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2015年4月7日火曜日

千葉のマッドシティ~ダイエー新松戸店

 リアル松戸市民の友人がやたらとこのマッドシティシリーズを応援してくれ、この連載に出てくる各名所の写真をよく撮影して送ってくれています。先日もこのまえ紹介したプラモ屋の「わらそう」の跡地写真を送ってもらい、リンク先のわらそうの記事に友人が撮ってくれた写真を追加しておりますので興味のある方は是非閲覧ください。
 そんなわけでまた今日も懲りずにマッドシティ。今日は松戸は松戸でも、JR松戸駅から北松戸、馬橋を挟んで三駅先にある新松戸の名所を紹介します。

ダイエー新松戸店(Wikipedia)
ダイエー新松戸店店舗ホームページ

 もう隠す必要もないし再び踏むこともないだろうから明かしますが、私の実家は流山市の南流山というところにあります。この南流山からJRで一駅行った先が新松戸だったため、松戸とくると市役所のある松戸市中心部よりも実はこっちの新松戸の方が案外馴染み深かったりします。その中でも特に今日紹介するこのダイエー新松戸店は、流山にイトーヨーカドーが出来るまでは近隣にある唯一の大型スーパーだったため、小学校低学年くらいの頃まではほぼ毎週末通っていたような気がします。
 今回私が何でこのダイエー新松戸店を紹介しようと思ったのかというと、この店舗はかなり長期間にわたって営業を続けていることに加え、この間に何度か大規模な改装を行っていてその変遷を辿るだけでそこそこ歴史が感じられ楽しいからです。

 この新松戸店の開店は1981年でなんと私が生まれる前です。私は物心ついたころから南流山にいましたがそのころには新松戸駅周辺のみならず流山市からも常連客が通っており、週末ともなると家族連れで大いににぎわっていたのを今でも覚えています。実際にこの新松戸店はダイエー系列の店舗としても売り上げの大きい店舗だったらしく、リンク先のウィキペディアの記事によるとバブル期の1991年時の売上げはダイエー系列内で7位、スーパー業界でも18位という堂々たる記録を残しています。現在の売上げはちょっと調べてみたもののわかりませんが、2004年にダイエーが経営破綻して以降は全国各地で系列店の店舗閉鎖が相次いだものの、この新松戸店に関しては閉店の噂が全く出ずに今も営業し続けていることから察すると悪くない売上げなのではないかと推測します。

 ちょっと本筋から外れますが、何故この新松戸店の売上げがいいかについてはいくつか仮説があります。まず開店当初は先にも書いた通りに競合店が周囲に少なかったことが何よりも大きいですが、それと同時にもう一つ、この新松戸に住んでいる市民の平均所得がそこそこ高いと思われることも大きいと推察しています。知ってる人には有名ですが新松戸は日本の宇宙開発関連団体の社宅がたくさんあり、実際街中歩いていてもいろんな意味で余裕を感じさせれる人が数多く見受けられます。友人とも協議しましたが恐らくあの一帯の平均所得はかなり高いように思われ、購買力もそれに比例して高いため新松戸店の売上げも良かったのではと見ています。

 話しは戻ってまず私の子供時代の新松戸店について話しますが、時代的にはバブル期で、またほかに大型スーパーというか競合店がなかったこともあって土日は文字通り人でごった返すお店でした。私もよく両親に連れて来られていたのですが専らいる場所と言ったら当時2階にあったおもちゃ売り場で、ここではよくファミコンゲームのデモプレイやゲーム大会が開かれており、デモプレイではドラクエ3がやられてて、ゲーム大会では「忍者龍剣伝(確か3)」を4人が同時にプレイしてクリアを競っていたのを覚えています。

 この時代の新松戸店にあったもののその後になくなってしまったものとして大きいのは、なんといってもスケートリンクでしょう。このスケートリンクは「新松戸アイスアリーナ」といって開業当初から併設されており、リンク横にあるファーストフード店の「ドムドムバーガー」にはスケート靴を履いたままリンクから買い物することが出来たのがやけに印象に残っています。
 前の記事にも書きましたが、このスケートリンクには幼少の頃の町田樹元フィギュアスケート選手も通っていたそうで、私自身も小学生の頃はたまに友人と連れ立って遊びに行ってたのでもしかしたらニアミスしてたかもしれません。ただこのスケートリンクは2002年に閉鎖が決まり、リンクを含む建物は取り壊されその跡地は駐車場になりました。

 新松戸店には元々、店舗内にタワー駐車場があり、さらに屋外にも広い駐車場が設けられていたのですがスケートリンクをぶっ潰した後にも駐車場をまたさらに作ったので、当時は駐車場だけでやけに果てしなく広くて逆に見ていて寂しさを感じました。ただこの果てしない広さはそれほど長い期間は続かず、元々あった駐車場とスケートリンク跡地はどうやら土地ごと売却された模様で、2004年には流通経済大学がこの土地に新松戸キャンパスを設置して現在に至っています。
 やはり大学が来るとその影響も大きいもので、私の子供だった頃と比べてダイエー周辺には若者が数多く歩くようになりました。もっとも見ている感じだとそれほどマナーは悪くなく、大学生にとっても近くにダイエーがあってそこそこいいキャンパス環境なんじゃないかと勝手に思ってます。

