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2014年10月16日木曜日

暴力が支配する閉鎖空間

 香港で話題になっているので中国と民主主義について一本記事を準備中ですが、このところ中国ネタばかり書いていて今日もまた中国ネタになるとやや過剰投下な気もするので今日は一風変わったネタを書いていきます。先に書いておくとこういう他愛のない出来事から深い話に持っていくのが案外得意なのかもしれません。
 
 先日日本に帰国している際、たまたまAmazonのKindleストアで電子書籍の日替わりセールをチェックしてみたら「漂流ネットカフェ」という漫画が99円という価格で販売されていました。この漫画の作者は押見修造氏という方ですが、彼の代表作は知ってる人には有名なあの「惡の華」という漫画で、私も前回の日本帰国時に最終巻を読み終えてそのあまりのぶっ飛んだ内容というか言いようのないストーリー展開にびっくりさせられた作者だっただけに、ほかの作品はどうなのかと思っていた矢先だったので迷わず購入しました。
 
 この「漂流ネットカフェ」は全7巻なのですが1巻を購入してすぐに引き込まれ、そのまま徐々に買い進めていって先週にようやく最後まで読み終えました。大まかなあらすじを書くと妊娠中の妻を持つサラリーマンの主人公はある日何気なく立ち寄ったネットカフェで中学生時代の発行為の相手と十数年ぶりの再会を果たします。再会を果たしたその直後、主人公たちがいたネットカフェは360度周囲に何もない湿地帯へワープし、原因も何もわからないまま主人公とヒロイン、そしてワープ時にネットカフェにいたメンバーたちは思い思いにその世界から元の世界へ帰る方法を探る……といったところです。
 タイトルからも察することが出来るように、この作品は楳図かずお氏の傑作の一つである「漂流教室」のオマージュが入っていて序盤などは意識して似たようなエピソードを持ってきているなと思う節があります。もっとも後半に行くにつれて「忘れられない初恋の人」というテーマ性がどんどん強まっていくのですが両作品に強く共通している点として、体格・腕力に優れた人物が暴力によって自分以外の人間を支配しようとする点が挙げられます。
 
 正直に言うと「漂流教室」は前から読みたいと思いつつもまだ手に取れていないのですが、ざらっとあらすじを聞く限りだとワープ後の世界で唯一の大人に当たる人物が暴力でもって度々主人公を妨害する様が描かれていると聞きます。この「漂流ネットカフェ」だとさらに露骨で、腕力のある人物が初めから周囲の人物を暴力で屈服させ、主人公を罠にはめようとしたりなどと文字通りの横暴の限りを尽くします。Amazonのレビューを見るとこの人物による暴力描写がはっきり不快だと述べて作品の評価を低くする方も見受けられるのですが、私の目から見ても見る人によっては強い嫌悪感が持たれ評価は二分すると思えるだけに、そのような評価が出てくるのもやむを得ないなという気がします。ちなみにどれくらいの暴力描写かというと、端的に述べると途中で誰も逃げられないようみんなのアキレス健を切ったりします。
 しかしそうした暴力描写に嫌悪感を示すレビューの中には、「このような暴力描写を描く作者の妄想がひどい」という一文が目に留まりました。この意見自体を批判する気は毛頭ありませんが、私は一見して逆に、「閉鎖空間ならきっとこうなるだろう」と逆に、程度の差はあれこの漫画の中で描かれている描写は現実に近いという印象を覚えました。
 
 何故私がこのように考えるのかというと、以前に読んだあるシベリア抑留体験者の話が浮かんできたからです。その抑留体験者はちょっと変わった人で抑留中にもかかわらず二次大戦での日本の敗因を分析し、記録しており、元々技術者であったことからその内容はリアリスティックに科学的な見地に基づいていてそれも非常に面白いのですが、ちょっと気になったというか記憶に強く残ったのはシベリア抑留者の収容施設の話でした。
 その人物によると収容所の中では文字通り「無法」な世界で最高権力者は言うまでもなくロシア兵であることに間違いないのですが、収容者である日本人の中で腕力などに優れた者がその力に物を言わせ、ロシア兵に取り入るなどしてほかの日本人を暴力的に支配することがどの施設にも見られたそうです。具体的な記述はそう多くありませんでした気に入らないなどの理由で同じ日本人を殴る蹴るは当たり前で、配給される食事を強奪したりいじめたりと、おおよそ法も秩序のない世界であったと書かれてあり壮絶な世界が広がっていたのだと思えます。
 
