前回までは文化大革命に翻弄される国民目線の解説でしたが、今回から指導者たちの権力争いについての解説になります。文革期の後半に至ると、なにもこの文化大革命のみならず建国時からの元勲たちが次々と世を去っていくことになりました。
文化大革命初期に、これら元勲メンバーの中でいち早く毛沢東支持を表明したのが林彪でした。彼は抗日戦争の頃から活躍した将軍でしたが、年が他の元勲より若いということもあってこの時期には軍隊内で元帥とは言っても最高権力者にはなれずにいました。そんな時、毛沢東が文化大革命を引き起こし、それに乗ずる形で毛沢東に接近し、彼の威光を使うことによってライバルたちを次々と引きずりおろして軍隊内での地位を固めていきました。
毛沢東が何故文化大革命を引き起こせたのか、その最大の要因となったのは軍隊、この林彪が毛沢東の行動を支持、協力したのが大きいといわれています。そのせいか毛沢東の林彪への信任は厚く、生前にははっきりと自分の後継者だと明言しております。
そんな林彪が、文革末期の1971年に突然亡くなります。しかも、暗殺でです。事の起こりはこうです。この年のある日、中国とソ連の国境付近で飛行機が墜落しました。墜落現場をソ連の調査団が調べたところ、現場にある焼死体のうちの一つが林彪のものだと確認されたのです。
この事件が発覚した際は各所で大きく事件が取り上げられました。何故毛沢東の後継者とまで呼ばれている林彪が墜落死したのか。しかも墜落したのが中ソの国境付近ということから林彪ががソ連への亡命を行おうとしていたことがわかります。
この事件の最大の謎は、毛沢東の後継者として思われていた林彪が何故ソ連へと亡命を謀ったのかです。それについては諸説あり、まず一つが毛沢東の暗殺を謀ったためという説が今現在で最も強いです。毛沢東との関係は非常に深かったものの、猜疑心の強い毛沢東に次第に疑われこのままでは遅かれ早かれ他の幹部のように殺されると考えた林彪が、逆に相手を討ち取れとばかりに暗殺計画を練ったのが毛沢東にばれ、亡命を図ったもののその途中で毛沢東の追っ手によって飛行機が打ち落とされたというのがこの説です。また林彪自身は暗殺を計画しなかったまでも、息子の林立果が計画し、それが漏れたという説もあります。
この説に対する対論として、暗殺を謀ったのが林彪ではなく毛沢東だったという説があります。なぜなら林彪は既に毛沢東の後継者として指名されてあるので、遅かれ早かれ何もしなければ最高権力者につけるはずなので、毛沢東の暗殺を謀るのは矛盾しているという説に立ち、一方的に猜疑心の強い毛沢東が林彪に対して暗殺を謀り、それから逃亡しようとしたところを結局打ち落とされてしまった、という説です。
この事件については現状でもまだまだ明らかになっていない事実が多く、真相が明らかになるにはまだまだ時間がかかると思います。ただ一つ明らかなのは、この事件がきっかけで毛沢東はその後急速に方針を転換するに至っています。
残っている記録によるとこの事件は毛沢東にとっても相当ショックだったようです。真偽はどうだかわかりませんが林彪機墜落の報を受けて毛沢東は、「逃げなければ殺さなかったものの」とつぶやいたという話があります。
恐らく、毛沢東としては文化大革命の初期からの自分の支持者だった林彪の、少なくとも亡命にまで至る裏切りは相当堪えたようです。またこれまでの自分の採ってきた政策にも疑問を持ったのか、一度は自らの手で追放した実務派の鄧小平をわざわざ復権させて政務を取らせるようになっています。
私の考えを述べさせてもらえば、その後の毛沢東の慌てぶりを見ると彼が率先して林彪を殺害しようとしたとは思いづらいです。とはいえ林彪を廃した後、毛沢東は急速にアメリカ、ひいては日本と急接近するなど外交路線でも大きな転換をしており、この事件が彼の政策を転換するに至る象徴的な事件であることは間違いありません。
文化大革命全体を通しても、この事件が果たした役割は非常に大きいといわれております。しかしながら先ほどにも述べたようにこの事件にはまだまだ明らかになっていな事実が数多いため、具体的な分析に至れないのが現状というところでしょう。
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