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2019年8月6日火曜日

自動車にザクカラーを

 先日、また自動車のプラモを購入しました。残業しまくったせいでいつでも好きに休める身分(仕事さえなければ)であり、早く次の休みにでも作りたいのですが、このプラモキットを見て思うところがありました。

「赤いやん……」

 買ったキットの外箱に描かれている塗装色はオレンジなのですが、中身のボディパーツを見ると割とベタッとした赤色しており、なんとなくシャアっぽい色になってます。まぁ自分でプラモを塗装することもないし組み立てるのが目的なのであまり気になりませんが、ふとここで思ったのは、「シャアカラーはよくコラボあるけど、ザクカラーはないやん」ってことでした。

 シャアカラーと言ったら言うまでもなく赤ですが、過去に自動車ではトヨタのオーリスがバンダイナムコとコラボレーション企画を行い、「シャア専用オーリス」と銘打ったコンプリートカーを売り出したことがありました。っていうか中古車出回ってるんだな。
 ナビとかシールとか外付パーツとかもついていますが、コラボ当時私が思ったこととしては、「ただの赤いオーリスでも言い方次第だな」といったところで、割とボロい商売に見えました。一応メディアにも取り上げられてそこそこ盛り上がりましたが、オーリス自体が人気がなくその後ブランド名すら廃止され、現在は「カローラスポーツ」と名乗っていますが、正直あまり売れているようには見えません。割と自分はハッチバック好きだから気に入ってたけど、値段と性能見るとびっくりするくらい納得しました、売れない理由が。

 話は戻りますが、シャアとのコラボ企画は多いのになんでザクとのコラボ企画、というよりザクカラーの自動車は出ないのかがやや不満です。言うまでもなくザクはガンダム作品を代表するモビルスーツであり、あのベタッとした光沢のない緑色は一目見るやザクかガチャピンしか連想できず、もっとコラボがあっていい気がします。というより、まちなかでもかなり目立つから塗装ラインナップに入れても十分でしょう。
 それこそ定番カラーに入れるのが難しいのなら特別仕様車として、さっきのオーリス見たくコラボ企画みたいな形で「量産型仕様」といった感じで売り出せば、私みたく心動かす消費者が少なからずいると思います。

 宣伝文句もガンダムのセリフは応用しやすいものが多いです。私だったら大気圏突入時のセリフをもじって、

クラウン「少佐ー!買ってください!」
シャア「口座には一括購入できる現金はない。気の毒だが」
アムロ「ローン払いがあるじゃないか」

 こんな感じのセリフでCMをながすことでしょう。

 ただこのコラボ企画を行う場合、ザクカラーだけではややもったいないです。それこそガンダムとのコラボ企画でやるのなら他のも取り入れたいところで、さっきのオーリスみたくただの赤い塗装を「シャア専用カラー」と言うだけ言ってみるのもありでしょう。これでも物足りないならブルーの塗装を「ランバ・ラル専用」、ブラックの塗装を「黒い三連星カラー」などと称して、黒い三連星カラーは「三台買うとジェットストリームアタックが付いてくるぞ!」なんていうのもありでしょう。
 っていかもとからある塗装色でも、こういって言い換えるだけでもなんかプレミア感がつく気がします。

 このほか使えそうな色だと、シルバーを「ザクⅢカラー」といった挙げ句、通常のザクカラーと全く同じ色なのに「ザクⅢ改カラー」と無駄に分けるのも面白いかもしれません。それ以上にやばいのはホワイト色で、これを「シン・マツナガ専用カラー」などと言ったりしたら松永さん来たらもうこれ買うっきゃないでしょみたいな感じでプッシュできそうで怖いです。

 それにしてもこうして書き連ねてて思うけど、最近の新しいガンダムって無駄にカラフルなものが多く、トレードカラー的なものが少なくなってる気がします。やっぱ単一色って大事です。

2019年8月5日月曜日

皇道派と統制派の源流

排除された長州閥、昭和陸軍のえげつない派閥闘争(JBpress)

 というわけで全く受けなかった歴史連載の三本目ですが、自分としては割とこの記事は気に入っています。というのも、旧日本陸軍の歴史を揺るがす派閥抗争の主役である皇道派と統制派について、どうして成立したのかという過程がうまく書けている気がするからです。

