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2011年2月28日月曜日

王道を外れること

 ちょっとこのところこそこそと動いているので、これからしばらく記事の投稿がまた減ってくるかもしれません。今週末にはうちのお袋が例の茨城空港発上海行き春秋航空格安チケットをどうやったかは知らないが取ってこっちに遊びに来る予定なので、日曜は書くだろうけど土曜日は早くも休業予定です。
 そういうわけで今日もちょっとやることがあって本当は休みにする気だったのですが、短くてもいいから何か書こうかと思い直していたら折角の機会なのでちょっと自分の遍歴について簡単な感想でも書いてみようかという気になりました。

 率直に言って、自分はあらゆる面で王道を外れた生き方をこれまでしてきたかと思います。私の簡単な略歴を書くと、

・鹿児島県で生まれ、千葉県で育つ
・千葉市内の中高一貫の私立校に進学する
・何故か大学は京都にある私大にいく
・途中休学して北京に一年留学する
・大学卒業後、新卒で東京の会社に就職する
・数年の勤務後に退社し、中国の日系企業に転職する

 たまに知り合いからこのような私の略歴を見て、「パーフェクトやん」と言われることがありますが、内実は決してそんなもんじゃなく結構途中途中にどろどろした過程が色々含まれております。細かくは書きませんが略歴で見るほど私はこれまで順風満帆に来ている訳でなく、要所によっては山中鹿之助ではありませんが敢えて苦労することがはっきりわかっている道を自分で選んでいることがあります。

 ちょっと前に「必要な苦労、余計な苦労」という記事を書きましたが、その記事で余計な苦労はしないに越したことがないと主張しながらもこれまでの私の人生の中では妙なプライドが邪魔してわざわざ余計な苦労を抱え込んだりすることが非常に多かったです。今思い返すとあそこまで無茶しなくともよかったんじゃないかというようなことも数多いのですが、それはそれで若い自分が正しいと信じて取った行動なのだから今となってとやかく言うべきではないと自らに言い聞かせています。
 そうした私の天邪鬼的な行動で最も根幹となっているのは、この記事の題にもしている王道を外れることです。昔からやや目立ちたがりな性格ゆえにほかの人がやっていることは逆のこと、ほかの人があまりしない行動をとかく好んで取る傾向があり、たいした理由もないのに「ほかの人がやらないから」という理由だけで行動して失敗したことが本当に多々あります。

 こうした王道を外れることのメリットを挙げるとするなら、やはりほかの人間にない経験や技術を得られることにつきます。その一方でこれはほかのどの人間も持つ経験を得られないということと同義で、はっきり言えば確かに大きなメリットを得られる可能性がないわけではないがそれはほとんどなく、むしろ共通体験が得られなくて余計な苦労を負う可能性の方が明らかに高いです。
 ここまでわかっていながらも私は未だに王道を外れた道を追おうとすることが多いです。もちろん実際に激しい活動をしていたりする人からしたら少し外れる程度でへたれもいいところですが、朱に交わって赤くなるまいとわざとはずれっぽい選択肢を選んでは自滅するようなことが今でも多々あります。一体何故そのような行為を繰り返すのか、この問いに対して答えようとするのは我ながらなかなか難しいのですが、敢えて答えるとしたらやっぱり自分は高みを目指していきたいと考えており、王道はまだ後からでも体験しやすいもののそれを敢えて外れた道は意識しないと経験が出来ないと思うゆえだという気がします。

 たまにふと、自分が安全策を図って王道をひたすら歩もうとしていたらどうなっていたかという気がします。それこそ公務員試験対策やお金になりやすい資格の取得、ほかの人がやっているようなサークルやコンパへの参加などを積極的に行っていたらという仮定ですが、多分今よりあまり物事を考えない人間になってるだろうなという気がしてやっぱり自分は今の方がいいという結論にいつも落ち着きます。

2011年2月27日日曜日

国の教育レベルについて

「あと1元ありませんか?」

 中国でレジにて会計を済ます際、必ずと言っていいほどこのように聞かれます。

 たとえば購入金額が合計16元のところで20元札を渡すと上記のように1元があるかどうかを聞かれ、言われた通りに1元を追加して合計21元を渡すと5元札でおつりが返ってきます。
 何もこのようなことは中国に限らず日本でも951円の会計の際に1051円を渡すような形で日常茶飯事のように行われておりますが、中国の場合だとこれがより顕著というか店員の側が客に強く要求してくるところがあり、この前なんか私の前で会計を済ましているおばさんが小銭はないと答えたにもかかわらず、「あんたのかばんからさっきからチャリチャリ音するから、本当は持ってるんでしょ」と店員が追求してきたことがありました。おばさんもおばさんで、「ばれたか(∀`*ゞ)テヘッ」といってかばんから小銭出すし。

