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2008年12月30日火曜日

労働問題は左翼の専売なのか?

 割と時間があるので、書く前からしんどくなりそうな気合のいる記事を書こうと思います。
 これは戦後のアメリカ統治時代のマッカーサーの逸話ですが、ある日こんなことを彼は周りに漏らしたそうです。

「一体何故、日本では労働争議が何でもかんでも社会主義系の政治運動と結びつくのだろうか」

 この言葉を聞いて、多分ピンと来るのは私の知り合いの中でも一人くらいだと思います。本当はその人とこの話についてしっかり議論をしてからこの記事をまとめるのがベストなのですが、ちょっと気合入れて一から十まできっかり書いて説明して見せましょう。

 このマッカーサーの発言ですが、これは彼の行った日本への政策の反応を受けて漏らした言葉です。日本に着任するとマッカーサーはすぐに戦前に治安維持法などで逮捕された共産、社会主義の左翼の運動家を監獄などから釈放しました。資本主義国を代表するアメリカがこんなことをするなんて驚かれるかもしれませんが、そこら辺は一応自由を標榜する国でもあるので、またアメリカ本国でも当時はまだ赤狩りが行われていない時期だったので思想や運動の自由を守るためということで実行しました。もっとも後年になって社会主義運動が大きくなり始めてくるとまた運動を制限し始めてますけど。
 そしてこうした左翼の運動家を開放する一方、マッカーサーはこれは教科書にも載っている財閥解体と共に、各企業の労働組合の結成を促す政策も実行していきました。

 何故労働組合をどんどんとマッカーサーが作ったのか、ちょっと素人意見で申し訳ないのですが、これは財閥の解体と共に戦前に有り余る力を持った財界人への対抗勢力を作るためだと考えています。これは最近だとめったに議論にもならないのですが、戦後にアメリカが日本が何故二次大戦であんな行動に出たのかという分析理由に、現在定説となっている軍部(官僚)の独走と共にそれを支援し続けた財界にも責任があるという報告をしています。この辺はあまり詳しくはないのですが、確かに戦前は今とは比べ物にならないほど財閥や企業経営者の力が強く、また労働組合という存在自体戦前には非合法とされ、一般労働者の権利は非常に弱いものでした。

 こうした状況を受け、労働者の権利を保持、確立させるためにマッカーサーは労働三法の制定といった諸政策を実行したのだと思います。そもそもマッカーサーは農地改革にて零細農民にも手厚い政策を取っていることから、同じく力の少ない労働者に対しても同様の政策を取ろうというのも自然な行動でしょう。
 だがそうして労働者の権利を守る傍から、最初の発言のようにマッカーサーは手痛いしっぺ返しを受けることとなりました。先のマッカーサーの発言のように、どうも当時は労働組合ができる傍から社会主義政党の影響を受ける集団となっていき、現在に至るまで左翼政党の票田となっては社会主義勢力が力を蓄えていったそうです。もちろんマッカーサーとしても労働者の権利向上はともかくとして冷戦体制に移行する最中のこうした動きに黙っているわけでなく、かの有名な「二・一ゼネスト」にて労働組合の活動を制限する方向へと方針を転換するに至ってます。

 ここまで言えばわかると思いますが、日本では労働問題は初めから左翼系の政治集団が扱うもの、というより労働組合自体が左翼組織の下部組織、またはそのものという認識が強いのですが、私やマッカーサーはこの認識に対して「なんでそうなっちゃうの?」と欽ちゃんばりに不思議に思うのです。
 実は世界的に労働組合が強い国といえばドイツやフランスに加え、アメリカでも最近よくニュースに出る自動車系労働組合を中心に非常に強い国とされています。しかし言わずもがなアメリカは資本主義の国で、社会主義系政治集団が全くないというわけではありませんが、基本的に政治は資本主義勢力の独壇場です。結論をここで言うと、私は労働問題は左翼や右翼に関係なく政治に携わる上で欠くことのできない重要な課題だと認識しており、少なくとも主義や勢力でどうこう言う分野ではないと思います。

