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2014年9月30日火曜日

予備校での人間関係

 またどうでもいい話ですが、今日のYahooニュースに「何でも妖怪のせいとする子供たち」という記事が出ており、その記事の見出しの下には「松坂退団濃厚、先発にこだわり」という記事が出ていたため咄嗟に、「松坂がメッツを退団するのは妖怪のせい、先発にこだわるのも妖怪のせいかも」なんて妙な言葉が頭をよぎりました。なお私は不都合な事実はいつもフリーメーソンのせいにしており、「今日天気が悪くて布団が干せないのはフリーメーソンのせい」、「頼んだ料理がはずれだったのはフリーメーソンのせい」、「中村紀洋が退団しそうなのは本人のせい」なんて口ずさんだりします。
 なお「妖怪のせい」という言葉で検索してみたら、「何でも妖怪のせいにしてしまう我々が一番の妖怪かもしれませんね」といった子供の記事がヒットしてきました。意外と日本も捨てたもんじゃないかもしれませんね、ってかこの子供いくつだよ……。
 
 そんなどうでもいい妄想は置いといて本題ですが、予備校だといじめってあんま起こらないのではとふと思いました。ここまでいきなり結論ぶち上げるのはそこそこのキャリアを持っていながらも初めてですが、通常の学校における空間に比べて同じく学習の場である予備校ではいじめはどうして起こらないのだろうか、なんかその点が先週カレー食べながらふと気になりました。
 
 一応、ネットで「予備校 いじめ」というワードで検索をかけると予備校でもいじめを受けているというような話があるので必ずしも私が想像する通りにいじめが全くないわけではないようですが、あくまで個人的な観点で述べると、普通の学校に比べたら生徒間でギスギスするようなことも少なく、陰鬱な空気もそれほど感じられなかったような気がします。
 私個人の体験で述べると小中高とそれぞれで通った予備校ではいじめらしいものは全く見られず、それどころか割と深刻な悩みを打ち明けられるほど信頼が持てる友人が出来たりと、ぶっちゃけ学校よりも人間関係ではずっと楽でした。浪人して予備校の寮に入った大学時代の友人も予備校でかけがえのない友人がたくさんできたと事ある毎に自分に聞かせてくれていました。
 
 というような仮説というか妄想を立てたので早速地元の友人にこの件を振ってみたとこと、その友人も確かに予備校ではいじめらしいものはそんなに見なかったと話し、続けて「なんでだと思う?」と私が聞いてみると、「(予備校に来る)目的がはっきりしてるからでは」と、私が想定していた考えと全く同じ回答が来てちょっとビビりました。
 予備校に来る目的とは何かというと、言うまでもなく成績を上げるための勉強です。自分と友人の考えはというと、予備校というのはその機能と通う目的がはっきりした勉強をするための場であるため、公道なり考えが変に横にぶれないというかいじめを行う、企図する方向に全く向かないからではないかということです。逆を言えば学校というのは「勉強だけの場じゃない」とPTAを始めとして色んな方々が主張し、なおかつ人間関係を作ることを無言の圧力で矯正するようなところもあり、そういう複雑な機能がいじめを発生させる要因になっているのかもと私は言いたいのです。
 
 無論これは仮説で、予備校の方が滞在時間が少なかったり、一教室の人数が少なかったり、学校行事といったイベントが無かったりすることも要因として挙がってきますが、先程にも述べた通りに私は地味に予備校内の人間関係が非常に健全で居心地がよかったことを考えると、予備校という空間の人間関係をもっと深く検証することがいじめ対策の大きなヒントになるのではないかと思います。もっとも自分は教育学者でもないしもう学校に通う身分でもないのでこれ以上は検証しませんが、一応仮説の提案として書いておくことにします。
 それにしてもこういう内容を何にもないところで突然思いつく当たり、自分は何かの病気ではないかとつくづく疑います。
 
  おまけ
 小学校時代に通った予備校では大橋君という生徒が二人おり、片っ方が非常にひょうきんだったのに対してもう片方は非常に大人しい子でした。そのためひょうきんな方は講師を含めみんなから普通に「大橋」と呼ばれ、大人しい方は何故だか「パート2」というあだ名がついてました。けどその「パート2」は国語の授業中に当てられた問題の回答でまごついたところ、四択の回答の中から明らかに間違いな「D.クリスマスキャロル」という答えを後ろの生徒に唆されるまま答えてしまい、それからあだ名が「キャロル」に変わりました。確か受験終るまでずっとそのまま「キャロル」だったような。

2014年9月28日日曜日

宇沢弘文教授を偲ぶ

 このところ神戸の事件と言い火山の噴火といいビッグニュースで溢れていたため見逃していましたが、親切にも友人が教えてくれたのでこの訃報を知りました。
 
 
 宇沢弘文氏とは東大の名誉教授で、高度経済成長期に成長一辺倒で公害等をまき散らす世の中に軽傷を促したことで一世を風靡した方です。平成期は米国のファンドに代表される野放図な競争社会を批判し、シカゴ大学在籍時代の同僚であるミルトン・フリードマンに対しては四六時中悪口を言っていました。
 
 このブログを始めた当初、私も宇沢教授を良く取り上げ彼の主張などを私なりに解釈して紹介しておりました。なんで経済学部出身でもないのにそんなことしてたのかというと、当時私が通っていた大学に宇沢教授が肩書きもらって良くやってきていて、また私が師事していた労農派と口座派の違いを即答してくる恩師と宇沢教授が交流しており、恩師に紹介してもらう形で宇沢教授の講義に参加していました。
 Yahooか何かで「宇沢弘文」と検索すると生前の画像も出てきますが、はっきり言って検索に出てくる画像そのまんまで、ロードオブザリングに出てきそうな長い白髭に加えあんま見ないタイプの帽子をかぶっているという、漫画に出てきそうな教授像そのままで常に動いていました。ちなみにあの帽子、なんかフン族の長老からもらったそうです。アッティラ?
 
 宇沢教授から受けた講義の内容はこのブログのかなり昔の記事にそこそこ書いていますが、ちょうど集中講義があった最中に件のフリードマンが死去したので何か発言するかなと思って行ったら、「フリードマンの訃報を聞いて、正直に良かったと思っちゃいました」と期待通りの回答をしてくれていました。講義中の内容としては社会的共通資本という概念について医者やら環境活動家などとの議論をしつつ人個を加える形式の講義で、私の解釈というか宇沢教授の言葉を借りるなら江戸時代にあった「入会い(いりあい)」の概念を現代にも持つべきだという方向の話でした。
 
 私と宇沢教授が直接話したことは一回だけで、その恩師が私を紹介してくれた際にどこの出身かと聞かれ、「生まれだけなら鹿児島の出水市です」と答えたところ、「水俣の近くだね。昔よく行ったよ」と返答されました。当時は知りませんでしたが宇沢教授は水俣病の問題にも早くから取り組んで現地にもよく足を運んでいたとのことで、そうした背景でさっきの回答があったのだとちょっと感慨深く感じました。l
 
 妙な思い出話が続きますがこれを逃すと一生書き残せないという予想から細々書いていますが、宇沢教授の講義の中で一番印象に残った、というかインパクトのあった話をここに書き残しておきます。その話というのも中国政府に依頼されて宇沢教授が行った農村の調査で、調査を終えた後に並み居る中国共産党幹部らの前で下記のような報告を行ったそうです。
 
「資本主義には市場原理があって限界があるが、社会主義の搾取には限界がない」
 
 なかなか含蓄深い言葉というか言われてみて、「あっ、なるほど!」と思う見事なまとめ方なのですが、当の中国共産党幹部らはこの報告を聞くやマジギレしたらしく、「こいつを生かして返すな!」なんて物騒な言葉が飛び交うくらい剣呑となって、宇沢教授も当時は本気でヤバいと思ったそうです。ちなみにこの時の報告に立ち会った幹部の中には�小平もいたそうです。
 ただそんないきり立つ共産党幹部らの中でただ一人だけが、「いや、彼の意見にも聞くべきところがある」と言って周りをなだめ、より詳細な報告を求めてきた人物がいたと話し、その人物とは趙紫陽だったということを明かしていました。現代中国史に詳しい人間なら、彼のその後の行動と比較してなるほどなと感じるのではないかと思います。ちなみにこの時の講義は確か2005年の5月で、趙紫陽の死から4ヶ月後でした。
 
 てらてら取とり留めのない内容を片っ端から書いていきましたが、私の前職の上司は宇沢教授について、「やや理想主義的な傾向がある」と述べてて、私の評価もまさに同じです。もっとも経済学自体が貨幣の流れを中心に長期的な視野でどのような世界を構築するかを議論するので、理想的過ぎても決して欠点ではないものの、現代にあってはあまりにも脆すぎるかもしれないと思えます。
 先に友人とも少し話しましたが、私と友人が学生だった頃はフリードマンの名前は授業の中だけでなく一般的な書籍にもよく出てくるほど影響力が強かったですが、リーマンショックで彼の主張していた経済体制が瓦解したこともあって、ここ数年は急激にフェードアウトしている感があります。もっともそれはフリードマンに限らない話で、今現在の経済学でどうやって社会や世界を分析できるのか、表現達者を自称しながら上手く表現できないのですが、経済学という学問自体が非常に力を落としているだけでなく、その役割を失いつつあるのではと感じます。
 
 古典派、新古典派、マルクス経済などいろいろ経済学派がありましたが、今の世界はこの三つのどれを用いても把握しきれないと思います。ある意味今回の宇沢教授の逝去は経済学の潮流における一つの終わりを意味するのかもと感じさせ、改めて今の時代を把握する難しさを思い起こす次第です。

2014年9月27日土曜日

猛将列伝~マンネルハイム

 先週に頑張って書いた「二次大戦下のフィンランド 前編 後編」の記事ですが、この両記事中には二つの戦争で元帥として活躍し、戦中に大統領に就任したカール・グスタフ・マンネルハイムという人物が何度も登場します。そこで今日はこの人物の紹介をするとともに、二次大戦中のフィンランドの決断について私なりの解釈を紹介しようと思います。
 
 マンネルハイムはドイツ系フィンランド人の家系に生まれ、父親は実業家でありましたが見込みのない金融取引に手を出した挙句破産して愛人と逃げたので、母親はそのショックでマンネルハイムが13歳の頃に亡くなります。しょっぱなから勢いあるな。
 両親を亡くしたマンネルハイムはほかの兄弟ともども叔父の家に引き取られますが少年時代の彼は非常に素行が悪く、矯正する目的もあって軍の幼年学校へと入れられます。しかし幼年学校でも問題を起こしたため放校の処分を受けてしまい、仕方なく当時フィンランドを保護国化していたロシアの軍学校にアプローチをかけ、過去の経歴が足を引っ張りながらもあの手この手の手段を使ってどうにかこうにかロシアの騎兵学校に潜りこむことが出来ました。
 
 騎兵学校の卒業後はロシアの軍人として着実にキャリアを積み、1904年には日本との日露戦争にも参加して功績を上げております。日露戦争後は各国の人間による中央アジアを縦断する探検旅行に参加し、サンクトペテルブルグからチベットなどを通過して北京へ向かう草稿14000キロメートルに及ぶ探検を見事成功させています。なおこの旅行の後、ロシアへの帰国に際して日本の長崎や舞鶴といった都市で8日間過ごし、ウラジオストック経由で帰っています。
 その後もマンネルハイムは順調にキャリアを重ね一次大戦でもロシア軍を指揮し活躍を続けますが、ロシア本国で社会主義革命が起こり、その保護国でもあった故国のフィンランドでも社会主義化の波が高まります。こうした状況を見たマンネルハイムはフィンランドに帰国し、フィンランド国内で右派と左派が激突したフィンランド内戦で右派を支持し、自らが指揮官となって部隊を指揮して右派の勝利に貢献します。
 
 内戦後、フィンランド国内で重い地位を得たマンネルハイムは新生フィンランドの初代大統領選にも立候補しますがこの時は落選し、二次大戦までの間はソ連への脅威を唱えて軍の強化をするべきと主張し楽観的な議会と激しく対立しました。その後の歴史でこの時のマンネルハイムの予想は大当たりだったことから、現代においてはマンネルハイムのこの時の判断は高く評価されています。
 
 そして1939年、マンネルハイムの言う通りにソ連がフィンランドに侵攻してきたため(冬戦争)、マンネルハイムは70歳を超えた年齢でフィンランド軍の最高指揮官に就任します。本人も高齢のため就任をためらったというような内容を書き残しておりますが戦時中は猟師経験のある民兵を多数採用し、また現場に何度も足を運んで現場ゆえの意見を多く採用するなどして戦況を有利に進めることに成功しました。ただ評論家からは現場をあまりにも訪問し続けており要所要所で対局を見失う戦術を取って敗北を喫するなど、大きな視野での指揮には疑問符が付く指揮官だったようです。まぁ狭い視野でも大きな視野でも間違える、日本の多くの指揮官に比べればそれでもマシな方でしょうけど。
 
 こうした戦時中に発揮された指導力によってフィンランド国内で高い信頼を得たマンネルハイムは継続戦争の処理を巡り、ソ連に対する和睦、そして同盟相手であるドイツへの踏ん切りを巡り、前大統領のリュティに変わって自らが大統領に就任してその処理を引き受けます。この時のソ連への和睦案については前に書いた通りで、領土の割譲並びに賠償金の支払いと厳しい内容ではあったもののそれを実行したことで、他の東欧諸国とは違いフィンランドは見事独立を守り切ることに成功しました。大戦後はその処理に大統領として当たり、1946年に退任すると政治と軍事の一線からは身を引いて1951年に83歳で没しました。
 その活躍は本国フィンランドでは現在でも高く評価されており、「尊敬するフィンランド人ランキング」では堂々の一位を獲得したと聞きます。なお昔イラクで同じような尊敬する人ランキングを行ったところ、ホメイニ師をぶっちぎって「おしん」がダントツの一位を取ったという話を聞いたことがあります。
 
 このマンネルハイムの経歴を見て私がまず思ったこととしては、ロシアの軍人としてキャリアを積みながらフィンランドの最高司令官としてソ連と戦ったというこの事実に尽きます。別に恩知らずだなんていうつもりはなく、むしろロシア軍に在籍していたからこそソ連の傍若無人な脅威を意識していたのではないかと思え、彼の後年の決断に大きく影響したのではなどと思えます。
 また司令官としている最中、議会とは対立が多かったものの基本的には議会に従い続け、民主主義の骨子を曲げなかったというのを私は高く評価します。最終的には文民としても最高の大統領に就任しますが、この時も軍人でありながらソ連に対する賠償金支払いを含む和睦案に調印するなんて旧日本陸軍とは大違いもいい所です。
 
