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2018年9月16日日曜日

自殺志願者への説得方法について

 昨日の記事で私は、「死にたい」と口にする自殺志願者はむしろ「これ以上生きていたくない」という価値観で、死への恐怖自体は持っている状態なのではないかという仮説を展開しました。ではそんな自殺志願者に対して、「死ぬのはよくない」と説得するのはいかがなものかというのが今日のテーマです。

 昨日にも書いた通り、一般的な自殺志願者のメンタルとしてはこれ以降も生き続けることが負担というか重荷に感じており、それが死の恐怖すら乗り越える水準にまで達しているのではないかと思われます。ではこうした人たちに死を思いとどまらせるにはどうしたらいいかですが、アプローチを一つずつ上げていきます。

1、死への恐怖をさらに高める
 死ぬこと自体への恐怖はあるのだから、生存忌避への意識以上に死の恐怖を高めてやればいいのではというアプローチです。具体的には、「死んだら訳の分からないところで働かせられるよ」とか、「閻魔様怖いよ」とか、「天国いけないよ」とかかなと思いますが、自分でも何言ってるんだろうかって気がしてなりません。あまり有効なアプローチじゃないと思うのでもう切ります。

2、生存欲求を高める
 生存忌避が意識が高いということは要するに生存欲求が落ち込んでいるともいえるので、生きていくことが楽しいとかプラスだと思わせるよう仕向けるというのがこのアプローチですが、今回の記事の主題として、こうしたアプローチの有効性について強い疑問を感じています。
 何度も書いている通り、一般的な自殺者は今後生存していくことに希望を見出せないからこそ自殺という手段を検討しているわけです。その背景は様々ですが、例えば病気から今後健常者のような生活ができないとか、借金を抱えてしまった人に、「生きてりゃいいことあるって」というのは、実現し得ない希望を要求するようで逆効果になるような気がしてなりません。彼らは「望ましい生活」が実現し得ないからこそ生存忌避を持っており、先ほどの説得は鬱病患者に禁句の「元気出せ」と言っていることに近い気がします。

3、視点をずらさせる
 自殺志願者は自らが望む生活や人生が送れないという意識が自殺を検討させているのならば、個人的に一番いいアプローチとしてはその「望ましい生活や人生」のイメージを変えてしまうのが手っ取り早いと私は考えます。例えば「正社員で、家族に囲まれ、オフィスでバリバリ働いて休日は優雅に過ごす」というイメージを抱え、そのイメージ通りに歩めず苦しんでいる人がいたとしたら、「派遣社員で、独身ではあるが家族持ちより自由にお金使え、個人的な趣味に邁進できる」という人生の方が幸福であるかのようなイメージを吹き込むとかです。病気を抱えた人であれば、病気とは関係ない部分での人生に価値があると思わせるなどあるでしょう。
 真面目な学問の話をすると、社会学上で自殺は自己イメージと現実の姿とのギャップが開くことにより悩みが深まり発生するという考えがあり、私も現実の自殺はこうした背景に根を持つものが多いと感じます。恋人に振られての傷心自殺などはまさにこの典型でしょう。

 そういった場合はどうするかと言ったら、現実の姿は変えようがないのだからイメージを変えていくしかありません。なおこのように現実とのギャップをイメージを変えることで埋めることを「認知的不協和」と呼び、これは食べ損ねた料理を、「きっとおいしくない料理だろう」等と後付けで思い込んでストレスを減らすなど、日常でも多々見られる心理行動です。自殺志願者への説得というか思いとどまらせるには、こうしたイメージの転換が一番効果的だと私は考えます。

 最後に、今回私が提唱した生存忌避と死への恐怖の二つの概念の数直線モデルで、生存忌避がないにもかかわらず死への恐怖がない状態は死そのものに価値というかメリットを感じている状態で、切腹や死に物狂いの突撃がこれに当たり、一般的な自殺が「消極的な自殺」に対しこちらは「積極的自殺」と呼んで区別しました。
 これとは別のモデルで、生存忌避が高いにもかかわらず死への恐怖もさらに高い状態というのはどんな人間が当てはまるのか。敢えて言えば最近というかちょっと前に一部で出回ってこのところ聞かなくなった「無敵の人」がこれに当たるのではないかと思います。社会的地位や信用、資産などの失うものが何もなく、犯罪行為に対する処罰が何の抑止力にもならない状態で犯罪行為を犯すような人たちを現わす言葉ですが、現実に検挙まで至った彼らに共通しているのは現実に絶望して社会を恨んでいるにもかかわらず、その攻撃性が自己には向かわず(=自殺)外部へ向けられる点で、その方向ガイドとなっているのはなんとなく「死への恐怖」じゃないかなという気がします。要するに、死への恐怖が一段と強いにもかかわらずこれ以上生きていたくないという状態のように思えます。なんとなくですが、死刑に対して無駄に強がっているように見えるところもありますし。

2018年9月15日土曜日

「死にたい」という人は本当に死にたいのか?

