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2010年12月9日木曜日

漫画家レビュー:押切蓮介

 私が押切蓮介氏を知るきっかけとなったのは、一枚の絵からでした。
 ある日いつも通りにネットを見ていると、「ホラー漫画家の押切蓮介氏が綾波レイを描いた」という記事を見つけました。綾波レイというのはいうまでもないでしょうがかつて大ヒットを記録して現在も新劇場版が続々と公開されているアニメ作品、「新世紀エヴァンゲリオン」のヒロインのことで、90年代の日本アニメを代表するヒロインの一人ですが、何でも当時にこのエヴァンゲリオンを製作したガイナックスが定期的に有名な漫画家やイラストレーターにガイナックス作品のキャラクターを書かせてホームページのトップイラストに載せていたそうです。

 このガイナックスの企画を押切氏も受けて綾波のイラストを描いたそうなのですが、今でもそのイラストはネットで「綾波 押切」とでも検索すれば出てくるでしょうが、私は押切氏が書いたそのイラストを見てちょっと不思議な感覚を覚えました。押切氏については何も知らず、ホラー漫画家と紹介されていたのでてっきりホラー漫画に特徴的な猫の目のように見開いた目で綾波が書かれているのかと思ったら、畳が敷かれた和室のような部屋で綾波が座り、ふすまの開いた背後に使徒らしきものが立っているという、やや風変わりな構図の絵でした。

 そういうわけでホラー漫画家というだけあって奇妙さを感じる絵を描く人だなとは思いはしたもののその時はそれっきりでしたが、それからしばらくしてこれまたどこかのサイトにて、「ミスミソウ」という漫画のレビューを読む機会がありました。この「ミスミソウ」のあらすじを簡単に書くと、田舎の学校に転校したところ転校先のクラス総出でいじめを受け、家族まで焼殺されるという聞いててぞっとするような内容で、一体どんな漫画家がこんな漫画を描いているのだと調べたところ、まさにその漫画家が押切氏だったわけです。

 最初の綾波のイラストを見た時期から時間がしばらく経っていたせいで当初は気づかなかったものの、Amazonで「ミスミソウ」の表紙を見ていてなんか引っかかる絵だなとじろじろ眺めて同じ漫画家だと気がついたのですが、それから興味を持つようになってまずは試しにと代表作の「でろでろ」という漫画から買ってみました。ただこの「でろでろ」はホラーはホラーであるものの、霊感体質の強い主人公の日野耳雄がそこらのオバケにしょっちゅう因縁つけては殴り倒すというホラーギャグ漫画で、「ミスミソウ」の暗いあらすじからすると程遠い漫画でした。とはいえこの「でろでろ」もつまらないわけじゃなく、むしろ今時の漫画としては珍しく一話完結のストーリーなので何度も読め、話の構成も妙なところで凝っていてすぐに気に入りました。

 そうした前段階を踏んでとうとう「ミスミソウ」にも手を出したわけですが、前評判の通りに本当に救いのない話でした。こちらはホラーはホラーでも「でろでろ」と違って幽霊の類は一切出ないのですが、現実の人間が怖いというサイコホラーに属し、猟奇的描写を含め非常に陰惨な内容に終始していました。先に「でろでろ」を読んでいたせいもあって、「本当に同じ作者が書いているのか?」と疑うくらいだったし。

 ただ押切氏の作品を読んでて、やはりほかの漫画家の作品と比べて読者を引っ張りこむ引力が格段に強いように感じました。押切氏自身もホームページの絵日記にて、「なぜ俺には美少女が描けないのだ」と悩む場面が出てきますが、確かにお世辞にも押切氏は今風でなくややレトロな画風ではありますがその分個性が強く、逆に美少女が出てきて当然な今の漫画業界の中では異様な存在感を覚えます。そんな押切氏の画風に対してこれまでどうも自分の中でも表現し切れなかったのですが、「でろでろ」の単行本巻末に寄せられた漫画評論家の話を読んで一気にそれも氷解しました。

