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2015年10月10日土曜日

もうしばらくお休み

 現在日本に一時帰国中で、更新もややしづらい状況です。明日以降ももうしばらくこちらのブログ更新はお休みし、多分火曜あたりから再開します。

2015年10月7日水曜日

第三次安倍内閣の布陣について

 この二日間あんまり寝てなくて、明日はまだゆっくり午前は過ごせると思ってたら電車の時間確認したらまた8時過ぎにはすぐ出ないといけないことが分かったので、今日はさらりと政治記事書いて寝ます。出来ることならもうちょっと部屋の中を掃除しておきたいのですが……。

1億総活躍、年内に具体策=TPPで補正検討―第3次安倍改造内閣が発足(時事通信)

 今日のニュースはノーベル賞の梶田さんとこの内閣改造がメインでしたが、こう言ってはなんですが大きく取り扱い程の改造でもなかったなぁというのが私の感想です。というのも厚生大臣や外務大臣、財務大臣といった主要閣僚はほぼすべて留任で、逆に誰がやっても同じであるような軽量な閣僚に新大臣が置かれ、党内の各派閥に配慮した上で大臣経験を踏ませる目的の改造だったのではと一見して思いました。

 中でも注目はほかのメディアでも大きく取り扱われている1億総活躍相(加藤大臣・新設)で、 名前からして一体何をするのかもわからないし、こんな役職に大臣を置く必要があるのかという疑問を覚えざるを得ません。そもそも前回から置かれている地方創生相(石破大臣・留任)もこれまでどういった実績があったのかいまいち見えて来ない上、名称から伺えるこの二大臣の担当分野が被っているようにしか見えないことを考えると、無駄にポストを増やしているだけではないのかという疑念を感じます。

 もっともそんなことを言ったら環境大臣、沖縄北方担当大臣、復興担当大臣などのポストも置いておく必要があるかと言ったらそんなことはないと言いたくなる大臣ポストです。実際これらの大臣にあてがわれる議員は従来から女性が多く 、単純に箔をつけさせるためだけのポストに成り下がっているように見えます。特に沖縄北方大臣は本来ならば普天間基地問題に正面から取り組むべき役職に見えるのですが実際はさにあらず、結局一番力のある菅官房長官が対応を続けているのが現状でポストってなんだろうと私以外にも疑義を呈す人がいてもいいと思うのですが、こちらもさにあらずです。

 最後に各大臣の人選の関しては最近それほど勉強していないのもありますが、特に何か言いたくなるような人はいません。強いてあげればあまり仕事もしていないようだし麻生氏は財務大臣職を下ろされると思っていたら留任したのがやや意外だったのと、岸田氏が予想通り外務大臣を留任したことです。
 これは私の勝手な予想ですが、安倍首相の意中の後継はこの岸田外務大臣の様に思えます。でもこの人を見ていていつも思うのは、「孤独のグルメで主演やってる人となんか似てるよなぁ、雰囲気とか」という感想で、一回でいいから場末の食堂でモリモリ飯食ってくれないかなと密かな気体を抱いています。

2015年10月6日火曜日

友人らからのブログに対する注意(ーー;)

 昨日約半年ぶりに日本へ帰国しましたが、今回は割と予定が詰まっているというか、来週水曜14日まで比較的余裕を持った日程にしたものの、割とどの日も誰かと会う予定がみっちり詰まっています。今回は関西にも遠征するし。そのため昨夜も到着当日ながらあらかじめ会っておきたい人間こと、共通の知人同士である冷凍たこ焼き好きの友人と野球好きの友人にあらかじめ声をかけており、新宿にて三人で落ち合いました。

 以前にもこの面子で一度集合したことがありその際も新宿で落ち合ったのですが、その際は私と野球好きの友人は初対面だったこともあって最初はよそよそしかったものの、途中から酒が入ってきた野球好きの方から段々と打ち解けた態度を見せてきて非常に楽しい夜となりました。ただその際、野球好き、冷凍たこ焼き好きの二人揃って私に対し、「あのブログ(陽月秘話)の文章は過激すぎる」と言及され、もっとソフトな表現を心掛けて無駄に敵を作るべきではないと諭されました。かなり熱心に。
 そして昨夜も予約を取っていた新宿の「とさか」 で二人揃って、「もっと表現を抑えろよ」とまた熱心に諭されました。特にこの前書いた「遵法意識のない日本人」という記事が槍玉に上がり、言ってることは非常に理性的で理解できる内容であるものの、逆に理性的過ぎて淡々と「こうだ!」と結論を最初に言ってくるので見る人によっては反発しか得られないという感想を聞かされ、もっと穏やかに「日本人はルールをきちんと守る礼儀正しい民族だ。だけれど……」という感じで話を持っていくべきだと、やけにディテールの深いアドバイスをいただけました。

