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2014年5月18日日曜日

創業家列伝~蟹江一太郎(カゴメ)

 この連載について友人が「メジャーどころの創業家はどこもやっているからマイナーなの、食品系とかを書いたら」と言ってきたので、今日はカゴメの創業者である蟹江一太郎を取り上げようと思います。参考にしようかなとウィキペディアを検索しましたが、この人のページはまだなかったのでアリかななんて思います。

 後にトマトを中心とした食品メーカーとして日本屈指となるカゴメを作った蟹江一太郎は愛知県東海市にで、佐野という名字の農家に1875年に生まれます。出身家は貧しかった上に幼くして母を失ったこともあり一太郎は小学校を卒業するとすぐに働きだすのですが、鉄道敷設工事で勤勉に働いていた姿が近隣にあった蟹江家の目に留まり、婿養子として迎え入れられます。
 蟹江家も農家であったのですが当時からミカン栽培などに手を出すなど割とやる気のある農家だったようです。そんな家に婿として入った佐野一太郎改め蟹江一太郎は青年になった1895年に徴兵され軍隊に入るのですが、着任した部隊の教官であった西山中尉より、「西洋野菜は軍隊でも使われるようになって今後は民間でも出回ると思うから、トマトとか植えたらいいよ」なんてアドバイスを受け、これをある意味で真に受けたことから除隊後に蟹江は農業試験場からトマトほかキャベツや玉ねぎの種をもらい受け、トマトの栽培を始めます。

 こうして始めたトマト栽培事業でしたが、栽培はうまくいき初年度から実をつけることに成功したものの、家族で試食した際の感想は「酸っぱくて青臭い」というもので、芳しいものではなかったようです。案の定というか蟹江が行商で売りに出てもトマトだけがいつも売れ残り、試食した主婦からは「生きているのが嫌になる味だ」とまで評されます。これらの浮氷は恐らく、作ったトマトの味がまずかったというよりも当時の日本人はトマトの味に慣れていなかったのが原因でしょう。どうでもいいですが私の友人も生のトマトが食べられないという輩がいますが、トマトは嫌いなくせに湯豆腐は大好きで彼と一緒に居酒屋に行くとリアルに湯豆腐だけ延々と注文する羽目となります。

  話は戻りますがこうした不評にもかかわらず蟹江はトマト栽培をあきらめず、生で食べられないというのであれば加工すればと考え、アメリカ人はトマトをソースにして食べると聞いたことからソースへの加工事業を思い立ちます。早速調理法を調べますが当時の日本にトマトソースの加工法を熟知したものはおらず、名古屋ホテルから輸入されたトマトソースを仕入れるとその現品を参考にしながら試行錯誤で作り始めます。
 この試行錯誤の過程がなかなか面白く、煮詰めて裏漉しすればいいんじゃねとやってみましたが、出来上がったソースは真っ黒ドロドロになってました。これはきっと鉄鍋で煮込んだのが悪かったんだと思って今度は銅鍋でやってみましたが同じく真っ黒ドロドロ。最後にホーロー鍋でやってみたらホテルにもらったソース同様に真紅色となり、見事成功したそうです。

 こうしてできたトマトソースは青臭さが抜けたことから消費者にも受け入れられ、評判とともに売り上げも伸びていきます。どうでもいいですがさっきのトマトが食えない友人もトマトソースはOKだと言ってました。
 こうして売れ始めたトマトソースでしたが市場が広がるとともに同じくトマトを栽培する新規参入者も増えていき、ある年にトマトが豊作となったことから市場で在庫がだぶつき、すでに契約農家を雇って大々的に栽培事業を広げていた蟹江も一時破産寸前に追い込まれる事態に追い込まれました。

 このような事態に直面した蟹江は周辺のトマト栽培農家、加工業者に自ら共同事業にしようと呼びかけ、カゴメの前身にあたる愛知トマト製造合資会社を1914年に設立し、蟹江が資本金の半分を負担したことからそのまま社長に就任し、会社設立に当たってロゴマークを作ることにしました。このロゴマークを決めるに当たって蟹江は自分がトマト栽培に踏み出すきっかけとなった西山中尉を思い出し、日本陸軍のマークだった五芒星を使おうとしたら政府に止められ、なら六芒星でいいやと○のマークに六芒星をあしらったロゴを作った所、「トマトを入れる籠の目みたいですね」と社員から言われ、そのまま「カゴメ印」という愛称が定着し1963年には会社名も「カゴメ」に変わることとなります。

 その後、カゴメは戦争などの期間を経ながらも順調に成長していき、蟹江一太郎自身は1963年に社長を引退し、1971年に96歳で没します。生前に蟹江は漸進主義といって急拡大を狙うのではなく確実な事業経営を訴えていたとのことで、富士山を登るカタツムリの絵を描いて「でんでんむし そろそろ登れ 富士の山」と社内で説いて回っていたそうです。

 明治期に生まれた食品会社はカゴメのほかにもたくさんありますが、そのうちやりますが確かカルピスの創業者も徴兵されていた時に訪れたモンゴルで乳酸飲料と出会い帰国後に事業化しており、なにかと軍隊とのかかわりで生まれていることが多い気がします。冷凍食品も軍隊食から生まれたというし、案外そういうものなのかもしれません。
 ややふざけた感じで上には書いていますが、蟹江一郎について述べると上官の言うことを「真に受けて」トマト栽培を始め、後の事業化につなげています。新規事業なんて大体どれも打算的に考えたらうまくいくはずもなさそうなものが多く、こういう無茶な考えを真に受けて実行する人間こそが創業家として向いているように思える次第です。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

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