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2010年6月30日水曜日

消費税増税で庶民は本当に困るのか?

 去年の衆議院選挙の選挙期間が一ヶ月以上もあったこともあるかもしれませんが、投票まで二週間を切っているにもかかわらず今度の参議院選挙は全く盛り上がりがありません。ワールドカップのおかげと言うかせいと言うべきか。

 ただそんな次回参議院選挙において、最大の争点と言うか議論の中心になっているのは菅首相がぶちあげた消費税増税議論でしょう。
 この消費税増税議論については賛否両論というより批判する声ばかりが大きく、出した本人の菅首相ですら身内の民主党からも反発食らって最近はこの件に触れなくなってきております。ただ私の意見を言わせてもらうと何も今度の参議院選挙が終わったらすぐに消費税を導入するとは言っておらず、将来的な財政を考える上で消費税を増税した場合はどうなるか、どのような増税の仕方がいいのかを議論するのであれば早いに越した事はないと考えており、むしろこの議論は本来ならば十年前にやっていなければならなかった物なので遅すぎるとすら感じております。そういう意味で、自民党案に乗っかっただけとはいえ選挙前に消費税増税を打ち出した菅首相を私は評価しております。

 さてこの消費税についてですが、野党を中心としてやっぱり批判が多いです。その批判の内容はというと大半は消費税の逆累進性といって、要するに所得の少ない人ほど税の負担が大きくなる傾向があるため、ただでさえ不況で苦しいのに庶民を更にいじめるのかという物ばかり、ってかそれしか見ないような気がします。
 私はあくまで一社会学士、下手すりゃただのリーマンで税法なり会計においては全くの素人もいい所です。ただそんな私がおこがましくも意見を言わせてもらうと、消費税は庶民をより苦しめる税かと言われたら必ずしもそうじゃないんじゃないかと思います。確かに庶民の負担も増えることは増えますが、それ以上に普段税金をほとんど払っていない事業主、言い換えるなら個人企業のオーナーなり社長に与えるインパクトの方が確実にでかいと思います。

 ここでちょっと私の家系の話をするとうちの家は四代続けてリーマンという由緒ある雇われ人の家なのですが、うちの親父が中学生だった頃、クラスメートにはサラリーマンの家よりも独立して生計を立てている家の方が多かったそうです。それで互いに、

「サラリーマンの家は気楽でいいよなぁ」
「そういうお前の家は税金払ってないだろ」

 と、日ごろから言い合っていたそうです。
 わかる人ならもうここで話は切っちゃってもいいのですがそれだと私の出る幕ないのでまたくどくどと説明させてもらうと、日本の個人企業なり中小企業の事業主であれば所得税に関しては八割方は脱税できるとかねてから言われております。

 サラリーマンの家ですと所得税は基本的に給与から天引きされるので脱税をすることなんてほぼ不可能なのですが、事業主であれば自らの法人から個人である自分への所得をコントロールしつつ、個人の分の支出も法人の経費として処理する事でこの辺の課税を逃れる事が出来ます。

 簡単な例を作ると、ある個人企業の社長が自分専用に200万円の車を買うとします。しかしその購入費用の200万円はその社長の個人のお金ではなく自分の会社の経費から出し、購入した車も社有車として登録するとします。そうして購入した車は実質社長個人しか使われませんが名目上は社有車で、社長が購入するのに使用した200万円も本来ならば社長への所得として所得税が課せられるのですが、法人として購入したことになるので所得税は一切課税される事はありません。

 このように中小企業の事業主であれば会社の財布を自分の財布のように扱うことで、本来ならば個人の消費として処理されるべき項目、それこそ家族との外食代や愛人へのプレゼント代ももっともらしく交際費などといった経費として計上する事で所得税やその他諸々の税金から逃れる事が出来ます。
 さらにこういった処理を意図的に行って企業決算を敢えて赤字にする事により、法人税の支払いからも完全に逃れる事が出来ます。法人税というのは企業がその年度内に出した利益額にかけられる税金であるため赤字の企業には一切かからず、そういったことを反映してか日本の企業の八割は中小企業と言われていますが、少なく見積もっても全体で過半数の日本の企業は常に赤字経営で法人税を払っていないそうです。それでも世の中回ったりするのだからいろいろ面白い。

 ここで話は消費税に戻ります。
 さきほどの200万円の車を購入した社長の例ですと、仮に所得税や法人税をいくら挙げた所でこの社長から徴税できる金額にそれほど変化はありませんが、消費税を上げると確実にこの社長からこれまでよりも多くの税金を得る事が出来ます。また車に限らず、経費として処理されてきていた不適切な処理項目、さらには本来表に出てこないヤクザの持つ資金なども実生活上で使われた際には確実に徴収できます。