 その評論家は以前に70~80年代に出た、作者は真面目に書いているつもりなんだろうけど読んでてギャグに見えてしまうとんでもホラー漫画を集めて出版したりした人らしいのですが、その人の出した昔のホラー漫画集を押切氏も読んでいてそれが漫画を描くきっかけとなったそうなのです。実はそのとんでもホラー漫画集ですが私も小学生くらいの頃に手に取っていて、知っている人にはわかるでしょうが「呪われた巨人ファン」とか、なんともいえないくらいに不条理極まりなく、何が怖いのかわからないのが怖いようなホラー漫画だったと今でも強く印象に残っています。
 その評論家も言っていましたが押切氏はそのような漫画に影響を受けただけあって過去と現代を繋いでると評しましたが、私も言われてみてすごく納得したというか、押切氏の漫画の妙な存在感というか空気の源泉について合点がいきました。

 そんな感じですっかりファンの一員となった私ですが、本日とうとう押切氏の最新作の「サユリ」という漫画の一巻を買ってきました。この漫画のテーマは「いわれなき怨み」だそうで、折角だからWikipediaで書かれているあらすじを引用すると、

高校受験を来年に控えた則雄は、父が購入した郊外の家に家族とともに引っ越した。駅や学校から遠い不便な場所だが、今まで住んでいたアパートよりも広く、家族は喜んでいた。別居していた祖父母と共に暮らす新しい生活が始まった矢先、父が急死する。さらに一家を襲う様々な怪異。何かに怯える祖父。様子のおかしい姉。

この家には何か恐ろしいものが存在する
やがて祖父が死に、弟が、姉が、母が、相次いで姿を消していく。恐怖に打ちひしがれる則雄の耳に、女の狂ったような哄笑が聞こえた…
そんな時、ボケていた祖母が正気に戻った。かつての気丈さを取り戻した祖母は、この家にいる“恐ろしいもの”との戦いを宣言した。

 ここで書くのもなんですが、私が考える日本ホラーの真髄というのはこのような不条理とか無慈悲さにあると思います。海外のスプラッター映画とかだと殺される人間には墓を壊したり、誰かをいじめたりといった何かしら"殺される理由"が付与されるのに対して、日本ホラーは割と本当に無関係な人間や力のない女性や子供から祟り殺されたりするところがあるように思え、先ほどの「いわれなき怨み」というものが重要なファクターな気がします。先の「ミスミソウ」でもそうでしたがこの「サユリ」でも遺憾なくその要素が発揮されており、なかなか見ごたえのある漫画でした。

 レビューといいながら好き勝手に書きましたが、押切氏自身の特異性、また美少女なしでは通用しづらくなっている今の漫画界への警鐘を含めて書いてみました。個人的にもお勧めの作者なので、興味のある方はぜひ手にとってください。つっても、漫画喫茶にはあまりおいてないんだけど…・・・。


2010年12月8日水曜日

お上と法律

 昨日はきちんとブログを書こうと思っていたのですが、思っていた以上に風邪がひどくて(38度中盤までいった)パソコンに向かう事すら出来ませんでした。今はようやく平熱に戻ったけど、もう海外に行くから国民健康保険も11月に切っているので、リアルに病院にいけない事態だったことに途中で気がついてちょっと焦りました。

 私は以前に「呉起と商鞅」という記事を書いていますが、この記事に出てくる商鞅は中国における法家の始祖とも言われており(荀子を始祖とする説もある)、日本の史記関連の書籍では必ず出てくるほどポピュラーな人物であります。現在でこそ国の統治体系として法治国家は当たり前ですが商鞅以前は時の権力者が割合に好き勝手でき、揉め事の裁判に関しても恣意的な判断がまかり通っているのが当たり前でした。

 そんな世の中を画一された判断基準こと法律で統制する事で国はもっと強くなると考えた商鞅ですが、そもそも法律という概念の薄い当時の人間にどうやれば法概念を浸透させられるかを当初は考えたようです。そこである日商鞅は役人に命じ、門の前に丸太を一本立てて横の看板に、「この丸太を指定された場所に移せば懸賞金を与える」と書かせました。そんなただでお金をくれるようなことをするわけないと街の人間は最初は相手にしなかったのですが、しばらくすると懸賞金の額が上げられ、では試しにとある男が丸太を指定地へ運ぶと商鞅は約束通りの金額を男に与えたそうです。
 これには与えられた男も半信半疑で本当に受け取っていいかどうか迷ったそうですが商鞅は、お上の言う事に嘘偽りはないと言ってきちんと渡しました。

 一体商鞅は何をしたかったのかというと、お上が出す布令に対してはお上も必ず守るということを示した上で、布告された法律を一般市民もきちんと守るようにということを伝えたかったのかと私は考えています。事実その後、商鞅のいた秦は法律が隅々まで行き届いて地面に落ちている物を誰も拾わなくなるほどだったそうです。

