ページ

2011年3月18日金曜日

信長の評価の再逆転

 歴史というのは過去の事実なので価値は不変で変わらないと考えられる方が多いのですが、実際にはその時代の流行ごとに評価や捉え方が変わるため、教えられる内容や一般に持たれる認識は刻々と変化していきます。以前にもこのような書き出しで現代では戦国時代の革命者として恐らく一番人気な織田信長が、戦前では天下人の豊臣秀吉の元主で、尊王の武将だったとだけで小さく扱われていたということを紹介しましたが、どうもここ数年でまた再逆転というか信長の評価が大きく変化しているように思います。具体的にどこがどう変化したのかというと、冷酷と名高い信長の性格についてです。

 現代日本人なら誰もが聞いたことのある、「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」の一句に代表されるように、信長の性格はこれまで残忍とまでは行かなくとも冷酷なものだったという風に考えられてきました。一体どうしてこのように言われるようになったのかというと生前の信長のとった行動が原因とされ、比叡山延暦寺焼き討ちや長島一向一揆での虐殺、裏切り者に対する苛烈な制裁など数え上げたら枚挙に暇がありません。またこのほかにも使えない、用済みの部下に対する追放を含めた厳しい人事も挙げられ、明智光秀に裏切られたのもこのような性格ゆえの結果だと言われてきました。

 しかし近年に入り、このような信長の行動や発言は当時としてはおかしなものではなく、当時の常識からすれば一般的なものだったという評価が急速に広まっております。一つ一つ解説していくとまず信長の冷酷さが最も現れたと言われる延暦寺焼き討ち事件についてはかつては延暦寺全体を焼き討ちした上で女子供を問わず片っ端から虐殺したと言われてきておりましたが、近年の研究によるとこのときに焼き討ちされたのは延暦寺の一角に過ぎず、また焼き討ち前にはあらかじめ予告がした上で退避勧告がされていたようです。その上当時は一向宗を初めとして宗教勢力が非常に幅を利かせており、平家の時代からそうですが延暦寺も僧兵の横暴がひどかったらしく、信長の焼き討ち時には「それ見たことか」と当時の京都の人たちは言っていたという話すらあります。
 上記のような内容が本当に正しいのかどうかという確証はありませんが、私の観点から言っても延暦寺は昔からブイブイ言わせてきておりますし、当時も本願寺に対して焼き討ちをかましているほどで内心こうだったんじゃないかなぁという気がします。長島一向一揆についてもこの戦いで信長は実弟を亡くすほどの苦戦を強いられており、徹底的に殲滅する必要があると覚えるのも無理ではなく、実際に徳川家康を始めとした他地域の戦国大名も一向宗への殲滅戦を実行しております。

 このほかにも浅井長政、久政、朝倉義景の髑髏を金箔で塗って盃にしたという話も、当時としてはこれはむしろ敵をたたえる行為である上に実際に酒を入れて飲むのに使った事実を示す資料はないと言われております。そして部下への対応についてですが、これは間違いなく当時としては厳しいことをしておりますがそれは裏を返せば実力主義を採用していることにほかならず、実力の足りない人間をどんどん追放する一方で実力さえあれば家柄を問わずどんどんと採用したことによって豊臣秀吉や滝川一益が世に出たことを考えると先見性が高かっただけでしょう。
 また裏切り者への制裁については信長に限らず当時はどこも厳しかったし、むしろ信長は松永久秀や荒木村重(勝手にアラーキーと内心呼んでる)など利用価値があると見た相手に対しては、「謝りに来たら許してやるよ( ゚д゚)、ペッ」ってな感じで、一応最初は帰参を呼びかけてます。あくまで一応だが。

 上記のような理由に加え、これはかねてから言われてきたように信長は近親者に対してはむしろ非常に優しい態度を取っております。家督争いの際には実弟の織田信行を暗殺していますが、暗殺に至るまでは何度も反乱を起こす弟を撃退してはその度に許し、最終的に迫られたがゆえに暗殺を決断しております。そして出戻りの妹であるお市に対しても、秀吉と違って浅井家滅亡以後は自分の手元で政略結婚の道具として再利用することはありませんでした。
 最後にもうひとつ付け加えると、勝手に城を抜けて遊んでいた女中らを全員処刑したといわれる竹生島事件についても、女中をなんらか処罰をしたというのは資料にかかれていますが殺害したとまでは書かれていないそうです。

 このように考えると、信長は当時の戦国大名としては感情的に残忍な行為に走っているわけでなく、むしろ理性的に功罪を考えて忠実に実行していただけだったように見えます。多分気難しくて付き合いづらい人間ではあったでしょうが、ちょっと前まで言われているほど訳わかんないくらいに怖い人間だったとか既成の価値観が通用しない人間だったというわけじゃなかったと私は思います。

 むしろ私は冷酷さで言えば、自分を裏切った大内定綱の居城で女子供を含む人間どころか馬の首までも全部斬ったり(撫で斬り)、父親ごと鉄砲で敵を打ち払ったり、大阪夏の陣で敵味方関係なく攻撃を行っている伊達政宗の方がよっぽど図抜けている気がします。ファンは多いけど、この人私は嫌いだなぁ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

注:ブラウザが「Safari」ですとコメントを投稿してもエラーが起こり反映されない例が報告されています。コメントを残される際はなるべく別のブラウザを使うなどご注意ください。