉内選手みたいに契約更新時にはちょっと強気に出て、なるべく多くの昇給を勝ち取ろうと意気込んでいたのですが、契約更新月の前に上司に突然呼ばれ、「契約更新前だがお前の給与は上げておいたからな。また頑張ってくれよ」と言われてしまいました。自分も自分で「はい、ありがとうございます(;´∀`)」としか言えず、結局給与交渉に望むことなく自動的に契約更新となってしまいました。昇給額は極端に低かったわけではありませんが目標額は下回っており、感謝はしてますがなんていうか先手を打たれた気持ちでいっぱいです。向こうの方が一枚上手でした。

2012年4月12日木曜日

北朝鮮のミサイル発射日の報道

 余計な説明は不要ですが、現在北朝鮮が衛星といいつつミサイルを発射する準備を続けております。北朝鮮側はこれまでに発射予定日を12~16日と発表していて今日から予告発射期間内ということですが、生憎というか今日は発射されることはありませんでした。ただこの発射予定日を巡って日本の報道を見ているといくつか奇妙に感じる点が少なくなく、今日はその辺についてささっと書いて寝ようかと思います。

 まずいきなり結論から言うと、どうして昨日から今日にかけて「本日中にも発射か」という報道が多かったのかが気になりました。もう昨日の段階だと発射は完全秒読み、関係各所は対応にてんやわんやとまるで確定的かのような書き方が多く、確かに予告発射期間内に入るとはいえどうしてここまで強気な報道するのかが不思議でした。さらに言うと、その予測の根拠が全くないのも不可思議この上ありません。
 もっとも私がこのように感じるのも、中国での報道を見ているからかもしれません。とうのもこちら中国の報道だと先週から既に、「発射予定日は14日になりそう」という報道が出ており、こちらも予測の細かい根拠こそないものの日本ほど感情的な書き方ではないため、こう言ってはなんですがこっちの方が信頼性がある気がします。北朝鮮と国交のある中国の報道ということもありますが。

 こんなことを書きながら明日にも発射されたらちょっとカッコ悪いことこの上ありませんが、外から見ていて今の日本の報道はちょっと過剰反応し過ぎな気がします。栃木県なんかも防災メールを誤送信したようですし、無警戒というのも問題ですが必要以上に慌てるというのもまた問題です。まぁ理由は恐らくほかに報道するニュースがないからというのが何より大きいからだと思いますが。

2012年4月11日水曜日

富士通元社長の請求棄却について

 ここだけの話、ノートパソコンのカタログを見るのが非常に好きです。多分、中学生くらいの頃にパソコンが欲しくてたまらなかったのに当時は値段が高くて眺めるだけだった反動でしょうが、現在使っているNECのLS550/Eの性能には満足してながら、いろんなメーカーのパソコンを見てはデザインのいいノートパソコンを無駄に買い集めたいという欲求に駆られております。なお今一番注目しているのはエプソンのEndevorで、今まで一度も直販サイトで買ったことがないので試しにネットブック一台を日本で購入して実家に送らせ、親父に上海まで持ってこさせようかなとまで考えています。
 そんなノートパソコン好きの自分ですが、金輪際買うことはないと断言できるメーカーが二社あります。一社はパナソニックで、これはパナ系列の会社に務めている友人も同じこと言っております。もう一社は富士通で、キムタクが出ているFMVのテレビCMが神経を逆なでされるくらいに見ていて腹が立つのと、今日取り上げる野副元社長の不自然な解任劇からです。

富士通元社長の請求棄却、東京地裁が「辞任強要」の訴え認めず(ロイター)

 本日東京地裁で、2009年に虚偽の理由で社長職を解任されたとして損害賠償を求めた野副元社長の請求が棄却されました。この件における私の立場は断然に野副氏側であるため、今回の東京地裁の判決には首をかしげるとともに「この判決を下した裁判官は誰でえヽ(`Д´)ノ」と海原雄山ばりに怒鳴り込みたい気分です。あらいを持って富士通に突っ込もうかな。

特別リポート:富士通を覆う閉塞、社長解任の爪跡とガバナンスの行方(ロイター)

 事件の背景についてはこちらも同じく上記のロイターの記事がよくまとめてくれているので興味のある方は是非閲覧していただきたいのですが、念のため私の方でも簡単に説明させていただきます。
 まず事件が起きたのは2009年で、野副氏によるとその日の朝にいつも通りに出勤すると突然別室に呼ばれたそうです。別室では役員らがほぼ全員待っていたそうで、野副氏が親しくしていて富士通ともかつて取引のあったファンド企業が反社会的勢力との付き合いがあると告げられたそうです。更に当時の役員は既にこの事実はマスコミなどにもばれそうで、仮に発覚したら富士通は潰れてしまうため、どうか会社を守るために今この場で社長職を辞任してほしいと畳み掛けたそうです。しかも一事が万事で役員会議に出るのも危険だからと他の役員らの動議による解任で済ませ、今後しばらくは自宅から一切外に出ないようにと言われ、そのまま判断するまもなく極秘裏に自宅へ送り返されたそうです。

 野副氏はこの時のことを抵抗しなかった自分にも責任があるとしながらも、判断する間も与えず完全にだまし討ちのような手段で、さらに当時言われた内容は事実とは異なるものであったことから提訴すると決めたそうです。もちろん提訴することによって富士通のイメージは悪くなるため、このまま泣き寝入りすべきかとも検討したそうですが、っとこうした人の内面を他人があれこれ言うのは野暮なのでこの辺でやめときますが、第一、もし解任劇が野副氏の言う通りであれば徹底的に抵抗するのが筋でしょう。

