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2018年3月31日土曜日

ミグさんちのつばめちゃん(MiG-29)について


 きょう午前中に、先週買っておいたタミヤのMiG-29のプラモデルを組んでいました。こちらの商品はタミヤブランドで販売しているものの実際はOEMで、中身を作っているはイタレリです。ほとんどの部品が成形済みなためパーツ数は少なく、すぐに組み終わりました。
 そもそもなんでこんなプラモを作り出したのかというと、本人としては軍事研究のつもりです。昨年に「スタンダードなジェット戦闘機」ということからF-16を作りましたが、形状パターン的にはこれだけでは足りないので、先日にはカナード翼機を学ぼうとユーロファイター(タイフーン)も作り、そして今回は東側の戦闘機、そして双尾翼機の代表としてMiG-29を選びました。あくまで軍事研究の一環であり、暇だから作りまくってるわけじゃありません。

 少し真面目に話すと、やはり自分で各パーツを見ながら組んでみて初めて感じ取る点も多いです。具体的にはタイフーンのようなクローズデルタ機は翼面積の広い形状からハードポイントが多く作れ、武装搭載上では有利だと思えます。


MiG-29 (航空機)(アンサイクロペディア)

 そんな今回作ったMiG-29ですが、上記のアンサイクロペディアの記事では日本らしいというか擬人化して「ミグさん家の空飛ぶ美女」として紹介しています。そこで今回は自分もこの記事に乗っかる形で簡単にこの飛行機の経歴というか悲劇の歴史を紹介しようと思います。

 MiG-29は1970年代、ソ連のミグさんちで生まれました。相性としては小柄な体形になぞらえたのかロシア語で「燕」つけられましたが、西側諸国からは何故か「フルクラム(支点)」という未だに聞いててもよくわかんないあだ名をつけられてしまいました。
 とはいえこのつばめちゃん、生まれた当時は米国でケンカに強いことで有名なF-15イーグルがデビューしたてだったこともあり、「この子ならきっとイーグルにも勝ってくれるはず」と周囲から大きな期待を受けていました。ほんの短い間でしたが……。

 ミグさんちでつばめちゃんが生まれたのとほぼ同時期、親戚のスホーイさんちでも新しい女の子が生まれていました。その生まれた子というのも「Su-27フランカー」ことふらんちゃんで、体が馬鹿でかい癖にやけに機敏で、しかも非常食(増槽)なしでもロシアの広い国土を縦横無尽に飛び回るという半端ないスタミナ(航続距離4000キロ)の持ち主という、例えるなら「動けるジャイアン」ともいうべき恐ろしい娘でした。
 真面目な話、あの時代にふらんちゃんを設計してのけたのはオーパーツもいいところでしょう。

 ふらんちゃんが生まれるや一転、つばめちゃんに対する周囲の期待は落胆へと変わりました。攻撃力、機動力、航続距離のどれをとってもふらんちゃんに適うものはなく、唯一勝っているものはコストの低さだけという有様でした。そのせいか、「どうせ傷物にされてもふらんちゃんに比べて惜しくないし」という情けのない扱われ方から、敵軍の制空権空域だとかレーダー防空網の真っただ中だとか、撃墜されてもやむなしとも言うような危険な任務はつばめちゃんにばかり押し付けられ、この世代の戦闘機としては被撃墜記録が特に多い機体となってしまいました。それどころか、「つばめちゃんはケンカが弱い」という認識まで持たれてしまいます。

 一応書いておくと、スペック上ではつばめちゃんも優秀で、特に機動力に関しては定評があり後期型に至っては技術確立された推力偏向ノズルの搭載によってあり得ない動き方をすることが可能であり、他国の第一線級戦闘機にも負けないと評価されています。ただ惜しむらくは、この推力偏向ノズルはふらんちゃんにも取り付けられているということです

 話は戻りますが、旧ソ連が崩壊して貧乏となったロシアは外貨を稼ぐために積極的に戦闘機を売りはじめ、コストが安いことからつばめちゃんはやたらいろんな国へ身売りさせられることとなります。セールス的には非常に成功した部類には入るのですが、どちらかと言えば「ふらんちゃんの方がいいけど、あっちは高いから仕方ないね」とばかりに妥協として買われていくパターンが多かったようです。
 しかも輸出規制が緩いせいか、第三国経由とはいえ、何故か敵国の米国にまで買われたこともあり、その際には体の隅々まで辱めを受けた(検査)ことはいうまでもありません。

 歴史にイフはありませんが、もしふらんちゃんさえいなければ、つばめちゃんは今もロシアの主力戦闘機として西側諸国からは畏怖され、高嶺の花としてみんなにちやほやされていたかもしれません。彼女の不幸はほぼすべて同時期にふらんちゃんという強力過ぎるライバルがいたことから始まっており、「ふらんちゃんさえいなければ」とミグさんちの一員らは多分みんな思っていたことでしょう。

