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2011年9月11日日曜日

今日目についた記事

 あまり名指しで批判しても敵を作るだけだし他人は他人で放っておくというのが基本的な私のスタンスなのですが、ちょっと今日に限ってはあまりにも目につく記事を二本連続で見かけたので、差し出がましいようですが批判をさせてもらおうかと思います。

任天堂ピンチ!「3DS」値下げ効果、早くも失速のワケ(SankeiBiz)

 まず気になったのは上記リンク先の記事ですが、記事内容自体は特に悪いというわけじゃないですが1ページ目にある売上比較について、これはほかの記事でもそうでしたが「何故その数字を取り出す?」と思わずにはいられません。具体的なその個所を抜粋すると、

「ゲーム雑誌出版のエンターブレイン(東京都千代田区)によると、3DSが値下げされた直後の8月第2週(8~14日)の国内販売台数は約21万5千台に達した。2月26日の発売初週(約37万1千台)に次ぐ水準で、値下げ前の買い控えがあった8月第1週(1~7日)に比べ約58倍と大幅に増加した。値下げのインパクトが販売台数を大きく押し上げた形だ。」

 上記の文中でどこが気になるのかというと、この記事ではNintendo 3DSが2万5千円から1万5千円へ値下げした直後の週の販売台数を21万5千台と報じて、それがどれくらいの売り上げだったのかを比較する上で二つの数字を引用しております。まず一つ目の数字は3DSが発売した直後の第一周における発売台数の37万1千台ですが、ゲーム機に限らずとも発売直後の初期出荷台数というのはそのまま最大の販売台数になりやすいです。現実に3DSもこの37万1千台という数字が現時点における最高週間販売台数のようですが、値下げ直後の21万5千台はこれに「次ぐ水準」だとして、大きく売り上げを伸ばしたという感じで書かれてます。
 ただ私の目からすると、どう見たって「37万1千台」と「21万5千台」には数字に大きな開きがあるようにしか思えず、いくら初期出荷台数に次ぐ水準だからといっても、一万円もの大幅な値下げによるテコ入れをしたにも関わらずこれしか販売台数が伸びなかったのかという印象をむしろ覚えます。

 この初期出荷台数とともに「値下げのインパクトが販売台数を大きく押し上げた形」という根拠として、この記事では値下げ前の8月第一週に比べ値下げ後は「約58倍」も販売台数が増えたと書かれてあります。これなんか「値下げ前の買い控えがあった」と書いてあるのでもしかしたら上に言われて無理無理入れた根拠なのかもしれませんが、確か今回の3DSの値下げは発表から値下げまでタイムラグがあり、8月第一週の時点ではすでに次週に値下げすることが発表されていたはずです。言うなれば来週値下げされることがわかっててわざわざ高い値段の今週のうちに買う消費者などほとんどいるわけがなく、売り上げがどれだけ伸びたかとする比較対象とするのには如何な数字かと私は思います。それであれば値下げ発表前の週の販売台数を持ってくるのが適当なんじゃないでしょうか。
 任天堂に脅されているのかどうかまではわかりませんが、何故かどこの記事も同じ数字の引用の仕方をしているのを度々見ました。まぁ脅されるにしてもされないにしても、こんな数字の引用の仕方をするのは素人目にも問題があると思う書き方です。

なぜ若者はテレビ離れしているのか、制作会社から見たテレビの現在(Business Media 誠)

 3DSの記事とともに気になったのは上記の記事です。結論を最初に述べるとよくこれで上もOKを出したなと呆れました。
 内容は視聴率低迷に喘ぐ日本のテレビ業界について番組製作会社の人間はどう思っているのかをインタビューし、それをまとめた記事内容なのですが、まず最初に文章が滅茶苦茶長い割にはこれという内容がほとんどありません。しかも普通の記事なら冒頭、もしくは末尾にインタビュー対象者の経歴やプロフィールを書くべきなのに、何故かインタビューの話を解説している最中に急に入れてきてます。恐らく製作会社の雇用状況の話題と合わせて書こうとしたんでしょうが、読んでみればわかるでしょうが完全に流れがぶった切りになってます。もっとも流れがぶった切りといえば全編に渡ってインタビュー対象者の話をちょこっと引用され、それに記事執筆者がどうも本人の視点なのかあれこれ長い文章を付け加えられているのでどうもインタビュー対象者の真意がいまいちわからない、というより読み辛いことこの上ありません。しかもインタビュー対象の話も全然整理して書いているようには思えず、私だったら括弧で直接引用するよりかは前後の文章と合わせて内容だけまとめて書くのですが。

