昨年に俳優の高倉健氏が亡くなられた際に私もこのブログで追悼記事を書きましたが、当時見たネットの掲示板では高倉氏を悼む声があると共に、「でもこの人、言われてるほど演技は上手くなかったよね」という声もいくつか散見されました。この意見に対して私は、そうも見えなくはないと思うと共に、そう見えてしまう時代なのかなと感じたので、今日はそのあたりというか求められる演技の質が時代と共に変わって来ていると思う所見を書いてきます。
結論から述べると、私個人の主観で言うと今と昔では監督や観客から求められる演技、高く評価される演技の仕方は変わってきています。
現代で高く評価される演技について必ずついてくる形容詞は、「自然な」という言葉で、「自然な動き」、「自然な仕草」、「自然な演技の仕方」などという言葉が俳優を誉める際についてきます。もっとも自然な演技と言っても素人くさい演技とはまた違ってくるだけに演じる俳優はそれ相応の努力が求められるわけですが。では昔の俳優はどんな演技が求められていたのか。そんなに昭和時代を長く生きてないのであくまで古い映画を見た上での私の感想ですが、如何にも演技ぶったやや大仰な振る舞い方が高く評価されていたのではと思う節があります。
こうした印象はそこそこ年齢の入った往年の俳優が出演する現代の作品を見ると覚えやすいのですが、往年の俳優は若手俳優と比べて表情や仕草がちょっと大げさな感じに見え、言うなれば演技臭い仕草を見せます。それに対して若手俳優は、下手だったら話は別ですが基本は普通の仕草、たとえば一般サラリーマンの役ならそこにいるような一般人と思わせるようなしぐさで演技を通しており、こう言ってはなんですが両極端な印象も覚えます。
こうした求められる演技の質が異なっていることに加え、往年の俳優にはもう一つ求められていたものとして、「俳優のオーラ」というべきか存在感があったのではと推察しています。高倉氏などはまさにその典型ですがそこにいるだけで、画面に映るだけで目を引くような強い存在感があるのに対し、自然な演技が求められどんなキャラでも演じられるようなカメレオン俳優はというと、そうした迫力というか存在感がやや欠けて見えます。無論どっちがいいというわけでもなくカメレオン俳優と呼ばれるような方は私も高く評価しますが、所謂「映画スター」が数多く出ていた昔と今では求めれるものが違うのではと言いたいのです。
こうした求められる演技の質の違いから、冒頭に述べたように高倉氏の演技はそれほどうまくなかったのではという声も出てきたのではないかと思います。改めて検証しますと、確かに高倉氏の演技の幅はそれほど広くなく、寡黙で真面目、堅物というイメージの役ばかりで、これはと思うようなそのイメージから考えられない意表を突く演技を見せることもほとんどなかったように見えます。
ただこの辺が難しいというべきか、イメージから遠い役をやればやるほど「俳優のオーラ」というのは薄れていくような気がします。それこそ高倉氏が裸で歌って踊るような役ばかり演じていればどうしてもそのイメージによって寡黙な大人の男のイメージが薄くなってしまいます。恐らくそういうことも考慮して、高倉氏自身もイメージを保つためにも演じる役を選んでいたように思えます。
最後にこのところ思うこととして、スターという言葉は錦野旭氏以外の方で使われることが現代であるのだろうかという疑念があります。かつての映画スターは前述の通り、俳優のオーラとも言うべき強い存在感を武器に戦い、それがため近寄りがたかったりもしますが手の届かない、偶像というような活躍が出来ました。しかし現代の俳優でバラエティ番組に出ない人はほとんどおらず、またプライベートもブログなどで大っぴらにしていて、この人は特別な人なんだと思わせるイメージを持つ人はもうほとんどいないのではと懸念してます。
ハリウッド俳優はその点、プライベートはパパラッチに追われるもののセレブリティな生活で特別だというイメージを保っていますが、日本の俳優となると果たしてどんなものか。何も生活を制限しろというつもりはありませんが、もう少しイメージを大事にする俳優もいてもいいようなということで筆をまとめることにします。
昔の俳優の方が演技が大げさな理由、個人的には舞台演劇の影響がまだ色濃く残っていた時代だからではないかと推察いたします。
返信削除もともと大衆用の芸能とは歌舞伎・能楽・落語のように舞台の上での演者をみて楽しむのが本来の姿。そしてそういう形態で演じる以上は遠くの観衆に対してもそのキャラクターが何をしているかを明確に示す為には少々どころではなく大袈裟にアクションをとってみせる必要があったはずです。
時代が下って映画が登場したワケですがこれもまた大衆用の芸能。となるとその道のプロが演技の指導を行うワケですので大袈裟なのが普通だったのではないかなと。