 こういう風に考えると消費税というのは税率が上がれば確かに庶民にとっても増税ですが、それ以上にこれまで事実上の脱税を行ってきている不心得な事業主らから徴収できる金額の方が大きいのではないかと素人的に思います。それこそ消費税を増税する代わりに所得税を一部下げたりすれば、実質増税になるのはそういった不心得な事業主らだけになりますし。

 私としては政府が増税する事については今の財政状況を考えるとごく自然な成り行きだと思うのですが、今の政府だとそうして集めた税金をまともに運用するのが不安です。財投債も事実上復活しますし。
 ですがもし消費税を増税して集めた予算の使途を完全に限定する、それこそ介護などといった社会保障にしか使わないのであれば、必然的に集められたお金は社会的弱者の庶民へと配られる事になるので、これまで脱税して来た事業主から金をふんだくれて一石二鳥になるかもと思うので、これなら私も増税に納得できます。

  補足
 昨日に書いた「何故日本人は無責任になったのか」の記事で一つ書き忘れていましたが、無責任な日本人が増えた理由の大きな物としてもう一つ、サラリーマン世帯が増えた事も挙げられます。個人で店なり企業なりを経営している人はその人個人に企業行動におけるすべての責任が付きまといますが、サラリーマンであればある程度は法人こと会社が責任を受け持つので、こうした意識が希薄化していくのではと友人が言っていました。本来ならば会社の責任は経営者こと役員が持つはずなのですが、日本とアメリカの企業役員はあんまり責任持たないので、こうした傾向に更に拍車を駆けているのかもしれません。

2010年6月29日火曜日

何故日本人は無責任になったのか

 この所文章が荒れていて、今に始まった事ではありませんがいまいち表現したい事を文章に表現できていません。今日の記事は前回前々回の記事の続きなので、初めにこれまでの記事のプロットから紹介します。両記事の大体の論法、意図したかった内容は以下の通りです。

 最近の日本文化は幼稚さ、幼さを売りにしている物が多いような
→改めて考えてみると、最近の若者は大人になりたがらない幼稚な人が多いような
→何で若者は大人になりたくないのか?
→大人になって責任を持つのを嫌がっているような気がする
→現に社会人も責任を抱えるのを忌避しているような気がする
→そういや首相や主要財界人でも無責任な奴が多いような気がする
→なんだかんだいって、日本社会全体で幼稚化してんじゃないのか


 ざっくばらんにまとめるとこんな感じです。ここで私の言う「幼稚化」というのは、そのまま「無責任になった」と読み替えても結構です。何だかんだ言って、責任感が強いか弱いかというのが大人らしいか子供らしいかを決める上で非常に重要な要素ですし。

 前回の記事で私は現に無責任な日本人が増えてきた例として、批判に耐え切れず一年前後で辞めていく首相達、社員は宝だと言うわりにはやけに離職率の高い会社の会長などを例に挙げましたが、今現在ですとただ力士から話を聞いただけで協会としてはやれるだけの内部調査をしたと言い張る相撲協会の理事長もこの類に属すでしょう。
 また個人でなくとも、社会的にも厚顔無恥だと言いたくなるような事件をこのところよく見ます。恐らくこの手の事件を起こす人は前からそういう人間でそういった人間が目に入るようになっただけかもしれませんが、モンスターペアレンツを始めとして、生活保護費を大量の携帯電話使用料につぎ込む人などと、義務を果たさずにおいてやたら権利を主張する人が堂々と公然に出てくるというのは私からすると理解が出来ません。

 このように日本社会が全体で無責任になってきたのが近年の日本の元気のなさ、希望のなさにつながっている一つの原因かもしれないと思って今日に至るまで長々と書いているわけなのですが、今日はどうしてこんなに日本の社会、ひいては日本人は無責任になっていったのかを幾つか仮説を挙げて考えてみようと思います。それでは早速最初の仮説から、

仮説一、大人になるメリットがない
 これは若者限定の仮説ですが、前の記事でも書いたように近年の若者は大人になるよりは子供のままでいたいと言う人が傍目にも多いような気がします。私自身の周りでもこのような事をいう人間は多く、先日も友人と一緒に「そこがわからねぇ」とお互いに言い合いました。ちなみに私なんかは結構ちっちゃい頃から早く大人になりたいと思っていて、大学を卒業した今でも学生生活にそれほど未練は感じていません。