 そうした恨みつらみがどこかに通じたのか、とうとう運命の日が訪れます。それはノストラダムスの予言に出てくる1999年の2月のこと、エチオピアとエリトリアの間で起こったエリトリア国境紛争において、エリトリアからはつばめちゃん、エチオピアからはふらんちゃんがそれぞれ出撃しました。
 つばめちゃんの不幸な生い立ちはすべてふらんちゃんがいたせいにほかなりません。第三国間とはいえ、そのふらんちゃんとガチでぶつかる機会が得られたというのはまさにその運命を逆転するチャンス以外にほかならず、「今度こそ、あたしはシンデレラになるんだ!」と言ったかは定かではありませんが、長年の忸怩たる思いとともにつばめちゃんは飛び立ちました。






















 そして一発でふらんちゃんにKOされました。っていうかどう見ても勝てる相手じゃないし。

 現在、ロシアの主力戦闘機はふらんちゃんで、あと中国もロシアから買って使ってます。研究対象としてみればふらんちゃんの方を優先すべきであるのですが、上記のあまりにも可哀想な生い立ちぶりからつばめちゃんを選ぶことにしました。やっぱストーリーって大事です。



 こっちは前作ったタイフーン。
 ハセガワのキットで組みましたが、「航空機と言えばハセガワ」と言われるだけあって、パーツ数が非常に多い上に図面がタミヤより見づらくめちゃ苦労しましたが、その分、仕上がりなどは非常によくできててその異名は伊達ではないと感じさせられました。とはいえ求められる技術は高いように感じられ、次もハセガワのキットを買うかとなるとやや躊躇させられます。

2018年3月30日金曜日

高級車の裏側

「いつかはアウディ」の時代が終わった中国
高級車市場で火花を散らすトップ3、レクサスも人気上昇中(JBpress)

 上記の記事は昨日出た私の記事ですが、正直に話すとそんな大した取材はしていません。しかし日本語媒体で2017年の中国高級車市場データは活字化されていないとみられ、中国語が読める自分とかならともかく、重要な市場データでもあるということからどちらかと言えば記事よりもデータを日本語で読めるように、且つネットで拾えるようにする必要があるとの使命感から書きました。
 もっとも本音を言えば、このところの激務で左手と左目と左耳の神経がまたおかしくなってきているのと、2017年の統計データまとめ記事書けるのも今のうちという事情の方が大きかったりしますが。

 特にこの記事について追加で解説するところはないのですが、独アウディが主題の記事であることに絡めて当初は、

「なお筆者が子供だった頃、うちの親父が無理してアウディの車を自家用車に買って身近にあったことから、筆者自身としてもベンツやBMWと比べるとアウディはそれほどプレミアム感を感じなかったりします。」

 という文章も小話として盛り込もうかと考えていましたが、さすがに話題がプライベートすぎるので止めました。なおこの時のアウディは故障率が半端じゃなく、修理代だけでもう一台買えたそうです。次の三菱・ギャランは故障知らずだったのになぁ。

 ついでなのでと言っては何ですが、ちょっと高級車について裏話を書こうと思います。日本では自動車販売の統計データはよく出てきますが、こういう高級車市場単体のデータとなると専門誌とかじゃないとなかなかお目にかかることはありません。しかし自動車メーカーからするとこうした高級車市場は非常に重要で、マーケティング担当者は綿密にデータを精査していると思われます。
 一体何故重要なのかというと、単純に一台当たりの利幅が一般車と比べて桁違いに高いからです。航空機のビジネス・ファーストクラス同様に、母数こそ少ないものの利益率に与えるインパクトは物凄く大きく、尚且つ会社全体のブランドイメージにも影響することから無視してはならぬカテゴリーです。

 そんな高級車にとって、中国市場は間違いなく世界一ホットな市場です。その販売台数規模もさることながら伸び幅も桁違いに大きく、細かく比較していませんがドイツ系高級車ブランドにとっては単体としては最大の市場であるだけに、文字通り「中国を制すものが世界を制す」みたいな状況になっています。ドイツだけでなく米国系ブランドもそうした背景からこのところ力を入れており、日本から撤退したフォードもリンカーンを大々的に中国で売り出すなど市場に対し積極的です。

 ここで話を少し戻しますが、先にも書いた通りに高級車は利幅が非常に大きいのが特徴です。何故大きいのかというと単純に価格が大きいということもありますがそれ以上に、実は原価が一般車とほとんど変わらないことの方が大きいです。

