また学問的な話です。
社会学の名著として有名なものの一つに、エーリッヒ・フロム(通称、E・フロム)の「自由からの逃走」という本があります。この本の内容を一言でまとめるのならば、一体何故ファシズムがドイツやイタリアで政権を獲得するまでに至ったのかという理由について解説されております。
私も原典を読んだわけじゃないので詳しい所までは理解していませんが、フロムはこの本の中で、「人間の精神は過度に自由な状態にされるとかえって不安を覚える」と主張しております。その例としてフロムは、一次大戦後のドイツで何故ファシズムが勃興したのかを題材に取っております。
第一次大戦後、当時のドイツは世界大戦を引き起こしたという反省と勝利国からの厳しい要求によって「ワイマール憲法」という、当時の世界で最も民主的とされる憲法を新たに作成して嗜好しました。それまでのドイツは明治時代の日本も参考にしたまでの立憲君主制に基づく比較的お堅い憲法だったのですが、戦後は一転して個人の人権や行動の自由が大幅に認められる体制となったわけです。
普通に考えるならば自由が広がることに越した事はないように思えますが、それまでどのように生きていくか、生活していくかなどが細々と指示されていたのが急に自由になったわけで、縄を外されたもののどうしていいか分からない状態にドイツ人は至ったそうです。
そんな最中、ドイツに現れたのがあのヒトラー率いるナチス党です。ナチス党は民主的な国の憲法とは対象的にドイツ国民はかくあるべし、国民は強い政府によって管理されるべきであるという主張をしては支持者をどんどんと拡大して行きました。
フロムはこのナチス党の拡大について、当時のドイツ人自身が国家による強い管理を求めたが故の結果だと分析しました。一次大戦後にドイツ人は大幅な思想、行動の自由を国から保証されましたが、大多数の国民はその与えられた自由な環境の日々に逆に不安を覚え、結果的には真逆ともいえる全体主義のナチス党へ支持を傾ける事になった、というのがフロムの主な主張です。
もうすこし簡単な例を私の方から紹介すると、ある仕事の現場でそれまでいちいち指図されていたのが突然、「今日から好きにしていいよ」と言われたとします。恐らく大体の人はこう言われると戸惑い、中には、
「好きにっていうことは、仕事しなくてもいいんですか?」
「その辺も、自由に決めていいよ」
「上の人は何もいわないんですか」
「それをどう考えるのも、君の自由だよ」
というやりとりなんてあった日には、それまでの指図されていたやりかたに不満を覚えていたとしてもそれまで通りの作業を大抵の方はやってしまうかと思います。
このように人間というのは何をやるにしてもいろいろ管理、指図される拘束された状態に不満を覚えていても、急に自由な状態に放り投げられたら言いようのない不安を覚えるというのがフロムの理論です。
私の解釈だと、人間は段階を経て徐々に自由であったり拘束された状態になっていくのであればそれほど不安を感じないでしょうが、ある日突然に行動の自由が認められたり、逆に束縛されたりすると人間は心的な負担(ストレスや不安)を覚える、というように考えております。
日本社会でこのフロムの理論が当てはまりそうな場所を私の中で挙げるとしたら、大学進学時と就職時が最も適当かと思われます。
日本の高等学校は他国と比較しても管理が厳しく、特に体育会系の部活動などでは土日の練習があって当たり前です。また授業出席も「出て当たり前」で、科目もあらかじめ決められているなど生徒に認められている選択の自由は少ないといわざるを得ません。
それが大学に進学するとなると、授業の出席から科目選択まで突然選択や行動の自由が広がります。自由が認められて素直に喜ぶ人もいますが、中には環境になれず五月病になる学生もかねてから存在します。
同じ五月病でも企業などで働くようになる就職時に罹るものは大学進学時とはちょうどベクトルが逆で、それまで授業を勝手にサボっても、昼間からふらふらしていても何も言われなかった学生時代から遅刻欠勤厳禁の社会人となり、自由な状態から急激に管理されるようになることで心的負担を感じることから起こるのではないかと、私は見ております。
ここで一体何が問題なのかというと、管理された状態から自由な状態へ、自由な状態から管理された状態へ急激に移行する事が一番問題なのです。
本来ならば小学生から中学生、中学生から高校生へと上がっていくにつれて生徒の行動の自由を広げて彼らの自主性を高めてあげねばならない所を、就職状況が厳しくなっていることから今の日本では、「大学に入ったら好きな事してもいいから」を旗印に、小学生から予備校通いなどと以前より管理が強まっているように思えます。企業の方も不況ゆえか、どうも人から話を聞いていると以前と比べて社員の勤怠管理やら書式など細々とした管理が強まっているように感じます。
大分以前に書きましたが、日本は自由という概念を自分達で努力した結果獲得したのではなく、戦後にアメリカから与えられる形で得ました。これを押しつけであったと言う人もいますが私としては民主主義世代ゆえに、あの時代にアメリカからもらっといて良かったと素直に感じます。
しかしそう思う一方、独立した思考で以って独自に行動できる人であれば自由な環境はありがたいものの、圧倒的大多数の人々にとってはかえって自由な状態であるよりもある程度次に何をするのかを指示される状態の方が居心地がいいのではないかとも考えています。そういう意味では自由というのは本質的には厄介な代物で、敢えて言うなら熟練したパイロットにしか操縦できない戦闘機みたいなものなのかもしれません。
やや中途半端な引きになりましたが、次回では自由は大衆にとっては迷惑な代物だということを前提に、大衆を束縛する価値、国家としての物語の必要性について書こうと思います。
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