  こうした友人らからの注意に対する私の第一声はというと、「そんなに過激かなぁ?」というもので、それを聞くやすかさず友人らは、「本人に自覚が全くないからなおさら手に負えねぇんだよ!」と、マジ怒られました。その夜に友人らにも言いましたがこれでも書いてる本人としてはかなりソフトな表現に抑えているつもりで、恐らく読んでて過激に感じるのはそこそこ自信がある私の表現力によって説明から結論まで簡潔に短くまとまっているからではと言い訳してみましたが、「いや、ぶっちゃけ文章長いって」とあっさり否定されました。

 本当に言い訳がましいですが、これでも控え目に書いてるつもりです。確かに妙なくらい負けん気が強い性格していてその時の気分によっては攻撃的な態度を文章で示すこともありますが、必要以上に敵を作ることは本意ではなく、批判する際も理性的に保とうとは意識しています。もっとも野球好きの方からは、「人は必ずしも常に理性的ではないんですよ。感情的に受け取る人間への配慮もあっていいのでは」と言われてぐうの音も出ませんでしたが。
 ただ、明確に批判するべき相手に対しては一切妥協する姿勢は見せておらず、今後もこの点に関しては変わらないでしょう。具体的にはこの前批判した、長期契約者に対する不公平を続ける携帯キャリア3社とか情報公開をしようとしない派遣大手などですが、こうした強者であって義務を果たそうとしない相手に対して自分は弱者の側に立って抵抗することに躊躇がありません。この点に関しては友人二人も、それは別に問題ではないと理解してくれました。

  おまけ
 このようにこの日は友人二人からこっぴどく叱られましたが、「でも君ら、きわどい記事に来たコメントに対して俺がどう返答するかを楽しみにしてない?」って言ってみたら、にやっと笑われました。実際、「これはコメント主以上に、固定読者から試されているな」と思いながら返答コメントを書くこと多いです。

  おまけ2
 この日に行った「とさか」ですが地鶏の専門店であるものの、食べてて一番おいしかったのはほかならぬ「塩ラーメン」でした。「ラーメン屋やったほうがいいんじゃね?」っていいながら、この日は二軒目に向かいました。

2015年10月3日土曜日

千葉のマッドシティ~八柱霊園

 JR武蔵野線の新八柱駅(しんやはしらえき)と新京成線の八柱駅は連結していて同じ場所にあるのですが、この駅を一歩でも出ると花屋さんや仏具屋さんがやけにいっぱいあります。なんでかっていうと、千葉県における墓地のメッカともいうべき八柱霊園がすぐ近くにあり、真面目な話この八柱周辺の街は墓地が中心となって形作られています。

東京都立八柱霊園(Wikipedia)

 八柱駅からバスに乗っていける距離にある八柱霊園の面積は105haで、東京ドームに換算すると20個分になります。どうでもいいですが面積を東京ドームに換算してもいまいちわかり辛いので小学校の教室(66㎡)に換算すると約15900教室分に相当します。書気ながら思うけどこっちもこっちでわかり辛い。
 話は戻りますが上記の換算式の様にとにもかくにもここはめちゃ広いです。仮にこの八柱霊園の中で鬼ごっこやかくれんぼなどやろうものなら果たして決着をつけられるのかというくらいに広く、また霊園周辺の関連施設を含めると更に広くなるので感覚としてももう比較できないくらい広いって感じです。

 さてこの八柱霊園ですが上のWikipediaのリンク先見出しにも書かれている通り、実は千葉県の土地ではなく東京都所有の土地だったりします。「東京ディズニーランド」といいなんで千葉県にあるのに東京の物なのか、千葉県は東京都の植民地かっていう気分にもさせられますがとにもかくにも東京都の土地で、埋葬されるためには都にお伺いを立てに行く必要があるでしょう。

