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2011年8月8日月曜日

京都にある大学

 このところ固い記事ばかりで、なおかつあまり文章が乗れていないのでやわらかい内容で今日は行こうかと思います。

 さて私はこのブログですでに何度も書いていますが京都の私立大学の社会学部出身です。この学生時代を京都で過ごしたという経歴は誇りに思得るほどなのですが唯一難点があり、
「京都の大学出身です」
「え、京大?」
 と、ほぼ八割くらいの確率で京大出身と間違われるという一点だけはなかなかにいただけません。別に京大にコンプレックスを持っているわけじゃありませんが、京都はただでさえ大学が多いのになんでもかんでも京大でひとくくりにしてほしくないという気持ちがあります。では京都にはどれくらい大学があるのかですが、ちょっと他サイトから引用して持ってくるとこれほどあります。

・京都大学
・京都教育大学
・京都工芸繊維大学
・京都市立芸術大学
・京都府立大学
・京都府立医科大学
・大谷大学
・京都外国語大学
・京都学園大学
・京都光華女子大学
・京都嵯峨芸術大学
・京都産業大学
・京都女子大学
・京都精華大学
・京都創成大学
・京都造形芸術大学
・京都橘大学
・京都ノートルダム女子大学
・京都文教大学
・京都薬科大学
・種智院大学
・成安造形大学
・同志社大学
・同志社女子大学
・花園大学
・佛教大学
・平安女学院大学
・明治鍼灸大学
・立命館大学 
・龍谷大学
・大阪成蹊大学芸術学部
・大阪医科大学
京都大辞典様より引用)

 改めてリストにしてみるとあるわあるわ。もちろんこの中には私の出身大学も混ざっていますが、一部は京都市外にキャンパスを構えるものの大半の大学hsあの狭い京都市内に林立していることを考えると京都はとんでもない学術都市だという気がします。

 実際に京都で学生生活をしたことのある人なら話が早いですが、どの大学もそれぞれ個性があり、校風というかカラーは今でも色濃く残っております。京都大学は実は京都出身の学生は少ないとか、京都で「こうせん」とくれば京都工芸繊維大学だとかいろいろありますが、この大学リストの中で敢えて一校を取り上げるとしたら今だったらやっぱり京都産業大学がなかなか注目に値します。
 この「きょうさん」こと京都産業大学は鶴瓶師匠が通っていた頃はこういうのもなんですがバカ大学として有名だったそうですが、近年は大学自体が非常に改革に努力した結果偏差値等が急上昇し、「京産はえろう努力したもんや」と京都の人たちはよく口にしてます。2008年には理学部の益川敏英教授がノーベル賞を受賞したこともあって関東にも名前が知られるようになりましたが、入学難度の割には非常にいい大学ではないかと思います。と言ってもキャンパスが市内の割にはかなり僻地なんだけど、私はあのあたりうろつくの好きで良く自転車で通っていましたが。

 ちなみに私が京都市内で居を構えた場所は紫野という場所で、かつて清少納言が枕草子にて「丘は船岡」と書いた、織田信長が祭られている建勲神社のある船岡山の真ん前のアパートを借りていました。このエリアは言ってしまえば立命館エリアで私の通う大学の学生はほとんどいませんでしたが、アパートを出てすぐ傍には「日本最強の銭湯」との呼び声の高い「船岡温泉」があり、夜は針の落ちる音すら聞き取れそうなくらい静かな環境で楽しく生活していました。唯一の難点は地下鉄の駅まで徒歩20分という点でしたが。

 最後ですが実は前から気になっている点として、京都というだけあって市内にはたくさんの仏教系大学があるのですが、やっぱりそれぞれの仏教系大学同士は仲が悪いのかを前から知りたがってます。傍目には龍谷大学と大谷大学なんかがものすごく仲が悪そうに見えるのですが。

2011年8月7日日曜日

野中広務氏への評価

 まず本題と関係ありませんが、毎日新聞のウェブサイトにどれだけ広告が戻っているかを確認した際に贔屓にしている浜矩子氏の評論が乗っていたので紹介しときます。内容は数年前から言われていたしもっと自覚しなきゃいけないことですが、未だに浜氏が言わなきゃいけないほど認知が進んでいないのかと思わせられる内容です。

