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2009年12月7日月曜日

COP15を巡る駆け引きと鳩山宣言

 鳩山首相が就任直後に向かった遊説先のアメリカにて、CO2排出量をを90年基準で2020年までに25%も削減すると発表し、国内外において賛否両論、というよりは、「そんなの出来っこない」という大ブーイングを招いたのは記憶に新しいかと思います。私も当時にこのブログにてその発言を取り上げましたが、どうせ欧州諸国も目標を立てたところで達成できる国などほとんどないだろうから、一時とはいえ言うだけ言って注目を浴びただけでも良かったのではないかと、やや肯定的にこの鳩山宣言を評価しました。

 しかし世の中とはなかなか広いもので、イタリア史作家の塩野七生氏は文芸春秋のコラムにて鳩山氏のあのCO2削減宣言について以下のように評していました。
 塩野氏はアメリカを始めとした先進国、中国を始めとした発展途上国(最近なんだか新興国と言う表現を使うようになってきたけど)に先駆けて、日本は環境問題に真剣に取り組むという姿勢を強く打ち出した鳩山氏のあの宣言は今後の日本の外交にとって大きなイニシアチブになるとまず褒め称えました。CO2の削減目標の達成の実現性については塩野氏もこれははっきりと無理だと言うものの、鳩山首相のあの宣言の冒頭に、「アメリカや中国が歩調を合わせるのならば……」という一文が混ざってあった事に着目し、要はこの二カ国が日本同様に削減目標を持たなければ実現しないでもよいという逃げ道があの宣言にはあるとして、今後はこの両国の参加という前提条件を他国が忘れないように繰り返し言い続けるだけで環境問題に対し、ほぼ無傷で国際社会で相応の地位が保てると分析していました。

 こう言われてなるほどと思い、もし塩野氏の言うような意図であの宣言を行ったと言うのであればなかなか大したもんだったとあの鳩山首相の宣言に対して私も見直したのですが、となると肝心になってくるのは前提条件となっているアメリカと中国の対応で、果たしてどんなものかと今日の世界の気候変動に関する会議である「COP15」を前々から楽しみにしていたところ、開催前には中国も具体的な削減目標を設定してくるという報道があったものの今日の会議においてはいつも通りに先進国がまずもって削減する必要があり、発展途上国はまだその段階にないとインドとともに主張してきました。このまま行けば、塩野氏の言うように日本の目標達成の前提条件は崩れてくれます。
 また日本側もなかなか周到なもので、会議開催前の昨日の段階にてすでに、「京都議定書の単純延長には調印しない」と発表しており、うまくいけばあの削減目標を無視しながらこれまで日本を縛ってきた京都議定書の呪縛から解き放たれる事ができるかもしれません。

 今日の段階でこのCOP15はこの調子だと何も決まらずに終わりそうだという事で、最終日に首脳同士の会合にて何らかの合意を得て終了するのではと報じられていましたが、開催直後の今日になって面白いニュースが飛びこんで来ました。

TBSの動画あり 約2週間以上のおくれで日本でも報道が始まった模様です

 上記リンクは相互リンク相手のdotcom07さんのページですが、このページにて紹介してあるニュースというのも世界の温暖化を始めとした気候変動の調査に対して権威のあるイギリスの研究所のメールが流出した所、温暖化にそぐわないデータの改竄やら隠蔽をほのめかす内容が多数見つかったそうです。時期も時期なのでこれは一種のブリティッシュジョークなのかと思うくらいのタイミングの良さですが、これからCOP15がどう転ぶか、またdotcom07さんの言うように日本のメディアがどう報道するか観察のし甲斐はあるかと思われます。

  追記
 その後中国はこのCOP15で、

「中国は過去15年間、単位GDP当たりの二酸化炭素排出を47%削減した。2010-2020年にはさらに40%-45%引き下げる」(サーチナ

 と一応目標を設定したようですが、単位GDP辺りって総量だといくらになるのか、多分その辺にいろいろロジックを組んでいるのを見越して各国も批判を行っているようです。

2009年12月6日日曜日

マルクスの疎外論

 随分昔に書いたと思ってたら書いていなかったので、ちょうど前回の記事で「空気に呑まれる」という事を取り上げたばかりなので疎外論についても紹介しておきます。

疎外(ウィキペディア)

