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2010年5月31日月曜日

総理大臣の評価の変化

 もしかしたら私だけかもしれないですが、近年、戦後の総理大臣に対しての評価に変化が起きているように思えます。それまで高く評価されていた首相が批判されるように、逆に批判しかされなかった首相が評価される面が出てきたりと、ちょっとそうやって評価の変化が見受けられる首相を幾つか挙げると以下のようになります。

評価が下がっている首相
・吉田茂
・佐藤栄作

評価が上がっている首相
・岸信介
・竹下登
・橋本龍太郎

 これは私の見方ですが、少なくとも吉田茂については以前より確実に評価が落ちていると断言できます。私が小学生だった頃は戦後最高の総理大臣の名を欲しいままにしていましたが、近年は事実上騙し打ちにした鳩山一郎への態度や不完全な形での安保条約締結などが槍玉に挙げられる事が増えてきて入るように思えます。
 同じく評価が下がっている佐藤栄作については、この人は在任中もそれほど人気はありませんでしたが、やっぱり西山事件が明らかになったのはマイナス以外の何者でもないでしょう。

 評価が上がっている首相については詳しく解説もしていいのですが、特筆すべきは竹下登ではないかと思います。彼については孫のDAIGOの活躍もあるかもしれませんが、国際乱発によって財政が逼迫していくにつれて当時に消費税を導入した慧眼さと決断力について評価する声をこのところよく耳にします。実際に竹下内閣は消費税と心中したような内閣ですし、よく決断したなと私も評価しております。

 なお先ほど出てきた孫のDAIGO氏ですが、なんでも以前にテレビ番組で政界入りするつもりはなかったのかと聞かれた際、

「おじいちゃんは子供だった自分にも熱心の政治のことを話していて、中途半端な気持ちでこの世界へ入っちゃダメなんだと思った。だから自分は自分が熱中出来るロックの世界へ入る事にした」

 テレビで見るとややとぼけた印象のあるDAIGO氏ですが、ちゃんと物事を考えて将来を決めているんだとこの話を聞いて感心しました。折角だから鳩山兄弟を初めとして、二世政治家達にも聞かせてやりたい言葉です。

2010年5月30日日曜日

E・フロム「自由からの逃走」

 また学問的な話です。
 社会学の名著として有名なものの一つに、エーリッヒ・フロム(通称、E・フロム)の「自由からの逃走」という本があります。この本の内容を一言でまとめるのならば、一体何故ファシズムがドイツやイタリアで政権を獲得するまでに至ったのかという理由について解説されております。

 私も原典を読んだわけじゃないので詳しい所までは理解していませんが、フロムはこの本の中で、「人間の精神は過度に自由な状態にされるとかえって不安を覚える」と主張しております。その例としてフロムは、一次大戦後のドイツで何故ファシズムが勃興したのかを題材に取っております。

 第一次大戦後、当時のドイツは世界大戦を引き起こしたという反省と勝利国からの厳しい要求によって「ワイマール憲法」という、当時の世界で最も民主的とされる憲法を新たに作成して嗜好しました。それまでのドイツは明治時代の日本も参考にしたまでの立憲君主制に基づく比較的お堅い憲法だったのですが、戦後は一転して個人の人権や行動の自由が大幅に認められる体制となったわけです。

 普通に考えるならば自由が広がることに越した事はないように思えますが、それまでどのように生きていくか、生活していくかなどが細々と指示されていたのが急に自由になったわけで、縄を外されたもののどうしていいか分からない状態にドイツ人は至ったそうです。
 そんな最中、ドイツに現れたのがあのヒトラー率いるナチス党です。ナチス党は民主的な国の憲法とは対象的にドイツ国民はかくあるべし、国民は強い政府によって管理されるべきであるという主張をしては支持者をどんどんと拡大して行きました。