 最初にも書いた通りに、子供の頃はほんとにこの新松戸店にはよく訪れていましたが流山にイトーヨーカドーが出来てからはほんとに行く機会が一気に減りました。大体いつも自転車乗って新松戸方面を走っている際に横を通る度に、「まだ続いているんだなぁ」なんて思うわけですが、ここまで街に馴染んでいると下手すりゃ自分が死んだ後も続いているんじゃないかとこの頃思います。
 なおこの新松戸店の1階にはテナントでケンタッキーが今でも入っていますが、リアル松戸市民の友人と確か3年半ぶりの再会を果たした晩、別のお店で飯食った後にここのケンタッキーに入ったのを覚えています。

2015年4月6日月曜日

髀肉の嘆

 このところ、何故だか5年前の自分を思い返すことが多くなってきています。当時の私は新卒で入社した会社に在籍して日本国内にて勤務していたのですが、週末ともなるとほぼ確実に自宅近くの喫茶店に行くのが一つの習慣でした。何故その喫茶店に行くのかというと、その店にはほかの店にはない「梅ジュース」が置いてあったことと、漫画の「ジョジョの奇妙な冒険」の第七部こと「スティール・ボール・ラン」の単行本が置いてあって、この本を徐々に読み進める目的もありました。
 「スティール・ボール・ラン」は当初でこそ週刊ジャンプで連載されていたため最初は読んでいたのですが、掲載雑誌がウルトラジャンプに変わって以降は全く読んでいなかったものの、友人からその後からの方が面白いよと言われたので手に取ってみると本当にその通りで、遅ればせながら読み始めていたのがまさにこの時でした。

 この時期の私は生活に当たって何の不自由もなければ特に大きな不満もありませんでした。仕事に関してもリーマンショックの痕もあって忙しいどころか暇で、ほぼ毎日定時に上がって面倒な案件にぶつかるようなことももちろんなかったです。
 しかし人によってはぜいたくと言われるかもしれませんが、不満がないのが当時の一番の不満でした。毎日変化らしい変化のない毎日で社会に貢献しているという実感もなければ、仮に会社が潰れた際に一人で生きていけるようなスキルも磨けず、また私生活でも特に激しい行動などは取っておらず、果たしてこのままで自分はいいのかという自問自答をその喫茶店内で繰り返していました。その上で、一体いつまでこういう生活を続けていくのか、果たして数年後にも同じことを考えているのかなんて言うこともよぎっていたと覚えています。

 当時在籍していた会社には新卒時の就活で拾ってもらった恩こそあったものの、当時に起こったある事件がきっかけで私の中の会社へのロイヤリティはほぼ完全に消え失せていました。既に中国への転職という案は頭にあり、後ろ足で砂をかける不義理になるとはいえ自分の行動は決して後ろ指刺されるものではないという核心も得ていました。しかし実際に行動するかどうかとなると、海外転職ということもあって選択肢としてはあっても決断するかとなるとなかなかそこまでに至れなかったのが2009年末から2010年春の自分でした。

 この頃の自分について今の自分の感想を述べると、何につけても「楽だった」の一言に尽きます。給与は決して多くなかったものの大学時代の奨学金120万円は既に完済出来てたし、休暇を取ろうと思えば有給は余っており、何より日本国内なので日常生活をするに当たっては何も足かせはない状態で本当に楽でした。だが楽だった故というか、前述しているように果たしてこのままでいいのかという疑念が常に頭を回っていたわけです。

 三国志を多少知っている方なら「髀肉の嘆」という言葉の意味がわかるかと思います。この言葉は荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠に立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、「かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう」と思って泣きながら宴会に帰ってきたというエピソードに端を発します。それにしても宴会主の劉表は泣きながら帰ってきた劉備のことを、「なんやねんこいつ(;゚д゚)」って思ったろうな。

 上記のエピソードからこの言葉には、「日々の生活の空しさを嘆く」などという意味で使わるのですが、ここまで言えばわかるでしょうが、私にとってはちょうど五年前がまさに「髀肉の嘆をかこつ生活」でした。不満がないのが不満、不自由でないのが不自由、なによりも状況的に追い詰められる要素が何もなくスリルが全く感じられない当時の生活が私にとって一番嫌な時期でした。言いすぎかもしれませんが当時の自分は余りにも苦痛から遠ざかっていたため苦痛に対する感覚がほぼ麻痺し、一体どういうものが苦痛なのかすらもわからなくなっていたのではないかとすら思えます。だからこそこのままじゃまずい、何も苦痛のない今の状況を変えなければ人間として駄目になるなんて無意識に考えていたのではないかという気が今になってします。

 その後の私は中国に渡り、はっきり言って人一倍には苦労に苦労を重ねてきたという自負があります。その過程では明らかに度を越した無意味な苦痛を経験することも多かったですが、場数を踏んだだけあって何が苦痛なのか、どこまでの苦痛であれば自分は耐えられるのか、他人はどの程度の苦痛をどのように感じ取るのかなどというのがおぼろげながらではありますが多少は見えてくるようにはなり、苦痛の感覚を取り戻すことができたと自分では考えています。
 もっともそれによって友人などからは、「思想が米国流のマッチョすぎ」などとも言われるようにはなりましたが、こうした経験を振り返るに当たって苦痛を感じられなくなるのは人間として非常に危険な状態なのではないかなどと思えてきます。この状態とは、苦しくてしょうがないと感じていた生活に慣れてしまう、苦しさがほとんどない生活に慣れてしまう、の2パターンあり、私の場合は後者だったわけでこれが「髀肉の嘆」ってわけです。どちらもはまってしまうとなかなか抜け出せなくなるだけに、詳しくは語りませんが弊害も大きいでしょう。

