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2009年1月22日木曜日

失われた十年とは~その二二、モラルパニック~

 とうとう結論部です。思えばここまで長かったもんだ。
 それでいきなり結論ですが、私がこの連載の最初の記事にて、「私はこの失われた十年とはモラルパニックの十年と言い換えられる」と言ったように、この時代に日本は一種のモラルパニックが起こっていたのではないかと言いたいのです。そもそもこの「モラルパニック」というのは一体どういう意味の語なのかですが、リンクに貼ったウィキペディアの記事に書いてあるのがきちんとした定義だと、どうも私の言いたい意味とは少し違うような気がします。実を言うとこのモラルパニックという言葉自体を私はあんまりよくわかっていないのに、何故だかこの失われた十年を考えた際にひょいと私の頭に浮かんできたから使っているだけで、実際の意味とは少し隔たりがあるのも当然かもしれません。なんで浮かんできたのかって言うと、そりゃやっぱ「私のゴーストが囁くのよ」としか言えないのですが。

 それで具体的な私の定義こと失われた十年についての見解を述べると、それまで戦後一貫して歩んできた高度経済成長の下で作られた、出来上がった日本人の概念というものが一挙に崩壊、または否定されて、根本からとまでは言いませんが様々な概念が引っくり返された時代なのではないかと思います。
 まずこの時期にひっくり返った概念で最も代表的なのは、日本は経済大国だという自信と誇りです。バブル崩壊以後の長期不況と就職氷河期によって、「一生懸命働けば必ず報われる」というような、もっと言うなら残業した分だけ報酬がもらえる、期待できるというような概念が崩壊したため、今もなお労働の意義や価値については迷走を続けております。更には就職氷河期の影響を受けて、それまでの「いい大学からいい就職先で定年まで一直線に一安心」という規定されたエリートコースも大きく変わって雇用の流動化が起こっています。

 そしてもう一つの大きな概念の変化がちょっと前まで書いていた治安への意識です。「水と安全はタダの国」と言われてきた日本ですが、度重なる大規模災害や犯罪事件によってすっかりこの意識は低下し、ひいては「日本は国際平和のためにある」というような意識にも影響を及ぼしたのではないかと思います。
 なにもこれらの基本的な概念に限らず、細かいところでも十年の間とはいえいろいろ変わっており、その中には戦後一貫して持たれてきて発言することすら許されなかった改憲についての意識などもあり、こういった点から私は失われた十年は戦後初めて起きた大きな曲がり角に当たるのではないかと考えるのです。

 では何故このような意識の変化が起きたかですが、一つの契機はバブル崩壊です。しかしこれ自体はまだそれほど日本人の意識に強い影響を与えませんでしたが、その後延々と不況が続いただけでなく、阪神大震災やオウム事件など社会を揺るがす大事件が連続しておき、97年の山一證券破綻によってこれまでの日本はもう別物なのだという風に強く意識されたのではないかと思います。

 その結果何が起きたかと言うと、ここからが一番私が伝えたい内容ですが、私が思うに当時の日本はそれこそ明治の頃の廃仏毀釈のように、以前から持っていた概念をとにかく捨てなければ、という風に社会全体で躍起になっていたのではないかと思います。
 過程はこうです。それまで日本は戦後一貫として固定した概念を持って成長し続けそれに対して強い自信と自負がありましたが、長引く不況や社会不安によって今起きている問題の原因はそれらの固定した概念だと考え、それらはもう古い、使えないといったように意識するようになり、本当にそれまでの概念が正しいのか間違っているのか、効率的なのか非効率なのかというようなことを考えずただ単に、「それまで持っていた概念だから」という理由でひたすら投げ捨てようとしたばかりか、それらの以前からの概念と対極を為す概念、それこそ経済概念だと欧米を中途半端に真似た成果主義のようなものを好んで取り入れるようになっていったのではないかという具合です。逆を言えば、それまでの概念を否定するものなら何も考えずにどんどんと取り入れようとした節すらあるのではないかと思います。