 どうして現代の若者はそれほど大人(社会人)になりたがらないのか、一言で言って目に見えるメリットがなくてデメリットしか感じられないのが原因だと思います。現在不況の真っ只中という事もあって普通に正社員に就職できるかも怪しく、また正社員になった所で給料の伸び率は明らかに以前より小さく、学生生活と比べて制約される時間が多い割には得る物も少ないともきています。またサラリーマン特有のサービス残業や飲み会と言う訳の分からない付き合いを嫌う人間も増えており、それだったら時間分きっちり給料をくれるフリーターでいる方がいいのではという声を実際に私もよく耳にします。

仮説二、社会的責任の重大化
 自分なんか世代の影響もあると思いますが、やっぱり昔の話を聞いているとどんだけ無茶が許されたんだとよく思います。
 一番この仮説で代表的な例は交通事故を起こした際の刑罰で、以前は長くとも数年の懲役だったものが危険運転致死傷罪の導入によってかつてでは考えられないほどの厳罰が交通事故で下りるようになってきました。この危険運転致死傷罪を始めとして近年の日本の刑事罰は厳罰化の一途を辿っており、その上補償を求める民事裁判も大分一般化してきたのもあって以前と比べて意識するしないにしろ社会的責任は重大化しているように思えます。

 前もって言っておきますが私は上記の刑罰の厳罰化や民事裁判の一般化はいい傾向だと思っております。ただこれまで泣き寝入りするしかなかった人が救われる一方で、なにか事故が一件でも起きたら即社会から追放というような風潮も一緒に流れ始めているのはあまり歓迎しません。一例を挙げると私も過去に取り上げたマンナンライフの蒟蒻ゼリーなど、あれだけ幼児にあげるなと記載しているにもかかわらず与えて子供を殺した親の非難がセンセーショナルに報道され、野田聖子が自信の陰謀から攻撃を与えるなど、一失即死とも言う様な近頃の風潮はあまり住み心地がいいと思えません。ま、船場吉兆は潰れて当然でしたが。
 なお前回の記事で本来セットであるはずの権限と責任が一致していないのがよくないと書きましたが、何故一致しなくなったのかと言えばこの仮説で書いたように責任が以前と比べてあまりにも肥大化していったのも一つの原因と見ています。

仮説三、責任者が責任をとらない
 これは言わずもがなで、とかげの尻尾切りよろしく最高責任者ほど自身が責任を取らずに何かあれば下に責任を擦り付けることが実際に起こっているということです。一番いい例は民主党鳩山前首相と小沢氏の資金問題の際、どちらも責任を自分の元秘書にすべて擦り付けて逃げ切りを図り、検察もそれで納得しちゃったという例です。私を含めた国民の側からすると、一番上の人間はいくらでも逃げ切れるが下の人間はそのかわりに責任を擦り付けられるのだと見えたでしょうし、真面目にやる事に対して馬鹿馬鹿しさを感じた人も多かったのではないでしょうか。

 これとは逆の例ですが、郵便料金の障害者団体向け特別割引を不正に認定したとして逮捕、起訴された元厚生省局長の村木厚子氏の事件では、検察側証人がみんな村木氏は無罪だ、検察に脅されて村木氏が関わったと言ってしまったと証言している辺り、民主党の資金問題を見逃した近年の検察組織は戦後以降で最低レベルの集団だと言わざるを得ません。少なくとも村木氏を捜査、起訴したクズみたいな検事は顔と名前を出した上で辞職しなきゃ筋が立たないでしょう。

仮説四、責任感が強い事自体がデメリット
 皮肉な話ですが今の時代、道路の速度制限を忠実に守ろうとすることのように、ルールを真面目に守ろうとする正直者自体が馬鹿だという風潮がある気がします。一部の経営者を始めとして、「法律に書かれていないから」という理由で常識的な価値観からは大きく逸脱した行為を実行に移す人間が増え、また若者の側も就職活動の面接で確認がとれないことをいい事に嘘八百を並び立てて、どこか正直でいるよりも多少ずるしてでも利益を得る方が正しいというのが主流派になってきたと思います。

 何故そうなったのかと言えば、恐らく大半の方がアメリカ型の弱肉強食の価値観が入ってきたからだと言うと思いますが、上記のような意見を私は十年くらい前から見ており、だとすれば少なくともアメリカ型の思想が流入してすでに十年は経っている事になります。私はそのような価値観を追放できずにすでにそれだけの年月を経ているのであれば、日本人はたとえ嫌がっていようとももはやその価値観を是認してしまっていると言うべきだと思います。アメリカが悪いと言うのは簡単ですが、問題があるといいつつもその価値観を十年間も追放できなかったのは日本人の責任だと考え、批判ばかりしてないでどうそれを正すかを議論し、行動する方が建設的な気がします。