 最後に執筆者、インタビュー対象者二人への批判として個人的な見解を書きますが、インタビュー対象者は日本のテレビ市場は衰退・縮小しているとしてグローバル市場を意識して作品を制作、販売して行かなければならないとこの記事の中では言っているようなのですが、これ見て私はどうして執筆者はそのまま書いちゃってるんだろうなと感じました。というのもこれは何もテレビ業界に限るわけじゃありませんが、そもそもの話として日本で売れない作品がどうして海外では売れるのか、日本で番組が見られなくなっているという話をしている最中にどうしてこんな話題になるのかちょっと信じられません。しかもインタビュー対象者はそうしたグローバル市場の方向性として「海外の俳優を起用して、英語や中国語、スペイン語などで制作する」と言ってますが、本気でそれで売れると思うのと私は問いたいです。せめてそういうセリフはもっと日本で評価される番組を作ってからでも遅くない気がします。執筆者も執筆者で、そういう突っ込みが何故記事中にないのか不思議です。

 ちなみに海外でも売れる番組の例として今挙げるとしたら、一昨年と今年に放映されたTBSドラマの「JIN-仁-」をこのところよく引用してます。この番組は日本国内でもドラマとしては久々の大ヒットでもはやドラマでは(高予算なのに)視聴率は取れないと言われた風潮を一気に打破しただけでなく、海外でも好評だったことから今年放映された第二期は放映前の時点で海外80カ国での放映が決まったというとんでもない快挙を成し遂げています。
 日本では売れないけど海外では売れるというのは一種の幻想だと思います。まぁこれも例を出しちゃうと、トヨタの「カムリ」ってのが稀有な例としてありますが、日本国内で売れないのは多分名前が悪いせいだと思う。

2011年9月10日土曜日

猛兵列伝~藤田信雄

 恐らくこのブログのメインコンテンツの一つである、ちょっとマイナー感のある指揮官を取り上げる「猛将列伝」ですが、このところどうもネタ切れ感が否めません。もちろん有名どころを取り上げればまだまだいくらでも続けられるしマイナーな小話を加えて面白く書く自信もありますが、何となくそこまでして続ける気にはなりません。
 そこで今日は方針転換というか、指揮官ではなく末端のある一兵士を取り上げようと思います。

藤田信雄(Wikipedia)

 この藤田信雄氏は旧日本海軍のパイロットだった方です。この方がどのような人物かというと、歴史上唯一、アメリカ本土への空襲を成功させた人物です。

 事の起こりを話すにあたってまず当時の状況を説明します。日米は1941年の真珠湾攻撃をきっかけに戦争に突入しました。その翌年1942年4月21日、すでに海軍パイロットとして高い実績を作っていた藤田氏は海軍軍令部に呼ばれ、アメリカ本土へ空襲を実行するよう命令を受けます。

 はっきりと因果関係は書いてはいないものの、恐らくこの命令の背景にはこのわずか3日前にあった「ドーリットル空襲」が影響しているように私は思います。ドーリットル空襲について説明すると、当時の日本は太平洋で連戦連勝を重ねていてアメリカ側もさすがにこの時は気分的に沈んだ状態だったようです。そこでアメリカ国内の戦争士気を高めるために印象の強い作戦を実行しようという話となり、太平洋上から爆撃機を飛ばして日本本土を直接空襲するという案が採用されました。
 空襲すると言っても当時制海権は日本側が圧倒的に握っており、一度飛ばした飛行機を回収するまで空母が洋上で待つのはほぼ不可能であったため、最終的には飛び立った爆撃機はそのまま日本を通過し、連合側であった中華民国にて着陸、帰投するという大胆な作戦となりましたが、結果的には前触れもない本土への直接攻撃に当時の日本軍部は大いにうろたえたそうです。

 このドーリットル空襲から3日後、恐らくそれならばと日本からもアメリカ本土を直接攻撃してやろうと軍部は考え、その実行手として藤田氏が選ばれたそうです。ただ空襲するにしても日本本土からアメリカまで言うまでもなくとんでもない距離があり、その間にはアメリカ側も潜水艦などで防衛しているわけですから並大抵のことじゃありません。それ故に藤田氏も生き残る自信がなく、出発前日には遺書を書いたそうです。
 作戦は伊25という潜水艦にEY14という飛行機を折りたたんで収納し、アメリカ本土まで近づいて焼夷弾を落とすというかなり無茶な内容でしたが、8月15日の出発から約一ヶ月後の9月9日、藤田氏らはアメリカの艦船に見つかることなく見事アメリカ本土へ近づくことに成功した上、カリフォルニア州とオレゴン州の境目に森林火災を起こすため焼夷弾を落とすことにも成功しました。その3週間後の9月29日にも藤田氏は出撃し、またも焼夷弾落下に成功して無事潜水艦に帰投、さらには日本への帰路も潜水艦は撃沈されることなく見事に帰還を果たすことができました。