 にもかかわらず、日本では労働問題や労働者の保護というと恐らく大多数の人はすぐに左翼という言葉や集団に結びつけるでしょう。何故こうした風になったかといえば、それは前述の通りに戦後の結成期に社会主義勢力の影響を強く受けるようになったということに尽きます。ここで私が強く言いたいのは、「労働組合は必ずしも社会主義の影響を受ける必要はない」ということで、資本主義下でも労働者の権利や地位が向上することで国力の増進が初めて図れるので、右翼や資本主義勢力にとってもまた労働者の権利や地位を守る必要性があるのです。なので本来なら、天皇制保持や自民党シンパの労働組合があっても全然おかしくはないのです。実際、高度経済成長期の自民党は労働者に結構優しかったし。
 更に言うと、憲法やなんだといった政治方針を一切もたずただ愚直に労働者の保護を訴えるだけで、政治勢力と一切つながりのない労働組合だって存在してもいい、ってかそういう風な労働組合の方がむしろあり方として自然だと私は思います。

 私は以前にも非常に恥ずかしい出来の文章となってしまった記事でも主張しましたが、労働というのは人間にとって生きる上で摂食と同等なくらいに必要性が高く価値深いものだと考えています。その労働に対して政治信条や方針がどうのこうのというのは恐ろしくくだらない議論で、本来あまり重ね合わせて議論するべきものではなく労働単体で議論するべきものと考えています。
 ともすれば左翼の専売と思われがちな労働問題ですが、今問題化している派遣難民やニートの問題といい、本来このような問題は右翼も左翼も関係なしにどう保護、分配するかを考えねばならない課題なのです。それを労働組合は左翼系な組織だと考え、また実際に左翼政党の組織票となっている労働組合ばかりという現状というのはもう少し考え直すべきではないかと思います。
 第一これを言ったら、

・左翼=社会主義、労働組合、革新派、フェミニズム
・右翼=資本主義、資本家、保守派、男尊女卑

 などどといった風に、何でもかんでも二項対立形式に各要素を一つの言葉にまとめ上げるというのは大きな問題です。差し当たって私が分離させたいのは、再度の主張となりますが「労働問題に右翼も左翼も関係ない」ということです。

田母神論文再考

 昨日のテレビ朝日の番組「テレビタックル」にて、アパグループ主催の懸賞論文に当時空幕長という航空自衛隊のトップでありながら政府見解と異なる、二次大戦時の日本の行動は侵略に当たらないなどという主張が書かれた論文を投稿した旨で更迭された田母神俊夫氏が出演し、それを見た感想を以下まとめようと思います。

 前段階として、いわゆる「田母神論文」への私の評価は「田母神氏の参考人招致について」で書いた通りで、この中で書いてある評価は現在を持ってもなにも変更する点はなく、やはりこの論文については疑問視しております。
 それでまず番組を見て私が感じた田母神氏の印象ですが、非常に真面目すぎる人間だと素直に感じました。
 登場時に他のゲストから問題化した当初は大変だったのではないのかと言われると、「(批判などで)叩かれてももうこれ以上私も小さくなれませんから」と、自分の背の小ささをかけて冗談から始め、ちょっと前の週刊文春の記事に書かれていた通りに隙があればいくらでもダジャレや冗談を言うという情報の通りでした。なお、「叩かれても小さくならない」というフレーズは相当あちこちで使っているらしいです。

 それで問題の本質へと議論が移ると、この論文を出したことについて思うことはないかという問いに対して一切後悔する気持ちはないと言い放ち、その後も自説の正当性を主張するとまでは行きませんでしたがあくまで一個人の意見に対してこれほどまで世間が反応するのはおかしいのではと主張し、その上で自衛隊のおかれている現状の問題性を終始強く主張していました。

 細かい発言などはこの際省きますが、田母神氏が更迭されたことや政府の処置については一切不平を言わず、投稿した論文の内容でも一切譲ろうとしない態度を見て、この人は少なくとも公の場で嘘はつかない裏表のない人間だと私は思いました。しかし裏表がないといえば誉め言葉ですが、どんな状況においても自分の考えや言葉を正直に述べてしまいかねない人間で、そのために今回の問題もいろいろ大変になったのだと思います。

 討論を見ていて一番印象に残ったのは、やはり田母神氏の言う自衛隊の現状でした。
 それこそイラクなどで命がけで自衛隊員は活動しているにもかかわらず、政治における自衛隊を存否を巡る法整備は一向に進まないため、自衛隊の側からこうした現状の改善や議論の声を挙げる必要があるという田母神氏の主張には私も納得しました。田母神氏の言うとおりに、現在国会などで自衛隊の存在や法規定についての議論はほとんどなされないにもかかわらず、この前のイラク派遣や対北朝鮮問題など自衛隊が行う活動の範囲は広がっています。番組内で確か三宅氏も述べていましたが、敵に銃を撃たれてから出なければ銃が撃てないのにイラクに行くなんてそもそも間違っており、こうした活動範囲の議論から存在などを正式に認めるべき時期はとうに過ぎており、番組内でも言われていましたがこの点については政治家のサボタージュと言っても間違いないでしょう。

