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2009年7月30日木曜日

映画「ウォルター少年と、夏の休日」について

ウォルター少年と、夏の休日(ウィキペディア)

 この映画を初めて見たのは、確かイギリスから帰国する飛行機の中だったと思います。私は今でもそうですがそれほど映画を見る人間ではなく、この映画も長い飛行機旅にへとへとになって時間が潰せるのならと思ってしぶしぶ見たような感じだったのですが、見終わってみるとそれほど強烈に面白いわけではなかったのですが何故だが深く心に残るような不思議な感覚がありました。
 その後、今年か去年かは忘れましたがちょっと前にこの映画がテレビのロードショーにて放送されました。さっきにも書いた通り私はほとんど映画を見ない人間で、テレビのロードショーに至っては以ての外というくらいに見ないのですが、何故かこの時だけはこの映画を初めから最後まで見ていました。

 そんな「ウォルター少年と、夏の休日」という映画ですが、あらすじを簡単に説明すると以下の通りです。

 主人公のウォルター(12歳くらい)は母親が資格取得の講座を都市で受ける間、半ば強制的に田舎にある大叔父の家に預けられることとなった。このウォルターの母親というのはあまりしっかりした人間ではなく、資格取得とは名ばかりで実際は自分ひとりで愛人と会うためにウォルターを預けるつもりで、また預ける叔父というのも実際に血のつながりがあるかどうかわからない人物だった。またウォルターを預ける前に母親は彼に資産家だと言われる叔父の資産の隠し場所を密かに見つけるようにと言い含め、なんのことはない、ウォルターを預けるのもそれが本当の目的だった。
 そうしてウォルターは大叔父と言われる二人の老人とわけの分からないままに暮らすこととなったが、その二人の老人は資産家だと言われるものの無愛想で頑固な性格で、財産目当てでやってくる人間からセールスマンまで毎日玄関先で発砲して追い返す、破天荒な老人だった。
 そんな破天荒な老人たちと暮らしている間、ウォルターはあることがきっかけに二人の過去を徐々に知ることとなる。二人は若い頃に一攫千金を狙ってアフリカに渡り、傭兵をやり、砂漠の王女と恋に落ち、王女をつけねらう道楽息子の取り巻きと王女を奪い合うといった御伽噺のような二人の過去を知り、最初はわけの分からない間だった相互の距離は徐々に縮まっていったまさにその時、母親が愛人を連れてウォルターを引き取りに来るのであった。


 というようなお話です。
 話のコンセプトとしては素知らぬ仲から徐々に打ち解けあうというよくある王道パターンなのですが、この映画がほかのものよりよかったと私が思う点は、主人公の少年の心の内の変化ではなく、彼と一緒に暮らす二人の老人の過去が徐々に分かっていくという、言わば打ち解け合う相手役の心情と過去にスポットを当てた点だと思います。そうした点もさることながら、駄目な母親と今まで全くの他人だった二人の老人のどっちに心を寄せるかという主人公の心の動きも見逃すことができません。

 ここで唐突に話は飛躍しますが、私は基本的に子供というのは逃げ場がないと考えています。親は子供が嫌いになれば捨てることができますが、子供は親を捨てることはもとより変えることもできません。それこそ真っ当な両親の元に生まれていれば何も辛い思いをせずに成長してゆけますが、以前より問題となっている児童虐待などを行う親の元に生まれてしまえば子供は逃げることもできず、自身の生存をひたすら耐えることしかできないでしょう。
 そんな子供にとって両親以外の大人、それも比較的近しい親類というのは数少ない重要な逃げ場の一つだと思います。私は周りにも自慢できるようないい両親の元に生まれましたが、そんな両親との間でもやっぱり反抗期の11歳から17歳まで(やけに長いな)はいろいろと溝が出来て大変な時期がありました。そんな時、私の叔父や叔母というのはいろいろと揉め事や悩みの相談に乗ってくれたりもすれば、ウォルター少年のように夏休みに自宅に招いてくれて自分の家とは違う環境で生活をさせてくれ、成人となった今になって思えばああした体験が一種の緩衝材のような役割を果たし、致命傷的な問題への発展を防いでくれていたように思えます。

 子供は基本的には親の元で生活するにしても、時折その環境下から一時的にでも抜け出す逃げ場というものが私は非常に重要だと思います。その逃げ場となるのは友人でもペットでもいいのですが、出来れば親と子供の間の目線に立てる祖父母や叔父叔母がなるのが理想的な気がいます。
 私にとっては叔父と叔母がまさにその理想的な逃げ場だったのですが、今朝その叔父が亡くなったということをお袋から連絡されました。肝臓が悪くなって酒は飲むなと医者から言われていたのに、死んでもいいから酒が飲みたい鹿児島人らしく全く言うことを聞かずに飲んでばっかだったそうです。叔父らしいといえば非常に叔父らしい最期だったのですが、この報せを聞いて自分の中では一つの少年時代が完結したような感傷を覚えました。

 今の私は成人しているだけでなく両親とも円満にやっているので「逃げ場」というものは必要ないのですが、今までその役割を果たしてくれた叔父には感謝の気持ちに堪えません。そして、今度は自分がそのような子供らの頼られる「逃げ場」にならねばと強く思うわけです。

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