 皇道派と統制派は、大学受験で日本史を先行した人間、並びに戦前軍事史に興味がある人間にとって忘れたくても忘れられない用語といっていいでしょう。陸軍内で生まれた両派閥の抗争は永田鉄山の斬殺(相沢事件)、そして二・二六事件の勃発にまで発展しており、特に後者は日本近現代最大のクーデター事件としてその歴史的価値も重いです。
 ただ、この皇道派と統制派がどうして生まれ、何をもって争っていたのか、一体どういう基準で派閥が生まれたのかという経緯については、大学受験時の私はいくら調べても全く理解できませんでした。皇道派がその名の通り尊王意識が強い集団なのかというと、統制派も決してその方面の意識が弱いわけではなく。皇道派は若手将校が多く統制派が中堅より上の軍幹部が多かったといいますが、皇道派も軍の要職にいた幹部は少なくありません。

 またかつて作家の佐藤優氏はこの両派閥の抗争について、単なるポストをめぐる世代間抗争だと評したことがありましたが、これもやはりしっくりこないと言うか、確かに皇道派が若手将校が多いものの、そんな軍内の世代抗争はどの時代、どの国にも普遍的なもので、何故戦前の日本においてこれほどまで抗争が先鋭化したのかという点で疑問でした。
 そもそも、両派はいつどうやって生まれたのか。各歴史本でも突然生まれた、もしくは始めから底にあったかのように説明しているものが多く、このほか統制派だった元軍人は「自分たちで統制派とは名乗ってなかった」、「皇道派の連中が勝手にそう呼んでいた」、「後世になってから呼ばれ始めた」などと証言しており、本当にこういう構想というか派閥が分かれいたのかという点でも疑問でした。

 最後に、両派閥の区別と言うか主張の違いは何だったのかという点において、日本の防衛構想でソ連を仮想的にして北に備える派(皇道派)と、中国を先に叩いておいてからソ連に備える派(統制派)という違いがあったという説明もありました。しかしその後の経過を見ると、皇道派に属すと思しき軍人が結構満州事変に関わってたりして、方針と行動に一致しないようにも感じました。ならなんでこいつら争ったのか、このへんでますますわからなくなりました。

 そうした疑問を長年に渡り抱えて来たのですが、最終的には意外なところからこの両派閥のルーツを知り、なんであそこまで憎悪し合ったのかが一気に合点が行きました。その経過を説明したのが、今回の記事です。

 実際に記事を読んでもらえばわかることですが、皇道派も統制派も、元々は反長州閥のために結託した同じ穴のムジナだったということです。最初のきっかけは「バーデン・バーデンの密約」に集まった岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎(のちに東条英機が合流)の面々が陸軍内の要職を占める長州閥を追放しようと連盟を組んだことに始まります。このメンバーが中心となって非長州系の荒木貞夫や真崎甚三郎を陸軍内で盛り立てつつ、賛同者を集めて徒党を組んで出来たのが一夕会でした。
 この一夕会は事実上、反長州閥連合といってもいい派閥で、かなり執拗な嫌がらせなどの運動もあって長州出身者の勢力を陸軍内から追い出し、一夕会メンバーで要職を占めることには成功しました。これで話はめでたしめでたしとなればよかった所、発足メンバーだった永田鉄山と小畑敏四郎が前述の防衛方針を巡って意見が対立するようになり、これにより一夕会が分裂したことで、皇道派と統制派が成立するに至ります。

 以上の通り、皇道派も統制派もそもそもは「反長州閥」という思想で共通していました。それが主導権を握るや、さらなる実権を狙って対立して分裂した、というのが私の理解です。ですので防衛方針の食い違いが対立の端緒とはなったものの、実際この方針の違い自体はそれほど大きな思想的対立理由ではなく、それ以上にむしろ「元同志間の権力闘争」という点のほうが互いの憎悪を高めたのではないかと見ています。
 説明するまでもないと思いますが、初めから敵だった相手よりも、元は仲間だったのに今は敵という相手の方が人間、激しく憎悪を持つものです。この皇道派と統制派の場合、なまじっか共同で実権を握った後だったから余計に始末が悪かったのでしょう。

 ここまでの流れを把握して、ようやく私の中で両派の抗争がストンと理解できました。流れとしては、

反長州閥で結託→長州閥追い出しに成功→実権握った、さてこれからなにしよう→微妙に内輪で意見が合わない→マジムカつくんですけど!