 はっきり言って私のこの記事を読むよりもこの疎外論については専門に研究されている方も少なくないので、もしこの記事で疎外論に興味を持たれたのであれば是非他のサイトも訪れる事をお勧めします。

 それでは本題に入りますが、この疎外論というものを初めて提唱したのは社会主義経済学の祖であるカール・マルクスで、彼が提唱した経済学概念の社会主義経済こと共産主義はソ連の成立とその後の崩壊という大掛かりな実験によってすでに実現不可能であることが証明されてしまいましたが、この哲学分野に属する疎外論については未だなお価値が下がることなく学者達によって研究が続けられております。

 その疎外論がどのような概念かというと、単純に言うのならば人間が自分で作った概念やシステムに逆に振り回されてしまうといった所です。
 これは私がこの疎外論を説明するのによう使っている例えですが、ある会社で飲み会が開かれる事となり、幹事であるAさんは同僚に参加するかどうかを確認していたのですが、このAさんは同僚であるBさんのことを内心では快く思っていませんでした。ですのでAさんは出来ればBさんには飲み会に来てもらいたくないのですが、他の人間には誘っているのにBさんだけ誘わないと角が立ってしまうので仕方なく誘うとします。誘われたBさんも実はAさんのことを嫌っていたのですが、Aさんの誘いを断ってしまうとこちらもまた角が立ってしまうので、出来れば参加したくないと思いつつも参加すると答えてしまいます。

 この例えの場合、AさんもBさんもお互いに相手のことを嫌っていて飲み会のような場所で顔を合わせたくないと思っていながらも、飲み会に誘わなければ、参加しなければ角が立つと思うあまりに両者どちらにとっても望ましくない結果をわざわざ招いてしまいます。何故こんな結果になってしまったのかと言うと、AさんとBさんの両方に「飲み会に相手を誘わなければ、参加しなければ角が立つ」という概念があり、この概念があるがゆえにわざわざ気まずい思いをする事になってしまったというわけです。

 同じく飲み会ネタであれば、ちょうど今の時期くらいにある会社でシーズンという事で忘年会を企画するものの、みんな年末の忙しい時期にわざわざ会社のイベントに参加したくないと思いつつもさすがに忘年会に参加しないと協調性がないと思われると考え、結局誰も望まない忘年会にみんな参加してしまうというのも疎外の一例と見ることが出来ます。

 このように特定の概念や思想が人間の手の元を離れて逆に人間の行動をマイナス方向に支配、制限をすることを「疎外」と呼び、前回の記事で私が取り上げた「空気に呑まれる」のとは厳密にはちょっと違うかもしれませんが、みんな内心では良くないと思いつつも周りに合わせないと思うあまりにわざわざ誰にも望まれない行動を取ってしまうという点でほぼ同義の言葉だと私は考えております。

 マルクスは生前にこの疎外という概念を主に資本主義批判に適用して提唱していましたが、現実にこの考え方はなかなか良く出来たもので、現在においても社会問題を考察する上に役立つ概念であります。
 元々、経済というものは人間がみんなで便利に暮らすために作られた社会システムだったのですが、今や国会でもこの経済(資本主義)というシステムを維持するための対策が激しく議論が行われ、一企業レベルでも会社を存続させるために社員みんなで骨身を削ってまで働くなど、みんなで経済をどうにかしなければとあちこちで叫ばれています。自分達の生活を便利にさせるために作られたシステムであったはずなのに、リーマンショック以降は特に顕著ですが、経済を維持するために今や沢山の人間が犠牲になっている状況です。

 かつて共産主義は人間性がなく、血の通わない管理された経済システムであったがゆえに資本主義に敗北したと言われました。今の資本主義に人間の血が通っているかという問いにマルクスが生きていたらどう答えるのか、なかなか興味をそそられます。