 この例で一番代表的なものは今挙げた成果主義で、そのほかには憲法意識、そして一番大きいものはそれまでの概念をすべて覆して破壊して見せると主張して誕生した小泉政権でしょう。このように過去を断絶させるものにこそ未来があると日本人は考えたのではないかと思い、その一方でそれまでの概念を捨てたものの代わりの概念が今しばらくないため、よくわからないオカルトや文物がヒットしたりしたのではないかとも考えられます。
 そしてもう一つ大きく変化したものとして、先が見えない、わからないと強く認識することによって、人生とか生き方に対して刹那的になっていったようにも思えます。未来をどうするかよりも現在をどうするかに強く意識が向かうようになり、女子高生の援助交際が大きく取り上げられたり変な小説が芥川賞に選ばれたりとしたのではないかと思います。更に言えばこれは「カーニヴァル化する社会」の作者の鈴木謙介氏が言っていたことですが、現代に至ると「以前までの自分とはもう関係がない」というように、過去と現在にも意識の断絶が起きているのではないかという主張もあります。

 あまり自分でもまとめていないのでわかりにくい記事となっていますが、改めて要約して述べると、要するに失われた十年によって日本人は社会不安を感じ、なんだかよくわからないけど今のままじゃ駄目なんだとばかりに自己否定をやりだした、というのが私の意見で、その自己否定こそがモラルパニックなのではないかということです。
 もう何度も変わった変わったと言っていますが、この失われた十年における日本人の意識変化は戦後としては大きな変化ではあるものの、60年前の戦前から戦後への変化に比べればちっぽけなものだと私は思います。それでも一つの歴史の曲がり角としては捉えてもよいのではないかということで、このようなわけのわからない考えを連載記事にまとめたというわけです。

 これにてこの連載の主要な解説は終えますが、明日はボーナスステージとばかりにじゃあ一体どんなものが変化したのかを一覧にしてみようと思います。ゲームの「サイレン」も終わっているので後顧の憂いはないし……何気にここ二週間は「サイレン」がやりたくてしょうがなくてブログを書く時間とどう区切るかでやきもきしてました。

6 件のコメント:

  1.  ゴーストが囁くのなら、極端な話なにをしてもいいと僕は思ってます。

     確かに、その時代を過ごした人間として今までにないものなら見境なく取り上げられていた感じがありましたね。そして、今までのものはすべて否定されていたと思います。まさに「政界の偽シヴァ神」こと小泉氏が選ばれたのはそういう背景があったからだといわれれば、確かにそうかなって思います。結局あまり変わらなかったけど。

     本題とは外れてしまいますが、少し引っかかったフレーズとして、「現代に至ると「以前までの自分とはもう関係がない」」ということですが、関係はあるが、今の自分は過去の自分ではないかなって思います。人間は、よくも悪くも変化していく生き物であると考えているので。
     

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  2. >要するに失われた十年によって日本人は社会不安を感じ、なんだかよくわからないけど今のままじゃ駄目なんだとばかりに自己否定をやりだした、というのが私の意見で、その自己否定こそがモラルパニックなのではないかということです。

    これは私も常に感じていることです。
    私は今の日本人に必要であるのは「今を楽しむこと」。「適当さ」なんじゃないかと思います。
    日本人はまじめすぎる、もっと力を抜いて、適当にやったらいいと思うんですよwww
    勤勉が美徳っていう概念が、マイナスに働いているようにしか思いません。

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  3. >サカタさんへ
     以前までの自分との断絶の話はなかなか面白いので、こんどその鈴木謙介氏の主張を書きますね。何気に私の卒論だったし。

    >ロックマンさんへ
     前にも書きましたが、今がちょうど集団か個人かの過渡期なんでしょうね。私なんかはまだ集団意識が強いですが、この際一気に個人主義に舵を切るべきかなともこのごろ思います。

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  4. 【モラルパニックに巻き込まれないためには・・・】