 こんな具合で、血で血を争う内部抗争へと発展したと見ています。もっとも二・二六事件に関しては、賄賂の横行や大不況という外的要因が、若手将校の多かった皇道派をより刺激することになったとも思え、統制派との対立だけが理由ではないでしょうが。

 なお統制派は永田が斬殺されてからは東条とその取り巻きが主導するようになるわけですが、どうもネットの声とか見てると、こうした継承を経ていることから永田と東条が混同されているフシが見られます。具体的に言えば東条は非常に賢かった、だから「カミソリ東条」と呼ばれたなどと書かれていることですが、「カミソリ東条」と呼ばれたことは間違いないものの、東条が賢かったというのは実際は違うでしょう。
 というのも、東条は陸大を卒業しているので十分エリートと呼べる存在ではあるものの、陸大受験では何度か落第していて挑戦可能なギリギリでようやく合格し、卒業時の席次も下から数えた方が早いです。

 一方、永田は陸大卒業時に次席(主席は梅津美治郎)で文句なしのエリートの中のエリートだっただけでなく、その頭の良さは陸軍内でもトップと誰も疑わなかったそうです。あるエピソードによると、試験前にも関わらず私見と全く関係のない中国語の本を読み耽っているのを見た同級生が、「やる気なくすから俺の前でだけはちゃんと試験勉強している振りしてくれ」と言われたという話が伝えられています。
 こうした永田の伝説が、一部東条のものと誤解されて伝わっている気がします。まぁ逆を言えば、海軍と違って陸大の成績順に出世が決まらないあたりは陸軍は現場重視だったということの証左ですが。

2019年8月3日土曜日

本能寺の変の家康黒幕説について

 今日ご飯食べながら大分昔に書いた「Zガンダム風、幸村と家康の対峙」を思い起こしていましたが、我ながら面白いもの書いた気がします。個人的には、

「脇から見ているだけで→脇から天下を狙っているだけで」
「ジ・O、動けジ・Oっ!何故動かぬ!?→旗本、戻れ旗本っ!何故戻らぬ!?」

 の改変が気に入っています。

 さてこの記事では徳川家康をZガンダムに出てくるパプテマス・シロッコになぞらえていますが、その点について考えていると、「なんかシロッコが上司のジャミトフを暗殺したように、信長も家康が実は暗殺してたりして」などという考えがよぎりました。

 信長の暗殺ときたら言うまでもなく本能寺の変ですが、一応実行犯は明智光秀であることに疑問を挟む余地がありません。ただ光秀が暗殺を実行した理由については未だはっきりせず、そのためか光秀に暗殺を指示した、またはそそのかした黒幕がいるとして、本能寺の変黒幕説は古今絶えません。
 具体的な黒幕候補としては、足利義昭や天皇家、漫画「へうげもの」以降からやけに耳にすることが増えた豊臣秀吉説などいっぱいありますが、どれも決め手にかけるというか根拠はなく講談の域を出ることはありません。中には、今回上げる「徳川家康黒幕説」も挙げる人もいますが、これはどちらかと言うと他の黒幕と一緒に並べ立てる一人物として、その根拠や推測理由すら出されないことのほうが多いです。

 では何故家康黒幕説は弱いのか。最大の理由は伊賀越にあるでしょう。
 本能寺の変当時、堺を見物中だった家康は現地で信長が暗殺されたことを知り、明智軍に狙われないよう急いで本拠三河へと帰国します。この際、主要道路はすでに封鎖され発見される恐れが高かったことから、艱難辛苦な伊賀の山道を越えてへろへろになりつつ無事脱出したことは神君家康伝説に盛り込まれています。

 このように、明智軍に狙われ、実際命からがら逃げ出した被害者であるということは、家康が黒幕であるという説を否定する大きな材料となります。ただ今回敢えてちょっとひねって考えたとした場合、「あいつがいるな」と思ったのは穴山信君です。
 信君は武田家を裏切って織田に付いた功績から、この本能寺の変の当時に家康ともども信長の歓待を受けて一緒に堺を見物中でした。各資料でも信長の死を知った際は家康一行と一緒だったと記されているのですが、家康とは別行動を取って逃げている最中、明智軍に追手を差し向けられ自ら自害したか、明智軍に殺害されたか、落ち武者狩りみたいに農民にやられたりしたかでとにもかくにも死んでしまい、家康のように本拠地への帰国はかないませんでした。