 これだけ難度の高い作戦を実行した藤田氏でしたが、帰ってくるなり軍部からは、「戦果は木を一本折っただけではないか!」と激しく叱責されました。というのも爆撃直前に雨が降っていたことと、空襲が現地のアメリカ人に見つけられていたために、空襲には成功したもののすぐに火は消火されていたようです。とはいえ生きて帰ってこれた藤田氏はその後教官として軍に在籍しつづけ、そのまま終戦を迎えました。

 これで話が終われば戦時中の本当に些細な一エピソードで終わるのですが、1962年のある日、工場勤めをして生活していた藤田氏は突然政府から呼び出しを受けます。呼び出された都内の料亭にはなんと時の首相の池田隼人と官房長官の大平正芳がおり、藤田氏のことをアメリカが捜しているためそのままアメリカへ行くように、またこの件について日本政府は一切関知しないと告げられました。この池田元首相の言葉はいうなれば、アメリカ現地で戦犯として裁かれても日本は一切救いの手を差し伸べないと言っているも同然です。
 この突然の事態に藤田氏も観念し、いざとなった際に自決するために先祖代々受け継がれてきた日本刀を忍ばせアメリカへ向かいました。そして戦々恐々とアメリカの空港へ降り立った藤田氏を待っていたのは、たくさんの歓声と笑顔あふれるアメリカ人達でした。

 というのもアメリカが何故藤田氏を探していたのかというと、藤田氏が空襲したブルッキングズ市のフェスティバルにゲストとして呼びたかったためでした。もちろん現地では大歓迎で、藤田氏も藤田氏で自決用に持ってきた日本刀をそのままブルッキングズ市へ寄贈してしまうほどだったようです。
 しかもあまりの歓迎ぶりに感激した藤田氏はその後、自費でブルッキングズ市の3人の女子学生を日本に招き、またブルッキングズ市へもその後何度も足を運んで自らが空襲した場所に植林をするなど交流を続けました。1995年には84歳という高齢ながらも、当時の市長らをセスナ機に載せて自分が空襲した航路をなぞるという荒技まで披露しております。

 その後1997年に藤田氏は永眠されますが、死の直前にはブルッキングズ市の名誉市民の認定を受けました。藤田氏がここまで現地に受け入れられた背景には空襲をしたものの死傷者が誰一人いなかったというのが何よりも大きいでしょうが、それにしたってアメリカ人の戦後はノーサイドともいうべきこのフレンドリーさには頭が下がります。また好意的な解釈をするならば、戦時中に行きも帰りも非常に困難な航路だったにもかかわらず幸運にも日本への帰国を果たせたのは、戦後に交流を長くに続けた藤田氏という人物を生かせようとした天の配慮によるものだったのかもしれません。

 それにしても「日本政府は一切関知しない」と言った池田元首相ですが、恐らくアメリカが捜している背景を本当に知らなかったんだと思うけど、結果的には国家ぐるみで藤田氏をサプライズパーティにかけただけじゃないかと思わずにはいられません。ここまで脅かすことなかったのに……。

2011年9月7日水曜日

天下統一後にしなきゃいけないこと

 古代史ネタはほぼもう書き終えたので、またいつも通りというか変な歴史ネタです。
 さて天下統一と言えば立派な大事業ですが、主導権を握ったもののその後は権威を保てず勢力を失うというケースは古今東西地域を問わずに数多くあります。ちなみに私の曾祖母の実家は鹿児島県菱刈というところですが、なんでもここは平家の落人の里ということで自分は平家出身だったようです。

 その平家を筆頭に基本的に、建武政権、豊臣政権は一時天下を握ったもののすぐに没落し、所変わって中国に至ると三国志の魏を筆頭として本当に出来た途端にすぐ潰れる政権がたくさんあります。これら政権の特徴、というより逆に長く維持した政権との違いはどこにあるのかと問われるならば、私が答えるとしたら自軍における武装勢力の駆逐ではないかと考えております。

 自軍における武装勢力の駆逐ですが、これを日本史上最もえげつなく実行したのはほかでもない明治政府です。知ってる人には有名な話ですが明治維新後に真っ先に反乱を起こしたのは旧幕府勢力ではなく実は長州藩の奇兵隊出身者らで、明治政府は維新に成功するやその武力闘争における原動力となった武士勢力を敵味方問わず猛烈に切り崩しを図っております。廃刀令に始まり版籍奉還、終いには廃藩置県とその手のひら返しは徹底していましたが、その甲斐あってか明治十一年の西南戦争を最後に革命後の武装反乱は完全に終結させることに成功しています。
 また明治維新以外にも徳川幕府における統治でも、関ヶ原の合戦以降は本田忠勝を筆頭として譜代における武闘派の面々を閑職に追いやり、大坂の陣以降は外様大名を徹底して締め付けて武士の兵士からサラリーマン化を推し進めていきました。もっとも江戸時代初期はやりすぎちゃって、浪人が大量にあぶれて治安が悪化した面もありましたが。

