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2009年4月30日木曜日

何がいいマンガなのか

 今もCDを流して作中で使用された「Crazy for your love」という曲を聴いていますが、私はしげの秀一氏の「頭文字D」というマンガが大好きで単行本も集めて持っております。このマンガにハマった理由を話せばいろいろと笑えるのですが、中国の留学中にやけにあちこちでこのマンガのアニメDVDが正規版、海賊版を問わずどこでも売られているのを見て、なんで中国人がこのマンガにハマるのかと試しに日本に帰ってきてから読んでみたところ中国的な要素が強い私もすっかりハマってしまったというわけです。

 その後うちの親父にもこのマンガを薦めてみたところ一緒になってハマり、二人で買うんだったらランエボかコペンかとまで話し合うくらいになったのですが、親父はこの「頭文字D」よりも同じ作者のこれ以前の作品である「バリバリ伝説」を若い頃読んでいて、今回「頭文字D」を読んであの時の興奮を思い出し、お袋に内緒で(すぐにばれたけど)オートバイクを購入して現在も広島で乗り回しているそうです。もっともちょっと前にバイクからすっ転んで鎖骨を折り、ソニー損保が思ってた以上に保険金くれたからお袋は「もう一本折って来い」と親父は言われてたけど。

 しかし改めて考えてみると自分と親父で年齢差は三十年以上あるのに、同じマンガにハマるというのもなかなか珍しいものです。ただ「頭文字D」は舞台設定がスタート時は90年代中盤だったということから読者層は比較的年齢が高い層が主らしいですが、自分の周りの同年代の友人も読んでいる奴は読んでいるのでストライクゾーンが広いマンガといえばそんな気がします。ちなみに友人と私はエボⅢを操る須藤京一が一番好きです。

 実はこの読者の年齢層ですが、私はこれがマンガの良し悪しを見極めるのに非常に大きな指標だと前から感じています。よく何がいいマンガかどうかを決めるのかという議論があり、作品の内容だとか面白さ、もしくは画力だとかいろいろと挙げられますが、私は一言で言えば、「どれだけの範囲の読者を引き込んだか」というのが単純で最も重要だと思います。
 例えば誰もが高く評価してやまないマンガの神様である手塚治虫のマンガ郡ですが、「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」といった作品は私が子供だった頃に読んでも面白かったですが、成人した今になって読み返してみると子供だった頃とは違った読み方が出来て、あの時とは別の感覚での面白さを覚えました。

 このほか近年の作品だと「ドラゴンボール」や「クレヨンしんちゃん」(こっちは特に映画版が)など、子供から大人まで幅広く愛されるマンガは間違いなく名作だとして高く評価されます。この読者を選ばない魅力というのが、私はマンガの作品としての質を測る上で最も重要だと考えています。逆を言えばどれだけ一部の層から熱烈に評価されても、非常に限られた狭い層にしか評価されないというマンガはやっぱり全体的な評価としては低く見積もるしかないんじゃないかと思います。実際、そうしたマンガというのは忘れ去られるのも早い気がするし。
 でもそれを言ったら、「究極、変体仮面」は今もアスキーアートが作られるくらいだけどなぁ。

大衆消費社会の復権はあるのか

 もうすでにこのブログも解説から一年半くらい経ち、検索ヒットワードを調べてみるとそれこそいろんな言葉が入っていて自分で見ていてもそこそこ楽しいのですが、中には自分が全く意図していなかった言葉が検索数で上位に入っていてしばしば驚かされます。そうした検索ワードの中の一つに、「トリクルダウン」という言葉が入っており、これはそのままの題となっている「トリクルダウン」の記事がヒットするのだと思うのですが、自分としてはこの記事はそれほど意識して書いた記事ではなく、ほかでもこの経済学用語をもっと詳しく解説しているサイトも多いのになんでもって自分のサイトに来るのかといろいろと不思議に感じています。