 私が野副氏の立場に立つ理由はいくつかあります。まず第一に富士通は当初、野副氏の解任理由を「急病によるもの」と発表し、その後に野副氏の反論を受けて「反社会的勢力との付き合い」と訂正している点です。そもそも論としてもし野副氏が本当に知ってか知らずか反社会的勢力と付き合っていたのであれば堂々と役員会で解任し、その理由も正面から説明すればいいだけの話で、急病と詐称すること自体がなにか裏があるためとしか思えません。

 第二に、これがある意味核心をなす所でもあるのですが、野副氏と代表が親しくしていて今回槍玉に挙がったファンドことサンドリンガム・キャピタル・パートナーズは、今に至るまで反社会的勢力の交流があるとは一切報じられておりません。それどころかサンドリンガムはこの件で、判決が既に出ているかどうかはわかりませんが、名誉棄損として富士通を提訴しております。
 ロイターもこの点で富士通側に確認しているようですが、富士通側は「該当のファンドがサンドリンガムであるとは限らない」と発表しているようで、さらには問題のファンドが反社会的勢力と付き合っていると判断した理由については「司法以外の場では明かす必要がない」として回答を拒否しているそうです。何度も言いますが、正当性があるというのならもっと堂々とすればいいのに。
 止めに、これなんか私の友人が狂喜乱舞しかねない名前ですが、華麗なる一族ことあの堤清二氏がロイターの取材に対し、「サンドリンガムの代表者が反社会的勢力と付き合いがあるとは思えない」と述べており、しかも今回の解任劇を仕組んだとされる富士通の顧問にもそう説明していたそうです。あまり人を信用し過ぎるのもなんですが、私も堤清二氏が言うのであれば……という風に思っちゃいます。

 そして第三の理由、これはあまり詳しくないのですが野副氏が追い払われる理由が当時の富士通にはあるからです。報道ベースでしか見てませんが、なんでも野副氏が進めていた富士通の子会社であるニフティの経営統合案を快く思わない勢力がたくさんいたそうです。さらにこの統合において、例のサンドリンガムが仕事を請け負っていたというのだから私の中で信憑性は抜群です。

 これだけきな臭い話にもかかわらず東京地裁は今回、当時の役員らが該当のファンドと反社会的勢力が交流があったと信じるに足る情報があった、だから野副氏に辞任を求めたことは問題なかったという判断から賠償請求を棄却したそうです。しかもふざけきっていることに、「該当のファンドが反社会的勢力と関係があることが客観的に真実か否かは問題とされていない」と指摘しています。これはつまり疑惑が真実であるかは関係なく、そういったことが疑われるのならそれだけで解任してもよいとお墨付きを与えているも同然です。仮にこの通りであれば、今後はそれらしい情報を集めて気に入らない人間をいくらでも追放するといった行為が起こりかねず、非常に問題のある判断だと私には感じます。この件で何より大事なのは解任理由が真実かどうかであるはずなのに、この始関正光という裁判長は本当に理解が出来ません。

 野副氏は今回の判決に控訴をする予定だそうですが、私としても是非真実を明らかにしてほしく、陰ながら応援させてもらいます。それにしてもCMがクソなら会社もクソだな、富士通は。

2012年4月9日月曜日

小売りに見る消費文化

 ちょっと古い話ですが、この前に英小売のテスコが日本事業から撤退しました。撤退がわかった当初はそれこそあちこちがその原因を分析した記事を出してて、大体が日本の消費文化になじまなかったということを、すでに撤退しているカルフールの例や不振が続くウォールマートの例を出して解説するのがほとんどだったと思います。実はここだけの話、小売りというのは一見どの世界も同じような形態と見られがちであるものの、実態的には国や地域ごとの文化差が非常に激しい領域だと思え、どれだけ資本量が多かろうとも文化圏が異なれば成立しない業界だと考えております。

 一体何故このように考えるかですが、一つの理由として中国の小売市場を見ているせいだと思います。実は中国でも定期的と言ってもいいくらいにカルフールやウォルマートが撤退するのではというニュースが良く出ており、傍目には客が入っているように見えるものの業績自体は極端によくないという話をよく聞きます。またこれは家電専門店ですがアメリカのベストバイという家電屋は鳴り物入りで中国に進出しましたが、昨年に大幅な赤字を計上した上で撤退しています。

 ベストバイの撤退については現地で非常に細かな分析がなされましたが、最も指摘された原因というのはやはり「アメリカ式」という点でした。中国の家電屋というのは昔の日本と同じく、各家電メーカーごとに販売員が派遣されてきており、それらの販売員が各々客を接客して自社の製品を買わせるという仕組みになっております。なお余談ですが、友人が以前に掃除機か何かを買いに行った際、販売員同士が大喧嘩してえらいことになったと言ってました。
 話は戻ってベストバイですが、どうも進出当初は「豊富な品揃え」をアピールして、メーカーから派遣される販売員の受け入れは拒否していたそうです。そのためやってくる消費者も最初は真新しさで来ていたものの徐々に減り、後になってから販売員の受け入れを行ったものの結局再起を期せずして撤退と相成ったわけです。