そして映画もまだまだノントーキーであったり、映像編集技術が拙い時代であればそういう大袈裟な演技である必要性自体が高かったはずです。それが映像作品が数多く生まれるにつれて映像での演出技術が高まってくると大袈裟な演技をしなくとも、カメラの切り替えやBGMなどを用いることでその場面のイメージを大きく補填することができるようになっていったのではないでしょうか。それで「自然な演技で十分に観客にメッセージは伝わる」→「自然な演技こそが良い演技」と印象が変化したのではないかと思います。
加えて言えば今では映像による演出文法がほぼ全ての人間に理解されるようになった、とも解釈できると考えます。
映像の演出効果が何を示すのか、それが分からない世代がまだまだいるというのであれば昔ながらの演技も必要でありつづけるはずです。
それがほぼ必要と思われないということはテレビの普及等によって映像作品を嗜むのが幼少期から当たり前だった世代が世間の大半を占めるようになった、ということでしょう。
まぁなんでこんなことを考えたかと言いますと、大昔の漫画を読んでみるとコマに読む順番を示す番号がふってあることが多々あるからです。
あれを初めて見たときは「ああ、そうかまだ漫画の文法が大半の人に理解されてなかったのか、それともあるいは文法自体が整備されてなかったということかな」と思ったものです。
いまではまずそんな漫画は見かけません。
ただし「小学一年生」なんかを見るとふってあります。まだ漫画の文法を理解していないという前提なのでしょうね。
いつもながら的確な補足コメント、ありがとうございます。
削除誇張ではなく舞台演劇がオーバーアクション気味の過去の演技に影響を与えていたのではという視点を見落としてました。確かに効果や演出のないトーキー時代などは、チャップリン荷駄評されるように何をしているのか、どんな職業の人物かなどを示すために大袈裟な動きが必要とされ、それが演技の評価基準となっていたと自分も思います。
コメントを見て少し思い出したのは、小学校の頃の先生が昔テレビがなかった頃はラジオが娯楽で、その経験からラジオの音から情景を想像する能力が備わり自分たちテレビ世代に比べればそうした能力は高いと話していました。映像をどう見るか、音声をどう理解するか、こういうのはそれぞれが持つ一種の文法を備えるということが大きく影響するのだろうと自分も感じ入ります。
若生わこさんのコメントなるほどなと思いました。納得です。
返信削除そう考えるとドラマを観る目も変わるというものですね。
以前の俳優は存在感がものをいうようなことろがありますもんね。
現在の俳優は男前や美人ならなんでもオーケーみたいなことありますよね。
まあ、視聴者も嫉妬やら演技に対するだめだしやらあって一筋縄ではいかないところもありますが。
また、現在は主演を務める俳優はどんな役でもできる多様性のあるマルチな演技を要求されて、助演を務める俳優はある一定のキャラを演じれる独特な演技を要求されるような気がします。
視聴者が主演を務める俳優のいろいろな顔がみたいから、テレビ局側はいろいろな役を演じさせているのではないかと思います。負担としては、毎回違う演技を要求させる現在の俳優の方が大きいのではないでしょうか?
イケメン、美女であれば演技は問わないという風潮は一時期に比べればましになりましたが、今でもまだ確かに強いですね。もっともこのところイケメン揃えの代表格であるジャニーズ事務所から、この前の腹黒官兵衛やった岡田准一など見ていてびっくりする位演技のうまい俳優を数多く出てきているので、「イケメン=演技下手」ってわけでもないようです。まぁSMAPの面々はそんな演技は上手じゃないと思うけど。
削除あと最近のドラマはおっしゃるとおり、俳優のイメージや前の役とは異なるキャラクターを敢えて演じさせようとしているように自分も思えます。恐らくこれは「ギャップ」を狙ってのことだと思えますが、それに対応できる人もいれば完全なミスキャストにもなることがあり諸手を挙げて賛成できるやり方かと言えば確かに疑問符が付きますね。
ちなみに俳優で言うと、昔やってた「人間失格」というドラマでいじめを苦に自殺する主人公(堂本剛氏)の父親役を赤井秀和氏が演じてましたが、あの時彼は30代半ばでしたがそれ以上の年齢に感じるような堂の入った演技ぶりで、やっぱりあのいかつい風貌が復讐に燃える父親のイメージにピタリと重なったのが良かったのではなんて思ってたりします。
小生はやはり古畑任三朗を演じる俳優が好きですわ。キミは?
返信削除田村正和やね。確かに名優だけど、ギャラ高いから最近の起用は減ってるな。
削除俺が好きな俳優となると半沢直樹の堺雅人、あと去年で大河の主役はった岡田准一、女優なら「告白」の時の橋本愛にはひっくり返るほど衝撃を受けたが、最近あの子太ってきたからなぁ……。