 販促費用やアフターサービス費用の面では確かに高級車の方がかかりますが、実車の本体価格でいえば実はそれほど差がないはずです。確かに、高級車というだけあってゴムやプラスチックなどの原材料は耐久性の高い高品質な材料が使われ、防錆用の表面処理もいい奴が使われますが、金属を切削したりプレスしたりする加工部品に関しては実は一般車と比べて全く同じコストだったりします。なんでそんなこと知ってるのかっていうと、私自身プレス業界に関わったのと、そこそこ有名な自動車部品メーカーの方に話聞いたからです。
 そのメーカーの人(めっちゃ賢くて頼りになる)によると、高級車向けパーツは図面で寸法範囲などが一般車と比べて非常に狭く制限されるものの、原材料や工数が同じだったら、「値段変わらんやろ」と完成車メーカーに言われ、結局同じ価格で出荷を要求されるそうです。無論、精度要求が高ければ歩留まり率は悪くなり、また精度を維持するために機械の加工速度を通常より抑える必要があって手間は余計にかかります。さらに高級車向け部品は一般車向けと比べてロット数が少ない上、在庫確保のために保管するにしても区分しておかなければならず、部品メーカーからすれば儲からないのに手間と管理が非常に膨大という厄介さで、「高級車向け部品は正直あまり受けたくない」という感想を述べてました。

 現実に、工業部品の調達価格は工数と原材料価格でほぼ決まり、精度が高かろうが低かろうが買い手はあまり考慮してくれません。このように考えると、高級車の利益の大半は下請けメーカーの苦渋の涙で出来ている的な所があり、笑ってんのは完成車メーカーと消費者くらいなもんでしょう。まぁそれが市場だし、なんだかんだ言いつつ高級車は夢があっていいと思いますが。

 最後にまた例によってヤフコメについてですが、話題が話題なだけに普段「大した取材してない記事書きやがってこいつはよぉ」というようなことを私に言う連中はこういう記事は読まないのか、今回は非常に落ち着いたコメントばかりでした。その中で気になったものとしては、


the☆ZABUTON

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公園のベンツでキミにアウディ

 なんかこれがツボにはまってしばらく笑いこらえてました。あと、



ves*****

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やはりアジア。日本人と好み似てるんだな
アメリカではドイツ車はさほどだが日本や中国のドイツ崇拝者は同じものを持っていそう

 このコメントにはなるほど感じました。実際、名古屋に左遷されたうちの親父がまさにこの「ドイツ崇拝者」で、飛行機もメッサーシュミット以外はあまり興味を持ちません。戦車はもちろんティーゲル。
 考えてみると日本のRPGゲームでお決まりのファンタジー世界も基本ドイツのケルト神話の世界観がスタンダードです。何かアジア人を引き寄せる要素がドイツにはあるのかもと思え、意外に深い指摘のように思えてきました。

2018年3月28日水曜日

中朝接近について

 事前に連絡受けていたのに、今日JBpressのサイト見たら「あれ、俺の記事載ってない?」と思ってしまいました。メール確認したら明日29日の掲載って言われてました。なお内容はそんなに手の込んだものではないですけど、日本語媒体でああした統計データが出回ってないので、将来を含め検索などで閲覧できるような形にしたいと思って書いてます。
 もう一つだけ付け加えると、日本のメディアにおける統計の扱いにはこのところ疑問を覚えます。見方次第でいろいろ予想内容だって書けるのに、なんかインタビュー内容ばかりにこだわって統計をないがしろにしているように思えてなりません。

 そんなわけで本題ですが、わざわざ私が言うまでもなく北朝鮮の金正恩が中国を電撃訪問して習近平総書記と会談を行いました。日本国内では一昨日の夜頃からすでに動静が報じられていましたが中国では今朝になってようやくこの件が報じられるようになりました。こちらでの報道は段本営発表こと中央メディアである新華社の発表以外なく、独自の論考や評論などはほとんどなくあまり書くことはありません。

 なので私独自の視点でこのまま書くと、気になったのポイントは二つあります。
 一つは会談内容で触れられている「朝鮮半島の非核化」についてです。北朝鮮側がこの目標について触れたのかややはっきりしませんが、もしそうだとしたら「お前が言うな」と言いたくなるような内容です。敢えて痴漢に例えるなら、「生き残るためには痴漢をし続けなければならない」とか言ってた奴が「痴漢は撲滅する必要がある」と言い出したような感じするのですが、何故ここでの喩えで置換が出て来たのか(それも真っ先に)、思い浮かんだ後で逆に自分で悩みました。

 もう一つのポイントは、時期とタイミングと決断要素です。
 金正恩が中国入りしたのは一昨日3/26の晩でほぼ間違いありませんが、この日程はいつ決まったのかが非常に気になります。あらかじめかなり早い段階、少なくとも一ヶ月前以上には決まっていたと考えるのが筋でしょうが、案外急遽、それこそ中国入りする前日かそこらに決まったのではないかと私は見ています。