2009年12月5日土曜日

空気の読み方、呑まれ方

 日本で生活する上で何が一番重要になるかと仮に外国人に聞かれるのであれば、私はまず迷わず「空気を読むこと」だと答えます。この答えに他の日本人がどのように感じるかまではわかりませんが、私はそれほどまでに日本の社会では場の空気を読むことが要求されると考えており、それは小学校から会社、果てには本来自由に思考を働かせるべきであるはずの学界においても例外ではないと見ております。

 ではそんな「空気を読む」行為とはどういうものなのかというと、具体的な定義とすれば周囲の意見に歩調を合わせ、全体意見や思想から大きく外れた発言や行動をしないといったところでしょうか。日本の社会では「協調性」、というよりも「同位性」を持つことが高い価値とされるため、この空気を読むという行為は日本の日常においては実生活だろうがテレビの番組内だろうがインターネットの掲示板あろうが、それこそ場所を選ばずに「空気を読め!(#゚Д゚)」という声があちこちから聞こえてきます。
 それだけあって日本人組織の団結力は世界レベルでも明らかに群を抜いており、中国人もよく、「日本人は一人一人だとへなちょこだけど、集団になるととてもじゃないが敵わない」と、よく評しております。恐らく、自分達中国人は逆に団結力が低すぎるということがわかっての評価でしょうが。

 断言してもいいですが日本ではこの空気が読める、つまり周囲に合わせられるという事が無条件で美徳とされており、逆にそれが出来ない人間はしばしば批判の対象となってしまいます。
 こういった周囲に合わせて統率の取れた集団行動が出来る日本人の高い協調性は私も十分に評価に値すると言えるのですが、その一方で日本人はこの「空気が読める」ことのちょうど裏返しの意味に当たる、「空気に呑まれる」という危険性に対しても全くの無防備であると見ております。

 この「空気に呑まれる」というのはわざわざ説明するまでもないですが、本人の意思が知らないうちに集団の意思と同化されてしまう事を指しており、日本人も自分でそれ自覚しているのかよく、「日本人は自立性が少ない」と外人と比較して自分達を評価しています。
 「空気を読む」と「空気に呑まれる」はどちらも個人の意思が集団の意思と同化するという意味では全く同じであり、この両者を分けるの点というのは言ってしまえばその個人を取り込む集団の意思や行動がまともであるか異常であるかの一点に尽きるでしょう。簡単に例えを出すと、集団に依存を強める先が普通の企業やサークルであれば「空気が読める人間」であり、ブラック企業やカルトサークルであれば「空気に呑まれる人間」といったところでしょうか。

 ここで結論を述べさせてもらうと、現代、というより以前から日本人は空気を読むことに注力しすぎるあまりに実際には空気に呑まれていることが少なくないのではないかと私は考えております。それこそ通常の判断であれば明らかにおかしいと思える行為も、「みんながやろうとしているのだから」で片付けてしまい、わざわざ自滅の道を自ら辿ってしまうことも日本人には多い気がします。

 卑近な例を挙げるとこれは近所の知り合いの話ですが、周囲で流行っているので本人もそれがかっこいいと思ったのか彼は中学生の頃からしょっちゅう自分の髪の毛を茶髪に染め始め、その後も過度に洗髪を繰り返したためかまだ二十代にも関わらずすでにハゲが大きく進行してしまっており、現在では外出時に必ず帽子を被って出かけるようにしているそうです。また同時期に流行った日焼けサロンにて行うガングロファッションについても似たようなことが現在起こっているらしく、無理な日焼けを行っていたために皮膚がんを発症する若者がこのところ増えていると聞いております。どちらも当時からそれぞれの危険性が訴えられていたのですが、そうした声に耳を傾けず一時の流行に乗ったために将来の自分を大きく制限してしまうというのはまさに空気に呑まれてしまった結果だと思います。

 そして今度は過去の大きな例になりますが、私も大ファンの昭和史家の半藤一利氏が戦後すぐの時期に戦争遂行に当たって重要な地位についていた陸海軍の軍人らに対して数多くインタビューを行った際、一体いつ頃から対米戦を意識、決意し始めたのかと聞いったところ元軍人らは、「なんとなく、周りがアメリカとの戦争をしなければならない空気だったから」と答える人間が非常に多く、誰も明確な戦争の目標や必要性を答えることができなかったそうです。

