昨日は李陵を取り上げる傍らで司馬遼太郎がそのペンネームに引用した司馬遷についても少し書きました。この司馬遷という人物に対して「漢書」という歴史書を書いた班固という人は「奇を好む」と評しているのですが、この意味は「ヤクザ物とかアウトロー系が好みだった」というものらしいです。実際に司馬遷は「侠客列伝」みたいな話もたくさん史記に入れていますから、きっと現代に生まれていれば「仁義なき戦いシリーズ」に入れ込んでいたことでしょう。ヤクザ映画にはまる司馬遷、なんかちょっとやだな。
それはともかくとして、私も司馬遷に負けず劣らず妙なものに興味を持ちやすいです。私を直接知っている人ならいざ知らずこのブログを見ていてもわかるでしょうが、はっきり言って興味のないものの方がきっと少ないです。この前もスピリチュアリストに言われましたがほかの人が興味を示さないものに何故かはまったりすることが多く、多分そういう性格しているから知識量が本人ですら「ちょっとシャレになってないよね……」と思うくらいに膨れ上がっていったのでしょう。なお実感として、知識の絶対量では大学でお世話になった講師一人を除いて今まで誰かに劣っていると感じたことは今までありません。上には上がいるもんです。
この知識量が多いですが、言葉のきれいな人なんか「花園さんは教養がありますね」という風に言ってくれます。この教養という言葉ですが敢えて私なりに定義を付けると、「一見するとつまらないものですら面白いと感じれる能力」だと私は思います。たとえば能とか歌舞伎がありますが、あれもあらかじめ予備知識というか話のあらすじなり山場なりを把握しているとより楽しめるようになっていますが、なにも知らずに見たらちょっと面白くなく感じてしまうかもしれない代物です。そんな面白くなさそうなものに対しても「面白そう」と感じる、要するに興味を示せるかどうかが非常に試されるんじゃないかと思うわけです。
翻ってまた私のケースに移りますが、やはりこの点で非凡であったように自分の人生を振り返って感じます。言ってしまえばつまらなくて人気のないギャグ漫画とかもきちんとチェックするような具合で、手に取るものすべてを何かしらの興味の対象につなげて自分の土俵にしてきたように思えます。その一方で、このところとみに感じますがこのような自分の領域の圧倒的な広さ自体が自分の得体の知れなさにも繋がってしまい、初対面の人間からすると誇張ではなく「何なのこの人?」という具合でリアルに警戒される事態を招いてしまったと考えております。言ってしまえば類型に組み込みづらいパーソナリティを持っており、自分も気難しい性格をしていて付き合う人間をかなり選ぶ方ですが向こう側にも同じようにされるということになんだか気づいてきました。
もっとも気づいたところで私自身を改める気は全くなく、たとえ身を滅ぼすことになってもこのまま「奇を好む」ことを続けていくでしょう。ただ自分ほど極端に走らなくてもいいので一つだけ言いたいことは、一見するとつまらない対象に対しても興味を示すことは人格の幅を広げる上で非常に重要です。高杉晋作の辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」でしたが、つまらなさを日々感じる日常だからこそ面白く感じようとする心、面白いと感じる度量を持つべきではないかと言いたいわけです。
最近解説ものの記事ばかり書いてたから、なんかこういうひねった文章書きたくなるもんだね。
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