 このシベリア抑留の体験者が書いた著作に対し批評を寄せた、一時期ユダヤ人だと僭称したある作家(わかる人いるかな?)も戦後、フィリピンの捕虜収容所に収容された経験を持ち、その収容所でも全く同じ光景が広がっていたと話し、シベリア抑留体験者の話は真実味があると高く評価しております。そしてこの二人は共に、「収容所内の暴力による支配者らは帰国が近づくにつれ、元気をなくしていった」という事実を述べています。
 どう解釈するかは勝手です。私は後者の作家が書いたように、無法な収容所から法の秩序のある世界に戻ることで閉鎖された空間の支配者からただの一般人に戻ることをお山の大将たちは恐れたという説に納得しており、それと共に人間というのはたとえ小さかろうが、本質的な自由が無かろうが支配者であり続けたいとする妙な支配欲を多かれ少なかれ持つのだなという風に感じました。そして法という秩序が無ければ暴力によってその支配欲が強く発散される、そのためには同胞を痛めようが気にしなくもなる……なんていう具合で。
 
 ここで話は最初の「漂流ネットカフェ」に戻りますが、暴力でネットカフェを支配するキャラクターは序盤はまだその世界からの脱出を図ろうとする節があるのですが、中盤からは全く以ってその意思を失い、むしろ脱出する手段が見え始めてくるやその手段を妨害しようとする、つまり閉鎖された空間に自ら居続けようとする行動を取ります。作者の押見氏が意識的に描いたのかどうかはわかりかねますが、私にとってすればこのような描写は上記の収容所体験者の話と一致し、ある意味でリアリティがあり実際にこうなったら案外こういう奴が出てくるのかもしれないと思えてきました。
 
 近年の日本では暴力というと犯罪といじめがらみではよく取り上げられますが、その本質についてはあまり議論が無いように思えます。もっとも議論した所で何かいい解が生まれるのか私も疑問ですが、暴力には様々な型がありなおかつ手段ではなくその用途ははっせい原因を探ることで見えてくるものはある気がします。何が言いたいのかというと、平時は大人しい奴でもいざ閉鎖空間に放り込まれたり、秩序が無くなったりすると暴力的になる人間は少なくなく、人間の良心や団結信というものはどこまで通用するのかななんていうのをちょっとはみんな意識してみたらと言いたいわけです。自らも含めて。
 
  補足
 補足ならぬ蛇足でしょうが、シベリア抑留において日本人にとって日本人は被害者以外の何物でもないでしょう。しかし先程の暴力的な支配者の話を聞くにつけ、抑留中に日本人が殺した日本人は何人いたのか、ちょっと気になりました。

4 件のコメント:

  1. 花園様の記事においそれと意見できるほどの知識がないので、なかなかコメントしたくてもできず…
    こういう個々人で考えるだけで意思表明できる記事はでしゃばりな私にはありがたいですね(笑)。

    >>平時は大人しい奴でもいざ閉鎖空間に放り込まれたり、秩序が無くなったりすると暴力的になる人間は少なくなく、人間の良心や団結信というものはどこまで通用するのかななんていうのをちょっとはみんな意識してみたらと言いたいわけです

    この文章を読んで思い出したのが大学入試のことです。私は自己推薦という、いわゆるAO入試的な形式で合格させていただいたのですが、その試験である小論文の題目がですね、名前は失念しましたがフランスの倫理学者の方の文章でした(もちろん邦訳であります)。
    そしてそのなかに「いつだって道徳は必要なのだ」という文言がありまして「これについてお前の考えを述べろ」みたいな問題であったと記憶しています。
    私は意気揚々と「んなワケないね、道徳を守ってたらぶっ殺されるような状況だとしたら、俺は道徳を守るなんてまっぴらゴメンだ。状況次第の話なのだから、これは間違いだ。」なんてな内容を書いたはずです。