 最後にこの一連の二次大戦下におけるフィンランド関連の記事についてまとめますが、最初のこの国の当時の歴史を見て思ったのは「日本とは大違いだ」という一言に尽きます。フィンランドは冬戦争においてはソ連からの防衛、継続戦争においては失地回復と戦争に当たって明確な目的を持って参加し、その目的達成のために徹頭徹尾行動しています。そしてそれらの目的達成が困難と見るやすぐさま軟着陸点を捜し、如何に損失を少なく戦争を終わらせるか機敏な外交を取っており、正直に言って羨ましいと感じました。特に継続戦争の終盤においてはソ連と和睦したらドイツから攻撃されかねない厳しい条件下にありながら、最終的にはソ連に対して善戦しつつもやや屈辱的ともいえる和睦案に調印したというのは勇気ある決断だったと心から褒め称えたい気持ちです。
 
 歴史に詳しい人なら言わずもがなですが、日本は二次大戦でなぜ米国と戦うことになったのか明確にその理由を言える人間は本来ならいません。というのも、何も目的が無く戦争を開始したためで、東条英機側近の佐藤賢了に至っては戦後のインタビューで、「なんとなく戦わなくてはいけない空気だったから」などとマジで証言しています。実際に戦争が進んでもどこで戦争を終わらせるのかという着陸点は最初から最後まで見いだせず、実質的にサイパンを米軍に奪取された時点で敗北は目に見えていたにもかかわらずその後も戦争は継続されており、たとえ賠償金や領土割譲があったとしても、ポツダム宣言を受諾するよりかはあの時点で米軍に降伏していた方がずっと賢かったでしょう。
 
  おまけ
 フィンランドではこの二度の戦争中にシモ・ヘイヘを始めとする民兵が大活躍していますが、フィンランド名物でもあるあの青い妖怪こと「ムーミン」が何故か頭に思い浮かび、「ムー民兵」とかいたのかななどと友人に聞かせてはやや呆れられました。でも響き的に「ムー民兵」ってなんか強そうな気がする……。

2014年9月25日木曜日

維新の会の人を見る目のなさ

 先週末の日本潜伏中に秘密裏にうちの親父と会った際、「うちの会社の人間が『やる気のある無能』の記事を見てみんな納得しとったで」、ということをを私に伝えてきました。私自身もこの記事の内容は佐藤優氏の著作からの引用ではあるもののそこそこ自信もあるし面白い内容であると思っていただけに素直にうれしく思え、やはりサラリーマンなら誰もが頷く内容なのだなと自信もつきました。あとどうでもいいことですが先程アマゾンのKindleで佐藤優氏の本を電子書籍で購入してダウンロードを行いましたが、タブレットPC(ネクサス7\(゜ロ゜)/)の通知欄にはダウンロード完了後、「佐藤優をダウンロードしました」と表示されてなんかちょっと……なんて思いました。作り話の様に自分でも見えるけど本当の話です。

 話は戻りますがこの「やる気のある無能」というのは真面目に日本社会に蔓延していて、その原因も日本の多くの会社は終身雇用制のため不要な人員に対する淘汰が働かないためであると断言できます。最近はほかのメディアでも似たような話題が取り上げられることも増えているし、親父の会社、並びに私の友人も「これはほんとよくわかる」という内容なだけに「やる気のある無能が会社をダメにする」なんてタイトルで新書でも出したら本気で売れるのではないかと思います。まぁ実際には他にも書く話題がこうも毎日あるから書かないけど。

 ただこのやる気のある無能が発生する要因として内部淘汰が去れないことともう一つ、やる気のある無能を見抜けないばかりか実力があると勘違いしてしまい他を差し置いて採用してしまう傾向も日本社会には見られます。元の記事にも書いていますが日本は経歴や実力以上にやる気というか見た目(+年齢)で判断しようとする人間が多く、こうした要素も問題の悪化に一役買っているでしょう。特にその傾向が激しい集団として、現代であれば橋下大阪市長率いる「維新の会」がまさにこの典型だと睨んでいます。

 維新の会について説明をする必要はないと思うので省略しますが、私の目から見て橋下市長は前回衆議院選挙にかけて勢力拡大を急いだあまりに組織全体で人員の質を大きく下げてしまったように思えます。しかも頭数揃えるのが目的なのだから多少下がる程度ならまだわかりますが、一般市民として見ても明らかに人格やマナーが破綻している都しか言いようのない問題のある人間も多く取り込んでしまっており、何故よりによってこんな奴をというような人選が多々見られます。

 こうした問題のある人物は公募されたポストに多くみられ、いくつか挙げると全く学校に出勤してこなかった公募校長や、職員にセクハラをしたり経歴詐称をしたりする公募区長など、ちょっとあまりにも不祥事起こす人間が多いので自分も段々と把握しきれなくなりました。下記のニュース記事に辞めさせられた公募区長はまとめてあるので助かります。

 さすがに橋下市長も自身の選考に問題があったと責任を認めていてその点についてはまだまともだと思えるし、また立派に職務をこなし続けている公募区長もいるということもわかります。ただそれにしたって「わざと変な奴を選んでいるのでは」と思うくらいに維新の会は妙なタレントを見つけてきてはポストを与えて案の定問題起こすことがあまりにも多過ぎます。もともと、こういう議員を始めとした政治関連ポストというのは自己顕示欲の塊みたいな人間が立候補したり応募して来たりするので「やる気のある無能」が大挙してやってくる傾向はありますが、それをどうふるい落とすかが組織の健全な運営、育成のためには非常に重要であるというのに、それが出来てないというのはこれこそが維新の会の最大のアキレス健であると私は見ています。

 もちろん維新の会の中にはまともで立派な人物も恐らく入るでしょう。しかしこうして問題を起こす人間をよりによって重要なポストにつけてしまう辺りに加え、稀にメディアに出てくる維新の会メンバーのやや拙いと私が感じさせられる発言や見識を見ていると政党としてはとても信用が出来ません。まぁ今一番発言おかしいと思うのは熊手カッターのあの人だけど。
 詳しく検証しないで批判するのもよくないとは思いつつ敢えて言わせてもらうと、今の維新の会はやる気のある無能たちの集団に成り下がっているのではと強く疑っています。今の自民党一強の政治状況は好ましいとは思えないものの、問題がありそうな維新の会が勢力を延ばすくらいだったら今のままの方がいいとすら私は考えています。

 だからといって私は維新の会に早く潰れてほしいとまでは考えておらず、むしろこうした私の懸念を払拭するような立派な功績を上げるなり、これはという人材を発掘して活用してもらいたいと考えているのも事実です。しかしはっきり言ってしまうと、橋下市長というか橋下代表には人を見る目が現時点で全くないし今後も改善される見通しはまるでありません。本人も早くこの事実をしっかりと受け止めて、人材の発掘やポスト管理をこなせる伯楽を早く見つけるなり紹介してもらうなりすることこそが今の維新の会の最大の課題ではないかと思う次第です。
 その上でもう一つだけ書くと、やる気や声の大きさにこだわらず、真に実力だけを見てポストにつけることが何より大事です。三国志の三顧の礼じゃありませんが、「やる気のない有能」を拾ってくる努力こそが人事に置いて重要ではないでしょうか。

2014年9月24日水曜日

宇都宮病院事件について

 今日は唐突ですが古い事件をちょこっと紹介します。なんでこんなの取り上げるのかっていうと後で解説します。
 
宇都宮病院事件(Wikipedia)
 
 この宇都宮病院事件というのは1983年に起こったという発覚した事件なのですが、私はこの時点でまだ生まれていないので発覚当時はどのように報じられたのかなど全く分かりません。ただ少なくとも私より年少の世代であれば確実にこの事件のことは知らないだろうなと思うので、まだ紹介する価値はあるのかなと勝手に考えてます。
 そういうわけで早速事件の概要を説明していきますが、この宇都宮病院というのは正式名称が報徳会宇都宮病院で、精神科病棟、つまり精神疾患者を対象とした治療施設を保有しているのですがここでは非人道的な看護・医療処置がかつて行われており、入所者に対する暴力や虐待は当たり前、挙句の果てに何人かが暴行が原因で死んでしまったことはともかくばれてしまったから大事になったというのが事件のあらましです。なおこの病院自体はまだ存続してます。
 
 さてそんな宇都宮病院がどのような足跡をたどっていったのかというと、今はどうだか知りませんが戦後になって精神科病棟であれば通常の病棟に比べ常勤の医師や看護師数は少なくても設置、運営を認めるという法律が通ります。さらに手厚い融資策なども取られたことから高度経済成長期にかけて精神科病棟は各地でどんどん病床数を増やしていったわけなのですが、そうした精神科病棟設置のビッグウェーブに乗って作られたのが宇都宮病院でした。
 宇都宮病院は1961年に石川文之進という医師が前身となった石川医院を改組する形で開院されました。石川は元々内科医ではありましたがやはり精神科は設置しやすい上に医師や看護師数が病床数に比べて少なくてもいいという経営上の判断から宇都宮病院を作りました。ただ院長が精神科について何もわからないとなるとちょっとカッコ悪く、箔をつける目的もあって東大医学部精神科の武村信義に指導を仰ぐ形で研究生になります。
 
 このような形でスタートした宇都宮病院でしたが、どうも開院当初からお世辞にも真っ当な病院ではなかったと聞きます。初めから経営を優先するような運営が目立ち、ベッドを埋めるためにそれこそなりふり構わない形で入所者を集め、中には精神疾患とはとても言えないような健常者ですらあれこれ理由をつけたり、もしくは家族から要請があればどんどんと入所させ、医療保険料を国に請求していたそうです。また医療環境、というか法律なんか始めから無視しており、本来やってはいけないのに看護師に診断をやらせていただけでなく死体解剖まで医師以外の無資格者に行わせていたというだけにその意識の低さには呆れてきます。さらには作業療法と称して入所者に作業を行わせ、その勤労文の利益はしっかり着服するということまでやらかしてます。
 
 これらの点だけでも悪い病院のよくある話としてそれなりに面白いのですが、本気で面白いのは院長の石川を取り巻いた人物たちです。石川の弟は地元の選挙に出て最終的には栃木県議会議員になり、まぁ恐らく行政の面からあれこれ宇都宮病院をバックアップしたことでしょう。そんな石川の弟以上に面白いのは、前述の東大の武村医師です。
 武村自身は研究医であって臨床医の経験はなく、はっきり言って石川を指導できるような医師ではないのですが箔つけに協力し、また宇都宮病院から得られる患者のデータを自分の研究に使うことでWin-Win、というよりはギブ&テイクの関係を石川と持ちます。もっともこうした行為は武村だけでなくほかの東大精神科に所属する医師たちも行っており、宇都宮病院の入所者に対する虐待行為や違法行為について知っておりながら黙認していました。
 
 もっともこうしたおおっぴらな悪事がずっと続くわけでなく、本人はいたって正常にもかかわらず仲の悪い親族に仕向けられて入所した男性が朝日新聞にタレこみ、その内情がメディアによって暴露されたことによって一気に社会から批判を受けることとなります。その後警察の捜査も入りより詳しい状況が明らかになり、その操作過程で1981年から三年間で入所者が220人も死んでいたことや、看護師による暴行が原因とみられる死者二名の案件で看護師数名と院長の石川が起訴され、最終的に有罪判決が下っています。
 この起訴案件となった死亡した入所者二名に対する虐待ですが、なんでも片方は食事がまずいと言ったところ看護師に金属パイプで20分間目一杯叩かれて死亡し、もう片方は劣悪な病院の現状を見舞いに来た知人に話したら職員に殴られて死亡、というよりは殺されたと、過去の事件とは言え自分ですら腹立たしく思えてきます。こんな些細なことで入所者を殴り殺しているくらいなのだから、監獄以上に劣悪で非人道的な行為が行われていたと想像できます。
 
 関係者のその後ですが、石川を含めた宇都宮病院の主犯格らは前述した通りに有罪判決を受け、また石川と深いかかわりのあった東大の武村は世間に批判を浴びる形で東大の研究機関を辞任し、再就職先として宇都宮病院へ移っています。こういってはなんですがこの時代はまだおおらかだったのだなぁと思えるのですが、石川らは現代なら無期懲役、下手したら死刑もあり得るでしょうに、武村も医師免許の剥奪を受けていたのではと勝手に考えています。
 改めて言いますがこの事件で不謹慎ながら何が面白いのかというと、儲けを優先する悪医者、それを支援する議員の弟、さらにギブ&テイクで黙認する大学と、こんなB級ドラマみたいなキャスティングが見事に揃ってお決まりな行動を取っていたという点です。しかもすぐにばれたというわけでなく会員からそこそこ時間経っての発覚というエピローグ付です。
 
 ただもう少し真面目な話を付け加えると、この前も児童養護施設で虐待が行われていたことが発覚しており、昔から何度も似たような問題が起こっておきながらこの手の話は尽きることがありません。もちろん発覚は内部通報によるものが多いですが、発覚まで長い時間が経過していることも多く、より社会の監視を強めるとともに内部通報者に対する対応の充実、捜査能力の拡大が今この現代だからこそ必要なのではないかと思えます。なお非常に攻撃的な性格ながらも自称自由主義者の自分に言わせるなら、善きにしろ悪しにしろ徹底した情報公開こそが最高の対策だと信じています。
 
  何故この記事を書いたのか?
 実は先週土曜から昨日まで密かに日本国内へ潜入していて更新も滞っていたのですが、昨日地元の友人とココスで朝食食べながらいつものように、「部活動こそ日本の教育の癌だ!」と熱く吠えていたところ、隣の席で医療系の学校に通っているっぽい女の子二人が互いに課題のプリントを読み上げている中、「えーっと、精神疾患者に対する待遇問題で宇都宮病院事件ってのがあって……」と口にしたのを耳にするや私は、
 
「ちょっと今隣の席で出てきた宇都宮病院事件だが、これほんまめっちゃ面白い事件やねん」
 
 と、それまでの話題をぶちきっていきなりこの宇都宮病院事件の解説をやり始めました。友人は苦笑していて、隣の女の子二人も、「あたし、宇都宮病院事件はこれでめっちゃ覚えたよ」と笑いながら話してました。相手の話題に割りこんじゃって、ちょっと悪かったなぁ。

2014年9月22日月曜日

任天堂とソニーでのゲーム事業合併の可能性

 前ネットで「隣のシャアは赤い」という言葉を見受けました。だからなんだといわれればそれまでですがなんか妙に印象に残るワードです。声の人は今度の大河ドラマでナレーターやるそうらしいですが。