 このブログの設立当初でこそ私は自分の専門を「国際政治」と「社会学」として掲げていましたが、最近だとどちらもあまり勉強しておらず、専門と名乗るのが怪しくなってきました。となると自分は自分には何が残っているのだろうかと考えたところ、何故か「自殺の専門家」というワードが浮かんできたのでまた自殺について考えます。

 さて見出しに掲げた「死にたい」というセリフですが、「自殺志願者マジハマりワードランキング」なんてのを取れば恐らくナンバーワンとる言葉ではないかと思います。しかし改めてこの言葉を考えた際、果たして自殺志願者は本当に死ぬことを望んでいるからこの言葉を口にするのか疑問が湧きました。
 この辺は言葉尻の問題ではあるのですが、いざ実際に自殺を遂げた際に自殺志願者(の霊)が「やったー、死ねたぜひゃっほー!」なんていう言葉を口にするとは思えません。では何故「死にたい」という言葉を口にするのかというと、そのメンタルを汲んだ場合はむしろ、「(これ以上生きていたくないから)死にたい」、つまり「もう生きていたくない」という心境から発せられるのではないかと思います。言い換えれば自殺志願者は死にたいのではなく、生き続けたくないから自殺という手段を検討していると言っていいでしょう。

 その上で、こういった言葉をわざわざ口にするということは、「死への恐怖」というもの自体はをまだ抱えているのではないかと思います。ないならわざわざ口にせず実行するだろうし。

 仮にこういった心境を数直線モデルで言い表すならば、それぞれ下限ゼロ、上限100の「生存忌避」と「死への恐怖」という二つの価値観を示すメーターを用意するとわかりやすいでしょう。
 一般的なメンタルの人間の場合(宇宙人でも可)、生存忌避が20に対し死への恐怖は80くらいだと仮定すると、自殺志願者の場合はこれが80:80、下手すれば90:80のように、これ以上生きていたくないという欲求を示す生存忌避が死への恐怖を上回っている状態にあることになります。
 具体的には大借金を抱えたり、大病を患ったり、ショッキングな裏切りにあったりと、生きる望みを失ったような状態で、人間が本能的に持つ死への恐怖自体は変わらないものの、その恐怖を乗り越えてしまうくらいに生きていたくないという気持ちが強いという意味で、この数直線モデルにおいてはこれが自殺志願者の価値観というか心理的状態だと考えます。

 では、この数直線モデルをさらに発展させ他の数値の組み合わせだとどういう人物像が出てくるのか?まず考えたのは生存忌避は一般人レベルに対し、死への恐怖がゼロという、「20:00」のような状態です。
 先の説明だと、生存忌避が死への恐怖を上回ると自殺が発生するような説明をしてますが、実際にこうしたメンタル状態でも自殺と考えていい行動が発生するだろうと思え、具体的に言えば心中や切腹、尊厳死というような自殺パターンです。

 この状態は一般人同様に生存を忌避しない(=生存欲求がある)一方で、死ぬことに対して全く恐怖がないという状態です。言い換えれば、死そのものに価値を見出して希求しているような状態で、それこそ最初に挙げたように、「死にたい」と言いながら本当に死ぬことを望んでいる状態となります。
 わかりやすい例としては上にも挙げた切腹で、特に本人が望んでの殉死などはこうしたメンタル状態をはっきり反映したものだと思います。殉死を遂げる人間としては死ぬ行為自体に価値を見い出しており、さすがに全く恐怖がないというわけではないものの、最初の自殺志願者のパターンとは明確に異なる背景やメンタルで自殺を検討、実行していることには間違いありません。いうなれば、「まだ生きてたいという欲求はあるが、それよりも早く死にたい」というメンタルでしょう。

 また自殺に限らず、自殺的行為を行う人間もこうしたメンタル状態にあると言っていいでしょう。というのも「生存欲求を持ちながら死への恐怖がない」とはどんな人間かを考えた際、真っ先に浮かんできたのは薩摩兵児こと薩摩の島津家武士達で、関ヶ原の「島津の退き口」や、火をつけた鉄砲を縄で浮かせて空中でくるくる回しながら酒を飲むなど、極端に死への恐怖が感じられないエピソードが山ほどあるからです。
 真面目な話、死への恐怖というかタブー性の低い文化圏や軍隊内では自殺の発生率が明確に高まることが証明されています。ある意味で薩摩の命知らず達もそういったメンタリティだから戦争にも強かったと思え、家康もこんな危ない連中相手にしたくないから島津家を取り潰しにしなかったのもなんとなくわかる気がします。