 実は自分も以前まで、小売りというのは並べる商品さえ気を付ければどこがやろうともそんなに変わらないだろうと思っていたのですが、どうもこうした日本や中国で欧米勢が苦戦している様を見ると文化的な要因が非常に強い業界ではないかと思うようになってきました。さらに思い返すと、カルフールが千葉県幕張市にできた際に私が通っていた高校の保険のおばちゃんは、「やっぱあそこは広すぎて駄目ね。イトーヨーカドーくらいがちょうどいいわ」ってなことを言ってて、自分も同じような印象を覚えたことがありました。
 さらに言うと、中国ではお土産屋や衣類店などでは店員の給料が歩合制になっており、どれだけ接客して客に買わせたで変わってきます。そのためどの店員もうっとうしいくらいに、「何買う?」、「どれが欲しい?」って見ている傍から聞いてきて、「見てるだけだって」って言っていつも追っ払うようにしているのですが、この辺も日本人からすると程遠い文化に見えるかもしれません。

 なお最後につけ足すと、中国と日本ではまず欲しがる商品の嗜好が異なります。もちろん個人差はありますが全体的な傾向で述べると、中国人は性能や必要性といったものは度外視して、どれだけその商品が高級か、値段が高そうに見えるかを気にします。これに対して日本人はというとスペック偏重というか、どれだけ機能がついているかを重視し、カタログの数値を他の商品と比較するのがことのほか好むように私は思います。考えてみれば自分も、小学生の頃は自転車のギアが何段あるかをよく友達と比較し合っており、今思うと何を馬鹿なことをしてたんだろうという気になります。
 ついでに書くと、自転車のギアは適当に乗るなら3段くらいがちょうどいいと思います。8段とかついていたっていちいち切り替える手間のが大きいし、一番上と下のギアなんて使いどころがはっきりしなくて、専門的に乗らないならよしといた方がいいでしょう。まぁこんなこと言いながら日本で一番乗ってたのは6段ギアだったんだけど。

2012年4月7日土曜日

世界最薄膜の太陽電池開発のニュースについて

 別にわざわざ取り上げなくてもいいんですが、我ながらよく咄嗟に気が付いたという感じがしたので記念に書いておきます。

東大、世界最薄/最軽量級の有機薄膜太陽電池の開発に成功(マイナビニュース)
最薄・最軽量の有機太陽電池、日豪大学が共同開発(AFP=時事/AFPBB News)

 見出しを見てわかると思いますが、どちらも恐らくは同じ内容のニュースです。先に出た、というか私が確認したのはマイナビニュースの方でしたが、それだけに二番目のAFPの記事を読んで「アレ?」って思ったわけです。一体どこに疑問を感じたのかというと、今回の太陽電池開発に当たって東大と共同研究したヨハネスケプラー大学の国籍です。
 リンク先を読んでもらえばわかると思いますが、マイナビの方が「オーストリア」と書いてあるのに対し、AFPは「オーストラリア」って書いており、しかも後半にはご丁寧に「豪ヨハネスケプラー(Johannes Kepler)大学リンツ校」と略称までつけて確信犯であることまでわかります。結論を言うとこれは「オーストリア」が正解で、多分AFPの方は配信されたニュース原文にある国名を間違えて記載したのでしょう。それにしたってひどい間違いだし、校正もこれを見逃すというのはちょっと恥ずかしいでしょう。

 最初にAFPの記事を読んだ際は、「あれ、前にもオーストリアとの共同研究で開発したって言ってなかったけ。それともそれ以上に薄い電池がもう出てきたの?」ってな感じで疑ったのですが、記事に出てくる東大教授の名前も一緒ですし、そもそもヨハネスケプラー大学の所在地からしてオーストラリアであるのはあり得ません。こんな細かいことをいちいち突っ込むのもどうかとは思うのですが、一見で前回記事に出てきた国名がオーストリアだったというのを思い出せたというのを記念する意味で記事に残しておきます。
 これくらいの洞察力が仕事でも発揮できたらなぁ。

海外企業に対する日本人のアレルギー

 大分今更な話ですが、先日(去年)に友人から勧められたこともあって「ハゲタカ」という小説を本日読み終えました。自分が敬服している友人なだけに見事なチョイスと言わざるを得ないくらい面白く、久々に小説に心動かされました。この作品は既にドラマや映画にもなっているので内容について知っておいでの方も多いでしょうが、ちょうど失われた十年の後半から小泉改革初期の頃の日本が舞台なので、まだ義務教育期間中ではあったものの自分も見聞きした事件が題材にとられていてなんていうか感慨深いものがありました。

 それで読み終えた感想ですが、作者自身も「言い訳をしながら生きることはもう止めよう」というのがテーマだと述べているだけに、改めて日本人の無責任性というか経営に対する価値観のなさを思い知らされたというのが大きなところです。特に去年から今年にかけては東電にしろ大王製紙にしろAIJにしろ、一番責任を取らなきゃいけない人間たちが無責任さを存分に発揮するという光景が何度も繰り広げられているだけに、日本企業はあの時に結局、何も反省しなかったのかというような思いを覚えました。
 こうした感想とともにもう一つ、これは多分私くらいじゃないかと思いますが、海外に対する価値観というかものの見方が日本人はやはりひん曲がったものがあるんじゃないかという気もしました。具体的にどういうことかというと、それこそ製造業に例を取るならば今の日本企業はどこも「海外に出ていかなければ……」と強い進出意欲と危機感を持っております。しかしその一方でこの小説に出てくる「ハゲタカ」こと外資系投資ファンドのように、海外から日本にやってくる企業や人間に対してはその存在価値すら頭から否定するところがある気がします。