時代の風:ファウスト化する日本=同志社大教授・浜矩子(毎日新聞)

 それで本題ですが、数年前に友人と田原総一郎氏の講演会に行った際、「これまで見てきた政治家の中で特筆すべき人物は?」という質問に対して田原氏は、「田中角栄と小泉純一郎」を挙げていました。小泉氏について言えば自民党を延命させたこと、日本の政治手法を変えたということでおおむね一般にも出回っている評価で恐らくその影響力を考慮して取り上げたのでしょうが、田中角栄については、

「はっきり言って彼が在任中は金権政治家などと私も批判していましたが、今思うと大した政治家だったと思い返します」

 詳しくは前ブログの「陽月秘話」内の「田原総一郎氏に凝視された日」を閲覧してほしいのですが、最近この田原氏の評価ではないですが改めて振り返ると大した政治家だったと私が思う人物に、今回表題に挙げている野中広務氏がおります。

野中広務(Wikipedia)

 野中氏の経歴についてここでは詳しく語りませんが、彼が部落出身というのは知っている人の間では有名な話です。しかもその出身ゆえに「野中だけは首相にするわけにはいかんなぁ」と麻生太郎元首相が広言していたことも有名で、この一言で自分の友人なんか激怒していました。まぁこんな妙ちきりんな思想を持つだけあって麻生元首相は大した政治家ではありませんでしたし、すでに過去の人ですが。

 野中氏が自民党国会議員として主に活躍したの90代後半から00年代初頭で、小渕政権と森政権にて官房長長官を務めていましたが当時の政権を完全実質に切り盛りしていたのは先の二人の首相ではなく野中氏であったことは間違いありません。それ故にこの時代は野中政権と言っても差し支えないものだったのですが、当時からつい最近までこの時代の野中氏の政治運営を私は嫌っていました。いくつか具体的な点を挙げると小渕政権での積極財政、森政権での混乱、そして極めつけが加藤の乱における野中氏の猛烈な相手陣営切り崩しで、その実力は認めるもののあまりのダーティさにいけ好かない政治家だと感じ続けておりました。
 その評価は次代の小泉政権時も同様で、特にこれは今でも評価しない点ですが北朝鮮外交においては融和的なスタンスから小泉外交を批判し、これが私にはあまり面白くなく彼が引退を発表した時は、「これで日本の政治はまた一つ良くなる」と友人に触れ回ったほどでした。

 実は最近野中氏について妙な一件から調べなおすきっかけがありました。そのきっかけというのはこの前に集中して書いた部落団体の利権についての記事で、あの記事を書きながら私はどうして被差別者たちの団体が戦後にこれほどまでに影響力を持つようになったのか、その原動力はなんだったのかといろいろ考え、戦後の比較的早くから放送禁止用語などが作られるなど放送界から影響力を広げていったのではないか、ではどうして放送界で力を持ったのかというとバックに放送業界ににらみを利かせる政治家がいたのではないかと勝手に推論を組み立てていきました。そして当時部落団体を助長させた政治家というのは、被差別部落出身でもあり各業界団体に強い影響力を持っていた野中氏ではないかという結論に至ったのですが、後になってこれは完全な的外れな推論で間違っていたということがわかりました。

 まず野中氏が部落出身というのは本人も常日頃から言っていることで間違いありませんが、彼はその出身にもかかわらず解放同盟などといった利権団体と距離を置くばかりか、同和対策事業が新たな差別を生むとして普段から手厳しい批判を行っています。これは複数ソースからも確認できる情報ですし解放同盟関係の話題でも野中氏の名前は一切出てこず、意外と言えば非常に意外なのですがどうやら間違いなさそうです。

 この一件から野中氏について再評価すべくまたいろいろ調べなおしたのですが、改めて考え直してみるとその政治方針はともかくとして実行力、決断力は近年稀に見るほど図抜けた政治家だったと肯定的な見方が芽生えてきました。特に危機対応能力は今思うと神がかっていると言っても過言ではなく、一つそのエピソードをウィキペディア中から引用すると、

