敢えて趣向を凝らしたタイトルにしましたが、徳川家光の姉と聞いてとっさに誰だかわかる人はそう多くないと思います。これは冷静に考えれば難しくはないのですが、家光の姉とはほかならぬ、豊臣秀頼の正室であった千姫です。
・千姫(Wikipedia)
千姫というと徳川家の豊臣家の間を取り持つためにわずか七歳にして豊臣秀頼と結婚し、その後婚姻を取り結んだ張本人である実の父と祖父によって嫁ぎ先の豊臣家が滅ぼされてしまうなど運命に翻弄された女性というイメージがもたれているかと思います。実際に戦国時代を通して見ても淀君などにも劣らない波乱万丈振りでありますが、豊臣家崩壊後の千姫の人生については語られることはそれほど多くありません。
大阪夏の陣後、千姫は一旦は両親のいる江戸の元へ身を寄せるのですが、この際に秀頼とその側室から生まれた奈阿姫の助命に奔走しております。奈阿姫は豊臣家の血縁ということで当初は処刑するべきという声が強かったのですが、この時に千姫は奈阿姫を自分の養子にし、文字通り身を挺してその命を守ろうとしました。ちなみにこの時船姫は十八歳、奈阿姫は六歳です。最終的にはこの千姫らの努力が実って奈阿姫は助命が許されるのですが、その後奈阿姫は鎌倉の東慶寺に入り、この寺を女性の駆け込み寺こと縁切り寺として確立させます。
ちょっとこちらも合わせて説明すると、江戸時代は夫婦間での離婚決定権は男性にしかなく、女性はたとえ夫にどれだけ不満があろうとも勝手に離婚することは許されておりませんでした。しかしそうした女性の救済策というか特例として、東慶寺をはじめとした幕府公認の縁切り寺に駆け込んで一定の修行期間を積めば女性の側から夫に離婚を突きつけることが許されていました。この制度の成立過程で奈阿姫は一定の役割を果たしたといわれております。
話は千姫に戻りますが、夏の陣から一年後に徳川四天王であった本田忠勝の孫の本田忠刻と再婚をします。再婚相手の忠刻とは仲が良かったそうですが残念なことに忠刻はわずか三十一歳で早世し、二回も夫に先立たれるという不幸を経験します。その後は本多家を出て江戸に再び出戻り、奈阿姫のいる東慶寺を支援するなどして過ごして七十歳で天寿を全うしております。
こうして経歴をざらっと見てみると実に興味深い人物で、性格についても奈阿姫の助命を行うなどさすがは家康の孫とも呼べるような毅然さです。七歳で輿入りして嫁ぎ先が滅んだことからフランスのマリー・アントワネットと重なるところもありますが、実際には豊臣家が滅んだ後の人生の方が後世への影響が強い点で大きく異なります。
私がこの千姫の後年の人生を知ったのはせがわまさき氏による「Y十M ~柳生忍法帖~」という漫画を読んだことがきっかけでしたが、千姫同様にこの漫画で取り上げられている会津騒動も今まであまり知らず、自らの不勉強を大いに恥じました。もっとも歴史に詳しい友人も知らなくて一緒に驚いたんだけど。
さらについでに書いておくと、この会津騒動で当初会津を治めていた加藤嘉明に始まる加藤家は減封の上の転封となり、代わりに治めることとなったのは秀忠が一生に一度の浮気で生んだ保科正之です。この保科正之に始まるのが会津松平家で、幕末期にはどの徳川親藩家よりも幕府再興に尽力するなど徳川家最大の藩屏として歴史に大きく名を残すこととなります。最後に止めとばかりにもうひとつ書いておくと、現在の徳川宗家当主の徳川恒孝氏はこの会津松平家出身で、Wikipediaにはこんな面白いエピソードが載せられております。
「日本郵船に勤務していた際、恒孝と加賀前田家18代当主前田利祐(現宮内庁委嘱掌典)は、一時期、本社の同じ部署で勤務していたことがあり、その時の上司が『徳川と前田家の当主を使うのは太閤(豊臣秀吉)以来だろうな』と笑ったという話がある。」
0 件のコメント:
コメントを投稿
コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。
注:ブラウザが「Safari」ですとコメントを投稿してもエラーが起こり反映されない例が報告されています。コメントを残される際はなるべく別のブラウザを使うなどご注意ください。