 さてこの法律ですが、考えてみれば一体どうして我々は守っているのでしょうか。社会学とかでも何が行動を規範しているのかを取り扱う事もありますが、冷静に考えれば法律というのは刑罰という強制力こそあれども我々は刑罰にかけられない事案に関しても実に幅広く守っております。結論を言えばそれは基礎教育で育まれる遵法意識があってこそで、この辺の意識が国家から国民に至るまで薄い中国人なんかは日本人からすれば横暴に見えてしまうのでしょう。
 その中国人の遵法意識を取り上げても面白いのですが今日取り上げたいのはそれではなく、どうすれば遵法意識は高まるかです。これも結論を言えばいくつか影響させる要素があれども特に重要と思えるのは「お上への信頼」だと私は考えています。

 法律というのは身分や年齢に関係なく誰にでも平等に適用されるからこそ法律なのであって、必然的に地位が上の人間にもきちんと適用されるかどうかが一般市民からしたらその平等性のバロメーターになります。逆を言えばそういった人間らが法律を守っていないのを見ると私達からしたら、「なんだこのやろう!!(#゚Д゚)」と思うわけです。

 この遵法意識に対するお上の振る舞いについては、同列で並べるべきじゃないかもしれませんが孔子の論語でも言及されています。孔子の論語は言ってしまえばエリートに対する教本で施政者の心構えなどを説いていますが、全体を通して、「一般市民は親が子を見るように、お上の振る舞いを見て自らの振る舞いを決める。その為施政者が自らの行動を慎めば市民も慎み、道を外せば非道が横行する」と説いてます。

 翻ってみて今の日本の状況はどんなものか。平成以降ではほぼ間違いなく最大額の脱税をした鳩山由紀夫元首相は一部時効となったため本来の納税分を納めないばかりか処罰を受けず、小沢氏に至っては真っ黒なのにまだ起訴されないばかりか政治倫理審査会も拒否し、そうした不正を取り締まる検察は不正な捜査を行っている始末です。
 これまでに何度か、政治家には図抜けた胆力や決断力といった能力が求められるのであって金に対して清廉潔白な徳までいちいち求めるべきでないという評論家の意見を見たことがありますが、私は法治国家である以上は政治家には徳というものが求められるべきだと考えていますし、今の時代だからこそそういった人材が要求されていると思います。

2010年12月6日月曜日

自民と民主、どっちの政党ショー

 ようやく中国の就労ビザ申請するための書類届いたけど、風邪引いてちょっと辛い。そういわけで明日は辛いけど六本木の中国大使館に出向く予定ですが、ついでに海老蔵の血痕ビルも見に行こうかな( ゚д゚)/

 さて目下の所支持率が25%になって福田、麻生政権とあまりかわらなくなってきた民主党菅政権ですが、なんだかんだ言って二大政党制が着実に根付いてきているのか対抗馬の自民党は徐々に支持率が上がってきているそうです。民主がダメなら自民へ、私自身が選挙というのはどっちがマシなクズ共か、そういった消去法で選ぶべきだと考えているのでこのような考えも決して悪いというつもりはないのですが、私は現時点ではまだ自民よりは民主の方がマシだと考えていてもう少し政権を維持し続けてもらいたいと考えています。

 くれぐれも言っておきますが現時点の民主党を決して支持しているわけではなく、諸々の対応を見ている限りではちょっと情けない政権運営で問題視はしています。それにも関わらず何故民主をこうも擁護するのかというと、単純に今自民党が与党になった所で今以上にひどい政権になる可能性が高いと見ているからです。その根拠というのも単純で、割と暇な時間が多くて今国会はよく見てはいましたが、結局一度たりとも自民党側から「なるほど」と思わせられるような政策的提言や主張を見ることがなく、結局やっている事は民主党の閣僚が失言なり写真撮影などポカした際に野次を言っているだけでした。

 数え上げれば切りがありません蓮舫氏の国会内写真撮影に始まり仙谷氏の尖閣事件の対応、柳田法相の失言、最後に中井氏の「早く座れ」発言などに対して文句だけしか言ってなかったように見え、何かしら政府案に対して適切な批判や質問をしたかとなると何も浮かびません。そもそも蓮舫氏の写真撮影といい最後の中井氏の事件といい、自民党議員も似たような事やってるし。
 民主党が野党だった頃も大体似たようなもので当時の私も激しく非難していましたが、それでも年金問題を始めとした公務員改革関係の提言などがあり、今の自民党よりはまだ建設的な政党だったという気がします。