 上記のように政権を握った後に自らの武装勢力を削った政権というのは比較的長生きする傾向があるのですが、その逆のパターンとして日本においては室町幕府が好例です。室町幕府は三代目の足利義満の時代にようやく天下統一を成し遂げ、彼の時代においては直属の近衛兵が組織されたり山名氏をはじめとした各地の元味方だった大名を次々と討伐したのですが、義満の死後はまた大名同士の合議制に戻っていきます。その結果起きたのは将軍家を凌ぐほど大名家の力が増し、最終的には応仁の乱という形で暴発したことで完全に権威をなくすこととなりました。室町幕府は見かけ上はそこそこ長く続いてはいますが、幕府として機能したのは実質、三代目義満から六代目義教の時代まででしょう。

 では中国の場合はどうかですが、ある意味最も武装勢力の切り崩しに成功したのは前漢の創始者である劉邦で、彼は天下を取るや項羽率いる楚との戦争で最も活躍したトップ3こと、韓信、英布、彭越の三人を討伐、もしくは暗殺しています。その代り皇室縁者こと呂皇后の一族がやけに権力握っちゃって劉邦の死後は一時ドタバタしたものの、幸いにも陳平らが生き残っていたことでこの難局を乗り切り400年にも及ぶ政権となりました。
 この前漢同様に十世紀に成立した宋では、建国者である趙匡胤は元々軍人だったにもかかわらず、自分が皇帝になって以降はこちらも敵味方問わず軍閥の勢力をどんどんと削ぎながら文人官僚をどんどん登用していきました。まぁこちらもオチを言っちゃうと、そこそこ政権としては長く続いたもののあまりにも軍人が弱くなって異民族勢力にやられることとなるわけですが。

 このように天下を取るためには必要だった武力というのは統一後にはかえって不安定化させる要因となりやすく、成功した政権というのはどこかしらでこれら勢力の漸減を図っています。話は現代に戻しても戦時ならまだしも平和時には軍隊は金がかかるだけで、冷戦後はどこの国でも多大な軍事費を削るために軍隊規模を縮小していますし、毎年二桁%で軍事費が伸びている中国においても恐らく共産党幹部らは本音では縮小したいように見えます。そういう意味ではマッカーサーが残した、「老兵は死なず、ただ去るのみ」というのは、本来の意味とは違いますがなかなか的を得ているなという気がします。

2011年9月6日火曜日

いじめに関する統計データ

 ふと思うところがあったので、昨日は記事書くのをやめて下記サイトでいじめの統計データを眺めていました。

政府統計の総合窓口

 調べる前までこういうデータというものは本当にあるのかと内心疑っていましたが、意外とかゆいところに手が届くような感じで項目数も多く、比較的扱いやすいデータでした。ただ懸念がまったっくないというわけじゃなく、これは以前に統計関係の記事を書いた際にコメントしてくれた方がいましたがいじめの件数というものは得てして学校側が過少に報告するきらいがあり、鵜呑みにできないところがあります。その点を踏まえ、データを見ていくつか感じた点を教派紹介します。

1、都道府県別のいじめ発生率
 これはもう上位、下位のトップ10を直接書いてしまいますが、前述の通りにあまり当てにならないデータです。なおこの順位は直接の件数ではなく、児童生徒数に対する発生件数の割合です。

<いじめ発生率の高い県>
 1位 熊本
 2位 大分
 3位 岐阜
 4位 福井
 5位 石川
 6位 愛知
 7位 長崎
 8位 静岡
 9位 千葉
10位 富山

<いじめ発生率の低い県>
47位 和歌山
46位 佐賀
45位 福岡
45位 福島
43位 鳥取
41位 群馬
41位 宮崎
40位 滋賀
38位 三重
38位 沖縄

 ざっとこんなもんですが、むしろいじめ発生率の高い県はきちんといじめ件数をカウントしているだけあって良心的な地域なのではないかと思います。その根拠として直接的ではないものの、いじめと相関しやすいであろう「小中学校の不登校発生率」と比較すると、最もいじめ発生率が高い熊本県は41位と非常に低く、逆に神奈川県はいじめ発生率が24位であるものの不登校発生率は1位でした。カウントのしやすさから言うと圧倒的に不登校率の方なので、むしろこっちの方で地域差を測るのが適当かもしれません。

2、いじめが発生しやすい年齢
 これは認知件数とかはあまり影響しないのでデータをそのまま信じていいのですが、結論から言うといじめの発生件数が最も高くなる年代は中学一年次でした。細かい数字は書きませんが小学校一年時から発生件数は年齢の上昇に比例して上がり小学六年次で約8600件となるのですが、中学一年次はなんとその約二倍の約17000件となります。ただそれ以降は減少していき中学二年次で約13000件、中学三年次で約6200件と、恐らく受験勉強などが影響してか急速に収束します。
 このデータをどう読み解くかですが、単純に中学校で最もいじめが発生しやすく、この年代に対して重点的な対策を取ることが最も求められているのではないかと思います。