 まとめとして述べると、結果的に自分はいばらの道をずっと歩むこととなっていますが、それでもあの安寧すぎる日々から離れられたのはまだ幸福だったと言いたいわけです。周囲から見れば惜しいことをしたと見られるかもしれませんし負け惜しみの様に聞こえるかもしれませんが、やっぱり自分は常に氷の壁に背中をつけるような生活じゃないと生きていけない気がするしそうじゃなければ死んだも同然かなと思えます。
 とはいえ、「ここまで波乱万丈じゃなくってもいいのに……」なんて思うことも多々あります。目下、長坂破の戦いから逃げてきたばかりの劉備みたいな状況ですが、いつか蜀とか荊州みたいなの取れればいいなぁ。

ポーランドの民主化革命

 大学受験時に世界史を選択した方なら恐らく共通するかと思いますが、「連帯」という言葉を見ると即、「ワレサ」というワードが頭に浮かんできます。極端な話、「連帯責任」という言葉を見るだけでも「ワレサ」が出てくるので一種職業病じゃないかと思うこともあるくらいなのですが、私と同じく世界史を勉強した友人も「逆も然り、ワレサというワードを見る度に連帯って言葉が浮かんでくる」と話しています。
 一体何故こうなったのかというと大学受験における歴史科目は登場するワードに対して適切なワードを選ぶことが得点稼ぎの基本で、特に範囲の広い世界史においては各事件や人物の細かい背景をいちいち理解していては追いつかなくなる傾向もあるだけに一単語に対して選択問題の回答に出やすい一単語を覚えていくという作業になりがちだからです。なもんだから、「そもそもワレサってどんな人?連帯って何?」と考えている受験生や大学生は少なくないんじゃないかと思え、この辺は詰め込み教育の弊害といってもあながち間違いではありません。

 ただ、ワードさえ覚えていればその後の人生で学ぶ機会というかとっかかりはあるとも言えます。そういう意味で私は現代日本の詰め込み教育を否定するつもりはありませんし、自分もまたそのような過程でもってポーランドの民主化革命を後年調べました。

東欧革命(Wikipedia)

 前回の記事で私は二次大戦中にあった「ワルシャワ蜂起」を紹介しました。この事件というか戦闘ではソ連はワルシャワ市内にいたポーランド人を見殺しにする形で無謀な蜂起を誘発させ、事実その通りに蜂起は失敗して多くのポーランド人がドイツ軍によって虐殺されました。
 この戦闘中、ワルシャワ近くに駐屯していたソ連軍の中には親ソ連派のポーランド人部隊もおり、ソ連軍本体が見殺しにしている中で単独ながら市内のポーランド軍へ物資輸送などの支援を行っていました。そしてこのワルシャワ市街のポーランド人部隊の中には、後にポーランド書記長となり臨時初代大統領となるヴォイチェフ・ヤルゼルスキも一士官として在籍していました。

 二次大戦後の終結後、ソ連を中心とした共産圏の一員となったポーランドでヤルゼルスキは出身とする軍内部で着実に地位を固めていき、1981年には首相兼第一書記というポーランド国内の最高権力者に就任していきます。ただポーランドの最高権力者と言っても当時はソ連の強い影響下にあり、外交はおろか内政すらもクレムリンの意向に逆らうことなどできない状態でありました。
 折り悪くと言うべきか当時のポーランドでは食肉の値上げに対する反発をきっかけに国民の間では民主化を望む声が高まってきており、その筆頭には後にポーランド大統領となりノーベル平和賞を受賞することとなるワレサことレフ・ヴァウェンサがいました。

 ここでちょっと余談を挟みますがレフ・ヴァウェンサというのは現地の発音に即した名前なのですが何故か日本では「ヴァウェンサ(Wałęsa)」という表記をローマ字っぽく間違えて読んだ「ワレサ(Walesa)」が流布してしまい、現代においてもこの読み方が訂正されないままとなっております。私の考えとしては現地の発音に即すべきで、そのため本記事では「ヴァエンサ」で以下貫きます。

 話しは戻りますが、造船所の電気技師であったヴァウェンサは労働組合団体「連帯」を組織し、ヤルゼルスキ率いる体制側を批判するなど民主化を要求する政治活動を展開します。こうした国内の動きに対して首相のヤルゼルスキは戒厳令を発し、ヴァウェンサを拘束するなどして民主化要求に対し弾圧を加えます。
 ただこの時のヤルゼルスキの行動については、本心から弾圧を加えるものだったというよりはソ連に対する一種のパフォーマンスだったとヤルゼルスキは後年主張しており、歴史家たちからもそのような目的で行われたものだとして弾圧を批判する声があるのと同時に評価する声もあります。というのもソ連は過去に民主化に舵を切ろうとしたハンガリーやチェコといった国々に対して軍事介入し、力づくで民主化を叩き潰すということを何度もやっており、あのまま国民の民主化要求を自由にさせていればソ連が介入してくることを恐れ、形だけでも社会主義を堅持する姿勢が必要だったとヤルゼルスキは述べており、事実ソ連からは「実力行使も辞さない」という通牒が当時なされていたと明かしています。