 実際に開戦当時の状況を調べると日本が超強国アメリカと戦って勝つ見込みなど全くなく、敗戦するリスクに見合うほどの開戦する価値はほぼ皆無と言っていいものでした。よく一部の評論家はアメリカの貿易制限や最後通牒のハル・ノートによって日本は追い詰められた挙句に戦争せざるを得なかったと主張していますが、戦争によって日本が受けた壊滅的な損害とハル・ノートの条件(南部仏印、中国からの撤兵)を比べるのであれば、結果論ではありますがそれこそ比較にならない差が歴然とあります。

 では何故それほどまでに日本は危ない橋をそれこそ政府、国民揃って渡ろうとしたのかと言えば、先程の半藤氏のインタビューに対する元軍人らの答えのように「なんとなく」こと、「空気に呑まれた」ためだと私は考えます。よく国民は暴走する政府によって戦争に巻き込まれたと言われておりますが、当時において日本の戦争行動を批判していたのは石橋湛山ただ一人で、やはり大多数の国民も開戦を歓迎したそうです。

 私は日本人は過剰に空気を読もうとするあまり、空気に呑まれやすい民族になっていると見ております。どれくらい過剰に空気を読もうとするかについては明日あたりにまた疎外論の話と合わせて解説しますが、なんでもかんでも空気を読むことがいいことだと考えるのは一時やめて、周りに流されない独立した判断力を自覚して持つようにするべきだと私は思います。それこそ周囲から「空気を読め!」と言われても、「空気に呑まれるな!」と言い返せる人間が社会から弾き飛ばされないくらいに。

2009年12月4日金曜日

火付盗賊改方 中山勘解由

 先に哲学関係の記事を一本書こうと思ったら筆があまり進まなかったので、方針転換して今日は悩まずに書ける歴史記事にします。哲学系の記事が好きな人は、また明日来てください。(´▽`)ノ

 それでは本題に入りますが、「火付盗賊改方」と来ると、恐らく大半の方は小説「鬼平犯科帳」の主人公、鬼平こと長谷川平蔵を思い浮かべるかと思いますが、私はというとほかの人とはちょっと違い、今日取り上げる中山勘解由(なかやまかげゆ)という人物を思い浮かべます。恐らくこの中山勘解由は非常にマイナーな人物かと思われるので、私もあまり知っているわけではありませんが知っている限りでご紹介します。

 この中山勘解由、正式名は中山直守という人物は長谷川平蔵の時代より以前の4代目徳川家綱の時代の人物で、火付盗賊改方の初代長官とされる人物です。そもそも勘解由が所属した火付盗賊改方というのは一体どういう組織というと、言うなれば江戸時代における凶悪犯罪対策班のようなもので、当時の犯罪捜査に対して大幅な捜査権を持った警察組織のことです。それだけにその捜査方法や取締りの苛烈さは当時からも有名だったそうで、あえて現代にたとえるなら年中ヤクザとやりあっている兵庫県の公安といったところでしょうか。

 そんな火付盗賊改方初代長官の中山勘解由という人物はどんな人物かと言うと、当時の江戸市民を大いに震え上がらせる火付盗賊改の基礎を作ったとだけあって厳正な人物だったらしくついたあだ名も「鬼平」ならぬ「鬼勘解由」だったそうです。私がこの人物を知ったのは「三国志」で有名な漫画家の横山光輝氏の「時の行者」という作品なのですが、その作品においては以下のようなシーンがありました。

 江戸で火事が起きた際に道端に落ちている荷物を拾った男がおり、この男に対して勘解由はただ手に取っただけだと言う男に対して盗難を図ろうとした疑いがあるといって、問答無用で即刻打ち首にしてしまいます。
 実際には火付盗賊改方は捜査権はあれども裁判権は持っていないのでこの話はフィクションかと思いますが、このエピソードに加えて横山氏の同作品には、押し入った強盗が火付盗賊改方に取り囲まれたために家人を人質に取るのですが、勘解由はただ一言、

