早いもので今回の連載も四本目。そこで今回は新聞が持つ、他のメディアに無い特性について語ろうと思います。どうでもいいですが、今ちょっとアニメ版、「ヒカルの碁」で使われた曲を聞いています。あまり知られて無いけど、いい曲が非常に多いです。なお、「ヒカルの碁」は何でも今ロシアで大ヒットしており、「ГО(ゴー)」と入力したら引っかかると前に聞きました。
そんなくだらない話はいいとして、まずほかのメディアの特性ですが、インターネットは言うまでも無く情報量の多さと検索の早さで、テレビは音と画像の同時提供とリアルタイム放送があります。これらに対して新聞はどんな特性を持つかというと、まずあげられるのは「見出し」だと私は思います。
これはうちの親父の受け売りですが、「見出しというのは一行の言葉でニュース内容を読者に理解させるもので、作ろうと思ってもなかなか作れない玄人芸だ」と言ってましたが、実際その通りだと思います。テレビやネットのニュースに対して、ざらっと情報を見渡す、それこそ何か気になるニュースはないかと探す時間だと新聞が圧倒的に短いと思います。この点は手放しで新聞を褒められる点です。なお、最近私が気に入った見出しは巨人のクルーン投手が試合で乱調だった次の日の朝日新聞のスポーツ欄で、「荒れクルーン」と書かれた見出しです。
この見出しともうひとつ、見逃せない新聞の特性というのが、情報の編集です。
本当は別に1コーナー儲けて解説をしたいのですが、ネットが始まってから「情報に強い人間」という定義が私の中では変わりました。始まるまでは文字通り、「どれだけ大量に情報を持っているか」だったのですが、ネットの検索機能が強化されたあたりから、「どれだけ情報を整理できるか」が、情報に対して強い弱いを決まるようになったと思います。
たとえば、今かまびすしい死刑に対する賛否問題ですが、ネットで検索をかければそれこそ賛成派だろうが反対派だろうが、どちらにとっても都合のよい意見を収集できるはずですし、その量にも大差はないと思います。しかし、普通の人にとってその死刑に関する意見や情報のすべてをネット上で眺め回すことなぞ、時間的にも物理的にもほぼ不可能に近いです。そこでは如何に効率よく、信用度や説得力のある意見を見つけられるかが問われるようになって来ます。私が言いたいのはこういうことで、ネット時代の到来と共に情報とは不足するものから過多なものへと化しました。その時代の情報人の必要とされる能力は記憶力ではなく、情報の収集や分析技能だと私は考えているのです。
そんな前置きはよしといて新聞の編集という特性ですが、基本的にほとんどすべての情報は新聞社に一旦集められこそしますが、そこで記者によって必要な情報か、重要な上であるかを判断する編集作業というふるいにかけられて、くだらない情報はそぎ落とされてから(私などはこの過程を「スクリーニング」と呼びます)私たちの元へと届けられます。これによって読者がどんな点で得するかというと、まずくだらない情報を掴まされる事がなくなります。それこそ誤報に至っては掴まされたら大事ですが、ネットで適当に見ているとやっぱりそういう情報も少なからずあります。しかし新聞はその点、発行部数に関わるのでそういった信用度の低い情報は切り捨ててくれます、たまにのっける事はあるけど。また、見るだけ時間の無駄な情報も切り捨てられるので、効率よく情報を得られる上にその逆の、同じ意見でも説得力のある有効な意見も選んで載せるというのも、編集の作業のひとつでもあります。
現在まであれこれ批判はありますが、少なくとも現状でこの編集能力が高いメディアは新聞でしょう。まぁ現在はあれこれ問題は抱えていますが、少なくともこの「見出し」と「編集」は新聞の特性と言ってもよいと思います。しかし、私から見て現在の新聞社はこの他のメディアに勝るこの二つの特性を使い切れていない気がします。次回は、「新聞会社もこうすりゃいいのに」、と私が思う点を紹介します。
なるほど。新聞にもいいところはあるんですね。スポーツなどの見出しは確かに見ただけで内容がわかるものが多いですよね。最近新聞はあまり読みませんが、編集はあまりうまくできてないように感じます。情報量が少ないからかもしれないけど。
返信削除私も、なんか今日はえらく新聞を褒めちゃったと思ってます。もちろん各所で言われているように、編集が恣意的であるなどと問題を抱えているという店もありますが、情報の選別という観点ならテレビやネットよりは俄然優れているし、まだ私も支持します。
返信削除ちなみに、その編集がうまくできていないという点が、明日の内容です。