 何故この点に着目したのかと言うと、どうして家康と信君は一緒に行動を取らなかったのかというのが少し疑問に感じるからです。帰路はほぼ共通しており、どちらも一緒に明智軍に狙われる身です。さらには信長の死を知ったのも同時だったとされ、にもかかわらず両者は別行動を取った挙げ句、信君だけが死んでいます
 敢えて陰謀論っぽくいうなら、家康が信君になにか吹き込んだ、もしくは明智に信君の帰路を匿名を装って内通したのではないかと考えられなくもないです。こうすることで、明智軍の追手は信君の方に集中することとなり、家康一行としては追手の数を減らせて自らの安全をより高められることが出来ます。

 実際にと言うか、そうだったんじゃないかと伺わせる点もまったくないわけではありません。勘のいい人ならもう分かるでしょうが、信君を殺害した明智軍は信君を家康と勘違いしていたとか、家康を追っていたら信君だったというエピソードがいくつかの資料に残されています。信君を狙って信君を殺したならともかく、家康と誤ったのは何故なのか。それこそ古狸な誰かさんに、「家康はあっちの方に逃げましたぜ」なんて聞かされていたのかもしれません。

 またこの家康=被害者説のポイントを無視した場合、実質的に家康は本能寺の変によって大きな恩恵を受けています。いわゆる天正壬午の乱って奴ですが、信長の横死を受けて織田家が切り取ったばかりの信濃、甲斐、上野では織田家の家臣が地元の反抗などを受けて追われ、支配者不在のような形で突然大きな空白地が生まれました。この空白地をここぞとばかりに吸収したのが徳川家と北条家で、両家ともにごく短期間で支配地域を一挙に拡大させることに成功しました。
 仮に信長が本能寺で暗殺されなかった場合、家康の領土拡大戦略はこの時点で既に頭を抑えられていたに近いです。既に滝川一益を始めとした織田家家臣が北条家討伐に動いており、織田軍単独での制圧も不可能ではなく、下手したら家康の領土は三河と駿河止まりでそれ以上の拡大は望めなかった可能性があります。

 何がいいたいのかと言うと、領土拡大戦略的には信長を暗殺するメリットが家康にはあったということです。現実に信長の横死によって家康は短期間での大きな領土拡大に成功しています。
 仮に家康が光秀を唆したと考える場合、地味に京都や大阪近くにいたというのも工作面では好材料でしょう。直接的にしろ間接的にしろ、光秀や現地勢力と接触したり、自ら動いたりするチャンスは距離的には近くなるわけですし。

 無論、以上に挙げた主張は敢えて陰謀論に仕立てるならと考えて作った私の推測に過ぎず、私自身もそんなに家康黒幕説を信じているわけではありません。敢えてここまで書きませんでしたが、天正壬午の乱勃発直前、具体的には家康の三河帰国直後、家康は当初は明智討伐とばかりに西へと軍を動かしており、これは家康黒幕説を否定する有力な材料となるでしょう。
 もっとも、信長亡き後の政治的空白地における領土切り取り対象が当初は信濃方面ではなく、尾張を始めとする京方面というガッツリスタイルだったと考えることも出来ますが。

 でも仮にこの黒幕説を掲げてお話を作るとしたら、やっぱり家康ってシロッコなキャラがピタリと当てはまるように見えてきます。本多忠勝とかも、「落ちろ、カトンボ!」とか言ってたのかな。

2019年8月1日木曜日

何故この音が、聴こえてくるのか

 本題とは関係ありませんがセブンペイがサービス開始から7月の終わりとともに廃止発表されて、スマホゲーよりも早いじゃんとか思ってます。個人的には、「セブンペイ」という単語を見るたびに何故か昔MAXが歌っていた「Seventies」という曲の「( ゚д゚ )<セーブーンティーッス!」ってサビ部分の音を連想してたので一抹の寂しさを覚えます。

 話は本題に入りますが今を遡ること数ヶ月前、なんの気なしに上海市内のバーガーキングへ昼食へ訪れた私は、注文した品を受け取ると普段どおりに椅子に座ってタブレットPCを開きました。食事を取りつつ電子書籍を読むという優雅な休日を過ごそうとしていた矢先、それは聴こえてきました。