「わしには人質の姿が見えぬ」

 と言って、なんと人質諸共に強盗犯を斬殺するのです。さすがにこれもフィクションかと思いますが……。
 ただこの作品を読んだのは私が小学生の頃でしたが、このあまりのインパクトに勘解由の名前を一発で覚えてしまいました。それと同様に「鬼勘解由」という異名がすごくかっこいいように思えてきて、いつか自分もなんでもいいから「鬼」という異名が付いてほしいと現在に至るまで勘違いし続けています。これの影響かはわからないけど、楠桂氏の「鬼切丸」という漫画作品も一時期はまりました。

 ただこの「時の行者」で書かれているような勘解由の苛烈な姿は、多かれ少なかれ実際の火付盗賊改方の姿を映しているかと思います。当時の江戸は木造の家が多かったために火事が多く、放火は問答無用で磔刑に処せられるほどであの有名な八百屋お七も例外なく同刑に処せられています。

 横山氏はこの「時の行者」の中山勘解由の回にて、中山勘解由の長男が当初は苛烈すぎる父親に反発していたものの知人が理不尽な犯罪で強殺されるのを受けて、このような時代だからこそ周囲から憎まれようとも誰かが「鬼」にならなければならないと決心するシーンでまとめております。実際に勘解由の息子の中山直房も火付盗賊改方の長官に就任しており、こちらが「鬼勘解由」だという説もあるようです。

 私もこの勘解由ほどではありませんが、たとえ周りにどれだけ憎まれる事になろうとも言わなければならないこと、やらなければいけないことは必ず実行するようにと心がけております。それこそ実際にこれまで気違い呼ばわりされた事も一度や二度ではありませんが、自分もいつか「鬼」と呼ばれる事を夢見て今後も信念を貫いて生きて行こうと思います。

2009年12月3日木曜日

鳩山家を巡る資産疑惑

 事業仕分けの終わった今現在で最もホットな政治の話題とくれば、それはやはり鳩山由紀夫首相の偽装献金問題でしょう。この膨大な額の献金の出所について検察は、その大半に当たる9億円は鳩山首相の母親から出されていたものと発表し、近く秘書とともに現在は手術直後という事で見合わせていますが鳩山首相の母親も聴取を行うことに決めたそうです。

 今回のこの献金騒動は結局なんだったのかと言うと、前からも申しておりますが結局の所は体のいい脱税だったというのが真相と見てもう間違いはないでしょう。前に私が書いた「鳩山首相の献金疑惑について」の記事にも書いていますが政治資金団体が管理する資金であれば相続税が発生しないため、恐らく鳩山首相の母親は自分の生前の間に保有する資産を相続税に取られる前に子供に委譲しようとして今回の事件を起こしたのでしょう。

 これに対して鳩山首相は母親からそのような献金が行われているとは知らなかったと強弁しておりますが、自分の資金管理団体に九億円もの、しかも身内から融資が行われていたにも関わらず知らなかったと言うには一般の感覚からしたら無理があります。また仮にそうだったとしても、今回の疑惑の発端となった総選挙前に発覚した故人からの献金疑惑について鳩山首相は自己調査を行ったと説明してましたが、その調査時にどうして気がつかないというのもまたおかしな話です。もっともその時の事故調査報告も、今度は本当に献金した人を献金リストから外すなどザルな調査もいいところでしたが。

 この鳩山氏の献金疑惑について佐野眞一氏がその著書「鳩山一族 その金脈と血脈」(文春新書)において、他の政治家が活動資金の捻出に苦しむ中、鳩山家は逆にその有り余る資産によって首を絞められると評していましたが、まさにこの言葉が示すとおりの結果となってしまいました。
 ただこの事件で気になるのが、前回の記事でも最後にちょこっとだけ書いていた弟の鳩山邦夫氏についての疑惑です。

偽装献金、鳩山邦氏に説明求める=自民・谷垣氏(時事ドットコム)