 話は本題に入りますが、先日友人と今後のゲーム事業の先行きについて話をしていて、これまで倒産間際になるやヒット作を生み出して生き延びてきたカプコンですがコーエーテクもに対してアップグレード版商法で提訴するなど迷走しているから今度は駄目だろうとか主張してきました。あと今後の日本のソフトメーカーで言えば、国外はともかく国内は「妖怪ウォッチ」でヒット邁進中のレベルファイブが引っ張っていくだろうともよそうし、自分が子供だった頃に最強のブランド力を誇ったスクウェアエニックスはなぜこうも……なども話題に上がりました。

 そうやってとりとめもなく話していると友人が突然、「グローバル化への対抗としてゲームハードメーカーの任天堂とソニーが合併してもいいと思うんだが」ということを口に出しました。私の意見を先に述べると、実現性はともかくとして議論に値する定期だと思います。

 ゲームのハードウェアは大別して二種類、テレビに接続する据置きハードと携帯して遊べる携帯ゲーム機に分かれます。前者は任天堂のWiiU、ソニーのプレイステーション4、マイクロソフトのX-Box360の三強となっており、情勢としてはソニーがやや有利でマイクロソフトと拮抗しているのに対し、任天堂は三国志で言えば諸葛亮亡き後の蜀よろしく建て直しの難しい状態となっています。後者の携帯ゲーム機は任天堂のニンテンドー3DSとソニーのPSVitaの実質二強で、どちらも決め手に欠け消極的な理由で決着がつかないような状態です。

 以上のようにゲームハード3社の中で現在圧倒的に状況が不利なのは任天堂です。任天堂が不幸なのは現行より一つ前のハード、WiiとニンテンドーDSが社会現象に近いほど好調な売れ行きを示したのに対してその後継機二つはどちらも芳しくない売れ行きに留まっており、ハードの売れ行きを伸ばすようなキラーソフトも今後出てくる見込みは大きくありません。まだ任天堂自社の「ゼルダの伝説」や「スマッシュブラザーズ」といったシリーズもののゲームは期待されては下りますが、任天堂以外のサードパーティ製によるソフトが揃えられないというのはちょっと……といったところです。

 一方、ソニーのプレイステーション4もキラーソフトがやや不足している間がありますが、自分でもよくわかりませんが海外市場ではやけに売れています。これは勝手な創造ですが日本市場はともかく、海外市場ではアメリカを始めとした海外のソフトメーカー製ソフトがプレステ4に参入して、それが呼び水になっているのかも知れません。あと国内市場に関しても、人気タイトルを抱える国内メーカーが新作を出してくることも予想され、まだまだ安泰とはいえませんがまだ未来が感じられます。

 任天堂が何故ここまで苦戦することとなったのか、ひとえに理由は時代の流れとしかいえないほど難しいのですが、じゃあ今後はどうすればいいのかとなると友人の言のようにソニーと提携するのも検討すべきひとつの手段かと思えます。
 この二社は据置き、携帯の両方で競合しているため、仮に提携するとなるとそれぞれでハードを一本化する必要があります。この一本化は据置きならまだしも携帯ではがっちり組み合っていることもあってまず現実的ではなく、それゆえ提携できるかといったらまず不可能といえる理由にも成り得ますが、仮に一本化、もしくは路線を明確に分けた棲み分けができればそれによって得られる効果は小さくはない気がします。

 ハードが一本化されることによってソフトウェアメーカーは複数ハードでの同時リリースに向けた開発に忙殺されることもなくなり、また日本一丸となってマイクロソフトにぶつかれることもできます。もっともハードで独占となったらかつてのスーパーファミコンの時のようにハードメーカーのマージンが高く設定されたり流通が限定されたりと、ソフトウェアメーカーが苦しむ可能性もありますが。

 この任天堂とソニーの事業合併案ですが、あくまで仮説です。しかし仮説を掘り下げることによって今後のゲーム事業も占えるのではと思える要素もあり、また何か思いつくことがあれば書いていきます。最近こういう引きが我ながら多いなぁ。

2014年9月21日日曜日

日本人の知らない中国

中国出張した日本人が、最も理解に苦しむこととは?―中国ネット(レコードチャイナ)

 ちょっと今日はやる気がないのと、レコードチャイナが面白い記事書いているのでこの内容に私の方から湖面と入れることで今日は間に合わせようと思います。明日はもうちょっと真面目な内容を書こう。

 この記事では中国に出張でやってきた日本人が違和感を覚える点について書かれてありますが、私の目から見てどれもいいポイントを突いているというか全部事実です。

→中国に出張に来た日本人は、ホテルの豪華さに驚く

 これなんか代表的な点ですが、中国のホテルはその宿泊料に比して広くて豪華な部屋が多いです。単純に日本より物価が安いということもありますがそれ以上に中国のホテル業界の競争が非常に激しく、特に上海市内は海外大手が文字通り凌ぎを削っており、航空券とセットで予約すれば五つ星ホテルにも安価で宿泊することが出来ます。どれくらい安価かというと、一万円以下でもざらかなぁ。
 この点については掘り下げる余地があるので、また別の機会にも取り上げます。

→日本人は中国人の話し声が大きいと感じる

 これも典型事例ですが、中国人は普段から声がでかいのに電話となるともっとでかくなる傾向があり、中国に慣れていない人からすれば喧嘩でも起こっているのではないかと間違いなく思うでしょう。

→日本人が最も理解に苦しむのは、ペットボトルに入った緑茶だ

 これはあまり話題に上がることは多くありませんが、紛れもない事実です。何でこんなのに日本人が驚くのかというと、中国では緑茶にも砂糖を入れます。普通にコンビニで「緑茶」と書いてあるから日本の緑茶飲料の味を創造していると口の中で広がるのは砂糖入りの紅茶みたいな甘ったるい味で、最初に私が飲んだ時なんか腐ってるのではと疑ってしまいました。
 しかもこの砂糖入り飲料、あのサントリーの烏龍茶にもあります。 中国でもサントリーは日本と同じ包装デザインで烏龍茶を売っているのですが包装の一部に「微糖」、もしくは「無糖」という文字が書かれてあり、「無糖」は日本で売っているウーロン茶と全く同じですが「微糖」にほあ本当に砂糖が入ってて、甘ったるいウーロン茶に仕上げられています。決してまずいわけじゃないけど、日本の烏龍茶に慣れている自分からするとやっぱり手に取りたくはない味です。

2014年9月18日木曜日

二次大戦下のフィンランド 後編(継続戦争)

 前回記事でフィンランド対ソ連の第一ラウンドに当たる冬戦争を取り上げましたが、今日は第二ラウンドの継続戦争を取り上げると共に、大国に立ち向かう小国の外交というものを自分なりに解説します。どうでもいいけど今マジで眠い(-.-)zzz
継続戦争(Wikipedia)
 前回の記事で書いたようにフィンランドはソ連に因縁をつけられるような形で侵攻を受けたものの、「白い死神」を筆頭とした民兵などの活躍によって見事撃退を果たしました。ただ戦争継続能力がなかったことからフィンランドはソ連に対して大幅な妥協を迫られ、国土の10%に当たる領土の割譲を余儀なくされ、失地回復の機会を虎視眈々と狙っていたことでしょう。
 そんな冬戦争から約1年後の1941年6月、フィンランドとソ連を取り巻く環境は前年とは大きく変わっていました。何が起きたのかというとバルバロッサこと独ソ戦が始まり、ドイツがソ連領内へと攻め込んだためです。
 当時のフィンランドはソ連との関係悪化から「敵の敵は味方」とばかりにドイツの関係が強くなっていました。この独ソ戦でも当初は中立を宣言していましたがその中立だった期間中もドイツ軍はフィンランド領内を通過してソ連に攻め込み、またソ連側もフィンランド領内へ空爆を行ったことからすぐにソ連へ宣戦布告を行い、ドイツ軍と共にソ連へと攻め込みます。
 フィンランド側はこの参戦について、ドイツとの軍事同盟によるものではなく前回の冬戦争の延長上だとして「継続戦争」という言葉を用いました。何故このような主張をしたのかというとドイツと同じ側に立つことによって国交のあった米英から枢軸国と見られたくないとの思惑があったためですが、そのような主張は残念ながら通じずに米英からは間もなく国交断絶の通知を受けることとなります。
 こうして始まった継続戦争ですが、フィンランドの戦略目標としては一にも二にも失地回復にあり、真っ先に冬戦争でソ連に割譲を余儀なくされたカレリア地方を奪い返し、冬戦争以前の国境線まで領土を再占領します。しかしその後、ドイツ軍のソ連領内での進軍にブレーキがかかるとともにフィンランドも進軍を止め、早いうちから防衛へと方向を変えます。これは元々失地回復が目的であってソ連への侵攻、特にドイツ軍と同じにされてはまずいとの外交判断からの方針だったのではないかと見ます。
 このようにフィンランドはこの戦争では控え目な態度を見せたものの、周囲の状況が「控え目な結果」には終わらせてくれませんでした。1943年にドイツ軍が有名なスターリングラードの戦いで敗北するとソ連軍は一気に反撃へ打って出て、フィンランド領内へと逆攻勢をかけてきます。
 フィンランド政府は早くにドイツ軍の敗北は濃厚と見てソ連など連合国に対して単独講和を行おうと動き出しますが、こうしたフィンランドの動きに対してドイツが真っ先に反応し、脅しとしてフィンランドへの食糧輸出を止めてしまいます。心ならずも枢軸国側に立ってしまったフィンランドとしては主要物資をドイツ一国に頼っている状況もあり、結局単独講和は放棄してドイツ軍と共にソ連と当たることでドイツも物資輸出を再開します。
 ただこの時のソ連軍はかつての冬戦争時とは全く異なり、激しい戦闘を潜り抜けたこともあって兵卒や士官の質が大きく向上していました。冬戦争時は見事撃退したもののこの継続戦争ではフィンランド領内の奥深くにまで攻め入るほどでしたが、対するフィンランド軍も要所要所で一斉反撃に成功しており、この戦争の最終的な戦傷者数では今度もまたソ連軍がフィンランド軍を大きく上回っています。
 しかしそれは一時的なもので、フィンランドにとって長引けば長引くほど不利になることに変わりはありませんでした。またソ連としても戦後秩序を睨んでドイツ領内への進撃を優先したいという思惑があり、またフィンランドの懐を鑑みて講話に応じる態度を見せていました。両者の思惑は「ともかく早く戦争を終わらせること」にあり、この点で一致したことからフィンランドは大統領のリュティが辞任し、冬戦争、継続戦争を指揮したマンネルハイム元帥が代わりに大統領に就任。ソ連との間で下記の条件を守ることで講和を結びます。
・フィンランド領内にいるドイツ軍の排除
・国境線を冬戦争後の状態に戻す
・賠償金の支払い
 どれもフィンランドにとって非常に厳しい内容で、特に領内にいるドイツ軍の排除は下手すれば内戦にもなりかねないような内容であったために前大統領のリュティは呑み込むことが出来ませんでした。もっとも講和後、ドイツ軍もそれまでフィンランドと一緒に戦ってきた仲でもあったことから勧告に従い比較的すんなりとドイツへ帰っていったそうです。
 結果論から言うとフィンランドはこの継続戦争で失地回復を達成できなかったばかりか、戦争に伴う消耗、そして賠償金の支払いを負うこととなり事実上、敗北と言っていい結果に終わりました。しかし私としてはフィンランドが失地回復を求め、それが望めるような状況に行動を取ったというのはおかしい判断だとは思えず、またドイツ軍の敗退という状況の変化に合わせ不利な条件を呑み、すぐ講話に動いたというのは国家として素晴らしい判断だったように思えます。
 これと好対照だったのは言うまでもなく日本で、どうあがいても勝利を得ることが不可能な状況になりながらも講話へと全く動かなかったばかりか、追い詰められた後にはあろうことか今も約束を守ることのないソ連を仲介して少しでもいい条件で講和に持ち込もうとするなど、こういってはなんですが敗北する際の覚悟が全く足りません。それこそドイツが完全な敗北を無かる1945年4月以前、ないしは1944年の間にも講話へと動いていれば、戦後の日本の状況は史実と大きく異なっていたことでしょう。
 もう一つこの時のフィンランドについて触れると、よく日本は中国や米国という大国に挟まれるという地政学的に恵まれない国だという意見をたまに目にしますが、少なくともフィンランドとは違って陸続きで大国に接していない、しかもわけわかんないソ連とは陸続きでない点で相当恵まれている気がします。なんだかんだ言って日本はどの国とも海峡に挟まれて陸続きじゃないので、地政学的には結構楽な方に見えます。もっともそのせいでやや保守的なきらいがあるが。

2014年9月17日水曜日

二次大戦下のフィンランド 前篇(冬戦争)

