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2007年12月12日水曜日

戊辰戦争で、もし幕府が勝っていたら?

 私自身はあまり読まないのですが、巷ではいわゆる「歴史If小説」が数多くあります。聞く限り大抵の内容はやはり二次大戦中のものが多いらしいですが、歴史学でもよく「もしもがあれば」という形で議論をする事が多いですので、こういうのも流行るのだと思います。

 実は先日、何気なくウィキペディアで歴史関連の記事を眺めていたら、「もし戊辰で幕府軍が勝っていたらどうなったんだろう?」という疑問が突然涌いてきました。思えばよく漫画などで、信長が後数年生きていたらとか、家康が実は死んでいたなどはよく見るけど、この手のIf物はあまりお目にかかっていない。歴史学の検証も、これというものは聞いた事がないなと思い、早速自分の幕閣ならぬ、友人らにも尋ねてみました。

 で、そうやって何人から意見を集約したのですが、結論を先に言うと、恐らく大きな歴史の変化はないだろうということに落ち着きました。もはやあの時点で欧米列強に対して攘夷は不可能と薩長、幕府ともに共通了解事項であり、欧米の力を借りての富国強兵論にて一致しており、後は薩長と幕府のどちらが主導権を握るかの争いでしかなかった、というのが主な理由です。
 私などは幕府が勝っていたら、老害とも言うべき、幕府の老年の重臣が残り、維新は起こるとしてもその改革スピードは鈍化しただろう、特に廃藩置県はああも断行は出来なかったと思っています。何気に、以前に叔父とも議論しましたが、何ゆえ明治維新はあれほど成功したのかと言うと、やはり老害を廃し、若く実力のある者が一気に世に踊り出たからだろうという意見に落ち着きました。これは幕府の側だと起こらなかっただろうし、また武士の首魁とも言うべき徳川家の立場からすると、既得権益層である武士層を切る事は容易ではないでしょう。

 しかし、その逆の幕府が勝っていた場合の優位な条件もあります。まず第一に幕府側の優秀な人材、特に戊辰で戦死した者や失脚した者が世に出られた可能性です。これを言うと真っ先に友人らからも出てきたのが、長岡藩士河井継之助。あの時代にガトリングガンを仕入れたり、奪われた城を奪い返すなど、佐幕派の藩士の中で際立った活躍をしていますが、生憎戦死しています。
 そして次に挙げられるのが榎本武揚。もっとも彼の場合はその後復権して、初代伊藤博文内閣にも参加していますが、明治の序盤ではやはり不遇を囲ってしまい、最初からその才能が使えなかったのが惜しまれます。
 何もここに挙げた二人以外にも、幕府側には洋行組、海外を視察した経験のある者が数多くいたといいます。そのような人材等を考えると、確かに維新政府を作った薩長土肥の優秀な人材らにも負けてないような気がします。もっとも、恐らく幕府が勝ったところで薩長の人材は退散を余儀なくされたでしょうが、土佐と肥前に至っては戊辰に至るまではどちらかと言うと佐幕派的な立場にあり、板垣退助や大隈重信などは薩長が勝った歴史よりも重鎮になっていた可能性すらあります。

 それで、肝心要の幕府軍は戊辰に勝てる可能性は合ったのかについてですが、これは普通にやってれば勝てたと思います。というのも鳥羽伏見の戦いは不意打ち的にやられたもので、幕府側の戦力は依然として残っていたからです。にも関わらず徳川慶喜がいきなり大阪から江戸に逃げてしまい、親藩大名を始めとした勢力が一挙に薩長に下ったのが勝敗を分けた原因だと思うからです。実際には物量ともに幕府は負けてなかったと思うんですよね。

 まぁ所詮は「もしも」という想像の範囲内ですが、最後の結論というか自分の考えだと、恐らく幕府が勝ったところでも、日本国の初代総理大臣は伊藤博文になったと思います。あの時代にあの若さで、個人的には伊藤博文が傑出した能力を持っていると考えるのがその理由です。もし対抗馬を挙げるならば、年齢的には榎本武揚が来る可能性がありますが、恐らく薩長、幕府のどちらに分岐しようとも、日本の歴史は伊藤博文にて集約されるというのが私の結論です。

1 件のコメント:

コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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