 このような会計時の額合わせというか簡単な暗算は日本や中国ではごく当たり前に行われていますが、実際のところこういう行為が行われている国はそれほど多くはない気がします。というのも私がかつてイギリスに訪れた際に売店で買い物時にいつものように金額を合わせて余計に小銭を足して支払ったところ、「こんなにいらないよ」といって小銭分だけ返されました。このようなことはほかの店も同様で、店員の反応を見ている限りですと、イギリスではこのように額を合わせるという習慣がないだけなのかもしれませんが、どうも瞬時の暗算が出来ないのではないかという気がします。同様のことはアメリカでもあり、このような経験から日本人というのはほかの国の人と比べて暗算をぱっとできるのかと妙な感心をした覚えがあります。

 そう考えるなら日本同様に金額を瞬時に暗算しておつりを自然にまとめる中国人も相当な計算力を持っていることになります。実際に私の目から見てもこのような計算を初めとした中国人の教育水準は決して低くなく、国際レベルでは比較的高いレベルにあるのではないかという気がします。ただこれはあくまで中国の都市部の話で、地方となるとまだ学校も整っていない地域も数多くあるということから国単位ではまだ未知数ではありますが。
 その一方、現在の日本は国全体で義務教育が徹底されててこうした生活上の暗算はもとよりかつて海外遊説中に小泉元首相が、「日本人はホームレスですら新聞が読める」と述べたように漢字が混ざる複雑な文字系統にもかかわらず識字率も世界屈指の高さを誇っております。教育崩壊が叫ばれて久しいものの、他国と比較するなら日本は未だ高い教育水準にあると言っていいと私は思います。

 聞くところによるとアメリカやフランスでは移民が多くいることからそれぞれ英語、フランス語を理解できない労働者が数多くおり、工場などではそうした労働者に対してマルチ言語で作業手順所を作ったりなどあれこれ対策が必要だそうです。それに比べると日本は移民が少ないというのもありますが誰もが皆日本語を理解でき、なおかつそこそこの計算力を持っているのですから他国と比較するなら人件費を抜きにすると日本の労働者は優秀と言えるでしょう。経営側がそれに甘えている気もしないでもありませんが。

 こういう風なことを考えるにつけ、国を支えていく上で教育というものは本当に重要なんだという気がします。今でこそ当たり前と考えてしまいますがたとえば日本人の30%程度が文字が読めない文盲だったとすると、自治体の処理から雇用現場の対策など様々な点で現在よりも手間と苦労が必要となります。またこうした基礎教育はもとより、医療や工業技術といった専門的な知識についても各分野で今よりも人材が少なくなってしまえば途端に経済が回らなくなるのも目に見えてます。もっとも医療現場は今人手不足で問題となってますが。

 私は以前の陽月秘話にて、経済を拡大させるのに何が一番必要かといったら人口以上に教育が最も必要だと主張しました。この考え方は今でも変わりがなく、むしろこうして海外に出る度に基礎教育の重要性などについて気づかされます。この点で私が非常に英断だったと思うのは明治維新期のメンバーたちの決断です。
 明治維新後の日本はお世辞にも財政状況は良いというわけでなく、国の予算のほとんどは大商人からの借金によるものでした(その代わり払い下げなど見返りがあったが)。それにもかかわらず非常に早い時期から学制を整備して全国各地に尋常小学校を作る一方、当時の最高権力者であった岩倉具視の給与以上の金額で外国人教師を招聘して高等教育も整備するなど、教育を非常に重視していたことがわかります。現代で考えてもこの時の明治政府の教育施策が後の日本の急成長に大きな貢献をしていることははっきりしており、このときに徹底させた基礎教育があったからこそ二次大戦後も急速な復興を果たすことも出来たかと思われます。

 これは京都の人から聞いた話ですが、昔から京都は戦乱が多かったために京都人は燃えて島可能性のある家や家財といった財産にはあまりお金をかけずに形のない教育にお金をかける傾向があるそうです。現実に京都は市内にかつての教育施設から発展した数多くの大学があり、また私立中高などを見ていると教育熱が比較的高いと感じられます。生憎公立校は学区制のために人気がないですが。