    しかし今になって考えてみると「私は道徳という言葉を一辺倒に受け取りすぎていたのではないかな…」とも思うのです。状況次第の話と書いた自分ですが、むしろ「状況次第で道徳というもの自体が変化する」と考える方が理にかなっているのではなかったのかなと。郷に入っては郷に従うの精神といいますか。
    秩序が無くなったりすると…というのは裏を返せば「無秩序」が「秩序」である…という状態であり、いわば力が全てという世界。そこで暴力的になるというのはむしろ「その世界での道徳に適合した人間の思考」なのではないか…、などと考えたりするわけです。そもそも「人間の良心」「道徳」というもの自体が文化や時代、はたまたは個々人によって異なってくるわけですし、そういう意味では決して不変でもなく、かつ、普遍なものでもないということになります。だからそこに適合できなければ淘汰されるのだから適合せざるを得ない…という風に考え方が変りました(しないで淘汰されるのも本人の勝手ですが)。
    結局「状況に合わせなければならない」が結論なので、思考の結果は変らないのですがね。過程は大きく変化したかなと。

    そしてそこから更に、人が社会で生き生きと生きるには「自分の道徳」と「自分が帰属する社会の道徳」が合致することが重要なのではないかと考えはじめました。人間、いかにその枝葉である「言動」をコントロールできても根幹である「人格」まで偽ることはできません。いかに上手く処世したとしても「自分の道徳」と「自分が帰属する社会の道徳」が合致しなければ真に生を楽しむことはできないのではないか…と思うのです。そこで

    >>「収容所内の暴力による支配者らは帰国が近づくにつれ、元気をなくしていった」

    これに関して

    >>無法な収容所から法の秩序のある世界に戻ることで閉鎖された空間の支配者からただの一般人に戻ることをお山の大将たちは恐れたという説に納得しており、それと共に人間というのはたとえ小さかろうが、本質的な自由が無かろうが支配者であり続けたいとする妙な支配欲を多かれ少なかれ持つのだなという風に感じました

    この文章は意見はおおよそ正しいであろうと私も思います。ただ支配者でありたい人間…であれば閉鎖的な空間であろうとなかろうと支配者であろうとすると思いますので、むしろ自分達が支配者でいることが可能(或いは容易)であった状況からの離脱に恐怖していたのではないか。つまりは収容所内の暴力による支配者らにとって捕虜収容所は「自分の道徳」と「自分が帰属する社会の道徳」が合致する場所であったことが最大の原因ではないのだろうかと私は考えます。

    いずれにしろ人間「自分の道徳」と「自分が帰属する社会の道徳」を合致させるには大抵の場合「自分が変る」か「環境を変える」かが必要になるはずです(必要のない人間はとても恵まれていますよね、様々な意味で)。そこに悩んだとき、やはり「環境を変える」方が合理的ではないかと私は思います。「自分を変える」というのはある程度までいくと非常に困難なはずですから。

    しかしながら究極的な意見としては「自分の道徳」と「自分が帰属する社会の道徳」の合致をまったく気にしていないような人間はどこであろうが生き生きとできるはずなので、できればそうでありたいものです。人に多大な迷惑をかけない範囲で、という話にはなるのでしょうけれど…。

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    1.  また胸が熱くなるようなコメント、ありがとうございます。
       一読して浮かんだ来たのは中国の社会なのですが、私が以前に行った地方都市は正規のタクシーが少なく白タクの方が多い状態でした。なもんだから正規のタクシーを待っていても延々と捕まらず、むしろ率先して白タクを使うことで移動が捗ったのですが、確かに法律上は間違っているもののその都市では白タクが日常に使われることで初めて交通が機能していました。

       若生さんの言う通り、マフィアには法は無くても掟があるように、一見すると道徳のない無法な中にあっても独特なルールは何かしら存在し、その環境で生活するなり生きてくとなるとその道徳に自らを合わせる必要があるのだと思います。さきほどの地方都市でも中国人の友人が、「ルールのない所でルールを守ろうとしても意味がない」と中国人らしくリアリスティックな意見を放ってきました。そして白タクを乗り回したわけですが。

       ただ自分の価値観とを道徳が一致しなければ道徳に合わせるという点ですが、生来からテロリスト的な価値観が強いせいかやっぱり周りに合わせるというのは自分はなかなかできません。なら環境を変えようと現在中国にいますが、それでもやはり自分と周囲の道徳が合わないのであれば周囲を自分が変えてしまえばいいなどと考えてしまいます。このブログもある意味で自分の価値観といか妄想を強く打ち出しており、感化される人間が増えてくれればいいななんて思いながら書いているわけです。

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  2. 夫が妻を殴る家庭暴力(DV)をどう分析されますか?

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    1.  俺はそっちよりも、妻が夫を殴るDVの方が興味ある。こっち分析することで夫から妻へのDVの構造も解き明かせるかもしれない。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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