さりげなく昨日から私のブログにもよくコメントをくれているサカタさんのブログ、「毘沙門道」とリンクを結びました。もしよければ私のブログ同様にご贔屓の程をよろしくお願いします。
それにしても、「毘沙門道」の検索でちゃんと引っかかってくれたが、多分内容を誤解して入ってくる人が多そうなブログ名です。
さてそれでは本題ですが、日本の一部のメディアでも報じられていましたが先日中国において三国志の登場人物である曹操の墓がついに見つかったというニュースが流れました。この曹操は私も前に記事で書きましたが三国志のもう一人の主人公とも言うべき人物で、日本人の間ではこちらも人気な織田信長のイメージと被るのか人気面では本来の主人公の劉備を凌いでおります。ちなみに昔光栄が出していた「ゲームパラダイス」という雑誌でのアンケートでは、趙雲、諸葛亮、曹操という人気順でした。
それで今日、ちょっとよからぬ企みをこのところしていて中国のニュースサイトを眺めていた所、現地中国でこのニュースが大きく取り上げられているのを偶然見つけ、折角なので今日はプロフィールに偽りがないということを一つ示すために、中国語で書かれたこのニュース記事を翻訳してご紹介しようと思います。
・曹操墓现安阳可能藏其遗骨
本日取り上げるのは「上海青年報」の記事で、早速如何に記事の翻訳文を載せていきます。
一代の梟雄、曹操の墓はどこにあるのか。
曹操の墓の場所を巡る1700年にも渡るこの謎に対し、河南省安陽県に駐在する考古学者らがついに特定ができたと昨日発表した。
曹操の墓とされる墓所の構造は甲字型で、西から東に向くように作られている。規模は大きく構造は複雑で、前後に部屋があるだけでなく左右にも四つ設けられている。墓を貫く坂道は長さ39.5メートル、幅9.8メートルで、最深部は地表から15メートルも距離があり、発掘隊の隊長はこれほど広大な墓所は始めてみたと語っている。
墓所は幾度か盗掘された跡があるものの、今回いくつか重要な副葬品が発見された。出土した土器は250個あまりとなり、多種多様の素材から様々な工芸品が見つかったが、何よりも銘の刻まれた石碑と遺骨が見つかったことが今回大きな発見であった。
出土した銘のある石碑は59枚あり、長方形をしており銘文には副葬品の名称と数量が書かれていた。そのうち八枚の石碑には「魏武王常所用格虎大戟」と書かれており、かつてこの墓より盗掘されたとされる石枕の上にも「魏武王常所用慰项石」と書かれていることから相通じる内容であった。これらの出土した碑文の文字を書くのに使われている材料はその書かれた時代や埋葬者の身分を調べる上で非常に重要となる証拠である。
この墓所の発掘中、考古学員は頭骨や肋骨といった部分々々の人骨を発見し、鑑定の結果それらは一男二女の三体の人骨で、被埋葬者とされる男性の年齢は60歳前後とされることがわかった。
~曹操の墓と証明された根拠~
文学作品の中で奸雄とされる曹操は、言い伝えによると自分の墓を守るためにわざわざ72体もの偽の墓を作ったとされる。では一体どうして今回見つかった墓が曹操のものだと断定されたのだろうか?
河南省文物局の発表によると、墓所の形状や構造、副葬品の時代考証を行った所後漢末期(本文では「東漢」と記述されている)のものだということがわかり、また文献上の記載が曹操の墓とされる特徴と一致した事が決め手となったそうだ。
主な根拠は六つあり、まず第一に墓の規模が非常に巨大で全長が60メートルもあり、墓所内の部屋の形や構造がこれまでに伝えられている曹操の魏王という身分の者の墓の形態と類似していることだ。また曹操の墓について書かれた文献の、「比較的高い場所にあり、(地表に)盛土や碑文がない」という記載と今回の墓の状況も一致する。第二に出土した土器や石碑の絵が早々の時代と一致し、第三に埋葬品に記されている記載が文献にある記載と完全に一致している。
三国志の「魏書武帝紀」によると、曹操は建安25年(AD220年)の正月に洛陽で死去し、二月に棺によって運ばれ高い丘の上にある「西門豹の祠から西の原っぱの上」に葬られたとされている。調査資料によると当時の西門豹の祠今日の漳河大橋から南に1キロの安陽県の範囲内にあり、今回見つかった墓はこの位置からちょうど西に位置しており、1998年に見つかった大仆卿驸馬都尉の墓志にも、曹操の墓の位置が今回見つかった場疎にあるとはっきりと書かれている。
第四に、文献にて明確に曹操は臨終の際に副葬品を必要以上に入れるなと命じたとあり、実際に今回見つかった墓にはその規模に対して副葬品はもとより墓所内の装飾も少なく、壁画もなく非常に質素なものである。兵器や石枕に刻まれている文字にはどれも、「曹操が平時に使用した」とかかれており、いくつかの装飾のきれいな宝石品のほかには曹操が日常携帯したであろうものしか見つからなかった。