 国敗れて山河ありとは言いますが、教育さえしっかり施しておけば国は滅んでもすぐに建て直すことは可能なのかもしれません。逆を言えば教育が駄目になればどれだけよいインフラがあったとしても後々国は滅んでしまうかもしれません。
 自分は個人として主義主張が強すぎるために教師にはなるべきでないとかなり早い時期に考えて実際になろうともしませんでしたが、なにかしら教育に貢献できるような活動は今後しなきゃならないなぁとは思ってます。具体的に何するかまでは未定ですが、このブログから何か発展することが出来ればそれに越したことはないのですが。

2011年2月26日土曜日

日本の天才たち

 大分前にも陽月秘話で似たような記事を書きましたが、よく日本人は欧米と比べて平均的な人材が多く、天才が少ないと言われているような気がします。しかし私の見方だと決して日本人に天才が少ないわけでなく、むしろ同じ日本人同士で評価してあげられないためにノーベル賞を受賞して一気に注目を浴びた田中耕一氏のように海外から評価されて始めてその才能や功績に気がつくことが多いだけなのではないかと常日頃考えています。そういう意味では日本は天才が少ないのではなく伯楽が少ないと思われ、日本において人材不足というのも優秀な人材がいないのではなくて優秀な人材を見分ける人間がいないがゆえに起こる現象ではないかとすら思います。

 さて先日、ネットの掲示板にてこれまでの日本人で誰が一番の天才かというテーマで議論されているのを見つけたのですが、そこでは本当に数多く有名な人物が挙げられていました。一言で天才といっても、「どんなことでも卒なくこなせる万能の天才」と「何か一つに極端な才能を持つ一方でほかの多くの面で欠落が見られる天才」と大極して二種類に分かれます。海外の天才で言うと前者はレオナルド・ダヴィンチ、後者はアインシュタインが典型例ですが、以前にこのような解説を行っていたコラムニストによると野球選手で言えば前者は走攻守すべてに秀で調子の波が少ないイチロー選手、後者は打撃に関しては天才的ながらも「失敗は成功のマザー」などといった独特の話法を持つ長嶋茂雄氏がそれぞれ挙げられていました。長島氏についてはこの前見た、「いやー、昨日は疲れててシャワー食べてうどんを浴びたらすぐに眠ってしまいましたよ」という話が個人的にツボに入りました。

 そういうわけで今日はちょっと私が思い当たる日本の天才たちをリストアップしようかと考えたわけですが、普通にリストアップするのでは芸がないので上記二種類の天才の型ごとに分けて挙げてこうかとも考えましたが、実際にこれをやるとなると業績以外にもいろいろ私生活ぶりとかも考慮しなければならないためにちょっと今回は見送ります。これ以上前置きは無用なので、早速ご覧ください。

  <私の考える日本人の天才>
南方熊楠(植物学者)
黒田官兵衛(軍師)
永田鉄山(軍人)
大村益次郎(軍人)
八木秀次(物理科学者)
田沼意次(政治家)
関孝和(和算学者)
平賀源内(発明家)
手塚治虫(漫画家)
大友克洋(漫画家)
写楽(画家)
空海(僧)
岡本太郎(芸術家)
秋山真之(軍人)
安藤百福(経営者)
華岡青洲(医師)
土井利勝(政治家)
親鸞(僧)
太田道灌(武士)
藤堂高虎(武士)
横井軍平(ゲームクリエイター)
松本清張(作家)
原敬(政治家)


 かなり私的な基準でなおかつ時代も職業も順不同ですが、ざっとこんなもんです。

 さすがに一人ひとりの解説は出来ないので大雑把な解説を行うと、日本で天才の代名詞となっているのはまず間違いなく平賀源内で、その次に来るとしたら南方熊楠ではないかと思います。今回ここで挙げた人物らは功績もさることながら私から見てやや知名度が低すぎるのではないかと思う八木秀次や花岡青洲を敢えて入れていますが、その一方で戦国時代では何故織田信長を差し置いて藤堂高虎がいるのかと思う方がおられるかと思います。信長については確かに先進性といいその後スタンダードとなる考えを編み出していて十分に天才の名に恥じないと思いつつも、彼の才能は天才性というよりは革新性に富んでいるように思え、それゆえに私の中の評価は天才ではなく革新者であるため今回リストからはずしました。逆に藤堂高虎を何故入れたのかというと、彼は和歌山城を初めとして数多くの日本の名城を築城しており、日本の城郭建築に大きな影響を与えていると判断したゆえです。