3、いじめの男女差
 これは特段取り上げる必要もないのですが各年代ごとの比較を見るとどの年代でも男子の方が女子より頭一個分発生件数が多く、男子の方がいじめを起こしやすいようです。現実問題としては男子のいじめには暴力が伴いやすいことから、女子に対してもそうですがこちらでも対策を注力する必要があるでしょう。

4、いじめの様態
 これもデータの捻じ曲がりが発生しやすい内容なのであまり使えないかなとも思ったのですがちょっとだけ面白いと思ったもので、学校運営別の比較では発生件数から何から何まで基本的に公立校が私立、国立を圧倒的な差で上回っているのですが、いじめの様態で「パソコンや携帯電話等で、誹謗中傷や嫌なことをされる。」に限り、公立中学校が7.3%であるのに対し、私立が15.1%、国立が17.9%と割合で上回っております。変に頭が回るってことかな。

 なんか今日はそれほどやる気がないのでこの辺で終えてしまいますが、もう少しこれらの統計データを利用してもっといじめ対策を煮詰めるべきだと強く思います。具体的にはからかいや嘲笑といった軽度のいじめと、暴力やカツアゲを伴う重度のいじめをはっきり分け、それぞれが発生した際にどのような対策や指導が効果的なのかをもっと比較し、共通認識を作るべきです。今回調べた限りですと中学三年次に急激に発生件数が減っていることから暇な時間を持て余すほどいじめが多くなるのではないかと思え、変な話ですがいじめる生徒にはそういう時間が持てないように課題なり部活なりボランティア活動なりを強制して行わせてみてはという案が浮かびました。

2011年9月4日日曜日

日本人の習性

 最近なんだかリストっぽい記事が続いていますが、昨日に引き続き今日は国際的に見て日本人の習性と思う部分をいくつか挙げようと思います。それにしても先程面倒だから持ち帰った内容の記事を書き上げましたが、毎日記事書いておきながらこんだけブログ更新する人ってほかにいるのかという気がたまにします。確かに商社勤務(去年まで)だった頃は頃で文章を書きたい執筆意欲というのが今より強かった気もするけど。

1、清潔好き
 日本国内にいる日本人はあまり気にしませんが、日本人というのは国際的に見て明らかに異常なほどきれい好きです。浪費のたとえとして「湯水の如く」という言葉がありますが、それだけ身を洗う水が豊富だったことが影響しているかもしれません。
 それでどの程度日本人が綺麗好きかですが、七月に日本に帰った際に私が最初に思ったのは、「うわ、全く匂いがしない」ってことでした。中国に限らず以前に行ったことのあるイギリスでも外国ではどこでも食べ物やらほこりなどいろいろな匂いがするのですが、日本に至ってはどこに行こうが完全に無味無臭。しかも確か十年くらい前には口臭スプレーについて口臭までいちいち気にしなければいけないのかという論評を見た覚えがありますが、今に至っては口臭なんて完全NGでないのが一般マナーになっているような気がします。

2、首振り
 これは中国人の友人に指摘してもらって私も初めて気が付いたのですが、日本人は外国人、ひいては同じアジア人の中でも圧倒的に首を振るジェスチャーが多いです。具体的には肯定時の頷きと否定時の横振りですが、意外や意外に外国人はこのようなジェスチャーを多少はするものの日本人ほど明確にかつ頻繁にすることはなく、中国で日本人を見分ける際には首の動作を見ればそれなりに見分けられます。
 私が思うに欧米人は腕など上半身全体をつかったジェスチャーを多用するのに対し、日本人はお辞儀の習慣からか挨拶から頷き、お礼などの表現の際には必ず首が縦に動きます。韓国人はわかりませんが中国人は意外とこの手のジェスチャーが薄く、ちょっとしたことでよく怒鳴り合ったりすることが多いですが、友人曰く上海人は口だけで殴り合ったりすることは少ないそうです。中国東北部の人は逆らしいけど。

3、他人の判断が正しいという前提
 我ながら極論を言うもんだという気がしますが、日本人は自分で考えた判断内容より他人の判断内容、ひいては合議での結果をやや無条件で正しいと考えるところが過分に多い気がします。私はというと前に書いた「自分の判断への信頼性」の記事で言っているように逆に自分の判断は基本的に他人より優れているという逆の前提がありますが、私が一番わからないのはそれぞれの案やら判断内容に対して理屈なり原理なりを一切考慮せずに「正しいだろう」と推定する人たちです。そりゃ自分が経験や知識がないとわかった上での判断なら何も言いませんが、もう少し正しいと思うことは主張すべきだという気がします。