 ちょっと他にもいろいろ田母神氏のこの討論であれこれ書きたい内容があるのですが、ちょっとまとめ切れてないので機会があれば別の話題と合わせてまた紹介しようと思います。
 最後にこの論文に問題性があるのかどうかという議論で、どうもこの論文がメディアに大きく注目された背景には自衛官こと背広組と自衛隊こと制服組の防衛省内の対立があり(出張所の方で、背広組も制服組も同じ「自衛隊員」であるとのご指摘を受け、この箇所の表現は「背広組こと内局の事務官(キャリア)と制服組こと自衛官の防衛省内の対立」と修正させていただきます)、実際にはこのような戦前の旧日本軍の行動について書いた論文はこれまでにもたくさんあったにもかかわらず田母神氏の論文だけがこうして問題化したのは、背広組の中でどうもどこかにチクッた奴がいるのではという話が示唆されていました。田母神氏はこの点について口では否定してましたが、この人は嘘がつけない人なのか、顔にはしっかりと肯定しているように私は見えました。

 背広組の代表格といったら、この前汚職事件で有名になった守屋前事務次官が有名ですが、こういった点も含めて防衛省へは今後も注視が必要でしょう。なんにしても、これで終えてしまうことが一番問題です。

2008年12月29日月曜日

失われた十年とは~その十六、ゆとり教育Ⅱ~

 前回の連載記事ではゆとり教育の概略について大まかに解説しました。思ってた以上に長くなって自分でも結構驚いているのですが、この記事では現状での結果、評価、見直しにおける各所の混乱と、このゆとり教育の何が問題だったのかをいくつか提唱します。

 まずこのゆとり教育の結果ですが、今年の日本国内の全国調査では以前よりもマシな結果が出て学力低下も下げ止まったと言われましたが、それ以前はというと如実に日本の子供の学力低下は国際学力テスト、通称PISAにて現れています。
 まず2000年度の調査では一位だった数学が03年には六位、06年には十位にまで下がりました。さらに、ゆとり教育のそもそも目的は詰め込み型教育から応用力をつけさせるのが目的で、数学能力が下がることは織り込み済みなのですが、数学力の低下と引き換えに強化を図った読解力の方でも00年度が八位だった日本の順位は03年度には十四位、06年度は十五位とこちらでも低下をし、言ってしまえば全下がりという最悪な結果となっております。
 ついでに書いておくと、日本と比べて明らかに授業時間数の少ないフィンランドでは毎回どの分野でもトップクラスの順位にランクしております。

 こうした結果に加え、前回にも書いた教育現場での指導者側の苦労話からゆとり教育に切り替えたことによって明らかに日本の学力は低下したといってもいいでしょう。この学力低下の原因がカリキュラムの削減によるものか、はたまた前回に書きそびれた総合学習などの取り入れによる授業時間数の減少が原因なのかまではここではいちいち分析しませんが、少なくともこのゆとり教育はもっと早く見直しを図るべきでした。既にゆとり教育が導入し始めた頃からこうした懸念が強く叫ばれた上に明確な傾向も見え始めていたにもかかわらず、日本人お得意の問題の先送りによって明らかにこの問題への議論は先延ばしにされてきています。

 一応ゆとり教育に完全に移行して二年後には、それまで指導要領以外の内容を教えることを厳しく制限してたのを教科書以上の内容を教えても構わないとくくりをわずかに緩めていますが、ゆとり教育自体に初めてメスを入れたのは安倍政権でした。安倍政権によって教育再生の名の下に「教育再生会議」が集められ、恐らく安倍元首相はこの教育制度を抜本的に変えるつもりだったのでしょうがいかんせん本人が教育改革を行う前に先に倒れてしまい、教育再生会議も行き場を失って次の福田政権時に申し訳なさげに「とりあえず改革した方がいいよ」という報告書を出して解散してしまいました。なお当時のメディアはこの教育再生会議に対して散々金を使ったくせにこの程度かという報道をしていましたが、ちょっとあんな報告書では言われても仕方がないと私も思います。