 大体30分くらいで考えたリストなので多分しっかり考えればもっと色々いるでしょうが、猛将列伝に続いて天才列伝みたいな感じでこれから一人ひとりを詳しく記事にしていった方が案外面白いかもしれません。

 ちなみに私は昔、というよりは今でもたまにこれだけ毎日長文の記事を更新していて文章については天才的だと友人らから褒めてもらえることがありますが、私自身としては自分の文章は誤字脱字もさることながら流麗さが感じられず、なおかつ文字量の割には内容がやや軽薄すぎるように思えてあまり評価しておりません。その分、これは意図してのことですが読んでてストレスを感じることが少なく理解しやすい文章には仕上がっているとの自負はあり、天才からは程遠い、ただ文章に手馴れている程度の才能ではないかと考えています。

 むしろ私自身の能力に限れば、記憶に関する能力の方が先天的な才能があるように感じます。このブログでもたまに突拍子もないことから過去の小さな事件を掘り出しては一緒に解説することがありますが普段でも友人らから、「本人が言った事を忘れていることをよく覚えている」といわれることが多く、先ほどもこの記事書きながら友人と、

花園「そういえば前に君がファブリーズで除霊もできると言ってたよね。あれ、テクモというゲーム会社の人が『零』というホラーゲーム作っている時に怪奇現象に遭い、そういえば幽霊はじめじめとしたカビっぽいところにいるようなと思ってファブリーズかけたら途端に現象が止んだことから出た噂なんだって」
友人「あー、そういえばそんなん言ってたかも。てか、なんでそんなの覚えてるの?」
花園「覚えてるも何も、確か五年前の冬くらいに君の部屋で話してる時に出た話だよ。自分もファブリーズ使い出してこの前思い出したから調べて見たんだ」

 たまに自分でも、なんでこんなくだらないことをいつまでも覚えてるんだろうという気になります。

2011年2月23日水曜日

私生活を切り売りすることについて

 このところ以前の陽月秘話で見受けなかったハンドルネームの方々からよくコメントを戴きます。コメントの内容を見ている限りですとどうも以前から読んでてもらっている方々のようで、よくもまぁこんな駄々長いブログを読んでてもらえるなとうれしく感じるとともに、潜在的な固定読者はなかなかに多いのだと身が引き締まる思いがします。

 さてその陽月秘話改め現在の陽月秘抄ですが、やはり住所が日本国内から中国国内に移り変わった影響から日本の社会批評などが減ってきて、その分中国関係や歴史関係の話がこのところ多いと自分でも自覚しております。この辺をもう少し何とかならないものかと色々考えてて、中国のテレビはケーブルテレビなので契約次第によっては日本のテレビ局の海外放送も受信することが出来るのでちょっと今検討しております。
 その分中国のニュースをどんどん翻訳して書いていけばという案も考えてはいるのですが、なんというかただ翻訳して載せるだけだと芸がないような気がしてどうもプライドがそれを許しません。もうすこし経ってこっちのニュース情報を加工できるくらいに物知りになれば話は別ですが、現時点ではまだ手を出す気にはなれずにおります。

 話は変わってブログについてですが、私のブログは社会系ニュースや思想に関することばかりで明らかに他の一般のブログとはやや趣が異なっておりますが、基本的にブログというものはその運営者の私生活を切り売りするものだと私は考えております。私生活を切り売りするとは読んで字の如くその執筆者の普段の生活や考えたことなどを敢えて外に公表するということで、書籍の形ではいわゆる私小説というものがこれに当たります。
 私が知る限りではこの私小説を日本で始めて大々的に発表したのは明治の文豪森鴎外で、処女作の「舞姫」自体もこの私小説の要素を過分に含んでて公表当初から色々周囲に言われたそうですが、「舞姫」以上に凄いのが後年の作品に当たる「イタ・セクスアリス」です。こちらは本当に鴎外の私生活というか、自分の嫁と実母の嫁姑抗争をありのままに書いたことで公表時にはこんなものが文学としてなりうるのかといろいろ議論となったそうです。その一方で抗争を暴露された嫁と姑はその後何故だか仲良くなっていったそうですが。