 とはいえポーランドの民主化活動は戒厳令によって一時静まります。これが再び熱気を帯びる一つのきっかけとなったのはポーランド人として史上初めてローマ教皇となったヨハネ・パウロ2世で、同教皇はヤルゼルスキと会談し、暗に弾圧を行わないよう求めるなど「連帯」を支援する動きを見せました。また1985年、ソ連でゴルバチョフが書記長に就任して「ペレストロイカ」を推進するなど旧来の支配方法から脱却する動きを見せたことも重なり、ヤルゼルスキは戒厳令を解除した上で政治改革を視野に入れて「連帯」との話し合いを持っていきます。

 このような過程を踏んでポーランドでは1989年の2月から4月、抜本的な政治改革案を話し合うためヤルゼルスキを筆頭とした体制側、ヴァウェンサを中心とした「連帯」が出席する「円卓会議」が持たれました。この会議はテレビでも中継され、ポーランドの全国民が注目してその模様を眺める中で、

・大統領制の導入
・自由選挙の実施
・言論、政治活動の自由

 といった民主化へと一気に舵を切る改革案が採用されることとなります。そしてこの改革案を受けて同年6月には部分自由選挙が実施され、この選挙で「連帯」が大勝利を収めるとあらかじめなされていた協定に従いヤルゼルスキが初代大統領に就任し、その翌年にはヤルゼルスキは政敵であるヴァウェンサへ禅譲する形で大統領職を引き渡し、完全な意味での民主化をポーランドは達成することとなります。

 この時期、東欧では民主化ドミノといえるように各国で民主化革命がほぼ同時に起こっております。ただこの時の民主化革命ではハンガリーやルーマニアの様に旧政権が民衆や軍によって無理矢理引き摺り下ろされるような形が大半で、革命の過程では少なくない血が流れています。
 そうした他国とは異なりこのポーランドでは無血でもって民主化が達成され、その後の混乱も圧倒的に小さく、現代においてもリーマンショック直後の2009年時ですら経済成長を維持したほど安定した政治、経済体制を守っています。私が言うのも僭越ですがこのポーランドの民主化革命は偉業とも言っていい事績のように思え、その立役者であるヴァウェンサやヤルゼルスキといった人々に対しては強い尊敬の念を覚えます。

 特にヤルゼルスキに対しては、ワルシャワ蜂起の一件から察するに当初からソ連の支配に対してかなり強い拒否感を持っていたのではないかと伺えます。しかしそうした意識を表には見せず、またソ連の介入を防ぐための妥協策として戒厳令を実施して最悪の事態を避けるなど、政治家としても優れたセンスを見せるなど役者として政治家として超一流です。またこの時の戒厳令によって逮捕されたヴァウェンサや「連帯」のメンバーでヤルゼルスキを当時強く批判していた人々ほど後年になってヤルゼルスキを評価する人間は多く、間違いなく彼はポーランドを含め、東欧革命の主役の一人と言っていいでしょう。
 同時にヴァウェンサが率いていた「連帯」も、急進的な民主化を望むメンバーに対して穏健派が粘り強く説得して、組織として穏健な姿勢を維持し続けた点も見逃せません。決して急進的にならず過激な行動に走らなかったからこそ、他の東欧諸国の様に民衆の暴動を伴う革命にならずに改革が達成されたのでしょう。

 体制側、改革側双方で血を流すことを求めず、また努力がなされた。だからこそ革命後、双方の主要メンバーは文字通りのノーサイドにもなれたと思うだけに、このポーランド革命については人類の偉大な革命の一つだと思えるわけです。

2015年4月4日土曜日

ワルシャワ蜂起(1944年)

 昨年から東欧史に凝っているのですが、今日は私の世代ではまず知っている人はいないと思われるので1944年のワルシャワ蜂起について解説します。

ワルシャワ蜂起(Wikipedia)

 ワルシャワというのは言うまでもなくポーランドの首都ですが、かつての二次大戦下のこの場所で三ヶ国の思惑が入り乱れた戦闘がありました。二次大戦の開始当初、ポーランドはドイツとソ連の密約によってこの二ヶ国から同時攻められ、そのすべての国土が占領される憂き目に遭いました。その後、今度はポーランドを攻めたドイツとソ連同士で戦争が起こり(独ソ戦)、序盤はドイツ軍がリードする形でソ連領内を深く攻め入ったもののスターリングラード戦に代表されるソ連のバグラチオン作戦によっては攻守は逆転し、1944年時にはソ連はドイツを自国領内から追い出した上で逆にドイツの占領地域へ攻勢をかけている状況でした。

 ソ連軍は1944年夏にはポーランド東部へ進撃し、7月30日には首都のワルシャワまでわずか10kmの地点まで到達していました。このソ連の進撃に合わせてワルシャワ市内にいたポーランド人によるレジスタンス組織は国外に組織された亡命政府などを経由する形でソ連軍と連絡を取り、ソ連軍による市外からの攻撃に合わせて市内で蜂起し、ワルシャワから一挙にドイツ軍を叩きだす計画を持ち上げ、これを8月1日に実行することで確認し合いました。いわば内と外から攻める計画と言え、仮に実行できていればドイツ軍に大きな損害を与えワルシャワ解放の実現性も決して低くなかったでしょう。

 結果から述べると、ワルシャワ市内の蜂起は実際に行われたもののワルシャワの解放はこの時には実現しませんでした。

 8月1日、ワルシャワ市内のレジスタンスことワルシャワ国内軍はほとんど武器らしい武器も持たずにドイツ軍の宿舎や軍営を襲いかかったものの、正式装備されたドイツ軍駐留部隊に歯が立たずほぼすべての襲撃箇所で撃退されます。この時、市外からの攻撃支援を約束していたソ連軍は全く動かず、市内で行われている戦闘に対して傍観するだけでした。