 そんなトリクルダウン、意味は件の記事でも書いている通りに今は亡きミルトン・フリードマンが生前に唱えた経済論で、要は金持ちをもっと金持ちにすれば経済全体のパイが大きくなって所得の低い人もその恩恵を受けることでみんなで所得が増えていくという主張ですが、この政策を強烈に推し進めてきたブッシュ政権が終わった挙句にこの時のしわ寄せで今大不況となってしまったことから、このところ一挙に死語と化しつつあります。

 その一方で、かつての高度経済成長期に金科玉条とされた経済政策の「大衆消費社会論」は復権するのかといったら、経済誌やテレビでの言論を見ている限りまだあまり大きな動きにはなっていないように私見には感じます。この大衆消費社会論というのは変な横文字のトリクルダウンと違ってわかりやすく、文字通り所得の低い層にお金を使って消費力を高めて中間層を増やすことにより、経済全体のパイを大きくなるという経済原論のことです。
 敢えて比較するとしたら、トリクルダウンは積み上げていって大きくするのに対し、大衆消費社会論は底上げをして経済規模を大きくするというような具合です。

 前回の記事でも書きましたがトリクルダウンは主に南米諸国で政策的に誘導が行われたものの、現象としては実体を伴った経済成長は一度も起こったことはありませんでした。それに対して大衆消費社会論は高度成長期の日本を始め、今現在のお隣の中国を含めて世界各国で経済成長を達成しております。
 もっともこの大衆消費社会による経済成長には限界があるとしてトリクルダウンが提唱された背景があるだけに、これが万能な経済政策だとは私は思いません。しかし現在の日本を見ると若者の失業率が依然と高いままで、また最低限度の生活も保障されずに派遣労働をして食いつないでいる姿を見ると、今であればこの大衆消費社会を誘導するような政策は効果を出せるのではないかと考えております。

 では具体的にどんな政策をすればいいの、かつての高度経済成長期のように政府が税金をばら撒けばいいの、それだったら今度の麻生政権の補正予算は税金使って大盤振る舞いだからいいんじゃないの、という風に考える方もいるかもしれませんが、私は今度の補正予算案は高度経済成長期とは全然逆の志向を持つ、むしろトリクルダウン的な要素の方が強い内容だと思います。というのもハイブリッド車を購入すれば最大二十万円還付されるとか、ETCをつければ高速道路が千円で乗り放題とか、エコ家電を買えばエコポイントが付くなど、どれもそうした自動車や家電を購入できる層にしか恩恵が来ない内容だからです。そうしたものを消費する余裕がない層や、本格的に費用がかかりだしてくる中学生、高校生の子供を持つ世帯ではなく三~五歳の子供を持つ世帯に三万六千円を配るなど、どこかピントがずれた内容にしか思えません。

 格差がどうのこうのと言うつもりはありませんが、一体どんな社会を目指してどんな政策を取るのか、そうした姿が見えてこない今の法案については私は徹底的に反対です。

2009年4月29日水曜日

豚インフルエンザの感染拡大について

 今日友人より久々にリクエストが来て、今話題の豚インフルエンザについてコメントを求められました。実は知り合いに新型インフルエンザ対策のビジネスに関わっている方がいるので、その人の話をここで紹介しようと思います。

 その方は日本の商社社員なのですが去年の六月の段階で新型インフルエンザの流行、それも今回の豚インフルエンザのように日本ではなく海外で大流行した場合に備えて保健衛生用品を、海外に複数の事業所を持つ大メーカーを中心に販売拡充に務めていました。実は私もその人の仕事を一時期に簡単に手伝い、海外に事業所を複数持つメーカーを調べたり、見積書作成のベースとなる原価表を自動計算できるようエクセル上で作成したりしたのですが、主に販売するのは防護用の使い捨てマスクや手袋、果てには帽子や保険衣みたいなコートでした。