 古くは日産のカルロス・ゴーン氏で、彼の就任当初はそれこそ「それ全く関係ないだろ」というくらいの個人批判もあれば、実際に業績が上向いてくると「所詮一時的なものだ」と負け惜しみかのような声がほぼ毎年聞かれました。さすがに十年以上も好業績を保っているのでほとんどの批判は消え失せましたが、ついでなので書かせてもらうと現在の中国で最も成功した日系企業と問われるなら私は迷うことなく「大企業なら日産」だと答えています。トヨタやホンダがシェア争いで低迷する中で確実に毎年シェアを伸ばしておりますし、真面目に中国のどこ行っても日産の「ティアナ」は見ることが出来ます。

 話は本題に戻しますが、日本企業が海外に新しい拠点や工場を建設するとそれはいいことだとみんな手放しで誉めると思いますが、逆に現実に海外メーカーが日本に大規模な工場を建てようとするものなら、人件費などの関係でほとんどないものの、恐らくほとんどの日本人はいい気分をしないと思います。場合、これも具体名を出すとそれが中国や韓国系企業だった場合は「技術を盗もうとしている」などと陰謀論も出るでしょうし、工場誘致に当たって自治体が補助金を出そうものなら「魂を売った」などとその自治体も激しく批判されることでしょう。
 現実に向う見ずな投資で堺工場を建てちゃって首が回んなくなっているシャープが、かつては「世界の亀山モデル」とでっかく喧伝していた三重県亀山工場の一部設備を売却した際は方々から批判を受けましたし、私自身も地元自治体から補助金もらっときながらと批判してましたが、やっぱ周りの批判を見ていると「よりによって海外に売るなんて」っていうような売った行為以上に売った対象に対する批判が強いような気がしました。

 冷静に考えてみると日本でいう国際化というのは海外に出ていけるだけの知識や技術の獲得、現地で生活できる人材の育成という意味はあっても、海外で実施されている効率的な経営手法や現地ルールの受け入れというものは含まれていない気がします。これは言うなれば、一時は金融界では欧米式ルールの導入が激しく叫ばれたということがありましたが、どれだけ日本のルールがおかしかろうが、間違っていようが海外のルールには変更しないという価値観の現れなのかもしれません。
 別に自分は人類皆兄弟なんて幻想を抱いていなければ変に国際協調を促すつもりなんて全くありません。ただ自分たちが勝手に出ていくのは国際化であっても、相手のルールややり方を受け入れるのはそうではないというのは何か都合が良すぎるのではという気がします。自分を認めてもらうからには相手の認めるところは認める、こうした姿勢をもう少し日本人が持つことこそが国際化の条件なのでは、ひいては日本全体にとっても必要なことなんじゃないかというのが私の意見です。

 最後に補足ですが、何故このように私が感じたのかという背景として、この前に中国のある都市で日系企業の誘致イベントに参加してきたからだと思います。そのイベントでは招かれた日本人は食費、宿泊費は現地政府持ちで、それこそ市長級の重鎮も大勢招かれていて、中国では外国企業の誘致にここまでするのかといろんな意味で驚きました。ちなみに招かれた日系企業の中にはそりゃ大企業も一部含まれておりましたが、大半は聞いたこともないような中小企業ばかりでした。
 恐らく中国人も昔は昔で日本人みたいに海外企業を誘致するに当たってアレルギーが会ったんじゃないかと思います。しかし効率的に外資を誘致することは誰がどう見たって間違ってないし、現実にそれで中国は利益を上げていることを考えると、この点で日本は中国に先を進まれているのではないかと不安を感じました。

2012年4月5日木曜日

鎌倉時代の始まる年についての考察

 ぶっちゃけた話、今とても眠いです。理由は簡単でこの連休中に夜更かしし過ぎて、昨晩はなかなか寝付けないまま今日仕事があったからです。ただそれ以上に今朝起きたら原因不明の腹痛に襲われ、あまりにも痛いもんだから体を曲げて靴下を履くことすらままならないほどでした。真面目にZガンダムのカミーユ・ビダンじゃないけど、「何の役にも立てず、俺は両親の元へ行くのか?」などという具合で死を覚悟するくらいの激痛でした。まぁ両親は存命してるけど。
 同僚にも朝一で心配されるくらいで、なんでも顔が完全に土気色だったそうです。正午くらいまでは激痛が続き終いには背中の方まで痛くなって、くしゃみなんかして体を動かすと全員に痛みが走って悶えるほどでしたが、午後から徐々に引いて現在では無痛状態です。ほんとにあれはなんだったんだろう。

 そんな奇妙な症状のことは置いといて、そろそろ本題に入ります。今日のお題は鎌倉時代の区分こと、始まる年についてです。

鎌倉時代(Wikipedia)

 鎌倉時代が始まった年ともなると、語呂合わせキングと言っても差し支えない「いい国作ろう鎌倉幕府」に表されるように1192年だとお思いの方が多いでしょうが、実は最近になってこれは変わって、現代では壇ノ浦の合戦があった1185年からだ義務教育では教えられています。一体何故年代が繰り上がったのかというと、1192年は源頼朝が征夷大将軍に就任した年で以前はこの時代から武士政権が始まったとみられていたのですが、既に1185年に鎌倉幕府の支配体制における代表的な構造である地頭の設置が認められており、実質上の支配がはじまっていることから繰り上げられたそうです。