 ただこの再生会議をめぐる動きの中で、いくつか奇妙なやり取りが見受けられました。そのやりとりというのも、ゆとり教育に舵を切った文科省の元幹部の発言です。
 もうこの人は退官しておりテレビなどでどうしてこのゆとり教育を実行して日本の学力をわざわざ低下させたのだという厳しい質問を受けるとその元幹部は、国民がゆとり教育に変えろと強くせがんだからだと言い返していました。
 この元幹部の発言を官僚特有の責任逃れ体質と言い切れば簡単ですが、私自身、この元幹部の言うようにゆとり教育への移行が90年代前半に一部で強く主張されていたような気もしないでもありません。無論この移行を強く主張していたのは自民党と仲の悪い日教組などの集団ですが、少し記憶が曖昧ですが、なんかのテレビ番組で日教組の幹部とその文科省の元幹部がどちらも、「ゆとり教育への移行には反対していたが、お前らが強くやれやれ言うから」とお互いに言い合っているのを見た気がします。

 こう言ってはなんですが、前述の通りに日教組と自民党は昔から仲が悪いので日教組に言われたくらいで自民党の影響力の強い文科省の人間がその要求を呑むとは俄かには信じられません。じゃあどっから、誰がこの移行を行おうとしたのか、本当に国民はゆとり教育の移行を望んでいたのかということですが、細かい過程を省いて結論を言うと私は官僚が独自に始め、独自に実行したというのが本当のところではないかと思います。一部の関係者の話を人づてに聞いた内容では、どうも文科省の役人は敢えて国民の総白痴化を狙っていたという話を私も聞いたことがあり、案外それが真実なのではないかと思います。

 更に言うと、このゆとり教育の移行がどこから、そして本当にどんな目的で始められたかが全くわからないために現在に至るまで見直しや建て直しが行えずにいるのではないかという不気味さを私は感じています。じゃあ具体的にどう立て直すかですが、まずは今遡上に上っていますが教科書のページ数の増量、土曜日授業の完全復活、暗記や詰め込みの奨励など、言ってしまえばゆとり教育以前にまずすべて戻すことから始めるべきだと思います。その上でこれまでやってきたゆとり教育との比較を行い、よかった点は残したりするのが手っ取り早い気がします。

 最後にこのゆとり教育によって本当に子供たちがゆとりを得たかについてですが、私が小学六年生の頃に中学受験をして私立中学に進学しましたが、当時は三十人以上のクラスの中でわずか四人しか行わなかった中学受験が現在、都市部の学校では約半数もの子供が受験をしているそうです。たとえ学校のカリキュラムが下げられたところで入学テストのレベルは下げられるわけでもなく、結局以前に比べて明らかに塾通いをする子供の割合は増えているそうです。そのため、所得の大きい家庭は塾で学力を維持する一方、所得の低い家庭は下げられたカリキュラムの授業を甘んじて受けるより他がなく、学力の差が一段と広まっているそうです。私の恩師も、ここ数年で入ってくる学生の優劣の差が大きくなっていると述べています。

2008年12月28日日曜日

来年度予算の雇用対策に一言

 もう国会は閉会してしまいましたが、ちょっと書かなければならない記事が多いために書き残したいくつか思い当たる点を羅列しておきます。

 まず渡辺喜美前行革担当大臣の民主党解散決議に賛成した旨についてですが、どうやら民主党と前もって打ち合わせがあり、渡辺議員が賛成するということを表明させるためだけに民主党も解散決議を提出したとの事だったようです。この情報元は本日のテレビ番組サンデープロジェクト内で、田原総一朗氏が山岡民主党国会対策委員長にこの件で問いただし、山岡議員は否定をしたものの、「でも鳩山(民主党幹事長)さんは(渡辺議員に)FAXしたって認めてたよ」と田原氏がばらしちゃって、社民党の辻本清美氏もこのタイミングでの解散決議を提出するには何か裏があると思ってたら渡辺氏が賛成したのを見て、こういうことだったのかと述懐しています。