4、人の言うこと聞いてる振りして勝手な自己アレンジを加える
 これは習性というよりかは文化ですが、よく日本人は他国の文化やら技術を学ぶとそのまんまコピーすることは少なく、ほぼ必ず日本に合わせたアレンジなり改良を加えてしまうことが明らかに多い気がします。具体例を挙げてくと中国から漢字を学ぶと勝手にひらがなやカタカナを作り、インド人からカレーを習うと向こうでは食べることが遠慮されている牛とか豚と一緒に煮込んだりなどと。これなんか自分は最近になっていろいろ感じるようになってきましたが、もしかしたら日本はアメリカがまだ民用化する前の最先端の軍事技術などを利用していろいろ製品作って、それがアメリカ側からすると気に入らなかったんじゃないかと思います。まだ裏とかとってませんが形状記憶合金というのはヘリコプターに使われる軍事技術だったのを、日本人がブラジャーとかに最初に使いだしたという話を聞いたことがあります。

5、相手が逆らえないとわかるや途端に狂暴になる
 これは何度もこれまでの記事でも書いてて繰り返しになりますが、日本人は外国人と比して基本的には大人しく温和な性格ではあるものの、相手が自分に逆らえない、反抗出来ないとわかった際の狂暴性は異常と言っていいほどのものがあります。具体的には明らかに海外より多い駅員らへの暴力や精神病者を多数輩出するカスタマーセンターへのクレームなどがありますが、最近思うのは学校や職場でのいじめももしかしたらここからきているのではないかと見ています。
 一体いつから日本人はこの習性を持つようになったかですが、前にも書いた朱子学の上意下達が影響とか戦前の陸軍教育などいろいろ意見はあるものの、私の中、というよりは私のゴーストに囁かせるならどの意見も腑に落ちず、結局的にはそれらの教育的要素よりずっと以前の日本人の習性が影響しているのではないかというのが一番納得できます。ちなみに他国のいじめについては昔に外国人らが出演した番組で、日本ほどの陰湿さは持たないという意見が多かったです。唯一、韓国においては多少はあるものの、学校現場ではまだ教師の権威が強くて日本ほど発展はしないそうですが、軍隊内では先日も銃乱射事件が起きるなど根強いと聞きます。この辺を比較したらなんか出てくるような気がしますけど、詳細は次回記事に回します。

2011年9月3日土曜日

日本プロ野球、魔球の射手たち

 野球漫画ときたら魔球、と言われるくらいに野球における変化球というものはいろんな意味で人の注目を浴びます。まぁそういっておきながら自分が一番好きな野球漫画は魔球とか一切出ない、ちばあきお氏の「キャプテン」なんだけど。
 前からやろうやろうと思ってなかなか実現できずにいた企画ですが今日はその変化球に絞り、拙い私の知識ながらも現実のプロ野球選手の中でひときわ記憶に残る「魔球」と呼ばれるような変化球を投げていた投手とその球種を紹介しようかと思います。

1、伊藤智仁(スライダー)
 一番に持ってこないと怒る友人がいるので早速持ってきましたが、元ヤクルトの伊藤智仁選手とくればなんといってもスライダーです。生憎中国だとYoutubeがつなげられないのでもってこれませんが、実際に現役時の伊藤選手のスライダーを見てもらえばわかりますが、明らかに物理学の法則を無視した軌道で、バッターの目の前で真横に曲がっているようにしか見えません。もっともこんなとんでもないスライダーを投げられたのはもともと伊藤選手の方がルーズショルダーという、脱臼しやすい特殊な体つきをしていたからだそうで、そのせいか現役時代が短かったのは残念な限りです。

2、佐々木主浩野茂英雄(フォーク)
 現在でもアメリカでは普通に魔球として取り扱われるフォークボールですが、その使い手と言ったらなんといっても大魔神・佐々木選手とパイオニア・野茂選手の二人が自分の中で挙がってきます。二人とも日米球界で活躍したのはもとより、バッターからすると「目の前ですとんと落ちるため視界から消える」と言わせるほどの落差の大きいフォークボールを決め球として持っていましたが、それ以上に特徴的と言えるのはそのフォークを生かす速球の威力でしょう。二人とも全盛期の最高球速は時速150キロを超えており、それ故にバッターもフォークに対応できなかったと言われています。
 なおフォークボールの神様と呼ばれる杉下茂氏によると、現在のフォークボールはSFF(スプリット・フィンガー・ファストボール)などといった亜流が多く、本物のフォークを投げたのは自身と村山実選手、村田兆治選手、野茂選手、佐々木選手の5人を挙げています。それにしても日本は変化球にも神様がいるあたり、バラエティが本当に豊富な気がする。