 身内の自民党議員も谷垣総裁に敵失を待っているだけじゃダメだと言っていましたがまさにその通りで、何かしら政策提言が行えるようになるまでは二度目の政権交代は起きてもらいたくないのが私の意見です。

2010年12月4日土曜日

西南戦争における日露戦争のキーマンたち

 以前に征韓論について取り上げましたが、今日は西南戦争についてちょこっと書きます。
 西南戦争というと日本最後の内戦、士族による最後の武力反抗として位置づけられ、この後士族らは自由民権運動など言論による反抗を行っていくようになると中学レベルでは教えられます。この説明に問題がないわけじゃありませんが、私としてはこの西南戦争はもっと後世に強い影響を与えているのではないかと睨んでおり、できればもう少し研究とか進まないものかと考えています。

 それはさておき、実はこの西南戦争に関わった人間のうち後年の日露戦争においてキーマンとなる人物が数人おります。
 まずその中でも有名なのは203高地で有名な乃木将軍こと乃木稀典で、らしいといえばらしいですが鎮圧のための官軍を率いて九州に乗り込むも西郷軍に散々にやられて軍隊としては絶対になくしてはならない連隊旗を失くすという大失態を犯してます。本人も後年に至るまでこのことをえらく気にしていたそうですが、それにもかかわらず日露で前線指揮官になるというのはやっぱりミスキャストな気がしてなりません。

 そうやって鎮圧軍に乃木がいた一方、西郷軍の当初の攻撃目標で初期から中期にかけてずっと攻撃を受けていた熊本鎮台こと熊本城に篭城していた中には、こちらも日露戦争にて陸軍を率いた児玉源太郎がいたそうです。当時から児玉は将来が渇望されていた人材だったらしく、西郷軍の撤退の後にはわざわざ無事かどうかが政府から確かめられたそうです。

 そしてこちらは西南戦争には参加していませんが、「もし自分も鹿児島にいたら西郷さんとともに戦った」と語ったのが日本海海戦で海軍を指揮した東郷平八郎です。東郷は当時イギリスに官費留学に出ていましたがそもそもその留学を叶えてくれたのはほかならぬ東郷と同じく薩摩出身の西郷で、非常に恩に感じ入っていたそうです。

 乃木はともかくとして、仮に西南戦争で児玉、東郷の両名が戦死していたらと思うとその後の歴史には思わず寒気を感じます。こういったところから西南戦争を見てみると、もっと議論の価値がある気がするのですが……。

瞬間湯沸かし器について

 実はついさっきまでブログを書いててもうほぼ完成直前だったのですが、うちのお袋が瞬間湯沸かし器を使ったところ停電が起き、折角書いた内容が全部消えてしまいました。以前まで使っていたGoogleのBloggerならどんな風に中断してもきちんと途中保存してくれていてこういうことはなかったのですが、FC2だとそうも行かないようです。

 そういうわけなのでまた一から書くとちょっと精神的にも辛いので、今回停電を引き起こした瞬間湯沸かし器について書こうと思います。
 私が瞬間湯沸かし器を初めて使ったのは中国に留学中のことでした。中国は生水が飲めないためにみんな家で喉を乾いたらお湯を沸かしてお茶などにして飲むのが普通で、ホテルや学生寮にはそのような湯沸し用にどこでも瞬間湯沸かし器が置いてあるのが普通です。

 私が入った寮でもそうだったのですが、元からお茶やコーヒーといった嗜好品が好きな私(煙草は吸わない)としたら使わないわけにも行かず試しにいろいろと使ってみたのですが、これがまた意外なくらいに便利で驚きました。もともと一人暮らししている時は湯沸しポットを使っていたのですがこれだと保温時に電気使うし、かといって一回一回ヤカンで沸かしていても面倒。なおかつ一人で何か飲むときなんてコップ一杯の水を沸かす程度なので、ちょうど湯沸かし器を使う程度でいい感じでした。

 そんなわけで日本に帰国して就職後、電気屋に行ってとっても取れるティファールの湯沸かし器をすぐに購入しました。使い心地は非常によく、大体一分程度で沸かしてくれますし、ポットと違ってドリップ式のインスタントコーヒーの場合だと湯をヤカンみたいに注げるので入れ易いです。
 ただ残念なことに私の家族は私以外には誰一人としてこの湯沸かし器を使う人間はおらず、こんなに便利なのにと力の限り叫んでも効果がありません。

