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2008年10月31日金曜日

現代の若者論の間違いについて その二

 前回の「現代の若者論の間違いについて」の記事のコメントを受けてちょっと思い出したことがあるので、それについてここで細かく解説しておきます。

 まず寄せられたコメントの内容ですが大雑把に言うと、かつての60年代から70年代の全共闘の時代の学生、つまり当時の若者はそれなりに社会主義国家の建設など、方向性はともかく夢があったのに今の若者にはそういう夢もなければ追いかけるという行為もない、という内容でした。

 これを受けて私も思い出したのですが、現代の若者に意欲がない原因には私が挙げた「将来がすぐに決まってしまう」のともう一つ、「目指すべき社会モデルがない」というのも挙がってきます。
 現代の歴史評論家がほとんど一致した見解を持っているもので、戦後のあの混乱期から日本が驚くべき復興を果たすことが出来たのは、国民全員でなんとかこの国を復興させようという強い意欲があったからだといわれています。このように、はっきりと形にされない物ながらも社会の目標というのは意外に人間を強く動かすものであります。それこそ私が紹介した文化大革命での上山下放運動で農村に入った若者が恐ろしい勢いで土地を開拓、中にはそれこそ土を掘りぬいて山と湖を一挙に作ったという例もありますが、こうした行動が出来たのは国家への強い意識があったからだと私も確信しています。

 そして日本の大学で学生運動が華やかなりしころも、ひとまずは社会主義国家建設という大きな目標を若者たちは共通して抱いておりました。結果から言うと社会主義国家像はソ連の崩壊とともに完全にその姿を失ってしまったのですが、やはりあの時代の大学生たちが友人の言葉を借りるとゲバ棒を振り回してあんだけはちゃめちゃにやれたのは、こういった目指すべき社会像を明確に持っていたからだと思います。

 それに対して現代はというと、はっきりいますが目指す社会像というのは個人レベルは除くとして、ある程度の集団単位で共通したモデルは一切ないといっていいでしょう。自民党にしろ民主党にしろ、今じゃ全議員に統一した意見すらほとんどない状態ですし。
 これは何も私だけでなく佐藤優氏も同じようなことを述べています。どんな国にするかというのは本当に生活の中ではごくごく些細な意識かもしれないが、全体で見るとこの社会モデルは非常に大きな力になり、本来ならば政治家が作らなければならないところを今の日本ではそれを作れる政治家がいなくなったと言い、逆にそういったモデルをこれから作っていく上で期待しているのは小説家だと佐藤氏は述べています。

 もちろんこういった社会モデルの欠如に対して危機感を持っている人は少なくなく、最近では恐らく「国家の品格」の藤原誠彦氏が強い問題提起とともに自らの提案を広く主張している人物の一人でしょう。藤原氏はかつての日本は「富と平和」という社会モデルがはびこったがバブル崩壊とともにそのモデルは崩壊し、これからは武士道に則った「教養のある国、日本」というモデルを日本人全員で共有すべきだとその著書の中で主張しています。まぁ私も、モデルが何もないよりかはこういう風なモデルを持つべきだと思います。

 もう一人新たな社会モデルを提言している人間を挙げるとすると、こちらは藤原氏以上に政策的なモデルとして、東大教授の経済学者の神野直彦氏が「スウェーデン型高福祉社会」というものを唱えています。この説はワーキングプアーなどが注目を浴びた2006年位にはそこそこ広まったのですが、心なしかこのところは急激にトーンダウンしているように見受けられます。

 この目指すべき社会モデルというのは言い換えると、「どこに誇りを持つか」というようにも考えることが出来ます。自分の国はこういうところに誇りがある、そしてそれを維持していかねばならないというような漠然とした意識でも、人間はこういうものによって行動意欲が強化されると私も考えています。
 では私はどんな理想の社会モデルを持っているのかとなりますが、単純に言って「真面目な人が損をしない社会」というのが私の理想です。敢えて名づけるなら、「アリとキリギリス型社会」といったところでしょうか。少なくとも、これは別のブログでも取り上げられていましたが、日本はもう少し博士号取得者に対して社会的に正当な評価をするべきだと思います。あの中国ですら、きちんと企業でも給与などで評価をしているのに……。