「1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村で発生した東海村JCO臨界事故の際には内閣官房長官として事故対応の指揮を執った。内閣総理大臣官邸に事故状況の報告に来た科学技術庁(当時)の幹部がおろおろして事故現況の報告に詰まると、野中は「とにかく現場へ行きなさい。現場を見ないでどうやってこちら(官邸)に報告出来るのか! 現場を見て、その状況を報告しないことにはこちらも対策を講じられないではないか」と一喝し、その科学技術庁幹部に東海村の現場へ直ちに行くよう命じた。」

 東日本大震災の対策で、大変だというのはわかりますが右往左往している管政権と比べるとその違いがはっきり出ております。これ以外でも先ほど挙げた加藤の乱の際の切り崩し工作や政権運営の抜かりのなさから言っても、「実行型」の政治家としてはかねてから実力を評価してましたが改めて素晴らしい人材だったのではないかと思うようになってきました。さらに言えばこれまで批判の対象としてきた森政権時の野中氏の活動についても、当時自民党幹事長という立場からすれば政権を守ろうと行動するのは当たり前の行動ですし、逆の行動をとりようものならそれはそれで批判の対象となります。あとこれは蛇足かもしれませんが、加藤の乱の後に野中氏は森元首相に対して突然幹事長職の辞意を伝え、政権運営を野中氏に頼り切っていた森政権はこれがきっかけとなって崩壊しました。ちゃんとごみを片づけて出ていく態度は立派なものです。

 元々今回の記事は前から準備していていつ書こうかと考えていた内容なのですが、いつも閲覧させてもらっている「黙爺日録」さんのところで野中氏の対談本が取り上げられていたので今日書くことにしました。

野中広務・辛淑玉「差別と日本人」を読む(黙爺日録)

 この記事で紹介されている本の内容を読んでみると、慎重な上に刃物を突き通すような細心さを野中氏に感じます。興味があるので是非うちの親父も買っておいて、帰国した時に自分に譲ってくれると助かります。

 最後に多分ネット上にない野中氏のエピソードで、恥ずかしいことに番組名を忘れてしまったのですが昔日曜の朝にやっていた有名人が出演して人生を振り返る番組で野中氏が出演した際に、終戦後に故郷に帰ったものの生きて帰ってきたことが恥ずかしく、実家には直接戻らずしばらく友人宅などを転々としていたそうなのですが、最後にようやく決断ついて実家を訪れたところ、

「あんた前からこの辺うろうろしとったそうね。なんで早く帰ってこなかったの?」

 と、息子の帰宅に野中氏の母親には全く驚かなかったそうです。案外お茶目な時代もあったんだなと、やけに記憶に残るエピソードでした。


2011年8月6日土曜日

自分の判断への信頼性

 自分がほかの人と比べて良くも悪くも特徴として際立っているのは、思い切りの良さだと思います。そもそもの前提として私は、「自分の判断はたまには間違えることもあるけど、基本的には正しい」という前提を持っており、自分が行けると思ったことは必ず行けると思ってあまり迷うことなく実行に移そうとします。
 恐らくここだけ読むと、あながち間違いではありませんが私のことをさも傲岸な人間のように思われるかもしれませんが、たとえば日頃からハイキングに行っている友人と行かない私のどちらかがハイキングの途中でルートを決めなければなったとすると私は、「友人の方がハイキング歴も長く経験も豊富なため、自分より正解の判断をする確率が高いだろう」と考え、無条件で友人の意見に従うことでしょう。これは一見すると自分の判断を放棄して他人の判断に任せているように見えますが、社会学士らしくひねくれた考え方をすると、「友人の考えに従う」という判断を自己判断していると解釈します。