 話は数直線モデルに戻りますが、このモデルで比較すると「死への恐怖はあるけど生存を忌避する意識の方が高い」自殺志願者と、「生存忌避こそないものの死への恐怖はもっとない」命知らずとで、自殺行為を二つのパターンに分けることができます。現実に自殺研究でもこうした「普通の自殺」と、「心中や切腹及び死ぬとわかっていながらの突撃などによる自殺」は同じ自殺でもなんとなくタイプが違うという風には見られていますが、少なくとも私が把握する限りでは明確な区別はまだされていない気がします。というより、後者はほとんど無視されている気すらするし。
 そこで敢えて私が定義づけると、前者は「死にたくないけどこれ以上生きていくよりかは死んだ方がマシ」という価値観から「消極的自殺」、後者は「死ぬことなんかこわくないぞばっちこーい!」という価値観から「積極的自殺」という風に言い表せると考えます。そして両者とも、生存欲求と死への恐怖のバランスがおかしくなることで誘発されるというのが私の見方です。

 次回はこの数直線モデルの観点に立った上で、自殺志願者への説得の仕方について考えていきます。こうした記事をサクサク書いちゃう当たり、やはり自分の専門は自殺にある気がします。

2018年9月14日金曜日

サイコパスはドキドキしない?

 大分前に橘玲氏の「言ってはいけない」という本を読んでみたのですがその中で、「サイコパスとされる人物は常人と比べ心拍数が平均的に少ない傾向がある」という記述がありました。これは文字通りそのままの意味で、サイコパスと心理学上診断され、実際に犯罪行為などをやらかす人たちを検査したところ一般人と比べて誰もが平均心拍数が少ないという結果が出たそうです。またこうした人物の幼少期のデータを見ても同様の結果で、ちっちゃい頃から心拍数が少なかったそうです。

 これが何につながるのかというと、文字通りの意味では「サイコパスはドキドキしない」、言い換えると、「刺激に対してあまり受動的反応を示さない」ということだそうです。ドキドキする状況と言ったら一般的には恋愛場面、あと物壊したり遅刻したりして後で怒られそうって状況が挙げられますが、こうした状況でもサイコパスはあまり興奮したり、焦ったりせず、普段のまんま比較的落ち着いた心境を保つとのことです。
 またそれだけでなく、ゲームや行楽体験を受けると普通の人は心拍数の上昇とともに快を感じて楽しむ気持ちを覚えるのですが、サイコパスはこうした体験を受けても心拍数はあまり上昇せず、得られる快も一般人と比べて少ないようです。これがどう言った影響をサイコパスに及ぼすのかというと、快楽を得るためにより強い刺激を求めるようになり、ドラッグをはじめとする犯罪行為などに手を染めていくというルートにつながっているという説が提唱されていました。

 私個人の意見では、流れ的には確かになるほどと思えて非常に納得できる筋書きです。何もサイコパスに限らなくても当初は刺激十分に楽しめたゲームも何度も遊んでいると面白いとは感じなくなり、より面白いゲームはないかと探すようになり、また前に遊んだゲームよりグラフィック、ストーリー、BGMなどが優れているものを必然的に選ぶでしょう。映画で例えても、かつては感動できた映像美であっても十年後に見返すとしょぼいCGだと思ってしまうなど、刺激は慣れてしまうとより強い刺激でないと快が得られなくなります。
 サイコパスの場合はこのサイクルが常人より顕著であり、その原因の一端が先ほど挙げた心拍数にみられるというのが具体的内容です。現実の犯罪者を見ても神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇のように虫から動物、人間と殺害対象が徐々にエスカレートしていますが、この過程ではっきりと犯人自身が欲求を求めて行った結果であると述べており、特に殺人の際はえも言わぬ快感を感じたような証言を残しています。

 以上の事例を踏まえると、心拍数が少ない、というより受動的反応が弱く刺激に対してあまり反応しない人間というのはサイコパス的要素を抱えていると言えるかもしれません。無論、この一点だけでサイコパスだと判定できるわけでもなければ実際にそうだと言えるわけではなく、このほかにも共感性の欠如や将来予測の曖昧さなど他の要素も十分かつ慎重に検討する必要はあるでしょうが、刺激に対してあまり反応しないという感受性の弱さは相手の人間性を分析する上ではなかなかに重要な情報の一つだと私には思えます。
 ある意味でそれは経験が表れるとも言え、例えば私のようにホラーゲームやホラー映画を見慣れている人間はちょっとやそっとのグロテスク画像や怪談話ではビビらず、実際この前までやってたホラーゲームを遊んでいる最中も「こいつまた死んだよー(^ω^)」って感じで爆笑しながら遊んでいましたが、これは私がサイコパスというよりかは有り余るホラー体験を乗り越えてきた証であります。

 その逆に、本来なら経験しておらず初めてなはずの体験(仕事や動作)でも全く緊張もなく動じずに淡々と行ってしまう人間がいたとした場合、別に上記の話を知らなくても不気味さを感じる人の方が多いのではないかと思いますし、実際そういう人は注意するべき対象じゃないかと思います。この手の人間は何も将来サイコパスになって猟奇犯罪を起こしそうだっていうわけじゃなく、感受性の弱さから何か問題を起こした際も焦ったりとか恐れとかを抱かず、淡々と隠蔽とか見過ごしとかをやらかしかねないという意味で私は注意します。