 その知り合いを傍目で見ていた限り、そうした衛星用品の売れ行きはあまり芳しくなかったようで最近では全然別の商品の拡充に努めていたのですが、昨日に様子を尋ねたらなんでも一日中問い合わせの電話が鳴りっぱなしだったそうです。ただこの知り合いに限らなくとも、インフルエンザの専門家はいつ新型のインフルエンザが流行してもおかしくないとの認識を数年前より持っていたそうで、そうした候補としてこれまで鳥インフルエンザがいつ人間の間でも爆発的に伝染するかに注目が集まっていました。
 しかし今回、全くの搦め手というべきか、これまであまり話題にならなかった豚からの感染経路による新型インフルエンザが大流行の兆しを見せており、WHOも対応の遅れなどを自ら認めております。

 この豚インフルエンザですが、報道もされている通り現在まだその詳細ははっきりしておりません。これまで豚から人へ伝染していたものが人から人へ伝染するように感染力が変異によって高まったというのは事実だそうですが、毒性については意見が二つに分かれます。これはまだ確定ではありませんが一応の発信源とされるメキシコでは死者が百人を超すほどの猛威を振るっていますが、メキシコ以外の他国の感染者はどれも病状は軽く、現在は皆通常の容態に戻っているそうです。病理学の専門家ではないのではっきりとは言えませんがインフルエンザウィルスの型は固定しているので、メキシコとそれ以外の国では別のウィルスというような話はまずありえないと思いますが、同じウィルスでこれほどまでに毒性が変わるものかと多分私だけでなくいろんな方が疑問に思っているかと思います。これについては今後の研究、調査を待たなければなりません。

 ちなみにこのインフルエンザですが、一説によると毎年流行するウィルスは中国南部の地域、それも今回のように豚を介して発生していると言われております。中国の南部の地域は環境も悪く、人と豚が集住して暮らしているために人と豚の間でウィルスがそれこそめまぐるしく伝染し合い、その過程でこれまでとはちょっと型の違うウィルスに変異することによって毎年世界中に流行するという話を以前に聞いたことがあります。そのため医療機関によってはこの地域にスタッフを専従させ、ウィルスについてリアルタイムで事細かに調べさせて毎年の対策に備えさせていると聞きます。

 今回の豚インフルエンザのニュースを受けて真っ先に思い出したのが上記のニュースですが、ここから私が何を言いたいのかというと、ある意味豚インフルエンザの本場である中国は今どんな感じなのかという疑問です。今回のメキシコの例でもそうですしかつてのSARS騒動の時の中国も、病気の大流行が発生した当初はその詳細をあまり表に出さず、むしろ隠蔽しようとしてかえって被害の拡大を起こしてしまいました。今回のメキシコも第一報の時点で死者が百人を超していたことから、政府の対応が遅かったというよりほかがありません。
 つまりここで私が何を言いたいのかというと、感染者が出ていないからといってその国が安心だとは限らないことです。それは海外旅行に行くなというより、既に五月に入ろうかというこの時期ですが日本国内においても手洗いうがいの徹底などをするべきということです。やらないよりはマシだし。

 ただこの豚インフルエンザは本格的に流行するとしたら今年の秋以降だとも言われ、それまでにはしっかりと世界中で対策を練って実行するべきでしょう。これがかつてのスペイン風邪の流行のように大きな事件となるかはまだ未知数ですが、今後の対策に私は期待することにします。

2009年4月28日火曜日

二重の革命であった明治維新

 ちょっと前に書いた鳥取の記事の中で私と叔父が一緒に海水浴に行ったことを書きましたが、その旅行中のある夜、叔父からこんなことを聞かれました。

「ところで、君はなんで明治維新は成功したと思っとる。君の得意な中国なんか何度も改革をやろうとしては失敗しておって、それと比べると日本の明治維新は出来すぎる位に大成功やったと思うんだが」
「そうですね。敢えて言うとしたら旧弊こと、幕府の老臣を一挙に排除して若くて実力のある薩長の功臣が武功によって政治の実権を握ったからじゃないでしょうか。改革が失敗する原因というのは決まって、守旧派の巻き返しによるものですし」
「そうやろなぁ。普通に考えとったらあれだけ人事が変わることなんてありえんしのぉ」