 ちなみにこの前に中国で就職を決めてもう部屋も決めて一週間程度住みましたけど、早速近くで100元くらいで湯沸かし器を買いました。上海人の友人からは高いと言われました。向こうでは炊飯器も100元くらいで買えるので、確かに高かったかもしれません。
 あとまだ向こうでは買ってなくて、今度就労ビザ取って向こうに住みついたらすぐさま買おうと思っているのは自転車です。普通に1000元(12,000円)くらい積んでもいいから必ずいいのを買って、盗まれないようにしないと。

2010年12月2日木曜日

足利事件の真犯人について

 今日も私の知恵袋こと文芸春秋の記事の紹介です。中国行ったら読めなくなるけど、影響とか出ないかな。

 文芸春秋を毎月買っている人なら話は早いのですが実はここ三号三ヶ月連続である特集が組まれており、その衝撃的な内容に一部で大きな議論がなされています。その特集記事というのは日本テレビ社会部記者の清水潔記者による記事で、その内容はというと昨年犯人とされて逮捕、実刑判決を受けたものの冤罪として釈放された菅谷さんが巻き込まれたあの足利事件の真犯人についての記事です。真犯人と言ってもどんな人物か皆目見当がついていないのだろうと皆さん思うかもしれませんが、清水記者はここ数ヶ月に渡る特集記事においてはっきりと”真犯人らしき人物”を特定し、その氏名から住所まで探り当てた上で捜査機関に報告まで行っていると書いております。

 実は私はこれまで今回の取材を行っている清水記者について全く知らなかったのですが、その経歴を調べてみるとこんなすごい記者が日本にいたのかとため息をつかされるような人物だったと分かりました。清水記者が初めて脚光を浴びたのは1999年に埼玉県で起きた桶川ストーカー殺人事件で、この事件において警察より先に犯人の特定を行っただけでなく、埼玉県警が被害者や家族から被害届けを受け取っていたにもかかわらず全く捜査を行っていなかったという不正も暴き、その後の警察捜査に対して大きな一石を投じております。今思うとこの時の埼玉県警の不祥事発覚はその後に起きた北海道警裏金事件など、一連の警察不祥事発覚の嚆矢だったような気がします。

 それだけに業界でも清水記者の評価は高いようで、先月号にて別の記者からも、「あの清水氏が取材しているのだから」と太鼓判まで押されていました。私自身もここ数ヶ月の清水記者の特集記事を読む限りでは実に精緻で細かく事実関係を追っており、なおかつ取材対象との信頼関係も非常に強く醸成されているようで、こういってはなんですが文章上からも只者ではないと窺える人物です。

 その清水記者ですがなんと2007年より足利事件を取材し続けており、この事件を含む群馬、栃木で79年から96年にかけて起きた複数の女児殺人事件は手法の同一性などから一人の犯人によって起こされているのではないかと考え、足利事件の犯人とされた菅谷さんは無実ではないのかと推理して取材を行っていたそうです。その過程では足利事件にて被害者となった女児の母親とも接触し、当初母親は取材を拒否していたものの清水氏の対応に信頼を覚え、実名でテレビ出演まで行っております。
 私がこの清水記者がすごいと感じるのは、警察から犯人も捕まってもう一件落着ですと言われた事件の親類とこうして信頼関係を築いている点です。仮に自分がこの母親の立場であれば今更何をと思うだろうし、むしろ嫌な記憶を蒸し返しやがってと反感を覚えたと思います(事実母親も、当初そのような感情を清水記者に持ったと証言している)。そんな母親に何度も接触を試みて会うなり清水記者は、「菅谷さんは真犯人ではない」と言い放ち、その後も取材を重ねていったそうです。

 そうした清水記者らの活動も貢献してか足利事件ではDNAの再鑑定が行われ、ついに菅谷さんの無実が証明されて冤罪が晴れることとなったのですが、では肝心の真犯人は一体誰だったのかという疑問がこの事件では残りました。この真犯人について栃木県警はすでに時効という事で捜査は未だに行っていないのですが、清水記者によると同一犯人の疑いの強い96年に起きた群馬県太田市女児連れ去り事件については時効を迎えておらず、関連が疑われる事件ながらもおざなりにされてしまっているようなのです。