 ざっとまぁこんな具合ですが、今の日本はいわば責任からお互いに逃げようと日本人全員で延々とババ抜きをしているような状態で、一向にゲームが進まない状態にあるのではないかと言いたいわけです。ではどうすればこの状態を脱する事が出来るのか、一言で言えばごく単純に信賞必罰を徹底することだけで、過去に過ちを犯した者はその過ちの分だけ降格させ、功績を作った者はその功績の分だけ昇進させるだけです。
 やっぱり今の日本を見ているとこの辺が非常に曖昧で、責任から逃れ続けて傷が少ないだけの人しか昇進していないように見え、野球にたとえるなら、ストライクを多く取る投手よりもフォアボールを出さない投手が、取ったアウトの数に関係なく昇進するといった感じです。

 今年になってゆとり教育は有効性が認められず、ほぼ完全に方針転換することになりましたが、当初から批判が少なくなかったにもかかわらず導入した文部科学省の当時の責任者は何も罰されません。かつてノーベル賞を受賞した島津製作所の田中耕一氏はノーベル賞を受賞するまでは日本国内でほぼ無名で、ノーベル賞を受賞した途端にあちこちから表彰されました。
 責任を取るという事について、もうすこし日本人は考えるべきだと言うのが私の結論です。

2010年6月27日日曜日

幼稚化する日本社会

 昨日に書いた「幼稚化する日本文化」の記事の続きです。
 近年、今に始まったわけではありませんがよく日本は駄目だ駄目だと日本人自らが言っております。しかし一体何が駄目になったのか、恐らく発言者の大半が意図しているのは経済についてでしょうが、それ以外にも治安、文化、学術、技術などといった分野も往年と比べると見劣りがしてしまう所も些かあるでしょう。では一体何が原因でそれらが駄目になったのか、一概に言える事ではありませんが、私は日本人が日本は駄目になったと思う大きな原因の一つとして、日本社会が幼稚化しているという事実も含まれているかと思います。

 昨日の記事でも少し書きましたが、現在開催されているワールドカップを見ていると外国の若い選手らがインタビューにて受け答えする場面をよく見かけるのですが、彼らのインタビューを見ていると、彼らと同年代の日本の若者と比べて実に大人びているというか、受け答えがしっかりしているという印象を強く受けます。もちろんワールドカップに出場する選手の大半は日ごろから海外リーグでプレイするなどそれぞれの国の普通の若者と比べても場数なり経験が多いのは事実ですが、それにしたってこのところの日本の若者は外国の若者と比べて態度や振舞い、発言が幼いように思えます。

 私自身も中国に留学していた際にいろんな国の学生らと交流をしましたが、決して全員が全員そうであったと言うつもりではないですが、日本人学生と比べて外国の若者はそれぞれがきちんと目的意識を持って留学に来ており行動の仕方や考えなど、確かに容姿や体格の違いなどで欧米人と比べてアジア人は幼く見えてしまうとはいえ、日本の学生はどこか子供っぽ過ぎやしないかと当時に感じました。ウクライナ人を除いて。

 そういう風な視点で何故日本の若者は子供っぽく見えるのかを少し考えてみたのですが、何よりも日本の若者自身が「子供のままでいたい」という意識を強く持っていることが原因かと考えるに至りました。大学生一つ捕まえてもこのまま就職もせずずっと学生を続けたいという意見がよく聞かれ、自分が独り立ちすることについて強い不安を口にする人を私自身が数多く見ております。年配者の方から話を聞くと昔はちょうどこれとは逆で、学生らは早く一人前として社会に認められたいという意識が強かったそうなのですが、どうして現代の若者は昔の流行り言葉でいうなら「アダルトチルドレン」、きちんとした学術用語でいうなら「ピーターパン症候群」のような傾向を持つように至ったのでしょうか。
 ここでもう結論を述べてしまうと、若者に限らず現代の日本人全体で責任を持つ事に対して忌避する傾向があり、それが子供っぽい行動をかき立てているように私は思います。

 本来、責任と権限という物は二つでセットの概念です。例えば動物の餌やり当番であれば動物に与える餌の種類や量を自由に決める事は出来るものの、餌のやり方で動物の体調が悪くなりでもしたら責められることになるといった具合です。
 しかし現代の日本の企業社会ではこの二つがセットになっているとは言い難く、仕事のやり方など応用が効かせられる範囲は殆んどないまま目標だけが課され、言わば権限はないまま責任だけが持たされるという傍目にもやってられるかという、中間管理職が一番辛い環境にあると言われております。そういった状況を反映してか、確か去年くらいの調査で最近の新卒就職者は出世意欲が低いなどという結果が出ましたが、あんなの私に言わせれば当たり前もいい所です。