 私のこのブログでもたまにプライベートなことを書いたりしますが、やはり書いてる側からするとこのような私生活を切り売りする記事は書きやすいです。内輪ネタのような感覚というか、大抵自分で面白いと思うことを書くので気分的にも舞い上がり、なおかつ情報の加工が一切必要なくただ記憶に従って書くだけなのですぐにすんなり書き終わってしまいます。それこそちょっと珍しいことをやったり見たりしたことなどを書けば記事としての体裁は出来上がってしまいますし、読者の反応もこれまで書いたそのような記事からするとそれほど悪くない気もします。
 その一方で、書いてあることは本当に私生活の暴露に当たる内容のためこうして文字情報として残ってしまうインターネットに記述してしまえば、その後気が変わったとしてもその情報を秘匿することは難しくなります。それこそ書いた当初はどうでもいい愚痴のつもりで書いたものが後年になって何かの禍根になるかもしれませんし、変な形で揚げ足を取られる事態を自ら招くことにもなりかねません。

 似たような内容で陽月秘話のごくごく初期に確かネットにおける犯罪告白について書いた覚えがありますが、やはりこういうブログとかミクシとかだとあまりにも手軽すぎてついつい余計なことを書いてしまいやすく、注目を集めたいと思ってしまうものなのか先日の中学生による新宿通り魔予告事件など自らを破滅に追いやることまで書いてしまう人も少なからずおります。
 現在までのところ私のこのブログでは書いた後で「しまった!」と思うようなことはありませんが、政治や思想というやや機微な内容が多いことを考慮して比較的に慎重に書いているつもりです。そのためいろいろと準備してそこそこいい内容になると確信を持った記事についても、余計な批判を受ける可能性や一部の無関係な人間を傷つける恐れがあると踏んで結局没にしてしまったことも何度かあります。

 そういう意味で私生活を切り売りするというのは非常に手軽な分、ある種の危険性をはらんでいるということになります。しかもそうやって公表する私生活というのは無限に存在するわけでなく、極論を言えば公表を続けていればいつの日かネタ切れになって切り売りする私生活がなくなってしまうことになります。
 では切り売りする私生活ネタがなくなった人間はどうするのか。別にそれで生計を立ててるわけでなければ極端な影響はないでしょうが、一部の芸能人などにおいては敢えてスキャンダルを起こす、もしくは以前のものを暴露してまで世間の注目を浴びるように仕向けて命脈を保とうとする人がいます。ただそうそう何度もスキャンダルなんて起こせるものではないですし、何度かそういうことを繰り返しているうちに周囲からも飽きられてしまうのが大抵のオチです。

 わざわざ実名までは挙げませんが、女性に多いですがいくつかの芸能人では本当にこういう風になって今じゃすっかり世間から忘れられてしまっている人も少なくありません。切り売りするような私生活もすでになく、スキャンダルを起こしてもまたかと相手にされず、元々の芸も評価されずと一体あんたは今まで何やってきたんだと言いたくなってくる程です。
 このように考えるのなら、私生活というものはある意味その人個人にとって有限の財産という風に見ることが出来ます。もちろんその財産価値は人によって違いますが、公表するという形で消費してしまうと二度と取り返せなくなる可能性を持っており、普段意識しないけどこういう自分とその周囲だけの秘密というものは案外大事なんじゃないかとこのごろ思います。

 お金というものは持ってると使いたくなりますが、一回使ってしまうとなくなってしまいます。私生活も同様で、ついつい珍しい体験などは誰に聞かれることもなく自分から話してしまいがちですが、それをある程度秘密として持つことにもまだ価値があるんじゃないかと思います。まぁどんだけ聞かれようとも話したくない秘密も誰にでもあるでしょうが。

2011年2月22日火曜日

中東での革命の連鎖について

 このところ連日報道されているように、中東諸国において革命を求むデモが起こり次々と政権が崩壊しております。初めはチュニジアにて起こり、その後エジプトにて長く軍事政権を続けてきたムバラク政権が崩壊し、そしてついにはリビアにおいて数十年にも渡って独裁を保ち続けたカダフィ大佐にすらも引退を要求するデモが起こり目下内戦のような状態へと発展しております。正直に言って、チュニジアでデモが起こった当初にこれほどまで大衆運動が波及するとは誰が予想したでしょうか。デモがエジプトにまで波及した際は現在のエジプトの経済状況が悪かったことから多少は仕方ないとしても、リビアこそが独裁国の代表ではあるものの比較的豊かな国だけにこちらまでは波及しないだろうという予想をあちこちで見受けましたが、私もそういった情報から判断するに恐らくエジプトでこの大衆運動は止まるのではと見ておりました。
 それにしても革命というものはこうも波及するものかと、かつてトルーマンが社会主義のドミノ化を恐れたというのも今こうして現在になって見ると理解できるような気がします。