 敢えて当て推量をすると、自民党としてもこの段階で内輪もめをする様子を国民に見せられないというお家事情があるので、民主党も渡辺議員も除名処分まで自民党は行えないことを目算に入れての行動だったのでしょう。それでもし除名処分が行われるとしても、民主党側からその際は次の選挙で民主党の公認を出すと渡辺氏に伝えて、それを受けて渡辺議員も賛成に回ったのだと予想します。
 まぁ私個人的には渡辺議員がやろうとしていた行革がすべて台無しにされ、前の記事で私も取り上げた雇用能力開発機構も結局所管が移転するだけで残されるようですし、あれだけ現政権に怒る気持ちもわからないでもありません。
 なお渡辺議員は今日のサンデープロジェクトに出ないかと誘われていたそうでしたが、「決心がつかない」との事で遠慮したそうです。

 この渡辺議員の解散決議の話ともう一つ、私が個人的に非常に不満だったのが来年度予算の雇用対策の中身です。先週に来年度予算の概略が麻生内閣から発表されましたが、これもちょっと前の「派遣難民への住居対策について」の記事で取り上げたように、「契約の切れた派遣、期間社員を寮に住まわせ続けたら4~6万円を税金から企業に支給」ときちんと明記されて」ました。

 本来、このような難民を生んでしまったのは派遣を多く雇用しておきながら中途で契約を解除する企業の側にも責任がないとはいえ、そんな企業に対してタダでお金を与えかねないこの政策については私は徹底的に反対です。それならばホームレスの方を含めて、定住する住居のない方へ仮住民票の発行と合わせて直接家賃補助を行うか、災害対策用の仮設住宅を開放、もしくはすぐに建築できる集団住宅のようなものを作る方がずっと有意義でしょうし余計な出費も抑えられる気がします。
 
 また私がこの政策で一番懸念しているのは、かつての雪印や日ハムの国産牛肉偽装事件のように、実際には派遣社員などを雇っていない、もしくは住まわせ続けていないにもかかわらず補助金を受け取る企業が続出しかねないという一点です。言い方は悪いですが数十社くらいはこういうことをやるのがでてきかねないですし、またそういった事態を防ぐためのチェック体制を作るにしろそっちでもまた費用がかかっててんてこ舞いになりそうです。
 確かに雇用対策は喫緊の課題ですが、何でもやればいいというわけではありません。急がねばならないからこそ、クールな判断が必要となってくるのです。

失われた十年とは~その十五、ゆとり教育Ⅰ~

 失われた十年の間、日本は一貫して初等教育、特に小中学校での指導内容を削減していきました。
 削減の目的は毎年過熱する受験戦争によって青少年の心身の育成がうまくはかどれないということからで、それまでの詰め込み教育に変わって今回の記事の題となっているゆとり教育が90年代初頭より徐々に導入されていきました。ですが2008年現在、このゆとり教育は旧安倍政権にて槍玉に挙げられて以降、目下見直しの必要があるとの見解で官民一致している状態で、あと数年もすれば死語となるのではないかと私は考えています。

 まずそれ以前の詰め込み教育についてですが、言っちゃ何ですけど結構優秀でした。当時の国際学力テストで理数系の日本の成績は常にトップクラスで、誰が言っていたかは忘れましたが、当時のアメリカの小学校に日本人の小学生が転校してくると、算数が非常に出来るので者を教わるのに重宝されたという話も聞いたことがあります。
 しかしこうした知識をどんどんと詰め込んでいく教育では基礎や計算が強いものの、応用という分野では呆れるくらいに弱くなるという指摘が当時からされていました。結果論から言うと、私は日本人は応用分野は日本の国民性ゆえに弱いんじゃないかと思いますが、当時は詰め込み型教育の知識偏重が原因だとされ、また詰め込み型教育ではカリキュラムが厳しいゆえに落ちこぼれた生徒がなかなかカムバックが効かない学力格差の解消などの目的も加えられ、80年代の後半からゆとり教育へのシフトが文部科学省を中心にして行われていきました。

 まずゆとり教育のそもそもの目的ですが、一言で言えば子供たちの受験戦争からの解放でした。もうこれなんか大分死語になってきたのですが、90年ごろは公然と「学歴社会」という言葉が世間を通っており、今の中国や韓国のように学歴が社会上の地位に今以上に強く影響していた時代でした。まぁ現在も学歴は強いとされながらも今じゃ「職歴」の方が強く影響する時代ですがそれはおいといて、この学歴社会ゆえに子供たちは幼少時より勉強に駆り立てられ、その挙句いじめや校内暴力(実際に70年代は率で言えば非常に高い)が横行するのだとされ、多分内心的には「もう学力では世界トップなのだから、もう少し中身を求めていこう」という勢いから始まったのだと私は推測しています。

