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2008年10月19日日曜日

技術大国日本は何故出来たか

 久々にオリジナルで、かつ質の高いレア情報を書きます。今回の話は昨日の記事にも通じる内容です。

 日本は70年代から技術大国と言われて久しく、自動車業界から精密機械に至るまで幅広い産業において世界的にも高い技術を持っていると言われております。しかしその一方で高校生の物理選択者は減る一方で、また大学の理系学部も教育の質や志望者の低下に歯止めがかからず、国としても「ものつくり大国日本」という標語を打ち出しなんとか技術面での復権を画策していますが、なかなかうまく行っていないのが現状です。しかも状況はなおまずいことに、長い間技術を蓄積していた技術者たちがここ数年で定年による大量退職をし始め、技術の継承が現役世代になかなか行われず、このままではいたずらに育て上げた技術が失われていく一方だという危惧もされています。

 では何故かつての日本は技術大国と呼ばれるまでに技術者の質が向上したのでしょうか。一つ今の日本の問題の解決法を探る上で、ちょっとここで一つ歴史の話を紹介します。
 現在、日本が誇る技術産業とくれば誰の目にも自動車産業が筆頭だと言われていますが、何故日本で、更に先の話をするとドイツでも自動車産業が戦後に急成長をしたのかですが、現在言われている中で最も強い説は軍需産業からの転換があったからだと言われています。

 戦前の日本ははっきり言ってアメリカとの戦争のためだけに国が機能し、技術者もそのために数多く育成されて兵器となる航空機の生産も国を挙げて行っていました。ですが日本が敗戦した後、二度と軍事国家化させまいというのと航空機産業で独占をもくろんでいたアメリカの指導の下で、日本は航空機の製造、開発を大幅に制限されることとなりました。その際、それまで航空機を製造していた技術者はどうなったのかと言うとここまで言えばわかると思いますが、その大半は自動車産業へと移り、そこで自動車の製造、開発を行うようになっていったそうなのです。

 これはドイツでもほぼ同じ状況が起こっており、その結果現在の日独は航空機の開発自体はアメリカに遠く及ばないまでも、自動車産業の技術においては世界でもトップ二強という地位を確立するに至ったのです。また自動車産業に限らずとも、現在日本が世界に誇る新幹線の開発においても戦前の航空機技術者が数多く参加しており、広範囲にわたって戦前に育成された技術者が生きたと言われています。

 このように技術立国日本が出来た背景には戦争目的とはいえ、非常に高度な技術者の育成があったことが大きな理由と言われており、私自身もその説を支持します。では教育を充実させればまた技術大国の座を維持できるのかと言うのかですが、私は現状の日本政府の方針はそれほど効果は出さないと考えています。その理由というのも、戦前の育成と比べると現在の教育には大きな差があるように思えるからです。そういう風に思うのも、実は私自身が直接に戦前に育成された元技術者の方に話を聞く機会があったからです。

 その元技術者のプロフィールを簡単に紹介すると、私がアルバイトしていた喫茶店のマスターです。御年八十歳を越える方で今もなお健在しております。
 このマスターは戦前、高校を卒業すると同時に現在の日立に就職し、そこで偵察航空機の設計に関わっていたそうです。この時の話を詳しく伺うと、なんでも高校時代にも相当な勉強を強制され(その学校では成績順に席順が決まるほどだったようです)、高校を卒業してようやく勉強から開放されたかと思ったら就職先でもまた勉強、しかも航空機の設計に関わる内容をものすごい詰め込みで行ったそうです。この辺は詳しく聞いてはいないのですが、どうも成績で上位でなければひどい仕事場に回されそうだったとのことで、必死で設計に入れるようにこの時勉強したそうです。この時の勉強時間は文字通り昼も夜もないほどで、夜には宿舎の明かりは強制的に消灯されるのでしょうがないからトイレの明かりで勉強しようと向かったら、そこには既に先客がいて勉強をしており、「この時はさすがに参った」と思ったそうです。

 しかしその甲斐あってマスターは航空機の設計に関わる部門に配置されました。ところがそこでも万事が万事大変で、設計して航空機を作ろうにもまず材料がほとんどない。この辺についてはマスターの話を直接引用することにします。