 一応国際政治を専門と掲げてはいるものの、実は中東の情勢については私はあまり詳しくないのが本音です。元々日本は中東諸国とは距離もあることから交流が少なく、ホメイニ氏によるイラン革命の頃まではビジネスライクな関係で紐帯が強いわけではないものの貿易量が多く、親しくないもののお互い利益を分かち合うような関係でした。特に革命前のイランはプロ野球選手のダルビッシュ選手の父親を初めとして数多くの留学生が日本にやってきていたようで、90年代中ごろまでは東京都内の至るところで見つけられたそうです。そのせいで一時社内のあだ名が「ビンラディン」だった中東系の顔しているうちの親父は当時はよくイラン人に間違えられたそうですが。

 そういうわけでちょっと今回の一連の事件を契機に勉強をして見ようかといろいろ、特にエジプト関係を中心に調べて見たのですが、やはり中東史を語る上でははずせないのは中東戦争です。この戦争については一般的にはアラブ諸国対イスラエルという二次大戦後のこの地域における領土問題だと一般的には教えられていますが、改めて調べて見るとそれ以外にスエズ運河をめぐる英仏とエジプトの争い(第二次中東戦争)も含まれており、その最中に頭角を現した各軍人らが後に国の最高権力者となるくだりなどを見ていると現代に直結する歴史であったのだと、自分の不学を嘆く羽目となりました。
 個人的に気になった人物を挙げるとエジプトにおけるムバラク大統領の一代前の、イスラエルと電撃的和解を行って暗殺されたアンワル・サダト元大統領が一番興味を引きました。このほかは中東戦争で活躍してその後首相になり、殺人者とまで呼ばれたアリエル・シャロン元イスラエル首相とかかな。

 それで今回のこの革命について一つ予想というか分析を行うと、正直なところはこの辺に詳しいだろうカイロ大卒の小池百合子氏の意見とか聞いてから判断したいのですが、やはり今後もしばらく革命の影響が中東に及ぼすのではないかと思います。特にこれはすでに言及されていますが、これまでのエジプトのムバラク政権は比較的イスラエルに対して和平的であったのですが今度成立するであろう新政権はイスラム主義色の強い政権が予想されており、親パレスチナを掲げてイスラエルと衝突する可能性が高いといわれております。
 またその一方で、これまでそうしたイスラエルとの対立ゆえに軍人出身者の多い政権で運営されてきた各国は今後民主化の波を受けて非軍事政権が新たに作られる可能性があります。それはそれで歓迎したいものの、その間の混乱を縫ってこの地域に多く潜伏する国際テロリストらが暗躍して経済や国家体制により大きな混乱を生み出す可能性も全く否定することは出来ません。

 特に日本にとって一番懸念しなければならないのは、今日の東証でも影響が出たように原油価格の高騰です。かねてからドバイやカタールなどは近年の原油高を受けて高層ビルが数多く建設されるなど原油バブルが起こっていると指摘されてきましたが、今回の革命の余波を受けてそのバブルに歯止めがかかることもありえ、その一方で原油の輸送などが止まって世界はますます原油価格が高騰し、多方面に大きな影響が及ぶことも考えられます。
 ただあまり心配をしすぎるのも問題なので、やや距離のある日本としてはこの歴史的一大事に立ち会えるのだと考えてしっかりと見ておくというが一番必要なのかもしれません。私自身も小学生の頃に何度も、「後三年早く生まれていれば」とソ連崩壊に立ち会えなかった(生まれてはいるが意識して見ることは出来なかった)のを悔しがったことがあるだけに、こうした大きな革命劇を見る世代に入れたのは幸運だと感じております。

 最後にこの革命とアジアについてすこし書いておくと、タイでも先年にタクシン政権が崩壊して以降はなかなか政治が安定しておりません。まぁ今回の中東の革命とは無関係なのであまり影響はないでしょうが、それ以上によくこの手の話題に上ってくるのが今私がいる中国です。
 中国も距離が離れているとはいえやはり気になるのか、どうもあちこちでピリピリしているそうです。そのためか昨日の報道によると街中にいた日本の外交官を何かのデモに参加していると勘違いして一時拘束したそうですが、日本側が抗議するやあまり大事になってもらいたくないのか素直に認めて謝罪までしてきました。普段が普段なだけに、こうも下手になってくるとかえって気味が悪いです。

 もっとも中国は今のところは右肩上がりで、またこのところのこちらの主要な話題となっている各都市における最低賃金についても経済界からの反発を抑えて地方政府らは大きく上昇させるなど底辺の労働者対策も全くしていないわけではないので、中東の影響は恐らくないかと私も思います。
 こんな風にリビアも言われながら、今のような状況になってることを考えるとあまり口を開くべきではないかもしれませんが……。