 フロムはこのナチス党の拡大について、当時のドイツ人自身が国家による強い管理を求めたが故の結果だと分析しました。一次大戦後にドイツ人は大幅な思想、行動の自由を国から保証されましたが、大多数の国民はその与えられた自由な環境の日々に逆に不安を覚え、結果的には真逆ともいえる全体主義のナチス党へ支持を傾ける事になった、というのがフロムの主な主張です。

 もうすこし簡単な例を私の方から紹介すると、ある仕事の現場でそれまでいちいち指図されていたのが突然、「今日から好きにしていいよ」と言われたとします。恐らく大体の人はこう言われると戸惑い、中には、
「好きにっていうことは、仕事しなくてもいいんですか?」
「その辺も、自由に決めていいよ」
「上の人は何もいわないんですか」
「それをどう考えるのも、君の自由だよ」
 というやりとりなんてあった日には、それまでの指図されていたやりかたに不満を覚えていたとしてもそれまで通りの作業を大抵の方はやってしまうかと思います。

 このように人間というのは何をやるにしてもいろいろ管理、指図される拘束された状態に不満を覚えていても、急に自由な状態に放り投げられたら言いようのない不安を覚えるというのがフロムの理論です。
 私の解釈だと、人間は段階を経て徐々に自由であったり拘束された状態になっていくのであればそれほど不安を感じないでしょうが、ある日突然に行動の自由が認められたり、逆に束縛されたりすると人間は心的な負担(ストレスや不安)を覚える、というように考えております。

 日本社会でこのフロムの理論が当てはまりそうな場所を私の中で挙げるとしたら、大学進学時と就職時が最も適当かと思われます。
 日本の高等学校は他国と比較しても管理が厳しく、特に体育会系の部活動などでは土日の練習があって当たり前です。また授業出席も「出て当たり前」で、科目もあらかじめ決められているなど生徒に認められている選択の自由は少ないといわざるを得ません。

 それが大学に進学するとなると、授業の出席から科目選択まで突然選択や行動の自由が広がります。自由が認められて素直に喜ぶ人もいますが、中には環境になれず五月病になる学生もかねてから存在します。
 同じ五月病でも企業などで働くようになる就職時に罹るものは大学進学時とはちょうどベクトルが逆で、それまで授業を勝手にサボっても、昼間からふらふらしていても何も言われなかった学生時代から遅刻欠勤厳禁の社会人となり、自由な状態から急激に管理されるようになることで心的負担を感じることから起こるのではないかと、私は見ております。

 ここで一体何が問題なのかというと、管理された状態から自由な状態へ、自由な状態から管理された状態へ急激に移行する事が一番問題なのです。
 本来ならば小学生から中学生、中学生から高校生へと上がっていくにつれて生徒の行動の自由を広げて彼らの自主性を高めてあげねばならない所を、就職状況が厳しくなっていることから今の日本では、「大学に入ったら好きな事してもいいから」を旗印に、小学生から予備校通いなどと以前より管理が強まっているように思えます。企業の方も不況ゆえか、どうも人から話を聞いていると以前と比べて社員の勤怠管理やら書式など細々とした管理が強まっているように感じます。

 大分以前に書きましたが、日本は自由という概念を自分達で努力した結果獲得したのではなく、戦後にアメリカから与えられる形で得ました。これを押しつけであったと言う人もいますが私としては民主主義世代ゆえに、あの時代にアメリカからもらっといて良かったと素直に感じます。
 しかしそう思う一方、独立した思考で以って独自に行動できる人であれば自由な環境はありがたいものの、圧倒的大多数の人々にとってはかえって自由な状態であるよりもある程度次に何をするのかを指示される状態の方が居心地がいいのではないかとも考えています。そういう意味では自由というのは本質的には厄介な代物で、敢えて言うなら熟練したパイロットにしか操縦できない戦闘機みたいなものなのかもしれません。

 やや中途半端な引きになりましたが、次回では自由は大衆にとっては迷惑な代物だということを前提に、大衆を束縛する価値、国家としての物語の必要性について書こうと思います。