 言ってしまえば、権限がないまま批判の種になる責任だけ背負い込まされるため、日本人みんなで責任から逃げ回っているのが今の日本の状況です。しかも嘆かわしい事に本来大きな責任を持つべき人間に全く責任感がなく、無責任な人間が数多くはびこっている事がこの動きに拍車を駆けているようにも見えます。

 まず筆頭に挙がるのは安部晋三氏以降の総理大臣で、どれも与えられた任期を全うする事なく約一年で辞任し、近年の日本政治に大きな混乱と後退を招きました。特に前二つの麻生太郎氏と鳩山由紀夫氏に至っては片方は、「すぐに総選挙を実施する」、もう片方は「秘書の責任は議員の責任だ」と、過去の発言などどこ吹く風かと言わんばかりに総理就任後には前言を180度ひっくり返した行動を取っており、最後には居直りまで見せるという無責任さには見ていてつくづく呆れました。

 また政界に限らず財界においても、今はJAL会長の稲盛和夫を筆頭に言っている事とやっている事が見事なくらいに真逆な人間が数多く、特に今は好調だけれども日産のカルロス・ゴーン氏に至っては、「目標を達成できなかった役員には辞めてもらう」とか言っておきながら自分が目標を達成しなかった時には全く進退について言及しなかったなど、ちょっとご都合主義もよろしすぎやしないかと言いたくなる人ばかりです。ま、カルロス・ゴーン氏は日本人じゃないけど。

 私自身、こういった社会で重要な地位にあるとされる人間がこれほどまでに無責任な人ばかりだと、真面目にやっていても何かあればトカゲの尻尾切りみたいな目に遭うだという気がしてそれほど出世したいとは思いません。こうした日本社会の無責任な風潮が大人になる事のメリットを感じさせず、若者を含めた日本社会全体の幼稚化につながっているのではないかと思うわけです。

 ついでに書くと外国人と比べて幼稚に見えるのは何も若者だけでなく日本の政治家も一緒で、今年49歳のオバマ大統領と比べると日本の首相はどれだけ頼りないのかとつくづく思いやられます。
 企業も大学生の採用ポントとしてどこも私が批判してやまないコミュニケーション力を一番のポイントとして挙げていますが、私はそれよりもむしろ、責任感の強い人材こそ稀少性が高くて必要になってくるんじゃないかと思います。

  おまけ
 今の表に出る日本人の中で誰が一番大人らしいというかしっかりしているように見えるかとなると、変な話ですがプロゴルファーの石川遼氏が私の中では上がってきます。それに比べるとテレビに映る人間は、大麻使用で捕まった押尾被告を筆頭にそれでも本当に子供を持つ親かと言いたくなる人ばかりです。

2010年6月26日土曜日

幼稚化する日本文化

 以前からリンクを結ばせてもらっているアングラ王子さんこと潮風太子さんのサイトがリニューアルされ、リンク先名も「風が吹けば旗屋が儲かる」に変更しました。今度は今期絶好調の千葉ロッテの話題がメインとなるそうなので、興味のある方は是非足を運んで見てください。

 先日、友人から突然二十年以上前に出版された筑紫哲也氏の対談本を渡されて現在もなお読んでいるのですが、最初の対談にて筑紫氏と向き合ったのは当時「構造と力」の出版にて大ブレイクしていた浅田彰氏でした。その対談を読んだ私の正直な感想を言わせてもらうと、「なんて生意気そうな人なんだろう」と浅田氏に対して思いました。
 ただ一見だけで判断するのはよくないし、かなり昔の対談という事もあるので下調べと言うか後調べと言うか、ひとまず上記にリンクを貼った浅田氏のWikipediaのページを読んで見たのですが、そこで書かれている人文知の項目を見てまさにこの評価が一変しました。

 そこで書かれている内容を私の理解で簡単に紹介させてもらうと、まず浅田氏は今の日本において人文知が成立する余地がなく、その理由として、「いまや国家もハイ・カルチャーに興味をなくしつつあるし、オタクあがりのIT成金もハイ・カルチャーに興味をもっていない」と述べ、「幼児的退行を売り物にするカルチャーが、日本的なオタクの特殊な表現であるということで、世界的に売れてしまう」現状だと評しています。

