前回では毛沢東が一時政治的に失脚するところまで解説しました。失脚後、毛沢東は南方で趣味の釣りにいそしんでいると言われ、毛沢東のかわりに実権を握った劉少奇と鄧小平が実質的に中国の指導者となりました。彼らちゃんとやり方のわかっている指導者の行政手腕により、大飢饉によって混乱した中国経済は徐々にではありますが立て直されていきました。
しかしそうして経済が立て直っていく一方、ある言論がまことしやかに全土で語られるようになってきました。その言論というのも、「今の共産党指導部は修正主義者たちに乗っ取られている」という、今見ても不穏当な言論でした。
この時期、ソ連はスターリンからフルシチョフの時代を経て、中国との蜜月関係も終わりを告げていました。中国共産党はこのフルシチョフによるソ連の第一次デタント(雪解け)といわれる、西側国家との協調路線を打ち出す外交政策を共産主義の精神を根幹から覆す愚挙だとして「走資派」や「修正主義者」と呼んで激しく非難しました。
恐らく当時の考え方としては、共産主義国家の建設は非常に困難が伴うものであるため、この困難から抜け出すためとか、自分だけいい思いをしようと安易に資本主義に走る卑怯な輩がいるという具合で憎悪をたぎらせたのだと思います。この「修正主義者」という言葉が、1960年代の中国の流行語であったのは間違いないでしょう。
当時、中国に流布したのはこうしたソ連の輩のような裏切り者が中国共産党内部、それもかなりの上位階級に潜りこんでいるという言質でした。彼ら修正主義者は謀略をめぐらし、偉大なる指導者である毛沢東を追放したのだ、と毛沢東の政治失脚は彼らに原因があるというような言葉が共産党の機関紙である「人民日報」などのメディアで激しく展開されていきました。
もちろん劉少奇を初めとする指導部はそんなはずはないと否定しつつ、このようなデマがどこから出ているのかなどと調べたそうですが、一向に確たる根源が見つからずにいました。元ネタを一気に明らかにすると、このような言論を広めたのは毛沢東の指示で動いていた彼の腹心たちで、後に四人組と呼ばれる幹部たちでした。皮肉なことに、内からの敵に当時の指導部は気づかなかったのです。
こうした言論を一番真に受けたのは当時の大学生たちでした。北京大学では壁新聞が張られて公然と指導部が批判され、精華大学では孤立無援の毛沢東閣下を救えとばかりに、後に中国全土で猛威を奮い、この文化大革命の代名詞となる「紅衛兵」という、青年たちによる私兵団が全国で初めて組織されました。
こうした中、これは出所が明らかでなくちょっと確証に欠けるどこかで聞いた話ですが、何でも劉少奇らが北京にてこうした動きに対し、自分たちは決して修正主義者ではないということを説明する一般人を交えた会合を開いて弁舌をしている最中に、なんとその場に南方にいるはずの毛沢東が予告なしで突然現れたそうです。このような演出はこれだけでなく、これは陳凱歌の「私の紅衛兵時代」で書かれていますが、北京四中での会合の際も、毛沢東は劉少奇が弁舌を終えていないにもかかわらず突然壇上に出てきたそうです。そうなってしまうと観衆は大喝采してしまいますので、まだ弁舌を終えていない劉少奇はどうすることもなく、かといってそそくさと壇から降りるわけにも行かなくなり、このように毛沢東は相手を追いつめる演出が非常にうまかったと陳凱歌は評しています。
そのうち毛沢東も公然と、「共産党の指導部内に裏切り者がいる」と主張するようになり、先ほどの紅衛兵という少年少女らで組織される私兵団も毛沢東の応援を受けて各学校ごとに作られて増加の一途を辿り、自体は徐々に深刻化していきました。
今回はちょっと短いですが、ここで終わりです。なぜなら書いててそろそろ、毛沢東思想の解説を始めないとまずいなと思い始めたからです。私なども全然毛沢東思想を勉強していませんが、多少なりともこの思想の骨組みがなければこの文化大革命はただの騒動で終わってしまうので、次の回ではつたないながらも毛沢東思想をやります。せっかく話が盛り上がってきたところなんだけど。
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