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2013年2月15日金曜日

猛将列伝~藤堂高虎

 歴史好きの人間なら誰しも自分を重ねる歴史上の人物の一人や二人はいるかと思いますが、私の場合は一番重なるのはほかでもなく、新撰組局長の近藤勇です。理由はいくつかありますが学生時代に私は実家のある関東から大学のある京都へ学期ごとに往復しており、このルートが近藤勇の辿った足跡とほぼ完全に重なるからです。あと彼は水木しげる氏をして「星をつかみ損ねた男」と評されており、私もそうした生き方に変に共感するところがあります。
 ではこのほかに自分を重ねる人物はいるのか、戦国時代の人物で挙げるとしたら本日紹介する藤堂高虎が入ってきます。

藤堂高虎(Wikipedia)

 戦国史が好きな人物なら藤堂高虎のことは誰もが知っているでしょうし、その能力の高さから歴史ゲームではいわゆる「かわいがられる」キャラクターであります。私もこの前に「太閤立志伝5」というゲームでこの人を使用しましたが、そのあまりの能力値の高さによってゲームが簡単になってしまい、かえって面白くないという妙な状態に陥りました。

 ではそれほどまでにKOEIさんからも能力値が高く評される藤堂高虎はどんな人物なのかですが、簡単に言ってしまうと現在の三重県に当たる伊勢国津藩の藩祖です。彼の出身地は近江(滋賀県)で初めは地元の浅井長政に仕えており、織田家と浅井家が激突したあの姉川の戦いでは一兵士として奮戦しており浅井長政から感謝状も受け取っております。ただ主家の浅井氏が織田家によって滅ぼされるとその後は主を転々とし、豊臣(羽柴)秀吉の弟である羽柴秀長の家臣となったところで一気に世に出ます。
 羽柴秀長の家臣となってからはその才能を戦に、施政に存分に発揮し、秀吉からも高く評価され秀長の死後も順調に出世していきます。この時(安土桃山時代後期)の藤堂高虎の事績として注目に値するのは数多くの名城を築城している点で、和歌山城をはじめ宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城などと、森ビルや大林組も真っ青なくらいに全国各地で築城工事を指揮しております。「その時、歴史が動いた」の松平定知氏も藤堂高虎の高い築城技術を指摘した上で、コアコンピタンスを発揮して出世した好例だと以前に著書で評価しておりました。

 このように豊臣政権下で大活躍し出世を続けた藤堂高虎ですが秀吉の死後は真っ先に徳川家康の側につき、関ヶ原の戦いでも西軍大名の切り崩し工作を担当したほか大谷吉継隊とも死闘を行っており、家康から戦後は20万石に至る加増を受けております。その後の大坂の陣でも真正面で戦って奮戦したことから家康にも「有事の際には高虎を先鋒とせよ」と評されるなど絶大な信頼を勝ち取り、死の直前に枕元に侍ることを許された数少ない人物となっております。これらの業績から藤堂高虎の国津藩は江戸時代にあって「別格譜代」という扱いを受けており、外様大名でありながら譜代大名と同様の扱いを受けていたと言われます。

 以上が藤堂高虎の事績ですがよく言われる彼への評価としては、「能力は高いが主君を変え過ぎ」というものが大半です。本人も「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と居直っており、特に豊臣家から徳川家への転身ぶりには批判も少なくありません。ただ自分がそういうキャラだからかもしれませんが家臣が暇乞いした際には快く送り出し、他家で思うようにいかなくて戻ってきた際にはこれまた快く迎え入れて元の役職に就かせていたといいます。こうしたことから現代で言えば「風見鶏」と呼ばれた中曽根康弘元首相同様に、実力のある主君を見極め転身を図るのも一つの必要な才能と割り切っていた節があります。

 ただそのように仕官というか就職に関してはドライな感覚であったものの、数寄というか風流が全く分からない人物でもなかったようです。そう窺わせるエピソードがいくつかあるのですが一つは関ヶ原の合戦直後の石田三成との話で、捕縛された三成に「此度の戦、ご苦労でござった。ところで我が隊はどのように見えた」と尋ね、「鉄砲隊が良くないように見えた。指揮官を変えるべきでは」との答えに「まさにそのように思っていたところです。ご助言、ありがとうございます」と交わしたと伝えられております。
 また宇和島藩主だった時期に隣国の今治藩を修める加藤嘉明とは境界争いで不仲であったものの、蒲生騒動で会津藩を治めていた蒲生家が取り潰された際に後釜を誰にするか徳川秀忠に問われ、「要衝である会津を治めるに当たっては加藤嘉明が適任」と答え、遺恨なく実力の足る人物として推挙しております。

 このような藤堂高虎に対して何故自分がやたらと親近感を覚えるのかというと、良くも悪くもマイペースな人だからだと思います。周囲から「不忠者」と罵られながらもそれが処世術とばかりに次々と主君を変え、それでいて奉公人でいる間はこれと決めた主君のために手抜きせず存分に力を発揮する姿勢がビジネスライクで強い好感を覚えます。
 昔というほどでもありませんが二年前に同僚から、「花園さんが最初に勤めた会社は花園さんを持て余したのでしょうね」とやけに突然言われたことがありましたが、はっきり言って同じことを自分も考えて退社しました。忠誠といえば聞こえはいいですが、自身の才能を使い切れない会社というか環境に留まるのは自分以外にとっても損だと思え、たとえ後ろ指を指されてもより自身の成長を期待できる環境へ身を置こうと決断し、私は中国へ行きました。そうして実行した決断に価値があったのかどうかはこれからの自分にかかっているわけではありますが。

 それにしても「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎のセリフ。自分はもう三回変わっているからあと四回しないと武士にはなれないのかなとか不遜なことを思っちゃったりします。

  おまけ
 藤堂高虎が起ち上げた津藩ですが、幕末の戊辰戦争の頃は幕府軍として出陣したにもかかわらず真っ先に官軍へ裏切っており、藩祖が藩祖だけに「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と罵られたそうです。

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