 ここで一連の北関東連続幼女誘拐殺人事件について簡単に説明すると、79年から96年の間に群馬、栃木の県境付近で起きた足利事件を含む五つの事件のことで、どの事件も年端も行かない女児が誘拐され遺体で発見されるという痛ましい結果ながらも犯人は未だに捕まっておりません。清水記者の取材によると90年の足利事件と96年の太田市の事件のどちらもパチンコ店から女児が誘拐されているという大きな共通点があり、太田市の事件当日のパチンコ店にて、まさに被害者らしき女児とともに店内を出る怪しい男が店内の防犯カメラに映っているそうです。また足利事件当時、被害女児らしき子供と遺体発見現場近くを歩く不審な男を複数の人間が目撃しており、清水記者が件の防犯カメラに映った怪しい男を見せたところ似ているとその目撃者らは答えたそうです。
 ここまで言えば分かるでしょうが、清水記者が真犯人と疑っているのはまさにこの男のことで(風貌から、特集記事では「ルパン」と呼ばれている)、すでに清水記者はこの人物の情報を調べ上げて警察に提供しているそうです。

 しかし今のところ警察が足利事件、並びに太田市の事件について捜査を再開したという動きはありません。この警察の対応について清水記者は、警察、検察といった捜査機関が組織としての体裁を守るために敢えてこれらの事件を闇に葬ろうとしているためだと記事中で指摘しており、私自身もそのように考えております。

 足利事件で菅谷さんの逮捕の決め手となったのはDNA鑑定で、彼の冤罪を証明したのもDNA鑑定でした。というのも最初の鑑定では鑑定方法が古く、正確でなかった為だと警察は発表しましたがこれは実のところ嘘で、実際は犯人とされたDNAの型も菅谷さんの型も、再鑑定では当初割り出した型とは違っており、そもそもの鑑定結果を間違えて出していたというのが真実でした。当時のDNA鑑定は顕微鏡を目視してその型を調べるというやり方だったので、いわば鑑定人が型を見間違えたというごくごく単純なヒューマンエラーだったそうです。

 もちろんそれで長い間獄につながれた菅谷さんのことを考えると決して許されないミスではあるのですが、これが本当に取り返しがつかないのは、同じ鑑定方法で事件が立証され、死刑判決が下りた上にすでに執行されてしまった飯塚事件の存在です。
 この飯塚事件について詳しくはリンク先のWikipediaを読んでもらいたいのですが、犯人とされて死刑がすでに執行された方は逮捕当初から死刑直前まで一貫して無実を訴え続けていたのですが、足利事件と同じ手法のDNA鑑定が決め手となり裁判では有罪死刑を受け、2008年に刑は執行されております。

 仮に足利事件を再捜査すればこの当時のDNA鑑定方法の不備が槍玉に挙がることは目に見えており、場合によっては当時のDNA鑑定すべてが再鑑定にならざるを得なくなります。それによってこの飯塚事件が再調査となり、もしも鑑定が間違っていた場合、冤罪ながらも死刑を執行してしまったということになってしまいます。

 上記のような指摘は足利事件で菅谷さんの弁護士をしていた佐藤博史弁護士がかねてから主張しており私自身も知ってはいたのですが、今回の清水記者の取材からますます警察が事実を隠したがっているという確信を得ました。
 警察はすでに何度も書いているように足利事件について再捜査は行わないと発表しています。にもかかわらず、被害女児の母親が事件の証拠となりDNA鑑定に使われた被害女児の遺品であるシャツの返却を求めた所、栃木県警はあれこれ理由をつけては頑なに、未だに返却を拒み続けています。

 捜査がまだ行われているのならともかく、捜査が打ち切られた証拠品は通常であれば遺族らに返却されます。しかしこの真犯人のものと思われるDNAが付着しているシャツは先ほどの鑑定が根本から間違っていた事を証明しかねないがゆえか、はっきり言って異常な理由をつけて警察は返却を拒み続けているそうです。それだけに私は先ほどの飯塚事件との関連性がより疑えるのではないかと思うに至りました。
 すでにこの問題は国会の法務委員会でも取り上げられているようで、私としても北関東で明らかに異常なほど頻発している女児の誘拐、殺人事件を解明する上で再捜査が行われる事を心から祈ります。