 一体何故かというと、先週22日にイベントがあったからです。この日程だけでピンと来る人もいるかもしれませんが、この日は米国のトランプ大統領が中国などを念頭に置いた鉄鋼・アルミへの関税大幅引き上げを発表した日です。
 やや話題がずれますが、この関税引き上げには鉄鋼・アルミの原材料が入るのはわかりますが、プレスとかした加工品も含まれるのかが実はよくわからず、誰か知っていたら教えてください。含まれるのであれば日本もダメージがあり、含まれないのであれば言われているほどダメージはないと考えます。

 話は戻りますがこの関税引き上げ発表によって米中関係はやや暗雲がたちこみ、首脳同士の電話会談も「今に見ておけ!」で終わったと言いますし、前情報なしの電撃訪問だったからそう思うのかもしれませんが、もしかしてこの件で米国に対する感情を悪くした中国側が北朝鮮のかねてからの要請に応じる形で訪問を急遽認めたのかなと最初思いました。
 北朝鮮としても渡りに船だったというか、昨年から始まった国連安保理決議に基づく経済制裁が明らかに効いているように思われ、この方面での打開を、それも関係国同士が仲違いしているところに割り込むような形で狙っていたことに関しては間違いありません。

 なお今日たまたまですが中国商務部のサイトなどを確認したところ、中国がすでに実施している北朝鮮への貿易制裁は一応まだ解除はされていません。あと一部報道で米国への報復に化学原材料への反ダンピング措置を中国が取り始めたと言われますが、自分が見る限りだとこの方面では米国以上にタイへの対応の方がかねてから激しく、過去1年くらいの新規ダンピング案件ではほぼ必ずタイの名前が出てきます。

 またまた話は戻りますが、仮に電撃訪問が急遽決まったものであれば、中国の米国への意趣返しのような意味合いが多分に含まれていることだと思います。ただだとしても、米国側も北朝鮮との首脳会談に乗り気だと言われている現在であれば果たして影響はどの程度かと疑問があり、それこそ国連決議が決まったばかりの頃に制裁破りする方が米国への嫌がらせとしては価値があったでしょう。
 このように考えると、何か一つピースが足りない気がします。中国が突然、またはかねてから気余っていたとしても、一体何故この段階で金正恩を招いたのか、何かもう一つ理由があるような気がします。他の周辺国というよりも、やはり米国を意識した理由であるような……。

 なお最後にもう一つ付け加えると、このところ北朝鮮は韓国や中国に接近というか媚びる発言をする一方、日本をのけ者にするかのような発言を繰り返していますが、案外日本はこれに乗っかるのがベターな気がします。というのも変に下手に出て交渉に参加しても、核放棄の見返りとしての諸々の支援に手を課さなくてはならなくなることが目に見えており、それであれば早くから距離を置いて、場合によっては無意味だと言われても日本だけは独自に制裁を取り続けるという姿勢が国内的にもメリットがあると思われます。
 旧ソ連じゃありませんが北朝鮮は国際取り決めを守った回数より破った回数の方が遥かに多く、先日の暗殺事件を初め国外でも平気でテロ活動を行うような国です。そんな国が核開発放棄を忠実に実行するわけではなく、見返りの支援をタダ取りするのは目に見えています。せっかく北朝鮮が日本を名指しで距離を置いてくれるのだから、日本としてもこのまま距離を置き続けて制裁を取り続けるべきでしょう。少なくとも今回の中国電撃訪問は去年の制裁が確実に効いている証拠とも言え、オバマ政権時代の「戦略的忍耐」より遥かに効果が高いということは実証されています。

2018年3月27日火曜日

佐川氏の証人喚問について

 一体AELAはどうしてしまったのか、このところ不思議でしょうがありません。

川崎宗則がグラウンドにひょっこり戻っても誰も咎めない(AELA)

 これまで受験データ専門雑誌とばかり思っていたのに、前の記事にも書いた通りにこのところ野球関連の記事が面白くてしょうがありません。上の記事も今日会社で読んでてリアルに涙出てきました( ;∀;)
 っていうか真面目にスポーツ専門誌とかより記事がすこぶる面白いです。シーズンが開幕した後もどんな記事を出してくれるのか、今からでも楽しみです。

 さて話は本題に入りますが今日の佐川氏の証人喚問について結論から書くと、元々前回も真相を画したくらいだから今回も何も口にしないだろうと思っていたため予想通りだったというのが私の感想です。唯一「おっ」と思ったのは、丸川珠代議員が質問を終えた直後に、

ありがとうございました。少なくとも今回の書き換え、そして森友学園に国有地の貸し付け並びに売り払いの取引について、総理、総理夫人、官邸の関与はなかったということは、証言を得られました。ありがとうございました

