ページ

2011年5月7日土曜日

承久の乱と戊辰戦争

 日本史において武士政権が天皇家勢力とガチで戦争をしたのは何度かありますが、対照的といえるのは今回の題となっている鎌倉時代における承久の乱と明治維新期の戊辰戦争でしょう。どちらも状況を違えども幕府勢力と天皇勢力が大きな戦火をまとって対立し、勝った側の勢力が後の実権を握ることとなりますが、具体的にどこが対照的なのかというと当時の幕府勢力を率いた指導者の能力で、トップの差が緊急時の大勢に大きく影響するのを証明する好例だと私は考えております。

 まず鎌倉時代の承久の乱ですが、大雑把に当時の状況を説明すると源平合戦を制した鎌倉幕府は一応武士の棟梁としての地位を固めたものの、東国はともかく西国においてはいまだ天皇家の勢力が大きくて全国的な支配者とはまだ呼べない存在でした。しかも折り悪く頼朝の息子の二代将軍頼家、三代将軍実朝ともに夭折し、執権を勤めていた北条家が幕府を指導していたものの支配者の正当性が揺らいだ時期でもありました。
 そんな時期に天皇家を率いたのは権謀術数で有名な後白河法皇が、「こいつならまた天皇家を盛り返す」と強く期待していた後鳥羽上皇でした。まだ議論はされてはおりますが私は後鳥羽上皇は初めから鎌倉幕府打倒を考えていたのではなく、源実朝が生きていた頃は真剣に公武合体、もしくは協調路線をとろうとしていたのではないかと思います。というのも後鳥羽上皇と源実朝は和歌を通じて交友があり、もう少し実朝が生きていたらまた違っていたのではないかと思わせる節が多々あるからで、それだけに実朝の暗殺はいろいろときな臭いのですが。

 話は戻りますが実朝が夭折した後の鎌倉幕府は当初は皇族から将軍を招き入れようとするものの後鳥羽上皇に拒否され、最終的には摂関家から呼び寄せます。そうした権力の空白期を狙って後鳥羽上皇は幕府追悼の院宣を出したのですが、西国の武士はもちろんのこと、この院宣には元々鎌倉幕府寄りだった東国の武士たちも大いに動揺したと伝えられています。いくらこれまで幕府に仕えてきたとはいえ天皇家の命令とあらばそちら優先せざるを得ない、そうして出方を決めかねている武士団を一挙に幕府方に引き寄せたのは言うまでもなく北条政子です。
 皆さんも知っておられるかと思いますが北条政子はこれまで幕府がどれだけ武士の地位の向上に取り組んできたことや、今ここで幕府を潰してしまえばまた元の木阿弥になると懇々と演説し、この政子の演説を受けて東国武士団は一挙に幕府方に馳せ参じたといわれます。また北条政子のほかにも実際に京都への討伐軍を率いた後に三代執権となる北条泰時もまた大した人物で、一旦は出陣するもわざわざ引き返して父親の二代執権北条義時にこう聞いています。

「もし上皇が直接兵を率いてきたらどうしましょうか」
「直ちに弓の弦を切り、鎧を脱いで降伏せよ」

 この会話が本当にあったかどうかはわかりませんが私はこの時の両者の会話は率いる武士たちを安心させるためと、戦後処理を見越した上での会話だったと思います。もっともまさか幕府が反抗してくるとは思わず上皇の軍勢はもろくも崩れ去り、院宣を出した後鳥羽上皇は、「側近が勝手に幕府を追悼しようとしたのだ」と言い訳をして早々に降伏を決めております。といっても、負けた後は隠岐に流されちゃうわけだけど。

 これに対して明治維新期の江戸幕府を率いた徳川慶喜はというと、確かにウルトラE難度の大技とも言っていい大政奉還を実行したことは大したもんですが、その後鳥羽・伏見の戦いに敗戦するや早々に兵を置いて一人で大阪から江戸に帰ったことは理解し難いです。これによって佐幕派の武士たちも「えぇ(;´Д`)」って思ったそうですし、当時の状況を見るときちんと大阪に残ってしっかり戦ってりゃまだまだいくらでも巻き返せたんじゃないかと思う要素が盛り沢山です。大政奉還を支持した土佐藩はもとより、当時最強のアームストロング砲を自作した佐賀藩(自作については現在疑問視されている)もこの時はまだ態度を決めかねて中立を維持していました。
 それこそ慶喜がかつての北条政子さながらに、「これは幕府が望んだ戦争ではなく、薩長が望んだ戦争である」などとギレン・ザビばりに叫んで、天皇家ではなく薩長と戦うのだなどと言ってりゃ薩長を恨んでる藩もいたと思うのに。そうは言いつつも、藤堂高虎に始まる津藩は史実通りに真っ先に裏切りそうだけど。鳥羽・伏見の戦いでは幕府側として出陣しておきながらいきなり幕府軍を砲撃する始末だし。

 私は組織というのは必ずしもトップの力で決まるわけじゃなく、むしろ日本人の性格からして末端の実行部隊の優秀さが優劣を決めると考えてはおりますが、いざという時のトップの力量の差は追い込まれた状況を決定的にしてしまうということをこの二つのエピソードは語っております。現在日本でトップというと管首相と東電の清水社長が槍玉に挙げられやすいですが、管首相はともかくとして東電の社長なんかどれだけ功績挙げても名前も顔もテレビに映らないのに対して、こう不祥事や事故が起きるや連日連夜報道されるというのはなかなか考えさせられます。あとどうでもいい私の推量ですが、地震発生から最初の数週間は清水社長は過労で入院していたとして表に出てきませんでしたが、私は実際には入院じゃなくて謝罪会見でのコンサルタントを受けていたんじゃないかと勘ぐってます。なんていうか、復帰後のお辞儀の仕方が様になっているような。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

注:ブラウザが「Safari」ですとコメントを投稿してもエラーが起こり反映されない例が報告されています。コメントを残される際はなるべく別のブラウザを使うなどご注意ください。