 この会話で叔父が言った通りに、日本の明治維新は世界史上でも文句なしに大成功といえる革命劇という評価でいます。そしてその原動力はなんだったのかというと、上の会話でも言っているように後腐れを完膚なきまで排除した維新の方法、薩長による旧政権の親玉である徳川幕府の倒幕があったことからだと私は見ています。

 今でもこの自分の意見に大きな間違いはないだろうと考えていますが、私もファンである歴史学者の半藤一利氏が今月の文芸春秋に「明治維新は非常の改革だった」という題の記事を寄せてあるのを読んで、明治維新にはまだこんな見方があったのかと、いつもながら思いもよらぬ所からの着眼点に文字通り目からうろこが落ちました。特に今回の記事で一番なるほどと思わせられたのが下記の引用箇所です。

「私は明治維新とは二重の革命だったのだと考えます。一つは薩長の倒幕による権力奪取。そしてもう一つは、下級武士隊殿様、上級武士の身分闘争です」

 言われることまさにその通りで、歴史に詳しい方ならわかると思いますが明治維新で活躍した偉人はほぼすべてと言ってもいいくらい下級武士の出身で、平時であれば武士の中でも同じ武士として認められない、たとえて言うなら行政上は京都市の一部なのに上京区、中京区を中心とした住民から京都市民とは認められない伏見区の住民みたいな人たちでした。ちょっとたとえが複雑すぎるかな。

 薩摩藩の西郷と大久保は二人ともその日を食うや食わずやで過ごしてきたほど貧乏な家の出身で、母親が豪商の出身だったために家は裕福ではあったもののやはり下級武士だった坂本龍馬、そして長州藩の桂、高杉、伊藤、山縣に至ってはどん底もいいところというほどの下級武士でした。ついでに言えば、幕府の側も勝海舟や福沢諭吉は下級武士出身でした。

 彼ら維新の功臣たちは明治に入るや版籍奉還や廃藩置県によって、かつて自らが率いて維新を起こした藩とその藩主たちを事実上行政の長から無理やり引きずりおろし、日本全体の実権を自らの手にすべて集めてしまいました。一部の歴史の教科書では明治維新は武士間の一種の政権闘争で、被支配層である農民を始めとした一般民衆は変わらずに支配層だけが変わっただけので革命とは呼べないとする説を主張するものもありますが、私は江戸時代の階級制度を考えると彼ら下級武士の台頭は十分に革命と呼べるほどのインパクトがあったと思え、そういう意味で半藤氏の言う二重の革命とは非常に適切な表現だと感心させられました。

 さらに半藤氏は彼ら功臣が下級武士出身者だったからこそ士族への共感が薄く後の徴兵令による士族の完全な解体も行えたとして、特に徴兵令についてはこれを主導した山縣有朋は幼少時に身分の低さから散々に同じ武士からいじめられた体験が大きかったのではないかとも述べています。
 私から付け加えると、功臣の中でも西南戦争を起こした西郷隆盛を始めとした一部の人間は士族への共感が強かったとも思えますが、歴史的に見るなら冷徹にあの時代のうちに士族を切った大久保を始めとした政府幹部の決断と実行力は後の発展の大きく寄与したでしょう。そして士族に共感した西郷や萩の乱を起こした前原一誠らの反乱は皮肉にも、徴兵令によって作られた明治軍隊に鎮圧されたことで真の意味での維新の完成を促したとも見ることが出来ます。

 半藤氏も西郷の死で維新は完成したとまとめており、革命には冷徹な非情さが必要という具合に筆をまとめており、近年の改革の成否やナポレオンのエジプト遠征時の兵士置き去り事件を思うにつけまさにその通りだと私も思います。