 この頃密かなマイブームとして北欧史にはまっています。なんでこんなのにはまっているのかというと米国、西欧とは明らかに異なる文化県で現在も「福祉国家」に代表される独特な国家運営の仕方などから一体どういう歴史やパーソナリティがあるのかなと興味を持ったことに端を発します。あとどうでもいいけどパズドラのヴァージョンアップが出来なくて今遊べません(´;ω;`)ウッ
 話は戻りますがちょっと比較研究を兼ねて二次大戦期において恐らく北欧で一番苦しんで、なおかつ伝説を残したフィンランドの戦争について解説します。フィンランドは二次大戦下に二度、二度ともソ連とぶつかり合っているのでそれぞれで一回ずつ開設するという形で、今回は1939年12月から1940年3月まで続いた冬戦争を取り上げます。
冬戦争(Wikipedia)
 当時の世界状況から説明を開始しますが、1939年9月にドイツはポーランドへ侵攻し、またそれによって英仏がドイツに対して宣戦を布告したことから第二次世界大戦は幕を開けます。この時にドイツはソ連との間で不可侵条約を結んでいたのですが、この条約は1941年に破棄されるだけあって独ソ双方で一時的な取り決めという認識が始めから持たれており、ドイツが英仏を相手にしている間にソ連も勢力を拡大する事があらかじめ視野に入っており、そんなソ連のターゲットとなったのがほかならぬフィンランドでした。
 ソ連はフィンランドに対して領土の割譲、軍港の無条件での租借などといったあんま今と変わらない無茶な要求を繰り返し、これに対して明らかに小国であるフィンランドは拒否し続けます。こうしたフィンランドの態度を見たソ連はフィンランドとの国境でフィンランド側から銃撃を受けたと偽装し(崩壊後にその記録がばれてる)、フィンランドに対して一方的に宣戦布告を行い軍を派遣します。その兵数はなんと45万人で、最終的には100万人を派遣したと記録されています。
 この奇襲とも言えるソ連の行動は世界から批判され国際連盟からも追放を受けますが、あんま今と変わらず気にしないソ連はフィンランド領内に突き進みます。しかもフィンランドにとって不運だったのはスカンジナビア半島の先端に位置するノルウェーがドイツの圧迫を受けていたことから中立に回らざるを得ず、英仏などの支援物資、義勇兵の輸送を妨害したことです。事実上この時のフィンランドは孤立無援と言っていい状態で、ソ連に対して何の援助もないまま自国だけで立ち向かわなければなりませんでした。
 そんなフィンランドですが結果から言うと、ソ連に対して有り得ないくらい大勝しています。ウィキペディアの記述を引用すると下記のとおりです。
  フィンランド軍:ソ連軍
  歩兵戦力=25万:100万
  戦死・行方不明者数=2万6000:12万7000
  戦傷者数:4万:26万5000
 実に4倍の兵力差、兵器でもソ連に劣っていたと思われるのに堂々たる戦果ぶりです。
 一体どうしてフィンランドはこれほどまでにソ連軍を打ち負かせたのかというといくつか理由があり、最大の原因と考えられているのは当時のソ連の最高権力者であるスターリンが赤軍将校を片っ端から粛清していたためまともな士官がおらず、ソ連の指揮系統や戦術があまりにも不甲斐なかったせいだったためと指摘されています。実際に当時のソ連の国防大臣がスターリンに面と向かって、「お前が殺し過ぎたせいでまともに戦えないんだろっ!」と痛罵しており、さすがのスターリンも責任を感じたのかこの国防大臣を左遷こそしますが処刑まではしませんでした。
 このほかソ連側の敗因としては、一ヶ月ほどで片が付くと思っていたらずるずると戦争期間が延びてしまって補給に綻びが生まれたことと、それにより冬将軍の備えが出来ず大量の凍死者を出してしまった点が挙げられます。後の独ソ戦でドイツが辿ったような失敗をこの時はソ連が経験しています。
 逆にフィンランド側の勝因としては、少ない兵力をカバーするために決戦を避け、森林などで待ち伏せするゲリラ戦のスタイルを徹底的に貫いたことと、開戦前にソ連の侵攻に備えマンネルハイム線という防御陣を敷いていたこと、その防衛陣の名前の元で元帥として戦ったマンネルハイムという将軍のリーダーシップなどが挙げられます。ただこうした要因以上に祖国を守ろうとするフィンランド人の高い士気、そして民間人から最低限の訓練を経て採用された民兵が恐ろしいまでに強い兵隊だったという事実も見逃せません。
 もともとフィンランドは狩猟の盛んな地域でこの冬戦争時にはハンターを中心に民兵の狙撃部隊が組織されたのですが、多くのメンバーが氷点下何十度という厳しい環境下でも高い狙撃能力を発揮しており、特にソ連側から「白い死神」と呼ばれたあのシモ・ヘイヘがこの民兵の中にいたということはソ連にとって悲劇以外の何物でもないでしょう。
シモ・ヘイヘ(Wikipedia)
 知ってる人には有名ですが、狙撃による射殺数が確認されるだけで505人、実際には1000人を超すのではと言われるのがこのシモ・ヘイヘです。彼の狙撃にまつわるエピソードはどれも人外じみており、上記の射殺記録は冬戦争中のわずか100日間で打ち立てただけでなく、300m以内なら確実にヘッドショットを決められたとか、1分間で16人を射殺したなど、連邦の「白い悪魔」もびっくりです。実際に彼が配属されていたコッラという地域は終戦までフィンランド軍がソ連軍を押し返しており、さらにはシモ・ヘイヘを含む32人が防衛した丘では押し寄せるソ連軍4000人を撃退するというフィクションのような話まであります。
 ただソ連軍相手に善戦したフィンランド軍でしたが他国からの支援がない中で武器弾薬の不足は否めず、戦争の長期間継続は初めから不可能でした。一方のソ連も余りの損害の多さから早くから講話の道を探っており、両者の思考が一致したことから講和条約成立へと至ります。
 この講和条約でフィンランドはソ連側の多くの要求を受け入れざるを得ず、重要な工業地帯を含む国土の10%をソ連に割譲することとなります。とはいえ祖国の危機から独立を守り切ることはでき、フィンランドにも束の間の平和が訪れます。もっともこの時のソ連へのフィンランドの怨みはくすぶり続け、一年後の1941年に勃発するフィンランド対ソ連の第二ラウンドに当たる継続戦争が起こることとなるわけです。
  おまけ
 この冬戦争には英国からの義勇兵として、「ロードオブザリング」のサルマン役、「スターウォーズ」のドゥークー伯爵役で有名なハリウッド俳優のクリストファー・リーが参加しています。非常に強いキャラクターのある俳優ですが、あの迫力はこうした経験が背景にあったのかと妙に納得しました。

2014年9月15日月曜日

自衛隊について

 友人からリクエストを受けたので、今日は自衛隊について自分の知っている内容と見解をたらたら書いてこうと思います。ただ先に言い訳をしておきますが、私は軍事関連の領域は専門としておらず、せいぜい「ニューナンブを作ってるのはミネビア」とか言うどうでもいい知識しか持っていません。じゃあ何が専門なのかと言われると変な意味で答えに詰まってしまいますが、あくまで今回の記事は一素人の意見としてみてもらえば助かります。
 
 まず最初に自衛隊成立の歴史について簡単に触れますが、二次大戦の敗北後、日本を占領した米国を中心とするGHQは一次大戦後のドイツの様に日本でも徹底的に非軍事化を推し進めます。その目的は二度と米国に反抗しないようにすることが主眼であり、元軍人たちに対しても公職から追放するなどして社会から徹底的に排除します。
 そうした非軍事化の流れから潮目が変わったのは、個人的な見解だと1949年の中華人民共和国の設立です。米国は恐らく中国大陸は蒋介石が勝つだろうと踏んでたように見えますが、予想とは違ってソ連の支援を受けていた毛沢東率いる中国共産党が勝利し、中国大陸を握ります。更に翌1950年には朝鮮半島で朝鮮戦争が起こり、米国としてはこれ以上の東アジアの共産化を食い留めるためにも日本における軍事的プレゼンスが非常に重要となってきました。なおちょうどこのころのGHQでは「右旋回」といって、本国の赤狩りと軌を一にして社会民主主義的思想のメンバーが排除された一方でタカ派が勢力を伸ばしていた時期でもありました。
 
 ちょっと古い記憶(小学生の頃に読んだ歴史漫画)なので年号間違っているかもしれませんが、確か1950年の元旦における挨拶でマッカーサーは、「日本もそろそろ自営する力が必要だ」と話したそうです。この発言の裏には既に日本の再軍備化が始まっており、同年には旧軍人を多く採用した「警察予備隊」が組織されます。この警察予備隊は二年後の1952年には「保安隊」と改称し、さらにその二年後の1954年に現在の「自衛隊」という名前へと至ります。
 米国が何故ここまで日本の再軍備化を推し進めた原因はなんといっても朝鮮戦争で、朝鮮半島に米軍を派遣する事で日本国内の防衛が疎かになる可能性が出始め、また日本を防衛するための米国の軍事費削減も喫緊な課題だったからです。要するに、米軍を後方支援するという役割として自衛隊が設立されたとみていいでしょう。
 
 何はともあれ結成された自衛隊は旧日本軍の軍人が主に教官などで再雇用され、主旨こそ違えど事実上、日本軍の再建と言ってよかったと思います。未だに日本国内では自衛隊を「自衛軍」という呼称に切り替えるべきか否かでグダグダ議論していますが、海外では英語で「SDF=Self Difence Forces」とモロに「軍」だと言っているのだから、もうどうでもいいじゃんとか内心思ってます。まぁ自衛隊という呼称がかなり定着しているから無理して変える必要もないかな。
 話は戻りますが結成当初の自衛隊はお世辞にも日本国民からは支持されておらず、特に憲法で謳った戦力の不保持に違反するとしてどちらかと言えば「いない方が良い存在」としてみられていたように私には思えます。実際に自衛隊員が殺傷される事件もあれば吉田茂には「君たちは日陰者として歩まなければならない」などと言われたりしてて、肯定派もいなかったわけじゃありませんが反対派も近年までは確固として存在し続けておりました。
 
 そのような自衛隊への日本人の見方が一変、というよりむしろ逆転したきっかけは1995年に関西地方を襲った阪神大震災で、この時に自衛隊が災害救助として活躍したことと、その自衛隊の出動をためらったと見られている当時の社会党出身の村山富一首相との対比もあり、「やっぱり自衛隊は必要ではないか」という声が俄然と強まってきました。私も当時小学生でしたが、こういう大災害の救助の際には訓練された軍人が非常に重要なんだと思え、小学生の分際でそれまで自衛隊を否定していましたが一気に肯定へと考え方をひっくり返されました。
 その後、2011年の東日本大震災でも自衛隊の活動は高く評価され、当時の世論調査で日本国内で自衛隊を評価するという声は90%超にも達し、2012年に米国の調査会社が実施した調査でも89%が「自衛隊は日本にとっていい影響を与えている」という回答結果が出るに至っています。現代においてはもはや自衛隊を否定する方が圧倒的少数派になっており、仮に昔あったような反自衛隊デモでもしようものなら総スカン、下手すりゃリンチすらも喰らいかねません。やろうって団体はまだいるのかな?
 
 このように災害派遣においては圧倒的な実績と活躍を誇る自衛隊ですが、果たして軍事力となると如何か。陸上戦力に関しては主力兵器が山地の多い日本じゃまともに運用できない戦車であり、また特殊部隊の質で他国に劣るという話を聞くだけに国際的には一般的なレベルかと考えていますが、こと海上戦力となると間違いなく海上自衛隊は世界屈指、実質的には米国に次いでナンバー2くらいの実力を持っているのではないかと私は見ています。
 海上自衛隊はイージス艦を始め潜水艦を含む艦船装備で米国から技術供与を得ているだけでなく自国でも開発、整備を行っています。これらの艦船は侵略するには向いていない兵器ですが防衛線となるとあまりにも充実し過ぎているとの声もあり、隣の中国がまだまともに空母を運用できてない話を聞くと、普通に数隻の空母を保有して運用している日本は一体どんなレベルなんだとよく思います。
 残るは航空自衛隊ですが、これについてはあくまで素人目ですが、一応米国のお下がりではあるものの世界屈指の戦闘機を配備しておりパイロットも練度は高いと聞くのでまぁまぁ戦える装備ではないかと思います。ただ米国や中国と比べて訓練できる空域が海上ならともかく陸上では非常に限られている(住宅地が多く)と聞くだけに過信は禁物でしょう。
 
 以上までは割と持ち上げる話ばかり書きましたが、自衛隊にも欠点というか問題点は少なからずあります。まず第一に言えるのは最近また取り沙汰されてきた自衛隊内のいじめです。防衛大に友人が行ったという友人からの又聞きですが日本人らしくここでのいじめもやっぱり陰湿で、体力的にきついのもありますが防衛大を出ても任官を受けずに辞めちゃう学生が毎年大量に出ているそうです。ほかの国もある程度一緒でしょうが必ずしも士気も仲間意識の高い連中とは言い切れない面があります。
 
 もう一つこっちは真面目な話で、一言で言えば田母神俊雄氏です。この人は元航空幕僚長ですがその発言、思想は攻撃的であることに定評のある私の目から見ても明らかに歪で、なおかつ自衛隊員であった時代からも自身の歴史観や政治意見を声高に発言するなど明らかに分をわきまえない行動が見えました。
 「軍人が政治に口出ししてはならない」というのが日本の敗戦における最大の反省材料だったにもかかわらずそれを平気で破る人間が自衛隊幹部としていたという事実は看過できず、恐らくほかにもこの手の人間が自衛隊内の幹部にいるのではと邪推せざるを得ません。今のところは田母神氏以外では表立っていませんが、この手の人間が表に出ることで日本の国内外を問わず自衛隊にとって悪い影響が出るのではと懸念しています。
 
 最後にどうでもいい個人的意見ですが、自分のような社会学士からすると戦争というのは外交手段でもなく国家的決闘でもなく、災害の一種であるとみています。この戦争や地震などの自然災害を含めあらゆる災害に対してその被害の拡大を食い止める、こういう風な定義が自衛隊にとって無難なのでは思う次第です。
 適当に書いたつもりなのに、なんでまたこんなに長くなったんだろう。執筆時間30分だよこれ。

2014年9月14日日曜日

李香蘭の逝去と中国の反応

 
 報道で知っている方も多いかと思いますが、戦時中に李香蘭の芸名で数多くの映画に出演し人気を博した山口淑子氏が先週亡くなられていたことがわかりました。山口氏、というよりは李香蘭の名前の方が有名ではありますが、中国においても知名度の高い人物なだけあって軽くネットを見回すと速報を出す中国メディアが数多く出ています。きちんとした記事は明日の朝刊に掲載されるでしょうが、やはり現代においても中国に強い影響力を持つ人物であったことを再確認されます。
 
 今のところ中国で出ている速報ではそれほど特別な内容は書かれておらず、山口氏の経歴、特に戦時中に大スターとなったものの戦後は中国人と誤解され国家反逆罪に掛けられたが日本人であるという証明が得られ無罪となった経緯などが大まかに書かれてあります。強いて挙げれば国家反逆罪の裁判で、無知な若者だったため何もわからず日本に協力してしまったことを謝罪したということをきちんと書いてある辺りは中国だななどと思います。
 
 さてこの山口氏ですが、経歴については私から説明するのも野暮だと思うものの一応やっておくと、山口氏は1920年に旧満州地域であった現在の遼寧省撫順市で日本人の両親から生まれます。その後、奉天市に移ってで育ちますが、満州鉄道会社(満鉄)で日本人に中国語を教えていた父親と交流のあった中国人李際春が、山口家との親睦を図る目的で山口淑子市を名目だけの養子に迎え、この際に「李香蘭」という中国名を得ます。
 その後成長した山口氏は満州映画協会(満映)の映画に出演するのですが、その際に中国人に受け入れられるよう「李香蘭」の名前で出ます。たちまち大きな人気を得た山口氏は父親譲りの流暢な中国語(うらやましいなぁ)を使い、そのまま日本人であるという事実を隠しながら中国人として出演をし続けます。山口氏も何度か思い悩んでカミングアウトも考えたそうですが、その度に周囲から止められて、結局終戦まで隠し通し続けます。
 
