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2009年3月13日金曜日

私がスプラッターを好んだ理由

 別に今日に狙いを定めていたというわけではないのですが、私は四歳くらいの幼児の頃からスプラッター映画、っていうかジェイソンでおなじみの「十三日の金曜日」シリーズが大好きで、当時はよくテレビでもロードショーがされていたのでしょっちゅう毛布にくるまって恐がりながら見ていました。何でそんな小さな頃からよりによってこういう映画が好きだったのかというと、今でもそうですが当時は多分、あまりお目にかかれないような珍しいものがともかく好きだったのでそういった物珍しさ(流血なんてそうそうないんだし)から見ていたと思うのですが、小学生になった頃にはなんとなく別の意味も持ってきていたと思います。

 その別の意味と言うのもスプラッター映画特有の残虐性というかアンハッピーな情景や結末というもので、そういったものに対して人一倍強い興味を抱くようになりました。今もそうですが、小学生くらいの頃からテレビやマンガは何でもかんでもハッピーエンドで終わり、最後は皆で幸せになるという描き方に対してなんとなくうそ臭いような気持ちを覚えていき、むしろ世の中そんなに甘くないんだし、最後はどうあがいても救われないという話の方が現実に近いように思えてきたからです。
 我ながらこんな風に考える辺り当時から自分が斜めな性格をしていたのだなという気がしますが、一応成人になったいまでもこうした考えが大きく変わっているわけではなく、血を見るのが苦手でテレビドラマの外科手術シーンの出血描写だけでもくらくらきちゃいますが、残酷な描写のあるホラー、スプラッター映画を始めとして「ヘルシング」や「エルフェンリート」といった描写の激しい漫画も好んで見ています。

 もともとそのような残酷な情景のことを「グロテスクな」という表現がよくなされますが、このグロテスクという言葉の和訳は「生々しい」という意味で、いわば「現実に近すぎる」という意味合いなので、現実というのは本来残酷で見るに絶えないという意味なのかもしれません。
 別にこれに限るわけじゃないですが、私は何事に関してもうそ臭いのは嫌いです。それを言ったらB級ホラー映画自体がうそ臭さの権化みたいなものですがそれはそれでおいといて、普段見るテレビのニュースやドラマで描かれる世界というものに対してこのところそのようなうそ臭さを強く感じる様になってきています。

 だからと言って現実に近い話をドラマ番組として放映したところで、つまらない話だったり後味の悪い話ばっかりになって視聴率も稼げないでしょうが、それでも私は吐き気を催すような現実というものを見ていたいと常日頃思ってしまいます。そんなんだから漫画の「カイジ」も好きなのかな。

2 件のコメント:

  1. ホラーってのはよく分からないものへの根源的な恐怖だと思う。
    そういう意味では現実のホラーも現実味がなく、逆説的にドラマのホラーが一番現実的なのではないか、なんて思ったり。
    当然、よく分からないものを映像にするのだから陳腐になりがちではあるけどね。

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  2.  この記事はあまり自分の中で整理をつけずに見切り発車的に書いた記事なので、いわれて見ると確かに恐怖というものが何かしら作用していたようにも思えます。
     まぁこの辺の話も、突き詰めていくと段々とわからなくなってきちゃいますが。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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