2009年4月27日月曜日

外国人が互いに持つイメージ

 最近また堅い内容の記事ばかり書いているので、久々に肩の力が抜けるような記事でも書こうと思います。

 さて私はこのブログでも何度も書いているように中国に留学した経験があります。向こうでは外語大学にいたのであまり中国人とは付き合うことは多くなかったのですが、その分いろんな国の人間と授業を一緒にしたりするなど交流がもてました。
 やっぱり会って話してみると国ごとにいろいろと特徴があり、ドイツ人はやっぱり皆真面目そうで日本人からしたら付き合いやすい人が多かった気がします。私と同じクラスだったクォシャオレイという中国名のドイツ人などは話し方も知的で、喫茶店にて二人きりでゆっくり話をした際にドイツの徴兵制度について直接聞けたのは幸運でした。意外と知らない人が多いですが、ドイツやフランスは今でも徴兵制度があって韓国ほど長くはありませんが男子には兵役が課せられています。

 このほかマイナーな国ではアフリカのルワンダから来ている方もいたのですが、ある授業中にその方が、

「他の国の人たちはアフリカ人は皆足が速いと思うらしいけど、俺、速くないし……(´Д`)ハァ」

 と言ったことがありましたが、別にアフリカの人に限らずどの国もイメージというのは皆いろいろと持っていました。その中で大筋で間違いじゃなかったと私が思ったのは、「ロシア人は酒飲み」というイメージで、実際にロシア人とウクライナ人と一緒にBARに行きましたが連中は飲むわ飲むわで、この時初めて私もウォッカを飲みました。悪酔いしない酒というだけあって、それほどキツイお酒だとは思いませんでしたが。

 逆にイメージと違った、というよりいい意味で引っくり返されたのはカザフスタン人でした。そのカザフスタン人は私の同級生で授業中は常に真面目で口数少なく、身長は185センチくらいもある巨体なのに行動はすこぶる穏やかで陰ながら一目置いていた人物でした。
 そのカザフスタン人の彼ですが、ある日のクラスでの飲み会で酒を飲むや豹変、とまでは行かないまでも恐ろしく性格が変わったのに驚かされました。普段は物静かなくせにやけに周りに絡むようになり、「俺の酒が飲めないのか!?」といって人のグラスに次ぐわ次ぐわで、非常に場を盛り上げてくれました。背が高いもんだから目立つのなんの……。

 そういう私こと日本人の周囲からのイメージですが、ある日授業中にフランス人の女性が、

「あなた(私)はまだまともな落ち着いた格好をしているけど、日本人や韓国人は理解できないような変な服装をいつもしているわね」

 と言われた事があります。具体的にどんな服装かというと恐らくこの人が言いたかったのは、日本人女性が来ていたような「派手すぎる普段着」なんじゃないかと思います。実際に私も、中国まで来て変な格好をしているなと思ったし。

2009年4月26日日曜日

今後の社会のあり方

 前回の記事の続きになりますが、私は今後の日本社会で個人はますます流動性を増さざるを得ないため、国の制度などもそうしたものに抜本的に変えていくべきだと考えています。

 まずこれまでとどう変わっていくのかというと、一番大きなものは終身雇用制がなくなるということです。この終身雇用制を日本社会に方向付けたのは占領下のGHQの政策委員で、日本以上に職業上の保障が整った国は他にないと本人が自負するまでにこの制度の完成度は高かったです。しかしグローバル化、また企業の方針転換などによって今では一つの会社にずっと定年まで居続けるというのは実質難しくなっております。
 参考までにこれまでの日本人男性の典型的なライフコースを説明すると、まず高校か大学まで教育期間を設けてその卒業後に就職、就職後はほとんど転職をせず(グループ会社などにはあり)そのまま定年まで勤め上げて退職後は年金で生活、というのが一応の理想のライフコースだったと言うべきでしょうか。