 つい昨日から邦夫氏についてもこのようなニュースが報じられるようになりましたが、やはりというか邦夫氏の政治団体にも母親から4億円も献金されていたそうです。
 ただこの件について邦夫氏は、「わたしは見たことも触ったことも聞いたこともないから、全く分からない」と答えており、由紀夫氏ならいざ知らず言わなくともいい事まで言ってしまうほど嘘がつけない邦夫氏の性格からするとなかなか無視できない発言です。邦夫氏がこう言うのであれば由紀夫氏が知らなかったと主張するのも、私の中では俄然信憑性が増します。

 しかしそうなると、やっぱりこの偽装献金は鳩山氏の母親の独断+秘書の協力によって行われた事になってしまいます。佐野氏も述べていますが、母親の過剰な保護が息子を駄目にしてしまう一例になってしまうかもしれません。


  おまけ
 選挙前に民主党がマニフェストに掲げていた高速道路無料化ですが、本日政府は予算が足りないのと国民からの反発が強い事から来年度は北海道に限定して実験的に実施する案を発表しました。このニュースを聞いて私が咄嗟に思ったのは、北海道と来ると鳩山首相の選挙区で、なおかつ前回選挙では敗北したものの自民党の重鎮議員が数多くいる地域です。この北海道限定での高速道路無料化案は実験というのは建前で、実際の所は次回の選挙対策という意味合いの方が強いのではないかと感じた次第です。

2009年12月2日水曜日

ガンダムのOVA作品について

 たまには趣味の事も書こうかと思うので、ガンダムのOVA作品について書きます。
 それにしてもこの「OVA」という略称ですけど、意味は「オリジナルビデオアニメ」なのですが、90年代後半まではOAVといって、「オリジナルアニメビデオ」という同じ意味の略称もよく使われていたのですが時代とともにいつの間にかOVAに統一されていきました。まぁOAVだと「オリジナルアダルトビデオ」とも読めちゃうし、OVAの方が私もいいと思ってたけどさ。

 話は本題に入りますが、ガンダムシリーズのOVA作品は複数あって、今回私が槍玉に挙げるのは「0083 スターダストメモリーズ」と「08MS小隊」です。両者ともセールス的には非常に成功した作品なのですが、私の感想はどちらも決してそのセールスに見合うほどの作品ではないとあまり評価しておりません。その理由はというとどちらもメインであるMSの造形についてはそれほど不満はないのですが、両作品ともあまりにもストーリーの展開がだるく、なんていうか三文芝居を見させられているように感じるためだからです。

 具体的にどのような点が不満なのかというと、まず「0083」については私以外にもあっちこっちでいわれているようにヒロインのあのふざけた立ち位置ぶりに呆れさせられます。この作品はMSが敵役に奪われるシーンから始まるのですが、その強奪される瞬間を主人公とヒロインも目撃しているにも関わらず、何故かストーリーの後半になって突然その敵役がヒロインの元彼という設定が付け足されてしまうのです。ヒロインも強奪されるシーンにて敵役の顔をはっきり見ていて「誰だ?」とも言っているにもかかわらず、後半で元彼と設定されたばかりか主人公から離れてその敵役の側につくなど、その背信振りには今もネット上で「ガンダムシリーズ、最低のヒロイン」とまで揶揄されている程です。

 そんな「0083」に対してその後に作られた「08MS小隊」ですが、この作品については私は先程も言ったようにくだらない三文芝居が延々に続くように見た当初感じました。どんな所が三文芝居なのかというと、まず気弱だが心優しい部隊長である主人公が、小隊内の自分に心酔する部下や甘ちゃんだと見下す部下を率いて戦い、戦闘の中で敵軍の士官と恋に落ちて周りからもスパイかもと勘ぐられて、最後はみんなうっちゃってヒロインである敵軍士官と敵の謎の巨大兵器と戦うという、本当にこの程度の話です。