「゚(; ・`д・´)!!?」

 その音が耳に入ってくるや、その場が尋常ならざる状況であることを私は一瞬で悟りました。そして平静を装いつつ注意深く、その音の発信源をそっと探り始めました。息を殺して待っていると、その音は再び流れ、私の耳に入ってきました。気を払っていたこともあり、今度はその音がなっている方角が掴め、どうやら店内奥の厨房の方から聴こえてくることがわかりました。
 問題はこのあと、何が鳴らしているかです。私は最初、スマートフォンなど個人端末が鳴らした音ではないかと考え、誰がその持ち主であるのか探しましたが実際はさにあらず、あるスピーカーから流れていました。

 そうこうしている間にもその音は一定の間隔で鳴り続け、私の耳に聞こえてきます。そして何度目かを聞き終えた際、「間違いない。これは、あの音だ……」と認識しました。

JR東日本 ATOS接近音(Youtube)

 そう、上海のバーガーキングの奥から聞こえてきた音というのは、東日本にお住まいの方々にはお馴染みと言うかほぼ毎日聞くことになる、列車接近時に発車ホームで鳴るATOS接近音でした。敢えて文字表現するなら「クトゥトゥクトゥクトゥーン♪」って感じで私には聴こえます。嘘かと思うかもしれませんが、マジでこれと全く同じ音が上海のバーガーキングで聴こえてきます
 っていうか、あるかなーとか思って探してみたらマジでYoutubeで見つけられたことにも驚きを感じます(;・∀・)

 正直に言って、最初聴こえた時はなにかの空耳ではないかと思い、でもって二回目に聴こえた時は鉄道マニアの日本人の着メロかなんかかと思って、周囲に怪しい日本人はいないかと変に焦りながら探しました。しかし前述の通り、何度聞いてもこの音はキッチンの奥から聴こえてくるのでじーっと観察していた所、どうも厨房の方で注文を受けた料理をカウンターの方に送る際、もしくはカウンターに料理が到着した際に鳴らして、カウンター担当の店員に配膳を促すための通知音として使われているようでした。
 通知音の使い方としては理に適っていますが、一体何でよりによってこのSE(効果音)が使われているのかが不思議で、もはや電子書籍なんか読んでる場合じゃなくって飯食ってる最中もじっとその音を聞きながらいろいろ考えを巡らせていました。

 その後しばらくして、仕事の忙しさから夜遅くになることが多いのでバーガーキングだけでなくマクドナルドもよく使うのですが、マクドナルドでも全く同じJR東日本のATOS接近音が全く同じ用途で使われていることに最近気が付きました。ケンタッキーは家の近くにないので最近行きませんが、もしかしたらあっちでも個の音が使われてるのかもしれません。
 著作権とかどうなっているのかという点も気になりますが、それ以上に一体どういった経緯でこのSEが中国のファーストフード店で幅広く使われるようになったのかが気になって夜も眠れません。あと、この感覚は説明してもなかなかピンとこないと思いますが、中国のファーストフード店というありえない場所で変に聴き慣れた音が耳に入ってくると体が変に反応すると言うか、もうわかっていても結構驚きます。

 それにしてもこのATOS接近音、人でごった返すファーストフード店で聴いても一切不快感がなく、うるさいと感じない音であり、よく出来たSEだなと内心覚えます。多分中国の人も、「これいいじゃん!」と思ったから何の気なしに採用したのが実情かもしれません。

2019年7月31日水曜日

ニトリ・インチャイナ

ニトリが中国で苦戦する理由(日本経済新聞)

 残業から帰ってきたら友人がこの記事提示してきたので解説を含め紹介します。記事に書かれている内容は見てもらえばわかりやすいですが、ニトリが中国で苦戦しているということについて書かれてあり、友人は、「これってマジ卍?」という具合で自分に聞いてみたようです。私が読んだ印象としては、ある程度事実だと思うものの必ずしもこの通りではないという気がします。