 一体何故ソ連軍は目と鼻の距離にいたにもかかわらずこの時に動かなかったのか。理由として挙げられているのは蜂起日の前日に当たる7月31日にドイツ軍の反撃を受け、大きな損害を受けて戦線を後退していたためというものがあります。実際にこの時のソ連軍は補給線が長く伸びきっており、他の周辺の東欧諸国での戦闘も影響して戦線の維持が難しい状態にあったなどと言われています。
 もっともこのような理由は過分にソ連側の意向を組んだ主張であるとしか思えません。何故かというと実際には8月1日より大分前の時点でワルシャワ解放作戦の中止が決まっていたにもかかわらずラジオなどで蜂起を促す放送を続け、また市内のレジスタンスへ作戦中止の通達も行わず、事実上見殺しにしているからです。

 どうしてソ連はこのような行動に出たのか。ソ連だからと言えばそれまでですが、大方の見解では戦後のポーランド支配を見据えてポーランド市内の国内軍を敢えて壊滅させることが目的だったと見られています。というのも国内軍を指導していたのはロンドンに拠点を置くポーランド亡命政府だったのでしたが、この亡命政府とは別にソ連はいつもの如くというか「ポーランド国民解放委員会」という傀儡政権を既に樹立しており、戦後のポーランド運営に当たってこの傀儡政権に主導権を取らせるため敢えてレジスタンスが潰されるよう蜂起を促したとされており、私もこの説が真実であろうと考えています。

 このようなソ連の思惑を知ってか知らずか蜂起したポーランド市民は外部から何の支援も受けられないまま続々と増援の来るドイツ軍の反撃を受け、蜂起から約二ヶ月間に渡ってワルシャワでは徹底した破壊と虐殺が繰り返され、推定数は複数説ありますが約20万人もの市民が殺害されたと言われています。同時に生き残った市民約70万人も次の蜂起への警戒から市外へと追放されています。
 この蜂起失敗から約三ヶ月後の1945年1月、満を持してソ連軍はワルシャワへの進撃を開始してこの都市を占領します。占領後にソ連軍はレジスタンス幹部の逮捕を行いました。

 二次大戦はドイツのポーランドへの侵攻によって切り開かれましたが、この時ポーランドに侵攻したのはドイツだけではなくソ連も一緒でした。そのソ連は独ソ戦後に再びポーランドへ進撃しており、いわばポーランドは一度の戦争期間中に二度もソ連に侵略されたと言っても過言ではないでしょう。ちょっときわどい意見となるでしょうが正直に述べると、ソ連のポーランドへの仕打ちを考えると日本はこの大戦中、まだマシな方だったのではなどという気持ちがもたげてきます。

 なおこのワルシャワ蜂起について、高校の世界史教科書、参考書にはまずもってこの事件は紹介されておらず、知っている人間となるとポーランド通か、東欧史を専門にしている人間か、二次大戦マニアかの三種類に絞られてくると思います。ただ以前というか私より上の世代はどうも違うようで、うちの親父は何故かこの事件を知っており、時代の差によって取り扱われるかが、知識が共有されるかが案外変わるのかもしれません。
 では私は何故この事件を知ったのかですが、先ほどの三種類で言えば二番目に近く、東欧史に興味を持ってあれこれ調べている過程で知ることが出来ました。最初、私はポーランドの民主化過程で活躍したレフ・ヴァウェンサを調べていたのですが、彼の経歴を調べる過程でヴァウェンサの実質的な対立相手であり民主化以前に民主化勢力を弾圧する側の首相だった、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキに興味を持ち、彼の経歴を調べたことが一つのきっかけでした。

 詳しくは彼のウィキペディアのページを是非読んでもらいたいのですが、彼はここで紹介しているワルシャワ蜂起時に親ソ連派のポーランド人軍団士官として、ワルシャワ市街にソ連軍と共に駐屯していました。彼のいたポーランド人軍団はソ連軍が傍観を決め込む中、単独で市外から市内の蜂起勢力へ補給物資を輸送するなど支援を行っていたものの、結局は破壊されるワルシャワをただ眺めることしかできなかったそうです。この時の気持ちをヤルゼルスキはソ連軍に対して涙ながらに悔しさを感じたと自伝にて書いており、こうした彼の経験が東欧の旧共産圏においてポーランドだけが唯一、無血で民主化に成功するきっかけの一つになったのかもといろいろなことを考えながら、2014年に亡くなったヤルゼルスキを偲びつつ思い浮かべました。

2015年4月2日木曜日

猫に好かれる政治家


 ニュースの鮮度で言えばやや古いニュースですが、何度見ても衝撃的な映像なので記念に書き残しておきます。

 上記のYoutubeの動画はテレビ東京の「週間ニュース新書」という番組の今年3月21日放送分です。この番組は政治や経済といったお堅いニュースを様々なゲストを呼んで解説する硬派な番組である一方、何故か収録スタジオ内に猫をフリーダムに離しており、多分この番組の視聴者はスタジオ内を動き回る猫を目当てに見ている人の方が多いのではと思うくらい一部でカオスな人気があります。