 そうして迎えた終戦後、山口氏は中華民国政府から日本の宣伝映画に協力したため国家反逆罪の疑いで逮捕されます。当時の新聞には判決は銃殺刑になるだろうとも報じられ山口氏も後年の手記で「生きた心地がしなかった」と書き残している程だったようですが、幸いにも判決直前、友人が日本から戸籍謄本を取り寄せ日本人であるという証明を得たことから、「日本人対して中国における国家反逆罪は適用されない」との裁判官の判断から一転して無罪を得ます。今日の中国のニュースではこの時に山口氏は「徳を以って怨みに報いる(以徳報怨)という中国の対応に感謝します」と述べたことがやっぱ強調されてました。もっとも、中国軍はさっきの「以徳報怨」という言葉を使って終戦直後に日本軍を追撃しないよう命令を出していてくれたことに日本人は感謝すべきかなとは私も考えてます。それに比べてソ連は……。
 
 こうして無事日本の土を再び踏んだ山口氏は日本でも女優業を行い、戦後の映画界を引っ張るスターの一人として活躍します。その後、結婚、離婚、結婚を繰り返した後に一時引退しますが、ある程度年の重ねた頃に再びテレビの司会業などをこなし、また参議院選挙にも出馬して見事議員にも当選して政治活動も行っています。議員引退後はあまり表舞台に出ず、たまに自分も読んだような回想録みたいな手記を雑誌に発表するだけでしたが、今日の報道の通りに94歳での大往生を迎えたとのことです。
 
 今日の報道を見て私が真っ先に思い浮かんだのは二人の人物で、最初は森繁久彌、次に甘粕正彦でした。森繁については2009年の彼の死去時、「これで残るは李香蘭だけか」と覚え、そして今回の山口氏の逝去を受けて甘粕正彦を知る人間、ひいては満映で活躍した主だった人物は潰えたかと嘆息しました。
 知ってる人には有名ですが、関東大震災時に社会主義者の大杉栄を殺害(甘粕事件)した犯人である、当時憲兵だった甘粕はその後中国大陸に渡り、ラストエンペラー溥儀を北京から脱出させるなど007ばりのスパイ活動を担う重要人物となり、最後は満映の理事長となり「満州の陰の支配者」として恐れられていました。
 
 ただ当時の満映にいた人物、まさに李香蘭と森繁などは甘粕について好意的な証言を残しており、森繁は「満州というでかい夢をみんなに見せて引っ張っていた」と述べています。もう一方の李香蘭こと山口氏は、仕事に悩み女優業をやめたいと直接甘粕に申し出たこともあったそうですが、「気持ちはよくわかる」と親身に話を聞いてくれ、その後も山口氏は女優業を継続しています。
 このようなエピソード、いわゆる満州史についての重要な証言者がまた一人この世を去ったかというのが私の偽らざる今の気持ちです。そりゃ年月も大分経っているのだから当然と言えば当然ですが、満州という世界を知る人間が一人、また一人とされ、残された事実が歴史として今後形作られるのかと寂しいような大事なような妙な気持ちを覚えます。そういう自分もあと50年くらい経ったら、「改革開放期の中国で過ごし、やたら当時の中国について手記を書き残した人物」みたいに扱われるのかもなぁ。

2014年9月12日金曜日

雑記

 最近また真面目なことばかり書いてきているので今日は思いつくことを片っ端から適当に書いてきます。
 
 後輩にこのところこのブログはどうだと聞いたら、「愚痴は減りましたね」という答えが返ってきました。その愚痴というのも引越し前の部屋が夜中にうるさいという愚痴で、そりゃ引っ越したんだから愚痴も消えるのも当たり前ですがそれだけじゃなく前ほど文章にとげとげしさが無くなったような気がします。といってもとげとげしさ以前に私がこのブログで各意見や主張は大体どれも攻撃的で、パズドラに出てくるモンスターなら俺はきっと「攻撃タイプ」だろうななどとこの頃よく思います。なお同じ後輩からは、
 
「花園さんは小泉純一郎と似てますね」
「え、どこがやねん」
「なんていうか敵を設定するというか、自分に相対する存在を明確に打ち出して自分の立場なりを明確にしようとしてるように見えます」
 
 と言われ、思わずなるほどと自分で唸りました。
 
 何はともあれ愚痴は減りましたが生活への不満は全くないわけではなく、このところ何気に一番困っていることとしてパンツのゴムひも問題があります。普通パンツのゴムひもときたら使用と共に緩んでいくのが世の常ですが、何故か私が今使っているパンツは選択する度にどんどんときつくなってきており、このところは履いててリアルに息苦しさを感じるくらいに締め付けられてます。そんな特別なパンツを選んだつもりはなかったのに。ちなみに買った場所は松戸のイトーヨーカドー。
 
 松戸というのは千葉県にある都市ですが、中国に来る直前まではここに一時期住んでて、会社の予定管理ソフト内での役職は現在「名ばかり松戸市民」に設定しています。その松戸市に引っ越したのも去年のちょうど今頃なのですが、実はここ数年、二年間同じ場所で過ごしたことは一度もなく引っ越す回数が異常に多いです。主だったのを軽くまとめると、
 
2010~2011年 浙江省杭州市
2011~2012年 上海市
2012~2013年 上海市の別の部屋
2013~2014年 千葉県松戸市
2014年6月~7月 江蘇省昆山市
2014年7月~現在 江蘇省昆山市の別の部屋
 
 たった四年間で合計六回も引っ越してて、しかも同じ市内の移動でなければその度に家具とか買い直しているので自分はどれだけ家電業界に貢献しているのか、表彰されてもいいのではなんて思えてきます。もっとも中国の引っ越しは冷蔵庫などの大型家電は部屋についているから日本ほど手間じゃないけど。
 なお自分がこのほかに住んだことのある都市を挙げると、学生時代に京都府内にいて、さらにキャンパス移転もあってこの間に一度引越しもしています。それと北京市に留学で一年、会社の長期出張で香港に三ヶ月、免許の合宿で鳥取市に約一ヶ月といったところですが、フーテンの寅さんじゃないんだからここまで頻繁に移動しなくてもいいのに……。
 
 もっとも、「腰を落ち着けた生活」というのはやっぱり性に合わない気がします。去年見てもらったスピリチュアリストにも開拓者っぽい魂していると言われているだけに結構あちこち行くのは嫌いじゃないし、何より自分で満足できません。ある意味根っからの根無し草(よくわからない言い方だが)だったのかなとと自覚するようになってきています。
 
 話は変わりますがこのところ暇つぶしに電子書籍の漫画を買いあさっておりますが、先週はちょうど欲しい本がまとめて新刊が出たのでなんかやたら連続して買いました。その買った本はというと今度アニメ化する「監獄学園」と前にもレビュー書いた「実は私は」です。
 「監獄学園」の方は重厚そうなタイトルとは逆に徹頭徹尾なギャグ漫画ですが、最新刊の14巻も安定した面白さではありますがこの漫画で一番凄かったのはやっぱり8巻だったと思います。わかる人にはわかるでしょうが、あれほど一進一退の攻防がすごいのはそうありません。
 「実は私は」は前にもレビューした私のおすすめ漫画で、そのレビューで勢いを感じるからアニメ化まで行くのではと予想したものの、最新巻の8巻を読んでるとなんだかそろそろエンディングに向かいつつあるような展開で、遠からず連載が終了するような気配を漂わせておりました。下手に引っ張るより全然いいし今回も今回で面白かったけど、予想外しちゃうことになるなぁ……。

2014年9月11日木曜日

朝日新聞の吉田調書問題について

 こちら中国ということもありライブ映像は見ておりませんが、本日夜から朝日新聞が会見を行い、前々から問題視されていた福島原発の所長であった故・吉田氏の調書を巡る報道について誤報があったことを認め、編集担当の役員を解任するとともに現社長の木村伊量氏も今後自認する方針であることを示唆しました。
 
 
 ちょうどというか自分も吉田調書問題で記事を書こうと思っていた矢先なだけに、いいタイミングで辞めてくれたななどと内心では思っています。もっとも従軍慰安婦報道問題同様、今回も対応が遅れたことによって傷口を広げることとなっておりますが。
 
 問題の吉田調書報道について簡単に解説すると、朝日新聞は今年5月20日付の朝刊のスクープ記事として公開されてこなかった吉田氏の調書の内容を入手したとして、その調書の中には原発事故の最中、吉田氏の指示を無視して幹部を含む原発職員の9割が福島第一原発の現場から第二原発へ勝手に撤退したことが書かれてあったと報じました。結果論から言うとこれは真っ赤な誤報で、真相は外部への放射線量が高まってきたことから当面の現場作業がない人間は放射線量の少ない所へ避難するようにと指示を出したところ、多くの人間が自己判断で第二原発に移動しただけだったそうです。この第二原発への非難について吉田氏は、第二原発に行けとは指示しなかったものの当時の状況では第二が最も非難に適した場所だったと語ったことが調書に書かれていると別のメディアは揃って報じています。
 
 普通の誤報ならともかく、朝日の報じ方は現場作業員が責任を放棄して勝手に逃亡を図ったようなニュアンスで書かれてあり、そしてそのままのニュアンスで海外紙も引用記事を報じて世界各地へと拡散されていきました。しかし朝日の報道直後から当時あの現場にいた作業員や現場取材を行っていた他のメディアの記者などから事実とは異なるなどとの声が上がり、また産経新聞もどこかから件の吉田調書を手に入れて問題の個所を引用した上で朝日の誤報を指摘しておりました。
 こうして問題が広がりを見せる中、吉田氏本人の希望もあって当初は非公開とされていた吉田調書を政府は、「誤解を正すため」などの目的の下に公開することを発表。発表されたのが今日この日の9月11日であることから、誰の目にも報道と事実が異なっている点を指摘されることを恐れて朝日新聞は今日になって謝罪会見を行ったと見るべきでしょう。
 
 私がこの問題で気になった点をいくつか挙げると、まずなんで朝日新聞は今回のような誤報を流すこととなったのかという原因です。恐らく何らかの形で吉田調書を手に入れた、もしくは吉田調書を読んだ人間に取材をしたのだと思いますが、担当記者か証言者のどちらかが、「原発作業員は現場逃亡した」と、故意かどうかは別にして判断したことになります。今日の会見でどこでどう間違えたのかまでは恐らく言及されないでしょうから私の勝手な推論を書いていくと、産経の記者も手に入れていることから恐らく朝日の記者は吉田調書をどっかからか仕入れたのでしょう。そしてそれを読み込んだ上で読み違い、もしくは意図的な間違いを行ったのではないかと思え、このうちどちらかといえば前者の読み違えがあったと推測します。ただ読み違えといっても、記者としては現場から作業員が実は逃亡していたという方が記事として盛り上がるので、無意識的に期待するかのような読み方で以って読み間違えたのでは、なんて自分の経験から思います。
 もっとも読み間違えたからといっても許されるわけでもなく、また原稿をチェックする上司がちゃんと確認したのか、別の記者と資料を読み比べしなかったのかなどという点で、新聞社として質の低さが伺えます。なお共同通信だと、名前の読み仮名をチェックするために相手の名刺まで上司や同僚に確認されるくらい厳しかったです。
 
 次に気になったのは今回の会見のタイミングです。先程も述べたように今日になったのは政府が吉田調書を全面公開することとなったためで、逆を言えば政府が公開しなかったら朝日は誤報だと認めなかったのでは、という点が気になるわけです。今回の問題は記事掲載直後から批判があり、7月頃にはほぼ外堀も埋まってて明らかに誤報だとわかっていたというのに朝日は何の対応もしておらず、何が言いたいのかというと、こいつらは反省する気なんて始めからないのだと私は思います。
 さらに皮肉っぽいことを言うと、「機密保護法が通ると原発事故の原因究明が政府によって隠蔽される可能性がある」なんてよく毎日さんと朝日はしょっちゅう叫んでましたが、その政府が当初非公開だった原発事故の資料を公開したことによって追い詰められるなんてかっこ悪い以外の何物でもありません。むしろ自らの日を隠蔽しようとする朝日の体質の方が問題なような。
 
 最後、まだこの点について突っ込んでいる記事は見かけないのですが朝日は二代前の社長であった箱島信一氏が武富士から5000万円を受け取って辞任しており、間に秋山耿太郎氏を挟んでいるとはいえ、メディア企業の割には不祥事での辞任が多すぎやしないかと思えます。ちなみに秋山氏も自認までには行かなかったものの、就任直後に長男が大麻所持で捕まったのですぐ辞めるのではと懸念されましたが、案外長く続けてたんだね。
 
 それにしてもこのところの朝日の取り沙汰振りにはほとほと呆れてきます。自分も先日に書いておりますが従軍慰安婦問題を巡り池上氏の記事掲載を見送ったり、自社を批判する週刊誌の広告を拒否したりと、狙ってやんないとこんなに問題出てこないぞと言いたくなるくらいの量です。特に従軍慰安婦問題については誤報と認めている上にその影響は今回の吉田調書問題をはるかに超えるだけに、なんでこっちは謝罪しないのかという声は確実に大きくなるでしょう。朝日の社説みたいに最後まとめるなら、「政府を批判する前に自己をよく省みるべきではないだろうか」ってところです。

創業家列伝~小倉昌男(ヤマト運輸)

 久々のこの連載記事で今日取り上げる小倉昌男は正確にはヤマト運輸の創業者ではありませんが、今日知られる「クロネコヤマトの宅急便」を作り上げたのは間違いなくこの人物であるため、創業家としてみなして今日の記事を執筆することにします。
 
小倉昌男(Wikipedia)
 
 小倉昌男は1924年、大和運輸を経営する小倉康臣の息子として生まれます。子供の頃から成績はよかったみたいで高い倍率で知られた東京高等学校に進学後、東大にも入り戦後となった1947年に卒業した翌年には大和運輸に入社します。
 ここまではいかにも金持ちのエリート子息(といっても当時のヤマト運輸は中規模の運輸会社)といった人生を歩んでおりますが、就職から半年後に小倉昌男は一つの試練にぶち当たります。その試練とはほかでもない病で、当時は治療の難しかった肺結核でした。この時に小倉昌男は4年間もの入院生活を余儀なくされますが、大和運輸がGHQの運輸業務を担っていたことから当時は入手の難しかった結核治療薬を米軍から入手できたという幸運も重なって無事に快癒へと至ります。ただこの時の体験は本人にとっても大きかったようで、著作の中ではこれ以降の人生はおまけのようなものと思うようになったと記しています。
 