 まず第一に伝えるべきこととしては、中国でニトリは家具屋か雑貨屋かで言えば、雑貨屋としての側面が強いように思えます。というのも休日暇な時(この一ヶ月はほぼずっと仕事で冷静に計算したら40連勤くらいしてたので行けなかったが)は自転車を走らせるのにいい距離ということもあってよく上海市内のニトリに通っていますが、家具コーナーと比べると雑貨コーナーのほうが明らかに人が多く、購入する客層もやはりこっちをメインに訪ねてきている気がします。
 でもって家具コーナーに居る人達を見ると、割とみんな思い思いに椅子やソフアに寝っ転がって、楽しげな感じしてあまりショッピングに来ているように見えない、っていうかどう見てもただ休んでいるようにしか見えません。おまけに定期的に観察していると、「在庫処分」という札の書かれた値札を見ることが多く、なんとなく商品の回転が悪いように見えます。

 一方、雑貨コーナーの方はというと割と盛況というか、寝具なんかだと実際に手にとってレジに持っていく人の姿をよく見ます。またオーダーメードカーテンのコーナーも人が多く、私も規格品のカーテンを買いましたが他の店のカーテンと比べても遮光性などが優れていて割といい感じで商品に競争力を感じます。
 上記記事では、同じく中国展開している「無印商品」と比べブランドイメージが固定されていないと指摘していますが、たしかにブランドイメージは主力が家具なのか雑貨なのかはっきりしないところはあるものの、この所上海の無印見ていると以前と比べて客が減ってきているように思え、こと雑貨に限ればニトリのほうが勢いを感じます。無印に関してはやはり値段が高すぎるように思え、それに比べるとニトリはまだ手頃感もあり、中国人消費者もそういったものを感じ取っているのかもしれません。

 あと記事で気になったのは、ニトリは中国進出に向け長く準備してきたと書いていますが、だからなんだと内心思います。というのも以前このブログでも書きましたが、商品の組立指示書などが日本語でしか書かれていない物が多く、本気で中国で商売する気あるのかよと見ていて疑問に感じます。雑貨に関しても同様で、パッケージが完全日本語だけというのも珍しくありません。
 また家具に関しては非常に致命的と思えるくらい日本人仕様です。これも前に書きましたが、やはり文化圏によって椅子やテーブルの高さは変わってきて、床文化の日本と違って椅子文化の中国だと椅子やテーブルの高さが日本よりやや高くなります。にもかかわらず日本の仕様としか思えない椅子やテーブルが堂々と並んでたりして、市場調査以前の問題じゃないかと見ていて思えます。

 もし仮に私がニトリにアドバイスするなら、家具に関してはもっと真剣にやれと言って、雑貨に関しては記事に書かれている通りややブランドイメージがはっきりしないところがあるので、主力商品をもっと強く打ち出してイメージを植え付けろと言いたいです。目下のところ主力となっているのはやはり寝具で、実際に店舗でもNクールなどを前面に打ち出しているのでニトリもその点はしっかりわかっているようには見えます。
 ちなみに今年、ダニ対策としてベッドでは寝ず、床で寝られるようにニトリでフロア畳買うことを検討していましたが、同僚のアドバイスでベッドにシーツは敷かず、マットレスの上に敷くクッションの上で直接寝て、そのクッションを定期的に洗濯機で丸洗いするという荒業でダニの被害を極端に減らすことに成功しました。そのせいでフロア畳の購入は流れ、代わりにアピタでゴザ買ってきて床に敷いて、たまにこの上でゴロゴロしています。

 でもって自覚しましたが、やはり日本人は床の上で生活すべきです。パソコンデスクも座卓仕様にしようかとまた検討しています。

2019年7月30日火曜日

不発

 本題と関係ありませんがダルビッシュが某テレビ番組の一コーナーが終わるよう神龍(シェンロン)に頼みたいと発言しましたが、もし間違って青龍(アサショウリュウ)が来ちゃったらどうなるのかと想像して一人で笑ってました。まぁ朝青龍に頼んだら案外願い叶えてくれると言うか番組ボロボロにしてくれるんじゃないかという気がしますが。

陸軍を身内で固めた親玉、長州閥は「山縣」閥だった(JBpress)