2011年2月21日月曜日

弟キャラの特徴とは

 それほど詳しいというわけでもないですが、よくある美少女キャラのカテゴリに「妹キャラ」というものがあると聞きます。私は読んだことはないのですがライト小説で「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」という本がよく売れていると聞きますし、一時は年上に当たる姉御キャラが流行っていると聞いていましたがやはり未だに妹属性というものは強いようです。
 どうでもいいですがPixivにて、「俺の壬がこんなに可愛いわけがない」というネタイラストを見た時は久々に腹を抱えて笑いました。滅茶苦茶濃い二瓶氏のマンガ「バイオメガ」が元なだけに、そのギャップが凄まじい。

 さてこういう女性キャラの姉妹属性というかそういうものはよく見ますが、逆に男の兄弟はどういう風な属性を持つのかちょっと考えて見ました。無論兄弟たっていろいろあるでしょうが話的に妹キャラにはどちらかというと保護欲というか弱弱しさみたいなものが求められる一方、弟キャラは逆に「しっかり者」というような印象が浮かんできます。

 私がまず代表的な弟キャラとして考えた際に真っ先に思い浮かんだのは、歴史上の人物ではありますが羽柴秀長です。苗字からわかるとおりにあの豊臣秀吉の父親違いの弟で、目立たない人物ながらも陰で兄の覇業を助けたとして彼の早世が豊臣政権の崩壊を生んだとまで言われるほど評価の高い武将です。96年に放映された大河ドラマ「秀吉」では堺屋太一氏の「豊臣秀長」が原作の一つとして組み込まれ、このドラマで秀長役をした高嶋政伸氏の好演とともに一気に知名度が上がりましたが私自身も非常に好きな武将で、出来る弟といったら日本史中では随一でしょう。

 同じく歴史上の人物で秀長とともに戦国時代で活躍したとなると、武田信玄の弟の武田信繁も優秀な弟として挙がって来ます。この信繁の何が凄いかって言うと元々信玄の父親は信玄を疎んで信繁を跡継ぎにしたがっていたそうですが、兄の信玄が業を煮やして父を追放するやその兄の行動を支持して実質その片腕として縦横無尽に活躍していることです。惜しくも川中島の戦いで戦死しますが、こちらもまた存命していれば長篠の戦での敗戦はなかったとまで言われております。

 こうした歴史上の人物に対してマンガの中の弟キャラとなるとこちらで最初に思い浮かんだのは「北斗の拳」における主人公のケンシロウですが、北斗三兄弟はいろいろと比較対象にするのはどうかと思う兄弟なのであまり参考にならないような気がします。
 そんなケンシロウの次に浮かんできたのはキャラクターのスヌーピーでおなじみの「ピーナッツ」に出てくるライナスです。ライナスには身勝手で口うるさいルーシーという姉がいるのですがあるシーンでそのルーシーが珍しく思い悩み、人生はかなくて生きる価値なんかあるのかなどとつぶやいていると、「少なくとも、いなくなってしまったら寂しがる弟はいるよ」と女殺しもいいところなやさしいフォローをかますようなキャラです。身勝手でわがままな姉と打って変わって冷静で心優しいキャラで、しっかり者の弟キャラとしてはまさに典型でしょう。

 ただこうしたしっかり者な弟キャラがいる一方、しっかりしすぎというか突き抜けすぎて上にあたる兄や姉が困るという関係もいくつかあります。こちらの代表例はまた歴史の人物になりますが真田幸村で、実際に徳川方についた兄の真田信幸は徳川陣営の中でおおいに苦心したそうです。また信幸自身も名将と名高いものの弟の武名が高すぎるがゆえかどうも劣った武将のように思われる傾向もあり、本当に死んでからも弟に苦しめられてるようで可哀想です。

 ちなみに私も姉がいる弟キャラの一人ですが、こうして中国でふらふらしているあたりはとてもしっかり者とは言えるレベルではありません。あと友人に三人男兄弟の一番上とか真ん中がいますが、彼らに聞いたりすると弟は可愛いと思うもののやはり時折鋭い一言を言われたりするので空恐ろしさを感じることがあるそうです。
 近年の中国は一人っ子政策によって兄弟がいるという人自体が非常に少ないですが、こっちの人にこういう兄弟関連の話は理解できるのかな。