 もう眠いのでさっさと結論を出してしまいますが、私は鎌倉幕府が始まった年というのは1185年、1192年のどちらもふさわしくないと考えています。じゃあ何年から始まるのが適切なのか、この答えは率直に言って1221年からです。日本史好きならもうわかるでしょうが、この年は承久の乱が起こった年です
 私が何故承久の乱の前後で平安時代、鎌倉時代と区切ろうとするのかというと、この承久の乱が起こるまでは西国は天皇家、東国は鎌倉武士団と、日本全国で二重支配があったからです。それがこの承久の乱を契機に全国を鎌倉幕府こと北条家が完全に統括することとなり、ひいては天皇家をも支配下に置くことになります。天皇家が実質的に武士の支配下にはいるのはまさにこの時が初めてで、この構造は1868年に明治維新が起こるまで続くことになります。これは山本七平が言っていたように、日本の歴史上で本当に限られた回数しか起こっていない最大級の革命劇です。

 さらに言うと鎌倉幕府は当初でこそ源頼朝こと源氏の棟梁が統治しましたが、彼以降は実質的に北条家が取り仕切っており、鎌倉幕府は誰のものだったかとなると私は北条家の物だったと言っていい気がします。この構造は徳川家による江戸幕府が成立する前の豊臣政権に近いようにも思え、時代区分としては源氏はブレイクスルーに過ぎず、主役にするべきではないはずです。その北条家が完全に主導権を握るきっかけとなったのは1219年に源実朝が暗殺され、それを一つの契機として起きたのが承久の乱と考えると、やっぱり鎌倉幕府は1221年からというように思えてなりません。

 ここではっきり書いてしまいますが、ブレイクスルーに過ぎない源頼朝の征夷大将軍就任から鎌倉幕府が始まるという考え方の方が不自然で、承久の乱から始まるという方が明らかに自然なのです。にもかかわらずこれまで前者の説が取られてきたのは間違いなく皇国史観が影響していると断言してもいいです。皇国史観がなんなのかまではもう説明しませんが、要するに「天皇家が敗北して取って代わられた」という歴史をなるべく小さくしたかったからで、早いことこんなカビの生えた価値観は捨てて、公平な認識でもって鎌倉幕府の開始年度は再考していただきたいものです。

2012年4月4日水曜日

日本に影響を残した外国人~アーネスト・フェノロサ

 また大分期間が空いてのこの連載。何か理由があるわけじゃないけど、こっちでも気温が上がってきたから薄着でワッショイしてたら鼻水が止まらなくなった日に再開というのも何かしら運命があるのかもしれません。花粉症ではありませんが、これだから4月は嫌いだ

アーネスト・フェノロサ(Wikipedia)

 そんな鼻水との格闘を続ける中で紹介するのは、日本の美術界、ひいては奈良の観光業界に多大なる貢献を放たしたアーネスト・フェノロサです。個人的な感傷ですが、この人に関しては私自身も並々ならぬ尊敬心を抱いております。

 フェノロサはアメリカのハーバード大学で政治経済学を学んでいたのですが、25歳の時に来日していた大森貝塚で有名なエドワード・モースから哲学を講義出来る優秀な人材との紹介を受けて1888年に来日しました。
 話は少し横にそれますが、この時期のお雇い外国人は一応はそれぞれの専門領域を教えるために来日していますが、当時の日本の学術レベルが非常に低い割に指導教授がいなかったこともあり、今で言えば小学校で習うような理科の内容や簡単な世界情勢とかも一緒に講義していたようです。

 話はフェノロサに戻りますが、日本にやってきた当初は東大で政治学や哲学などを教えていて昨今知られているような美術との関わりはなかったそうです。ただ以前からボストンの美術学校でデッサンを学ぶなどこの方面にも元々興味はあったようで、来日からほどなくして日本の美術品に興味を示しだし、ちょうど当時フェノロサを師事していた岡倉天心に収集を手伝わせるようになってからは一気に火が吹き、日本画の絵画展で審査員なども務めております。

 そんなフェノロサの現代にまで通じる最大の功績はなんといっても、廃仏毀釈によって壊滅的打撃を受けていた仏教美術の再評価です。話せば少し長くなりますが、1868年に明治時代に入った直後、日本政府は神仏分離令といって境界があいまいだった神道と仏教の線引きをはっきりするための通達を出しました。これを受け一部の地域、特に近畿地方ではそれ以前からの反感もあってか仏教に対して「えらそうにしてやがったくせ神道とは別かよ!」っていうようなノリで、暴動に近いほどの排斥が起こるようになりました。
 日本の高校レベルの授業ではこういう風に軽く教えられると思いますが、実態的には非常に大きな排斥運動でした。それこそ一部の寺なんかは民衆によって完全に破壊されて跡形もなくこの世から消え去ってしまってますし、歴史的価値の高い仏像や宝物も一切合財破壊されたり燃やされたりもしています。運が良くても、欧米の好事家に買われて国外に流出するケースがほとんどだったと言います。