 かなり七面倒な理屈を自分でも言ってると思いますが、「何故他人の判断を優先するのか」という過程を意識することは私は非常に大事だと考えております。あくまで私の観点からですが、大概の日本人は自分の判断より他人の判断の方、もしくは合議での判断の方が正しいという前提を持っており、自分が考える判断を表では主張せずに押しとどめる傾向があるように思えます。自己主張をしたら集団の中でハブられるという日本人特有の社会的資質も影響しているでしょうが、内心ではこう考えるんだけどほかの人の言うことに従っておけば無難、という考え方をする人が非常に多いように思え、これはそろそろ日本人は脱却した方がいいのではないかとみています。
 もちろんこうした日本人の価値観によって団結力とかその辺は高くはなるのでしょうが、近年は単純作業においてすらもパターンにない例外事態が発生する仕事が多く、もう少し自主性というか「俺はこう思うからこうするんだ」というくらいの身勝手さをその都度発揮して行動した方が社会全体での動きもよくなるのではないかと感じます。

 とは言ったって勝手にやったら怒られるというのが大半の意見でしょうが、このままでは何も変わらないとばかりに私は普段から自分が正しいと思ったことは結構すぐに口に出したり勝手に行動したりしてます。そりゃもちろん多少の妥協はして指示されたことには反発を口にすることはあってもちゃんと指示通りには行動するようにしてはいますが、こうした考え方が社会で一般的になるよう孤軍奮闘しているつもりです。そのせいか前の会社を退社する際に上司から、「花園、お前は本当に人の言うことを聞かない奴だったが仕事だけは確かに早かった(*´∀`)」と、妙なお褒めの言葉を受け取りました。こう言うのもなんですが、自分の上司になってさぞ苦労したかと思うと感謝に耐えません。

 現在でもこの傾向は変わらず、たとえ両親を含む他人から助言や勧めを受けたとしても私自身がその相手の言うことに道理がないと考えたら一顧だにしませんが、そのかわり相手の言うことがその通りだと感じた場合はそれまでの判断とは逆でもなるべく素直に、可能な限りは従おうと努力しています。さしあたって友人から今強く言われているのはレンタルサーバーの取得ですが、こちらは確かに必要性は感じつつもずぼらな性格が災いしてまだ手が出せておりません。
 ただ唯一といってはなんですがある友人の言だけは例外扱いしており、たとえその友人の言う内容に対して私が間違っていると判断しても、「この友人が言うのだから自分の方が間違いだろう」と完全無条件でその友人の意見に合わせます。このところまた文章が荒れ気味でオチらしいオチがまたありませんが、私が読者の方に言いたいことは「他人の意見を信じるのもまた自分の判断」ということで、どんな点においても自分が判断するのだという責任と、自分の判断力がどれだけ正しいのかを普段から認識してほしいということです。

2011年8月5日金曜日

中、初等教育における教員の雇用について

 何か教育関係の話をというリクエストを受けたので、前から思っていた内容を今日は紹介します。

 一つ昔話をしますが、六年前に出会った一個下の友人に対し将来は何になりたいのかと説いた際、教師になりたいとその友人は答えました。その答えに対して私は、
「悪くない選択だね。これから団塊世代が大量退職してこれまで少なった教師の口が一気に広がると言われてるし」
 しかし結果はというと、私のこの予測は間違いでした。団塊の世代に当たる教師が一気に退職して教師が各学校で不足しているというのは間違いではないようなのですが、その不足分を補うための教員の雇用は現在に至っても行われませんでした。

 現実問題として教師が全国各地で不足しているというのは間違いではないようです。そのため教師一人あたりの負担も依然と比べて遥かに高くなっており、この前も何かのニュースで教師の休職理由は精神的なものが大半と書かかれてありましたが、いろいろ病んだりして職場を離れざるを得ない教師が毎年増えていると言います。
 では不足しているにもかかわらず何故教師の数が増えないのか、教師を志望する人間が減っているのかというとこれまたそうではないようです。確かに少子化ではあるもの不景気という時代ゆえに教員免許を取る学生はそこそこおり、また教師職を志望し続けている人もたくさんいるのですが、彼らが何故教師になれないのかというと単純に教員の募集がないそうです。何故教員の募集がないのか、もったいぶっても仕方ないのでもう書きますがこれまたあちこちから話を聞く限りですとごくごく単純な理由で、教師を雇う側の自治体が財政難で新規に教員を雇う余裕がないからだそうです。