 こうして健康を取り戻した小倉正臣は1971年に父親の跡を継いで大和運輸の社長に就任します。しかし当時の大和運輸を取り巻く状況はお世辞にもいい状況とは言えないもので、関西と関東を結ぶ高速道路が開通したことによって他社ではこの区間のトラック輸送を強化していたにもかかわらず大和運輸はこの流れに乗り遅れ、荷物の取扱量なども落ち込んでいたようです。更にオイルショックとも重なり、輸送に必要な燃料費の高騰によって運輸業界全体でコストが高騰しておりました。
 このような状況で小倉昌男は何を考えたのかというと、当時郵政(現日本郵便)に独占されていた個人向け宅配事業に参入することを決意します。当時は今と違って運輸会社といったら法人向けのサービスが主で、個人向けの宅配サービスは郵政事郵便局のみが行っているサービスでした。しかも信書法という法律で、個人向けの郵便はプライバシー保護(という名を借りた検閲目的)で郵政しか行ってはならないこととなっており、この解釈が個人向け宅配サービスにも延長されて使われておりました。
 
 それでも小倉昌男が個人向け宅配事業に参入した理由としては、一つはこのままの事業を続けていてもジリ貧だと考えたことと、新たなサービスを始めることによって市民の生活が便利となり支持を受けられれば必ず業績に結びつくはずだという考えでもって決意したといいます。
 
 ここまでであればよくある熱血経営者の成功譚で終わるのですが、小倉昌男の真骨頂は事業立ち上げまでの綿密な計画作りにあります。個人向け宅配サービスを始めるに当たり小倉昌男は具体案を練るわけですが、こういってはその過程が非常に面白いです。この過程は彼の著書である「小倉昌男経営学」に詳しく描かれてありますが、サービスエリアを北は北海道から南は沖縄まで全国でやる、というか全国でやらないと意味がないとまず設定し、全国に配送するに当たって離島などを除き1日で配達するためにはどうすればいいかを綿密に計算します。
 個人宅配ともなると膨大な荷物を裁かなければならないため集荷センターが必要となり、それを全国に何か所作る必要があるのか。その週箇所を作るに当たり土地の取得費用はどの程度となるのか、そして配達するトラックとドライバーはどれくらいいるのかを事細かに計算して積み上げていったそうです。最終的に二年目まで赤字となるも三年目から採算が望めそうだという結論に至り、じゃあやろうかと本格的に事業立ち上げへ着手することとなります。
 
 事業立ち上げに当たり小倉昌男が仕掛けた取り組みにはほかにも面白いものがたくさんあります。代表的なのはサービス名を「クロネコヤマト」として例の黒猫親子のロゴを配達トラック全てに大きく描かせた点です。小倉昌男によるとこれによってトラックが街中を走るだけでああいうサービスがあるのかと市民は知ることが出来て、最高の宣伝になったと自画自賛しています。
 また荷物の集荷を請負う営業所として、全国にある酒屋事業者に委託した点も見逃せません。一軒一軒荷物を受け取りに行くのではなく各地域の酒屋にお願いして荷物を預かってもらい、その荷物を大和運輸が酒屋に受け取りに行くことでコストも手間も省けるという一石二鳥の仕組みに仕立てています。
 
 このような準備を経て1976年、個人宅配サービスの「宅急便」がまずは関東地方に限定して始め、その後サービスエリアを全国へと拡大しています。当時の配達費用ですが確か標準のサイズで500円に設定したとのことで、これはワンコインにこだわったと著作の中で述べられています。
 こうして開始された宅配事業ですが、スタート当初から比較的追い風は多かったそうです。小倉昌男によると、利用者が配達を依頼して1日で荷物が届いたことなどを近所などに伝えるという口コミがどんどん広がって利用者が増えていき、営業所として委託された各酒屋も、荷物を持ってくるついでに何かしら買って帰るお客が多かったことから大和運輸に対してどんどんと協力的になっていったそうです。そのため、三年目を待たずして二年目で早くも黒字を達成し、その後現在に至るまで事業は拡大を続けることとなりました。
 
 ただ大和運輸の成功を見て他の運輸業者でも個人宅配事業に参入する業者が当時相次いだそうです。しかし小倉昌男に言わせると、「彼らには私と違って綿密な方程式に基づいた計画がなかった」とのことで、実際にいくつかの会社を除き多くの会社で事業参入に失敗したそうです。実際に成功させた人間が言うもんだから、なかなか迫力あるもんです。
 
 このように個人宅配という新規の事業を起ち上げた点でも有数の経営手腕といってもいいのですが、小倉昌男の魅力はこれだけにとどまらず、相手を恐れず自己の正当性を強く主張し続けた点もあります。まず最初に戦った相手はほかでもないあの郵政省で、先ほど説明した信書法を盾に個人宅配事業から引くように言われても一歩も引かず、トップである自身が先頭に立って市民の生活の利便性を訴えるなどして押し切っています。また創業以来から取引のある百貨店の三越が「何故だ」で有名な岡田茂が社長だった頃、無茶なコストダウン要求や映画のチケットの強制購入を繰り返してきたことに耐え兼ね、取引を停止するという決断も下しています(岡田の追放後には再開している)。
 
 確か小倉昌男が死去した前年の2004年だったと思いますが、当時の小泉改革の郵政事業改革で郵便事業を民間にも開放するという案について小倉昌男が、「そんな細々とした改革はせず、信書法を廃止すればそれですべて済む」という文芸春秋のインタビュー記事を読んで、初めてこんな人がいるんだと私は知りました。それから彼の著作も読み始めたのですが、さきほどのインタビュー記事もさることながら著作を読んでて「この人って言うべきことは必ず言う直言居士だなぁ」なんていう印象をそっちょに覚えました。もっともその言うべきことというのは小倉昌男の信念に基づいており、人生全体を通しても首尾一貫とした概念で語っているように見えます。
 
 改めて述べますが、日本の個人宅配事業はこの小倉昌男とヤマト運輸(1982年に改称)によって切り開かれたと言っても過言ではありません。もしあの時に切り開かれなければ、今の中国みたいに国営の運輸会社が独占で質の悪いサービスだけを提供していたかもと思うと、その功績は計り知れないと考えています。
 私は以前の記事で日清食品の創業者である安藤百福を取り上げてやたら賞賛しましたが、仮に昭和時代の名経営者を挙げるとすれば私の中では一に安藤百福、二に今回の小倉昌男を挙げます(三は土光敏夫かなぁ)。普通、昭和の名経営者ときたら松下幸之助とか本田総一郎、などが挙がってくるでしょうが、自分の感覚はなんかほかの人とは違って打たれ強い人間を贔屓にする傾向があるようです。
 
  参考文献
・小倉昌男経営学 1999年 日経BP社(といっても読んだのかなり前だが)

2014年9月10日水曜日

アクセス不良の原因判明(+_+)

 一昨日の記事で何故か自宅のネット回線でGoogle関連サイトやサービスのアクセスが非常に悪くなったと書きましたが、昨日になってようやく原因が判明しました。その原因というのも、なんとDrop Box(ドロップボックス)でした。
 
 ドロップボックスとは知ってる人には説明不要ですが、無料で使えるクラウドサービスでネット上にファイルを保存できるサービスです。わかりやすく言えばネット上にフォルダを設けるようなもので、自宅外でデータを共有する際やバックアップデータを保存する目的で使用する人が多いのですが、私はそれほど利用しているわけではないもののサイトのバックアップデータをパソコン内HD、外付けHD、そしてこのドロップボックス内の三つに保管しております。
 
 今回のアクセス不良が何で起ったのかというと、先週土曜に三カ月ぶりにバックアップデータをエクスポートして念のためドロップボックスにも置いておこうとデータのアップロードを指示したのですが、この操作はパソコン内でデータをドロップボックスの仮想フォルダに置いとけば勝手にやってくれるので実際にアップされたかどうかは確認しませんでした。それでどうなったのかというと、結論から言えばデータのアップロードは叶いませんでした。
 自分も今回の一件で初めて知ったのですが、Face book、Youtube同様にドロップボックスも中国国内ではアクセス禁止対象だったそうです。そのため自分のパソコンは起動中、繋げることのできないドロップボックスに延々とアクセスを試みており、昨夜になって画面右下にあるアイコンの非通知欄を見たらドロップボックスの「接続中」と表示されてたことからようやく気が付きました。
 
 ドロップボックスへのアクセス試行が何でほかのGoogle関連のアクセスにだけ影響を及ぼした(ほかのサイトはノープロブレム)のか、理由はわかりませんがドロップボックスのアップロードを中止してプログラム時代を終了させたところまた元に戻りました。ほかの人間にもよく伝えておりますが、中国は常識じゃ考えられない事態が平気でよく起こります
 ただ真面目な話、こうした劣悪なIT環境はいつか中国にとっても大きなしっぺ返しを与えかねないのではないかと密かに思います。近年は色々抜け道も増えてきて事実上検閲があんまり機能しなくもなってきており、もはやここまでネットを規制するのは海外投資を引き込む上でリスクとしてみられかねないと思うだけに、もっと開放してくれ、自由をよこせと叫びたくなる次第です。
 最後に蛇足ですが、こうしたネットの自由のない中で生活していると、日本の記者が自由を侵された経験がないにもかかわらず自由を守ろうとか抜かしているのを見ると非常に腹が立ちます。

2014年9月8日月曜日

滅亡後の殷の人々の行い

 今日は中国では休日だったので朝からパズドラばかりやってましたが、降臨系ダンジョンの「ヘラ・イース降臨」が出ていたので一つ攻略法を頼りにチャレンジしてみました。攻略法に従い防御・回復に特化した陣容で挑んだため屁のような攻撃力でちまちまと実に一時間前後も戦って無事に超級のダンジョンをクリアできたのですが、ボスのヘラ・イースというモンスターの獲得確率は40%であり、見事に取り逃しました。しかも二回も……。
 そんなこんだでテンションだだ落ちの状態ながら今日も元気に歴史記事を書きますが、「殷」という中国王朝についてちょっと書いていきます。
 
 殷という王朝については少年ジャンプで「封神演義」という藤崎竜氏の人気漫画に登場したことから日本でも比較的知名度の高い王朝だと思います。この王朝は遺跡などが確認できる中国最古の王朝で、時代としては紀元前17~10世紀に存在していました。ただ中国最古の王朝とはいっても領土範囲は現代の中国からするとごくわずかで、大体陝西省、河北省、河南省の範囲くらいにしか領土はなく、中国を代表するというよりは中国の一地方にあって後の漢民族に連なる王朝と考える方が適当かもしれません。
 
 この王朝の最後を飾ったのは紂王という現代においても暴君の代名詞とされる王で、「酒池肉林」や寵愛した「妲己」という妃などといった言葉と共に悪し様に言われ続けております。最も紂王の悪行については比較的近い時代からも疑問視はされており、論語においても「世の中の悪いことすべてを紂王のせいにされたのだろう」とフォローする言葉が残されています。
 こうした「紂王擁護派」には作家の陳舜臣氏も属しており、殷を葬り政権を乗っ取った周王朝のプロパガンダによる影響が強いと指摘しております。陳氏によると、周が挙兵した際の大義名分の中には「紂王はみだりに人を殺し」という文言が入っているのですが、これについては民族間の文化の違いが大きいと分析しております。
 
 陳氏の著作「中国の歴史(1巻)」にはこう書かれています。殷王朝は狩猟民族による王朝で、狩猟の成功を祈る祭事が盛んに行われていたそうです。現代においても祭器に使われたであろう殷時代の青銅器は数多く残っており、また占いに使用された骨(=甲骨文)も多数出土しております。こうした祭事の際によく使用されたのは生贄なのですが、この生贄に殷は異民族の人間を数多く使っていたのではないかと陳氏は指摘しております。同じ人間とは言え現代みたいな人権思想は全くなく、また言葉も違えば風体も異なる異民族は当時の殷の人々からすれば現代における家畜のような存在で、恐らくは同じ人間を殺しているという感覚がなかったのではと書かれています。
 こうした殷の人々に対して周の人々は農耕民族で、彼らからすれば労働力となる人間はたとえ異民族であっても貴重で、彼らも恐らくは異民族を家畜の如く奴隷として使っていたでしょうが、殷のように祭事のために殺すのはもったいないと考えていたのではないでしょうか。それゆえ「みだりに人を殺す」という大義名分が出来上がったわけですが、殷の人間からすれば真面目に祈っているというのに何をか言わん、というように受けたのではとまとめています。
 
 私自身もこの説をおおむね受け入れており、殷が悪逆を繰り返したというより民族間の文化の違い、民族間の単純な対立が殷に対する周の革命劇だったのではないかと見ています。この説の根拠として陳氏は、「殷の時代のものと思われる祭器や甲骨はたくさん出ているが、周の時代になるとこれが全く出てこなくなる」と書いており、殷は祭事に関して非常にまじめな王朝だったと記しています。
 
 ただそんな真面目王朝の殷は周に負けてしまって落草の身分へと落ちるわけなのですが、殷の貴族や人々は全員殺されたわけではなく、大幅に領土を削られたとはいえ首都朝歌のあった場所を中心に居住し続けることを許されました。ただ領土は限定され、しかも山間部の土地の貧しい所に追いやられたこともあって農業で生活していくのは難しく、仕方なく殷の人々は各地の物産を売り買いする交易を行うことによって生活基盤を作っていきました。こうした交易活動は「殷」の別名である「商」を使い、「『商』の人々の行い」と言われるようになり、現代においても使われる「商い」、「商人」という言葉はここから出来たと言われています。もっとも、故・白川静はこの説を否定してたそうですが。
 
  おまけ
 藤崎竜氏の漫画版「封神演義」はネットでレビューなどを見ていると非常に高い評価が並んでおりますが、私個人としてはストーリーに風呂敷の広げすぎが見られるし、明らかに途中でコンセプトをひっくり返しているのであまり評価しておりません。特に、悪役としてとてもキャラが立っていた妲己をラスボスに据えず、最後の最後で「実はいい人」みたいに扱ってしまったのは非常にもったいなかったのではと考えています。
 
  おまけ2
 日本人なんか比較的スイーツだから討幕された後の北条家や足利家、徳川家の一族に対して苛烈なことをしてないけど、中国では今回取り上げた殷に限らず滅亡後の王朝の皇族や貴族たちの末路はどの時代も悲惨です。特に12世紀に金に敗けた北宋ではほぼ全員が北方地域に連呼すあれ、男はみんな殺されるか奴隷となり、女はほぼ全員娼婦にされて当時の人々からも深く同情されています。こうした中国の歴史を日常的に触れているせいか、女子供を含む一族郎党全ての処刑がそれほど残酷だとは思えなくなってきたなぁ。