「とにかく、ありあわせの材料で製造するのだからそれで実際に飛ぶだけでも相当凄いことなんだよ。しかし、やはり十機に一機は飛行中に空中分解を起こしてしまい、その際には搭乗しているパイロットに申し訳ない気持ちでいっぱいだった……」

 この話を聞いた際に私は、戦前は高校卒業したての若者が、文系の私からすると及びもつかないほど難しいと思えるような航空機の設計、製造に関わっていたという事実にまず驚きました。そして同時にこれほどの技術者が第一線ではなく、私のいた喫茶店のような場所にもいたということに、戦前から戦後にかけての技術者の人材量に言葉をなくしました。

 このように、技術大国日本の背景にはそれこそ現在からは考えつかないほどの広範囲かつ質の高い教育が行われていたのです。この事実に比べるなら、現在の教育などそれこそ玉石に比べて路傍の石程度しかないと言っても過言ではなく、今の教育では焼け石に水なのではというのが私の意見です。
 更に言うなら、戦前に行われた技術者の育成と現在の教育において最大の差異とも言えるのが、試作にある気がします。先ほどのマスターの例だと高校を出たての若者が、恐らく他のスタッフも関わっているとはいえ飛行機の設計から実際の製造にまで着手しています。果たして、今の日本で航空機とまでは言わないまでも自動車の設計から製造にまで二十代の大卒の若者が関われるかと言ったら、恐らく全くと言っていいほどないでしょう。もし本当に技術者を育てようと言うのなら、やはりこういった実際に作る試作をどんどんと行わせるべきでしょうし、国も下手なところに金を使うくらいならこういった所へ補助をするべきではないでしょうか。

 最後に、話を聞いた後に私がマスターに聞いた質問とそのやり取りを紹介します。

「マスターは戦後、そのまま技術者としてやっていこうとは思わなかったのですか。誘いはなかったのですか」
「誘いは確かに受けたけど、僕はやっぱり子供の頃から商売人になることが夢だったからね。こうして喫茶店をやっていて後悔はないよ」

8 件のコメント:

  1.  昔の教育はすごかったのですね。確かに当時の教育と今の教育を比べると心もとないというのは納得できます。
     現在大手の会社の、設計に携われるのは一流大学出身者または、大学院出身者に限られているそうです。設計者だけでみたら数は足りているかもしれません。
     しかし、質は花園さんの言うように一線で活躍してきた人達が抜け始めているので問題かもしれませんね。前、テレビで見たのですが企業は高齢の実績のある技術者を手放さないようにしていると聞きました。また、CMで泉谷しげるがやっている(高年齢者雇用対策)のもそうしたことを問題にして取り上げているからなんでしょうね。
     僕から見たら、設計者や開発者というのはエリートのイメージがあります。そのようなポジションに高校卒業からいたマスターの時代の教育は脅威です。

     
     
     

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  2.  今不思議なのは、技術の現場に人材がいないと言いながら、実際にその作業を高卒の方や大卒の新人にやらせてもらえないという事実です。まぁ試作したり育てるだけの余裕が企業にないというのもわかりますが、これじゃジリ貧でしょうに。

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  3. ひとつ、意見を述べさせてもらいますが、戦前の旧高等学校は今の高校とは違います。現在の高校に相当するものは旧制中学であります。旧高等学校は大学予科と同等の位置にあるもので、戦後新制大学に組み込まれました。例えば大阪高等学校、福岡高等学校はそれぞれ大阪大学教養学部、九州大学教養学部になり、成蹊高等学校、甲南高等学校(これらは七年制であった)は現在の成蹊大学、甲南大学になっております。当時は旧制中学(現在の高等学校)卒だけでもそこそこの学歴保有者とみなされた時代です。戦前に旧制高等学校卒ということは、現在のけっこう良い大学を出た方と同等かそれ以上に高学歴だったと思いますよ。喫茶店のおっさんは超絶エリートだったんです。

    あと、先日wikipediaで道路について調べていたところ、戦前の日本の道路はおよそ工業国としてはあまりにもお粗末なものであったらしいです。日本は後進国で、まずは道路よりも鉄道という考えがあったこと、また歴史的にも道路の整備に無頓着な民族だったことに起因するようです(ヨーロッパなんかは、古代ローマ時代で石畳の道路を整備しているというのに!)
    まぁつまり戦前ではモータリゼーションなんか夢のまたの夢だったようで、現在の日本が世界でトップクラスの整備された道路を保有し、自動車大国であるというのは本当に奇跡的だなと個人的に思ってしまいます。

