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2008年12月26日金曜日

多様性を壊す存在

 私がよく人にする話に、アッシリア帝国とアケメネス朝ペルシアの対比があります。
 どちらも古代オリエント地方を統一した王国ですが、アッシリアは異民族に対して圧政を敷いて統一後まもなく反乱を招いて崩壊した王国で、後者は逆に異民族に対して融和的な政策を取り自治も認め、マケドニアのアレクサンドロス大王が責めてくるまで数百年もの長い間維持した王国です。

 この話で私が何を言いたいのかというと、歴史的に民族同士の異文化や違いに対して寛容な社会ほど安定し、長持ちするという事実です。何もこの例に限らず歴史的に国民や異民族、異宗教に対して圧政や弾圧を行った君主(ローマのネロや秦の始皇帝など)は批判され、逆に宥和政策を取った君主(アイユーブ朝のサラディンなど)は高く評価される傾向があり、社会的にも後者の宥和政策を取る国の方が反乱も少なく、また治世と呼ばれるほど安定した社会を築いていることが多いです。

 このブログでも私はあれこれ社会問題などをよく取り上げていますが私がそうして訴えていく中で社会や読者に何を一番求めているのかというとずばり、「社会を安定させることへの重要性」で、私は安定した社会において初めて人間は自身の幸福を追求、実現できるものだと考えております。
 ちょっと話が抽象的なのでいくつか例を出すと、たとえば戦争や紛争、法律の形骸化が起きてしまえば大抵の人間は人生設計を行うことが出来なくなります。戦争に至っては、学校で勉強して好きな職業につきたいと若者が願っても男性の場合は無理やり徴兵されたり、女性でもいろいろな面で生活で苦労を強いられることになり、このように社会が安定しなければ人間は自らが望む行為を一切実現出来なくなります。まぁぶっちゃけ、社会が安定していることに越した事はないと考えてください。

 では社会をどのように、またはより安定させるにはどうすれればいいかですが、政治や啓蒙活動をしっかり行うのはもとより個人単位でそれを最も大きく左右させるものはといったら私は「慣用性」、つまり自分とは違うものに対してどれだけ許容できるかという腹の太さが一番影響すると考えています。
 根拠は、と言われたら実は結構曖昧で、先ほどの歴史的事実の例くらいしかありません。ただ皆が皆して似たような人間ばかりで構成される社会に対して、いろんな人間がいろんな意見を持ち合い。共有するといった社会の方が傍目にも活力があるように思え、またそんな社会ほど幸せそうな気がします。

 ちょっと力の入った説明を行いましたが、要するに私は様々な意見、文化を持ついろんな種類の人間が相互に認め合って協調していける社会を理想としており、その理想の社会のことを「多様性のある社会」と称して日々周囲の人間へとその社会の有用性と実現方法の啓蒙活動を行っております。

 この「多様性のある社会」に何故先ほどの「慣用性」が関わってくるのかというと、たとえば日本人の感覚からしたら韓国人が食事中に肘を突くのを「無礼だ」とか思うかもしれませんが、韓国人、もしくは韓国の文化からするとそれはごく自然な行為です。こうした差異に対して、「相手は相手なんだし、自分は自分なんだ」と互いに軽く流し、食事中にそれぞれのマナーを認め合っていられることこそ多様性があると言え、相手に対して自分のマナーや文化を押し付けず、逆に許容する慣用性が必要となるからです。
 まぁさすがに、あからさまに周囲に対して実害を生みかねず、社会に対して害しか生まない「生贄」や「報復」といった文化、悪習までは許容する必要はないですが。

 私が何故こんな社会を目指すのかというと、一つには絶対多数の幸福の実現で、もう一つは私自身が周囲とははっきりとわかるくらいに毛色の違う人間ゆえにこれまで様々な面で差別されてきたと認識しており、自分が有利に生きれる社会に実社会を持っていくためと、自分のように変わっているだけで辛い思いをする人間をこれ以上出したくないとの願いから来ています。