Google関連サービスのアクセス悪化

 今日は中国では中秋節といって祝日のため家でボーっとしていたのですが、なんか一昨日あたりからGoogle関連のサイトやサービスの接続が悪く面倒被っています。具体的に述べると、自分のサイト「企業居点」でGoogleのフォントサービスがJavaに組み込まれているのですが、このフォントサービスの接続にやたら時間がかかるため更新作業とか始めると腫れぼったく遅いです。またメインで使用しているプロキシサーバーではGoogle関連のサイト、検索やYoutube、このブログでも使っているBroggerなどは完全にアクセスできなくなり、泣く泣くこのところほとんど使っていなかったサブのプロキシを使ったりして糊口をしのいでおります。
 
 原因はまだはっきりせず、もしかしたら自宅に引いてる回線に問題があるのかもしれませんし、中国政府がまた何かしら制限をかけているのかもしれません。しばらくしたら回復するかも、というか回復しないと困るのですが、ひとまず日記として書き残しておこうと思った次第です。

2014年9月7日日曜日

プロ野球、記憶に残る優勝チーム

 上の写真はこの前ネットで拾ってきた写真ですが、遠距離撮影の静止画ながら妙に躍動感がある画像で気に入っています。それにしてもなにしやがるんだこのツバメは……。
 写真に合わせて、というわけでもないですが最近スポーツネタを書いてないので、今日は前から準備していたプロ野球関連のネタについて書きます。そのネタというのも、私個人の中で記憶に残っている優勝チームです。
 
 プロ野球は言うまでもなく毎年ペナントレースが行われセパ両リーグで二つの優勝チームが出ます。毎年出てくる優勝チームですが何年かに一度は際立ったというか記憶に深く残るチームがあり、今日は私の目線で「あのチームはほんと強かった」と思えるチームをいくつかピックアップしてみようと思います。なお年齢の関係から、90年代以降のピックアップとなってしまう事にはご承知を。
 
 
1、1998年・横浜ベイスターズ(マシンガン打線
 今でこそAクラスからはほど遠いチーム事情が続くベイスターズですが、90年代後半は間違いなく競合の一角でほぼ毎年優勝争いの候補として名前が挙がるほどの実力を擁しておりました。その高い実力の原動力たるや括弧書きに書いた「マシンガン打線」と呼ばれた打撃陣で、ホームラン数こそ少なかったもののバッター全員が異常なまでにヒットを量産していただけでなく、一人が塁が出るや後続も次々と続くなど数得点を一度にもぎ取る非常に稀有な打線でありました。
 その中でも特に目立っていたのは4番を担ったロバート・ローズ選手です。優勝したシーズンの打率が「.325」という高い数字だったこと以上に、ランナーがいる状態であればほぼ確実に長打を放ってくるという恐ろしいまでの勝負強さが際立っており、満塁時であれば五割くらいの確率でヒットを打っていたようにすら思えます。このほかにもその後に2000本安打も決めた1番の石井琢朗選手、打って、走って、守れての三拍子が見事揃っていた3番の鈴木尚典選手など、素晴らしくタレントの揃っていた打線でした。特に鈴木選手は長打も単打も盗塁も自由自在だったので私がゲームで使っていた際は本当にありがたい選手でした。
 このように打線こそチームの代名詞となっておりますがその裏で投手陣も異常なまでに充実しており、現在も横浜で活躍されている三浦選手、楽天にいる斎藤選手、野村選手とエース級の先発投手が揃っていただけでなく、「大魔神」のニックネームで有名なストッパー、佐々木選手が君臨しておりました。後年、中日の岩瀬選手や元阪神の藤川選手、巨人の山口選手など球界を代表するようなストッパーが各チームに現れておりますが、ことストッパーという点においてはこの時の佐々木選手以上の圧倒的な威圧感、迫力、そして安心感を持ったストッパーはいないんじゃないかと思います。それほどまでにこの時の佐々木選手の投球は図抜けており、今も当時のビデオを見る度に「なんやねんこのフォーク……」とため息が出てきます。
 
2、2003年・ダイエーホークス(ダイハード打線
 2000年代前半にパリーグの各球場で使われていたボールは現在と比べて明らかに「飛ぶ球」で各球団ともに大幅な打高投低な傾向が見られましたが(近鉄の「いてまえ打線」も当てはまる)、ことホークスの打線となると記録上でも異常な数字が並んできます。
 優勝こそ逃した2001年は井口選手、小久保選手、松中選手、城島選手の四人が30本以上の本塁打を記録しております。その二年後の2003年、この四人のうち小久保選手は怪我で試合には出られませんでしたが、残りの三人にペドロ・バルデス選手の四人が四人とも100打点以上を記録した上、チーム打率も「.297」という途方もない記録を打ち立てております。注目すべきは打率や打点の高さに隠れて井口選手、村松選手、川崎選手の三人がシーズン盗塁ランキングの上位三位を独占するという機動力も備わっていたという点で、本当に資格のないチームだったように未だに強く記憶に残っています。
 この時クリーンナップを担った各選手はその後、松中選手を除いて他のチームへ移籍しておりますが、どのチームでも4番を含めた主軸を担っており、誇張ではなく「4番の実力を持った選手だけでチームを作った」ようなチームだった気がします。また先のベイスターズ同様に2003年優勝時は投手陣も充実というかエースがずらりと並んでおり、和田選手、杉内選手、新垣選手の三人のルーキーが揃って大活躍して優勝に大きく貢献していました。新垣選手だけはその後のシーズンでは持ち崩しておりますが、何とか今後復活を期待したいところです。
 
3、2009年・WBC日本代表
 仮に歴代で最強と呼べる日本のチームを挙げるとしたら、私はこの2009年のWBC日本代表チームを挙げることにします。各チームから名選手だけを引っ張ってきているのだから多少ずるい気はするものの、チームとしての完成度で言ったらこのチームが一番素晴らしかったと今では思えます。
 参加した選手はお馴染みのイチロー選手を筆頭に松坂選手、ダルビッシュ選手、岩隈選手、田中(マー君さん)選手、青木選手、川崎選手などその後にメジャーリーグでも大活躍する超一流選手たちはもとより、内川選手や小松選手などその後も在籍するチームの柱石となる選手も多く、これほどはずれのない人選はそうないんじゃないかと思える陣容です。
 実際の試合では予選リーグで大活躍した村田選手が怪我で本戦に出られなかったり、ストッパーとして期待された藤川選手が不調でダルビッシュ選手が代わりにストッパーを務めるなど多少のトラブルはあったものの、実際の試合では各選手が文字通り奮戦し、見事優勝にまでこぎつけました。特にイチロー選手に至っては予選から本戦までずっと不調であったものの、最後の大一番である決勝戦の韓国戦では決勝打を放つなど事実上、試合を決めるキーパーソンとなっており、あれだけの不調にもかかわらず使い続けた原監督の采配には頭が下がります。
 なおこの時のWBC大会では投手MVPは松坂選手に挙がりましたが、一番私の印象に残ったのはほかでもなく岩隈投手でした。数試合の登板を見ましたが大舞台でも一切動じず安定した投球を見せ、やはりその実力は抜きんで板という印象を覚えます。松坂選手自身も「真のMVPは岩隈選手」と話していたらしく、その後のメジャーでの活躍を見ても現時点でのナンバーワン日本人投手はやっぱこの人ではと思えてきます。
 最後に蛇足ですが、「マー君さん」こと田中選手はこの時にWBC代表として偉大な先輩たちと共に世界のチームと戦ったというのはその後のキャリアにおいて素晴らしい経験になったのではないかと素人ながら思ってます。また優勝時、藤川選手に「お前、まさひろっていうよりまさおって顔だよな」って言われ、「まさお」と連呼されながらみんなから蹴られたというのも、今思うといい経験だったんじゃないかなとか思ったりします。

2014年9月6日土曜日

中国の天気予報に対する不満

 今日の中国江蘇省は一日中晴れてて乾いた空気でもあり、さわやかな初秋の一日でありました。にもかかわらず先程MSNの天気予報を見たら今日の天気は「雷雨」と書かれてあり、なんやねんと思いつつまたもかと思ったわけです。
 
 あくまで私の肌感覚ですが、中国の天気予報は日本の気象庁と比べて的中率は悪く、全く当たらないというわけではないですが信頼がおけるデータではなくあくまで「参考値」としか見れないところがあります。もっとも中国は日本と比べて山地が少なく、平地ばっかなためにどこで雨雲が発生して降雨となるのか予想が難しいであろうということは多少同情します。
 しかしそれにしたってもうちょっと的中率を上げられないのかと思い、だったら始めから信用せずに自分で天気図を見てこれから予想を立てようというところに行きついたのですが、この時点でちょっと妙な事実に気が付きました。その事実というのも、中国には天気図がないということです。
 
 もしかしたら存在はしているのかもしれませんが、私が確認している限りだと天気図はネット上だとどこも公開しておりません。中国の気象局のホームページに行っても妙なレーダー図とか衛星写真こそ確認できるものの、日本みたいに前線記号や等圧線の書かれた天気図はついぞ確認できませんでした。中国一の検索ツールである百度でも「天気図」や「気圧配置」などというワードで検索してみましたが、どちらも日本のサイトしか検索に引っかからず中国地域のこれらの図はどうやっても見つかりません。
 
 もしかしたらですが、もしかしたら中国には天気図という物がそもそも存在しない、予報士も天気図を見ないでレーダー写真だけで予報を立てているのでは……という疑問がもたげてきました。っていうか天気図作れないんだったらまともに登山すらも出来ないはずなんだけどなぁ。
 恐らく日本人の大半は天気図なんて見ないで生活していると思いますが、なんだかんだ言いつつ予報を立てる際に天気図を見ると参考になるし、気圧配置とかでどれくらい風が吹くのかもわかったりできます。中学校の頃の教師があんまり教えるのが上手くなかったので当時は興味ありませんでしたが、高校時代に地学を学んだ際に再度勉強し直して、現在は予報士が晴れとか雨とかいうのよりもこっちの天気図で予想を立てることの方が多いです。
 
 にもかかわらず、中国ではその天気図を気象局が作成して公開してくれてはいません。もしかしたらプロの予報士すらも天気図を作れもしないしわかりもしていないのであれば、ちょっと自然科学のレベルを真面目に疑います。悪いことは言わないからちゃんと日本みたいにウェブサイトやテレビニュース中にちゃんと公開してくれと心の底から叫びたい次第であります。

朝日新聞の池上氏コラム問題について

 すでに各所で報じられているので説明する必要がないでしょうが、ジャーナリストの池上彰氏が朝日新聞紙上で連載していたコラムにて朝日新聞の従軍慰安婦記事が誤った事実を根拠に書かれていたと朝日自身が認めたことについて、誤報を流したことを正式に謝罪すべきではないかと書いたところ修正を求められ、掲載が見送られたという事実が池上氏自身の口から明かされました。記事掲載の見送りについては朝日新聞も認め、またその後に激しい批判にさらされたことから一転して掲載見送りは誤った判断だったとして掲載すると発表し直しました。
 今回の朝日新聞の対応について私個人の意見を述べると、やっぱこの会社って責任とかが緩いなぁなんて思います。共同通信なら担当編集長が間違いなく解任くらうのに。

 今回の掲載見送り判断のどこが問題なのかというと、単純に朝日が日頃から批判している「検閲」そのものを自身でやってのけたという点に尽きるでしょう。池上氏のコラムの内容は朝日にとって耳に痛い批判そのもので、そうした批判文などを意図的に載せようとしないのは戦前の日本と何も変わらず、こんなことしでかしておきながらどうにかなると判断した人間の頭はきっときれいなお花畑が広がっているかと思います。
 折しも、週刊文春など週刊誌数誌がまさに同じ従軍慰安婦誤報関連の記事を載せた号の広告を朝日新聞に載せようとしたところ、朝日は広告の掲載を認めないと拒否し、最終的には該当記事の見出しを黒塗りにする、これまた戦前、というよりは戦後ですが、検閲そのものという荒業をやって広告掲載を認めています。あまりこの週刊誌の広告問題と絡めて報じるメディアはまだ見ないですが、全く同じベクトルの問題だというのに池上氏には謝って、週刊誌には謝らないというのは報道機関、というより普通の人間の神経からしてどうかといったところでしょう。

 もっともこの問題はほかでも言われている通りに、当事者が池上氏だったからこそ朝日は対応を変えたと見て間違いないでしょう。仮にほかの人、それほど有名でなかったり、連載を中断するというような骨のある人間じゃなかったら黙殺して、そのまま知らぬ存ぜぬで無視していたと思います。今回の逆転劇も世間の批判が予想以上に大きかったからで、こういってはなんですが「都合の悪い内容は無視して載せない」という点については何も反省していないだろうし、近いうちにまた同じことをやらかすと私は予想します。古い話ですが、まだフジサンケイグループはホリエモンのニッポン放送買収事件の際は身内の出来事ながら逐一自分とこのメディアでも報じていた分、しっかりやっていたなと改めて感じます。

 問題の発端である従軍慰安婦誤報問題についてですが、事実概要についてはちょっとあれだけどこばやしよしのり氏の漫画「ゴーマニズム宣言」が比較的わかりやすく解説されていると思います。ちょこっとだけ説明すると、朝日新聞や韓国政府が従軍慰安婦が存在していた根拠とする本があるのですが、その本は全くのでたらめで、書中にある部隊名や命令書の番号などどれもこれもいい加減で作者本人も後で嘘書いたと認めているくらいです。それが今回の誤報問題の根源なのですが、最初に従軍慰安婦問題が持ち上がった頃と比べて現在はネットでの伝播力というものは高まっており、今とは時代が明らかに異なっております。

 何が言いたいのかというと、恐らくこの問題はまだまだ続くだろうし、朝日も同じような検閲を続けるでしょうし、変に長引くことによって部数もどんどん減っていくのではと私には思えます。ただでさえ新聞業界は不況だというのに、今後は明確な意思の下で購読を拒否する層が出てくるのではないかと思えるのに対し、朝日新聞側は未だにそれなりの緊張感というか危機感を呆れるくらい持っていないなという風に見えます。

 なお先ほど誉めたフジサンケイグループですが、フジテレビの韓流偏向について批判デモが行われた際は今回の朝日新聞同様に見事黙殺にかかってきました。結果はというとその後フジテレビはじりじりと視聴率を落としていき、韓流番組がすっかり減少した現在においてもかつての栄光どこ吹く風というくらいに丁重な視聴率順位に甘んじています。デモ当時にあのデモは韓国に対する排外主義的なデモだと批判する声もありましたが、今となってみると偽らざる単純な視聴者の声だったものではないかと思え、フジテレビは明らかに対応を誤ったなと考えてます。それにしても、フジテレビは韓流ゴリ押しだったのに同じグループの産経新聞は韓国大統領に因縁つけられるって面白い関係だなぁ。