 具体的な政策目標としては、ちょっと記憶が曖昧なのですが大体こんな風なことを言っていたと思います。

1、平均学力が多少低下してでも、もっとゆとりを持って教育して応用力をつけさせるべき
2、理数系に比して当時から世界的にも遅れがちだった読解力といった文系学力の充実化
3、授業時間を削減し、親子や友人間といった人とのつながりを充実化させる

 ま、大体こんなもんでしょう。こういった目標の元にまず行われたのは三番目の授業時間の削減です。これは92年に第二土曜日、95年に第四土曜日を原則休日として、02年にはすべての土曜日を休日化することで行ってきました。今の小学生たちからすると驚かれるかもしれませんが、私など子供の頃は毎週土曜日は三ないし四時間の授業が設けられていました。
 たかが半日と思われるかもしれませんが冷静に計算してみると、まず一年間が約52週間あるとして夏、冬、春休みが大目に見て14週間あるとして、祝日などをこれまた大目に見てさらに2週間を差し引くと一年の間に授業が行われるのは36週間となります。この36という数字に4時間の授業数をかけると、実に144時間もの差が土曜日授業のあるかないかで生まれてくることになります。こういっちゃなんだけど、144時間も勉強したら相当いろんなことを覚えられそうです。

 こうした授業数を削減する一方、授業科目についても一部の変更が行われました。まず、これは私なんかも体験していますが92年度より小学校の低学年においては社会と理科の科目を廃止し、新たに「生活」という科目が加えられました。私などはちょうどこの変更が行われる年に低学年だったため、一年生の頃にあった社会と理科が二年生から突然「生活」にまとめられ、三年生になったらまた社会と理科になったので不思議に思ったりしていました。

 さらにこうしたことに加え、各科目の指導量もどんどん削減されていきました。
 これは私の体験ですが、従兄弟の家に遊びに行って従兄弟の小学生の子供の教科書を見て、そのあまりの薄さに絶句してしまったことがあります。本来文章をたくさん読ませてなんぼの国語の教科書ですらまるで絵本かのような薄さで、こんなに薄いのでは子供の教育に不安があるのではと従兄弟に話したところ、その従兄弟からすると私が小学生の頃に勉強してきた教科書も従兄弟らの頃と比べたら相当薄くなっていたそうで、今に始まった話ではないと言い返されました。

 実際に、私が大学受験の頃に予備校の教師に何度も、ほんの数年前と比べると私たちの世代は計算力が非常に落ちていると言われ続けました。ただその教師によると、私らはまさにゆとり教育へと移り変わっていく過渡期の世代で、私たちよりまた数年下がるともはや手のつけようがないとも言われていました。
 この教師の予想は見事に当たり、現在予備校関係者はどこも基礎的な力が身についていない子供の指導方法に頭を悩ませているそうです。

 書いててキリがなくなったので、続きはまた次回に。

2008年12月27日土曜日

減給の理由、あれこれ(*^ー゚)b

警察署長“セクハラ”で処分(NHKニュース)

 リンクに貼ったニュースは、いわき中央警察署の署長ともあろう者があろうことか複数の女性警察官に対して何度もセクハラを行っており、その署長が今回正式な処分が発表されるのを受けて自ら願いを出して辞職したという事件を報道したニュースです。まぁニュース自体はよくあるセクハラ事件なのですが、この事件で私がちょっと気になったのはこのセクハラ署長への国家公安委員会からの処分です。結局本人は処分を受けずに退職したのですが、なんと課された処分内容は「減給十分の一、一ヶ月」との事で、これだけセクハラに対して世間が厳しい目を持つ時代になったにもかかわらずちょっとこの処分は甘すぎるんじゃないかと思いました。

 そりゃ一回のお触り程度だったらこの処分でもまだ妥当ですが、報道によると今年四月から数ヶ月の間に何人もの女性警察官にセクハラを行っており、状況と行動から察するに恐らくそれ以前からもやってきているであろうことを考慮に入れ、本来このような事例を取り締まるべく警察署長という身分を考えると一発退場レッドカードでも問題はない気がします。少なくとも、減給処分であれば一ヶ月なんて言わず一年以上は必要ではないでしょうか。