 そんな私にとって、今回の記事の題となっている「多様性を壊す人間」というのは不倶戴天の最大の敵であります。
 この多様性を壊す人間というのは具体的にどのような人かというと、単純に言って些細な違いすらも認めず自らの流儀や価値観を他者に強制的に押し付けようとする人間です。たとえば特定の地方や学校の出身者であるだけでほかの人間と差別したり、特に実生活に影響を及ぼすことでもない意見の違いから徹底的に相手を批判したり実力行使を行う人間のことです。
 私の体験だと、高校生の頃の学級会で文化祭に何を出すのかと案を皆で募集していたので私が一つの意見を出すと、「お前なに言ってんだ!」と怒鳴られたことがあります。これなど、意見を決定する段階でもないにもかかわらず他者の考えを否定する典型的な例でしょう。

 細かい根拠までは言いませんが、このような人間こと固定した価値概念を持ち他者の意見や価値観を認めない人間が増えればまず間違いなく多様性は薄まり、非常につまらなくてまた安定性のない社会になると私は確信しています。そのため、相手の価値観や違いを出来るだけ認めろと言っておきながら我ながらやや矛盾したような意見となるのですが、私はこのような人間を可能な限り排除することこそ自分の使命だと考えています。

 ここでようやく前回の記事の話に戻ります。前回の記事で私はしつこく私に自らの入っている宗教に入信しろという元友人に絶交をしたと書きましたが、私は元友人と最後に会った段階で、「彼はきっと、彼の宗教に入信しないでいる私の存在を許容出来ないのだろう」と認識しました。言ってしまえば、彼は彼の信じるものを信じ、私は私で信じるものを信じ続けることが、お互いの付き合いになにも影響を与えるように思えませんし、この程度の相手の価値観を認め合うことはそれほど難しいことではないと思います。
 しかし元友人はそれが出来ませんでした。こんな瑣末な意見や価値観の違いすら認められず、あくまで自己の宗教を相手に押し付けようとする行為はまさに多様性を壊す存在でしかありませんし、会う度に自己の宗教の正当性を怒鳴られ続けて私ももはやこれ以上相容れることは出来ないと感じ、絶交するに至りました。

 私は別に宗教が何でもかんでも悪いというわけではありませんし、勧誘することも宗教の存在理由上からあってしかるべきだと思っています。
 今はどうだかわかりませんが、京都の東本願寺では門の前に大きな看板に、
「バラバラで一緒」
 という文字が長い間書かれており、私の理想はまさにこの通りです。極論を言えば、宗教家にとって何が重要なのかといったら相手の宗教をきちんと認める態度です。相手の宗教を認めた上で自分の宗教ではこんなだが、もしよければやってみないという具合で勧誘が出来ないのであれば、それは相手の価値観を根本から見下した態度ではないかと思います。元友人に私は、それを感じました。

2 件のコメント:

  1.  自分の価値観しか認められないというのは確かに、人間としてかなりのマイナス要素ですね。
     
     しかし、どこが悪いというはっきりとした指摘はできませんが、僕は多様性を持ちながら自己を確立できるという人間は、考え方が優れた人にしかできない気がします。

     現実の人々は例え多様性をもったとしても、ふわふわと周りの雰囲気に流される人がほとんどなのではないでしょうか?
     

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  2.  この話は自分で振っといてなんですけど、非常に複雑で難しい問題です。書いてて自分でも思ったのですが、私自身も今回の内容を完全に理解しているとは言いがたく、そんな状態の人間が書いているので多分読むほうでもきちんと理解できる人はいないのでは、下手をしたら妙な誤解をもたれるのではないかと思いながら書きました。

     私もサカタさんの言うように、多様性を持ちながら自己を確立するというのは、やっぱりある程度人格に優れていなければ出来ないと思います。そう言うのも言い方は悪いですが、私から見て賢い人との議論では結構きわどい意見を遠慮なく言えて、また相手もそれに応じてきちんと対応してくれるのですが、逆に賢そうでない人と議論をするとこちらが全然意識していない意見を過剰に取られ、挙句にはこちら側の意見や価値観を全く理解してもらえません。

     ただ多様性を主張しても、私もサカタさん同様、ふわふわした人間がふえるだけなのかなぁという気がします。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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