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2012年4月5日木曜日

鎌倉時代の始まる年についての考察

 ぶっちゃけた話、今とても眠いです。理由は簡単でこの連休中に夜更かしし過ぎて、昨晩はなかなか寝付けないまま今日仕事があったからです。ただそれ以上に今朝起きたら原因不明の腹痛に襲われ、あまりにも痛いもんだから体を曲げて靴下を履くことすらままならないほどでした。真面目にZガンダムのカミーユ・ビダンじゃないけど、「何の役にも立てず、俺は両親の元へ行くのか?」などという具合で死を覚悟するくらいの激痛でした。まぁ両親は存命してるけど。
 同僚にも朝一で心配されるくらいで、なんでも顔が完全に土気色だったそうです。正午くらいまでは激痛が続き終いには背中の方まで痛くなって、くしゃみなんかして体を動かすと全員に痛みが走って悶えるほどでしたが、午後から徐々に引いて現在では無痛状態です。ほんとにあれはなんだったんだろう。

 そんな奇妙な症状のことは置いといて、そろそろ本題に入ります。今日のお題は鎌倉時代の区分こと、始まる年についてです。

鎌倉時代(Wikipedia)

 鎌倉時代が始まった年ともなると、語呂合わせキングと言っても差し支えない「いい国作ろう鎌倉幕府」に表されるように1192年だとお思いの方が多いでしょうが、実は最近になってこれは変わって、現代では壇ノ浦の合戦があった1185年からだ義務教育では教えられています。一体何故年代が繰り上がったのかというと、1192年は源頼朝が征夷大将軍に就任した年で以前はこの時代から武士政権が始まったとみられていたのですが、既に1185年に鎌倉幕府の支配体制における代表的な構造である地頭の設置が認められており、実質上の支配がはじまっていることから繰り上げられたそうです。

 もう眠いのでさっさと結論を出してしまいますが、私は鎌倉幕府が始まった年というのは1185年、1192年のどちらもふさわしくないと考えています。じゃあ何年から始まるのが適切なのか、この答えは率直に言って1221年からです。日本史好きならもうわかるでしょうが、この年は承久の乱が起こった年です
 私が何故承久の乱の前後で平安時代、鎌倉時代と区切ろうとするのかというと、この承久の乱が起こるまでは西国は天皇家、東国は鎌倉武士団と、日本全国で二重支配があったからです。それがこの承久の乱を契機に全国を鎌倉幕府こと北条家が完全に統括することとなり、ひいては天皇家をも支配下に置くことになります。天皇家が実質的に武士の支配下にはいるのはまさにこの時が初めてで、この構造は1868年に明治維新が起こるまで続くことになります。これは山本七平が言っていたように、日本の歴史上で本当に限られた回数しか起こっていない最大級の革命劇です。

 さらに言うと鎌倉幕府は当初でこそ源頼朝こと源氏の棟梁が統治しましたが、彼以降は実質的に北条家が取り仕切っており、鎌倉幕府は誰のものだったかとなると私は北条家の物だったと言っていい気がします。この構造は徳川家による江戸幕府が成立する前の豊臣政権に近いようにも思え、時代区分としては源氏はブレイクスルーに過ぎず、主役にするべきではないはずです。その北条家が完全に主導権を握るきっかけとなったのは1219年に源実朝が暗殺され、それを一つの契機として起きたのが承久の乱と考えると、やっぱり鎌倉幕府は1221年からというように思えてなりません。

 ここではっきり書いてしまいますが、ブレイクスルーに過ぎない源頼朝の征夷大将軍就任から鎌倉幕府が始まるという考え方の方が不自然で、承久の乱から始まるという方が明らかに自然なのです。にもかかわらずこれまで前者の説が取られてきたのは間違いなく皇国史観が影響していると断言してもいいです。皇国史観がなんなのかまではもう説明しませんが、要するに「天皇家が敗北して取って代わられた」という歴史をなるべく小さくしたかったからで、早いことこんなカビの生えた価値観は捨てて、公平な認識でもって鎌倉幕府の開始年度は再考していただきたいものです。

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