3、藤川球児(ストレート)
 現在私が最も好きな選手の一人ですが、実際に野球選手になれたからよかったものの親にこんな名前を付けられると相当なプレッシャーものです。
 変化球と言っておきながらですが、藤川選手の投げる直球ことストレートもよく魔球として取り扱われます。藤川選手については何度もこのブログで取り上げていて誰も覚えていないでしょうが繰り返しになってしまいますが、私が2005年のシーズンで藤川選手の投球を見た際は文字通り目を疑いました。これも実際の動画を確かめてみればわかりますがどのバッターも藤川選手のストレートを空振りする際はいつもボール二、三個分下を振りぬくのですが、対戦したバッターによると「ボールが浮き上がってくるように見える」そうで、実際にテレビ画面で見ていてもボールの軌道が浮いているように見えます。それ故に私は当初、直球に近いシュートという変化球を投げたのではないかと思い、テレビでストレートと表示されても最初は疑ったほどでした。

4、潮崎哲也(シンカー)
 シンカー(スクリュー)という球は手首を捻じるようにして投げるため、ダルビッシュ選手ですら封印したほど肘などを故障させてしまいやすい球種です。ただ潮崎選手のようなサイドスローやオーバースローでは腕の振りと合わせて投げやすいそうで、それ故に現在のプロ選手でもオーバースロー以外の投手が投げることが多いように思います。
 そんな潮崎選手のシンカーですが、1番の伊藤選手同様にどこかで物理学を無視したような動きをしてました。当時のバッターからも来るのがわかっていても打てないと言われたほど変化する軌道が大きかったことはもとより、バッターから見て最初右に変化したかと思ったら急激に左下へ落ちてくるというタイミングの合わせ辛い球だったそうです。ゲーム中で私も潮崎選手と対戦しましたが、確かに相手していて「反則だろっ」って言いたくなる変化球でした。

5、ジェフ・ウィリアムス(スライダー)
 阪神ファンからするとバースと並び記憶に残る外人選手のウィリアムス選手ですが、いろんな意味で私の中のサイドスロー投手の常識を打ち破った選手でもあります。というのも私の中でサイド、アンダースローの選手というのはどこか非力な感じがして速球はそれほど速くないという印象があったのですが、このウィリアムス選手に至ってはサイドスローながら速球が時速150キロを超えるなどパワフルな投球をしており、それに加えて文字通り左から差し込むスライダーの凄さには目を見張りました。
 ウィリアムス選手は左利きなので左手からボールを投げるのですが、サイドスローゆえにほかの投手と比べてリリースポイントが大きく左にずれており、そこから放たれるスライダーというのは横一文字に大きく変化するのが特徴でした。ただ球が早い、投げるポイントがずれているとかいうのではなくともかく大きく変化するのが特徴で、なんでも空振りした右バッターに投げたスライダーボールがそのままぶつかるといったことが何度かあったそうです。現在ヤクルトの久古健太郎選手もサイドスローでスライダーを武器にしていますが、案外こういった投球方法は定着してくるかもしれません。

6、星野伸之今中慎二(スローカーブ)
 変化量が大きい変化球といったらこの二人を忘れるわけには行かないでしょう。両選手ともおおよそ野球選手にとしては似つかわしくないほど細身の長身選手で、ルックスと相まって現役当時は女性ファンなども多かったと聞きます。そんな二人ですが今中選手はまだ最高球速が時速145キロに達したものの、星野選手に至っては130キロ前後が限界というほど他の一般の投手と比べて非力さをあちこちから指摘されていました。しかし両者ともそれを補って余りある投球術に加え、時速100キロを切るとんでもなく遅いスローカーブを武器に、奇しくも同時期に長きに渡って活躍しておりました。
 これも当時に対戦したバッターらの証言ですが、左バッターからすると両者(どちらも左利き)が投げるスローカーブは大きく変化するために背中から入ってくるため、通常の構えからすると完全に一時視界から消えるそうです。しかもそんな遅い球を投げられた後だと速球との球速の落差に目が慣れず、それほど速い球でもない割に空振りを失してしまうことが多かったようです。
 それにしても星野選手の球速の遅さは色々とエピソードが多く、奥さんからは「私でも打てる」と言われ、完封勝利後に相手チームの西武の選手らから、「今日の星野は一段と遅い」、「ボールが止まって見えた」などと言われたそうです。個人的にはすごい好きな選手ですが。

7、渡辺俊介(シンカー)
 通称「地上3cmの男」ことマリーンズの渡辺選手は恐らく史上最も低い位置から投げつけるアンダースローという特殊な投球フォームばかりが取り上げられますが、何気にもっとすごいんじゃないかと思うのがシンカーボールです。というのも先ほどにも書きましたがシンカーというのは手首を捻じって投げることからサイド・アンダースローと相性がいいのですが、渡辺選手のシンカーはその特徴的な下手投げというフォームから捻じって投げる投げ方ゆえに、ドリルの回転と同じジャイロ回転をしていると言われています。これがどのような意味を持つのかというと、なんでも一説には渡辺選手のシンカーは自身のストレートボールより球速が早いそうです。原理はジャイロ回転をしているゆえに空気抵抗が低いとのことで、それ故に「高速シンカー」という名前が冠されています。まぁそれ以上に、そもそも渡辺選手のストレートの球速が130キロ台と低いのが大きいですが。

