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2012年5月19日土曜日

ブランデンブルクの奇跡について

ブランデンブルクの奇跡(Wikipedia)

 意外と知らない人が多そうなので、ドイツ版神風こと「ブランデンブルクの奇跡」について今日は解説します。

 このブランデンブルクの奇跡というのは歴史的故事で、先にも書いた通りに日本の神風同様、国難の状況下で一発逆転の奇跡は起きる材料として長らく信じられてきました。これが一体どんな故事なのかというと、時代は十八世紀の、まだドイツ連邦として統一される前のプロイセン王国所の時代に起きたエピソードが元となっております。
 当時のドイツは日本の戦国時代よろしく、それぞれの地方が独立王国として群雄割拠しておりました。その中でドイツ騎士団が殖民した地に成立したプロイセン王国というのが次第に力を持ってきており、十八世紀にこの地の支配者となったフリードリヒ大王が勢力を拡張したことで、後のドイツ統一の基礎固めが進められることとなります。

 このフリードリヒ大王、人物単体としても非常に面白い人間で、世界史の授業では「啓蒙絶対君主」といって国民の基礎教育レベルの向上に取り組んだ一方で、「よく議論せよ。そして我に従え」という言葉に表されるように、政治活動面では絶対的な独裁者として国を引っ張って引きました。
 彼は即位直後、オーストリア(当時は神聖ローマ帝国)の王位に元婚約者であるマリア・テレジアが即位したことにフランスをはじめとした周辺国が反発したことによって起きたオーストリア継承戦争にすぐさま参戦し、どさくさにまぎれて重要拠点であるシュレジエンの獲得に成功します。しかしシュレジエンを奪い取られたオーストリアの反感は凄まじくフランスとの戦争にひと段落をつけたマリア・テレジアはフランスやロシア、スウェーデンらを外交で引き込み奪回を企図します。これに対してフリードリヒ大王は機先を制する形でザクセン選帝侯領に進軍し、七年戦争の火蓋を切りました。

 緒戦でこそ善戦を続けたもの、墺仏露+スウェーデン相手にプロイセン側は自分自身ただ一人。兵力の差は如何ともしがたく徐々に追い詰められ、クネルスドルフの戦いでは壊滅的な打撃を受け、味方からも逃亡者が相次ぐなど絶体絶命の状況に追い込まれます。もはや総攻撃を受ければ全滅は必死の状況でフリードリヒ大王も死を覚悟して事実上の遺書まで用意しましたが、なんと追い詰められてから数日間、敵軍には何の反応もありませんでした。
 一体何が起きていたのかというと、プロイセン同様に連合軍も大きな損害を出していたことに加え、なんと連合を組んでいるロシア軍とオーストリア軍の間で主に戦後処理をめぐって不協和音が起こり、結局総攻撃が実施されなかったのでした。また連合軍がもたついている間にプロイセン側では逃亡兵も徐々に戻ってきて、見事な立ち直りを見せました。

 さらにプロイセン側にとって幸運だったのは、このクネルスドルフの戦いの数ヵ月後にロシアで女帝エリザヴェータが死去し、かわって王位についたのがフリードリヒ大王を信奉していたピョートル三世だったことです。ピョートル三世は即位するやすぐに戦闘を中止させ、連合軍から抜けてしまいました。
 ここで間髪を逃すようなフリードリヒ大王ではなく、残った敵のオーストリアに総攻撃をかけると一気にシュレジエンはおろかザクセンからも追い出し、この戦争の勝利を決定付けてしまいました。

 この二つの故事をまとめてブランデンブルクの奇跡と呼びますが、どうもドイツでは日本の神風のように、いざとなったらありえない奇跡が起きて逆転できるという思想が、程度は知りませんが一応はあったようです。それが確認できるのは第二次大戦下のドイツで、ヒトラーは大戦末期にアメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領が死去するやこの故事を引っ張り出し狂喜乱舞したそうですが、現実には戦況はひっくり返らずヒトラーも自殺に追い込まれることとなりました。

 日本の神風についても同じことが言えますが、昔起きた偶然を頼りにするというのは大の大人がやるべきことではありません。歴史の故事は所詮は故事であって、それを現在の状況に無理に当てはめて考えるというのは無理があるでしょう。もっとも、成功体験ではなく失敗体験であれば歴史は繰り返すことも多いのですが。

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