 私立学校であれば別ですが、公立学校を運営するのはそれぞれの市や県であって教員の給料などは各自治体から支払われます。それ故に具体的にどのような身分かまではわかりませんが教師というのは準公務員的な職種であるわけですが、すでに財政破綻宣言をした夕張市をはじめとして、現在全国各地の自治体では大量の借金があって当たり前と言えるほど財政難な状態が続いております。それ故に各学校で団塊世代の教師が大量に引退したにもかかわらず支出を増やすにはいかないために新規採用を凍結し、少子化で子供の数は減っているものの既存の教師数で何とか回そうとしているのが大半だそうです。

 このような状況で割を食うのは誰かというと、まずは既存の教師たちです。彼らはそれ以前に比べて担当する子供の数や授業コマ数が大幅に増えましたが給料は変わらず、というより昇給幅は明らかに以前より狭められています。もっともそれは会社員にも共通しますが。
 これら既存教師に加えて割を食うのが、教職志望だった自分たち世代の若者たちです。真剣に教育に身を捧げようとして教職を志望する人たちもいるでしょうが、現在正式に教員に採用されるのは至難の業だと聞きます。勘のいい人は今書いた「正式に」って言葉を見てすぐにピンとくるでしょうが、その逆の非正規の教員となるのだったらそれほど難しくないようです。

 非正規の教員って言ったってブラックジャックみたいに免許を持たない医師というわけじゃなく、一週間に数コマだけ学校に来て教えるようなアルバイトのような講師職で、現在これが各地で増加しているそうです。自治体は非正規の教員として雇えば社会保障などといった余計な経費を払う必要はなく、またいらなくなったらすぐに切ることもできれば一切昇給させる必要もありません。それ故に教師になりたいが一心、正式採用を夢見る人なんかは苦労を覚悟でこのような教師版の派遣職に甘んじ、ひどい例なんか月数万円の給料で働き続けていると聞きます。

 単純に経費削減という観点からみるのであればこのような採用形態が悪いとは言いません。しかし本気で教育を充実させたいと考えるのなら教師を不安定な身分にとどめておくというのは明らかに間違ってますし、ただちに対策をしなければならないでしょう。またそもそも財政難で支出が増やせないというのなら、すでに高い給料を受け取っている年齢の高い教師からリストラしていかなければ根本的な解決につながるはずがありません。
 そういうわけで漠然と予想はしてはいたのですが、調べてみると案の定そうだったのが下のリンク先です。

教員平均年齢ピークに、3人に1人が50歳以上(読売新聞)

 やはり予想通りというか教員の新規採用を渋りに渋った結果、平均年齢は過去最高をどんどん更新していて三人に一人が五十歳以上という状態にまでなったようです。この構図をあえて言い表すなら、やはり若者を犠牲にしてという言葉しか私には浮かびません。先にも書きましたが支出を抑制するのであれば新規採用を凍結するのではなく既存の人間をリストラした方が明らかに効率がいいはずでしょうし、そもそも教師なんか叩けば埃が出てくるような人間はまだまだたくさんいると思います。ひがみっぽいですがどうしてそういう人間に着手しないで我々の世代が割を食わなければならないんだと、一抹の悔しさを感じます。

2011年8月4日木曜日

日銀の円高介入と最近の為替について



 今日は朝っぱらから上のとんでもない写真を見て、すごく元気が出ました。なんでも如雨露から水をがぶ飲みするのが好きな猫だそうですが、うちの実家の猫も普通の水受けからでなくマグカップに入れた水をやけに好んで飲んでおり、猫って何かしら器にこだわりを持つのでしょうか。

 さて今日のトップニュース、というよりここ数か月の主要な経済話題と言ったら円高の為替傾向以外にありません。昨日には取引中に戦後最高値に迫る76円台に迫ったことから本日日銀が為替介入し、一程度の円安が起こってそこそこの成功は得ました。しかし結論から言うと今回の日銀の判断は間違ってはいませんが初戦はその力はたかが知れており、中、長期的に見るなら今後も円高が続いて70円を切るのも視野に入ってくるのではというのが私の意見です。