 しかし前回の記事で書いたようにかつては三十年持った一つのビジネスモデルがいまや三年も持たないほど社会の変化が激しくなったこの時代で、一つの会社に居続けるというのはそれだけでも至難の業です。また転職に限らなくとも再教育についても今後増えることが予想され、一旦就職してお金を貯めた後に海外に留学したり大学院に入りなおし、知識を身につけてから再び就職するというようなライフパターンも増えていくだろうし、またそうした就職後教育が今後ますます必要になってくると思います。

 しかるに日本の制度はこれほど流動性が高くなっているにも関わらず、未だ終身雇用のライフコースから外れると個人は再復帰がしづらい制度のままです。いくつか例を挙げると教育期間の終了後にすぐに就職できなかった就職氷河期の若者がニートやフリーターとして厳しい生活に追いやられ続けていたり、ブラック会社に就職してしまったので離職をしたら履歴の離職暦が再就職の足かせとなったり、果てには失業保険や生活保護費が全然行き渡らなかったりと。

 では具体的にどういう風に今後制度を私が変えて行きたいのかというと、大まかに二つに絞ると社会保障制度と税制をこれまでの制度から抜本的に入れ替えたいと考えています。
 社会保障制度は現在のところ年金、健康保険、失業保険などの支払い費用が企業に勤めている正社員であれば企業との折半いった形で支払われるので、正社員でない方の支払い費用と比べると格段に少なくて済みます。私はこれ自体が自営業者たちへの差別につながるので早くに支払い費用については統一化し、その上で本予算でないために監視が行き届かず散々不良債権を作って問題化した年金特別会計のように、こうした保険料の予算は本予算に組み込んで他の税金と合わせて使い道を決めていくべきだと思います。ま、年金については今年から霞ヶ関埋蔵金で補填してるのだからそうしないと即破綻するのだけど。
 その上で年金についてはあまりにも長すぎる加入期間を撤廃し、出来れば十年、無理なら十五年くらいで受給資格年齢に変えて行きたいです。やっぱりこの年金の受給資格が得られるまではなかなか転職に踏み切れないという人が多いというし。

 そして税制ですが、これは前から私が主張しているように現在の所得税に代表される直接税を主にする税収方法を消費税に代表される間接税を主にする方法がいいと思います。これによってどんなメリットがあるのかというと、まず直接国税だと一人一人細かく給与額を査定して税額を決めなければならないために人員と手間が多くかかります。それが消費税であれば事業者のみの査定で済むので、大胆な話年収五百万円、もしくは一千万円以下の世帯は所得税を廃止してもいいと思います。
 これがどう社会の流動性に影響するかですが、私はこうすることで企業側が人員を雇用する際に必要なコストが大きく削減されて雇いやすくするというのを狙っています。今大卒の初任給はひと月約二十万円ですが、これは本人の収入だけで実際のところ企業はこれに加えて国や自治体に払う必要のあるいろいろな費用が発生するため、アルバイトを雇う感覚でほいほいと雇えないと言われています。こうした部分を無税とする代わりに個人が生活していくうちに自然と払われる消費税を増やすことによって、企業としても試しにいろいろと人を雇いやすくなるのではないかと期待しています。

 こんな具合にいくつか腹案はありますが、要するに私はもっと転職や離職、再就職のしやすい制度に変えていくべきだと考えています。以前にも一回自分で書いて「我ながらうまいこと言うやんけ」と思った一節に、

「昔は社会流動性が低くまた決まったライフコースからこぼれ辛かったが、今は社会流動性が低いままでライフコースからこぼれやすくなった」

 と書いたことがありますが、今でも現実はこの言葉の通りだと私は思います。時代と共に周囲の環境は動くので制度は変えていかねばならず、それでも制度を何が何でも維持しようというのならかつての江戸時代のように鎖国をして時を止めるしかないでしょう。