 私自身はこの八柱霊園に知り合いが埋まっていることもなく特に墓参りなどで訪れる理由はないのですが、以前住んでたところから自転車で宛てのないサイクリングがてら近くを通ることがあり、通った際にはほぼ間違いなく「なんでこんなところ来ちゃったんだろ」と後悔していました。なんで後悔するのかっていうと霊園周辺は小高い丘になっており、一度踏み入れたら最後、ものすっごい距離の坂を何度も上り下りする羽目になって半端なく疲れるからです。
 なら近寄らなければいいじゃんと思うでしょうがまさにその通りであるもの、何故か知らないけどこの霊園周辺の道は激しい勾配とともにやたら複雑に曲がりくねっていて、意図しないうちに迷い込んでリアルで脱出に困ることもあります。

 ただ迷い込む価値はあるっていうか、たまに訪れるといろいろと感慨を覚える場所でもあったりします。特に正面入り口に至る坂道は果てしなく長いですが、長いだけでなく幅も広く、そして両端には仏具屋花屋がずらっと並んでいてなかなかに壮観です。登り道は自転車だと(徒歩でも)大変ですが、登り終えてからUターンして一気に駆け下る際なんかはなかなかに気持ちがいいものです。

 なおこの八柱霊園に埋葬されている有名人の一人に坂本竜馬との絡みで有名な千葉さな子がいます。今回この記事を書くに当たってWikipediaの記事を読み直したところ、なんでも2010年にこれまで終生独身だと思われていたさな子が実は明治七年に元鳥取藩士と結婚していたとする資料が発見されていたとのことです。生憎その時の旦那とは後年離婚したそうですが、これまでの常識をひっくり返す話なだけに歴史というのは常々面白く感じられます。

2015年10月2日金曜日

大衆の捉え方

 連休二日目で部屋の掃除以外特にやることなくまたたらったらとパズドラやりつつ過ごしておりましたが、左肩と右わき腹をやや痛めている状態なのでなんか中途半端にやる気出ません。明日くらいは少し気合入れ直して外出るようにしよう。
 そんなわけで本題ですが来週に会う予定の知り合いに対する講義内容として取っておきましたが、ちょうどこの記事が2500本目の記事になるので折角だから出し惜しみせずにここで私の大衆に対する見方というか視点というものを紹介しようと思います。と言っても興味を持つ人間がどれだけいることやら。

 私の大学での専門は社会学なのですがよく人からは、「社会学って何をする学問なの?」という質問を非常に多く受けます。実際これは社会学をやっている人間たちですらよくわかっておらず、敢えて言うなら「入りやすく極め辛い学問」であって、これが社会学だといったらなんでも社会学になってしまうほど専門性が低い学問です。取り扱う分野も経済学から法学、政治学、心理学、文学と文系自然科学の分野すべてを内包しており、私なんかはそういうオールマイティさにあこがれて社会学を選んでほかの専門領域も法学を除けば大体手を出しましたが、それでも未だに社会学ってなんやねんと思うことの方が多いです。

 そんなよくわからない社会学ですが、一般的に言うなら心理学に近い学問というのが正解な気がします。社会学も心理学も人間の心理行動を第一に着目して観察する学問ですが、異なっている点としては心理学が個人の心理により強く着目するのに対して社会学は集団の心理により深く着目し、また大きな前提として「集団の心理は個人の心理とは乖離する」と考え、個人の考えが合わさることで集団の考えとなるのではなく、個人の考えとは切り離されて集団の考えは形作られると考えます。
 こうした立場でものを考えるよう教育を受けてきた身であることから、私自身も個人の心理とかそういうのには全く興味がなくむしろ集団の心理の方が見ていて楽しいです。その上で述べると何か他人を分析する際はその他人が取る行動に対して「動機」から攻めるようにしており、どうしてそのような行動を取ろうとするのかその背景にある動機をまず推測して、「動機―行動」のつながりを解き明かそうとします。私見ですが心理学の場合だと、動機よりもその人の生い立ちや経験といった背景をより重視して分析の対象としてみているように見えます。

 そういうわけのわからない社会学の価値観は置いといて、このブログではよく日本人論を載せることが多いですが、こうした記事を書くに当たってやっぱり重要になるのは大衆の捉え方です。一言で大衆と言っても定義の仕方は様々ですが、大衆を分析するに当たってまず第一に考えなければならない点として挙がってくるのは「自分は大衆に含まれるか否か」です。
 自分と、これから分析する大衆は同じ構成員なのかどうか。地味にこれを考えるのは重要で、自分は大衆とは異なる異分子と前提して一歩離れた距離から観察するのか、それとも自分は大衆の中の一要素と前提して内部から観察するのか。一見すると前者の方が観察者として理想的な立場に見えますが、全否定するつもりはないものの、一歩距離を置いてしまうと自分を特別な位置に置いてしまうためか初めから持っていた仮説を当てはめようとするようになり、実際いくつかの社会学の論文を見ていると最初に作った仮説を無理やり結論として当てはめようする者が少なくありません。