 上記の浅田氏の発言というか対談を全文読んだわけではないため浅田氏の具体的に意図したいことをきちんと私が理解しているとは言い難いのですが、上記に引用した文の中で私は「幼児的退行」という言葉に大きく注目しました。
 浅田氏が上記の発言で挙げているように近年の日本では確かに「幼稚さ」を売り物とする文化が大いに流行していると私も感じており、一昨日に書いた「芸術性の価値」の記事の中で指摘していますが、いわゆる純文学というか「解の出しようのない問い」をテーマにした作品という物となるとトンと世に出なくなってきました。

 この件について今日友人に振ってみた所、元々日本文化自体に幼稚であるというか幼さに対して特別な感覚があり、紫式部の「源氏物語」で光源氏が小児性愛に近い、っていうかそのままの感情を持つなどなにも今に始まった事ではないのではないかという風に返されました。友人の言う内容も私は十分理解できるのですが、それにしたって近年は本来は子供を対象にしたアニメや漫画が日本の偉大な文化の一つとして挙げられ、その一方で十年以上読み継がれる小説なり思想書が出てこないなど、二十年前と比べて明らかに違うという気がしてなりません。

 私自身もアニメや漫画を見る事は見ますが、こういった物はやっぱりサブカルチャーというか表であんまり趣味として広言出来ない物として扱うべきではないかと常々考えています。というのもサブカルチャーだからこそ暴力的などのきわどい描写をしても、「たかが漫画じゃないか」と言い返せるのであって、メインカルチャーでは扱えない範囲を扱う事が出来るのです。それをメインカルチャーのように祭り上げよう物なら、そういった表現に対しても規制が厳しくなり、本来の面白味も失っていくことに繋がりかねません。

 と、ここで話は変わりますが、実はこの所、密かに非常に問題なのではないかと感じていることがあります。それはどのような時に感じるのかというと、変な話ですが現在も絶賛開催中の南アのワールドカップの中継を見ている時で、世界各国から来ている20代前半を中心とした選手達がインタビューに答える姿を見てつくづく、

「日本の若者と比べて、外国の若者はなんとしっかりしていることか……」

 というように、自分も同じ日本の若者として情けなさをこの頃強く感じます。

 本当は今日まとめて書いてしまおうとも考えていましたが、私は近年の日本は文化が幼稚化していることに加え、社会全体でもどこか幼稚化しているような気がします。社会の幼稚化は文化による影響なのか、それとも逆に社会が幼稚化したから文化も幼稚化したのか、そういった疑問を含めて明日この日本社会の幼稚化問題について解説します。

2010年6月24日木曜日

芸術性の価値

 最近狙っているわけじゃないけど歴史関係の記事が多いので、久々に抽象的な事でも書こうかと思います。

 よく「○○は芸術性が高い」と芸術作品に対して評論家は述べたりしていますが、そもそもの話として芸術性とは一体なんなのかが一般人からすると分かり辛いです。恐らく絵画なら絵画、陶器なら陶器でそれぞれ芸術性を示す指標なり何なりがあるとは思うのですが、今では最大級の評価がなされているゴッホが生前には二枚しか絵を売る事が出来なかったことを考えると、それらの指標というのは時代ごとの評価基準ではないか、言い変えるならその時代の品評家が如何に評価するかで決まってしまうほどあやふやなものではないかという気がします。

 では形を変えて文学作品ではどうでしょうか。日本の文学界における賞としては芥川賞と直木賞が一番有名で、前者が文学性を重んじるのに対して後者は娯楽性、要するに売れる本がいつも選ばれていますが、はっきり言って芥川賞作品はそれほど知名度もなくよっぽどチェックしている人でなければ五年以上前の作品ともなると誰も覚えていないでしょう。
 これと関係するかどうかは微妙ですが、「明日のジョー」などの原作で有名な梶原一騎は川端康成についてこう言っていたそうです。

「川端康成がノーベル文学賞を取ったらしいが、俺の方が原稿料は上だ」

 梶原一騎の主張を敢えて意訳するなら、芸術性云々より売れる物を書いたほうが勝ちなんだといいたかったんだと思います。この主張は他の芸術界においても一部通っている所があり、どこそこのオークションでどれだけの値段がついたかで芸術家としての序列が決まるということもあるそうです。
 となると資本主義の論理よろしく芸術性というのはその時代ごとの金銭的価値で決まるのでしょうか。