 この廃仏毀釈の被害が最も大きかった地域は神道のお膝元である三重県と、仏教勢力の強かった奈良県だと言われています。勝手な想像ですが、京都の寺なんかはそれとなく有力者と結びついたり、京都人もある程度価値がわかっていたから保存に成功できたのだと思います。
 逆に奈良県は徹底的と言っていいほどの破壊が横行し、主要な仏像などはすべて薪の材料として燃やされていったそうです。今も残る奈良の伽藍や塔が何故残ったのかというと、薪として売る価格よりも分解して薪にする手間賃のが高かったためだとされており、そのほか仏像なども処分費用が掛かるからしょうがなく倉庫に保管されていただけであって、こうしたものが現在国宝として珍重されていることを考えるとどれだけの貴重な財産が失われたか想像に難くありません。

 こんな混乱の坩堝と化していた近畿地方にフェノロサと岡倉天心は乗り込み、売られようとしていた美術品の保存に努めただけでなくそれらを海外に紹介することで再評価を進めました。仮に当時のフェノロサの運動がなければ、同地域の主要な観光資源となっている寺や仏像のほとんどが失われていた可能性もあり、そういう意味では奈良県はタイガースファンにとってのバースよろしくフェノロサに対してもっと崇めたりした方がいいんじゃないかと思います。

 またこの時期のフェノロサと岡倉天心のエピソードとして、法隆寺夢殿の救世観音像にまつわる話があります。この救世観音像は長きにわたって秘仏とされており、像を覆う布を取ったら祟りが下りるとして封印されておりました。しかしそういって公開を拒む法隆寺に対してこの二人は、「祟りなんかどうでもいいからとっとと見せやがれ(#゚Д゚)ゴルァ!!」とかなり強引に迫って、なんでも止める僧侶とかを無理矢理引きはがして夢殿に乗り込んだそうで、僧侶の中には祟りを恐れてその場から逃げだす者までいたそうです。
 こうして邪魔者をすべて追い払った二人は悠々と救世観音像とお目見えできたわけですが、この像は聖徳太子を模した像と言われており、一説には一族すべてが殺された太子を慰めるために作られたとも言われています。それゆえ法隆寺の怨霊伝説とか神霊ものには頻出のアイテムであって、自分が昔見た話なんかだと夢殿を写真で撮ったら燃えている写真が出来たというのもあります。

 こんな感じで日本で大暴れ、もといかなり楽しそうな人生を送ったフェノロサは1890年に帰国し、ボストン美術館の東洋部長として日本美術の紹介をつづけ、1908年にロンドンで死去しました。
 この記事でもそうですが、私がフェノロサを紹介する際は基本的に廃仏毀釈を説明する時です。それ以前からどれだけ価値が知られていようとも、また実際に高い価値が持っていようとも、ちょっとした風向きの違いでこうも簡単に失われてしまうことがあるということをせっかくなので肝に銘じておいてほしいという願いを込めて筆をおかせてもらいます。

2012年4月3日火曜日

南京詣出

 今日も清明節のお休みだったので、ちょっと遠出とばかりに高速鉄道に乗って南京市へ遊びに行きました。南京には留学中の6年前にも一回だけ訪れたことがありましたが、当時とは違ってピカピカの南京南駅もあれば地下鉄も整備されており、いい意味で見違えていました。


 そんな南京市で今回訪れたのは、孫文こと孫中山の墓所です。孫文のことを中国では一般的に孫中山と呼ぶのですが、この呼称の起源はというと孫文が日本滞在中に「中山」という表札を見て、「いいじゃんコレ(゚∀゚)」ってな感じで自分の呼び方に使い始めたのがきっかけだそうです。表札もかけてみるもんだ。

 そんな孫文の墓こと中山陵ですが、えらい山の中にあって最寄りの地下鉄駅から上ること実に30分もかかってようやく到着しました。ただ昇っている最中は前の人間を次々追い越して一度も抜かれることはなかったので、多分ほかの人が昇ったら1時間近くかかる気がします。この中山陵に限らず中国の偉人の墓はどこも馬鹿でかく、瀋陽市にあるホンタイジの墓も東京ドーム何個分だっていうくらいの広さで、伏見にある桃山御陵と比べると日本は詣出客に随分優しい設計だということが痛感します。


 手前の女性のけだるそうな顔が印象的。


 この日は連休中とあって人口大国中国らしく、ほかに行くところはないのかよと言いたくなるくらいに人でごった返していました。もっとも自分もその一人なのだが。


 孫文の像。この像に限らず中国では座った姿の像がやけに多いです。ちなみに像というと南宋時代に活躍して現在では売国奴ととして罵られている秦檜の像は跪いていることで有名ですが、なんか去年に座った姿の像が発見されてクララが立ち上がった時くらいの衝撃が中国全土に走りました。結局、批判が多くって公開されなかったけど。


 孫文の墓の後はその隣にある、明代の初代皇帝、洪武帝の墓所も見学しました。孫文の墓所は無料公開なのに対し、こちらは通常料金75元のところ、この日は観光シーズンなので50元の入場料金を取られました。同じ墓所なのに孫文ばっかり特別扱いはずるいと、洪武帝も草葉の陰で思っているに違いない。


 こっちも人でごった返していて、上海じゃ聞いたことのないようなアクの強い北方訛りの中国語も聞こえてきました。北京で中国語を勉強した身からすると、妙に懐かしいんだけど。

