いきなり臭いタイトルですが、自分はこの「愛」という言葉にある由来があるのではないかと思っていました。自分は高校時代は完璧な古語マニアで、あれこれ自分でも漢文やら古語を見ていましたが、どうも見ていると古語の中の「愛」というのは「愛い」(うい)という形で、現代の「可愛い」という意味で使われている事に気がつきました。で、現代の「愛」の意味に近いのはどちらかと言うと「恋」の漢字で、まぁわかるでしょうけど、現代では「恋愛」といってセットで使われますがその感情の比重は昔と逆転し、「恋」はどちらかというと若い時分の幼い感情みたいな意味で、「愛」は大人な成熟した感情みたいな感じで使われています。
一体、いつ頃にこのような変化が起こったのだろうか、ある日突然考えた(昔あったな、こんな歌詞)。そこで、ある一つの仮説が出てきました。もしかしら、キリスト教が変えたのかもしれないと。
言わずもがなにキリスト教は室町時代後半にやってきて、結構当時の文献とかでもこのキリスト教の「愛」という概念がよく出てきます。自分が考えるに恐らく、キリスト教の宣教師達は男女間が惹かれあう感情とは別な意味の、いわゆる隣人愛を説くために、この「愛」という文字を使って布教活動をしたのではないでしょうか。このあたりから「愛」の比重が高まり、いつのまにか「恋」を追い抜いてしまったのではないかと思います。
とまぁこんな風に想像してたら、さっきウィキペディアを見たらどうもそれに近いことかいてあって、ますます自信がついて調子乗って今日のネタにしました。ちなみに、直江兼続はとリビアの泉でもやってましたが、領民を愛するという意味で、「愛」の文字をかたどった兜を被ってたようです。
ちなみに、外来語と日本語の関係は結構複雑で、いくつかの概念についてはきちんと西洋の概念を日本語化できていない例もあります。今度はその代表格とも言うべき、「自由」をちょっと解説します。
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