    モラルパニックが起こった根本的な原因は、人間社会の共通認識に基づいてしか自己を評価できず、自己肯定もできない人間のもろさだと思う。社会に流布した価値観に従った行動が利益に結びつく間はいいけど、そうならなくなった場合、新たに社会の共通認識を醸成するのは時間がかかる。社会全体の利益を考えた場合(社会に都合のいい人間を大量生産する場合)には不可欠な過程ではあるけど(往々にして、共通の認識というものは、社会にとって都合がいい)、人間個人の幸福を追求するには非効率なシステムであり、個人的には不要だと思う。もっとも、自分以外の大多数はそれを信じていてもらったほうが都合がいいけど。

    社会の共通認識の変化によって自己の存在が大きく揺らいでしまうなんて、自分の頭で物事を考えていないってことでしょう。モラルパニックの結果、自分でなんとかしないとっていう価値観が浸透してきたのは、それぞれの個体にとっては非常にいい傾向だと思う。

    社会システムや社会共通の認識や価値観なんてものは、依存するものではなくて利用するものでしょう。社会や他者への依存・接触は、多いほどリスクは増す一方で、得られるものは少ない。自分にとって必要なものを持っている他者なんて数えるほどだしね。

    というわけで、個人的には以下のことを実践することでリスクを回避してます。

    『孤独に歩め、悪をなさず、求めるものは少なく、林の中の象のように』

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  5. >継ぐ者さんへ
     自分で自己を確立できる人は何も問題ありませんし、私も継ぐ者さん同様に依存しないで生きていける人間を皆目指すべきだと思います。
     しかし、やっぱり大半の人はこれが出来ないと思いますし、夢想だにもしないでしょう。そういった人間に対して、やっぱり政治家や文学家が何かしら大まかな生き方を提示してあげるべきなんじゃないかと思います。今思うと、池田勇人元首相が所得倍増計画を出したのは意義深い気がします。もっとも、これは当時の時節に合っていたものの、近現代に合わなくなったのに維持しようとしたのが平成の失敗ですが。

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  6. 確かにそのとおりだと思う。価値観を外からまるごと取り入れて(多くの場合、その自覚もないまま)、その価値観のもとに自己を形成し、外界を認識する人が大多数である状態は今後も続いていく可能性が高い。そして、そういう人にも自己肯定してもらわないと社会は成り立たないからね。

    ただ、個人的には、自己の存在について考えず周りへの依存度が高い結果として不安定である人は、自己の選択によって構造上の欠陥を抱えているわけで、自業自得だと思う。

    それを救うのが政治や思想家の使命というのはその通りだと思うけど、現在の情報化社会で社会の共通認識を形成するなんてできるのかな。現状で共通認識を形成しようと思ったら、かなり大掛かりな言論統制や情報規制が必要だと思うけど、それって今の日本ではできないと思う。どれだけ権威ある人が叫んでも、それは一つの意見でしかないと処理されるんじゃないかな。

    これからは、インターネットの発達によって特定の情報に左右されず、さまざまな情報にアクセスして情報の取捨選択をすることを通して、自分に合った価値観を形成する人が増えて、そんな人と話したり、その人の本やアニメ等の作品を通じてインスピレーションを得たることができたらなーと期待してる。
    まあ、ただ情報に振り回されるだけの人も出てくると思うけど。

    現在は、確実に集団意識が低下して、個人主義が台頭している。というのも、社会の幸せと個人の幸せが一致してないから。僕は、結局のところ、個人主義を追求していくことでしか個人個人は救われないという状況になってると思う。

    現状を変えるには、社会のためになることが、個人個人の利益につながり、社会の共通認識が個人の幸せを考える上でも有用であることを実践して見せなければならない。それが政治家や思想家にできるかな。

    そういう意味では、高度経済成長の時はよかったよね。日本と自分の幸せが一致している人が多かったんだろうな。所得倍増か・・。花園君がいうように、ここらで戦争でも起こったら状況は変わるんだろうな(破滅的なやつじゃなくて、代理戦争的なものね)。

    最後に、モラルパニックの話と権威の失墜の話はおもしろかった。ありがとう。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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