 このような目線に立てば、サイコパスとされる人間は基本的に一喜一憂しない傾向があるため、やはりトレーダーなど、状況が激しく変わる現場での意思判断を行うような仕事が向いているのかもしれません。

 なお「サイコパス」というアニメに常守朱というキャラクターが登場しますが、このキャラは作中でどんだけショッキングな場面に遭遇、具体的には目の前で親友が惨殺されたり、親戚が拉致虐殺されたりしても、犯罪行為につながるとされるストレス(犯罪係数)が全く上昇しないという特徴を持ったキャラとして描かれています。日常生活では年相応のキャリアウーマンらしく喜怒哀楽もはっきりと出すのですが、周りもドン引きするくらいストレスに強いというか鉄人のようなタフな精神構造をしており、上記の定義に則るならやはり彼女こそが作中最大のサイコパスと呼べるでしょう。

  おまけ
 上にも書いた通りにもうすっかり遊び慣れてしまったせいか、最近どんなホラーゲームをしていてもビビることがなくなり、ゲーム中にキャラクターが死んだりしても、大抵大げさな死に方するからその死にっぷりのおかしさに笑ってしまうことの方が多いです。
 ただここ数年間でゲーム中、鳥肌が立つくらい恐ろしさを感じたことが一つだけありました。それは「ゼロエスケープ」というゲーム中での、本日結婚&妊娠を発表した能登麻美子氏の声でした。能登氏について普段は大人しめのかわいらしい女性キャラばかり演じていて内心では演技の幅が狭い声優だと考えていましたが、このゲーム内の演技というか耳にするだけで鳥肌の立つ声を聴いてからは認識を改められました。

 その後、能登氏はアニメ「ジョジョの奇妙な冒険(第四部)」のある意味ヤンデレの始祖たる山岸由花子というキャラにキャスティングされましたが、放映前は「ミスキャスト」だとか「イメージと違う」という声がネットを見ていても多かったように見えましたが、いざ実際に放映されると上記の私のように「怖すぎる」、「想像を超えていた」などと絶賛する声に溢れる結果となりました。もっとも上記の体験を経ていた私からしたら驚きはなく、現時点でも「最も怖い声は能登の声」と考えています。

2018年9月13日木曜日

所得統計過大疑惑について

統計所得、過大に上昇 政府の手法変更が影響 専門家からは批判も(西日本新聞)

 昨日出ていた記事ですが西日本さんもやるなぁと思ういい報道でした。ただ翌日の報道では「所得統計、内閣府も課題に算出」と、「統計所得」に「所得統計」といまいち表記が一致しないのはどないなんとか思うところがあります。

 さてこの一連の記事についてですが、結論から言えばまぁその通りだろうなと私は考えています。以前のGDPの統計操作疑惑の記事でも触れていますが近年の日本の統計は信用できない不可解な結果が多く出ており、別種の統計と合わせてみても何故こうしたプラス成長がはじき出されるのか腑に落ちない点が多々あります。はっきり言えば、現時点で私は中国の統計の方が日本の統計よりも信頼度が高いとすら見ています。まぁ中国もいくらか操作しており、今度JBpressで出す記事でもはっきりと、「これは弄ってるよ」と指摘してますが。

 今回の西日本新聞の報道を見て少し気が付いたのですが、GDPをはじめとする日本の経済統計でやや奇妙な点として、季節変動が小さすぎる気がします。季節変動とは「ニッパチ」に代表される、消費が活発化して経済が回る月と、そうでない月との差異です。日本では二月と八月が不景気付きで、逆に景気がいいのは三~四月と十二月頃です。
 なお中国では年によって一週間にも及ぶ春節休みが一月に来たり二月に来たりするので、このように月を跨いだ年は前年同月比が極端なプラスかマイナスに振れてしまいます。なので一~二月の統計はあまり参考にはせず、年初は第1四半期が終わるまで統計で議論することはありません。逆を言えば中国の経済統計で一~二月を比較する奴は間違いなく能力の低い記者が書いた記事と思っていいです。

 話は戻りますが日本の報道を見ていてすごい不思議なのは、やたら前月比とか前期比ばかり取り上げて、前年同月(同期)比については言及、分析されていません。統計的価値で言えば前年同月(同期)比の方がずっと価値がある、というのも前月比の比較では先ほど言及したように月ごとによって季節要因があって統計条件としては平等ではなく、あまり参考にならないためです。
 その前月(期)比ですが、なんかこのところ日本のデータを見ているとずっとプラス一辺倒であることが多いです。季節要因を考慮するとむしろ、いくら景気が上昇トレンドにあると言っても前月比成長率のグラフとかは上下に変動するのが自然です。それが何故か日本の近年の統計ではあまり見られず、なんか右肩上昇のグラフしかこのところ見てない気がします。