 実は前回日本に帰国した際に会った友人とも話をしましたが現在の日本の円高は異常としか言えない数値で、こんな為替なのによく日系企業は海外に逃げないなと二人で妙な関心をしました。すでに財界の人たちも公にはっきりと言っていますがこんな為替レートでは経営を続けていくなんて無茶もいいところで、あらゆる想定を超えたレッドゾーンに入ってきたと言っても過言ではないでしょう。何気にリーマンショック後に「1ドル55円時代を覚悟せよ」と経済学者の浜矩子氏が言っていましたが、当時にも先見の明がある人だと思っていましたが現実身を帯びてくるに従ってこの人は諸葛孔明なんじゃないかとこの頃思うようになってきてます。

 まずどうしてこれだけ円高が起きているかですが、ネットを見ているとやれ民主党が悪い、管が悪いからだなどという意見をよく見ますが、私が思うに今の円高は日本の政治とは全く関係なく動いていると考えています。では一体何故円高になるかというと、単純に言って景気が悪い悪い言っている日本以上にヨーロッパやアメリカの方が景気や財務体質が悪いからで、この二つに比べたら日本の景気、あと財務状況ははるかにマシという状態ゆえに世界各国で円が買われているからと見ています。ネットで誰かが、穴の開いたボート(=世界経済)で穴の開いた反対側(=日本円)に乗員みんなが寄りかかってきている状態とたとえましたが、一番これが今の状況をうまく言い表しているでしょう。

 それでこの円高はいつになったら解消するかですが、少なくとも今後一年や二年は上下はするでしょうが高い状態が続くと見ています。その根拠を上げると、ここ一か月で急激に円高が進んだのはアメリカのデフォルト懸念からでしたが、そもそもの話としてデフォルト懸念が出る以前から日本円は異常に高い状態が続いていたので今回アメリカ議会でこの件が片付いたと言っても大勢には影響しないと思います。その上でいくら円高が困るからと言って日銀が今回みたいに介入しようにも、こちらもそもそもの話として運転する資金の絶対量が世界の投資家と比べて圧倒的に少なく、今日みたいに一時凌ぎは出来ても長期に渡って円安を誘導することなんて不可能です。仮に本気でやろうとするのなら他国を交えて共同介入する以外にありませんが、アメリカは金融緩和路線を続けるでしょうし、ヨーロッパは今火の車でそんなことやってる暇はないでしょうからその目はほとんどありません。

 とはいえ今回の日銀介入は間違ってはなく、タイミングとしては今くらいに一回するのが限度と思っています。っていうかここでやらなかったら日銀は何やってるんだって叩かれるのが嫌でやったようにも見えますが。ただ今回の介入で何が怖いのかというと「日銀の力はこの程度か( ゚∀゚)」と足元みられることで、下手したらリバウンドとばかりにまた逆バネが働いて一気に円高に進む可能性も否定できません。そうなっても、今回については日銀を責められませんが。
 そういうことで今日の結論を言うと、「1ドル55円時代を覚悟せよ」ということに尽きるわけです。

2011年8月3日水曜日

全く見ない日本のテレビ番組について

 本日のニュースで、日立がテレビの自社生産をやめるというものがありました。私は以前から家電メーカーの人に、「テレビは作れば作るだけ赤字」と聞いていただけにこのニュースに対して驚きはなく、むしろ二、三年前にもっと早く決断しておけばよかったのではないかとも思いましたが、ちょうど地デジ移行が終わったタイミングということもあり、メンツ的にも今くらいがちょうどよかったのかもしれません。
 さてそんなテレビですが、売れないというよりも現在は価格の下落が激しいがゆえに儲からないようです。実際見ていてもどうしてこんなに安いのかと思うくらいですし、自動車と比べて家電メーカーの競争は熾烈すぎると感じます。しかも買い替えも地デジ移行以外はほとんど行われなかったとも聞きますし、ほかのメーカーも年末にかけて決断するところが現れるのじゃないでしょうか。