 では大衆の中から観察するのがベストなのか。これにもメリットとデメリットはあり、メリットは最初から持っていた既存の考えを当て込み辛くなること、デメリットは逆に大衆の中でそうだと考えられている意見をそのまま結論にもって来ようとすることです。ちょうどさっきの逆みたいな感じです。

 それでは私はどっちの立場を取っているのかというと、基本的には自分は大衆の一部だという前提で物を考えています。ただちょっと他の人と比べ特別なのは、自分は大衆の一部ではあるものの、影響力の度合いはほぼ全くないものの、その大衆の思考を変え得る変数であるという前提を常に持っています。つまり私の行動や活動次第では大衆は考え方や行動を変えることもあり得るとして、では何にすれば大衆は変わるのか、逆に何があるせいで大衆は変わらないのかという点を重点的に考えて傾向なり法則を見出そうとしています。
 なかなか我ながら変なことを言いますが、大衆は常に変化を続けておりその変化点をどのように掴むのかが重要であるように思え、これらを掴むことによって大衆というものを把握できるのではと私は考えています。逆を言えば大衆というのは決まった形を保持しているわけでなく、徐々に変化を続けておりその変化を追うことによって現在の状態を見れると思うわけです。

 もうさっきから読者置いてけぼりで好き勝手書いていますが、こうした視点の工夫によって恐らく自分の見方なり視点はほかの人と異なってて、それがこのブログの読者にも評価されているのではないかと思います。私自身は日本人ではありますがもう価値観や概念で言えば確実に一般の日本人とは大きな隔たりがあるものの、それでも日本人という枠の中で大衆を考えてるのが不思議と言えば不思議です。

2015年10月1日木曜日

遵法に対する日本人と中国人の違い

 昨日書いた「遵法意識のない日本人」という記事で私は日本人は法律や規則といったルールを守る意識はほとんどなく、実際には周囲に行動を合わせることを第一の行動原理としているため結果的に実生活ではルールを守った行動を取っていると主張しました。その上で、案外日本人と中国人で遵法意識についてはそれほど差はないのではないかという仮説を立てましたが、今日はその理由を説明します。

 まず一般的に、日本人と中国人のどちらがルールを守るかと言ったらそりゃ間違いなく日本人に決まっています。中国国内でもこういうルールを守るというかマナーについてはしょっちゅう議論になるほど普段の中国人は悪く、私も以前い観光地で「禁煙」と書かれた貼り紙の前でおっさんが堂々と煙草を吸い始め、それを係員が注意した所「なんで吸ったらダメなんだ!」と逆切れするのを見てああ中国だなと感じたことがありました。
 最近であれば爆買い中国人が日本のあちこちでも見られるかと思いますが彼らのマナーの悪さについては見ていて辟易する日本人も多いでしょうし、実際に小売店各社もあれこれ対策を取っているとも聞きます。これだけ見るととてもとても日本人と中国人で遵法意識に差があるようには見えず、中国人は本当に決まりを守らない人間にしか見えないでしょう。

 にも拘らず何故私は今回このような主張をするのか。結論を端的に述べると、この差は遵法意識の差ではなく集団主義と個人主義の差であると思うからです。

 前回記事で私は日本人はルールを守る意識は薄いが周囲に合わせようとする集団主義的意識が極端に強いため、結果的に集団でルールを守る側が多数派を握れば全体が自然とルールを守るようになると分析しました。ただその一方、多数派がひっくり返れば一瞬で態度もひっくり変わるため、外国人から反復常ならないとか何考えてるのかよくわからないと思われ、また戦前から戦後の転換に絶望した人を生みだしたりするわけですが。
 これに対して中国人はというと、言ってしまえば完全な個人主義です。周囲が何しようが何を言おうが全く意に介せず、「ワシがこうしたいねんからこうするねん!」とばかりに自分がしたいことばかりを全く我慢せずに実行します。っていうかさっきのセリフは敢えて関西弁で書きましたが日本人の中で個人主義的意識が強いのは間違いなく関西というか大阪人で、その辺が中国人と馬が合うポイントでしょう。

