日本でラストエンペラーとなると中国清朝の最後の皇帝である「溥儀」の名前が挙がってきますが、ラストエンペラーはその王朝の数だけ存在しておりそれは何も中国に限るわけではありません。例をあげればフランス第一帝政であれば初代のナポレオン・ボナパルトがそのままラストエンペラーですし、日本も将軍をこの類として考えれば徳川慶喜がラストエンペラーです。
そうした滅びゆく王朝の最後の権力者として人生を歩んだ人物の中で比較的近代だと、ロシアとドイツでそれぞれ一次大戦末期に国内で革命が起こり、二人のラストエンペラーがほぼ同時に生まれました。最もロシアはその後「紅い皇帝(つるふさの法則)」の時代を経て現在はKGB皇帝が君臨していますが、名目上のラストエンペラーであるニコライ二世については日本と深い関わりを持っているにもかかわらずいまいち認知度が低いような気がします。そこで今日は詳しい内容までは踏み込めませんがさらりと紹介するような具合で、ニコライ二世についてその経歴と私の見解を述べていくこととします。さらりと紹介と言いながら前後編にするのもあれですが。
・ニコライ二世(Wikipedia)
ロシアのロマノフ朝第14代皇帝にして最終皇帝のニコライ二世は1868年、時の皇帝のアレクサンドル二世の息子で皇太子であった後のアレクサンドル三世の長男として生まれます。生まれながら将来の皇帝を約束され両親からの教育も帝王学に沿ったものでしたが、コライ二世の幼少期の行常はそんなに良くなかったようで勉強にはそれほど熱心でなく、またやや気弱で女の子っぽい所もあったことから父親は少し心配していたようです。
成人に至る前のニコライ二世に大きな影響を与えた事件として、祖父であり皇帝のアレクサンドル二世の暗殺事件がよく挙げられています。アレクサンドル二世は進歩的な改革者でロシアでの国会開設を目指し一般市民の権利向上など人民に寄った政策を取ってきたのですが、国内の過激な民主派によって爆殺されてしまいました。この事件は当時13歳だったニコライ二世にとって、「人民に肩入れしても平気で裏切られる」という感情を持たせたのではと言われておりますが、祖父がこういう死に方したらそう考えるのも無理ない気がします。
こうして成長していったニコライ二世が日本と初めてファーストコンタクトを持ったのは彼が23歳だった1891年のことで、父親の勧めで前年から世界旅行に出かけていたニコライ二世は最後の渡航地として日本を訪れます。当時の日露関係は樺太(サハリン)の帰属を始め決して良いものではなかったものの、来日したニコライ二世に対して日本政府は礼を尽くして歓迎し、ニコライ二世自身も率先して長崎の街を回るなどそこそこ堪能していたようです。
それが暗転したのはニコライ二世が大津に入ったその日でした。わかる人には早いですがこの時に警護を行っていた警察官の津田三蔵が突然ニコライ二世に斬りかかるという大津事件が起こり、ニコライ二世は津田に右耳のあたりをサーベルで少し切られます。幸い、怪我自体は大したこともなくその後に明治天皇がわざわざ神戸まで訪れ謝罪し、日本国内から見舞いの手紙や品がたくさん送られてきたこともありロシア側は外交問題に発展させず矛を収めましたが、当事者であるニコライ二世自身がどのような感情を持ったかについては諸説あり、彼自身が日本側の対応に好感を持って事件かを見送ったとも、内心では相当腹に据えかねていてそれが後の日本との対立を作る要因になったとも言われております。
私個人の見解を述べるとこの時のニコライ二世は残っている記録などからそこそこ日本側の対応に満足していたのではないかと思うものの、その後日本と外交で対立する機会に直面するに至って、「そういやあの時に日本人には酷い目に遭わされたな」という具合に、後から思い出して憎悪の種にしたのではという風にみています。そういう意味では日露関係を悪くさせた要因と呼んでもよい事件でありますがサラエボ事件と比べると即火種にはならなかっただけに、ほんとこの時死ななくてよかったなんても思います。なおこの大津事件当時、ニコライ二世に対して申し訳ないと自決した女性もいました。
話は戻りますがニコライ二世がロシアに帰国して数年後、彼が26歳の時に父親であるアレクサンドル三世が病に倒れこの世を去ります。初めから後継者と決まっていて特に争いは起らずニコライ二世は皇帝に即位し、また父の逝去前から付き合いの続いていたヴィクトリア・アリックス(ロシア語読みならアレクサンドラ)と結婚します。アリックスについて少し述べると、彼女の母親は英国のヴィクトリア女王の娘で父親はヘッセン大公国(現在のドイツヘッセン州)の大公でした。ドイツで生まれますが生後すぐに母親が逝去した6歳からはずっと英国のヴィクトリア女王の下で育ち、ロシアに来るまではほとんど英語しか話せなかったようです。だけど後年ロシア人からは「ドイツ女」なんて呼ばれて批判されちゃってますが。