2014年9月4日木曜日

後輩に行った講義

 先日、私の後輩が自分が「上海人とほかの中国人」の記事で書いたような内容を本社への報告として書きたいから、この記事にちょっと出てくる管仲の「衣食足りて礼節を知る」という格言のエピソードについて講義してほしいと依頼をしてきました。文書で送るのも面倒だったのでそのまま電話で簡単な解説を行った上で、
 
「ちなみに論語で孔子は、『金持ちで優しくなるのは簡単だが、貧しいのに優しくなるのは難しい』という言葉を残している。この言葉も『衣食足りて礼節を知る』につながる内容だと思う」
 
 と付け加えました。更にその上で、
 
「ちなみに『艦隊これくしょん』というゲームで戦艦大和は大鑑巨砲主義の申し子ということで巨乳に描かれている。作った奴はよくわかっている」
 
 と付け加えました。会社の報告書にこれも書いたらと後輩に言ったら、「上司にマジギレされる」といって拒否されました。後輩の会社では「艦隊これくしょん」は流行ってないそうです。
 
 なお実は私もこの「艦隊これくしょん」は遊んだことがありません。しかしネットで見ていると非常に流行っているようだし関連グッズも好調なようですからちょっと無視し辛いかなと思いつつ、ウェブブラウザで遊ぶゲームという性格から中国ではおいそれと触れられないというのが痛い所です。仮に遊ぶ機会があるなら私が一番好きな空母の「瑞鶴」を延々と使うことになると思え、もうこの際だから「永遠の瑞鶴」みたいな小説でも書いてみようかななどと密かに計画中です。マジでやったら百田尚樹氏に怒られるだろうな。
 ただこの「艦隊これくしょん」ですが、キャラクターとなる女の子のイラストを見ていて最近気が付いたのですが、かなりアレンジされてはいるものの基本的に和装をしているのが地味に大きな特徴ではないかと思えてきました。改めて眺めていると和服にこれほどバリエーションがあるのかと気づかされると共に、見ていて文化的なインスピレーションも受けるし見栄えも悪くないんだから、多少崩すというかアレンジを加えてもいいのでもっと日本人は和服を着てもいいんじゃないか、かえってそのほうが多様性を広げられるんじゃないかとこの頃よく思います。
 
 もっとも和装といってもこれは女の子が着るから価値があるのであって、男が衣冠束帯や鎧武者姿で街中にでも繰り出そうものなら周辺の要注意人物としてピックアップされるのがオチでしょう。以前に外語大出身者から聞いた話ですが、日本の着物といい韓国のチマチョゴリといい、伝統的衣装というのはどの国でも女性がそれを守る、保持する立場に置かれる傾向があるそうです。中国の旗包ことチャイナドレスにも言えることかな。
 なんで女性ばかりで男は伝統衣装着ちゃだめなのか、また伝統衣装を男も守るべきだという声が出てこないのは改めて考えると不思議です。成人式でも女の子は着物を着るのが普通ですが男が羽織袴だと暴れる新成人みたいに見られるため、やっぱスーツ姿に納められてます。もっともそんなこと言いながら自分は成人式の日、京都から実家帰るんだからといって京都の土産物屋で新撰組の羽織買った上にレンタルで袴借りて、ちゃんと「誠」の鉢巻締めて会場に繰り出しております。ほかの奴らは知らんが自分は伝統を守ったぞ等と周りに言ってましたが、「コスプレ会場と間違っただけやろ」とツッコまれてしまいました。

2014年9月2日火曜日

やる気のある無能

 号泣県議ですっかり全国から注目されるようになった兵庫県議会ですが、また新たなタレントが今日ニュースに出てきました。

 詳細はもうここでは説明しないのでリンク先を見てもらいたいのですが、つくづくなんでこんなに問題のある人間が曲がりなりにも議員になって公費から給与もらってるんだよとため息しか出てきません。もっとも明るみに出ているのは本当にごく一部で、政務調査費を始め全国津々浦々の自治体では呆れるような現状が続いているとよく耳にします。以前にも一度記事を書いていますが、国会議員の質以前に地方議会の方が今の日本にとって問題で、地方議会の腐敗が著しいからまともな政治家が育たないんだというのが私の持論です。

 そのように問題の数多い地方議員ですが、例の号泣議員といいこのスピード違反違反議員といい、一体なんでこんな人間性からして問題のある人物が議員になるんだという疑問が前からあります。一番大きな原因は地方議会選挙は日々の報道では大きく取り扱われることがないため有権者も誰がどのような人物で有能であるかどうか全く分からないまま投票が行われてしまい、結局組織票を持つ人間が強くなる傾向があることに間違いないでしょう。第二の理由としては地方議会は東京都議会など一部を除くと立候補者が少なく、私が以前ざらっと見た感じだと定員8人に対して立候補者は9人だけというような、ほとんどの選挙で当選率が80%以上という、どっちかと言えば「誰を落とすか」のような除名選挙になっていることも大きいでしょう。

 そうした選挙上の問題と並んでこのところ思うこととして、やっぱこういう地方議会って「やる気のある無能」ほど出たがるというのもあるかもしれないと思えてきました。この「やる気のある無能」というのは元外交官である佐藤優氏の著作に出てくる言葉で、上司の東郷和彦氏との会話で、「外務省には3タイプの人間がいる。やる気のある優秀な人間とやる気のない無能、そしてやる気のある無能だが、最も害が大きいのはやる気のある無能だ」と語られ、そっからは如何に外務省職員が問題あるかとこき下ろしタイムが始まります。

 佐藤氏の話は外務省内だけの世界ですが、実際には私はこの「やる気のある無能」は社会のあちこちに存在して文字通り毒をばらまいていると密かに見ています。やる気のある無能の何が問題なのかというと先程の佐藤氏の著作では、「やる気のない無能は仕事はできないが前に出ないから毒はない。だがやる気のある無能は仕事が出来ないのに妙な功名心を働かせて前に出てきて、問題をこじらせるだけこじらせて現場から逃げ出そうとする」と書かれてあり、私も首を深くうなずかされる意見に思えます。

 言わずもがなですが例の号泣議員などは典型的な「やる気のある無能」で、とりあえず情熱あるのはわかるが自分じゃ何もできないばかりか最低限のモラルすらもっていないどうしようもない人間でした。そんな人間がどうして議員になれたのかというとやっぱり「やる気」だけは十分にあって、何度落選してもあきらめずに選挙に出続けたことに尽きます。仮に野々村元議員と同じくらいモラルの低い人間がいたとしても、やる気が無く選挙に出たりしなければここまで余計なことはしでかさなかったと言えるでしょう。

 そして野々村議員に限るわけでなく、議員というか政治家というのはある意味自己主張の塊のような人間しかなれないということもあり、この手の「やる気のある無能」は未だ数多く存在していると思うし、中にはもっと問題のある人間もいるかもしれません。そうした人間を排除するためにはどうすればいいかですが、やはり選挙で引きずり落とす、引きずり落とすためには何をすればいいか、情報公開を進めるしかないというのが自分の考えです。もちろんやろうったって簡単にはできないもんですが。

 ちょっと政治家から離れますが以前に女性の同僚が、どうして日本の企業で女性は出世が阻まれるのかと問われた際、妙な答え方をしたことがあります。その答えとは以下のような回答です。


「自分はまだ直接会ったりしたことないですが、なんか親父や友人の話を聞いていると管理職になる女性というのはほとんどが際物というか性格的にも能力的にも歪な人が多いそうです。なんで歪なのに管理職になるのかというと変に上昇志向があって他人を踏み台にしたりすることもいとわず出世を求めるからなんだかんだ言いつつ上がってきちゃうと聞きます。
 もちろん男にだってこういう歪なまま上がってくるのはいるでしょうが、女性の場合は日本社会の偏見もあってただでさえ出世し辛い環境にあるので特に歪な女性に限って管理職になる、でもってそんな女性管理職を見てほかの男はやっぱり女性に管理職は向かないなどと思って余計に偏見が強まり、ループになってるのかもしれません。このループから抜け出すには、やる気はそこまでなくてもまともで優秀な女性をちゃんと上司が引き上げることに尽きるのですが、まぁそれはいつになることやら」


 日本人、というよりは日本社会はなんでもかんでも「やる気は大事」、「ガッツは常に見せないと」なんてほざく人間が多いですが、私は上記のような理由からやる気というのはあればあるほどいいってもんじゃないと考えてますし、実際にそう公言しています。真に必要なのは能力とそれに見合った地位と仕事であって、やる気があるからといって無能に大事を任せるもんだから戦争でも負けたんだ(by陸軍)と普通に話すので、多分周囲の人間からは変に冷めてていけ好かない奴だと思われてたかもしれません。まぁこの前久々に会った後輩からは、「いや、花園さんはとてもクールではなく、めちゃ熱くて攻撃的過ぎるじゃないですか」とツッコまれ、これはこれで問題あるようなとちょっと反省した限りです。

中国の人民解放軍とは

 後輩からリクエストを受けたので、前にもちょこちょこ書いてると思うけど中国の人民解放軍について素人ながら知ってることを書いてきます。
 
 人民解放軍とは言うまでもなく中国における唯一の軍隊ではあるのですが、厳密に言えば中国という国家が保有する軍ではなく、あくまで中国共産党が私的に保有する軍隊です。この辺日本人の感覚からしたらわかり辛いと思うのですが、日本は国家政府が最高の権力組織で自民党とか民主党など政党はその政府機能を代弁する下部組織であるのに対し、中国は共産党の方が組織権力として政府より上で、たとえ政府がAだといっても共産党がBだといったらBが正しくなる形態をとっております。なもんだから人民解放軍も中国の国家としての法律には縛られず共産党としての綱紀によって縛られる軍隊ということになります。もっとも近年は中国国内でも解釈の見直しが進んできており、事実上「国家としての軍」への看板の掛け直しが進んでいますが。
 
 それで肝心要の軍事力、というかどれだけ人民解放軍は強いのかですが、あくまでやや中国滞在歴がある素人としての意見を述べると、他国の軍隊と比べても非常にレベルが低いというのが現状だと思います。総兵力こそ約220万人で兵士の数だけ見れば間違いなく世界トップでしょうが兵士の練度は中国国内においてもそれほど高くないとの見方がされており、また兵器に関しても旧西側諸国から武器輸出に関してはしっかりマークされているためあまりおぼつかず、自主開発を余儀なくされているため貧弱さが否めません。特に致命的なのは艦船で、最近でこそ遼寧級と呼ばれる空母(ロシアのお下がり)を初めて保有するなど拡充を進めていますが、それでも兵装は古いとしか言えず、また空母に対する離着艦も訓練時間が他国のパイロットと比べて格段に劣ると見られています。
 
 かなり身も蓋もなく批判していますがこれらは以前に読んだ評論の受け売りなのですが、その評論の末尾においては、「人民解放軍こそ自衛隊だ(対外戦闘能力がない)」と締めくくられており、これには私もその通りだと感じます。実際、自衛隊みたいに災害救助などの活動や訓練はまだそれほど多くないし、あと皮肉なことだけど外国相手にするより国内の自国民の暴動を相手にしている数の方が履歴としても多いような気がする。
 
 ただ人民解放軍に優れた点が全くないわけでもなく、長所と呼べる点として真っ先に挙がるのはミサイル発射能力です。なんだかんだ言いながらロケットでの有人宇宙飛行も実現しているだけあってミサイル技術は米国やロシアなどに次ぐ水準にはあると思えますし、また曲がりなりにも核兵器も持っているのでこの点は脅威と見ても間違いありません。もっとも大陸間弾道ミサイル(ICBM)に核弾頭を載せられるかという点についてはまだ怪しく、米軍と一線構えるには角飛車落ちといったところでしょう。
 もう一つ私が地味に注目しているのはサイバー部隊です。中国は自国内でも政府が徹底的なネット監視を行っていますが、人民解放軍内にもハッキングやクラッキングを専門とするサイバー部隊が存在するとよく聞きます。以前にも書きますが次代の戦争においては開戦当初にまずどれだけ相手の通信網を破壊、妨害できるかが重要になると見られ、それこそスパイ衛星の破壊を含めて情報インフラを物理的にもソフト的にどれだけ破壊するかが大事です。そう考えると専門のサイバー部隊を軍隊が保有するというのは理に適っており、この点は日本の自衛隊も参考にした方がいいような気がします。
 
 最後に仮に中国と日本の間で先端がひらいた場合はどうなるかですが、私の見方だとやっぱり自衛隊に分がある気がします。日本は米軍に次ぐ世界第二位の海上軍事力を持つ国であり、なおかつ戦闘機などの装備の面で米軍からいろいろ融通を受けています(高値で吹っかけられてるが)。日本は地理上、本州に上陸された時点でほぼ敗北確定なので戦闘は日本海、もしくは朝鮮半島がメインとなるでしょうが、海上での戦闘であれば今の人民解放軍にまず負けないでしょうし、専守防衛といいつつさりげなく自衛隊は強襲上陸艇とかもあるので離島戦でもそこまで引けを取らないでしょう。
 そして何より、というかこの一点だけで勝敗を見てもいいくらいなのですが、中国において致命的なのは石油備蓄量が致命的なまでに少ないということです。日本は一日当たりの平均使用量の約六か月分の石油を常に備蓄しており、有事の際に極端に使用量が増えたとしても二ヶ月くらいなら全力で戦えると思います。それに対して中国の備蓄量はなんと約一ヶ月分しかなく、もし有事となれば国土も人口も桁違いに大きい分、あっという間に民生用の石油すら枯渇して戦闘どころではなくなるでしょう。この備蓄量の少なさに関しては中国国内でも弱点だと指摘されており、「俺たちももっと日本を見習って備蓄量増やそうぜ」という意見を前に中国紙で私も見ています。
 
 最後にといいつつもう一言。これも大分以前に書いた内容ですが日本人の自衛隊に対する印象としては現在、「好感を持っている」が確実に過半数を超えることでしょう。これは数多くの災害派遣で立派な実績を残しており、防衛の為というより災害対策として自衛隊に期待する意識が高く、その信頼度は下手すりゃ政府より高いかもしれません。
 それに対して人民解放軍ですが、一般の中国人からの信頼はほぼないと言っても過言じゃありません。人民解放軍はろくでなしの行きつく先だと普通に述べられており、また裏金などといった汚職も絶えず、普段威張っている癖に災害時の救助では全く役に立たないと散々の評判です。さすがにここまではっきりとは言わないけど、自国民を束縛することの方が多いと中国人も暗にわかっているのかもしれません。