 と、こんな風に言うだけだったらわざわざ記事にしません。実はもう一つ、「減給十分の一、一ヶ月」というキーワードにつなげられる話を仕入れてきていたので、合わせてこのようにして記事にしようと思ったのです。
 これは私の知り合いのいる会社の話なのですが、何でも昨今の不景気を受けてその会社では既に役員報酬が下げられてはいたのですが、とうとう影響は一般社員にも及び、課長級以上は来年度以降の給与が一律10%カットされることが告げられたそうです。まぁこんな時代ですし早めの対応と前向きに見る以外はしかたがないのですが、給料カットが行われる期限については言及されておらず当面は不定期に続けられる予定との事です。

 ここで、最初の例と冷静に比べて見ましょう。
 片方はセクハラをして一ヶ月の減給、もう片方は真面目に働いているが社会的な影響を受けて不定期の減給。減給額はどちらも10%。なんていか、こう並べてみると物凄く後者が不憫に思えて仕方ありません。
 やっぱりいろいろ聞いていると、今どこの会社でもこのような社員への減給は行われており、そう考えると最初の警察署長への処分なんて本当に意味があるのか疑問に思えてきます。そんなだから私はこの処分はちょっと甘いのではないかと思った次第なのですが、結構恐いこといっちゃいますが、現在国の財政は文字通り火の車で私企業はどこも減給をやってるのだから、公務員も全体で課長級以上は給料を一律10%カットとかするべきじゃないのでしょうか。

 ちょっと政治の話にも関わってきますが、もし消費税などの増税を行おうものなら、民間人の側からするとそういった公務員切りをやらないととても納得できないでしょう。田原総一朗氏も首相権限でいつでも公務員のリストラは出来るのだから早々にやるべきだと主張しており、私も業務内容を見る限りでは首切りなりコストカットなり、もっとやるべきことはたくさんある気がします。

 にしても婦警さんのセクハラかぁ。制服好きだろうとやっちゃ駄目だろ(・A・)イクナイ!!

出版不況について思うこと

 今月はせめて投稿記事本数を四十本にしておきたいので、残り五日ですがちょっとスパートをかけていきたいと思います。

 さていきなりですが、「180円」と言われて一体何の価格かすぐにピンと来る方はいるでしょうか。実はこの価格、私が子供だった頃のマンガ雑誌「少年ジャンプ」一冊の値段です。ちょっとウィキペディアで調べてみるとこの値段は1989年頃の価格との事で、恐らくこのくらいの頃に私は初めてジャンプを買ったのだからこの値段をしつこく覚えていたのだと思います。
 それに対し、現在のジャンプの値段はというと実際に店頭で確認していないのですが同様にウィキペディアの記事を読むとなんと「240円」との事で、実にこの十数年で三分の四倍も値上げされていることになります。

 それを言い出すと1970年の発売当初は90円なのでこうした値上げも時代の変遷によるもの、といえば集英社を初めとした出版社は簡単かもしれませんが、私はこの値上げに対して率直に強く疑問を覚えます。というのも70年代から80年代の間は日本が高度経済成長期にあり、また90年度初頭も消費税の導入があったのでこの間に徐々に値段が上げられていったというのは理解できるのですが、90年代の後半は失われた十年の間ともあり、この時代を象徴する経済現象のデフレの影響を受けて様々な物の物価がどんどん下がっていった時代でありました。いくつか例を上げますと、90年代中盤まで三十万円はくだらなかったパソコンの値段は2000年に入る頃には十万円前後にまで下がり、飲食店もさすがに今は落ち着いてきましたが一時期はマクドナルドや牛問屋の値下げ競争が進んで大幅に下がっていました。

 そんな中、私が身の回りで購入する物の中で唯一一貫して値段が上がっていったものというのが先ほどの少年ジャンプも含むマンガ雑誌を初めとする書籍です。
 実際にどれくらい上がっているのかと、ちょっとあまりこういったデータを普段は取り扱わずやや苦手なのですが、国の統計局(社会学をやってたら知ってなければいけない機関)のホームページから年別の消費者物価指数のデータを出して見てみたのですが、正直驚きを通り越して呆れました。この消費者物価指数というのは、「家計を基準に、その商品やサービスを購入するのに必要な支出の割合」を商品ごとにまとめたデータで、簡単に言えばそのモノの物価がどれだけ上がっているのかを調べるデータのことです。