2010年5月29日土曜日

児童虐待致死の厳罰化機運について

 今ではすでに廃止されましたが、ちょっと前まで日本では「尊属殺人罪」という刑法がありました。これは自分の父親や母親といった親殺しをした場合、その殺人者には他人への殺人より一段重い刑罰(無期懲役か死刑。執行猶予は認められない)を課すという刑だったのですが、同じ殺人という行為に対して刑罰が不公平ではないか、また問題のある両親で親殺しをした子供に情状酌量の余地がある場合はどうなるのだといった議論が行われた事から数年前に完全に廃止されました。この尊属殺人は祖先を敬い、従うべきだといういわば儒教的、朱子学的概念から作られた刑罰で、このような概念が戦後以降一貫して弱まった事も廃止につながったと言われております。

 最近、とうとう法学にもチャレンジとばかりに友人から薦められた入門本を読んでおり、その本の中でもこの尊属殺人について触れられていたのですが、その箇所を読んでいる最中にふと突然、「この尊属殺人の逆はあるのか?」という問いが頭をもたげました。尊属殺人の逆、つまり親殺しの逆の子殺しです。

 私も何度かこのブログで児童虐待死事件を取り上げてきましたが、そのどれも目を覆いたくなるような事実ばかりで、こんな残酷な行為がどうして行われるのかと事件が起こる度に理解に苦しみます。ではそんな子供を虐待死させた親達はその後一体どんな判決を受けているのかですが、私がざらっと見た所、大体懲役五年前後の有罪判決を受けている事が多いようです。
 この懲役五年という数字を見た私の印象はというと、やはりその行為に対する刑としては軽すぎるんじゃないかという印象でした。

 通常、自分の子供を虐待して死なせた場合は「保護責任者遺棄致死罪」という刑罰が適用されて上記のような判決に落ち着くのですが、近年起こっている虐待致死事件の内容を見ていると子供を殺す親には子供に対して明確な殺意を持っており、本人らも裁判中にそれを認めております。そのため、私は言い方こそ虐待致死ではありますがこれら事件は事実上、親から子への殺人行為と言っても差し支えないかと考えています。

 仮に誰かが殺意を持って他人の子供を殺した場合、恐らくその人物には殺人罪が適用されて懲役十年に近い重たい刑が課せられるでしょう。しかしそれが自分の子供だった場合、現状では普通の殺人などより一段低い刑が課せられるということになります。本来、保護すべき責任のある自分の子供を逆に死に追いやる。これほどの残酷な行いに対して普通の殺人より刑罰が少ないというのは、どうにも不公平に思えて納得し難いです。
 また幼い子供というのは親以外に頼る者がなく、外で誰かに助けを求めるという術すら知りません。それこそバット持って暴れる中学生くらいの子供であれば話は違いますが、何も出来ないとわかっている幼子を手にかける親であるとすれば人格的にも疑いがあり、生半可な刑罰ではむしろ物足りない気すらします。

 このように感じているのはどうやら私だけでなく、ネット上を探すと似たような意見も多く見つかり、厳罰化を求める声があちこちで上がってきているようです。折も折で少子化が問題となっている時代であり、国としても子供を大事にする、保護するという姿勢がこれからも求められて行く事を考えると恐らく五年以内になんらかの法改正がなされるのではないかと思います。
 ただ付け加えておくと私は、このような児童虐待致死は何も最近になって増えたのではなく、恐らく以前からも数多くあったものが最近になって注目されるようになったというのが実情だと見ております。最初の尊属殺人もそうですが、刑法というのはその時代毎の社会的価値観に左右される事が非常に多く、この虐待致死の厳罰化を求めるという私の意思も時代に感化されたものなのかもしれません。

2010年5月27日木曜日

日本漫画キャラ傑作選~ポップ~

 最近梅ジュース目当てに地元の喫茶店に寄る事が増えてきたのですが、そこに置いてあるもんだからついつい「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」という、私の世代で知らない男の子がいるならそいつはモーグリもびっくりなモグリだと言えるような漫画を読み返しております。さすがに細かい内容までは語りませんが、元々エニックスと関係の深かったジャンプ(ドラクエの発売情報などは当時ジャンプが一番初めに報じていた)ゆえ、ドラクエ世界の設定を下地にしたオリジナルストーリーは私のみならず当時の男の子を夢中にさせていました。

