・畠山重忠(ウィキペディア)
今日はそこそこ歴史を勉強していても意外と知られていない、平安末期から鎌倉初期に活躍した日本の武将の畠山重忠を紹介します。
恐らく大学受験で日本史を勉強された方は「畠山重忠の乱」という事件名だけは暗記されているかもしれません。日本史の教科書にはこの事件を、源頼朝が死去するや成立したばかりの鎌倉幕府では次々と御家人の反乱が相次ぎ、その反乱の中一つとして紹介されております。
これだけ聞くと畠山重忠という人物は野心的な人物のように見えますが、いくつか異説はありますが歴史の中の彼はこのイメージとは違う、というよりも程遠いまでに清廉潔白な武将像の人物です。
畠山重忠の名が始めて歴史に現れるのは、源頼朝の挙兵時です。1180年、以仁王の令旨を受けて源頼朝は打倒平氏の旗を掲げて挙兵をするのですが、この時は平氏からすぐに討伐軍がすぐ差し向けられた上に思ってた以上に呼応する武士が少なく、頼朝も一時は数人で雲隠れする羽目になりました。この失敗に終わった挙兵初期、頼朝方についた有力武士団の頭領の三浦氏を平氏の指示で討伐を行い、三浦氏の援助を当てにしていた頼朝を窮地に陥れたのが他でもなくこの畠山重忠でした。
その後頼朝が危機を脱した後、頼朝の元へ徐々に武士団が参集していたところで重忠も馳せ参じてきました。頼朝としては味方であった有力武士団の三浦一族を滅ぼした重忠に複雑な思いがあったでしょうが、それ以上に腰を抜かしたであろうが重忠のこの時の年齢でしょう。なんとこの時の重忠はわずか17歳で、本来の畠山家の当主である彼の父が京都に在任中であったために代理として率いていたに過ぎなかったのです。それにもかかわらず関東において名の知られた三浦一族を打ち倒し、堂々と頼朝の元へと帰参して来たのです。
もちろん頼朝は重忠に三浦一族の件を詰問したのですがそれに対し重忠は、当時は平家方の討伐軍がいた為に帰参が難しく、また本来の当主である彼の父が京都にいた為にやむにやまれず平家方についたと、臆することなく堂々と答え、これを受けて頼朝も重忠の帰参を認めるに至りました。
こうして源氏方についた重忠はその後の源平合戦において、目覚しいばかりの活躍を見せ続けます。基本的には源義経の下で槍働きを行うのですが、木曾義仲との宇治川の合戦では徒歩での一番槍を得ており、圧巻なのは平家との一ノ谷の戦いにおける鵯越(ひよどりごえ)でしょう。この鵯越は崖下の平家軍を急襲するために義経が先陣を切って騎馬に乗ったまま崖を下って攻め勝ったというエピソードですが、重忠の馬はこのときに崖にビビってなかなか降りようとしなかったそうです。それならばと重忠が取った行動というのは、なんとビビる馬を自らが担ぎ上げてそのまま自分で崖を飛び降りて行ったそうです。正直なところ、無理せずに馬を置いていけばいいのにと思わせられたエピソードです。
このエピソードのように剛力な重忠は一見すると武辺者な印象を覚えますが、文化的な素養も優れていたらしく義経の妻の静御前が頼朝の前で舞を疲労させられた際に伴奏を務めており、音楽にも造詣が深かったようです。
その後鎌倉幕府が成立すると創業の功臣として、また幕府内における重鎮として奥州藤原氏との戦いから各地の反乱鎮圧に参加し、公平な人柄と態度から名実ともに「武士の鑑」として周囲から高く評価されたそうです。
そんな重忠の人柄をうかがわせるエピソードに、こんなものがあります。
鎌倉幕府がある反乱を鎮めた際、反乱に参加した武士の首級を重忠の御家人が挙げたということで執権の北条時政らの前でその首級を差し出したところ、鎌倉時代最強のチクリ魔で有名な梶原景時が、
「待て待て、その首級はうちの御家人が挙げたところを横取りされたものだ」
という異議を呈しました。この景時の異議に周りが騒然とする中、重忠だけが落ち着いた様子でこのように言い返しました。
「はて、私はこの首級をその御家人から受け取っただけです」
この言葉の意味とは、重忠の御家人が首級を横取りしたのであれば、何故その本人に異議を申さずこの場で言うのかという意味です。重忠は御家人を預かる立場とはいえ、重忠本人が横取りをしたわけではなくて部下の手柄を報告したに過ぎず、真偽の確認などこの場ではどうしようもないではないかということもこの発言野中に暗に含まれています。この重忠の返答に景時も何も言えなくなり、この話が載せられている吾妻鏡によると周囲も景時を嘲笑って重忠への人気はますます上がったそうです。
こんな具合にいろいろと魅力のある重忠ですがその人気の高さゆえに北条氏の独裁を目論む北条時政に目を付けられることとなり、あらぬ謀反の疑いをかけられて百数十騎で鎌倉へ呼び寄せられて向かう途中、待ち伏せされていた北条一族を初めとする大軍の武士団によって殺害されました。なおこの際、重忠は側近から自分の領地に逃げ戻るべきだと進言されるも、
「もしここで逃げようものなら謀反の疑いが本当だったということになってしまう。それならば武士らしく、一戦交えて華々しく散ろう」
そう言って真正面に突っ込み、見事に討ち死にを果たしたそうです。享年は42歳です。
この畠山重忠の話のほとんどは鎌倉幕府編纂の歴史書である吾妻鏡に収録されているのですが、吾妻鏡は信用性の高い資料として評価されているものの、この畠山重忠の乱がそれを強行した初代執権北条時政がその後北条政子と義時に追放される名目となっていることから、二代目執権北条義時以降の執権政治の正当性を高めるために敢えて重忠が全般において美化されているのではないかと指摘されております。そういう意味では三国志における趙雲と似た特性がありますが、すくなくとも吾妻鏡においては重忠は一線級に魅力のある武将で、私も彼を知ったことから鎌倉時代に対して強い興味を覚えるようになりました。
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