 以上のように、二度も「ありがとう」という言葉を口にした点です。証人喚問が始める前から官邸側とはあらかじめ口裏合わせはしているだろうとは思ってはいましたが、このやや不自然にも見える言い方はそうした口裏合わせを暗に裏付ける発言にも見えます。既に職を解き放たれ、しかも麻生財務大臣の責任までも擦り付けられるかのような解任にもかかわらずこうして官邸側に合わせるというのは、それだけ見返り(官房機密費かな?)が約束されているからかもしれませんが、皮肉ではなく見上げた役人根性だなと思えます。
 しかし佐川氏については既に前回答弁で事実と異なる証言をしていることは確実で、尚且つ証拠隠滅とも取れる発言をしていることからも偽証罪にかけられる可能性は十分に高いと思われます。この辺は特捜がどう判断するかにもよりますが、ある意味これがこの問題のスケジュールを考える上で肝心になってくるでしょう。

 基本的に特捜は、自分たちの捜査が時の政権に影響することを避ける傾向があると聞きます。具体的には国会の会期中や選挙中は内偵に務めて目立つ捜査は行わず、これらの期間が過ぎた後に具体的な逮捕、留置、立件を行います。この森友問題においては既に公文書の改竄という既存法でも実刑に持っていくには十分な犯罪行為が行われており、既に一人自殺していますが実行者、命令者のうち誰か、もしくは全員が逮捕、立件される可能性は十分にあります。
 実際に最近の報道で分かってきましたが、既に今年二月ごろから近畿財務局の関係者に対する任意での聞き取りは始まっていたようです。こうした背景、というか捜査があったからこそ近畿財務局の方が自殺を決意したと考えるのが筋でしょうが、朝日新聞が入手した改竄された決裁文書も大阪地検特捜部経由だったともいわれており、もう証拠もある程度固められてきているのではないかとも思えます。

 ただ実際に捜査が本格的に動き出すとしても前述の理由から、今国会が終了する6月以降になってくる可能性が高いと言えます。これは逆に言えば、今国会での疑惑追及は朝日のようなメディアによるスクープがないと、このままズルズルと答えが出ないまま間延びしかねないということです。
 やはりというか野党の追及は今回の佐川氏の証人喚問を見ても弱いように見え、外部による援護射撃なしでは多分追い詰めることはできないでしょう。ここで政策、具体的には年金の誤入力問題を絡めるなどして安倍政権を批判したほうが私にはいいと思うのですが、これまでと同じことばかり口にしてなんとなく聞いてても面白味を感じられません。6月以降にはどうなるかわかりませんが、このまま何もなければ安倍政権は6月まではひとまず安泰でしょう。

佐川・前理財局長が証人喚問で明かさなかった今井首相秘書官の秘密(AELA)

 この決裁文書の改竄をすっぱ抜いただけあって朝日系列のこの方面の報道は群を抜いていますが(産経は逆の意味で群を抜いている)、恐らく真相としては上記リンク先の記事で書かれている内容がすべての真相ではないかと思われます。ではここまでたどり着くにはどうするべきかとなると、やはり近畿財務局の怪しい人間を片っ端から、証人喚問とは言わずに野党による特別チームを編成し、全場面録音録画した上で特捜と協力しながら聞き取りを行うのがベターではないかと思います。この問題で財務省本省を攻めても労多く利少なしであるだけに、もっと現場に近いところを集中的に攻めるべきなんじゃないかと思います。

 最後にある意味この問題の主役ともいえる森友学園の籠池元理事長ですが、彼が詐欺師であることは間違いないものの、証拠隠滅の恐れがない、というよりむしろこの件に関しては決裁文書の改竄がなされていたことから彼の方が証拠を隠滅された立場でしょう。彼がやったことを考えると逮捕、立件、実刑はしょうがないとは思うものの、去年7月に逮捕されて以降、現在に至るまで留置され続けているというのは、もはや彼に隠滅する証拠などないことを考えると、異常としか言いようがありません。
 籠池元理事長の逮捕が国策捜査であることはもはや言うまでもありませんが、何も私は彼の味方をする気はないものの、司法の独立性の観点から言ってこの異常な留置は直ちにやめさせるべきで、保釈するべきだという立場を取ります。それこそ安倍政権にとって余計なことを言わせないため、検察が「忖度」しての留置だというのであれば、野党にとってはこの辺も攻めどころではないでしょうか。

2018年3月26日月曜日

雇用のミスマッチ

近畿財務局は「安倍昭恵」名を知る前から森友に国有地売却方針 決裁文書改竄(産経新聞)

 本題とは関係ありませんがよくもまぁ産経はこんなとんでもない記事を出せるものかと今朝呆れました。詳細については敢えて言及しませんが論点のすり替え以外にほかならず、珍しくヤフコメを見てもこの記事の異常性について指摘する人が多くみられました。まぁ見方を変えれば、昭恵夫人の一言で急激に話が進んだことを示しており、お前はどっちの味方なのかと問いたくなる記事でもあるのですが。

なぜブラック企業を徹底的に取り締まらないのか?(大艦巨砲主義!)

