前回記事に続き、私が小学生時代に読んで影響を受けた評論文の話をします。前置きはいいので、さっさとあらすじを紹介します。
私が読んだその評論文ではまず最初、雪山で遭難した男の話から始まりました。
雪山で遭難して凍死しかけていたその男は、九死に一生の所である民家を見つけて尋ねたところ、その民家の中にいた姉妹は快く男を部屋の中へ招き入れました。男を招き入れると快活そうな妹は男にいろんな言葉をかけて明るく励まし続けた一方、無愛想な姉は何も言わず、黙々と男へ与えるスープの準備を続けました。
作り話ですがこの姉妹の行動についてその評論の筆者は、確かに妹の行為は無駄ではないものの、男にとって本当に必要なものは姉が用意する体を温めるスープであって励ましの言葉ではないと断じ、たとえ相手を思っての行動でも本質が伴っていなければ意味がないという結論にまとめていました。
さらっと書きましたが、この評論文自体はそれほど特別な内容を説いているわけではないものの何故かずっと心の中に残っています。この評論だけが原因ではありませんが現実の私の行動もこの筆者の考え方に沿うようになっており、外見や飾りとかよりも中身というか本質を重視する性格になっています。
一番代表的なのは普段使う言葉で、今でもよく注意というか激怒までされましたが、社内で仕事している最中に私は「お客様」という言葉は使わずに普通に「客」といつも発声します。私に激怒した人なんかは客に対して尊敬の気持ちがないなど失礼だとか言っていましたが、私は買主と売主は本来対等の関係なのに買主側の権威をむやみやたらに引き上げたことがクレーマーの跋扈に繋がったという考え方もありますが、そもそも「客」という言葉自体に一定の敬意が込められていると思っており、「お客様」というのはやや過剰な尊敬表現でむしろ中身がないように思うことから使いません。さすがに客の目の前であれば周囲に合わせて用いますが。
第一、言葉がぶっきらぼうとはいえその意図したいことが真に相手のことを考えているなど本質を用いているのであれば、言葉尻を捉えてああだこうだ言うのは随分と不毛な気がします。こういうちょっとねじくれた考え方をしているせいか、遠回しな言い方は好まないために相手に対して直接的にキツイ言葉を言うこともあって「そこまで言わなくとも」と言われることもありますが、遠回しだろうが直接的だろうが言っている内容は一緒にもかかわらず何をかという気がします。
また言葉だけでなく行動面でも、評論中のエピソードの姉のようにやることさえ本質を得ていれば余計な愛想も必要ないと考えています。そのため愛想があろうとなかろうと、やることがやれない人間に対しては同じ評価を付け、「彼は仕事はダメだけど明るいのが救いだな」という評価は一切しません。「明るいだけのただのポンチ」と言うことはありますが。
現在の日本はあちこちでコミュニケーション力とかいうものの必要性が叫ばれていますが、このコミュニケーション力の意図するものが表現力であれば私も頷きますが、愛想というのであれば順番が違うんじゃないかと問いたいです。私がここまで強く愛想というものを否定するのも、「失われた十年」の間は社会全体でまさに外見ばかりが重視され、中身が全く伴っていない不毛な議論に終始し続けたという印象が強いからです。景気が良くなってきたら借金を減らそうと言って1000兆円まで積み上げたり、破たんすることが見えていながらほったらかしていた年金など、重要な問題は先送りしてどうでもいい議論ばかりだったなぁという反省があります。
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