第五に、最も大きな証拠として「魏武王」という銘文のある石碑と石枕があり、被埋葬者がその爵位を持った曹操である事を証明している。曹操は始めに「魏公」という爵位を持ち、その後「魏王」と変え、死後に「武王」と諡され、実子の曹丕によって「武皇帝」という諡号が与えられたため、史書には「魏武帝」と書かれている。出土した石碑にも石枕にもこの「魏武王」と書かれてある。
第六に、墓所内の部屋で見つかった男性の遺骨が60歳前後のものだと鑑定され、曹操が66歳で死去したと言う事実に一致する。
~発見の意義~
今回の発見は魏の歴史研究に大きな一ページを与える事となるだろう。記者会見の現場ではその重要な意義について重ねて専門家らからそう主張された。
「今回の大発見は文献上にある高い陸の上にあるといわれた曹操の墓の位置、彼の諡号、その他諸々の墓所の状況や副葬品の文献の記載との一致から信頼に足るものである。千年以上もこの謎に対して議論が交わされて、様々な間違った意見や曲解が作られていた」
ある専門家は今回の発見が様々な議論を解決する鍵となり、発掘品の年代の基準など曹操や周辺の魏史の研究に大きな貢献になるだろうと述べている。
~発掘隊隊長インタビュー~
曹操の墓が発見されたと報じられるや、弊社記者は発掘隊の隊長である河南省考古学研究書副研究員の藩偉斌氏にインタビューを行った。すでに様々なメディアから取材を受けていながらも藩氏は興奮しつつ、以下のように語った。
「曹操が後の時代に与えた影響は非常に大きく、72体もの偽の墓所の伝説など、今回の発見は非常に価値があるだろう。我々の発見は専念の謎を解いたわけなのだから、その影響も非常に大きい!」
藩氏は今回の発見を振り返って、当初は曹操の墓を発見する事になるとは思いもしなかったと述べた。06年にある人物からこの墓に盗掘が行われていると告発し、その後現地の公安が盗まれた発掘品の鑑定を藩氏らに依頼したところこの付近の発掘品が後漢時代のものだとわかり、発掘の必要性がある重要な墓だと言う事がわかった。
「発掘の開始前にこの付近は数え切れないほど盗掘がなされていたので、私はもとよりこの墓が曹操の墓だとは夢にも思いませんでした」
~曹操の墓は質素だった?~
曹操の副葬品はどのような感じだったのか? 同時代の貴族の墓と比べると質素なのか?
藩氏の解説によると、曹操は生前一貫として葬儀等は質素に行うべきだと主張していたのだが、というのも曹操自身が若い頃に盗掘をやらかしており、その目で数多くの墓が盗掘によって荒らされていくのを見ていたためと、生前からも節約の重要性を訴えていたことかが原因ではないかとされる。
「当時の長年に渡る戦乱の歴史から社会全体で生活水準は下がり、そのような環境から曹操は副葬品を質素にするべきだと提唱したのでしょう。実際に曹操は非常に節約家で十年間も同じ布団を使い続け、その臨終の際も粗末な服を二重に着ていたそうです。
この様に副葬品が質素ではあるものの、同時代の蜀や呉の帝王や貴族のように副葬品をを石で代替していたのとは違ってきちんと宝石を使っております。その一方、曹操の副葬品は同時代の墓と比べて陶器は非常に少なく、作りも荒いものです」
~72体の偽の墓の伝説は?~
1700年もの時間が経ってようやく曹操の墓は今回見つかったが、72体の偽の墓の伝説は一体どこから来たのか。藩氏が言うには、これは完全な根も葉もない伝説だったそうです。
「これは時代背景が大きく影響しており、曹操の墓が地表に何の目印もなかったことから唐時代以後に完全に位置がわからなくなってしまいました。その後の宋の時代に尊王思想が強まり、当時の文人から「お上をないがしろにした者」として曹操は奸臣だと批判されるようになり、その後小賢しい曹操は河北に72体もの偽の墓を作ったと信じられるようになっていったのです。
しかし清時代の末期に数多くの墓が盗掘に遭った所、偽の墓とされていた墓所からは東魏や北斉期のものだとわかり、現中国が成立後、我々考古学者は改めて発掘と研究を進め、今回ようやく曹操の墓だと証明する事が出来ました」
以上が記事の翻訳文です。すぐ終わるだろうと思っていたら想像していた以上に文量が多く、書いているうちに結構焦りました。荒い訳ではありますが、一度も辞書を開かずに翻訳できたのだからまぁ自分としても及第点といった所でしょうか。
それにしても、中国語って見かけには少ない文量でも、全部漢字だから日本語に翻訳すると増えるわかめのようにどんどんと大きくなるのには困り者です。
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