皇帝となったニコライ二世は側近に後の好敵手とも言うべきセルゲイ・ヴィッテを採用し、彼の主張に合わせシベリア方面に鉄道を敷き(シベリア鉄道)、ロシアは東アジアでの勢力拡大を図ることとなり、特に日清戦争後の中国では列強による分割が進められていただけに国境を接するロシアにとっても重要な狩場の一つだったっことでしょう。しかも満州地域はロシアが太平洋へ出るに当たって重要な地域で、日清戦争後に中国から旅順を租借した日本に対し三国干渉を行って中国に返却させるなどかなり早い時期から干渉というか目をつけています。
しかし「極東の和を乱す」として日本に旅順を返却させながら、極東進出の足掛かり並びに不凍港として価値があるという周囲の声に押されニコライ二世はヴィッテに反対されながらも1898年に中国を脅迫し、旅順と大連を中国から無理矢理租借します。この行為に怒ったのは言うまでもなく三年前にロシアに言われて旅順を返却した日本で、国民の間でも打倒ロシアという感情が明確に生まれ明治政府としては国内政策がやりやすくなった一方で外交に苦慮することとなるわけです。
ロシア側でもこの時期から対日政策についての議論が活発となり、前述のヴィッテなどは対日融和派で日本も模索していた「満韓交換論」こと満州はロシア、朝鮮半島は日本がそれぞれ管轄するというか住み分ける方針を唱えていましたが、ニコライ二世はこれとは別の満州も朝鮮も両方まとめて切り取るべしと主張する強硬派の意見を採用する形でヴィッテを罷免させてしまいます。こうしたロシア側の態度を見て日本も対露同盟派は瓦解し、将来の対決を見越して英国との間で日英同盟を締結するなどして準備を進めます。そして1904年、日本人のノスタルジーともいえる日露戦争がついに火蓋を切って開戦へと至るわけです。
日露戦争についてはさすがにいちいち説明しませんが主要な戦闘では日本が文字通り連戦連勝で、最後の逆転をかけたバルチック艦隊も日本海海戦で完敗と言ってもいい大敗北を喫します。ロシアの敗因はウィキペディアの記事を引用すると、戦地が首都から遠いだけでなくシベリア鉄道もまだ整備しきれてなくて動員力で日本に大きく劣っていたことと、軍の指揮官同士が仲が悪く戦争指揮で拙いミスが連発されたことが挙げられています。
さらに開戦当初はともかく序盤から負け続けたことから国内でも厭戦気分が高まり、ついには戦争中止、憲法の制定と施行を求めた市民グループが宮殿前をデモ行進している最中に兵士が発砲するという「血の日曜日事件」が起こり、国内でも革命の機運が高まり支配体制が大きく揺らいでいくこととなりました。ついには軍隊内でも「戦艦ポチョムキンの反乱」で有名な水兵の反乱が起こり、ここに至ってロシア側も日本との講和交渉へと臨まざるを得なくなります。
米・ポーツマスで開かれた講和会議には日本側からは小村寿太郎が出て、ロシア側からは急遽呼び戻されたヴィッテが全権代表として望みます。先程私はこのヴィッテを好敵手と呼びましたが、戦前からの外交判断も大したものでしたが彼はこのポーツマス会議での日本側の態度から継戦能力はほとんどないと見抜き、当初強気だった日本側に対して一歩も引かず賠償金を放棄させた上で講和条約をまとめてしまいます。彼がニコライ二世の側近で居続ければ日露戦争はなかったかもしれず、彼がポーツマスにいなければ日比谷焼打ち事件はなかったかもしれません。敵ながら、これほどの巧者はあまり目にかかれないでしょう。
日露戦争終結後、ヴィッテは仲間と共にニコライ二世に対して国会開設や普通選挙実施を含む改革案の「十月詔書」を提出します。ヴィッテとしてもこれまでの王族と貴族を中心とした体制ではロシアは続かないと考えていたのでしょうが、ニコライ二世は当初はこの詔書に署名こそするもののすぐに後悔し、実際にその後すぐに選挙法を改正して貴族に有利な制度に変えてしまいます。そしてヴィッテの方も、初代首相になるもののニコライ二世にまた嫌われていたのもあってか国会の承認が得られずすぐ辞任し、政治の一線から引退する羽目となります。
先程の「血の日曜日事件」を受けてからニコライ二世はしぶしぶですが民主化に少しは動いたものの、すぐまた旧制度への転換を図ろうとするなど強い保守主義的傾向を見せています。また一応は開設された国会では首相となったストルイピンが自作農の創出を図るなど改革を進めましたが、その彼も1911年に暗殺されたことから中国の光緒帝同様に改革は頓挫し、そのままのロシアであり続けたまま(れりごー)1914年の一次大戦を迎えることとなるわけです。ってことで、残りはまた次回に。
ロシアパンが美味しいですか?
返信削除前に日本にあるロシア料理屋でS浦さんと一緒に食ったけどうまかったよ。
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