 あまりもったいぶっていてもしょうがないので私の意見をもう書いてしまいますが、私は作品としての芸術性は、その魅力が及ぶ範囲、量、永続性の三点にあると考えています。
 例えばダビンチの作品群を例に取ると、彼が生きていた時代はもとより製作後数百年経った今でも世界中の数多くの人間を変わらずに強く惹き付けており、同様にシェイクスピアの文学作品も未だに世界中で読まれては演劇にも使われております。

 このように芸術作品の芸術的価値というのは、時代の流行や文化の影響を受けずにどれだけ幅広く受け入れられるか、まさに音楽でもあるように「クラシックさ」によって価値が決まるものだと私は考えているわけです。ですので単年度でどれだけ売れたかや、限定されたグループの人達の間でだけで熱狂して受け入れられているといった事実は芸術性を見るに当たってあまり当てにならないかと思います。

 そういったことを踏まえて考えると、私が何よりも残念に感じるのは日本文学です。もう十年以上前の話になりますがある書評にて、「今出ている本の中で十年後も読まれる作品といったら『少年H』くらいしかない」というものがありました。その「少年H」も未だに読まれているかといったら微妙ですが、明治や大正の文豪作品に比して現代の文学作品はどれだけ足が早いのか、語り継がれる作品がどれだけ少ないのかを考えるにつけ日本文学はここまで落ちたかと落胆してしまいます。

 個人的な趣味を言わせてもらえば、三浦綾子氏の作品はもう少し現代でも評価されていいと思います。「氷点」は数年前にドラマ化しましたが、なんかこの人の評価って文学者ではなく流行作家として扱われてて、多分まだ現国の便覧にも載せられていないんじゃないかな。因みに私は「銃口」が一番お気に入りですけど。

二度の世界大戦における死者数

 昔、どこかの本でこのような一説を読んだ事があります。

「日本にとって世界大戦と言ったら二次大戦しかないが、ヨーロッパ諸国にとっては一次大戦が与えた影響は二次大戦より遥かに大きかった。それまでヨーロッパ諸国は高度な文明社会であればあるほど高度な社会思想を持つとされ、戦争においても文明国ではルールに則った形で行われ無秩序な虐殺など起こるはずがないと考えていたが、そんなヨーロッパ人の概念を一次大戦は見事に粉砕した」

 この一説のいう通り、日本は一次大戦では火事場泥棒的に東アジアのドイツ領土を攻撃しただけでしたが、ヨーロッパの戦線ではいつ終わる事ない塹壕戦が延々と続いたばかりか毒ガスの使用や空中爆撃、戦車の登場といったそれまでにない戦術が次々と作られては実行されていきました。
 そんなヨーロッパにおける一次大戦ですが、先ほどの一説に続く形でちょっと気になる文言が付け加えられていました。その文言というのも、

「ヨーロッパにおける一次大戦の死者数は、二次大戦より多かった」

 最初見た時はそんな馬鹿なと思いつつも、国土が実際に戦場になったドイツやフランス、そして戦争に深々と介入していたイギリスといった西ヨーロッパ諸国ならさもありなんかなと、読んだ当時は思っていました。

 先日にこの話を友人にして以来、今日に至るまで何気に本当の所はどんなものかとちょっと気になっていました。そうとなればそれほど調べるのに時間の掛かるデータでもないので実際に比較して見ようと思い、この二度の大戦における各国の死者数を一つ調べて見てみることにしました。結果は下記の通りで、早速ご覧下さい。

  国別世界大戦死者数(民間人犠牲者含む)
・イギリス 一次:91万人>二次:40万人
・フランス 一次:136万人>二次:34万人
・ドイツ  一次:177万人<二次:550万人
・ロシア  一次:170万人<二次:2000万人?(ソ連)
・イタリア 一次:65万人<二次:68万人
・アメリカ 一次:13万人<二次:40万人
・日本   一次:300人?<二次:310万人


 まず最初に断りを入れておくと、一次大戦の死者数についてはどこも「ブリタニカ国際大百科事典」から引用しているのかほとんど同じ数字なのですが、二次大戦についてはナイーブさをはらむが故かネットで閲覧するサイトごとに死者数が異なっており、数字と統計にシビアなヨーロッパ諸国ならまだしも、数字に感情という(誇張ともいう)物をやけに詰め込みたがるアジア諸国についてはいい加減にしろと言いたくなるくらい大きく違っています。
 幾つか例を挙げると、日本の死者数については上記に引用している厚生省の調査による310万人に対して、「ブリタニカ国際大百貨辞典」では197万人とされております。中国に至っては1000万から2000万と実に二倍もの差があり、はっきり言って論外としか言いようがない数字の差です。