 そんなわけで本題ですが、先日何気なく見ていた上のまとめ記事で以下のようなコメントに注目しました。

99: 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2018/03/18(日) 10:16:31.316 ID:ohrSSS+ud
日本には
過労死するほど仕事があり
自殺するほど仕事がない
なかなか見事な一言だと思って友人にもツイートしたのですが、最近忙しいのかかまってくれず、無視されてしまいました( ;∀;)
 そんな私の友情事情は置いといて話を進めますが、何故上記のようなコメントが出るのかというと一にも二にも雇用のミスマッチが日本で氾濫しているからです。かねてから私はこのブログで日本の異常なまでに低い雇用の流動性が多方面に悪影響を及ぼしていると指摘し続けてきましたが、何故雇用の流動性が低いのかというと新卒採用にこだわるという雇用習慣もさることながら、雇用のミスマッチが異常に激しいことも原因として大きいと考えられます。

「引っ越し難民」が映し出す日本社会の根深い問題(JBpress)

 上の記事は別に私が書いたものではないですが今日たまたま見ているとまさに今現在怒っている運送業界の問題と絡めて、雇用のミスマッチに言及していたのでこちらも引用することとしました。現実には90年代にフリーターという言葉が出始めた時点で日本経済は労働力不足に陥っていたものの、ようやく現在に至ってそれが顕在化してきたと私は見ていますが、労働力が果たして足りないのかというとそうでもなく、上の記事でも書かれている通りに潜在労働力は実際にはまだまだ存在するものの、それを汲み取れていないのが日本の現状でしょう。
 単純比較でも女性の社会進出が日本は遅れており、そもそも専業主婦という言葉がある時点でもう何から言うべきかと中国に住んでて思えてきますが、賃金レベルはともかくとして労働力自体は掘ればまだまだあります。問題はそれを生かし切れいていないという点で、採用時のミスマッチや待遇条件の問題など、言ってしまえば経済の問題です。

 採用時のミスマッチに絞ると、最近久しぶりに会った人間に毎回、「花園君もう何回仕事変えてんの?」とガチで聞かれるくらい仕事経験が無駄に幅広く豊富な私に言わせてもらえば、日本においてはほとんどの仕事に適正なんてなく、採用に時間と手間をかけるくらいなら先着順にした方が双方にとってもメリットが大きいとすら感じています。全般的に日本における業務は単純かつ自己判断が要求されるものはほとんどなく、むしろ決められた手順や慣習に従わなければ罰されるものばかりです。幸いにして日本の教育は個人から自我を奪うことに特化しているだけあってこの手の仕事に向いている人間を量産しており、よほど技能や知識が要求される専門職以外であれば誰がやったところでそんな変わりないでしょう。
 そうはいっても新人によっては差があるという人もいるかもしれませんが、最初に差があったとしても年月が経てばその差は慣れによってへし潰されるだろうと思います。なんとなくですが、日本人はこの仕事の「慣れ」を「適正」と勘違いしているのではと思う節もあります。

 では何故、上記のような状況でありながら採用のミスマッチは生まれるのか。はっきり言えば日本の経営者や労働者は厳選すればするほど、無駄に時間をかければかけるほど良い結果が生まれると信じています。だから決断の基準や条件は敢えて曖昧にして、余計に時間がかかるように仕組んで採用に臨み、判断基準がないもんだから時間と手間がかかった上に必要な人材が得られないというミスマッチが生まれていると、好き放題に言わせてもらうと私の見方はこうです。
 この辺は中国来てから思うようになりましたが、単純労働力に関しては適正もクソもなく、如何にして頭数を揃えるかだけ考えていれば十分です。むしろ適性を持ち出そうとすると話がおかしくなる傾向もみられ、その辺気づいている人はどれくらいいるのか疑問です。

 最近になってみんな大好きアトキンソンことデービッド・アトキンソン氏も、「日本の景気が悪いのは無能な経営者ばかりいるからだ!」と、なんか私みたく「アイツは反日だ」と言われだしてむかっ腹立っているのか正直な感想を言うようになってきましたが、私もこの点は同感です。中国もおかしい経営者はいくらでもいますが、市場競争の激しさから政府とのつながりがない人間は自然淘汰される傾向があり、それと比べると日本はこの点で緩いなと感じます。最初に引用したまとめ記事のように、ブラック企業関係者を言葉上だけの意味でなく本気で殺害するくらいの勢いで摘発しない限りはこの状態が続くでしょう。

2018年3月23日金曜日

文学性とは何か?

