昨日にちょっと触れたので、麻生首相が二月に行ったサハリン訪問の経緯とその意義を解説します。
・麻生首相、ロシア大統領と会談 戦後初のサハリン訪問(asahi.com)
リンクの記事は当時の朝日の記事です。生憎細かい部分までの解説がないのですが、ログを残しているだけでもまだマシでしょう。最初に言っておきますが、私はこの時のサハリン訪問は日本の外交的立場上、非常にまずいものだったと考えております。というのもこのサハリンに日本の首相がロシア側の招きに応じて訪問するということはサハリンの領土権、ならびに北方領土の領有権をロシア側にあるということを暗に認めてしまいかねない態度で、今後の領土問題に大して強い悪影響を及ぼしてしまうからです。
本題に入る前に、日本とロシアの間にある領土問題とその経緯について説明します。話は戦後直後の1951年のサンフランシスコ平和条約にまで遡り、日本はこの条約によってアメリカの占領統治から再び独立を得ることになるのですが、その際に復帰する領土の中には戦前に日本が保有していた南サハリンと択捉島を初めとした北方四島を調印文書に含まれていませんでした。仮にこの平和条約にロシア(当時はソ連)も調印していれば北方領土の話はソ連が領有することで終わっていたでしょうが、実はこの時にソ連側は調印内容に異議を呈してこの条約に調印しませんでした。
国際法上では通常、戦争後に対戦国同士で平和条約が結ばれることで国境と領土が画定されるのですが、サンフランシスコ平和条約にソ連側が調印しなかったのでアメリカを始めとした他国とは異なり、この時日露の間では領土画定は棚上げにされたわけです。その後日露は1956年に日ソ共同宣言によって国交こそ回復したものの平和条約は現在に至るまで未だに結ばれておらず、厳密に言えば未だに戦争状態が続いていることになるのです。
となるとどの領土に関する条約が日露の間で最後に結ばれたものになるのかと言うと、これはサンフランシスコ平和条約よりさらに昔の日露戦争後のポーツマス条約になります。このポーツマス条約では北方四島を初めとして南サハリンも日本の領土として日露間で確認され、事実戦前までこれらの地域は日本の支配下にありました。それが何故現在ロシア側は支配しているのかと言うと、言うに及ばずですが二次大戦中にこれらの地域へソ連軍が進軍し、占領したからです。
しかも二次大戦でソ連が日本へ進軍した時期はそれ以前に正式に取り交わされた、日ソ中立条約の有効期限内でした。ソ連が独ソ戦で非常に苦しい状況であった時期にすら日本は当時の同盟国のドイツに協力をせず中立を保ったにもかかわらず、ソ連は終戦間際になって日露の間で交わされた正式な国際条約に明確に違反をして進軍、占領をしたわけで、国際法に違反してソ連が占領しているのだからロシアは北方領土を日本に返せと日本外務省は主張しているわけです。
専門家でない私が言うのもなんですが、言うこととしては確かに日本側の主張に筋が通っているように思えます。折角ですのでついでに紹介しますが、二次大戦で日本は八月十五日で終戦して戦闘行為もその日を境に終わったとよく思われがちですが、実はそれ以後もソ連軍は火事場泥棒的に領土を奪っておこうとかまわず進軍を続けてきていました。ただ当時の北方守備隊が武装解除命令を受けてはいたもののこれらソ連軍に対して反撃して撃退を続けたので大きく領土を奪われることはありませんでしたが、下手したら北海道を丸ごと奪われていた可能性すらこの時はあったと思います。
そういうわけで日本外務省は北方領土を返還に向けて佐藤優氏などを始めとしてあの手この手でロシア側と交渉を続けてきたのですが、そうした努力をよそ目に今年二月に麻生首相はサハリンへ行ってしまったわけです。
日本側としてはこれまで択捉島を始めとした北方四島のみの返還を要求しており、先ほどの主張ならば北方四島同様に本来領有権のあるはずの南サハリンについては返還要求をしてきませんでした。これは暗に、「サハリンはくれてやるから北方四島は絶対に返せ」という立場を示していたのだと思いますが、かといってサハリンを根っから放棄していたわけでなく、佐藤優氏によるともしロシア側が返還交渉に乗ってくる態度を見せなかったら、「じゃあサハリンも返せよ」とばかりに要求度合いを高めるための無言の脅しであったそうで、サハリンの領有権を放棄するという態度はこれまで日本は一切示してこず、日本の首相も誰一人として足を踏み入れてこなかったのです。
それが二月、麻生首相がロシア側の招きで、しかもかつて日本に領有権のあった南サハリンに入るユジノサハリンスクに訪問したせいで、日本側が南サハリンはロシアのものだと国際的に暗に認めてしまったことになります。実際、現時点で仮にサハリンの領有権を主張しても、「あんた、前にここをロシアの地域として訪問したでしょ?」と言われてしまえばぐうの音も出ません。言わば先ほどの「無言の脅し」が事実上なくなってしまったことになります。
私からしても誰か外務省に止める人間はいなかったのかと悔やんでならない訪問だったのですが、何故麻生首相はそれにもかかわらずこの時に訪問を強行したのかと言うと、私の見方では麻生首相が自分の外交的功績を何が何でも作りたかったからだと思います。麻生首相は首相になる以前から自分は外交通だなどとあちこちで吹いており、総裁選においても現状では何もしていないけど北朝鮮の拉致問題を解決するなどと主張していました。しかし実際のところそういう場面がほとんど無いばかりか支持率が下がり始めた頃だったので、小泉首相が北朝鮮訪問で支持率を急回復させたように、自分の功績作りと支持率回復のために何も考えずにロシア側の招きに応じてほいほいとサハリンへ訪問したのだと思います。思えばサミットの帰国直後に解散を決意したのも、せめてサミットにだけは出ておきたかったからないかとすら今では思います。
となるとなんというか、麻生首相は外交通ではなく外交がしたかっただけということになってしまいます。ひどいと言えば、ひどいものです。
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