 末筆ながら、ニュージーランド大地震の被災者の方々へご無事をここでお祈りさせていただきます。

伝記にまつわるエピソード

 子供に対してどんな本を読ませたらいいかと問われるなら、私は迷わず伝記を勧めます。「事実は小説より奇なり」と言われるだけに、空想の物語と言えども多かれ少なかれ実際に起こる事実や展開に依拠せざるを得ず、そういう意味では現実の人間の話以上にオリジナル性の高いストーリーはないということになります。
 私は小学生くらいの頃からいわゆる歴史マンガを通して人物の伝記を読み漁り、中学生くらいになると歴史小説や人物伝など徐々に文字だけの伝記も読むようになっていったのですが、やはり当時の自分にいい影響を与えて今でも思い出すことのある本のジャンルとなると決まって伝記物になります。聞くところによると世界で一番多く伝記が書かれたのはフランスのナポレオンだそうで、日本は大正期くらいまでは西郷隆盛が一番多かったそうですが恐らく現代では織田信長か坂本竜馬と言ったところでしょう。

 さてこういった伝記ですが、教育的な効果云々について長々と語っても仕方がないのでいくつか伝記にまつわるエピソードを紹介しようかと思います。基本的に伝記というものはヒトラーなどその時代ごとに批判される対象を除いてその人物をどちらかと言えば持ち上げて書かれる傾向があるのですが、中には持ち上げられすぎと言うべきか本質を失って世に誤解を生み続ける伝記も少なくありません。

 その代表格と言うべきか、世間では立派な人物だと言われつつも実際にはすごいダーティだと私が感じる最筆頭の人物はほかでもなくトーマス・エジソンです。
 エジソンときたらアメリカの発明王という認識で一致するかと思いますが、確かに彼は数多くの発明を生み出して千を越える特許を取得しましたが、彼の本当に評価すべきところは発明という才能よりも特許商法とも言うべき経営手腕にあると私は思います。エジソンは自ら発明をする一方で細かな技術を権利者から特許権を買取り、それらを集合させて一つの商品を作って売り出すということで現在のゼネラル・エレクトリックス社を盛り上げました。そのため商品全体で見れば確かにエジソンの発明に見えなくもないのですが、その商品を構成する様々な技術はいろんな人が持つ特許をかき集めたもので実際にエジソンが一から発明したものとなると実際にはほとんどないそうです。

 そのくせ自分の特許権のこととなるとほかの人間には一切つかわせまいとばかりに度々訴訟を起こしてたり、また有名な「天才とは99%の努力と1%のひらめきが必要」という言葉も、実際の意味は「たとえ99%努力したって1%のひらめきもなければすべて無駄」という内容だったそうです。インタビューを行った記者がこれじゃちょっとあんまりだと思って努力が報われるという意味の最初の言葉に改変したそうですが、まさかそれが100年以上も流布されるとは本人も思わなかっただろうな。

 こうしたエジソンに対して、同時代の日本人にも伝記にまつわるあるエピソードがあります。その日本人とは黄熱病の研究で有名な野口英世ですが、彼はその死後に研究結果はほとんど否定されているために実際の功績となると梅毒の研究くらいで、どちらかといえば生前の方が知名度が高かった人物でありますが、そうした生前の知名度の高さが影響してかなんとまだ生きている間に日本で伝記が出版されていたそうです。
 そんなわけで野口英世は出版された自分の伝記を読んだそうですが、一読するや「こんな完璧な人間、いるわけないだろ」といって投げ捨てたそうです。本人ですら否定するくらいなのですから相当持ち上げられた内容だったのでしょう。

 このほか近年で持ち上げられすぎだなと私が感じる人物だと、ちょっと前にブームとなった白洲次郎です。この人はいろいろエピソードがあるのですが生憎ほとんどがはっきりとした根拠のない噂ばかりで、本当にそのエピソード通りの人物かとなると非常に怪しいです。
 特に一番有名なエピソードとしてGHQ統治時代にマッカーサーへ昭和天皇からの贈り物を持って言った際にマッカーサーから、「ああ、そこにでも置いといてくれ」といわれたことに対してふざけるなと抗議したというエピソードですが、これは歴史家からはっきりとありえないと指摘されています。プレゼントを直接渡すなぞ暗殺すら起こりうる事態で、実際にマッカーサーへ届け物がされる際はGHQの係官が受け取ってから中身を確認し、かわりに渡すのが実情だったそうです。ま、そりゃそうでしょう。

 最後に伝記というわけじゃないですが、元阪急の野球選手である福本豊氏のWikipediaのページは下手なギャグマンガよりずっと面白いです。