 はっきり言えば、ここ数年の日本の経済統計データは明らかに歪であり統計操作されている可能性が非常に高いとみています。この場合、How(どれほど)ではなく、Why(なぜ)こと動機こそ追求すべき点で、一義的には政策が成功しているという政権や省庁の成果喧伝でしょう。たださらに掘り下げて二義まで考えるとややいぶかしむ点があり、Who(誰)こと官邸と省庁のどちらが主導しているのか、そしてもう片方は何故それを座視しているのか、ここを考える必要があるでしょう。
 どちらにしろ、恐らく10年くらいしたら「この時代に統計操作が行われていた」みたいに検証され、モリカケ問題と合わせて「安倍偽装内閣」という二つ名がつくのではないかと早くも見ています。そう思うくらい最近の経済統計は私の目から見てやりすぎで、責任から逃れるためにも再選を目指さない方が良かったのにとこのところひとしきり思います。

2018年9月11日火曜日

兄より優れた弟は……

努力家だった兄と適当だった俺の人生(アルファルファモザイク)

 上のまとめ記事は最近読んだものですが、読んでてなかなか感じるものが多かったです。私自身は姉一人いるだけの末っ子ですが、やはり兄弟で弟の方が兄よりいい大学や就職先に進むなどしたら兄としては気持ち的に応えるものがあると推察されます。実際にこのようなものを気にした友人がおり、中学時代は中二病が激しかったものの割と何にも積極的に取り組み成績も優れた子だったのに、高校辺りからややバランスを欠くようになっていったのを見ています。
 「兄より優れた弟はいねぇ」とは漫画「北斗の拳」に出てくる北斗四兄弟の三男、ジャギが残した名言ですが、これはむしろそうあってほしいという兄側の心の叫びのようにも思えます。

 一方、歴史上では皮肉な結果ながら、弟が兄を差し置いて家督を継ぐというかビッグになってしまった例が、決して多いわけではないもののいくつか見受けられます。最も代表的と言えるのは徳川家二代目将軍の徳川秀忠で、彼自身は三男ですが家督を継いだ当時、長男の信康は切腹させられ既にこの世にいませんが、次男の秀康は未だ存命でした。
 何故年長の秀康を差し置いて秀忠が家督を継いだのかというと、秀康は幼少から豊臣秀吉の元へ人質として置かれていたとか、政治的な器量を見込んで秀忠にしたなどいろいろ言われているものの、最大の要因は実母の家格の違いで、生まれた当初より秀康は後継者として目されていなかったとみられています。

 そんな背景からか秀康は豊臣家に人質に出されたかと思えば二度と徳川家を継げないよう、その後結城家に婿養子に出され、現在の通り名である「結城秀康」が定着しました。一応、その後は越前へと移り姓も「松平」に変わりましたが、こんな経緯もあるもんだから水戸徳川家ほどじゃないけど越前松平家も代々、徳川宗家とは距離を置く藩主が多いです。

 この秀忠&秀康とほぼ同時代、ちょっと面白い関係の兄弟がもう一組あります。それは関ヶ原でおなじみの石田三成と、その兄である石田正澄の兄弟です。二人ともそろって秀吉に仕官して着々と出世を果たしてきますが、出世速度で言えば圧倒的に弟の三成の方が早く、正澄も2.5万石取りで秀頼の奏者番になるなど大名に出世していますが、やはり弟と比べると一段低い立場です。
 そんな正澄ですが関ヶ原の決起の際は弟・三成に協力してともに決起し、陰に陽に弟を支援しています。恐らく兄として弟の優秀さを認めていた節があり、大谷吉継などと同様に三成を助けたい一心で行動したのではないかと思われ、「兄より優れた弟を助ける兄」であったのでしょう。最終的には関ヶ原の戦後、居城の佐和山城を攻め立てられ自害しています。

 と、ここまでで終わるつもりでしたが、「そういやアイツもいたか」と思い出したのが伊達秀宗です。この人は苗字からもわかる通りに伊達政宗の長男ですが、仙台藩の藩主にはなっていません。仙台藩藩主の座は政宗の後、次男の忠宗が継いでいます。
 この理由は何故かというと、概ね秀忠&秀康ブラザーズと共通しています。秀宗は長男ではある者の実母は側室で、また秀吉の元へ幼いころから人質に出されています。当初でこそ後継者として扱われていたようですが秀宗が11歳の頃、政宗の正室である愛姫がついに待望の男子こと忠宗を生んだことから一転、秀宗の立場が不安定となり、関ヶ原の合戦後も家康との目通りも忠宗が優先されるなど梯子を外されてしまいます。

 親父の政宗も一応は秀宗のことを気にしていたのか、大坂の陣の後に徳川家から拝領した宇和島10万石の地をそのまま秀宗に譲って、別家を立てることで秀宗の地位を作りました。そのため秀宗は仙台藩主とはならなかったものの伊予宇和島藩の藩祖にはなりました。
 ところが話はこれだけで終わらない。秀宗の宇和島へのお国入りの際、伊達藩からは政宗の重臣らが与力(陪臣)として付けられていたのですが、この与力のうち二人が派閥を作って対立し、とうとう片方がもう片方を襲撃して一族諸共ポアしてしまいます(和霊騒動)。この襲撃は秀宗の指示と見られており、襲撃を指示した側の家にはなんもお咎めも下らずに何気に明治に至るまで存続し続けました。

