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2010年11月28日日曜日

日本人の感情表現と文章

 ネットを当てもなく見ているとよく、「外国人を見て和む話」というものがまとめられております。実際に読んでみると確かに和む話ばかりで見ていてほのぼのとしてくるのですが、ふと考えてみるとなんで外国人の行動にこうも和まされるのかと疑問を覚え、ちょこっと考えて出した私の結論はというと、やっぱり日本人と比べて外国人は割合に感情をストレートに表現する事が多く、うれしいやがっかりといった感情を比較的押さえ込む日本人からするとそれが素直にさらけ出されるのを見て和みを感じるのではないかと思いました。
 なお言うまでもないことかもしれませんが、ここで言う外国人ってのは基本的に西欧人で中国人とか韓国人は入っていません。中国語でも西欧人は「外国人」もしくは「老外」というけど、日本人と韓国人はこれに入らない辺りにシンパシーを感じる。

 話は戻って素直に感情を出す外国人についてですが、日本人というか日本の世の中は基本的に感情を押し殺す事がすべての場において美徳とされ、小学校くらいからもそのように教育されます。私自身も日本人であるので感情を押し殺して黙々と行動する人間をかっこいいと思う傾向がありますが、その一方でなんでもかんでも感情を束縛される事に窮屈さを感じることもままあります。先ほどの外国人を見て和む話といい、私は今の日本人は一応は感情を押さえることが美徳だと認識しつつも、内心では感情をストレートに表現したいという欲求が強いのではと、考えた次第です。近頃流行りのうつ病も、やっぱりそういった感情表現と関係ある気がするし。

 では日本人は元からそうした感情表現を押し殺すのか、もしくは感情表現自体が苦手なのかと言うと、これは間違いなく後天的に植え付けられた特徴だと考えています。なんだかんだ言って日本の子供達を見ていると実に感情表現が多彩なのに対し、年齢が上がるにつれてそのような傾向はなくなってしまいます。となると日本の教育自体が感情表現を抑えるように教え込んでいる事になるのですが、そう考えた時に真っ先に思い浮かんだのが日本の作文教育です。

 日本の作文教育については過去にも「読書感想文は必要なのか」の記事の中で、日本の読書感想文は執筆者が本を読んで実際に感じた感想以上に教師が納得するような本を誉めるような内容が暗黙のうちに要求される点を指摘しましたが、よくよく考えてみると読書感想文に限らず日本の作文教育は個人的な意見はまだ書けるにしても、文章に感情を盛り込む事については徹底的に排除されているきらいがあります。

 ここで私がいちいち書かなくとも中学高校にて、「文章は客観的に書きなさい」と教えられたことは日本人なら誰にでもあるでしょう。この客観的にというのは響きはいいですが、実際には感情をすべて排除してマシーンのように文章をつづれと言っているも同然で、確かに客観的な視点は文章には不可欠であるものの主観的な視点を徹底的に排除するのはそれも問題だと私は思います。
 元々人間は感情を束縛される事に対して嫌悪感を抱くようで、私の感覚ですけど感情を捨てて文章を書けと言われてもあまり乗り気にはなれません。逆に、「お前の今持っている感情をすべてこの紙の上で表現せよっ!!(#゚Д゚)」などと言われ、自分の好きな歴史人物についてそれが何故いいのかだったり、嫌いな人間について呪詛の言葉をつづれってんなら物凄い乗り気で今からでもいくらでも書く気が起きます。

 くれぐれも言っておきますが、今も書いているこの文章を含め基本的には文章には客観性というか落ち着いた表現が求められると考えています。しかし主観的な表現も全く価値がないわけではなく、感情を文字にて表現するという意味ではむしろ格好の材料となることがあります。
 私が何を言いたいのかと言うと、日本の作文教育は一から十まで感情を殺すように書かせるために作文に対して苦手意識を作っている気がして、せめて小学生の間、出来れば中学校くらいまでは好きな事や感情をそのまま文字にて書かせた方がまだやる気もでていいんじゃないかという事です。

 これこそ先ほどの外国人の和む話で見かけた話ですが、イタリア人の男性は女性を見ると誰彼かまわず歯の浮くような文句で口説くそうですが、彼らは小学生の頃からラブレターの書き方を勉強するなどその方面で徹底した教育受けているそうです。ラブレターまでとは言いませんが、感情をさらけ出す材料をもうすこし作文の題材に選んで欲しいものです。

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