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2014年5月7日水曜日

創業家列伝~安藤百福(日清食品)

 以前にアメリカメディアが「世界に影響を与えた偉大な日本の発明品」というテーマの企画を持った際、零戦やウォークマン、果てには八木アンテナを抑えて堂々の一位に君臨したのはなんとインスタントラーメンだったそうです。現代日本人からするとそこにあるのが当たり前に近いインスタントラーメンですが、お湯だけでどこでも食べられる上に腐らないで長期間保存できるというこの画期的な食品は文字通り世界の食を変えた一品であり、その影響度は確実にウォークマンを上回ることでしょう。そんな偉大な食品は、大阪に住む失業したおっさんが一人で発明したという事実こそが何よりも面白いのです。

安藤百福(Wikipedia)

 後に日清食品を創業する安藤百福は日本統治下の台湾嘉義県の生まれで、幼少時に両親をなくすと繊維問屋を経営していた祖父母によって育てられます。若い頃から独立心が高かったようで22歳の頃には靴下生地に使うメリヤスを取り扱う商社を設立して成功し、大阪に拠点を移してからはメリヤス以外の商品も取り扱い商売の幅を広げます。
 この時の安藤百福の行動で非常に興味深いのは、既に会社を経営する身分でありながらもわざわざ立命館の夜間部に入り勉強をしていることです。今更ながらですが自分も高卒と同時に昼間部に進学するよりも、普通に就職して夜間部に入っていた方がなんかかっこよかったかもしれません。

 話は戻りますが実業家としてその後も順調に行った、かと思いきや、自分で調べててなんでこんなにというほど数々の苦難に安藤百福は見舞われます。戦時下では軍需品を横流ししたと嫌疑をかけられ憲兵に暴行され(後に無罪とわかる)、さらには空襲によって自社の工場や事務所が全部消失するという憂き目に遭います。それでもめげずに戦後は製塩業を営んでまたもや当てるも、その保有する資産がGHQに目を付けられて、恐らく接収する目的だったのでしょうが脱税容疑で巣鴨プリズンに投獄されたそうです。その後、紆余曲折の交渉を経てどうにか無罪は勝ち取ります。
 なお戦後のこの時期、日本は食糧難ということからアメリカから大量の小麦粉の支援を受けます。この小麦粉はパンとして配られるのですが安藤百福はこれに対し、「アジア人の伝統的食品である麺にすべきではないか」と提言したものの、大量に製麺できる設備や技術が当時に不足していたことから見送られ、逆に役所からそのような事業を営んではどうかと言われたものの、当時は事業化をあきらめたそうです。まさかその後、本当に世界一のインスタントラーメンメーカーになるとは本人も気づかなかったでしょうが。

 話は安藤の受難の日々に戻ります。日本が独立を果たして安定期に入り始めた1957年、安藤は「名義だけでいいから」と言われてある信用組合の理事長に就任するも、直後にその組合は破産し、責任を取る形で安藤は一切合財の財産を弁済費として徴収されます。自宅だけは徴収を免れたものの46歳にして無一文となり、子供もまだ小さかった頃にもかかわらずえらい状態に陥ります。

 そんな厳しい状況に陥った安藤が何をしたのかというと、なんと自宅の庭に掘っ建て小屋を作って日がな一日そこに籠り始めたのです。そこで何をしていたのかというと、かねてから構想にあったどこでもすぐに作れて食べられるインスタントラーメンの製造で、助手とかそういうのは一切なしに、ただ一人で黙々と一年間も実験していました。仮にこんなおっさん近くにいたら、「変な人もいるな」と私なら考えちゃうかと思います。
 安藤の研究が大きく前進するきっかけとなったのは、奥さんが天ぷらを揚げる姿をふと見た瞬間でした。一旦茹で上がった麺を油で揚げることによって乾燥し、そこへお湯をかけるとまた食べられる麺に戻るということを発見し、すぐにこの製造法で特許を取ると世界初のインスタントラーメンであるチキンラーメンをこの世に生み出します。

 世に出たチキンラーメンは当時は家内制手工業のようにして一から作っていったものの問屋の反応はあまり良くなかったようです。ただ口コミでどんどんと人気が広がってからは作っては飛ぶように売れるようになり、大きな製造工場を構えて徐々に量産体制を整えていきます。そしてその人気を最高潮にさせたのはほかならぬテレビCMで、現在の日清食品も時代ごとにいいテレビCMを作っておりますが、早くにその宣伝効果に目を付けた安藤は当時の日清食品の資本金が二千万円だったにもかかわらず、年額二億四千万円もの広告費を出してチキンラーメンを広めました。

 破竹の勢いはその後も続きます。チキンラーメンの普及に成功した安藤は今度はアメリカでこれを売り出そうと渡米します。ただ現地の人間に実演しようとしたところチキンラーメンを入れるどんぶりが現地になく、「こりゃ困った」と言ってたら、「これでいいじゃん」と、商談相手のアメリカ人がチキンラーメンを二つ三つに割ってその場にあった紙コップに入れてお湯を注いだそうです。これを見た安藤はまさに「これだ!」とひらめき、このひらめきがカップヌードルの量産に結びつくこととなります。
 カップヌードルの量産は袋詰めするチキンラーメンと違って揚げた麺が傷つきやすいなど苦労が多かったものの、揚げ上がった麺に上からカップを被せるという逆転の発想によって首尾よく量産にこぎつけます。このカップヌードルはあさま山荘事件の際に警官が食べるシーンが繰り返し放送されたことによってこちらも見事に大ヒットし、言うまでもなく世界中で類似した商品が毎日消費されております。