 そんなこの番組のこの日のゲストは民主党の岡田代表だったのですが、この岡田代表に対して番組、というよりテレビ東京の看板猫の「にゃーにゃ」が不自然なくらいに懐いていました。どれくらい懐いていたのかは是非映像で見てもらいたいのですが、番組開始当初から岡田代表の膝の上にスタンバイしており、その後もずっと膝の上で毛づくろいしたり自分の爪舐めたりと非常にリラックスし続け、途中で真面目な話をするため膝の上から降ろされたのですが、降ろされたにゃーにゃはまたすぐ膝の上に飛び乗る始末。岡田代表もしょうがないからそのまま膝の上であやしながら語り続けていましたが正直な所、膝の上の猫が気になって語っている内容がほとんど耳に入ってきませんでした

 この「にゃーにゃ」は、先代の「まーご」もそうでしたがほとんど人見知りしない猫で、いつも出てくるゲストの周りをうろついたりすれば目の前の机を横切ることも日常茶飯事です。しかしゲストの膝の上に乗る、しかも降ろされてもまた乗り返してくるなんて今の今まで見たことがなく、岡田代表には明らかにほかのゲストとは一線を画す懐き方をしています。
 私は番組の放映直後にネットの掲示板で騒がれているのを見てこの映像をしったのですが、その掲示板でもこの異常な懐き方に対して大きく議論されており中には、「きっとスーツにマタタビを仕込んでいたに違いない」、なんていう陰謀論まで出てくる始末でした。実際、私もこのマタタビ陰謀論を少し疑ったし。

 こうした陰謀論はひとまず置いといてこの映像から言えることは、岡田代表は猫に好かれる政治家だということです。だからなんだと言われれば豆知識で終わってしまうし、猫じゃなくて人に好かれないと政治家は駄目なのですが、次の選挙時にでも池上彰氏がネタにでもしないかなとちょっと期待してます。

2015年3月30日月曜日

「KINGSOFTオフィス」の感想

嫌われ者の俺が海外修学旅行のリーダーになったらクラスがほぼ全滅したwww(アルファルファモザイク)

 本題とは全く関係ありませんが、上記のまとめ掲示板を読んで強い違和感を感じたのでその点を突いておこうと思います。上記の掲示板の中身は修学旅行で行った中国でクラスが様々なトラブルに遭い、その中には現地の中国人とも買い物でもめて警察沙汰になったと書かれてあります。ただそのトラブルの中で、「店員から『他殺』『自殺」』書かれた紙を渡されクラスメイトが切れる」ということがあったと書かれていますが、中国語における「自殺」と「他殺」という言葉は日本語と同じ意味なので少なくともケンカした相手に紙で書いて渡すなどということはまず有り得ないように思えます。
 単純に「死ね!」という意味の中国語なら「去死」ですし、第一いくら相手が中国語通じないからって中国人はそんなのお構いなしに延々と中国語でまくしたててくると経験上思えますし、そのほかの体験談もちょいちょい違和感を覚えるのでこの掲示板を立てた人は相当話を盛っているのではないかと強く疑問に覚えます。

 そんな個人的所感は置いといて本題に入りますが、昨日の記事で私は新規に購入したエプソンのノートPC「Endeavor NY2400S」についてレビューを書きました。このパソコンは会社での仕事用に購入したもので、仕事に使うのであればもちろんWordやExcelといったOfficeのソフトも必要です。しかしOfficeソフトを購入するとなると2万円は料金が上乗せされるため、なるべくなら避けたいと考えていました。そこで代替策はないかとあれこれ練った所、行き当たったのが下記のソフトでした。

「KINGSOFTオフィス」紹介ページ

 言うまでもなくMicrosoft社のOfficeは業務用ソフトとして一種インフラのような役割を果たしており、電子データ上で各種の書類や計算表などを使う場合はほぼ必須とも言えるソフトです。そんなOffice系ソフトに対して世の中には「Office互換ソフト」というものがあり、Office系のソフトを通常通りに開いて閲覧、編集できるソフトを一部のメーカーが製作、販売しております。このキングソフトオフィスもその一つで、聞くところによれば日本産のOffice互換ソフトとしてそこそこの知名度とシェアを持っているそうです。

 それでこのキングソフトオフィスはどんなソフトかですが、言ってしまえば安い値段でMicrosoftのOffice系ソフトが使えるようになれるソフトです。収録しているのはWordとExcel、Power pointの互換ソフトで、購入するバージョンによってマクロが使えるか否か、パワポ互換ソフトが入っているか否かが変わってきますがすべてコミコミにしても6,480円(税込)なのでOfficeの代金と比べるとかなり割安です。ちなみに私が購入したのはこの最上級グレードですが、パワポを使わずマクロも使えないという人が個人用PCに買うのであれば一番安いグレードの3,980円のバージョンでも十分かと思われます。
 一にも二にも安さ、といったらちょっと言いすぎかもしれませんが、正直に言ってこの値段設定は非常にありがたいものがありました。購入前は実際に使えるかどうかがわからなかったものの、この値段であれば駄目なら駄目であきらめ切れるだろうと考えられたのも購入を決断する要因になっています。さすがに一万円越して駄目だったらハートに来る。