2009年4月25日土曜日

日本の社会保障制度による固定性

 FC2ブログでやっている「陽月秘話 出張所」の方では前にも言いましたが拍手コメントといって、クリックするだけでその記事を評価するボタンがあります。管理者側はこの拍手に対して一ヶ月内の記録を全部見ることが出来るのですが、やっぱなんだかんだいって今まで書いた記事の中でも自分が力を入れた記事にはよく拍手が集まる傾向があり、公開してから月日が経っても思い出したかのように拍手が来ることがあります。

 そうした今でも拍手がたまに来る記事の中で、去年の十二月に書いた「日本で何故レイオフが行われないのか」はすこし自分でも注目しています。実はこの記事は野球で言うなら内角高目のストレートを打てるもんなら打ってみろとばかりに投げたような記事で、コメント欄に敢えてどんな返答が返って来るのかを見極めてから続編の記事を書こうとしたところ、生憎sophieさんしか返答をくれなかったのでそのまま放置したのですが、今月にもFC2の方で拍手が来て、やっぱり見てる人は見てるんだなと思い直してちょっと今日のこの記事で補足しようと思うに至りました。

 まず前回の記事ではこうした不況下などにコスト削減のために給料の数割を支給するかわりに人員を解雇、もしくは帰郷(自宅待機)させ、好況時にはまた優先的に再雇用させるというレイオフという制度に触れ、普段忙し過ぎて旅行や留学にいけない個人にとっても、景気が回復した際に業務に習熟した人員を素早く揃えなおせるという点から企業にとっても決して無意味でない制度だと思うにもかからずほとんど実施されないという現状について解説しました。前回の記事では最後の部分にて「どうして?」と敢えて読者に聞いたのですが、実は何故レイオフが日本であまり実施されないのかという理由は私の中である程度わかっていました。その理由というのも、今問題となっている年金を初めとした社会保障の制度からです。

 私が一番レイオフを阻害させている最大の原因と見ているのは日本の年金制度です。タダでさえ問題の多いこの年金制度ですが、諸外国と比べて格段に問題性が高いと感じる点はあまりにも長すぎる受給資格期間です。
 アメリカ、あと確かイギリスでも年金を受給する資格を得るには約10年間年金基金を支払えばよいのですがこれが日本だとなんと25年間という普通に考えたってあまりにも長すぎる期間で、しかも25年間払いきったところでもらえる額は生活するにはやや不足する額だといわれており、実質的にはその後も上乗せ分のために支払い続けるのが一般的です。

 この長すぎる支払い期間のためにうかつに転職、もしくは一時的とはいえ離職する事によって個人が受ける影響は大きく、しかもしっかりしない社会保険庁のため一旦離職して再就職して年金の申請もしっかり行っていたとしても現在も問題が一向に解決されない記録の紛失や削除が行われる可能性が非常に高いです。更には医療保険や失業保険なども普通に生きてる一般市民からすれば複雑怪奇な代物で、ひとことで転職をしようにもこうした制度の更新に膨大な労力がかかってきます。

 ここで話はレイオフに戻りますがもし仮に企業がこれを実行しようとしてもこうした日本の諸制度が全く対応していないため、企業としても社員管理などの面で実行すること自体が不可能なのではないかと私はにらんでいます。こうした保険、保障制度は専門外なので断言こそ出来ませんが、元々日本の雇用、社会保障制度は終身雇用を前提にしているためにこうした弊害が出てくるのではないかと思います。

 確かに終身雇用でずっとやり続けられるのに越したことはありませんが、これはうちの親父がよく言う言葉ですが、かつては一つのビジネスモデルが三十年続けられたのに対して現代は三年も持たないと、グローバル化などのもろもろの影響から日本の社会も流動性が強くならざるを得ないと現代について私は思います。そうした世の中の変化に対していくら昔みたいに固定した制度を保とうとしても無理があり、むしろ社会流動性が高くなった現実に合わせてこうした制度などを抜本的に改正し、最低限の保障が出来る社会に持っていくべきだと思います。この辺の詳しい内容についてはまた次回にて。