 結果から言わせてもらうと、やはり書籍の物価指数データは異常な数値をはじき出しています。文房具や建築ブロックなどはそれこそほとんど変動がないのですが、家電なんかは見ていて気の毒になるくらい物価が落ちており、その他もやはり生活物資などはどれも低下しています。しかしこれが書籍になると話は違い、少年雑誌で見ると91年の消費者物価指数90.5に対して07年度は99.6と、10%程度も上昇しており、更に書籍全体で見ると91年の69.7に対し07年度は101.8と、なおも上昇を続けている傾向にあります。

 日本では出版不況といわれ始めて既に久しくあります。大体95年くらいから「本が売れなくなってきた」という話がちらほら聞こえるようになってきて、それが現在にまで続いているのでは既に十年以上も言われ続けていることになります。そんな状況なもんだから、「ハリーポッターシリーズ」が出た際には「出版会の救世主」とまで言われたのですが、結果から言えば「ハリポタブーム」の後には何も続きませんでした。

 さてここでクエスチョンです。本が売れないにもかかわらず、何故出版会社は値段を上げていったのでしょうか。出版関係の会社にいる人間とよく会っているうちの親父に言わすと、「本が売れないから利益が出ず、それで仕方なく上げているらしい」と返ってきたのですが、私に言わせると実態は逆で、値段を上げているから本が売れてないんじゃないかという気がします。
 そりゃ高度経済成長期のインフレ真っ只中なら上がっていくのも自然ですが、なんでもってデフレ下で消費者物価指数にもはっきり表れるくらいに値段が上げられていったのかとなると明らかに不自然です。特に少年ジャンプを初めとする少年マンガ雑誌に至っては、毎月の少ない小遣いで購入してくれる小中学生がメイン購読者層なのに値段をこれほどまでに上げていくのは常軌を逸しているのではないかとすら思います。ついでに書くと、単行本のジャンプコミックスもこの前私が買った「クレイモア」の十五巻は420円でした。これも私が小学生の頃はダイの大冒険とか390円だったのに。

07年の一人当たりGDP、日本19位 G7で最下位(NIKKEI NET)

 リンクに貼ったニュースに書かれてあるように、かつてはルクセンブルクに次いで二位であった日本の一人当たりGDPは現在、見るも無残なまでに低下の一途を辿っています。それほどまでに個人の収入が先細っている中で何故出版会社はこれほどの値上げを行ってきたのか、言い方は悪いですが馬鹿なんじゃないかとすら思います。出版不況とかなんとか抜かしては被害者ヅラしていますが、コスト削減などの経営努力を真面目にやってきた姿を私は見たことがないですし、挙句の果てには一部の出版社なんか「最近の日本人は知的好奇心が少なくなってきた」と、暗に日本人の知性が下がったことが原因だなどと言い出すのもいますが、それは体のいい責任逃れな発言にしか思えません。そういった知性の低下にどう立ち向かうのかが、出版社の一つの役割なんだし。

 おまけに、私はどうも最近の書籍は値段の割に中身が異常にくだらない本が多過ぎな気がします。ハードカバーの本を買おうものなら2000円近くは取られますがそのくせ中身はぺらぺらで、それならばまだ実際によく売れている新書の本の方が内容にも優れていることが多々あります。そんなわけで私がよく買うのは新書なのですが、この新書でも必ずしもいい本が手にとれるわけではなく、いい本だったときには素直にラッキーと思うしかありません。前に買った野球の新書なんて滅茶苦茶つまらなかったし……。
 マンガでも同様です。かつてジャンプの値段が200円だった頃に連載されていたマンガに対し、今対抗できる連載マンガはどれほどあるのか非常に疑問です。値段も高くなる一方で質は下がる一方、こんな悪循環で本なんて買う馬鹿いませんよ。

 何も書籍に限るわけではないのですが、最近の一部の商品やサービスに対してどうも値段に見合わないものが多くあるような気がします。その一方でこの前私が買った1TBのハードディスクなんて一万四千円で、「本当にこんな値段で買っていいものか」と、逆に不安になった値段もあります。後者はともかく前者に対しては、もう少し適正価格について調査なり検討なりをするべきだと思います。特に書籍は先ほども言った通りに国民全体の知性に関わる分野なのですから、もう少し使命感を持って企業努力もはっきり見えるくらいにやってもらいたいものです。

  参考サイト
総務省統計局