 策やブログ書く気もなかったのに「なろう系に代表される異世界転生物小説について」という記事書いて、その中でもし私が書くとしたら「中国に転職したらブラック企業だった件」になるだろうと書きましたが、冷静に考えて日本人にとってすれば下手な異世界よりも中国の方が常識通じない世界なんじゃないかと思えてきました。といっても以前と比べると中国も大分まともになってきて、以前ほどトンでもニュースも減ってきていてなんかつまらなくなってきてますが……。

 話は戻しますが昨日の記事で私は、異世界転生物について文学的要素の観点から見たら果たしてどうなのかと書きました。もったいぶらずに結論から言うと、そもそも文学性とはないかというといというなれば人生や体験のシミュレーション、物語を通じて疑似体験を行う登場人物の人生や判断をの種類や程度、深さであると私は考えています。

 例えば森鴎外の「舞姫」を例にとると、当時としては珍しかった官費留学生の留学生活が書かれてあり、そして留学先で官費支給が打ち切られ、それでも現地の恋人とうまくやってたけど最終的には仕事を取って切り捨ててしまうという決断へと至るまでが描かれています。こうした体験は塔の一般人はもとより現代でもなかなか実際に経験することはないものの、舞姫を読むことで少なくとも登場人物の行動や決断に至る一人の人間(太田豊太郎)の過程は知ることが出来、一つの人生体験モデルとして消化するに至るわけです。
 このように文学性とは、普通じゃ体験できない、まだ体験していないことを物語を通して認知、疑似体験し、それによって人生経験をいくらか膨らませることのできる要素であるという風に私は考えてます。従って物語における体験はごくありふれたものではあまり意味がなく(リアルでも体験できるため)、どちらかと言えば珍しく、尚且つ極限であればあるほどよく、また苦しい決断ほどその重要性は高まると言っても過言ではなく、シェイクスピアの「リア王」などがこのパターンではないかと思います。

 ただし、疑似体験とはいえあまりにも現実離れしていては読んだところで「体験した」という実感が得づらくなります。それこそ昆虫の世界で飛脚をやっているというアブラムシの話が書かれたとしても、「え、飛脚ならバッタじゃない?」という風に疑問を覚え、読んでてもしっくりこないでしょうし多分その後の人生においても何か生かせるところはほとんどないでしょう。仮想の話とはいえ、リアリティがあればあるほど読者は本の中の世界に現実味を覚え、のめり込むというか疑似体験の度合いが高まることから、一定の現実感はやはり文学性においては求められるでしょう。
 もちろん空想世界が前面に出された「杜子春」や「蜘蛛の糸」であっても、そこから得られる人生経験や教訓が深ければ特に問題はなく、特にこの二つは現実離れした要素がなければ作品のテーマを打ち出せないため、仮想の要素は必要不可欠と言えます。そういう意味では現実感はバランスが求められる要素でしょう。

 説教臭い内容が続きますが、やはり文学性というか小説はこうした仕組みではないかと思います。先ほど現実感が大事と書きましたが、やはり明治の小説家を見ているといい作品を作るために自らぶっ飛んだ体験をしてそれを作品に活かそうとする人が見られます。具体的には心中未遂とかですが、こうしたジャンルは「舞姫」を含め私小説、自らのぶっ飛んだ体験に基づき、「こうなったらあなたはどうする?私はこうする」的に描かれてあるように私には見えます。現実に私小説形式だと自らの体験に根差していることからリアリティ高く描けるというメリットがあります。
 私小説に近い形式で、実際に一つのジャンルとして成立しているのは戦争文学です。そもそも戦争自体がぶっ飛んだ体験として十分成立するため、戦場で見た光景や自分の体験を書くだけで、「こんな時、あなたはどうする?私はこうする」という主張が十分に伝わります。そして読んだ人間も、「もし自分が戦場にいたら……」ということを考え、その後実際に戦場へ行くにしろ行かないにしろ、人生経験的には読まないよりかはこういった世界もあると知ってる方がプラスになってくるでしょう。

 以上のように私は文学性について、突き詰めれば人生や決断のシミュレーションであり、それこそ心中や戦場のような強烈な体験の方が価値が高まると考えています。また評価要素としてはこのほかにも普遍性が挙げられ、いつどの時代、性別を超えて多くの人間から共感が得られる作品であればあるほど文学性は高まると考えており、さっきも上げたシェイクスピア作品もそうですし、そもそも現代が舞台でないにもかかわらず現代における安楽死問題も考えさせられる森鴎外の「高瀬舟」なんかもこうした普遍性に富んでおり、その延長として文学性も高いと考えられます。
 逆に、と言っては何ですが、文学作品の批評からが口にする文章表現の巧遅については私はあまり議論するまでもないと考えています。「みずみずしい表現」だとか「感性の高い表現」などという人もいますが、そりゃ読みにくい表現より読みやすい方がいいに決まってはいるものの、文章表現なんて時代が変われば古語と現代語のようにガラッと変わってしまうもので陳腐化も早いです。そういう意味で副次的な要素ではあるものの、文学性の価値を決める要素と言えるのかと言ったらそれは違う気がします。

 ここでようやくなろう系小説に代表される異世界転生物というジャンルの文学性について触れますが、異世界に転生して怪物と斬った張ったするというのは極限性という観点では確かにレアリティは高いですが、現実感という点では逆に極度に薄いです。またこうした小説を読んで将来、近いような体験や判断に迫られることがあるかと言ったら、もしかしたら転生する人も世の中にはいるかもしれませんが、多分少ないということを考えるとあまり人生経験上でプラスになる要素は低いかなということになってきます。