 そんなこんだでオンラインの決済で購入したところ、まさに決済したすぐ直後にソフトを使うためのプロダクトコードがメールで送られてきました。このキングソフトオフィスはいつでもホームページからソフトをダウンロードすることが出来、インストール前にプロダクトコードを入力することで使用できるようになるため、このようにすぐコードを送ってもらると購入して即日使えるのでなかなか便利です。
 というわけで今度はソフトをダウンロードしようとサイトのダウンロードボタンを押しましたが、Officeの互換ソフトだから容量はそこそこ行くだろうな、ダウンロード時間長いだろうななんて予想していたところ、ダウンロード量はわずか110メガだったので実際にはあっという間のダウンロードでした。でもってインストールもあっという間で、「やべぇOfficeが急に使えなくなった!」みたいな展開になっても、多分一時間以内にこのキングソフトオフィスを代替として使うことも不可能じゃない気がします。

 では実際の使用はどうか。結論から言うと非常によく出来ており、全く違和感なく従来のOffice系ソフトのようにして編集作業を行うことが出来ます。もちろん以前に保存したOffice系ファイルも問題なく開けますし、逆にキングソフトオフィスで編集したデータを他人に送りつけても向こうは向こうでちゃんとOffice系ファイルとして認識して業務上に全く支障がありません。
 まだマクロに関してはそんなに弄ってはいませんが、Excelでの自動計算や数式もきちんと機能しており、ちょっと持ち上げ過ぎな気もしますがこの値段でこの性能は破格といってもよく、もう少し高い値段を払ってやっても良かったなとすら思える出来です。さらに買ったばかりのためまだ私は未体験ですが今後もアップグレードがあれば無料で対応してくれるとのことで、これは大手を振ってほかの人にも勧められるソフトだと思えるだけにこのブログでも紹介しようと思う充実ぶりです。

 総評として、非常に買いなソフトです。操作インターフェースも現在のOffice2013に合わせた画面とそれ以前の2010くらいの画面、二種類を自由に選ぶことが出来て、いまいち新しいOfficeになれない方にとってもかえって使いやすい仕様になっています。今後も新しいPCを買うことがあればこのソフトを使い続けようと思える逸品なので、Officeの購入で迷われている方はぜひ試してみてください(無料体験版もあり)。

2015年3月29日日曜日

ノートパソコン「Endeavor NY2400S」の感想


 先日、プリンタでお馴染みのエプソンからノートPCの「Endeavor NY2400S」を購入しました。一通り操作を試してみたので、今日はこのパソコンに対する私の感想というかレビューを書こうと思います。
 それにしても、昨日は大塚家具を書いてその前はマッドシティを書いて今日はノートPCのレビューと、相変わらず統一感のないブログだと我ながら呆れてきます。

Endeavor NY2400S(エプソン公式販売サイト)

 このパソコンは上記のエプソンによる公式販売サイトを通じて購入しました。CPUやメモリといったスペックはこの記事では省略するので、これらのスペック情報を見たい方は上記サイトを訪れてください。
 まずなんでこのパソコンを購入しようとしたのかというと、それまで中国の職場でASUSのノートPCを使っていましたがこれだとOSは海賊版だしシステム言語は中国語のため、一応表示言語は日本語に変えられるものの一部の言語は中国語で表示され続けるのもあり、そして何よりOfficeのソフトが中国語版、しかも2003年度版とやけに古い仕様だったのでこの際日本で新しいのを買ってしまおうと思い立ったわけです。

 購入するに当たって重視したのは画面サイズと価格でした。仕事で使用するノートPCのため出張時に持ち運ぶことも多く、サイズと重量的には14インチが案外ちょうどいいと考えていました。現在主流の15.6インチは人の頭を殴ったりするのにはちょうどいい重さと大きさですがこれだとビジネスバッグに入れると結構嵩張り、重量もそれなりにあるので私個人的には14インチが仕事用として理想的だと考えています。
 ただこの14インチ、一時期はたくさん販売されていたもののこのところは各社ともラインナップに入れるサイズから外す傾向にあり、意外とこのサイズでノートPCを売るメーカーは少なかったりします。その中でエプソンがちょうど廉価モデルで用意してくれており、価格も私の購入時は46,000円とBTOパソコンらしく手ごろだったので、ほとんど一択のような感じでこのパソコンを選びました。
 なお、私はこれ以前にも2012年にエプソンでネットブックのノートPCを購入しています。その時の製品も納得のいく仕上がりだったことからエプソンへの信頼感も今回の購入の要因です。

 それでは早速レビューを始めます。画面サイズに関しては先ほども述べた通りに14インチで、可もなく不可もないサイズです。ではハード性能に関してはどうかですが。CPU、メモリともに現在における個人用ノートPCとしては一般的な性能を満たしており、少なくともオフィスワークで使うに当たっては全く問題ない水準にあると言えます。
 むしろ、1990年代であればハードの性能によってパソコンの動作速度は大きく変わりましたが、現在は各部品の技術革新も進んでよっぽど低い性能でない限りは動作速度にほとんど差がないのではないかと思います。IT関連技術者であれば話は別でしょうが普通にネット見て、文章書いて、エクセル使ってというレベルであれば大差はないでしょう。

 次にデザイン面についてですが、こちらに関しては文句なしに太鼓判を押します。製品写真からは判別できませんが実際の製品表面にはに薄く「擦り」が効かせられており、特にキーボード脇の部分ではうっすらと紋様めいた模様が浮かんでいます。またタッチバッド表面も幾重もの輪が重なっている模様が入れられており、パソコンは普段からよう使うものだけにこうした意匠があるのは私個人としては非常にうれしい仕様です。
 ただ一つだけ欠点もあり、それはズバリ言うと色です。BTOパソコンでなおかつ価格を抑えた製品なのですからしょうがないとは思うもののボディ色が黒一色しか選択できないというのは少し残念なところで、せめてもう一色くらいほかに選べたらなと思えてきます。なお私がノートPCの色で好むのは白か赤で、何気に黒が一番嫌いです。何故嫌いかというとほかの人も黒いのばっかで同じ黒だと個性が出ない気がして、この際黒でなければ青でも茶でもピンクでもいいのが本音です。