 それでもこの作品の前半部は東南アジアの密林の中でのゲリラ戦のような戦いが描かれており、その中の心理描写などはそこそこ面白かったのですが、なんか中盤に入ってヒロインとの絡みが多くなるにつれて段々と話がクサくなってきて、終盤に至ってはトチ狂ったヒロインの兄がヒロインが裏切ったと疑って銃で撃つのですが、打たれた弾がたまたまヒロインの持っていた写真入りロケットに当たって命が助かるという、今時コロコロコミックでもやらないようなクサい話が展開されていきます。
 ただこんだけクサい作品において唯一の救いとも取れるのが敵軍における中年軍人が圧倒的不利な状況の中、孤軍奮闘して次々とMSを破壊していくという戦闘シーンです。二児の父親ですでに40代の私の従兄弟の旦那なんて、今でも私に会うたびにこのシーンを話題に上げてくるので子供にまで、「父ちゃんの頭の中はドイツとグフだけや」とも言われております。

 という具合で散々に批判している両作品ですが、なんかこの前調べてみるとどちらも製作途中で監督が入れ替わっているそうです。そのためストーリー展開も途中でひっくり返されている所が多々あり、特に「0083」の後半の例のくだりについては一部スタッフからも明らかに前半との間に齟齬が生まれると反対されながらもあの展開が押し切られたそうです。
 こういった作品のストーリーは決して一人が決めるのでなく脚本スタッフがみんなで話し合って作られるそうですが、それを推しても両方ともとんでもない方向に舵を切ったなと思ってしまいます。逆にこれはOVAではありませんが、同じガンダムシリーズでも映画の「F91」はたった二時間の映像の中によくもあれだけのストーリーを詰め込んだものだと見る度に感心させられます。それゆえか、先程に出てきた従兄弟の旦那も「F91」を最高傑作だとしきりに主張してきます。

2009年12月1日火曜日

エリート教育は必要なのか

 リンク相手のSophieさんの「フランスの日々」にて昨日、「フランスで将来リーダーになる運命を感じて成長する人たち」という、フランスにおけるエリート教育について解説されている記事がアップされました。大まかな内容を私の解釈で述べると、フランスでのエリート教育の場であるグランゼコールの社会的価値と一般人の評価、そしてグランゼコール出身者のその後の人生の歩み方について書かれてあります。
 この記事の中では日本とフランスのエリート教育の違いについても簡単に触れられているのですが、ちょうどこの辺りの記事を書こうと思っていた矢先なので便乗する形で、日本でエリート教育は必要なのかどうかについて私の考えを紹介しようと思います。

 まずいきなりなんですが、私はつい三ヶ月前までエリート教育はやはり世の中に必要なのではないかと考えておりました。何故そう考えたのかというとこれまで私が生きてきた経験から、基本的に仕事というのはよっぽど特殊なものでない限りは誰がどんな仕事をやるかというより、どれだけその仕事をやってきたのかによって能率や成功率が決まるように思えてきたからです。これは単純に言い換えるなら「理論より経験」、「Don't think, feel(#゚Д゚) !!(考えるな、感じろ)」、のようなもので、陶芸などの伝統工芸からオフィスでのデスクワークに至るまで、それぞれの作業系統ごとに理論知より経験知の方が仕事に及ぼす影響力が高いのではないかというわけです。

 仮にもしこの通りに個人の資質以上に経験が作業の効率に影響を与えるのであれば、下手に作業をころころ変えるよりも自分が生涯をかけて専門とする仕事に若いうちから携わるに越した事はなく、非常に高い能力や専門性が求められる上になかなか経験を積み辛い経営者や政治家といったリーダー職には少しでも個人的資質の高いエリートに絞って経験させ、育てるべきではないかと私は考えたわけです。

 はっきり言って同じ会社の仕事でも一般事務と経営ではあまりにも仕事内容に繋がりが薄く、やるだけ全く無駄というわけではありませんが、その会社を将来背負って立つような人材を作るのであれば早くから経営に関わる仕事をやらせるべきかと思っていたわけです。
 現に欧米、特にSophieさんの取り上げたフランスや階級社会のイギリスではこの傾向が非常に強く、出身大学や専門性によって入社時から社員同士に待遇面や責任範囲において大きな差があり、その差は時間とともにますます開いていくとまで言われております。

 しかしここまで読んでもらえばもう想像はつくでしょうが、現時点で私はこのようなエリート教育論が何が何でも悪いとまでは言うわけではありませんが、従来の日本の入社時のスタートラインは同じという平等なシステムも負けてはいないように考えております。もちろんこちらも、何が何でもいいと言うつもりはありませんが。