 それで本題ですが、昨日に出した先週に続く歴史記事二本目ですが、あまりアクセスはよくないようです。長州閥というテーマ自体は悪くなかったと思うのですが、やはり間口の狭さは否めず、いまいち貢献できなかったのは残念です。
 気に入っているポイントとしては、前にこのブログでも書いたように伊藤博文は大久保利通を、山縣有朋は西郷隆盛をそれぞれ師事していたことをはっきり書いたという点です。長州閥のツートップの二人の源流は、実は薩摩閥の大物にあるとはっきり指摘したのは他にはあまりないと思います。

 あと長州閥をテーマにしていますが、横糸としては実は陸軍の系譜をこの連載では追っています。日本陸軍というか国民皆兵の概念を最初に構想したのは大村益次郎とされ、彼の死の後で山縣を始めとする奇兵隊出身者はその構想の実現を図ろうとしたものの士族の抵抗から果たせず、最終的に西郷に出馬してもらって徴兵令を実現したという経緯となっています。
 そしてその徴兵した兵士を大規模な実践に初投入し、完成させたのがあの西南戦争と言われ、皮肉なことですが徴兵制の完成にも西郷は関わっていると言えます。

 こうして完成した国民皆兵制を引っさげその後も活動したのが山県有朋とその取り巻きである長州閥となるのですが、皮肉にもその長州閥が滅ぶこととなったのも陸軍の動きからでした。というわけでこの続きは来週月曜の三回目を読んでください。

2019年7月28日日曜日

変化そのものを敵視する日本人

 先日、知人の中国人と日韓関係の悪化について話題が及んだ際、「根本的に韓国人はプライドが高いから格下に見られることが我慢できないのだろう」と私が話し、そのまま続けて、「一方、日本人は平穏を至上とするため、変革を起こそうとしたりする相手に対して強烈な敵意を抱くことが多い」となんの気もなく述べた所、案外いいところを突いているような気がしました。

 以前このブログで、日本と米国の創作ヒーローの大きな違いとして、米国のヒーローは理想の実現を目指して行動するのに対し日本のヒーローは特に理想は持たず、平和な日常を守ることを第一に行動する。そのため、日本のヒーローが相対するのは基本、日常を乱そうとする連中となり、見方によっては敵側の方が理想というか次の新たなビジョンを持っていることが多いということを書いたことがあります。上記のような背景から、日本のヒーローと同じように基本巻き込まれ型の主人公であるスパイダーマンは日本でも人気を得やすいのかと考えています。

 話は戻りますが、やはり先程の私の見方といい日本のヒーロー像といい、日本人は根本的に平穏を守ることを第一の目的として持っていると思う節があり、今現在よりもいいライフスタイルが得られるかもしれないけど、それが何がしかの変化を伴うものであれば拒絶するようなところもあるのかもしれません。いわば変革そのもの自体を嫌っており、変革しなければ死ぬことがわかっているのしても、場合によってはそれでも変革を拒否する可能性すらあります。
 また企業活動などを見ていても、どうしても変革に迫られる場合は、その変化の速度をなるべく落とそうと、段階的にだったりスピードダウンさせようとする動きもあるように見えます。少なくとも、「やること決まってるんだしテンポアップしよう!」というセリフは、普段日本人から聞くことは私はありません。旅行の日程でも、9月に行くか10月に行くか二つの選択肢を用意したら私と違って十中八九10月を選ぶと思います。
 なお何故私は9月を選ぶのかと言うと、なにかトラブルがあって行けなくなった場合、9月だったら10月に変更可能なのに対して当初10月を選択すると逆はないからです。

 では、そもそも何故日本人は変化を嫌うのか。一つは変化そのものへの対応が鈍く、できることなら今現在の状態を維持したいという意思が強いことと、もう一つとしては変化しないことが正しいという概念があるように見えます。いわば、いい大学(高校)を出て、大企業に就職し、終身雇用で働き、マイホームを買ってという、完了がよく作る人生すごろくのようなレールに乗った人生こそが至上の人生で、一つでもレールを外れたら全否定するように、定まった生き方を幸福モデルとして持っていることも大きい気がします。
 何も日本人でなくても、変化の激しい人生は誰もが嫌がるでしょう。ただ日本の場合は先程の人生すごろくモデルを、実際には現在もはや達成困難だし完全に崩れたモデルであるにも関わらず、未だ捨てきれずに幸福モデルとして持ち続けて自縄自縛に陥っているようにすら見えます。まぁある意味それが理想だというのなら、理想を必死で追いかけているというふうにも見えなくもありませんが。