 最後に残酷な一つの事実。清水記者によると、足利事件と飯塚事件のDNA鑑定は同一の鑑定人が行ったそうです。

2010年11月28日日曜日

日本人の感情表現と文章

 ネットを当てもなく見ているとよく、「外国人を見て和む話」というものがまとめられております。実際に読んでみると確かに和む話ばかりで見ていてほのぼのとしてくるのですが、ふと考えてみるとなんで外国人の行動にこうも和まされるのかと疑問を覚え、ちょこっと考えて出した私の結論はというと、やっぱり日本人と比べて外国人は割合に感情をストレートに表現する事が多く、うれしいやがっかりといった感情を比較的押さえ込む日本人からするとそれが素直にさらけ出されるのを見て和みを感じるのではないかと思いました。
 なお言うまでもないことかもしれませんが、ここで言う外国人ってのは基本的に西欧人で中国人とか韓国人は入っていません。中国語でも西欧人は「外国人」もしくは「老外」というけど、日本人と韓国人はこれに入らない辺りにシンパシーを感じる。

 話は戻って素直に感情を出す外国人についてですが、日本人というか日本の世の中は基本的に感情を押し殺す事がすべての場において美徳とされ、小学校くらいからもそのように教育されます。私自身も日本人であるので感情を押し殺して黙々と行動する人間をかっこいいと思う傾向がありますが、その一方でなんでもかんでも感情を束縛される事に窮屈さを感じることもままあります。先ほどの外国人を見て和む話といい、私は今の日本人は一応は感情を押さえることが美徳だと認識しつつも、内心では感情をストレートに表現したいという欲求が強いのではと、考えた次第です。近頃流行りのうつ病も、やっぱりそういった感情表現と関係ある気がするし。

 では日本人は元からそうした感情表現を押し殺すのか、もしくは感情表現自体が苦手なのかと言うと、これは間違いなく後天的に植え付けられた特徴だと考えています。なんだかんだ言って日本の子供達を見ていると実に感情表現が多彩なのに対し、年齢が上がるにつれてそのような傾向はなくなってしまいます。となると日本の教育自体が感情表現を抑えるように教え込んでいる事になるのですが、そう考えた時に真っ先に思い浮かんだのが日本の作文教育です。

 日本の作文教育については過去にも「読書感想文は必要なのか」の記事の中で、日本の読書感想文は執筆者が本を読んで実際に感じた感想以上に教師が納得するような本を誉めるような内容が暗黙のうちに要求される点を指摘しましたが、よくよく考えてみると読書感想文に限らず日本の作文教育は個人的な意見はまだ書けるにしても、文章に感情を盛り込む事については徹底的に排除されているきらいがあります。

 ここで私がいちいち書かなくとも中学高校にて、「文章は客観的に書きなさい」と教えられたことは日本人なら誰にでもあるでしょう。この客観的にというのは響きはいいですが、実際には感情をすべて排除してマシーンのように文章をつづれと言っているも同然で、確かに客観的な視点は文章には不可欠であるものの主観的な視点を徹底的に排除するのはそれも問題だと私は思います。
 元々人間は感情を束縛される事に対して嫌悪感を抱くようで、私の感覚ですけど感情を捨てて文章を書けと言われてもあまり乗り気にはなれません。逆に、「お前の今持っている感情をすべてこの紙の上で表現せよっ!!(#゚Д゚)」などと言われ、自分の好きな歴史人物についてそれが何故いいのかだったり、嫌いな人間について呪詛の言葉をつづれってんなら物凄い乗り気で今からでもいくらでも書く気が起きます。

 くれぐれも言っておきますが、今も書いているこの文章を含め基本的には文章には客観性というか落ち着いた表現が求められると考えています。しかし主観的な表現も全く価値がないわけではなく、感情を文字にて表現するという意味ではむしろ格好の材料となることがあります。
 私が何を言いたいのかと言うと、日本の作文教育は一から十まで感情を殺すように書かせるために作文に対して苦手意識を作っている気がして、せめて小学生の間、出来れば中学校くらいまでは好きな事や感情をそのまま文字にて書かせた方がまだやる気もでていいんじゃないかという事です。

 これこそ先ほどの外国人の和む話で見かけた話ですが、イタリア人の男性は女性を見ると誰彼かまわず歯の浮くような文句で口説くそうですが、彼らは小学生の頃からラブレターの書き方を勉強するなどその方面で徹底した教育受けているそうです。ラブレターまでとは言いませんが、感情をさらけ出す材料をもうすこし作文の題材に選んで欲しいものです。