 そんなわけで懐かしさもあって手に取っているのですが、なんというかどうも感覚が違う、というより成人した今になって読んで見ると子供の頃と違った視点で見ているのが自分でも分かり、すでに何度か読んでいるのにとても新鮮な面白さを覚えます。
 特にそれを強く感じさせられるのは、恐らくこの漫画の中で最も人気があるキャラと言っても過言ではない「ポップ」というキャラの立ち位置です。

 知らない人向けに簡単に説明すると、このポップというキャラは登場当初は臆病で無責任で、主人公を置いて勝手に逃げ出したりするなどする典型的なへたれキャラでした。しかし物語が進むにつ入れて徐々に芯が強くなり、いつしかパーティの中でも誰よりも沈着で責任感あるキャラへと変わって行きます。
 なんでもWikipediaの解説を見ると原作者もこのポップが作品の中で重要なキャラになると初めから認識していたそうで、担当編集者から「もう殺しちゃいなよ」などとストーリー構成で指示を受けても、彼というキャラクターがこの漫画でどれだけ必要なのかを何度も訴えて育てていったらしいです。

 それでこのポップの見方が私の中でどのように変わったのかというと、子供の頃は漫画で描かれているまんまに、「最初は頼りなかったけど、すごく成長したキャラだな」という認識でしたが、大人となった今だと、「ポップのように困難に直面しても、逃げ出さずに立ち向かえるだろうか?」という事ばかりが頭をよぎります。
 この漫画はジャンプお得意のヒーロー物ということで主人公のダイを初めとしたキャラクター達はそれがさも当然かのように勇敢に戦い続けるのですが、ポップはそんな中でも最も一般人の感覚に近く、強大な敵に対して素直に怖れや恐怖を露にします。もちろん漫画を読む側は気楽なものですが、仮にポップの立場に自分が立った場合、ポップのように恐怖を感じながらもそれを乗り越えて行動できるのかと読み返してみて思うようになりました。

 原作者も恐らく、「臆病者だからこそ勇気がいる」ということをこのポップというキャラを通して読者に伝えようとしていたのかと思います。特に作中でポップは、記憶を一時失った親友のダイを守るために一度自爆を行って命を落としていますが、ジャンプだと甦れるからよかったものの、あれほどの決断や行為を自分の親友に対しても行えるかと言ったら、それがどれだけ価値ある行為だと分かっていとてもじゃないですが自信がありません。

 そのポップが初めて勇気を出して行動に移す際、いかにもな小悪党キャラの「まぞっほ」から諭されるシーンがあるのですが、その時のまぞっほのセリフをちょっとここで引用させてもらいます。

「確かにワシも昔は正義の魔法使いに憧れた。でも、あかんかった。自分よりも強い者に会うと震え上がっちまって逃げ出した。 そして今はこんなざまじゃ」
「仲間を見捨てるような者でもつとまるのかね かの有名なアバンの使徒というのは?」
「勇者とは勇気ある者ッ!! そして真の勇気とは打算なきものっ!! 相手の強さによって出したりひっこめたりするのは本当の勇気じゃなぁいっ!!!」
「小悪党にゃあなりたくなかろう…?」
(サイト:悪の華「悪役名簿」様より引用)

 このまぞっほのセリフを読み返した時、自分はポップよりもまぞっほに近くなってしまったのかもなぁという気がして、ポップが如何にすごい奴だったのかを改めて思い知りました。まぁまぞっほも、決して悪くはないんだけど。

2010年5月26日水曜日

新党改革、鳩山邦夫氏への接近について

新党改革、鳩山邦夫氏の長男を擁立へ(産経新聞)