 まず前提として日本人も中国人もルールを守ろうという意識は非常に希薄です。ただ日本人は周囲に合わせようとするため結果的にルールを守る行動を採ろうとするのに対し、中国人はさっきの煙草の例のように周囲なんてお構いなく自分の本音を通すというか、もちろん度を越した行為はさすがに控えますが、やりたいことを本能のまま忠実に実行します。なので日本人には通じる「他の人はこうですよ」なんていう注意は中国人には届くわけがなく、何かしら罰金なり追放なりといった強制的な処置をちらつかせる以外にルールの遵守を求めることは難しいでしょう。
 その上で述べると、マナーの悪い中国人を見ていて日本人がイラつくのは、中国人がマナーやルールを破るからではなく、周囲に行動を合わせないからという理由の方が大きいのではないかと私は見ています。遵法意識の差からではなく、集団主義と個人主義の意識の違いからくるズレの方が多分琴線に触れているのではないかと言いたいわけです。

 念のため付け加えておくと、上記までの内容を見るとさも集団主義が個人主義に比べ優れているように見えますが私としてはそんな考えは毛頭なく、レベルというか強さ的にはどっちもどっちという風に考えています。集団主義はきちんと管理などが機能している間は確かに強いですが管理がおかしくなっている場合、たとえばこの前書いた労働法の問題やブラック企業、しごき体質の運動部など、集団がおかしな方向に向いた場合に全く修正が効かないままおかしい方向へ進み続けるという大きなデメリットがあります。個人主義な中国人の場合はブラックな企業に入った場合、「アホか!」つってすぐに辞めてしまうので会社が成り立たずすぐ潰れるでしょうし、あと個人主義故に周りを気にせず自分の追い求める方向を追い求め続けるのでたまにすごい芸術家や科学者が出たりもする土壌があります。

 最後に私の思い出話をすると、確かあれは小学三年生の頃でしたが何か粗相をしでかして担任の先生に怒られた際、「友達もやっていたから」という言い訳をしたところ、「他の人がやっていたら悪いと思うことをやってもいいの?」と言い返されました。この時そういわれて、「そや、なんでやったらあかん思うとるのにほかの奴がやってたからやってええことになるんや」と妙な感じで悟ってしまい、少なくともほかの日本人よりは個人主義でありなおかつ遵法意識も強い性格を形成していく大きなきっかけとなりました。
 もちろん私だって信号を無視することもあれば細かい法規を無視するなどといったことはしますが、それでも周囲からはよく固すぎると言われるくらいやや厳格な生活を続けています。昨日例にとった就活でも、二月の期末試験を終えない間に活動をするのは学生としてどんなものかという妙なマイルールを課して期末試験が終わるまでは一切活動らしい活動をしなかったところ、面接では「君は就活の開始が遅かったんだね」と皮肉を言われるだけで誰からも評価されませんでした。

 はっきり言ってこんな性格じゃなければもっと器用に世渡り出来て今よりずっと楽でマシな生活が出来ただろうという確信がありますが、あの小学生の頃に諭してくれた先生には今でも感謝しており、あのおかげで自分は魂を得るに至ったと考えています。

遵法意識のない日本人

 明日から中国では国慶節連休に入る上、途中から日本にも一時帰国するのでかなり長いお休みになります。もっともちょっと状況がテンパり気味なので、ゆったりと休暇を楽しむ気分にはなれないでしょうが。明日暇だし蘇州のイオンでも行こうかな。

<就活>長期化、学業に支障…解禁破り続出、見直し論(毎日新聞)

 そういうわけで記事リンクを貼った上での本題ですが、さすがに大分年齢重ねて就活と聞いてもそれほど共感を感じなくはなっているものの、今年就活に直面した学生はいろんな意味で大変だったようです。何故大変になったのかというと就活にかまけて大学での学業がおろそかになるという懸念から政府、そして経団連が加盟企業に対して就活の開始時期を従来より遅らせ4回生の8月から行うよう指示したものの、次々と横紙破りをする企業が現れ企業側も学生の側も対応を巡って現場では大混乱となっているとのことです。
 まぁ始まる前からある程度予想はついていましたが8月から採用活動を開始するよう通達されていたものの優秀な学生を取ろうとこれより早く開始する企業が後を絶たず、また学生の側もそうした横紙破り企業があることを前提に早くから活動していた人間が順調に内定を取り、結果、正直に8月から活動を開始した企業と学生が揃って割を食う羽目になりました。もっとも、中には3月から活動を開始したものの未だに内定が取れず活動を続けている学生もいて就活の長期化を招いていると記事中で指摘していますが、こういう事例に関しては以前からもあるのでわざわざ記事に書くほどでもないようなと思えるあたりが所詮は毎日の記事です。