3 件のコメント:

  1.  本題とはずれますが、武士道や愛国心などばかりに目にいってしまうのが、日本の病のような気がします。怠け者や意欲がない者も、それはそれで認めてやってもいいのではないのかと思うのです。無職でぐーたらする人に無理に働けといわんでもいいと思うのです。私は勤勉は日本の美徳という概念に縛られ、心の余裕がなくなっているのではと感じています。そんな現状に武士道など教育してもかえって自殺率が上がりそうだと思うのです。いわゆる集団主義にかわって、個人主義という概念が今必要だと感じています。
     また先日白金台や麻布といった高級住宅街で麻薬の取引をしていたイラン人が捕まりました。購買者に主婦が含まれていたようですが、ある自称ノンフィクション作家が「セレブ層で、ドラッグをすることがひとつのステータスになっている、そういった社会が出来上がってる」といったわけの分からないことをほざいていました。中学生のヤンキーがタバコを吸う動機と一緒ですか。メディアがドラッグ問題にこのような集団主義を前提にした見解しか出せないのも問題だなぁと思いました。

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  2. ロックマンさんの意見に賛成です。私も個人主義の信奉者です。

    万人に共通の社会モデルというのは現在の日本では存在しえないし、それを求めている人も少ないと思う(少なくとも、若い世代は)。
    社会への規範意識も薄いし、社会に何も期待していない(社会が何か自分にプラスになることをしてくれるとは思えない)。だから、社会に貢献しようという意識もない。簡単に言ってしまうとこういうことだと思う。

    国家とか社会という観点でものを語りすぎるというのは、ロックマンさんが言及しているように、メディアの傾向であるし、社会の傾向であると思う。でも、社会というものが個人にとって価値あるものとして認識されていない以上、人間の内面に関する問題を社会というものさしで見ることは見当はずれな結論を導くことになる。

    「先が見えているから若者のやる気がない」という花園君の主張は的を射ていると思う。花園君はこの状況を問題である考えているようだけど、むしろ僕は評価している。所詮人間のすることなんて価値がないことばかりというのが僕の信念であり、それを多くの人が共有していることの一つの現れともとれる現象だから(まあ、人間の行為を価値あることであると信じることができる人はある意味幸せな人ではあると思うけど)。それでも、死にたくない人は生きていくしかない。そのために重要なのは、人間社会が発展を遂げることよりも、個人が自己の趣向に基づいて行動することによって、自らを救っていくことだと思う。

    個人に対する社会の重要性が低下している現状では、社会単位でものを考えるのではなく、個人単位の視点がより重要でしょう。
    いっそ、「自分のことは自分で何とかして」と国家が言ってくれた方がすっきりするかも。

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  3.  相変わらず二人とも、痛いところを突いて来るなぁ(;´Д`)ハァ

     確かに二人の意見もごもっともで、私もちょっと集団主義的価値観で言い過ぎた気もします。ただ言い訳をすると、私はやっぱり日本人はこれまで培ってきた文化の関係から、そこまで個人主義的になりきれないんじゃないかと思います。

     私が子供の頃からアメリカ型価値観による教育が強まって、それこそ継ぐ者さんの言うとおりに「自分のことは自分で」という教育がされましたが、周りを見ているとやっぱりそこまでなりきれない人の方が多い気がします。そりゃロックマンさんや継ぐ者さんみたいにしっかりしている人、もといちゃっかりしている人ならともかく。

     日本では絶対的に、自分個人じゃ自分を律する価値観を作ることが出来ない人が大多数な気がします。そういった人にはやはり、「これが答えだ」とばかりに何かのモデルを提示してあげなければいけないと、私は考えています。自分でも、ちょっと気負い過ぎな気もしますが。

     ただこういいながら、前の記事ではもっと集団より個として日本人は強くなるべきだ、って言ってるんですよね私も。
     最近だとニートやフリーターなど、以前より社会的視線を気にしない人間が増えてきているのでちょうど今は集団主義と個人主義の過渡期にあるのかもしれません。もし今の若者世代が社会で中心になってくれば、これまでのアメリカ型教育の結果が出てくるかもしれませんね。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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