 今日は社会学関連のネタでも書こうと思っていたらこんなニュースです。結論から言えば、非常に呆れさせられたニュースです。

 上記リンクに貼ったニュースの内容は、桝添氏が代表を務める新党改革が次回の参議院選挙に鳩山邦夫氏の長男を擁立すると発表したことを報じるニュースです。このニュースを見る上でいくつかポイントがあるので、幾つかおさらいしましょう。

 まず一番重要なポイントは、桝添氏が自民党を離党した際にすでに離党していた鳩山邦夫氏と距離を置く発言をしていたことです。邦夫氏は離党の際、「自らが坂本竜馬のように火の玉となって桝添氏と与謝野氏を結びつける」と発言していましたが、呼びかけられた桝添氏、与謝野氏はというと邦夫氏が鳩山由紀夫首相同様に実母から毎年多額の偽装献金を受け取っていた事から世の批判を受けるとし、どちらも新党を立ち上げたものの邦夫氏に参加を呼びかける事はなく、むしろ思想や心情が異なるなどといっては距離を置く発言を繰り返しました。これはこれで、邦夫氏が見事に火の玉となったとも見れますが。

 それが今回、実質桝添氏が率いている新党改革が何故邦夫氏の長男をここに至って擁立するのか。邦夫氏の長男はこれまで邦夫氏の秘書をするなどして兼ねてから政界入りを狙っていたようですがそれがどうして自民党でも無党派でもなく桝添氏の党から出馬するのか、これまでの桝添氏の邦夫氏への態度を見るならばどうにも腑に落ちません。

 結論を言うと、桝添氏の真の狙いは鳩山家が持つ潤沢な資金だと私は見ております。
 かねてより評論家らの間では、桝添氏も与謝野氏も新党を立ち挙げてからは邦夫氏と距離を置く発言をしているものの、内心では党運営を行う上で金がかかるために邦夫氏が持つ膨大な資金を欲しがっているのではと言われていました。実際に現与党の民主党も結党間もない頃は安定した収入源を持っていなかったため、運営面で鳩山由紀夫、邦夫兄弟が拠出する資金に負う所が大きかったそうです。

 私の見立てでは桝添氏は偽装献金問題があるために表立って邦夫氏を引き入れる事はしないものの、彼の長男を擁立して議員にすることで邦夫氏に恩を売り、党運営の資金を迂回なり直接なりで鳩山家から得ようとしているのではないかと思います。それこそ、かつて邦夫氏が実母から金を受け取ってその金で民主党を支えたように。

 私は政治の世界は奇麗事ばかりではやって行けない世界で、ある程度清濁を合わせ飲まねばならないとものだとは考えています。しかしこの鳩山家の資産については現時点では明らかに別問題で、ほんの少し前に自民党時代の与謝野氏が「平成の脱税王」と鳩山由紀夫首相を非難したほどその問題性は比較にならず、また今の民主党の混迷ぶりも元を正せばこの鳩山家の資産にあることを考えると今回の桝添氏の邦夫氏長男の擁立は承服しがたいです。

 先日にたまたま見た「太田総理」という番組にてかつてタレント候補として民主党から出馬して見事当選した大橋巨泉氏が出演していましたが、その際に大橋氏は鳩山由紀夫首相について、当時から民主党議員らは由紀夫氏はその日に三回人に会ったら三回意見を変えるほど優柔不断でリーダーとしては問題のある人物だと理解していながらも、民主党結党当初に多額の資金を出した事から誰も逆らえず、金の力で地位を買っていたような人物だと評してましたが、私もこれを聞いてなかなか上手い人物評だと思いました。なお、その結党資金はどこからでていたかとなるとそれはやはり実母から送られてきた物で、由紀夫氏自身がそれを知らなかったわけがないとも大橋氏は述べていました。

