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2009年2月26日木曜日

満州帝国とは~その二、二次大戦前の中国~

 日露戦争後、満鉄の経営権を握った日本が後に満州を完全に占領しようとしたのは植民地獲得の野心があったのは言うまでもありませんが、当時の言語に絶するような中国の混乱した状況がその野心を強くさせたというのは間違いありません。今日はそれこそ普通にやっていればまず受験生はまず勉強しないであろう、一次大戦から二次大戦に至るまでの激しい中国の歴史を紹介しようと思います。

 日清、日露戦争の後、中国は今でもトラウマに持つくらいに列強諸国から次々と無茶な要求を出されては領土を割譲されるなど、文字通り国際社会の食い物とされていました。清朝としても内心は穏やかではなかったものの外国に対抗できるだけの力もなく、また国内すらも徐々に抑えきれなくなっていたために要求を受け入れざるを得なかったそうです。
 そうした清朝の態度にタダでさえプライドの高い中国人は納得するまでもなく、こうなれば日本の明治維新を見習い、清朝を倒して強固な体制を新たに作るべきだという主張が徐々に強まっていき、各地で反動勢力が次々と反乱を起こすようになっていきました。

 そんな反動勢力の中で、ひときわ抜きん出た存在となったのが辛亥革命で有名なあの孫文でした。
 彼は外国や軍閥などから文字通り手段を選ばずに支援を仰いで支持者を増やし、最終的には孫文らを討伐しに来た清朝の将軍であった袁世凱との間で、袁世凱を臨時大総統こと革命後のリーダーに仰ぐことで取りこんで清朝を崩壊させるに至りました。
 なお余談ですが、孫文は中国では一般的に「孫中山」と呼ばれていますが、この「中山」という文字は彼が日本にいた頃に中山さんちの表札を見て気に入って自分の名前にしたことが由来で、ひいては彼が着ていたことで後に定着した中国の国民服も「中山式」と呼ばれています。

 こうして清朝が滅んだことにより新体制を作るぞと息巻いたものの、残念ながら中国ではその後全体をまとめる強固な政権がなかなか生まれず、袁世凱のスタンドプレーや孫文の死によってますます統合が緩んだことが拍車となって結局は各地で軍閥が台頭し、あっちこっちで勝手に自分の領地を統治しては縄張り争いをするという、それこそ日本の戦国時代のような群雄割拠の世界が広がっていきました。
 これは首都である北京でも同じことで、ある軍閥が占拠していたかと思ったらすぐに負け、また新たな軍閥が占拠しては新たな統治をするというようなことが全国各地で起こり、それ以前の中国よりずっとこの時代に混乱が増すこととなってしまいました。なおこの時代より少し前の革命期になりますが、魯迅の「阿Q正伝」では清軍と革命軍が交互に地域を占拠するたびに辮髪があるかどうか大問題になるという、当時の不安定で反復常ならぬ世情が描かれています。

 こうした中で日本にとって一番関心の強かった満州において強い勢力を持ったのが、こちらは中学生でも習う馬賊出身の張作霖でした。
 先に馬賊の定義について説明しておきますが、正直なところこの馬賊という名称は誤解を生む恐れがあるためにあまり良くない名前で、日本語の意味合いから言うなら「傭兵団」と呼んだ方が適当だと思われます。既に述べたように当時の中国は果てしなく混乱し、北斗の拳じゃないけど暴力による強圧的な支配から略奪まで日々横行していました。そんな環境ゆえにお金のある地主などは腕に自信のある人間を夜盗であろうと構わず集めては、広大な満州の平原で必須となる馬を援助するなどして自警団を各地で組織するようになっていき、そのようにして生まれた独立した自警団こそがこの当時に馬賊と呼ばれた集団でした。

 これら馬賊は地主などのスポンサーから援助を受けている間は担当地域の治安を守り、支援が打ち切られるや別の地域で活動するかそのまま元の夜盗へと成り下がるかし、言うなれば半兵半盗のような存在でした。
 張作霖などはこうした馬賊のリーダーとして徐々に活動地域を広げていき、支配地域のスポンサーや満鉄を所有する日本も混乱が続くぐらいならまだ力のある人間によって統治されることを望んで彼を多方面で援助したことにより、張作霖の勢力はいつしか現地の行政も担当するようになって軍閥へと発展していったのです。

 とはいえ所詮は軍閥で、他の軍閥との抗争に敗れたり援助が打ち切られたりするとあっという間に勢力を失うので、中国全体で一応の秩序が生まれるには蒋介石による全国統一作戦こと「北伐」が行われるまで待たなければなりませんでした。その北伐を行う蒋介石に敗北した上に日本からも援助を打ち切られた張作霖の最後はまさに落ち目の軍閥党首の典型で、1928年に河本大作によって奉天へと鉄道で逃げ帰る途中で爆殺されてしまいます。
 皮肉なことに、それまでの混乱期ではなく蒋介石の下でようやく統一が行われそうになった段階に至り、日本は本格的に満州へと謀略を仕掛けるようになり、三年後の満州事変によって行動に移されることとなるのです。

1 件のコメント:

  1.  なるほど。日本側からしか考えたことがなかったので勉強になります。日本の戦国並みに乱れていたとは・・・。まさに乱世だったのですね。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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