 話は変わってテレビというハードに対するソフトのテレビ番組についてですが、前回に日本に帰国した際に私もいくつか見てみましたが、はっきり言って何をどうすればこんなにつまらない番組を作れるんだ、意図的に視聴者を不快にさせているのかと思うような番組ばかりでげんなりさせられました。もっともこうした傾向は中国に来る前からもあり、本当に暇でBGM代わりにつけておこうと思ってもつけて音声を聞くだけでもイライラする番組ばかりで、番組を作る人間の神経を真面目に疑うことが多かったです。関西の番組は比較的マシだったけど。さらに聞くところによると最近はそれに輪がかかりAKB48と韓流アイドルばかりが出演するようになっているようで、それに対して芸能関係者など内輪からも批判がなされ、なんだか大ごとになってきました。

 具体的なリンクはつけませんが俳優の高岡蒼甫氏が韓流関係の番組ばかり流すテレビ局に苦言を呈すやテレビ関係者らから異常なパッシングを受けたものの、逆に高岡氏を擁護する声も巻き起こり今現在も大きな議論となっています。その議論の中で私がひときわ注目したのは慶応出身の友人が「あまり出身大学を明かしてもらいたくない」といった芸人のふかわりょう氏で、いつもすべってばっかだけど意外と物事を深く考える人なのだなと見直しました。

ふかわりょうが韓流報道について「テレビは完全に終わった」(サーチナ)

 ふかわ氏の主張を簡単にまとめると、電波というものは公共のものであって現在テレビ局が保有する免許がなければ一切使用することができないなど、私的に使用してはならないものです。その公共の電波を使用して使用者側(テレビ会社局)に都合のいい情報なりプロモーションばかり流すというのはそれはやはり間違っていると主張し、卑近な例としてふかわ氏は、自分の番組で自分の曲だけを流しほかのアーティストはほとんど紹介しないのはおかしいとたとえています。実にわかりやすい。

 このふかわ氏の話を聞いてちょっと思い出したことがあったのですが、90年代後半の「ウリナリ」という番組にて当時、「ポケットビスケッツ」と「ブラックビスケッツ」というバンドが番組内からデビューし、そこそこの成功を収めました。当時この番組を見ていた私はあまり何も考えずにこの二つのバンドの活動を面白がって見ていたのですが、あとから調べてみるとやはりこの当時からテレビ局が作ったバンドをテレビが応援するというのは公平な観点からみてどうかという意見が出されていたそうです。実際にテレビというのは物凄い影響力の強い媒体であり、それを使えば当時はおろか今ですら売れないものを売れさせてしまうほどのエグさを持っております。

 まぁポケビとブラビに関して言えば歌自体もよかったのでこの際どうでもいいですが、ふかわ氏の言う通りにほかの人間が一切使えない公共の電波を使って自分とこが利益を出そうとする行動は電力会社同様に卑怯千万もいいところです。そのような観点からだと韓流のごり押しやら特定の芸人や俳優を集中して放送するというのはやはり間違いだと私も思います。多分一般視聴者もそういうのをはっきりと自覚しないまでも感じ取っていて、それが今のテレビ離れにつながっている気がします。それにしたって日曜の午前中の番組はつまらないものばかりだった。

 最後にテレビ会社について前々から思っていたことを言うと、完全独占事業で国からも異常なくらいに保護されているにもかかわらず、最近はTBSを初めとして赤字を計上する会社が現れてきました。こう言ってはなんですがこれだけ保護されているにもかかわらず赤字を計上するなんてある意味すごいことで、今のテレビ局の経営陣は無能を通り越して疫病神と呼べるくらいの能力しかないとみております。
 前にも書きましたが、日本のテレビ局はどんだけ不祥事を起こしてもこれまで放送免許がはく奪されることはありませんでした。近年の不祥事は「バンキシャ」を筆頭に目に余るものがあり、真面目に教員同様に毎年免許更新の審査を取り入れた方がいいでしょう。何万人が失業しようが、公共の電波を正しく使うためには厳しい措置が必要です。