 この就活についてもっとしつこく書いてもいいですがそっちに関してはほかに専門家もたくさんいるので今回はスルーするとして、ここで私が提起したい点は横紙破りをする企業が後を絶たなかったというところで、結論から述べると日本人というのは案外中国人と同じで、法律の遵法意識が薄い、っていうかほとんどないように実は前から思っています。

 日本人はルールや規則を守る方か否かと問われるなら、恐らく大半の日本人は「比較的守る方だと思う」と答えることでしょう。しかし私の目からすると行動では確かに守っていることが多いものの、ルールを守ろう意識は実際にはほとんどなく、はっきり言えば惰性で守っているに過ぎないのではと見ています。
 今回の就活の例で言えば横紙破りをする企業が多数いたという点が一見するとポイントのように見えますが、真のポイントはそうした横紙破り企業に対して世間が何も批判しようとしない点です。罰則こそないもののみんなで守ろうといったルールを無視してほかの企業を出しぬく、ギャンブル漫画「カイジ」の世界では日常的に行われていることですがそんな「カイジ」の世界においても、「汚ねぇ、汚すぎるぞっ!」と敗者側が非難をしますが、少なくとも今年の就活に関してはそういった出し抜いた企業に対する非難はほとんどなく、正直にルールを守った会社で採用が上手くいってないことに対して、「正直だったのに可哀相だね」と軽く同情するに止まっています。

 一体何故出し抜いた企業は非難されないのか。そもそもの開始時期設定自体に問題があったのだとか色々言い訳は立ちますが、私が思うに出し抜いた企業が多かったから非難されないのだという気がします。
 たまにはここで筆を止めてもいいかなと思いますがもうちょっと詳しく説明すると、たとえば百人中一人がルールを破った場合、恐らく日本人はその一人を徹底的にこき下ろした上で村八分のような処置を取ることでしょう。しかしこのルールを破る人間が一人ではなく二十人だったら、恐らく守った八十人は破った二十人を非難はするものの村八分のような扱いまで取ることはないでしょう。さらに破った人間が五十人だった場合、諍いは起こるかもしれませんが守った側もこのくらいの人数になると「ずるい」と悔しげに文句を言うにとどまることでしょう。そして破った人間が八十人だったら、ルールをきちんと守った人たちは破った人たちから「馬鹿正直な連中だ」と文字通り馬鹿にされ、その二十人も恐らく非難すらせず、中にはどうして自分はルールを破らなかったのか後悔する人間も出てくるでしょう。

 ここまで言えばわかるでしょうが、日本人はそこに存在するルールを守るか守らないか以上に、自分の行動や判断が多数派になるかならないかの方をより重要視する傾向があります。何もこれは日本人特有というわけではなく外国人にももちろんみられますが、ただ私の目から見て外国人と比べれば日本人は特にこういった集団主義的傾向が極端に強いという風に感じます。
 このような集団主義的傾向が日本人においては強いためか、普段の行動原理は「他の人間と同じ行動をとる」ということが第一義として存在しており、「ルールや規則を守る」という考えは文字通り二の次でしかありません。なもんだからルールや法律を守らない人間が集団のうち過半数を越えた場合、強力な罰則や執行機関が存在しなければ、その時点でそのルールはルールとしての価値を完全に喪失することとなるわけです。極論を述べると、百人のうち九十九人がルールを破る中、「ルールはやっぱり守らなきゃだめだ」と主張するような最後の一人はもはや日本人ではないでしょう。

原発事故で日本社会が失ったこと(2)・・・遵法精神(武田邦彦氏のHP)

 この記事を書くに当たって「遵法精神」というキーワードで検索したところ引っかかったのが上記の武田邦彦氏のホームページでしたが、武田氏は放射線の被爆限度量が震災以前と以後で変わったことを例にとって日本人は原発事故によって遵法精神を失ってしまったと書かれていますが、私の意見は異なっており、そもそも日本人には遵法精神なぞ初めからなかったのだと思います。この限度量が変わったことについても、黒が白に変わっただけというか多数派がつく数字が必要に応じて変わっただけでしょう。

 このまま一気に書いてしまうつもりでしたが、途中で書いた「日本人というのは案外中国人と同じで法律の遵法意識が薄い」という点についてはまた明日にでも書きます。疲労してテンション低い中、今日はなかなか頑張って記事書けたな。