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  4. まぁしかし、戦前に比べたら今の日本人は誰でも大学にいける時代です。高等教育を受けるなんて、かなりの金持ちに限られていました。国民のほとんどが貧しい小作人だった時代ですから。戦前は小学校6年→中学校5年(優秀であれば4年)→大学予科・高等学校2年か3年(もしくは七年生高等学校)→大学という具合でした。大学として認可されているところは少なく、当初は旧帝大のみで、今の早稲田、慶応などの現在の有力な私学も当初は中学の上に位置する専門学校でした(これでも大変な高学歴ですが)

    またストレートに進学することは大変難しく、浪人を重ねて、大学をでたころは30手前という人も少なくありませんでした。

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  5.  うん、実はマスターの学歴についてはちょっと記憶があいまいだったからわざとぼかしました。多分、今の高校に当たる旧制中学を出て就職したと思うんですが、もしかしたらロックマンさんの言うとおりに旧制高校だったかもしれません。ちなみに、記事では書きませんでしたがマスターの出身校は立命館です。

     日本の道路行政が遅れたことについてうちの親父なんかは、欧州では馬車の文化があって早くから道を舗装する文化があったのに対して、日本はそういうものがなく、人がすれ違えればいいという判断で作られていったので、今でも自動車が通るにはやや狭いと思えるような道路になったとよく主張しています。

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  6. 道路については、東洋と西洋の「道」という物に対する概念というか価値観と言うか考え方の違いがあるのではないでしょうか?

    ローマに緒を発する西洋諸国の放射状の道路文化は機動戦術の為の道路で、より迅速により安定的な運輸が基本的な命題ですが、日本などの道路は今でもその名残が見受けられますが、東西南北に比較的規則正しく引かれていて、都市と都市を結ぶ事よりも外的から都市防衛をする事と都市の内部での流通を担う事に重点が置かれて居るように思われます。

    つまり、日本の文化に道路を整備するというのが希薄にしか存在しなかったと言うのが、つまり遠距離を道路網で繋ぐという情熱が希薄だったのが、一つの原因ではないかとも思ったりします。

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  7. それと、日本の技術大国についてですが、私にも少し似たような経験があります。
    昔、もう20年以上前ですが、学生生活を終え人生で唯一かつ初めて会社に就職したときのことです。

    その会社は、商業施設の内装工事の施工を管理する会社(要は職人さんの差配)でしたが、一流の大学の建築や設計の学部などを卒業した若手の“先生”がその道ン十年の職人の大将に金尺で頭をコズかれながら「お前、お前の作ったこの図面とおりつくれるか?机上の空論では現場は収まらん!」と指導されていました。

    また、その職人さん達はその“先生”から新しい知識などを積極的に仕入れてもいました。

    また、別の話ですが、昔の技術者というのは自身の扱う商品の製造だけでなく、その商材を製造するマザーマシーンに伝も造詣が深く、メーカーの担当者を唸らせるような調整の仕方を独自のノウハウとして持っていたと言います。

    今は、高額な工作機械を購入しても、それをマニュアルの通り使うだけで、自身でカスタマイズできるような技術者が凄く少ないそうです。

    職人魂に支えられた創意工夫。
    それこそ、日本の技術大国への道を支えた最大の要素だったのではないでしょうか??
    如何なる技術も文化も、積み重ね続けられた基礎の上に成り立つ物ではないでしょうか?

    理工科系の学生や学校を如何に増やしても、マイスターの居なくなりつつある日本には技術立国の基幹が失われてしまっているのかもしれません。

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    1.  現場でしか身につかない経験知というものは確実に存在するでしょうしそれが重要であることは至極承知しているのですが、どうもこのところこの辺の考え方に変化が起きてます。確かに近年はなんでもかんでもマニュアル化が進んできておりますが、これは逆に言えばマニュアルである程度対応できるようになり、繊細な能力があまり必要じゃなくなってきたということのように思えます。にもかかわらず日本はまだ技術者信仰が激しく、現場での経験が大事だとかやや過剰に言い過ぎなのでは、などと生意気に感じるこの頃です。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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