 言うまでもなく安藤はインスタントラーメンのパイオニアであり、なおかつ中正な保護者でもありました。チキンラーメンのヒット後には追随する業者が現れたため特許や商標を取得して一旦は保護したものの、1964年には日本ラーメン工業会を設立して一切の製造法を公開して自社の独占よりも市場の拡大を優先するという判断を下します。こうした背景があるもんだから、中国の即席麺大手の康師傅の工場を見ながら、「こいつら、安藤百福のおかげで商売できてるってこと知ってんのか?」なんて、やけに上から目線で妙なことを私は呟いてました。

 現在、インスタントラーメンは宇宙食にも使われるなどその用途は広がり続けております。安藤自身は2007年に96歳で没しますが、死去の三日前にはゴルフで18ホールを回り切るなど最後の最後までエネルギッシュな一生を送っていたそうです。ニューヨークタイムスは安藤の死去を受けて社説を載せその功績を讃えると共に、「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」という見事な文句で結んでいます。

 私は安藤が生前だった頃から並々ならぬ尊敬の念を抱いていましたが死去後にはより興味が強まり、当時関西に住んでたもんだからその死から二、三ヶ月後、名古屋に左遷されていた親父を誘って大阪府池田市にある「インスタントラーメン発明記念館」を訪れました。そこでは安藤の一生とインスタントラーメンの発明に関わる様々なパネルや展示品などと共に、展示モニターの中では安藤を模したアニメキャラクターがVTRで、「宇宙食にも採用されたが、まだまだ夢は広がるし挑戦は終わらない」という言葉を述べていて未だに強い印象を覚えております。もっともその横で若い兄ちゃんが、「まだまだって、こいつこの前死んだやんけ」とツッコミいれてましたが……。更についでに書くと、インスタントラーメン発明記念館を出た後はすぐ近くにある「落語みゅーじあむ」 を訪れて親父がやけにはしゃいでました。

 安藤百福について私の意見を述べると、不撓不屈という言葉はまさにこの人のためにあると思える言葉で、様々な困難に直面して何度も破産の憂き目に遭うも挫けずに何度でも立ち直るその姿は偉人というべきほかありません。この連載では今後も多くの創業家を紹介していくつもりでありますが、どの創業家も類稀なバイタリティと共に優れた発想のセンスを持っていることは間違いないものの、事業が成功した背景には時勢に恵まれたことや優秀な相棒や部下に恵まれたなどという可能性も捨てきれません。
 しかし安藤百福は違います。彼の場合は明らかに時勢に恵まれてないどころか余計な妨害を何度も受けています。それにもかかわらずただ一人でインスタントラーメンを発明した上に産業化までして世界の食を変えてしまったという事績を思うにつけ、他の創業家とは一線を画す人物ではないかと思います。

 ちょっと前に「めだかボックス」 という漫画の球磨川禊というキャラクターが好きだと書きましたが、この頃思うこととして勝ち続けることが本当の強者なのかと疑問に感じてきています。むしろ、どれだけ負け続けても何度でも這い上がろうとする、たとえ勝利が得られなくても屈することなく揺るぎない強い信念で挑戦し続ける人間こそが真の強者ではないか、このように思うにつけ安藤百福は本当の強者だったと思え尊敬の念が絶えないというわけです。


今年2月の大雪時に横浜市にある「カップヌードルミュージアム」で撮影されたワンシーン。


  参考文献
「実録創業者列伝」 学習研究社 2004年発行

3 件のコメント:

  1. 安藤百福さんのお話は元気が出ます!UPありがとうございます。横浜のミュージアムまだ行ったことないので、今度行ってみたいです。
    百福という、今のキラキラネーム真っ青のお名前もいいですよね。
    ぜんぜん関係ないのですが、私の亡くなった、明治33年(1970)年生まれの祖母の名前はヨセでした。
    8人きょうだいの末っ子で、上の7人目のお姉さんはスエ(末)さんで、また生まれたから、もうよせ、と言ってよせになったんだと、自分で言ってましたが、何のトラウマも抱えてない感じの明るいおばあちゃんでした。

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    1. 明治33年(1900年)です。すみません。

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    2.  この記事は自分でもかなり意識して、「時期が整ったら書こう」と数年くらいじっくり構想を練りながら書いた記事です。やや崇拝にも近い気がしますが、それだけこの人は尊敬に値する人物だと思います。
       百福という名前は台湾出身ということもありますが、こうして業績が伴うといい名前ですがすかんぴんのおっさんのままなら明らかにキラキラネームですね。すいかさんのご祖母の名前も由来を考えると明らかにキラキラ、というより安直すぎという気もしますが、案外そういう安直な名前の方が覚えが良くて有利かもしれません。
       池田市の記念館には記事にも書いてある通りに行きましたが、横浜のミュージアムは実は私も行ってないんですよね。中国行く前にでも行っておこうかな。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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