 この二つの墓所を3時間くらいぶっ通しで歩き続けた後は市街地を軽く回り、そのまま駅に戻って上海に帰ってきました。いつもこんな感じで無茶な距離を歩き続けるせいか、初見の人と一緒に出掛けると大抵「ごめん、足が痛いんだけど……」とダウンさせてしまってます。ある友人なんか、「花園君に鍛えられたせいか、友達と一緒に歩くとみんなちょっと待ってって僕に言うようになってきた……」と言うくらいで、そこまで意識はしてないですが周りにかなり無茶をさせてるようです。

2012年4月2日月曜日

日本のライバル国

 日本人に対して「日本のライバル国は?」と聞いたら恐らく、7割方の人間が韓国か中国の名前を挙げ、残り3割の大半をアメリカと答えるのではないかと思います。なお韓国か中国かといったら多分韓国の方が割合が多い気がします。このような現実を踏まえた上で言うと、私は将来的に真に日本のライバル国となるのは、一つは国ではなく地域ですが香港、もう一つはシンガポールだと考えております。

 久々にこういう突飛な意見というか、見ている人が見たら何をと思われる話ですが、この件に関してはやや真面目に考えております。まず最初に上げた国々がどうして日本のライバルじゃないかという点ですが、韓国については主要産業が電機と自動車ということでうなずける部分もあるのですが、アメリカや中国に関しては人口規模から国土まで日本とは桁違いに大きく、何気にこの前も私がレポートで書きましたが、国土が広いだけあって中国の建機メーカーはまだまだ長きにわたって繁栄を享受することが予想されています。また産業構造というか国の構造もこの二ヶ国は日本と趣が異なっている、具体的に言えば軍事費の支出割合が大きく、こう言ってはなんですがいい意味で棲み分けが出来る相手だと考えています。

 では逆に、どうして香港とシンガポールを日本の将来のライバル国として挙げたのかについて説明します。まず前提から解説すると、日本はともかく香港とシンガポールの二ヶ国(面倒なので香港はこの後も「国」として話を進めます)は互いに相手をはっきりとライバル視ししており、去年も香港の調査では競争相手国としてシンガポールが一位に入っていました。この二ヶ国がどうしてライバル視し合っているかというと単純に産業から構造までが全く一緒で、どちらも移民が多く、国土と人口は少なく、食料は他国からの輸入で賄っており、法人税は少なく、金融とグローバル拠点としての立地の良さを武器に戦っているからです。さらに付け加えるなら、英語が公用語として通用する点も共通しています。
 こうして挙げた要素を日本の現状と比べると、自分で言っておきながらですが明らかに隔たりがあります。まず日本は中国やアメリカと比べると狭いながらも国土は広く(平地は少ないが)、人口も世界でもかなり上位にランクインしています。食料を外国に依存しているという点では共通していますが、英語が公用語なんて遥か遠い世界なくらいにほかの要素はまるで一致してません。

 このように土台が全く違うにもかかわらず何故私がこの二ヶ国をライバル視すするのか、回りくどい言い方になってしまいましたが20年くらい先の日本の持っていき先として、国の構造や産業をこの二ヶ国の現状に近づけさせたいというのが狙いです。何故このような意見を持つのかというと、そもそもの現状として今の日本は政治家も官僚も国民もそろってアメリカや中国に張り合おうとしているところがあります。確かにかつての日本のGDPや経済力は非常に高くてアメリカや中国とも張り合えそうに見えたこともありましたが、張り合おうとした結果、いろんなものを失っているのが今の日本の現状ではないかとも感じます。また中長期的に見るならば、これまた極論かもしれませんが自分は将来の世界では人口が少なければ少ないほど一国として有利になると考えており、現在の少子化対策は必要ではあるものの日本の人口は緩やかに減少させていくべきだとも考えており、中国やアメリカをボクシングのヘビー級としてとらえるなら、もっと体重の軽いフェザー級などへ持っていくべきだという持論をかねてから持っております。

 こうした価値観から将来的な日本の姿のモデルとして今の世界で成功しているのを挙げるととすると、やはり香港とシンガポールかという考え方から勝手なライバル視に繋がりました。
 まずくれぐれも言っておきますが、一から十まで香港とシンガポールのような国に日本はなるべきだとは考えておりません。香港の人口は約700万人、シンガポールは約470万人で日本の十分の一以下であり、人口が少ないがゆえの有利さもありますが日本は国内人口が大きい分だけあって国内市場を持っているという強みがあり、これをわざわざ捨てる必要がありません。ただ将来的な人口減に対応するため、この二ヶ国の取り組みの必要なところ(必要なところ≠良いところ)は日本も取り込んでいくべきで、それこそ移民に関しては今から議論するのも遅すぎるくらいです。

 なんか自分でも考えがまとまっていなかったせいかあまりまとまりのない内容となりましたが、簡潔にまとめるなら「中国やアメリカと張り合おうとせず、香港やシンガポールに近づくように構造を変えるべき」というのが私の意見です。

2012年4月1日日曜日

司法取引を導入するべきか否か

司法取引(Wikipedia)

 久々に司法関係の話題を取り上げようと思ったので、司法取引を日本でも導入するべきか否かというテーマについて今日は書きます。結論から書くと、今の日本の現状ではまだ全面的に導入するべきではないというのが私の意見です。