2011年8月2日火曜日

7年で変わった自殺率国際順位

 今日お昼休みに同僚と話していた際、ひょんなことから自殺率に関する話題となりました。そこでネットで軽く国際順位を調べてみたのですが、以前に見た順位から結構変動があり面白かったので、今日はその辺について紹介しようと思います。

自殺率の国際比較(社会実情データ図録)

 実は私は7年前、当時に流行りだした集団自殺についてレポートをまとめたことがあり、当時も上記サイトのデータを使ってあれこれ分析なりなんなりしたのをよく覚えています。ちなみに当時は毎日自殺サイトとかに行ったりしてたことからかなり気分が鬱になり、無理に元気づけようとガンダムの歌を歌いながらレポート書いてたら壁が薄かったもんだから隣人に、「最近の花園君はノリノリだね」と言われました。

 それはさておき最新の自殺率データについてですが、この自殺率というのは10万人当たり何人が自殺しているのかという統計データで、単純に言えば数値が大きければ大きいほどその国は自殺が頻繁に起こるということを表しております。それで日本はというとよくテレビメディアなどで日本は先進国で最も自殺率が高いなどとよくある自虐精神を発揮して取り上げられることが多いのですが、現実のデータはというと国際順位で6位にランクインしており、日本以上に自殺が多い国がなんと上に五カ国も存在します。まぁ五カ国しかいないとも言えますが。その後カ国を実際に順位順に書き出すと、

1位 ベラルーシ
2位 リトアニア
3位 ロシア
4位 カザフスタン
5位 ハンガリー

 という順番になります。細かい点をつつくと、先進国で日本が最も自殺率が高いと言っていた人はロシアを先進国とみなしていないこととなります。まぁここもとりようだけど。

 私が今回久々に自殺率の統計を見て何に驚いたのかというと、日本の順位は以前も7位か8位くらいだったのでそれほど驚かなかったのですが、以前はぶっちぎりで不動の1位に君臨していたリトアニアが2位に後退していたということです。数年前のデータまではトップ順位はリトアニア、ロシアという順番が固定されているかのように両者がかなり突き放していたのですが、知らないうちにベラルーシがそれをひっくり返していたのは軽く衝撃でした。もっともそれ以前からも旧共産圏、それも冬が寒い国々は自殺率が高い傾向があるので、順当と言えば順当という結果かもしれません。
 その次に見てびっくりしたのは9位韓国で、7年前のデータだとほとんど気にも留めず覚えてもいない順位だったはずなのに知らないうちに日本を追い上げる順位に来ていました。追い上げると言ってもこんな自殺率のデータで追い抜かされてもしょうがないですが、軍隊内や芸能人の自殺が社会問題となるだけあり根は深そうです。

 順位についてはざっとこんなもんですが、今回参照したリンク先は多角的に詳しく分析されていて非常に内容のある論文ゆえに是非是非読んでもらいたいのですが、いくつか引用すると「日本は自殺率は高いもののメンタルヘルスは決して悪くない」と主張しており、実際にデータ上では精神疾患の率が先進国で最低クラスに低くなっております。ちなみにこの精神疾患率のデータも面白くて、恐らくぶっちぎりでフランスがトップだろうと思っていたらなんと3位どまりで、1位はなんとアメリカでした。まぁこれも精神疾患と診断されるかどうか、そういう環境があるかに左右されやすいデータなので厳密にはデータをうのみにできないところがあります。

 もう一つ別のデータを引用すると、これなんか社会学士が狂喜するするような見事な連関データなのですが、自殺率と他殺率を比較し合ってます。このデータによると日本は自殺率は高いものの他殺率は異常に低く、その結果から決して不幸な社会ではないとまとめられてます。実際にこのデータを見てみると、他殺率が日本の10倍以上の国がごろごろしており、特にトップのコロンビアに至っては自殺する暇がないんじゃないかと思うくらいに他殺率が極端に高いです。このデータは2002年のものでやや古いですが、最新のデータならメキシコも結構跳ね上がってるんじゃないかな。