 秀宗はこの襲撃というか実質暗殺を政宗にも幕府にも報告しませんでしたが、事実を知った政宗は殺された与力と仲が良かったこともあり、また仙台藩への影響波及を恐れてか自ら幕府へ報告した上で、宇和島藩を取り潰すよう改易を願いました。こうした動きに「日本の施政家トップテン」に確実に入るであろう土井利勝は事を荒立てず、秀宗側の和解工作もあってか両者を必死にとりなして、政宗に改易願を取り下げさせてことを収めました。
 その後、政宗と秀宗の親子は対面したそうですが、その場で秀宗は、「俺ばっかずっと人質に出された上に、長男なのに家も継がせてもらえず、今までずっとすっごく辛かった(´;ω;`)ウッ…」と思いのたけをぶちまけたそうで、これには政宗も心動いたのは先に出していた勘当を解いて仲直りしたそうです。その後も腹を割った話ができたおかげか、頻繁に贈答し合うなどそれまで疎遠だった親子関係にも改善が見られたそうです。

 ただ秀宗は親父とは仲直りできても、弟で仙台藩を継いだ忠宗とは和解しきれなかったのか、江戸城の控室では石高が低いにもかかわらず何故か忠宗より上座の席に必ずつこうとしたというエピソードも残っています。おまけのつもりで調べたら意外と面白い人物で、このままでも十分JBpressの記事にも使えそうなくらいで言い調べ物が出来ました。

2018年9月10日月曜日

派遣切りの2018年問題

 このところごくわずかですが過去に手掛けた派遣マージン率に関する記事のアクセス上がっててなんでやろとか思ってたところ、今月が派遣期間3年経ったら正社員雇用にしなきゃいけないという法律が施行されてちょうど3年目となる月だったからということに気が付きました。
 そのため一部報道では正社員雇用義務が発生する前に派遣切りする業者が増えており、今月なんかまさに派遣切りラッシュだ見たいな風に報じています。現実は切る場合は既に切られているので今月にラッシュなんて起きんのかなとやや疑問ですが、人手不足と言われる世の中で派遣切りという言葉も流行することになんやねんとかいろいろ思うところあります。

 もっともあと2年もしたら恐らく、既に派遣社員が切られている状態なので正社員の大量カットに踏み切らざるを得ない時代が来ると思っています。大正製薬もなんか大型リストラ案を発表したとのことですがかえって今この時期にこうしたクビ切りに手を付ける辺りは先見の明があるんじゃないかという気すらします。
 なお大正製薬については稼ぎ頭の毛生え薬リアップの特許が切れてこれからジェネリック医薬品が作られるようになるマイナス要因が大きいという報道を以前見ました。ハゲ市場が大塚製薬を動かしてるんだなと思うとハゲの影響力のすさまじさを感じずにはいられません。

 話は戻って派遣についてですが、今年一月にも宣言した通りにもう来年以降はマージン率の調査とかはするつもりはありません。そもそもこの調査は派遣労働の当事者たちがやるべきだと思うし、また私がこうしてそこそこのデータを作ったにもかかわらず、やはり世論の反応というか利用者がそれほど増えなかった点など、派遣労働者の当事者たちが自分たちで動かないとこの手の問題は何も解決しないと感じたからです。
 しかもアクセス数も2015年が最多で、それ以降はどんどん下がっているのもモチベーションが下がる要因になっています。ついでに言うと、マージン率公開する企業が増えてきて調査の手間が増しているというのも億劫になった要因です。

 今後派遣はどうなるのかですが、先にも述べた通りに2020年以降は大不況が来て派遣も正社員も関係なくリストラが進むと思うので、ある意味そこで格差はやや埋まるんじゃないかと見ています。その後で財界や政界がどのような雇用習慣を作るのか、新卒一括採用の見直しなども含めて物事というか制度が変わってくるのではないかと思います。
 考えられるシナリオとしては完全なアメリカ型の無給のインターンから正社員採用に移るというパターン、給与を支払う一方で「業務研修費」という名目で一部天引きする徒弟制度パターン、トラック業界などでおなじみの個人事業主として扱う業務請負型などなど、こういったのが前より増えていくんじゃないかと思っています。結論を言えば、今の日本の雇用習慣は合理的とはいえず、古い雇用習慣を変に維持しているのでこの際一気に改革すべきだという立場をとり、派遣雇用についてもない方がいいではなく、存否を含めどれがベストなのかをもっと社会で議論すべきでしょう。

2018年9月8日土曜日

スルガ銀行の調査報告書に関する疑問

第三者委員会調査報告書(要約)
第三者委員会調査報告書(全文)(スルガ銀行)