 そう言うわけで一時大戦の死者数にはWikipediaから、二次大戦の死者数については幾つか見ている中でまだまともそうな数字でなおかつサイトにあまり臭いがない「ひとりごとのつまったかみぶくろ」様の「第二次世界大戦等の戦争犠牲者数」の記事にて載せられているワールドアルマナックからのデータを引用しました。

 さて早速データを比較して見ると、私の予想通りに西ヨーロッパではイギリスとフランスが一次大戦の死者数が二次大戦のそれを大きく上回っております。それに比べると日本の死者数は比較にならないほど少なく、この辺が今度書くつもりでいるロンドン海軍軍縮条約における英米側と日本側の反応の違いを生んだ事は間違いないでしょう。

 幾つかこのデータについて解説を加えておくと、二次大戦におけるソ連は文字通り敵の弾が尽きるまで死体を積み上げるという作戦を強行し、なんでも1920年から1922年生まれのソ連出身男性の戦後の生存率は3%くらいだったそうで、ほぼ例外なく全員勲章を受けているそうです。死者2000万人というとてつもない数字がどれだけ正確かは測りかねますが、二次大戦において最も死者を出した国という意味では信用に足ると思います。

 最後に、今回調べていてちょっと意外というか、自分が見逃していたとちょっとしょげるデータが一つありました。そのデータというのも、これです。

ポーランド:二次:600万人

 二次大戦期におけるポーランドの虐殺というと侵攻してきたソ連によって士官ら二万人以上が虐殺された「カティンの森事件」ばかりかと思っていましたが、よくよく考え直すとアウシュビッツを初めとしたドイツによるユダヤ人収容所もポーランドに沢山ありました。実際に上記死者数の大半は民間人ことポーランド在住のユダヤ人だったそうで、これだけの人数を虐殺したドイツに対してポーランド人はロシアみたいに恨みに思わないのかと疑問に思ったわけですが、あくまでざらっとネットで調べた程度ですが、このポーランド国内におけるユダヤ人虐殺にポーランド人も一部加担していたという意見もあり、だとすればポーランドのロシアとドイツに対する態度が異なるのもなんだか納得がいきます。

2010年6月22日火曜日

天気予報と飲食店

 先週末の天気予報で、私の住んでいる関東地域では土日どちらも午後から雷雨になるとの予報が出ておりましたが、結果から言えば土曜の午前に小雨こそぱらついたものの曇り止まりで、午後には雨は降りませんでした。
 人間誰しも失敗があると昨日もデーモン小暮氏はいっておりましたが、それにしたってこの所の関東地方の天気予報は見ていて呆れるくらいに予報が外れる事が多いです。先月から何度も「午後には雷雨が」という予想がされているのですが、雷どころか雨すら降らないという日がもう何日もありました。

 一般人からすると、「逆ならともかく、雨が降らなかったのだからいいじゃん」で片付けられますが、これが飲食店ともなると話は大分違ってきます。飲食店などで働いた経験のある方なら分かると思いますが、同じ土日でも雨が降るのと降らないのとでは客の入りが明らかに違い、飲食店経営者にとってすれば雨はまさに商売敵以外の何者でもありません。
 私自身も喫茶店でバイトをしていた時期がありましたが、雨の日ともなると常連客を帰すと後は本当にやる事なく、バイト代をもらう事がなんだか申し訳なくなってくる日もよくありました。特に六月の梅雨時と「ニッパチ」こと出入りの少ない二月と八月は顕著で、天候というものがどれだけ経済に影響を与えるのかを身を以って知りました。

 そういうこともあって先日、雨が降っている日に後輩と会った際、昼食に入った和食屋さんで天気の話を振ってみました。

「雨の日は大変ですね。お客さんも少なくなるでしょう」
「ええまぁ。ただ天気のことは仕方がないので我慢するしかないのですが、天気予報でもお客さんって減っちゃうんですよね」
「天気予報で?」
「ええ。天気予報で雨と言われちゃうと、その日が晴れててもやっぱり減ってしまうんですよ。こればっかりは少し残念ですね」

 言われて見ると確かにそうで、次の休日が雨と予報でもされたりすると外出するより家にいようとしてしまいます。それで晴れたりしたら、飲食店としては確かにしょっぱい思いをするでしょう。
 そう考えるとこの所の天気予報なんて、大々的に雷雨だなんて言っておきながら雨粒一粒すら落ちない日もざらです。なにも百発百中にしろとまでは言うつもりはありませんが、飲食店で働いている皆さんのためにももう少し正確な予報を関東地方担当の気象予報士の方には頑張ってもらいたい所です。