 何故このように立場を三ヶ月前に変えるようになったのかというと、ちょうどその頃このエリート教育の必要性についてあれこれ考えている時に恩師に会い、この件について尋ねてみると次のようなエピソードを教えてくれました。

「昔の日本の会社は高卒だろうが東大卒だろうが新入社員はみんな底辺の仕事からやらされていました。国鉄などは典型で、切符切りから信号係などいわゆるブルーカラー系の仕事を主にやらせていました。
 確かにこのような仕事は一見すると将来出世して経営者となる人物が担う仕事と無縁そうに見えますが、私が以前に会ったある会社の社長は一番最初に会社のクレーム担当の仕事をやらされたそうで、そのときにいろんな会社からクレームを受けて対応していた事でどのような事態が起きると大問題に発展するのか、どの取引先が口うるさくてどの取引先が自社にとって大口なのかなどと、社長となるのに必要な知識を実際に社長になった時点で始めから持ち合わせていたそうです」

 こう踏まえた上で先生は、末端の仕事というものは実際には経営知識の宝庫のような場所で、たとえ短い期間でもそういった仕事に触れる事が将来経営者になる上でも非常に重要だと私に教えてくれました。

 この先生の話を聞いた後に自分でも改めてこの件について考えてみたのですが、考えれば考えるほど会社の末端として働く重要性の方がエリート教育よりも必要性が高いのではと思い直すようになってきました。先生の言われる現場にある経営知識はもとより、私が独自に着目したのは近年の企業が起こした事件や事故の原因でした。

 近年に起こった企業の事件や事故は様々ですが、それらがどうして起きたかという根本的原因を探っていくとそのどれもが経営陣による現場の声の無視が大きな要因となっている例が非常に多く思えます。かつての三菱ふそうの欠陥車問題など、現場では問題だと報告されていた事実が上層部によって無視、もしくは黙殺をされたことで大問題に発展してしまったケースが多々あり、こうした例を見ていてよく思うのは青島刑事じゃないけど、「作業は現場でやってるんだ、社長室じゃない!」と思うくらいの現場作業員と経営陣の意思疎通の乖離です。

 この現場と経営の乖離ですが、すでに今の日本でも大分起きちゃっていますが欧米のようなエリート教育やシステムでエリートが始めから経営の側で仕事をするとなると、ますますこの乖離が大きくなるのではないかという気がします。逆を言えば末端からスタートさせる昔の日本の教育システムにて現場と経営の双方の立場を経験させる事で会社全体を見渡せる人材を作れるのであれば、それは欧米のエリート教育で生まれる経営技術に特化した人材にも決して引けを取らないのではないかとも思います。
 無論社長や役員といったポストは限られているので、スタートラインは一緒ながらも中年に差し掛かる頃からは徐々に育てる人材を絞る必要はあるとは思いますが、それでも最初に新入社員全員が末端の仕事に就くという価値は計り知れないでしょう。

 近年は日本の企業でも入社時の差別化が進んでいると言われており、先程挙げた国鉄こと現JRでも駅職員はバイトの人員がやることが増えてきましたが、初心に帰って末端の現場を社員に体験させるのも一考かと思います。ただ体験するのは新入社員よりも、社長や役員といった人の方が初心に変える意味では価値が高いかもしれません。JRの社長がラッシュ時の乗員を押し込める仕事やるとしたらいろいろと面白そうだけど。

 ただ一つ残念なのは、恐らく新入社員時代にそのような末端の仕事をやっていたであろう現JR西日本の経営陣による、福知山線脱線事故の対応は事故報告書作成の委員を買収しようとするなどあまりにも一般感覚とずれたものばかりで、経験したとはいえ何十年も立てば現場のことなんてわからなくなるものなのかと自信をなくしてしまいます。
 その一方、不況で人員調整が難しかった事から今年のトヨタは創業以来初めて大卒新入社員を一時工場のラインに並べたそうです。これらの社員が将来大活躍してくれれば、私も多少は自信を持ち直すのですが。