 シェアハウスローン問題を引き起こしたスルガ銀行は昨日、この問題に関して弁護士らによる第三者委員会が手掛けた調査報告書を発表しました。同時に会長、社長を含む一部経営陣の退任と新任の人事異動も発表され文字通り体制を一新しましたが、わざわざそんな七面倒くさいことをしなくてもよかったのではという印象をぬぐえません。
 昨日の時点でどのメディアもこの件について報道を行っていますが、正直言ってどれもありきたりな内容、下手すれば人事異動と既報を繰り返すだけでほとんど中身のない報道ばかりでした。そして私が一番関心のあった内容については、下記の佐賀新聞しか報じていません。

スルガ銀、不正融資の総額や件数の推定困難(佐賀新聞)

 やはりこの問題で一番肝心なのは、「不正の規模が今どれくらい大きいのか?」であって、どのように不正が行われたかじゃないでしょう。その点で私が確認する限り、この佐賀新聞だけが不正融資総額と件数について何も公表がなかった点を指摘していますが、他のメディアは「パワハラがあった」とか「審査が杜撰だった」とかわかりきったことをくどくど長々としか述べていません。
 っていうかパワハラについては新聞社がどうこう言うことかよと、「てめぇ殺すぞ!」という言葉が日常の挨拶みたいに飛び交う職場を見ている自分からしたら奇異に感じます。

 また発表がなかったことはもとよりどのメディアも質問しなかったのか全く触れられていませんが、既に日経などが報じている創業家への不正融資や融資額の三分の一に当たる1兆円にリスクがあるということについては完全スルーです。スルガ銀行はどちらについても「うちが発表したわけじゃない」と否定も肯定もしておらず、折角報告書発表日を1週間も延期したというのにスルーするのはどうかと個人的に思います。はっきり言えば、今回これらについて全く触れなかったということは事実ではないのかという疑念が私の中で強まりました。

 それで肝心の調査報告書ですが、昨夜精読というわけではありませんが一通り眺めてみていくらか疑問が出てきたのでまとめます。まず今回の調査報告書は先ほども述べたとおりに弁護士らによって構成されていますが、メールデータの復元などの不正調査作業において四大監査法人のKPMG(日本ファームは「あずさ監査法人」)の子会社が入っています。これは後から重要になってくるので覚えておいてください。

・要約版の問題
 結論から言うと要約版はあまり内容が整理されておらず、しかも箇条書きで雑多に内容を列記しているので非常に読みづらいです。一方で各役員の不正に対する責任についてはこの要約版でも非常に細かく羅列して書かれており、何らかの意図を感じます。

・役員責任の枕詞
>個別の不正を具体的に知り又は知り得た証拠はない。
>一方で、本件問題発覚後の諸行動に関しては、善管注意義務違反(一部法令違反)が認められる。

 要約版の各役員の責任について、ほぼすべての役員に対して上記の枕詞がついています。要するに、「はっきり不正したかは証拠なくてわかんない。問題発覚後の対応や少し悪かったよ」ということがやけに強調されています。

・死んだ一人、現役一人の役員にだけ厳しい表現
 前者は今回辞任した会長の兄弟であり、2016年に逝去した故岡野副社長(原文ママ)で、彼が利益第一な企業風土を作り不正がはびこる舞台を整えたみたいに書かれています。後者は、その故岡野副社長に引きたてられたとされる元専務執行役員の麻生氏で、まるで彼一人がすべての問題の元凶みたいかのように厳しくその責任が追及されています。
 先に書いておくと、営業サイドの麻生氏がシェアハウスローン問題を引き起こし炎上させた最大の責任者であることはほぼ間違いないとは思われますが、他の役員らとの記述の温度差が激しく、なんかこの人に全責任を押し付けているのではと思う節があります。もちろん糾弾されて然るべき人物と思われますが、その他の疑問点と合わせて、この報告書は鵜呑みにしていいものかという懸念があります。

・何故役員だけが不正を知らなかったのか?
 全文版に載っているアンケート結果よると、自己資金資料の偽装について個人融資に係る行員の四分の一(26.7%)が認識しながら融資を行っていたとのことです。また融資審査に至っては担当部署のほぼ全員が規定を無視した融資が行われていると認識していたことでした。
 にもかかわらず何故か役員は上記の通り「証拠がないから不正を知らなかった」ということになっています。関係業務に携わる行員の大半が不正を認識していたというのに、何故か役員に関してはスケープゴートの麻生氏を除き、「発覚後の対応はまずかったけど、発覚前は知らなかったかもしれないね」という結論で納得できるかと言ったら、そんなわけないでしょう。

 また役員が出そろった会議中、「かぼちゃの馬車」でおなじみのスマートデイズは取引停止したにもかかわらず、別会社を経由して迂回融資している事実が報告されたことが事実認定されています。この件については「他の役員まで報告しなかった」とされていますが、「聞かなかったことにした」と見るべきでしょう。ここまできて不正を知らなかったという風にするのは無理があり、やはり「証拠はないにしてもその不正認識、隠蔽については非常に疑わしい」というくらいの表現が必要だったのではないかと思います。この報告書を見せる相手とその目的性の観点に立つならば。