 言ってしまえば由紀夫氏はリーダーとなれるような人物でないながらも、鳩山家の資産があったがゆえにそれなりの地位に昇ったという事です。今の由紀夫氏の仕事ぶりを見ているとまさにその通りだという気がするのですが、今回の新党改革の邦夫氏長男擁立でまた同じことが繰り返されやしないかと感じ、先立つものがないとはいえ、いくらなんでもこの時期に下心丸出しの行動に出た桝添氏に対し如何なものかと思う次第です。

 それにしても、世の中やっぱ金かよ( ゚д゚)、ペッ

2010年5月25日火曜日

北朝鮮、韓国艦撃沈事件について

 すでに各ニュースでも報じられていますが、先日起きた韓国海軍哨戒艦の沈没事件の原因が北朝鮮による魚雷攻撃によるものと韓国を初めとした調査団が発表し、韓国の李明博大統領、北朝鮮の金正日総書記がそれぞれ互いに非難する声明を出して俄かに朝鮮事情が慌しくなって来ました。このニュースについて昨晩に友人に意見を求められたので、今日はそれに補足する形でこの問題に対する私の意見を紹介しようと思います。

 まず発端となった韓国軍艦の沈没が北朝鮮によるものかについては、紛れもない事実とみて間違いないでしょう。この沈没原因の調査は韓国のみならずアメリカを初めとした複数国によって組織された調査団によって報告されたもので、調査団が発表した北朝鮮製魚雷設計図と現場に残っていた遺留物が一致していたという事実、これまでの北朝鮮の前科、そしてなによりも北朝鮮贔屓の中国政府が「各国に慎重な対応を求める」と、玉虫色の声明を出したこと一つとっても判断するに十分でしょう。

 ではどうして北朝鮮はこんな簡単にばれるような、大それた軍事行動を取ったのでしょうか。今回の北朝鮮の目的について北朝鮮関係の各学者らは、世代交代に当たって何かしら大きな軍事行動を取って示しを付けようとしたのではないかと述べていますが、普通に考えれば馬鹿馬鹿しい限りですがあの国だったら本気でやりかねず、私もこの説を支持します。
 また敢えて深読みするのであれば、復帰間近と言われていた六カ国会議においてなにかしら狙いを持って起こしたのかもしれません。六カ国会議そのものを拒否しようとしたのかもしれませんし、仮に参加するとしても今回の軍事行動を以って何かしらの譲歩を迫るとか、そういった思慮が働いたと考える事もできます。

 肝心の今後については、はっきり言って国際諸国が北朝鮮を追い込む事は難しいかと私は思います。というのも現在どの国も、それぞれがそれぞれなりにすねに傷を抱えてて思い切った行動が取れないからです。
 まず遠く離れた欧州諸国はそもそもアジア情勢に対して興味が薄く、その上ギリシャに端を発した金融問題で頭が一杯です。そして今回の事件の当時者でもある韓国も朝鮮事情が荒れるのではという懸念から昨日今日と株価が下がり、折角リーマンショックから立ち直って調子よくいっている所に水を差しかねないと慎重になるべきだという意見が出てきています。

 そして北朝鮮問題の最大のキーマンである中国も、さすがに今回のバレバレな軍事行動をかばい立てる事こそしなかったものの、現在上海万博が開催中という事もあって何が何でも隣国で戦争などといった有事にならないように押さえ込みにかかる事は想像に難くありません。もう一方のキーマンである米国も、そんな中国を押し切ってほど北朝鮮に圧力をかけるとは思えず、またオバマ政権自体が内政やアフガニスタン問題でただでさえ八方塞がりな状態です。
 最後に日本についてはなにも言う事がなく、北朝鮮にだけは強気だった安部政権であれば話しは別でしたが、今の政権に独自の外交を期待するのはまず無理でしょう。せいぜい、国連での非難決議に賛成票を投じるだけに終わるでしょう。