 しかしと言っては何ですがじゃあ他の、一般的な現代小説がなろう系より私の定義する文学性を含んでいるかと言ったら、こちらもまた疑問です。具体的に言うと、最近文学賞を取る作品を見ていると非常にニッチな世界、はっきり言えば限定された職業の話が多く、かといって物凄い葛藤のある決断に迫られるような極限シーンもあるかと言えばなく、疑似体験したところで何か考えさせられたり将来にその疑似体験が役に立つシーンがあるかと言えば疑問な小説ばかりです。ああそうだ、言うならば深いテーマ性もないんだ。
 それこそ三浦綾子の小説「氷点」のように、「汝の敵を愛せを本当に実行できるのか?」などと、こうした問い、そしてそれに対する一つの回答みたいな物が現代作品にあるのかという点で疑問です。そしてなんでないのかというと、はっきり言えばそうした作品を拾えず、「みずみずしい表現」で作品を選んじゃう文壇が悪いのではないかと疑っているわけです。

 敢えて今回なろう系小説を取り上げたのは、確かに疑似体験というレベルで見れば文学性の要素は低いものの、かといって「文学作品が高い」として祭り上げられている現代の作品はすごい狭い世界のことばかりで、こっちもこっちで普遍性やテーマ性の点で非常に質が低く、いいところ同レベルなのではないかと見ていると言いたかったからです。むしろなろう系の方が、物にもよりますが誰も知り合いのいない世界に突然放り込まれてどう行動し、生きていくかというテーマ性はいくらか備えているだけ、狭い世界の舞台裏だけを紹介するような「文学作品」よりはまだマシなんじゃないかとすら思っています。

 以前にも書きましたが、今考えてみると「バトル・ロワイアル」は文学作品として非常に価値の高い作品だったのではないかとこのところしきりに思います。あれは中学生が殺人を強要され、それに対する各生徒の対応がバラバラに描かれてあり、現代の少年兵問題、そして「生き残るためなら他人を(何人も)殺してもいいのか?」という問いを疑似体験させられます。もっともこれ以降、同じコンセプトのデスゲーム物の漫画が大氾濫するようになりましたが、極限性という点ではやっぱり最初のこっちの方がすごかったなと思えてなりません。
 にしても2015年の自分は「ファイナルファンタジー零式」やって遊んでたんだな。あれは登場キャラクターが美男美女過ぎて食あたり気味になるゲームで、物語において三枚目の価値を再認識させられました。

2018年3月22日木曜日

なろう系に代表される異世界転生物小説について

 ブログ書く気なかったけどなんか落ち着かないので書きます。落ち着かないとなんで文章書こうとするのか自分でもよくわかりませんが。

 さて唐突ですが数年前より自作小説投稿サイト「小説家になろう」が流行り始め、その中でもいわゆる「異世界転生」ものとされるジャンルが特に人気を得ているようです。この異世界転生物というのはその名の通り、現代的な世界に生きていた主人公がある日突然異世界に召喚、転生されて、ファンタジーな世界で思わぬ活躍を遂げるというような内容です。
 私の感覚だと90年代初頭に流行っていたジャンルだと思うのですが、先祖巡り的なものなのか現代においてまた再び流行り出してきたなという風に考えています。もちろん流行りだから価値がないというつもりは全くなく、小説というものはどれだけ売れたか、人気か、読まれたかですべての価値が決まると言っても過言ではないと思っているので、売れているというのであればこうしたジャンルを扱う作家は実力者と言えるでしょう。

 そんな異世界転生物ですが、「異世界に転生したら○○だった件」みたいなタイトルが散見されます。これを見てもし私が書くとしたらとどんなタイトルかなと考えてみたところ、「中国に転職したらブラック企業だった件」とか「中国で記事書いてたら反日認定された件」になるかななどとすぐ浮かんできましたら、リアル過ぎてかえって売れないだろうと即判断しました。書けっつったらかなりディープに書ける自信あるけど。

 話は戻りますがこうした異世界転生物をはじめとするなろう系小説は一般にはライトノベル、ラノベなどと言われ、どちらかと言えばポップな若者向けジャンルとして、オッサンやおばさんが読むのには向いていないように扱われます。しかし売れていること、そして文学というメタな理論で考えるなら果たしてどうかなと思い、むしろ「文芸小説」と呼ばれる小説と比べて文学的な価値を比較したらどっちが価値があるのか、やや皮肉っぽくこの辺を眺めています。

 そういうわけで、なんか久々な思想物の記事となるでしょうが、次回では「そもそも文学的とはどいう意味なのか?」というメタな理論について書いていきます。意外とありそうでないジャンルだと私でも思います。