 このほか融資審査を行う審査部に関しても、大半の行員が正規の手続き通りに審査が行われていない事実を把握していたと報告されています。繰り返しになりますが、これだけ多くの行員が不正を認識していて、何故役員だけが知らなかったかのように書いているのか。ついでに書くと、営業からの強い圧力があったとはいえ不正融資を黙認してきた審査部が、今後も融資審査を行うということに関する問題点については特に触れられていません。嘘でもいいから外部のコンプライアンス研修などを受けさせるくらい書いとけよな。

・実績考課、パワハラについて
 不正融資が蔓延した理由について異常なまでの実績主義や実績を出さない行員へのパワハラがあったせいと指摘してますが、内心こういう文言は必要ないかなと思います。というのも証券会社を筆頭にこの手のはどこにもあることだし、逆にこういうのないとこでも不正ってのは起こるからです。第一、そんなこと言ったら実績主義=不正の温床の構図になるわけですが、それはやはり暴論でしょう。過度な実績主義やパワハラはどこでもあり(特に地銀では)、これらが他と一線を画す今回のスルガ銀の事件を引き起こした原因かと言えばその貢献は些末なものでしょう。
 なおパワハラの実例として「天然パーマを怒られる」ってのが挙げられててちょい笑えました。あと「空のカフェ飲料のカップを投げつけられたことがある」については、中身ないだけまだいいじゃんと率直に思いました。あと「いすの背面をキックされた。」については、蹴り返すか、窓から放り投げ返せばいいのにと私は思います。こういう価値観こそ、新聞社ならでは。

・外部監査法人の責任
 恐らくこの点については他のメディアは書けず、誇張ではなく私にしか指摘できないでしょうが、スルガ銀行の2018年3月31日期監査報告書には以下の記述があります。

監査意見
 当監査法人は、上記の財務諸表が、我が国において一般に公正妥当と認められる企業会計の基準に準拠して、スルガ銀行株式会社の2018年3月31日現在の財政状態及び同日をもって終了する事業年度の経営成績をすべての重要な点において適正に表示しているものと認める。

強調事項
 追加情報「シェアハウス関連融資等」に記載されているとおり、会社は「第三者委員会」を設置しており、その調査は継続している。今後、その調査により、新たな事実が判明した場合には、会社の将来の業績に影響を与える可能性がある。
 当該事項は、当監査法人の意見に影響を及ぼすものではない。

一応シェアハウス問題について触れてはいますが、「この監査報告書で報告している財務内容は正しいよ」という監査意見が出されています。その後、貸倒引当金がガンガン積まれているというのに。
 自分はこのシェアハウス問題が発覚した当初に真っ先に監査法人を調べましたが、やはりというか東芝を筆頭にこれまで何度も不正会計を手掛けてきた新日本有限責任監査法人でした。そして上記の監査意見も言うまでもなく、新日本が出しています。

 今回の調査報告書では内部統制が完全に欠如していたことが不正融資を蔓延させ問題を拡大したとはっきり言明しています。それに対し監査報告書では、

強調事項
 内部統制報告書に記載のとおり、シェアハウス関連融資等に関連する全社的な内部統制並びに決算・財務報告プロセスに係る内部統制に開示すべき重要な不備が存在しているが、会社は開示すべき重要な不備に起因する必要な修正はすべて財務諸表及び連結財務諸表に反映している。これによる財務諸表監査に及ぼす影響はない。

 一応は内部統制上の懸念を指摘していますが、今回の報告書を見る限り、「適正意見」が出せるレベルなのかというと疑問で、やはり「限定付意見」として出すべきだったのではないかというのが私の見方です。
 同時に、なぜ昨年の発覚まで銀行業務統治の基本の基本たるべき融資審査の不備について監査法人が気付かなかったのか。監査法人というのは財務状況の数字が正しいかだけでなく内部統制についても毎期チェックするのが仕事ですが、なぜ気づかなかったのかというこの点について、やはり何か指摘する必要があるのではと思います。特にシェアハウス問題は去年の段階で発覚しており、その段階で過去の融資取引のコンプライアンス性を調べていたら、もっと早くわかることがあったのではという風にも見えます。

 そして最後の指摘となりますが、何故調査報告書ではこの監査法人による外部監査での見逃しについて全く触れられていないのかが気になります。外部監査を出し抜く隠蔽工作があったのか、それとも外部監査に問題があったのか、こうした杜撰な内部統制実態が何故外部監査で指摘を受けなかったのかについては全く書かれていません。ぶっちゃけ、怪しいくらい急拡大しているシェアハウス融資取引はたくさんあったというのに。
 何故外部の監査法人について触れないのか。はっきり言えば何かしら意図があると思え、他の諸々の指摘事項と合わせ、今回の調査報告書はそうした意図に立って書かれている気がします。そのような視点に立つと、まだまだ掘ればいろいろ出てくるような気がするというのが私の結論です。