 恐らく北朝鮮も、各国がそれぞれこのような状態ゆえに今回のような大それた行動をとっても何も対策が取れない事を知って決断したかと思います。
 ただあくまで素人の意見として言わせてもらうならば、中国政府は内心、今回の北朝鮮の行動に対して怒り心頭に来ているのではないかと思います。彼らとしては何が何でも成功させたい上海万博の開催直後にわざわざ火の粉を浴びせかけるような行動を、しかも今月に金正日総書記が訪中しているにもかかわらず取ったというのは侮辱以外の何者でもないと受け取っているはずです。

 北朝鮮としてもなんでもかんでも中国の言う事を聞いていればイニシアチブをすべて握られるという懸念から、数年前から敢えて中国の意向とは真逆の行動を取るようになって来ております。この北朝鮮の動きに中国がどこまで我慢するか、最短だと万博が閉会する今秋が頃合で、この問題で何かしら動きがあるとしたらその時期かというのが私の結論です。

2010年5月24日月曜日

大学生犯罪の一般化

 ちょっと前にどの番組かまでは忘れましたが、あるゲストが昭和期に起こった「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を引用し、仮に今このような誘拐殺人事件が起きたとしても当時のように大きく騒がれないほど、現代はこのような猟奇事件が一般化して来ていると言っていました。このゲストの発言を聞いて私も素直にその通りだと感じ、凶悪犯罪件数が増えているかどうかについてはまだ検討の余地がありますが、かつてなら連日連夜取り上げられていたような猟奇事件のワイドショーにおける賞味期限は確実に早くなっては来ていると思います。

 ただこうした猟奇事件以上に私が一般化し過ぎて問題ではないかと感じるのが、今日の本題となっている大学生による犯罪です。
 一応、日本の最高学府とされている大学に通う人間は普通の感覚で言えばある程度選抜された学識者と見られるべきなのですが、すでに大学全入時代を向かえている事もあって大学生と言っても日本ではあまり泊がつかなくなっております。それでもかつての大学生はエリートとして扱われており、戦後直後に起きた「光クラブ事件」「日大ギャング事件」といったいわゆるアプレゲール事件の当時の報道は、「どうして学識もあり、将来を約束されているような学生がこのような犯罪に手を染めたのか」、といった論調で以って報じられたと聞いております。

 翻ってみて現在、たとえ大学生が詐欺や殺人事件を起こしたとしても余程の有名大学でなければニュースにすらなりません。まだオウム事件の頃は、「これだけのエリートが何故?」という議論が当時ありましたが、現在に至っては数年前に早稲田大学の学生を中心とした振り込め詐欺グループが逮捕された際に、
「早稲田の学生らだけあって、(詐欺)電話での対応マニュアルまで作られていた」
 という報道がされていました。なんていうか、反応に困るんだけど。

 他の人がどう思うかは分かりませんが、意識しない所で当たり前でなかったこのような概念が当たり前になっているという事に、私は大きく問題がある気がします。大学生は犯罪など起こすわけがない、という概念を持っている社会と、大学生でも変わらず犯罪を起こす、という概念の社会を比べるなら、やはりどうみたって前者の社会の方がまともそうに思えますし、目指すべき社会の形だと思います。実態はどうであれ。

 去年の年末に私は、ほぼ毎日のように東京のどっかしらの鉄道路線が人身事故で止まっていたことについてどこも報じないばかりか、誰もおかしいとは言わなかったことに、今の日本社会はどこか異常なのではないかと書きましたが、この所の犯罪に対する感覚もあってはならないほど麻痺し過ぎてやしないかという気がします。恐らくこのまま行けば、数年後には児童虐待に対しても今ほど報じられる事もなくなるかと思います。

 作家の渡辺淳一氏(勝手にナベジュンって略しているけど)はその著書の「鈍感力」において、気にしなくていいものを気にしないというのは一つの才能であり能力だと書きましたが、その一方で本当に気にしなければならないものに気がつかない、気にしないというのは鈍感力ではなくただの鈍感であって、あってはならない事だと述べていました。私はよく人から何事も気にしすぎだと言われていますが、今日ここで書いた今の日本社会の風潮に対する懸念も杞憂なのかどうか、悩みどころです。