 話をする前に司法取引について、知ってる人は端折って結構ですが簡単に説明します。これはいわゆる「裁判取引」と言われ英米ではかなり盛んに実行されている制度なのですが、要するにその本人が関わっている犯罪について共犯者や手口、証拠などを供述、提出する代わりに罪の軽減化を認めるという制度です。具体的なメリットとしては、まだ摘発されていない事件が明るみになったり、もしくは組織犯罪などを一気にトリマ閉まることが出来るといったことが挙げられています。
 欧米なんかだとやはりマフィア絡みの犯罪にこの司法取引がよく使われるそうですが、このほか経済犯罪から詐欺事件までと、弁護士が仕事しやすいようになんかいろいろと整備されているそうです。

 そんな司法取引に対する日本の現状ですが基本的には一切認めていませんし、進んで自白をすることで反省の態度があるとみなして減刑されることはあっても、欧米のように証拠を提出するかわりに執行猶予を約束するということは多分許されておりません。ただ全くないというわけではなく課徴金減免制度といって、カルテルなど経済案件に関する組織犯罪に対しては申告した順番が早ければ早いほど課徴金が免じられる制度が2006年から導入されており、こういうのもなんですが物凄い成果を上げております。
 せっかくなので何か事例をひっぱってこようと検索したらこの制度を運用している公正取引委員会が記者も学者も感動するくらいにきちんと過去の事例案件をまとめておいてくれてます。それで事例ですが、最新の自動車向けハーネスに関する事例では恐らく真っ先に垂れこんだであろう古川電工が課徴金を全額免除されており、その次の住友電工は50%、そして最後であろう矢崎総業が30%とそれぞれ免除されています。矢崎に関しては海外でも派手にカルテルをやってたのかこの前幹部がアメリカで逮捕されて懲役付きの実刑判決食らってましたが、きついことを言うとハーネス業界ならさもありなんと私は感じましたし、まだ他にも隠していることがたくさんある気がします。自分もあの業界とはちょっと関わったことがありますが、見積もり依頼時にエンドユーザーとなる自動車メーカーの名前を出さないと絶対に販売価格を明かさない(=自動車メーカーごとに価格が初めから決まっている)ところといい、真面目にくたばったほうがいいと言いたくなるやり方してます。あと在庫くらいもう少し持てよ、住友電工。

 話は司法取引に戻りますが、確かにこの制度があると「早く自白した方が刑が軽くなる」という競争意識が働いて犯罪の摘発に間違いなく効果があると言い切れるのですが、それを考慮しても日本で導入するべきではないという立場を私は取ります。一体何故反対なのかというと、これは日本の司法制度に問題があるためで、刑事事件などで自白が過剰に重く取り扱われる風土があるからです。それこそ具体例を挙げていったら切りがないくらいなのですが、日本の刑事裁判では足利事件を筆頭に容疑者が自白したという供述書さえあればほかの可能性を示唆したり自白内容を覆す証拠や目撃証言があっても完全に無視されてしまいます。
 そのため司法取引がもし認められる場合、それこそ誰かが嘘の証言をして全く関係のない人間を共犯だったと供述したら、ほかに何も証拠がないにもかかわらずその無関係の人間が逮捕、拘留、実刑判決の三拍子を受けてしまいかねません。言うなれば、冤罪の温床となる確率が非常に高いのです。

 また仮に真実の証言や供述があっても、警察や検察側のねじれた判断でその供述者が罠にはめられる可能性も十分に考えられますし、現実にそんな事件が過去に起きています。その事件とは1993年に起きた埼玉愛犬家連続殺人事件で、この事件では4人もの人間(実際にはもっと多いとされている)を殺害した夫婦について遺体の解体などを手伝った男が「検察側から持ちかけられた」として、執行猶予を付けることを条件に犯行内容などを自供しました。この男の自供によって、というより自供があって初めて殺害を立証する証拠が発見され事件を立件することが出来たのですが、この男の第一審に対する検察の求刑には執行猶予はつけられず、判決も懲役三年の実刑がおりました。
 こうした検察の態度に対して男は約束を反故にされたとして司法取引の密約があったという事実を明かした上に、共犯の裁判における証言を一切拒否する行為に出ました。これに対し浦和地検はこちらはお約束通りに「密約はなかった」と存在そのものを否定しましたが、事件構造から言っても傍目に見てもあったとみて当然じゃないかと私は考えています。なお、共犯の夫婦二人には死刑判決が下りてます。

 以上のような考察から、私は司法取引が日本で導入されたら刑事事件などにおいて警察や検察によって恣意的に利用されるだけでなく、冤罪を大量に生みかねないと考えています。ただ経済犯罪に対する効果は既に実証済みであることからこのまま続けるべきで、さらに言うなら刑事事件においてもある程度適用先を限定する、それこそ完全な証拠があるのを条件にした上で暴力団などによる組織犯罪に対してのみであれば検討した上で導入してもいいのではと思います。この前も記事にて取り上げましたがそれこそオウム真理教などテロ集団に対してはむしろ適用すべきで、破防法よりも使い勝手がいいんじゃないかと勝手に考えてます。

 ちなみに今は就活シーズンですが、自分はどこかの面接でふとしたことをきっかけに、「仮に御社が社会的に明らかに不正と見られる行為を行っていた場合は自分は迷わず内部告発します」といって速攻で落とされたことがありました。自分が雇用する立場ならこういう人間を評価して引き込むでしょうが社会はなかなかそうもいかないようです。