 ただこの渡辺選手についてもう少し付け加えると、先の星野選手、今中選手同様に体格に恵まれず中学、高校と二番手以下の投手に甘んじていたそうです。そこでどうすればいいかということで父親と、唯一の取り柄でこれだけなら誰にも負けたことのなかった体の柔らかさを生かして「アンダースローになるしかない」という結論から今のフォームに至ったそうです。その後大学野球時代もあまり注目されませんでしたが、投げていた試合を見に来ていた社会人野球の新日鉄君津の監督の目に留まったことからチームにスカウトされたそうですが、本人の著書によると当時の大学の監督は、「いやいや、今日たまたまあいつは調子が良いだけでやめておいた方がいいですよ(;´Д`)」と止めたらしいです。ひどいよ監督。
 しかしそうしたやや日陰者の経歴ながら現在では球界を代表する投手となり、ひいては彼の影響からアンダースローに挑戦する中学、高校野球選手も増えてきているといい、人生譚として渡辺選手の「長所にかける」生き方には強い共感と尊敬を覚えます。同様の選手では元阪神の赤星選手がいますが、一試合一試合のプレイとともにこうした選手らのバックグラウンドを知ることでよりスポーツが楽しめるのではないかと思い、こうしてまとめてみました。

2011年9月1日木曜日

野田新首相に対する中国紙の反応

 昨日はなんだかやけに眠くて十時半に床についたら、今日はなんだか躁気味にテンションが高かったです。こんなところで病気自慢をしてもしょうがないですがてんかん症患者は信長やナポレオンを筆頭として感情の上下が激しいとよく聞きますが、私に限って言えばあながち間違いじゃないように思います。それにしても最近になって、年寄り同士が顔を合わせると自分の病気の話から始めるというのがだんだんわかってきました。

 そうした無駄話は置いといて今日の本題ですが、日本での野田新首相誕生に合わせてこちらの中国現地紙でも各紙が一面で取り扱うなど、非常に大きく注目されています。その中でいくつか私が読んだ新聞ではまず今回の総裁選の結果をそのまま「意外」と書いてありましたが、これは恐らくその新聞に限らず中国全土のメディア、果てには日本メディアを含めて同じような感想を持ったことでしょう。
 というのも総裁選前は中国紙も小沢派肝煎りの海江田氏(中国語が得意らしい)と前原氏ばかり取り上げており、特に前原氏については外務大臣時代に中国ともいろいろやりあったことから首相として望ましくないというような論調が多かったです。もっとも私としては小泉時代ですら日中はそれなりにやってこれたんだから、前原氏が首相になったところで日中関係に影響はないとみておりましたが。

 そうした経緯はさることながら今回就任した野田首相については早くも、「歴史認識が肝心」と釘を刺すのも忘れてませんでした。恐らくこれは野田氏がかつてA級戦犯は犯罪者ではないと日本でもあちこちで報じられている過去の発言を得たものとも見ることができますが、そもそもの話として日本政府が中国と関わることと言ったら歴史問題以外はないと言っても過言ではなく、またまた引っ張り出しますが政冷経熱と言われた小泉時代ですら日中の貿易量は増えていったのだし、ほかに書くことがなかったのが現実でしょう。
 ただこれ以外に割といい点を突いているなと思ったところで、「財政立て直しを図るのか震災復興を優先するのか、難しい選択が迫られる」という論評がつけられていました。これについては前に書いた記事で私も書きましたが、野田氏は増税をはっきりと口にするなど根っからの財政健全派です。しかし先の東日本大震災での復興活動を行うに当たって大幅な財政支出は避けることは出来ず、この相反する課題に対してどう取り組むのかが今後の試金石となるでしょう。

 ついでなのでほかの政治系話題についても書いてしまいますがなんでも今回の総裁選の最中にこちらも立候補した鹿野氏は、決選投票前に海江田氏を支持するか野田氏を支持するのかをスーツを脱ぐことで自派閥に伝えたそうですが、ここはひとつ鹿野氏を見習って自分もこれから会議のたびにむやみやたらにスーツを脱ごうかなと画策してます。それにしても高校野球のサインじゃないんだからと思う一方、こういう古典的な方法を見るとなんか安心してしまう自分もいます。

 あと有力候補とみられながら落選した件の前原氏ですが、また今日も外国人献金が明るみになってとうとう合計金額が百万円を突破したそうです。一回目にまとめてわかるならまだしもその後きちんと調査していなかったのかただただ呆れるばかりですが、ここまでの迂闊ぶりを見ると本当にこの人は今回の総選挙で落選してよかったと一国民として思います。日本で既に誰か言っている人がいるかもしれませんしキツイ言葉だということは承知の上ですが、永田元議員はメール問題の際に自ら議員辞職しました。