近年の犯罪の中で際立った特徴を挙げるとすれば、私はやはり殺人や傷害といった行為が無関係の人間に対して行われる事件が頻発しているという事に尽きると思います。
・岡山駅突き落とし事件(Wikipedia)
この標的なき殺人の代表格と私が目しているのが、上記の「岡山駅突き落とし事件」です。この事件は父親へ不満を持った19歳少年が帰宅途中の38歳男性を電車が来る直前の駅のホームで突き落として殺害したという事件ですが、この事件の特殊性は言うまでもなく殺害者と被害者が何の縁のゆかりもない人間同士だったということです。殺害者の少年は犯行後、「誰でもいいから殺して刑務所に行きたかった」と動機を話しているのですが、それならば何故殺人を決意させる原因となった父親ではなく無関係の人間が対象となったのかがはっきりと説明できず、私はこの少年の動機はむしろ、「殺人という大問題を起して父親を困らせてやろう」という理由の方が素人目ではありますが適当な気がします。
仮に上記のような事件が一回こっきりのものであれば、言い方は悪いですが犯人の少年がやや特殊な人格であったという事でそれほど心配する必要はないのですが、残念ながらこのような無関係の相手にある日突然暴力を振るうという事件がこのところ頻発しております。
まず同じようなホームの突き落とし事件であれば去年の三月に、動機もまた「死刑になりたいから」という理由で24歳の男が60歳代の女性を突き落とすという事件が起きております。こちらは幸いにして女性は列車に轢かれずに済みましたが、それでも頭蓋骨を骨折するという大怪我を負わされております。
また列車関係に限らず無関係の人間を標的にする事件といえば、なんといっても通り魔事件でしょう。つい最近でも東京都で27歳の女性が35歳の女性にナイフで切りつけるという事件が起きており(産経新聞)、この時逮捕された犯人が語る動機というのが、「男性に振られて誰でもいいから傷つけたかった」という、聞いていて呆れさせられる内容だったのも含めて驚かされた事件です。
そして通り魔事件と来れば、こちらは少し前にも現在も続けられている公判模様の記事をこのブログでも取り上げた、2008年の「秋葉原連続通り魔殺傷事件」も外す事が出来ないでしょう。この事件でも犯人は標的については誰でもよかったと述べ、殺害を決意した理由についてはもてないだの正社員になれないだの社会への不満だと話しておりますが、今のところはまだはっきりしていないと見るべきかと思います。
確かに昔からあったものの表沙汰になってなかっただけなのかもしれませんが、私はこのような標的なき犯罪がこのところ頻発していることをとみに憂慮しております。これら標的なき犯罪事件の特徴はというと、まずはなんといっても殺害対象が犯人とは全く無関係の縁もゆかりもない人間たちということで、しかもその動機の大半が通常からだととても殺人に結びつくとは思えない、はっきり言えばくだらない理由ばかりだということです。
これは心理学でもはっきりと検証が済まされている報告ですが、基本的に人間は遺伝子からの刷り込みからか、殺人という行為を犯す際には大きなストレスを覚えるように出来ております。それゆえに殺害を行おうものなら先天的に精神に異常性のある人物以外だと普通は大きなためらいが生じ、そのためらいを乗り越えて実行に移すためには激しい憎悪や殺されるかもしれないと思うほどの危機意識が必要なのですが、上記の事件の犯人らが語る内容からはそのような切迫した心理が一切感じられません。
更に言えば、仔細に事件の内容を見てみるともう一つ大きな共通点があります。それは何かというと、犯人の行為が不満を持つきっかけとなった対象に直接的に向かっていないという点です。
最初の岡山の電車突き落とし事件では犯人が殺害を決意する原因となった父親にその行為が向けられるのではなく無関係の男性へと向かい、東京都の女性の通り魔事件においては自らを振った元彼ではなくこちらも関係のない通りかかりの女性にその暴力の矛先が向かっています。そして秋葉原の連続通り魔事件では、まだ犯人の動機がはっきりしていないものの仮に犯人が事件実行直前にネットの掲示板で書いた理由がそうであるとしたら、不満を持つ対象は本来ならばそれまで働いていた派遣先の企業や派遣会社であるはずで、秋葉原を訪れていた人が対象になる理由などどこにもありません。
秋葉原の事件直後に文芸春秋で読んだ評論にてある評論家が、この事件の犯人は社会への不満を口にしながらもその怒りを直接社会へ向けず、むしろ自分が親近感を持つ秋葉原の、しかも自分より弱い対象に向けられていると指摘しておりました。前半部の社会への不満についてはまだ検討の余地があるものの、後半の自分より弱い対象へ向けられたというくだりは私も同感です。
この傾向は他の事件も同様で、基本的に犯人は被害者に対して体力的、武装的にも優位な立場で、一切反撃を恐れる必要のない相手に対して行為を起しており、犯人皆が「誰でもよかった」と言っておきながらも敢えて自分より弱い対象を狙っていたのは明らかでしょう。
私が懸念しているのはまさにこの、自らの不満を自分より弱い対象へ向けられるという構図が今後も更に一般化していくということです。この構図は言い換えればイジメの構図にほかならず、このような行為を正当化する風潮が強まってきているのではないかとこのところ懸念しております。ちょっと大袈裟に言うと、「自分はこんなに苦しくて大変な思いをしているのだから、苦しい思いをさせている張本人はちょっと恐いから、その不満を自分より弱い誰かにぶつけたっていい」と思う人が増えてきているようにも見え、なんとなく社会が退廃的になってきているような実感があります。
もちろん殺人という行為は何がどうあっても正当化される行為ではないですが、殺人ではなく正当な抗議活動や拒否行為といった抵抗であればむしろ健全な社会では存在するべきです。そういう意味で怒りや不満の矛先が関係ない人に向けられるという事は、問題の根本的解決に結びつかないばかりか弱者同士での殺し合いにしかならず、このような風潮をもっと日本の社会は認識した上で早く対処策を講じるべきではないかとこのところ思うわけです。
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