 話は変わり今度は外部接続の配置に関してですが、これははっきり言いますが非常に問題があり、低い水準にあるとしか言いようがありません。まずUSB端子はUSB2.0の端子が1個、USB3.0の端子が2個ついていますが、これらがすべて本体左右の手前部分にあるのはどうにかならなかったのかと不満を覚えます。左手前はまだ理解できますが右手前部分だとUSBメモリなんかを指し込むと本体から端子が飛び出すので、右手でマウスを動かしてたりすると手がぶつかりやしないかとどうしても気になってしまいます。私が自宅で使っているNECのLaVieなんかは左手前こそ同じ配置であるものの右側面のUSB端子は手前ではなく奥にあり、そのかわりCDの挿入箇所が手前に来るなどエプソンとは対照的です。
 ただこのUSB端子ならば左手前部分の端子だけを使うことによってまだ我慢できますが、本当にどうにもならないのはキーボードの配置です。まず下記の画像をご覧ください。


 注目してもらいたいのは右端近くにある「Enter」キーです。写真からだとわかり辛いかもしれませんが、実物で見るとこれが非常に小さく、何で一番打鍵回数の多いこのEnterキーをわざわざ小さいサイズにしたのか不思議でしょうがありません。しかもその左手前にある鍵括弧の『「』と『」』キーも、何故かこれだけほかのキーに比べ2/3程度の大きさにされており、ブラインドタッチで叩いていると通常のキーボードと感触が違ってすごい迷うし実際にミスタイプすることが多いです。真面目な話、文字入力で変換後に確定しようとEnterキーを押そうとしたらその右隣の「PgUp」、「PgDn」を押してしまうミスタイプなんて、このノートPCに触れて初めてやらかしました。
 このキー配置の仕方は本当に不思議で、ボディを見る限りだとキーボードの両側面はまだ幅があるように思えるし、キーボード幅が変えられないにしても左端の「Tab」キーと「Caps Lock」のキーの方が打鍵回数は少ないのだからこっちを逆に小さくすればいいのではないかと思えて仕方ありません。私のようにやたらキーボードを叩く回数の多い人間からしたらこのキー配置は閉口するよりほかなく、無線接続キーボードでも使おうかなと検討してます。

 以上がこのノートPCに対する主だった評価ですが、総合して評価を下すならばコストパフォーマンスには非常に優れたパソコンだと言って間違いありません。キーボードの配置だけは本当にひどいものですがそれ以外であれば同クラスの他社製ノートPCに大きく劣ることはなく、それでいてこの値段であれば個人のネット観賞用、オフィスワーク用であれば十分実用に耐えうるでしょう。

 あと隠れた長所として、パソコンの初期設定が他社製と比べて格段に優れています。エプソンのパソコンはすべてネットを通して注文を受けてから組み立てられて出荷されるBTO(Build to order)パソコンなのですが、製品が家に届いた段階でOSなどはすぐ使用できる状態にされており、そして何より余計なアプリケーションソフトが一切入れられていません
 この辺り、NECや東芝、あと富士通辺りのパソコンに顕著なのですが、新品を買うとまず使うことがないであろう余計な補助ツールやセキュリティー、写真編集ソフトなどがやたらめったらインストールされており、開梱後はこれらのソフトを全部アンインストールするところから始めなければなりません。しかしエプソンのパソコンに関してはユーザー登録を促すアプリを除いて余計なソフトは一切なく、文字通り受け取り後にすぐ使用できるので地味に使い勝手がいいです。

 そういうわけでこのパソコンの各ポイントをA~Eの5段階評価でまとめると以下のようになります。

PC性能:C 可もなく不可もなく使用に当たって全く問題ないレベル
デザイン:B シンプルながら意匠が行き届いている。ボディ色さえ選択できれば文句なし
外部接続:D 壊滅的とまではいかないがあのキー配置だけは理解し難い
初期設定:A これ以上の水準は多分ないであろう
コストパフォーマンス:B この性能でこの価格なら十分お得

ただ単純に価格だけを追い求めるのであればLenovoやASUS、、Acerといった中華系メーカー、そして米国のDELLの方が安くてPC性能も高いラインナップを揃えているので、コストパフォーマンスではエプソンがナンバー1ってわけにはなりません。それでもこのエプソンのパソコンを私が選んだ理由を挙げるとまずはデザイン性、そしてこれは変な話ですがレアリティです。エプソンのパソコンは先ほどにも書いたようにBTOなので出回っている数が少なく、持ってるだけで一つの個性つを発揮できるくらいです。実際に中国に持って帰ってきて事務所の複合機の設定を業者の人間呼んでやらせたところ、「何このブランド?見たことない」って驚いてくれました。

 最後にこのノートPCの価格について、通常価格は46000円(税抜き)ですがちょうど今セールをやっていて3000円がここから差っ引かれます。なおこのセールはちょうど私が購入した直後に始まったもんだから、「デスクリムゾン」に出てくる伝説の傭兵「コンバット越前」のように「やりやがったな!」などと口走ってました。